若い教師が保護者に信頼されるには、どのようにすればよいでしょうか

 子どもをよりよく伸ばすために、家庭訪問は重要な仕事です。私の学校では五月に行います。各家庭には十分間くらいしかいられないのですが、計り知れないほどの収穫があります。
 その家庭の雰囲気と、保護者の考え方や性格などが感じられます。こういう人だからこういう子なんだと妙に納得するところがあります。子どもの家庭環境を知ることで、生活指導がとてもやりやすく感じられます。
 親の顔を覚えることはとても大切なことです。何かのおりに「○○さん」と名前を言って話をすると、もう覚えてくれたのかと、うれしそうな顔になります。教師に対する好感度が増すようです。
 親と仲良くなり、教師に親しみや信頼関係を持っていると、何かにつけて意思の疎通がよくなります。問題行動が起きたときでも、そんなにこじれないで解決することができます。
 参観授業はふだんの授業よりも力を入れます。安心して私に任せられるというような信頼感を持ってもらえないと困るからです。
 親たちに、自分の指導状況を認めてもらわなければ、信頼関係がくずれてきます。「あの先生は教え方がうまい」「やさしく教えている」「きちんとしつけている」「授業がしっかりしている」「あのくらい厳しくてちょうどよい」などという、プラスの評価を得なくてはいけません。
 参観授業は、全員の子が発表でき、どこかしら、その子のいいところがアピールできるような授業にします。毎回違う教科を見せるように計画していきます。その方が教科によっても得意、不得意のある子どもたちの姿を、違う面から見せることができるからです。
 授業参観後の懇談会では、生活、学習内容について話します。私は話すことが好きなので、いろいろな話題を提供します。
 おもしろくなくては、話を聞いてもらえないと思っているので、笑いの中に事実を入れて話していきます。私の子育ての失敗談などを交えておもしろおかしく話をします。
 子育ては楽しいという話にもっていきます。毎日親がきちんとやることが、子どもによい影響をもたらす。早く寝させて早く起こし、朝食をきちんと食べさせ、学校に送り出すことが大事な役目だと話します。
 成績だけで右往左往するのではなく、きちんとした家庭生活から、落ち着いた子どもが育ってくる。親が疲れた態度を見せたり、気分屋であったりしては、よい子にならないと話します。
 懇談会で話をすることに自信がなく心配なら、話す内容を話ことばで台本を書くといいですよ。
 私なら参観のお礼を言って「今日の学習のねらいは○○でした。それを達成するためにこういう手だてをしました。行き届かなくて申し訳ないのですが、これからも精一杯、指導していきますので、よろしくお願いします」と。
 次に、教室での子どもの様子を楽しそうに話しましょう。いいことをたくさん話し、直してくれたらもっとよくなると思うことを少なめに話すとよいと思います。
 懇談会に参加した親には、その子のいいところを必ず見つけて話します。懇談会に参加してもらった親への私なりの感謝の気持ちです。
 そのとき、教師へのクレームがでることもあります。そんなとき、あわてずに謙虚に意見を聞きましょう。けんか腰にならず、卑屈にならず、誠実に対応しましょう。その話している様子を見ながら、保護者は品定めをしているのです。
 口には出しませんが、たいていの親は新任教師を危ぶんで見ているのが普通です。だからこそ誠実に受け答えするのです。
 内容が手に余るものでしたら「今ここでは詳しくお答えできませんので、校長と相談して返事申し上げます」と言って、懇談会後に事後処理をした方がかえって信頼感を増します。
 親は、毎日子どもから、教師の言動を聞いています。子どもが教師とうまくいっているなら何も言いません。そんなものです。子どもとの日々の学習や生活を充実させているならば、ちっとも保護者は怖くありません。
(
卯月啓子:1949年東京都生まれ、元公立小学校教師。NHK教育テレビ「わくわく授業 卯月啓子さんの国語」(2002)で好評を得る。「卯月啓子の楽しい国語の会」代表。現職教員のための国語教育研究会の常任講師を務め、後進の指導にあたっている)

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学級が荒れたり崩壊しないように、注意や叱責するにはどうすればよいか

 教師は子どもの行動が著しく集団の規範を逸脱したとき、他の子どもを傷つけているときは、毅然と注意や叱責をすることが必要不可欠です。
 注意や叱責をした結果、子どもが自分の考え方や行動の問題に気づき、自らそれを改めようとしたかということが大事なのです。
 したがって、注意や叱るときの前提は、
(1)
子どもや学級集団のプライドを傷つけない
(2)
注意する場面や時期、時間を工夫する
(3)
問題となる点を十分に説明し理解させる
(4)
結果ではなく、その問題がおこった過程に注目させる
(5)
自ら変えることができる行動や態度を具体的に確認する
(6)
この失敗を次にどう生かすのかという問題解決型にする
 そして、教師の注意や叱責が大きな効果をあげるためには、教師と子どもとの信頼関係が必要です。信頼関係があれば、自分たちのために先生は注意してくれているんだと感じ、教師の注意から新たな行動や考え方を学んでいくのです。
1 学級集団全体に対して注意する・叱る
 子どもたち一人ひとりが自分の問題ととらえられるようにすることが大事です。 
(1)
注意や叱責で子どもを動かそうとしない
 注意や叱責で子どもを動かそうとしている教師は意外と多くいます。
 最初は教師の注意が怖くて、注意されたことに従うことが多いでしょう。しかし、それは新たな行動や考え方を獲得したのではなくて、教師の怒りを収める対応にすぎないので、子どもは同じような行動を繰り返します。
 そして、子どもは教師の注意や叱責にだんだんとなれてきます。したがって、注意で子どもを動かしている教師は、だんだんと自分の指示が通らなくなってくるのです。これは学級崩壊で苦しむ8割近くの教師が陥る盲点です。
(2)
子どもの不安の強さに応じた注意をする
 注意はすべての子どもに同じように受け取られるわけではありません。平気に子どももいれば、委縮する子どももいるわけです。したがって、不安な子どもがその内容を理解できるレベルがいいのです。
(3)
あらたまった態度や場合を設定して注意する
 子どもは教師の注意や叱責には徐々になれてきます。子どもたちは教師の注意を聞かなくなります。あらたまった場面設定や注意の仕方が必要です。
(4)
注意や叱責は短く簡潔にする
 注意されるのは嫌なものです。したがって、教師は注意する目的をしっかり定め、その方法を吟味し、簡潔に伝えることが効果的です。
(5)
気の緩みのミスは注意し、自主的な試行錯誤の失敗はその原因を分析させる
 怠慢やさぼりから起こったミスは、なあなあで済ませると、学級のルールが崩れてきますから、小さなことでもキチンと指摘し、注意することが大切です。
(6)
子どもたちが気づかない問題は、質問や例え話をして考えさせる
 学級内で、子どもたちが意識せずに行っていることがあります。例えば、特定の子を見下したような対応をほとんどの子がとっている雰囲気が学級のなかにできてしまっていることがあります。
 これをみんなの前で注意すると、その子が惨めになります。したがって、例え話や一般論としてみんなに考えさせるようにすることが大切です。
(7)
叱責の内容に教師の感情をつけ加える
 教師が冷静に叱責したあと「先生はとてもかなしかったな」と、自分の感情をサッとつけ加えることで、その内容が子どもたちの心に強く刻みつけられるのです。
(8)
いじめは、厳しく、長々と説教し、最後にポイントをまとめ復唱させる 
 弱い子をいじめているような現場を見たときは、教師はその場で強く注意し、一人の人間としての怒りを前面にだすことも時として必要です。厳しく長々と説教します。
 子どもたちは、最初は教師の剣幕に驚きますが、そのうちあきてしまう子もでてきます。このような場合は、教師が言いたかったこと、次の指導につながることを三つくらいにまとめ、子どもたちに復唱させて終わります。
 例えば「A組をいじめのないクラスにする」「いじめの場面をみたら必ず注意する」という具合です。これをしないと「先生がキレた」だけで終わってしまいます。
(9)
注意したあとは、単純作業をはさみ、作業後は気持ちを切り替えて対応する
 注意や叱責をしたあとは、教師も子どもも気まずいものです。このような場合は、お互いの気持ちを変に伺おうとすると、余計ぎくしゃくします。
 そこで、子どもが一人で作業ができるドリルなどを30分くらいやらせるのです。作業しながら、子どもは先ほどの教師の注意について考え、心に定着させていくのです。教師も落ち着きを取り戻すことができます。
 その後は、その問題に言及しないで、授業に取り組むようにするわけです。
2 個人の子どもに注意する
 教師の感情を逆なでするような発言をしたり、教師をバカにしたような態度とるような子どもが学級に何人かいます。このようなときは、事前に対応する言葉がけを身につけておけば、感情的になることを防ぎ、子どもに教師がまきこまれるのを防ぐことができます。
 こういった子どもには、少しずつ時間をかけ、関係の修復につとめることが必要です。その子が落ち着いているときに、日頃の不満を聞いてあげるなどの対応が求められるのです。
(1)
注意するタイミングと場所、時間を考える
 自分の行為を棚に上げ、教師に反発してしまうかもしれません。注意するときは、タイミングと場所、長さをその子どもに合わせることが必要なのです。
(2)
注意するときの子どもの抵抗を軽減する
 子どもが教師の言葉を素直に聞くよう、最初に子どもの反発を少なくする関わりが大切です。例えば「きみも気づいていると思うが・・・・」という具合に前置きし、いきなり叱責しない配慮が必要なのです。
(3)
注意する内容のは現在の行動や態度だけにする
 掃除をサボっているのを見つけて注意したとき、以前の問題をひっぱだして、追い打ちをかけるように叱ってしまう。これでは子どもは逃げ場のない状態に追い込み、人間性を否定された感情を子どもに持たせてしまう。
(4)
フォローの仕方も計画に入れて注意する
 注意のあとのフォローは、子どもたちの感情の高まりを静め、どう行動すべきか考え行動に移す意欲を喚起します。その子のプライドを高めるような言葉も効果があります。
(5)
注意するのは、あやまらせるためではなく、今後どうすればよいかを確認する
 注意して、あやまらせても、子どもは同じことを繰り返してしまいます。どのように取り組めばよいのかを考えさせ、確認することが必要なのです。
(6)
教師に反発する子どもへの対応方法を持つ
 教師に反発し感情をぶつけてくる子どもに対して、事前に対応する言葉がけを身につけておけば、教師が感情的になることを防ぎ、子どもに教師がまきこまれるのを防ぐことができます。
 まきこまれそうになったら、それを一旦切る言葉がけや対策を事前に決めておくことです。例えば「これ以上話していたら、先生も本気でキレちゃうから、あとは昼休みに相談室でじっくり話しましょう」という具合に、その場を一旦収めてしまうのです。
 間をおくことによって、お互いの感情の高まりを静めるわけです。時間をおいて、じっくり話すのです。こうすれば、教師も子どもも感情的になるのをおさえられます。
 相談室では、子どもに最初にどんどんしゃべらせます。その後、具体的な事実を提示し、そのことについて認めさせます。そして、対応策を教師がいくつか示して、そのなかから選ぶようにさせます。最後にその内容を復唱させて、終わりにします。
(7)
聞く耳を持たない子
 聞く耳を持たない子は、教師がそばに寄り、感情面を中心にトーンを落として淡々と語ってあげます。最後に「きみはどう思う」と質問します。返事がなかったら「先生の言ったことを考えてね」と伝えます。
 反応がないからといって、注意を怠ってしまうと「Aくんは、何も言われないじゃないか」と、問題を起こした子どもに注意しずらくなります。
(河村茂雄:1959年生まれ、早稲田大学教育学部教授。15年間公立学校教諭を経験した。学級崩壊,学級経営など教育実践に生かせる研究成果を多数提供している)

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保護者からのイチャモンには、どのようにすれば打開できるか

 「よく問題のある教師のところでイチャモンは起きやすい」という人がいます。しかし、それは完全なまちがいです。
 じつは、数多くの事例を集めてきて言えることですが、ある日、突然のように降りかかります。しかも、経験豊かで教師としての力量も高い人にも起きることもあります。
 したがって重要なことは、だれにでも起きうる問題であるとの自覚を、すべての教職員が持つということです。そして学校全体でコトに当たるという姿勢を貫くということです。
 なぜ、あの保護者はそうまでしてこの教師を追いつめるのか、という本質を見抜くためにも共同性は不可欠です。
 イチャモンを教師一人で背負い込む状況は、私が調べたなかでも相当数あります。ほとんどの場合は自信喪失と孤立無援のなかで消耗して、やがてはツブれていくことになります。
 私はやはり「一人で背負い込まないで、徹底的な情報の共有と、事実の確認、そして共同でコトにあたるという姿勢しかない」と残念ながら言わざるを得ません。
 保護者対応の難しさに追い込まれると、そのことにかまけて子どもの教育が二の次になっている場合が少なくありません。
 極端なことを言えば、子どもたちから確実な信頼を勝ち得ていれば、保護者対応の勝負は勝ちなのです。
 教師の値打ちは、何をおいても子ども対応(教えること、学ぶこと)で発揮されるのです。教育の顧客は親ではなく子どもであるという、ごく当たり前の基本につねに立ち返れるかどうかです。それを見失った場合に起きるとも言えます。
 当たり前のことですが、保護者はわが子がどのようにあつかわれているかに最大の関心を持っています。担任がわが子のことをじっくり見てくれているという安心感があれば、多少のトラブルは、すぐに解決に結びつくことが多いと思います。
 子どもと教師が接する時間が減れば減るほど行きちがいが発生する可能性が高くなります。また同じように忙しい保護者と子どもの間にもズレが生じるでしょう。それは教師と保護者のズレにもなります。
 教師が子どもと触れ合う時間が減少すればするほど、イチャモンは反比例してふえる。これは、私が2000ぐらいの事例を集めた結果いえる大原則です。
 もし、子どもと教師が接したり話したりする時間があれば、かりにトラブルが生じたとしても、それが大きくごじれることはないと思います。
 多くの事例を集めるなかで、ほぼ見えてきた一つの重要な原則があります。それは「ホンネや願いは、多くの場合にはイチャモンという形態で現われることが多い」ということです。 
 一見すれば、学校側にとってはイチャモンと感じられる苦情であっても、じつは親としての「思い」や「願い」が背後に透けて見えることも多くあります。そのツボをおさえて対応すると、かなり異なった反応となっていくことが多いように思います。
 校内研修会で、よくある質問が「保護者からの罵声や、一方的な主張に対して、どのような姿勢で聞いたらいいのですか?」という質問です。
 私は「そうですね」という肯定に近い相づちではなく「そうですか」と返答することが大切ですと答えています。
 
「そうですか」「そうなんですか」は、相手の主張を否定せずに聞く言葉です。その親の子どもを思う気持ちを受け止める共感の言葉ですが、すべてを認めたものではありません。
 いったん引き取って、何が事実で、何が感情的な思いなのかを区別して整理するためにも、必要な応答の仕方だと思います。
 私はいろんな事例を全国各地から集めていますが、だいたい事例の95%は当事者の努力んとかなるケースと思います。
 しかし、当事者だけではどうにもならないケースがあるのもたしかです。初めから対決姿勢で言ってくるものもあります。バックに指南役がいるのではないか、と思うケースもあります。
 背後にプロの存在が感じられたときには、絶対に手を出さないで下さい。そこは徹底的にプロの市町村の顧問弁護士に任せるしかありません。
(
小野田正利:1955年生まれ、大阪大学教授。専門は教育制度学、学校経営学。「学校現場に元気と活力を!」をスローガンとして、現場に密着した研究活動を展開。学校現場で深刻な問題を取り上げ、多くの共感を呼んでいる)

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子どもが問題行動を起こしたとき、保護者にどう連絡すれば協力が得られるか

 授業中、立ち歩いて他の子どもの勉強のじゃまをする。友だちに暴力をふるってケガをさせる。暴れて窓ガラスを割ったりするなど、問題行動を起こす子が増えています。
 何か起これば、すぐに「家に連絡する」などと脅すような指導は避けましょう。子どもとの信頼関係が崩れ、状況が悪化する危険があります。
 子どもとの信頼関係が悪化すれば、当然、保護者との信頼関係も崩れていきます。
 問題行動を起こした子どもに対して、教師は「どうしょうもない子」「困った子」とレッテルをはりがちです。そんな教師の気持ちは保護者に自然に伝わるものです。
 問題行動を起こす子どもを非難したり迷惑に思ったりするのではなく、なぜそんなことをしたのか、どうすれば改善されるのかという思いで対応することが大切です。
 学校で指導するのはもちろんですが、周囲に迷惑をかける行動には、保護者に連絡して協力して対応する必要があります。
 保護者に伝えるとき「こんなことをしました」とだけ伝えるのでなく、子どもにちゃんと理由を聞き、その理由を保護者にも伝え、学校側の対応が必要なら、それも考えていくようにしましょう。そのひと言によって、保護者は教師に協力しようと思うものです。 
 子どものことを真剣に考えているという気持ちが伝われば、保護者も教師を信頼し、教師の指導を受け入れて協力してくれるはずです。
(
中嶋郁雄:1965年鳥取県生まれ、奈良県公立小学校教頭。子どもを伸ばすためには、叱り方が大切と「叱り方&学校法律」研究会を立ち上げる。教育関係者主宰の講演会や専門誌での発表が主な活動だったが、最近では、一般向けのセミナーでの講演や、新聞や経済誌にも意見を求められるようになる) 

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一流の教師と二流、三流の教師とは、なにが違うのか

 最近の教師は、保護者からもやられるので、横着な人は少ないと聞いている。でも、校長にたずねると「いますよ」と必ずいう。
 若い教師の勉強会に招かれ、授業をし講演をした。子どもたちも楽しく授業にのってくれた。すべてが終わり、主催者のA先生の挨拶を聞いて驚いた。私は発言を求めてつぎのように言った。
 
「今、A先生は『学ぶべきものは何もありませんでした』と言いました。私の勉強不足は認めます。だから学ぶべきものはなかったのかもしれません」
 
「しかし、授業は『見る人の実力ほどにしか見えない』のです。実力があれば、新採の先生の授業からでも学べます。見る人、聞く人の実力によって、見え方・聞こえ方が違うものです。このことを考えてほしいのです」
 
「私の授業のよくなかったことのいいわけではありません。本当のことをいっているのです。今日は、大変申し訳ありませんでした」
 A先生の年齢は3639歳の間であった。この年齢の教師は、どうしてこんなに不遜になるのだろうか。3639歳以外にも、不遜な教師はいくらでもいる。ただ割合からいって多いので、すぐに年齢がわかるのである。
 思いだすのは大村はま先生が書いていた「おしゃか様の指」(『教えるということ』共文社)という話である。おしゃか様が天から人間の世界を見ていると、一人の男が荷車を引いて歩いていて、ぬかるみにはまってしまったのが見えた。困った男は一生懸命、引いたり、押したりするが荷車はびくともしない。
 誰か人が通りかかるのを待つことにしたが、いくら待っても誰一人通らない。おしゃか様は、男が人にたよらず、自分の力で何とかぬかるみから荷車を引き出そうと決心したのを知ると、見えない指で、荷車をちょっと押してあげた。
 もし、おしゃか様が「わたしが押してあげたのですよ」といえば、男は、次にこういう困ったことが起きたとき「おしゃか様が助けてくれるのではないか」と、他人にたよる心が起きるだろう。だからこそ、おしゃか様はだまって、見えない指で押してあげたのである。
 私たちは「見えない指」で押されて生きているのである。それに気づくかどうかである。
 一流の教師は、子どもに「自分一人の力で育ったのだ」と思わせることのできる教師である。二流、三流の教師は「先生が教えてあげたから合格できたのだ、成長できたのだ」と恩をきせる教師である。「学ぶべきものはなにもない」という教師も、一流とは言えないだろう。
 子どもが困っているとき、ぐっとがまんして、手を出さないことが本当に子どものためになるのである。野球の選手でも「さよならホームラン」を打ったのに「チームのみんなが打たせてくれたのです」とか、○○賞をもらったとき「ぼく一人がもらったのではなく、チームがもらったのです」などという人がいる。
 これを聞いて「これが一流選手なのだなあ」と思う。二流、三流選手は「ぼくが打ったから勝ちました」「ぼくが投げたから勝ちました」などという。
 一流のお母さんは、子どもに「自分一人で育ったのだ」と自信を持たせることのできる人である。「私がいう通りにしたから成長したのだ」などとはいわない。
 教師でも、お母さんでも、一流になると、すべてわかっているのに「どうしたらよいだろうね」と、子どもに考えさせたり、気づかれないように目に見えない手で支援しているのである。
 
「そんなこともわからないの」と、教えてしまうのは、二流か三流である。
 私たちは、子どもが困っていると、すぐ手を出して助けたくなる。そこをぐっとがまんして、子どもに困難を乗り越えさせることが大切なのだ。
 あるお母さんから「うちの子は、先生に出会ったから今があるのです。ありがたいことです」といわれたことがある。
 
「それは、私の方がいいたいことです。子どもは、このようにして困難を乗り越えるのだ、ということを教えてくれたのはお宅のお子さんですよ」
 
「お宅のお子さんと出会って本当に幸せだったと感謝しています」と申し上げたことがある。今も全く同じ気持ちである。
(
有田和正:19352014年、筑波大学付属小学校,愛知教育大学教授、東北福祉大学教授、同特任教授を歴任した。教材づくりを中心とした授業づくりを研究し、数百の教材を開発、授業の名人といわれた)

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授業を楽しく安心できる場にするには、どうすればよいでしょうか

 推測し想像しながら、みんなで発見していくような授業は、子どもたちも大好きです。いっけん、学習意欲に欠けているかのように感じられる子どもたちが、目を輝かせて学習する事実に、私たちは着目していかねばなりません。人間はそもそも深く考えることを好む動物なんだ、とあらためて思います。
 子どもたちは、学習を拒否しているのではないのです。知的好奇心が高まり、未知の世界との出会いがあるような学習には、むしろ飢えているのです。
 学ぶ意味や価値がわからないような、機械的な練習や、苦役だけが要求されるような学習を拒否しているのにすぎません。
 学級の友だちと対話・討論し共同で学ぶことで、一時間前には想像もできなかった世界と出会うことができる。自分も賢く人間として豊かになってきている。この実感の積み重ねこそが「何のために学校に通って学ぶのか」という問いにこたえる、道ではないかと思っています。
 共同の学びを豊かにしていくには、教室になんでも言える自由な雰囲気が不可欠です。そのためには「失敗」や「間違い」に対する教師や子どもたちの態度が問われることになります。教師だけでなく、子どもたちが豊かな「間違い観」を育てていくことは、学習にとって不可欠です。
 
「間違い」が、物事の本質をとらえていく上で、どんなに重要かを体験する必要があります。なぜなら、多くの子どもたちは「間違い」は恥ずかしいことであり、無意味なものだと考えているからです。
 
「間違い」が事実の断片であるならば、それをつなぎ合わせ関連づけていけば、物事の全体像が浮かび上がってくる。例えば、縄文土器のかけらをつなぎ合わせていくと、ほぼどんな土器だったかは推定できるようになるのと似ています。
 そういう意味では「間違い」は、物事の本質にたどりつくための「入口」であり、認識を深めていくうえでなくてはならないものです。共同の学習の中での「間違い」は、物事の本質をとらえていくうえで重要な役割を担うものです。こう考えてくると、子どものどんな発言も貴重なものになります。無駄なものはひとつもないのです。
 教師が一人ひとりの子どもの発言に心底耳を傾け「間違い」を大事にすることで、学習はプロセスのあるものに転換していきます。
 何でも自由に発言できるようになれば、自分の思いや考えを率直に語ることができるようになります。すると、当然のことながら、対立・討論も起こります。学習はいっそう深まっていきます。
 
「正答主義」の学習では、正しいかどうかを判断するのは教師です。共同の学びでは、そうはいきません。子どもたちが集団で思考し、共感や批判、納得を通して本質や真実に迫っていきます。
 教室に自由な雰囲気をつくるためには「間違い観」とともに、子どもたちがリラックスすることが重要です。過度の緊張を強いることなく、子どもたちが安心して学習できるようにするということです。授業中、教師が思っている以上に、子どもたちは不安をもって学習しているのです。
 
「急に当てられたらどうしよう」ということも授業中の心配の一つです。私自身も高校の頃、化学や数学の教師がよく急に当てるので嫌でした。当てられそうなときは、当てられないように、先生と目をあわせないようにしていたものでした。
 そんな体験もあり、私は子どもが自分で手をあげない限り、当てないようにしています。子どもたちは、突如当てられるというような不安もなくなり、安心して学習に励むことができます。
 教師が子どもの思いを無視してどんどん当てていた場合と比べて、個性的な発言が確実に増えてきます。子どもたちはじっくり考え、自分が発言したくなったときに発言できるからです。
 発言を強要しない、発言するかしないかは本人が決めることにしただけでも、学習における子どもたちの安心は広がっていきます。
 そういう自由が保障されたときに、子どもたちは自分の力を発揮して学習するようになるものです。「待つ」ということが、子どもたちに真の自由を保障することになるのだと思います。
 授業において「安心」と「人間的な自由」をどう拡大していくかが、重要な課題だと思っています。
(
今泉 博:1949年生まれ、元東京都公立小学校教師、前北海道教育大学副学長、「学びをつくる会」などの活動を通して創造的な授業の研究・実践を広く行った)

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子どもに「よりそう」教師が崩壊し始めている、どうすればよいか

 今日の荒れは、荒れる現象そのものが「白い闇」につつまれたままであることも少なくありません。
 なぜ、あの子が突然荒れはじめたのか、なかなか見当がつかない。荒れる背景にある「くらやみ」が見えにくい。
 
「よくがんばったね」「よくわかったね」「やればできるじゃないか」などの指導的評価が、荒れた子や、まわりの子どもたちの心にかからない。しらじらとした雰囲気のなかで、子どもたちのもとにとどかない。
 子どもが些細な出来事を契機にパニックになることがあります。教師は、その子どもの思いを受けとめ、一生懸命に理解しようとします。
 すると、それを見ていた他の子どもが「あの子ばかり大事にされてずるい。自分もあんなふうにしてほしい」とばかりにパニックになります。
 こうしたパニックの連鎖が、学級の秩序を崩壊させ、ついには、授業をも崩壊させてしまうこともあります。
 荒れる子ども一人ひとりの思いによりそい、荒れる行動の裏側に隠された人間的な願いに共感することが必要です。理由もなく荒れ、バニックになる子どもは一人もいないからです。
 しかし、いま「授業崩壊」に苦悩している教師の多くは、この「よりそい」を柱に実践している心優しい教師たちである場合も多いのです。
 これは、つらい現実です。子どもに「よりそう」感覚を持った教師の実践が崩壊しはじめている。この矛盾に満ちた現実をどう理解したらよいのでしょうか。
 前進を励ます評価が空転し、一人ひとりによりそえば、教室にパニックの連鎖がはじまってしまう。こうした「白い闇」のなかで授業が崩壊していく。
 子どもの成長を励ましたいと願ったから教師になったのだ。子どもの抱かえる悲しみや苦しみによりそい、共感できる人間になりたいと願って教師になったのだ。
 それなのに、子どものためにと願えば願うほど、子どもとすれ違い、子どもが突然パニックを起こしてしまう。
 ここに、今日の荒れと向かいあう教師の深い「悲しみ」があるように思えてなりません。
 いま「白い闇」のなかで授業崩壊の危機にひんしている子どもたちのためにできることは何なのでしょうか。
 それは、何よりもまず、わからない自分、できない自分、まちがえる自分は見捨てられるかもしれない、という強迫観念から、子どもたちを解放してやることではないでしょうか。
 いま、授業の「日常」が問われているのだと思います。わからないことがほめられ、できないことがほめられ、まちがえることがほめられるような授業。
 そこで、おずおずとも、ごもごもと自分を語る身体と仲間の身体とが響きあうことができるような授業。
 そのような授業への挑戦こそが、子どものすなおな感情のうねりを解放し、子どもの表情にうるおいと彩りをとりもどしてくれる。
 授業崩壊への挑戦はそこからはじまるのではないでしょうか。
(
庄井良信:1960年北海道生まれ、北海道教育大学大学院教授。専門は臨床教育学)

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教師が 保護者とトラブルをおこしたとき、どうすれば解決できるか

 保護者の要求や非難や暴言には「きちんと向き合い、反論せずに話を聞く」ことが大切である。結果的にも好ましい。それは「話を聞いてもらえた」ことで、保護者の気分が安定するからだ。安定すれば、解決の道も開けてくる。
 あいまいにしてごまかしたり、逃げたり、だれかのせいにしたりせず、真摯に応対することだ。保護者もそういう誠実な教師を望んでいる。
 とはいえ、保護者のなかに、じつに不見識な言動をする人がいる。そういうときは、冷静に対応する。ときに、おだやかにたしなめてもいいだろう。たとえば、電話口へ担任を呼び出した保護者がいきなり
「なにもたもたしてんだ。こっちは忙しいんだ。いいか、よくきけ。子どもによ・・・・・」と怒鳴る。
「そちらもお忙しいのでしょうが、今、授業中で、私も急いてかけつけてきました。そのような言い方は失礼ですね」とたしなめる。あるいは、にこやかに「すいません。もう一度、おっしゃってください」と、相手に言い直しの機会を与える。
 相手が保護者なら、教師はがまんしなくてはならないということはない。非は非として伝えなくてはならない。そのほうが好ましい結果をもたらすこともある。
 というのは、市民としてのモラルや礼儀、人間としての誇りを厳として保とうとする教師は、最初は誤解されるが、やがて尊敬されるようになるからだ。逆に、威厳を失った教師は、保護者から、さらに疎んじられ、軽んじられることになる。
 もし、教師が自分で言えないようなら、管理職に「こういう無礼を受けました。校長先生から保護者に抗議してください」と申し出れば、それくらいのことはしてくれるだろう。
 教師がもっとも傷つくのは「私より年下のくせして、生意気なこと言うな」「先生は子どももいないのに、子どもの気持ちがわかるわけがない」と言われることだ。こういう例は、若い教師へ、やりこめるためにわざと言って、やりこめて溜飲を下げているのであろう。
 では、どうするか
(1)
寅さん流に「それを言っちゃ、おしまいですよ」と軽くいなす。
(2)
偉そうな口をきく教師がいて「何様のつもりだ」と思うことがある。保護者の感情的な反発を買うことになる。その意味では、保護者への話し方には、謙虚さが求められる。
(3)
保護者がいやがりそうなことを伝える場合、話の前に「子どもを育てたことのない私が言うのも、言い辛いのですが・・・・」と、前置きをすると、素直に教師の話が入っていく。
(4)
学年主任や管理職などが、保護者にたいして「こんなことを言うのはやめてほしい」と伝える。また、PTAの役員から「先生に向かって、そう言うことは失礼だと思う」と、会員に話をしてもらったこともある。バックアップの体制をつくるということである。
 保護者と教師がトラブルをおこしても、その保護者の子どもに悪感情をもって接してはならない。教師を批判し攻撃する保護者に対して、好感情は抱きにくいが、子どもは子どもととらえ、保護者とその子どもを同一視してはならない。むしろ、その子どもの対教師感情を好転させ、信頼されるようにすることだ。
 保護者が教師に悪感情をもつようになるのは、子どもの対教師感情を反映しているのである。子どもが教師に不信を抱くようになると、保護者も教師不信に染まっていく。
 だから、子どもが教師を好きになり、信頼するようになると、保護者の対教師観もしだいに和らぎ、好転するようになる。
 保護者とトラブルをおこしたら、まず子どもとの関係を見直し、子どもとの関係を改善することだ。子どもが変われば、保護者も変わるのである。
(
家本芳郎編:19302006年、東京都生まれ。神奈川の小・中学校で約30年、教師生活を送る。退職後、研究、評論、著述、講演活動に入る。長年、全国生活指導研究協議会、日本生活指導研究所の活動に参加。全国教育文化研究所、日本群読教育の会を主宰した)

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叱るときの大切なポイントとはなにか

 小学校段階では、大人が「いい・悪い」をはっきりと教えなければなりません。何がよくて何が悪いのか、端的に指摘して教えてあげるのです。そのためにも、短い言葉でズバッと叱ってあげることです。遠慮することはありません。
 時代のせいでしょうか、ひどく気持ちの悪いくらい、子どもに迎合し、遠慮してやさしい言葉をかける教師がいますが、どうかと思います。
 誤解を恐れずに言えば、やさしすぎるだけの教師は子どもをだめにする危険性があります。叱ることを恐れずに、だめなものはだめだと叱りましょう。
 絶対やってはいけないのは、信頼関係もできていないのに高圧的な感じで叱ることです。しかも正論たっぷりと。教師と子どもの心理的な距離が遠くなるだけです。
 学級開きの時に、子どもに「この先生の言うことなら聞こう」と思わせ、子どもとの信頼関係を築くべきです。信頼関係の構築を日頃から心がけておく必要があります。
 強い口調で叱ると、雰囲気は重くなります。だから、叱った後、すぐにケロッとして、何事もなかったかのように進めることが大切です。
 そのためには、叱った時に、次の一手を瞬時に考えます。すぐに切り換えて笑顔になることもいいでしょう。時には、ユーモアを使って切り返すことも。
 たった一言を入れるだけでも違います。極端な例だと、ドスの効いた声で叱ると、子どもは直立不動になります。そこへ「なんちゃって!」とテンションを変えると、全く空気が変わります。
 もちろん、その後に「って冗談だけど、掃除はしっかりやろうな」と、最後にしめなければなりません。大切なのは、叱った時の重苦しい雰囲気を振り払うことです。
 
「お前はどうしてできないんだ!」「なにやってるんだ!」など、子どもを主語にして叱ると、子どもは自分そのものを否定された気持ちになってしまいます。
 相手を主語にするのではなく、叱る時に主語を自分にする「Iメッセージ」を使用します。教師である自分がどう思っているか、どう感じているかを子どもに伝えるのです。
 
「先生は残念だと思うな」「先生は、どうしても○○くんが、そういうことをする子には思えない」など、自分を主語にして話をすると、相手もそのメッセージを受け止めやすくなります。
「Iメッセージ」は、コミュニケーションの重要な技能のひとつです。大切なのは、技能と感じさせないくらいまで、訓練を重ねることです。
 教師は、どうしても正論を言いがちです。特に、相手の年齢が低ければ低いほど。しかし、これには十分気をつけねばなりません。なぜか、嘘っぽく相手に伝わってしまうことがあります。
 
「ああ、また始まったよ。先生のお話が・・・・・・」と、心の声をつぶやいている子どもも少なくないのではないでしょうか。
 時に、正論を言わなければならないこともあるでしょう。だからこそ、正論くささをなくす工夫が必要になってくるのです。
 
「まあ、そうは言ってもね・・・・」「先生もさあ、小学生の頃・・・・・」など、正論で終わらない話を続けてあげるだけで、全く聞こえ方が違ってきます。
 そして、何より、自分はその正論を子どもに言う資格があるのか、それを常に問うような教師でなければなりません。
(
渡邉尚久:1969年千葉県生まれ。千葉県公立小学校教師を経て千葉市教育委員会に勤務。成功哲学を授業化、実践するだけでなく、子どもたちが誇りと自信の持てる授業づくりを進めている)

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変わったのは子どもではなく指導者のほうだ、子どもを変え成長させるにはどうすればよいか

 よく「いまの子どもは……」って言われるだろう。でも、ぼくは違うと思うね。子どもは変わっていないと思う。むしろ変わったのは大人、指導者のほうだ。
 
「子どもが変わった」とか、「最近の子どもはしんどいことをいやがる」というのは、みんな指導者の言い訳。ぼくはそう思う。
 
「ここで、こういうことに耐えておけば、こんな素晴らしい自分が待っているんだ」というような、子どもがドキドキするようなイメージを与えてやれば、絶対に反応は返ってくるんだよ。
 子どもの反応が返ってこないというのは、教師の伝える力が弱いからだ。それを知るのは簡単なんだ。「子どもたちに何をしてやったんだろう」と、自分に矢印を向ければもう、いっぺんでわかる。
 子どもの結果から学ぶことは、われわれ指導者にとっては非常に大きいんだよ。結果から学ぶというスタンスを、指導者やリーダーはしっかり持たないといけないと思うんだ。
 われわれ教師は前年と同じことをやっているわけにはいかないのだよ。つねに結果をフィードバックさせて、反省し、次に活かす。子どもを見て「ああ、いまの子たちにはこんなことが必要だ」ということを経験的にわからないといけないんだ。
 そういう気持ちでいれば、どんな子が入ってきても、つねに子どもの状況に対応できるはずなんだよ。「こうすべき」とか「こうあるべし」っていうことを押しつけてはいけない。それがわからないから、ついつい子どものせいにしてしまうんだ。
 だから、高校ラグビーの試合で伏見が花園に大敗したときにぼくが気づいたように「言ってわからん子はあかん」と言って、それで切ってしまうのではなくて、「どうしたらわかるようになるのだろうか」とか「どうやったら勉強するようになるのだろう」と矢印を自分に向けて、「じゃあ言い方を変えてみよう」というふうに考えてみる。
 いいか悪いか、できるかできないかで選別してしまうんじゃなくて「どうしたらできるようになるんだろう」ということにウェイトを置かなければいけないんだ。
 ちょっとしたきっかけを与えるだけで、子どもは本当に変わるんだよ。そんな指導者や教師を子どもたちは求めているんだ。そのためには、矢印を子どもに向けてしまってはダメ。
 
「おれは子どもたちに何をしてやったんだろう」といつも自分に問いかけて「どうしたらいいんだろう」と考える。そういう気持ちがいちばん大切だし、そうしないかぎりは、子どもを変えてやることはできないと思うね。
 何もわからない子どもには、強制を必要とする時期は絶対にある。なんでもかんでも好き勝手にするというのが自由ではないだろう。
 自由や個性というものには、自己責任が伴わなければいけないんだ。いま、それが実に少ない。そういうことに気づかせるためには、教育において強制される時期があって当然だし、それなくして自由にさせて、本当に社会に必要な人間になれるのかなっていう気はするね。
 何をしていいかわからない子にはきちんと目的を与えてやらせる。目的がはっきりしていれば「これさえやれば、こうなるんだ」とう意識につながっていくんだ。
 逆に、自分の目的に向かって自主的に取り組んでいけるような子は、そのまま見守ってやればいい。そういう子は、何かのときにちょっと手をさしのべてやるだけでグーンと伸びるからね、後からポンと押してやるだけで。
 その意味でも、イメージを与えてやることが大切なんだ。「おまえ、こうなったらいいな」とか「がんばったら絶対日本代表になれるぞ」というように、夢を語ってやったり、目標を語ってやる。
 そういうイメージをその子のなかにぼやっとわからせてやるわけ。それも、一人ひとりの子どもに全然違うイメージをね。そう言いつづけていくと、本人もだんだんそう思っていくんだよ。
 そのなかで、徐々にイメージが鮮明になっていく。そうなれば、どんどん自分からそのイメージに近づこうとするようになるんだ。何が必要か自分で考えるようになるんだよ。
 「やらされてる」のか、それとも「自分でやっている」のか、子どもにどう思わせるのかは、非常に大事なことなんだ。
 教育に限らず、どんなことでもそうだけど、やっぱり「こういう人になってほしい」とか「こういうチームをつくりたい」というイメージやビジョンを描けない指導者やリーダーは、人を育てることができないんじゃないかなと思うけどね。
 学習能力がない子は絶対に一流にはなれない。同じ失敗を平気で繰り返すからだ。努力をしない天才はいない。努力なしに素晴らしい勝利や感動は絶対に得られない。
 そういうことに気づかせてやれるかどうかが指導者は非常に大事なんだけど、言葉で言って、それがそのまま子どもの力になるのなら苦労しない。
 そこで大切なのがイメージなんだ。「どうしてやったらその本人にとってベストなのか、同時に周りの人間にも喜んでもらえる存在になれるのか」という青写真を指導者がきちっと自分のなかに焼き付けないと、現実からかけはなれた指導をしてしまうことになる。
 本当に「この子にこうなってほしい」というイメージがあれば、おのずとわかるはずなんだ。わからないのは指導者の愛情が足りないんだよ。
 何でも子どもにやってやるのが愛情なのではない。子どもを信じて、任せる。自分で気づくことができるまで、追い込んでやる。そういう気持ちが、本当の愛だと思うよ
 
「気づかせてやる」ことが一番重要だ。人から言われて気づくかということじゃなくて、「自分から気づく」ようにしてやらなければならないんだ。そういう場面や出会いをどれだけ用意してやれるかということが、指導者には大切だと思うね。
 もうひとつ大切なのが、それぞれの段階段階で「よし、いいぞ」って、きちんとほめてやること。評価してやることだ。そういう達成感の喜びがなかったら絶対ダメだね。もちろん、怒ったあとには、ちゃんとアフターケアーをしてやることは言うまでもない。
(
山口良治:1943年福井県生まれ、ラグビー指導者で元日本代表。高校教師として京都の無名の公立高校をラグビーで全国制覇させた。ラグビー部生徒への体当たりの指導が多くの反響を呼び、TVドラマ『スクール☆ウォーズ』の主人公のモデルとなった)

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教師にとって最も必要な資質とは何か、また授業の実力を高めるにはどうすればよいか

 教師としての楽しみは「教師になってからの努力」によってこそ、もたらされます。初心を忘れ、現状に安住して過ごすようになると、教師人生の楽しみは半減してしまうでしょう。「進みつつある教師のみ人を教える権利あり」という言葉を心に刻んで進むべきだと思います。
 人生において、自分自身の資質や力量を高めていくことほど、すばらしいことはありません。自分の上達を実感できることは最高の喜びです。
 上達していくためには、他の人からの意見や批判によって、それまでの自分の考え方や感じ方を省みることが必要です。常に「自分の現状の否定と破壊」を自らに課する必要があると言えるでしょう。
 つらいこと、聞きにくいことにも、耳を傾けなければなりません。自分を変えて、変えて、変え続けることによって、徐々に望ましい自分になっていくのです。
 私はこれまで、たくさんのすばらしい先生がたにお会いしてきました。共通するのは、謙虚で素直だということでした。
 教師にとって何よりも大切なのは、自分が人間として教師としても、まだまだ未熟である、という自覚を常に持つことです。そうすれば、より向上したいという意欲がわいてくるものです。
 自分が未熟であることを自覚し、謙虚であり続ければ、正直になります。自分をよく見せようとする必要などありません。
 すると、教師自身が楽になるだけでなく、勇気を持って子どもたちと向き合えることになります。自分が間違っていたとわかったら、素直に改めていけばよいのです。
 自分を省みつつ、向上させていく教師には、子どもたちも心を開き、その姿勢を見て学び、成長していくのです。
 この「謙虚さ」と「向上心」の二つは、すべての教師にとって最も重要な資質と言えるでしょう。
 自分をより高く伸ばそうと思うなら、優れた人に直接会うことが最も近道です。いろいろと問いかけ話の糸口をつくることが望ましい。そして素直に聞くことです。
 上達の一番の条件は素直さです。まずは素直に教えを受け入れ
(1)
その指摘は、私の授業のどこにあてはまるだろうか。
(2)
その指摘を取り入れると、私の授業のどこが変わってくるのだろうか。
(3)
そのように実践したら、私の授業はどういうことになるのだろうか。
(4)
この指導は、私の授業のどこをどう改めよということになるのだろうか。
というように、自分の実践をまな板にのせて、受け入れることが大切です。そうすることによって、より良い実践が生まれてくるはずです。
 授業のレベルを上げるには、優れた授業者の授業を参観することが、最も効果的です。その場合も、発問法を見るとか、受けの技術を見るとか、学習形態の組織の仕方を見るとか、はっきりとした問題意識を持ち、具体的な目的を持って見ることが大切です。
 さらに、自分のふだんの授業を他の人に見てもらうことは、いっそうよい勉強になります。研究授業の回数は多ければ多いほどよいのです。それは教材研究や授業の腕を磨いていくことに役立つのです。
 授業では、子どもたちの反応を見ながら、常に工夫を加えていきましょう。授業を行った後に、指導案に授業の気付きをメモ書きし、反省を記入することをくり返すとよいでしょう。日頃の積み重ねが実力を高めます。
 授業の実践を記録するには、学級通信を利用するのもよい。授業の様子や学級のできごと、教師の思いや意見を記すと、特別に時間をかけなくても、教育実践の記録を積み重ねることができます。
 経験はぼんやりと繰り返しながら積んでも力にはならない。「こうしてみよう」「あれを加えてみよう」「あそこを削ってみよう」と、常に意図的に積むことが肝要なのです。
 私は本当に優れた先達との出会いに恵まれてきました。多くのことを教えてくださる。それが自分の成長の糧となるのです。すばらしい喜びとなるのです。
 一つひとつの出会いに意味を見い出せるかどうか、ということこそが、実は人間の成長の分かれ目のような気がします。
(
野口芳宏:1936年生まれ、元千葉県公立小学校校長、植草学園大学名誉教授。千葉県教育委員会委員長職務代理者、日本教育技術学会理事・名誉会長、授業道場野口塾等主宰)

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「子どもが納得していないな」と教師が感じたらすぐに保護者へ連絡を

 気になることがあったら、すぐに保護者に連絡するようにしましょう。ちっとした手間を惜しむことがトラブルのタネになります。
 ケンカなど子ども同士のトラブルや、厳しく叱って指導した後など、子どもが「納得していないな」と「ピン」と教師が感じたら、すぐに保護者に連絡するとよい。
 納得していない子が、自分の思いを家で保護者に伝えた場合、誤解が生じて思わぬトラブルに発展することがあります。
 子ども同士のトラブルや教師の指導は、必ず納得させて帰らすのが基本です。下校するまでに、その子に目をかけ丁寧に接してあげましょう。笑顔で楽しく下校させることを忘れないようにしましょう。
 たとえ完全に納得しなくても「先生に心配してもらった」と感じれば、保護者も悪い気はしないはずです。
 子どもがスッキリしない顔で「これは納得していないな」と感じたら、必ず保護者にできるだけ早く連絡を入れ、事情を伝えることが大切です。
 
保護者から「心配して下さってありがとうございます」と感謝されることがほとんどです。担任からの連絡で初めて事実を知ることも多く、事情を正確に伝えることができます。
 子どもが帰った後も、教師の仕事は多いもの。でも、何をさておいても、まず連絡を入れておくことです。
 
「後で連絡を入れよう」と他の仕事をしていると、思わず連絡を忘れてしまいます。せっかくの対応も後手に回っては意味がありません。手間を惜しまず、すぐに連絡することが大切です。
(
中嶋郁雄:1965年鳥取県生まれ、奈良県公立小学校教頭。子どもを伸ばすためには、叱り方が大切と「叱り方&学校法律」研究会を立ち上げる。教育関係者主宰の講演会や専門誌での発表が主な活動だったが、最近では、一般向けのセミナーでの講演や、新聞や経済誌にも意見を求められるようになる) 

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教師は被害者意識を持つと、身構え、実践意欲への意欲も湧きにくくなる

 「教師は何をしているのか」「教師がもっとしっかりしないと」などと、教師批判はこれでもか、これでもかと続きます。
 こうした批判を聞くと、不満、反発の声が教師間で交わされます。「どうして教師だけ責められるのか」「保護者の責任はどうなっているの」と、日頃の思いがどっと吐き出されます。この時ばかりは、校長から若い教師まで思いが一致するのです。
 教師ばかりが責められるのは、健全な時代といえないでしょう。保護者が子育てについてもっと考えなければならないし、世の中の在り方だって改めていく必要はあるでしょう。
 教師は仕事に、もっと誇りをもたなければならないし、広い視野から学校や教師の仕事考えなければならないでしょう。できること、手がけられることから、実践や子どもへの接し方を、改めたり工夫したりするとよい。
 教師は、被害者意識の虜(とりこ)になってしまわないことです。そうなってしまえば、実践への意欲も湧きにくくなるし、心意気も高まらないでしょう。そして、防具に身を固めて、外部に対して、身構える姿勢ばかりが強くなってしまいます。
 教師が誠実に日々の仕事を果していれば、だれに何を言われようと卑屈になることなどありません。被害者意識など、もたなくてもいいのです。
 それと、どのような職業であれ、どれほど誠実に仕事をしていても、批判や注文はあるものだと承知しておくことも必要だと思います。
 外部の人の声に耳を傾ける、謙虚さもとても大切です。両者のバランスをとれる教師が、これからの教職の世界に必要だと思われます。
 教師が被害者意識を持つと、ついつい感情的になって「そんなことはできません」「教師を何だと思っているのですか」などと口にしてしまえば、保護者との関係修復は困難でしょう。
 教師の仕事は、相手が子どもであれ、保護者であれ、長期戦の構えが必要なことがしばしばです。もちろん、短期決戦ですぐに手をうたなければならないこともあります。教師には、それを判断する力が重要です。
(飯田 稔:1933年生まれ。千葉大学附属小学校に28年勤務、同校副校長を経て、千葉県浦安市立浦安小学校校長。千葉経済大学短期大学部名誉教授。学校現場の実践に根ざしたアドバイスには説得力がある)

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子どもたちに「わかりやすい説明」をするためのポイントとはなにか

 NHKの子どもニュースを担当して、子どもたちに「わかりやすい説明」をするには、いくつかのポイントがあると考えるようになりました。
 
「こんな言い方をして、子どもたちにわかってもらえるのか?」「ひょっとすると、子どもたちは知らないのではないか」と、常に自問自答して、子どもたちへの想像力を持っていないと「わかりやすい説明ができないのだ」ということを思い知ったのです。
 出演者の子どもたちが「わからない」と言ってくれるとき「そんなことも、わからないのか」と言ってはなりません。「何がわからないか」がわかると、そのニュースの説明は八割方はできたようなものです。
 その点について「では、どう言えばわかってもらえるだろうか」と一生懸命に研究すればいいからです。
「うーん、これだったら、わかるかな?」「それでもわからない?」「では、これで、どうだ」「えっ、わかる? ありがという」「わからないと言ってくれたおかげで、こんなにわかりやすくなった、ありがとう」と、常に言うように心がけました。
「きみが、わからないと言ってくれたおかけで、わかりやすくなった」という言い方を繰り返すことで、子どもたちにも番組つくりに参加している実感がわきます。
 こうした経験の結果、私なりに「わかりやすい説明」の方法を編み出していきました。そのポイントを五つにまとめると、
(1)
むずかしい言葉をわかりやすく、かみ砕く
 ニュースにはむずかしい言葉が数多く登場します。意味のわからない言葉が出ると、そこから先は理解が進まなくなります。わかりやすく説明することができれば、見ている子どもたちは「ああ、そういうことなんだ」と腑に落ちることでしょう。
 むずかしい言葉の多くは、漢字の熟語です。その漢字の意味をおさらいするだけで、むずかしい用語の説明ができ、ニュースのポイントも理解できることが多いのです。
(2)
身近な「たとえ」に置き換える
 想像しにくかったりして理解しにくいテーマのとき、わかりやすい「たとえ」を使うと効果的です。
 例えば、H2ロケットの大きさの説明です。高さは50mです。私が思いついたのが「奈良の大仏」でした。高さが16mです。でも、私たちは大仏さまを足元から見上げるので高いというイメージを持っています。
 こうして、H2ロケットの横に大仏さまの模型を並べ「ほら、H2ロケットは、奈良の大仏さまの三倍もの高さがあるんだ」という説明になりました。
(3)
抽象的な概念を図式化する
 抽象的な概念のニュースは映像がなく「見てわかる」ことはできない。図や模型にすれば「見てわかる」ということになります。
 ある概念を子どもたちに伝えようとするとき「絵」として伝えることができないか、と考えます。ある出来事を自分の頭の中でそしゃくして、図解してみます。
 図解しようと努力すると、ものごとの枝葉の部分がそぎ落とされ、本質だけが見えてくることがあるものです。
 自分の頭の中に、その「絵」を描くことができれば、次は、その「絵」を言葉にして子どもたちに届け、子どもたちの頭の中に、その「絵」を再現してもらうのです。
(4)
「分ける」ことは「分かる」ことに
 わかりやすく伝えるためには、伝える内容をきちんと分けてみることです。雑多な情報の中から必要な要素を取り出し、その要素を的確に分け、適切な順番に並べて伝えることが「分かる」ことになります。
 必要な要素を分けて再構成して見せることで、子どもたちの頭の中が整理でき、理解しやすくなるのです。
(5)
バラバラの知識をつなぎ合わせる
 バラバラの知識に「関係性」があることを示すことです。
 ある出来事について、ひとつひとつの言葉や数字を説明するだけでは、本当にわかったとは言えないこともあるのです。
 自分が持っている断片的な知識をつなぎ合わせ、ジグソーパズルのようにはめ込みながら、全体像が作りあげられたとき「わかる」ということになるのです。
 
「わかった!」というのは、知識を得たのではなく、自分の持っている知識によって、ある状況が解釈できたという場合である。頭の中でひとつの「絵」にまとまったときです。
 それと、ただ、ひたすら淡々と説明するのではなく「間」やリズムを大切にして、子どもたちとの会話のキャッチボールができるように留意すると、会話ははずむのです。
(
池上 彰:1950年長野県生まれ、ジャーナリスト。NHKに記者、キャスター、東京工業大学、信州大学、名城大学などの教授歴任した)


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小学校高学年を初めて担任し、いじめなどの対応で体調を崩したが、通院で立て直すことができた

 今の公立小学校に赴任して二年目のとき、初めて五年生の担任になった。その男性教師は物腰が柔らかで性格も温厚、子どもや保護者から教育熱心で優しい教師との評価を受けていた。
 二学期になり学級の雰囲気が少し違うことに気づいた。九月の下旬におとなしく、めだたない男子から相談を受けた。ある女子グループが、やや発達遅れのある男子を「いじめ」ていると話してくれた。からかったり、持ち物を隠しているという。担任は「いじめ」られている男子に事実関係を確認した。本人は何とかしてほしいと言った。
 そこで、翌日、当事者と思われる子ども一人ひとりと面接し、事実を確かめ、言い分を聞いた。始めは否認していたが素直に話すようになり、全員がからからっていた事実を認めた。
 そこで、この事実を自分から親へ報告すること、担任が事実関係を親に伝えると説明して帰宅させた。当日、それぞれの子ども宅へ電話で保護者に説明した。
 翌日、クラス全員に一人の子に複数の子がいじめを行っていたことを説明し、指導を行った。その後は、勤務時間中できるだけ、子どもといっしょにいる時間をつくり、一人ひとりの様子を見守った。
 そのころから担任は、それまで意識もしなかった疲労感を感じるようになった。夜になっても意識が高ぶり睡眠不足が重なっていった。肩こり、頭痛、手足がしびれ、朝の出勤時間になると動機がひどくなっていった。
 不安になり校長に相談し、校長の紹介で私の病院を本人の意志で受診した。原因は心労である。薬物療法で眠る前に一錠を服用し睡眠を確保した。必ず回復するので仕事を続けるよう説明し、二週間に一度面談することにした。
 担任は今まで以上に一人ひとりの子の言動に注意を払い、保護者との連携を密にして二学期を乗り切った。
 二学期の最後の保護者会は、できるだけ父親の参加も呼びかけた。その際には、教師としての今までの体験を振り返り、今「苦悩していること」「目標としていること」「努力していること」などを具体的に話すよう努めた。
 途中からは、保護者から本音に近い悩みも語られ、予定をオーバーして二時間近い話し合いとなったが、充実した保護者会であった。
 クラス全体が安定していくにつれ、担任の体調も回復し、三学期に入ってからは薬を使用しなくても睡眠がとれるようになった。通院で治療は終了した。
 子どもにとって家庭と学校で体験する生活内容は異質のものである。家庭は身内の人間関係で成り立ち、学校は他人との人間関係を通して社会を知る場となる。
 子どもとっての教師は、社会への入り口であり、社会のお手本としての存在である。子どもの行動を一人の大人として教師が受け止め、子どもの行動を吟味し、その内容を子どもたちが理解するまで対応する。
 教師が工夫し、努力し続ける姿勢が子どもの意識を変え、子どもたちとのコミュニケーションが成り立つ。その不断の取り組みが教育の本質である。
 今回の担任はその都度、事実の確認を取り、自分の考え、方針を説明し、行動し、考察し、自分の教育観や限界などを正直に保護者に開示した姿勢がことをこじらせず、学級の状況を好転させた力になったと思われる。
(
岡田 謙:医師(精神保健医)。教師と児童の精神疾患治療で有名な関東中央病院の部長を務め、東京都医師会学校精神保健検討委員会委員。平成18年から「くじらホスピタル」の初代院長に就任)

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授業のチャイムが鳴っても席につかないし、静かにしないとき、どうすればよいか

 授業の始まりのチャイムが鳴っても、なかなか教室にもどってこない子もいる。授業の開始時間を子どもたちに守らせることが大切である。
 そこで、つぎのように指導する。全員の子どもたちが教室にもどってきたところで、教師が「全員立ちなさい」指示する。
 つぎに「チャイムが鳴ったとき席につけた人は座りなさい」と指示する。そして「座れた人は、りっぱです」とほめる。
 この指示と評価を毎時間続ける。やがて、チャイムが鳴ると全員の子どもが教室にもどってこられるようになる。
 しばらくすると、この約束がまた守れない場面が出てくる。そのときは、班で取り組ませてみる。
 「全員立ちなさい」「チャイムが鳴ったとき席につけた人は座りなさい」と指示する。そして「○班と△班は、全員座れました。りっぱです」とほめる。班で声をかけ合って席につくことに取り組ませるのである。
 授業を始めようとするとき、子どもたちが静かにしないので「静かにしなさい」と教師が指示するのはよくない。では、どうすればよいのでしょうか。
 まず、はじめに音で集中させる。
 
「みんな、手を3回打ちなさい。さん、ハイ」と指示する。半数以上の子が手を打つ。おしゃべりをしていた子も、何が始まったのだろうかと集中しはじめる。
 さらに続けて「今度は、手を4回打ちなさい。さん、ハイ」と指示する。ほとんどの子が手を打つ。
 次は目で集中させるようにする。「指の数だけ手を打ちなさい」と指示し、指を5本見せる。子どもたち全員が手を5回打つようになれば、完全に子どもたちは教師に集中している。
 最後に「手を上げたら、パチパチと拍手をしなさい。手を下げたら、ぴたっとやめなさい」と指示して、手を上げる。子どもたち全員が拍手する。しばらくして、手を下げる。全員が拍手をひたっとやめる。教室が静かで楽しい雰囲気になる。
 子どもたちに作業をさせているときや、グループ学習をしている場合、教師が「やめて、こちらを見なさい」と指示しても、なかなか指示どおりにならない。
 こんなときには、まず「手をひざの上に置きなさい」と指示する。手に何か持っていると集中できないからである。
 次に「先生のほうに、おへそを向けなさい」と指示する。これで自然と教師の方に体が向き、集中する姿勢がとれる。
 それでも、少しざわついている場合は「静かにしなさい」「口を閉じなさい」と指示するよりも「歯を見せないようにしなさい」と指示するほうがよい。
 このような言葉を使うと、子どもたちは、どのように行動すればよいかがイメージでき、すぐに行動に移ることができる。
(
加藤辰雄:1951年愛知県生まれ、元名古屋市立小学校教師。愛知教育大学非常勤講師)

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楽しくなければ学校じゃない、学級を楽しくするにはどうすればよいか

 本来、学校は楽しいはずなのに、子どもも教師も「おもしろくない」といじけている。このごろ「学校がつまらない」という子どもが増えてきた。
 子どもたちの顔から笑いが消え、シラけた顔、無気力な顔が増えてきた。学校が楽しくなくなってきたからだ。しかも教師までが「今の学校はおもしろくない、学級担任はつらい」という。
 ほっておいたのでは、いつまでたっても、学校は楽しくならない。楽しくなければ学校じゃない。楽しい笑いを取り戻さなければ、活気に満ちた学校生活はやってこない。
 それには、なんといっても、教師のやる気と創意にかかっている。楽しさの扉は、教師がまず開くのである。教師はおもしろさの仕掛け人であり、楽しい世界をつくる演出家だからである。
 では、どうしたら子どもたちにとって、魅力ある楽しい学校生活をつくりだすことができるのだろうか。
(1)
教師にとって楽しいことをやってみる
 子どもは教師の鏡だから、教師が楽しければ、子どもも楽しくなるのである。教師が笑顔でいれば、子どもも笑顔になる。教師が怒ってばかりしていれば、子どももイライラして、もめごとのたえない学級になる。まず、教師が自分にとって楽しいことをやってみるのである。
(2)
子どものレベルに下りる
 ところが、教師が楽しいことをやろうとしても、子どもたちにとって楽しくなく、のってこないことがある。いったん子どものレベルまで下りて、子どもとチャンネルをあわせ、共感を示さなくてはならないだろう。
 そのレベルから、徐々に、おもしろさの質を高めていけばよいのである。
(3)
子どもの個性を引き出し広げる
 子どもたちは、その個性の中にたくさんのおもしろ世界を抱かえている。それを引き出すことも重要である。
 よく子どもを見ていると、ものの見方のユニークな子、掃除のじょうずな子など、面白い個性がいっぱいである。そうした子どものおもしろさを引きだし、学級の中に広げていくのである。
(4)
たくさんの輪をつくる
 なぞなぞの好きなグループ、ゲームの好きな仲間といった輪が多ければ多いほど、楽しい学級が作れる。人と交われない子どもには、その子ができそうなことを見つけて、なにかの輪に入るように、教師が手助けしてやるのである。
(5)
あそびから始める
 あそぶことは楽しい。教師が先頭に立って、子どもたちとあそぶのである。休み時間、朝や帰りの会、学活、道徳、ときには授業時間を使って集団あそびをする。教師があそびの先頭に立つと、子どもたちは「今度の先生はおもしろそうだ」となる。                              
(6)
あそびたい子からはじめる
 教師が先頭に立っておもしろいことを始めても「くだらない」と、シラける子どもが出てくる。しかし、おもしろいことは押しつけることではない。誘うものである。
 だから、やりたくない子どもはほっておいて、まず「やりたい」子どもたちで、始めればよいのである。そして「おもしろかった」という口コミで、参加者をふやしていくのである。
 つまり、たのしい活動やおもしろい活動は、輪を広げていきながら、そのなかに、シラけや反対する子どもを巻きこんでいくのである。
(7)
子どもたちで、おもしろい活動ができるようにする
 学級に、レク係、あそび係、音楽係、集会係などをつくって、その子どもたちの提案をもとに、学級全体で、自主的におもしろい活動にとりくむ。
(
家本芳郎:19302006年、東京都生まれ。神奈川の小・中学校で約30年、教師生活を送る。退職後、研究、評論、著述、講演活動に入る。長年、全国生活指導研究協議会、日本生活指導研究所の活動に参加。全国教育文化研究所、日本群読教育の会を主宰した)

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まじめで誠実な教師の心が壊れていく時代になった

 私どもの学校教職員の専門病院メンタルヘルスケア・センターでは、初診にこられた場合、主につぎの三点についてお話を聞かせてもらいます。
(1)
この方が精神性疾患のレベルに達しているのか。また、症状レベルでどんなものをもっているのか。悩みのレベルなのか、それとも、もう病気に入っているのかを診ます。
(2)
環境要因はどうなのかについて聞きます。学校でのストレスが決定打になっているのか、もしくは家族のことが決定打になっているのか、どちらがどのぐらいか、ということを診ます。
(3)
さりげなく性格的な偏りはどのぐらいかを診ます。これは悪いという面ばかりではありません。先生というのは、まじめ、誠実、がんばりすぎる、几帳面であるというよい面をもっています。
 それが行きすぎるという場合があるので、それがどの程度なのか、もしくは性格に著しい偏りがあって周りを大変な目に遭わせていないか、というようなことを話の中でさりげなく見立てていきます。
 
患者さんは一つの要因で倒れるというのはレアケースのように思います。三つのうちどの要因がどれだけの割合で関係しているかを私どもが最初の段階で見立てていきます。
 それによって「薬物療法」「休業」「精神療法」のいずれかを行うのかなどを決めて、患者さんに説明をします。休みに入ることが多いように思います。
 うつ病の教師が最も多いのです。うつ病というのは、不満やぐち、怒りを外に出せないために自分のほうに矢が自分のほうに向いてしまい、自分自身を攻撃することによって生じる病気だといわれています。
 教師が、怒っていいところで怒れないという状況に追い込まれているために、自分を責めざるをえなくなって、だんだん心が痛んでくる病気だと私は考えています。
 患者さんには 「脳内の物質の代謝異常です」と説明するようにしています。この代謝を良くするために休みや薬が必要であることを伝えて、納得してもらうようにしています。
 うつ病の背景にある要因は
(1)
多忙化
 教師の「忙しさ」があると思います。教師が多忙で子どもと遊ぶ時間がないのです。私は多忙に加えて孤立感で倒れると思っています。同僚や管理職が必ずしも助けてくれる余裕があるとは限りません。皆さん自分のことで精一杯という状況があります。倒れた多くの教師は「支えられているという実感がない」と言っています。
(2)
人間関係の複雑化
 人間関係が複雑で、そのプレッシャーに耐えられないということがあると思います。子どもや保護者そして地域とあたりまえのように関わっていかなければなりません。転勤をきっかけに孤立感に悩むということが起こります。
(3)
子どもや保護者の変化
 子どもが変わった、保護者が変わったということです。保護者の権利意識が強くなり「やってもらってあたりまえ」ということで大変です。
(4)
地域のつながりの変化
 何か問題が起こると、地域で抱かえるはずの問題が、学校なら仕返されなと、ストレスのはけ口として学校に持ち込まれるということが頻繁にあります。「コンビニの前に生徒がたむろしているので何とかしてほしい」という問題にしても、それはコンビニの問題なのですが、学校に言ってきます。
(5)
環境の変化
 教師は五十代になって頻繁に職場異動をくりかえします。それが、うつの引き金になっているというケースは多いのです。せっかくできた人間関係とチームを奪われます。
 教師であるというだけで、うつになりやすい背景には「支えてくれるつながりを失う」「環境の変化」という要因があるのだと思います。
 つぎに多いのが心身症といわれるものです。「腰が痛い、肩こりがひどい、頭痛がひどい」と様々な身体の症状を訴えるのですが、検査の結果はどこも異常はありません。それでも「おかしい、でもどうしても頭が割れそうに痛い」というようなケースです。
 今は、変な教師が倒れるのではなくて、まじめで誠実だからこそ倒れるという時代になっていると思います。だからこそ、制度をきちんとつくって、しっかりと働ける人材を教育現場にお返ししたいと思います。
 ですが、管理制度ができて、先生方は何かビクビクしています。管理職も教師も謝ってばかりです。それはちょうど指導力不足教員の認定や教員評価制度がはじまった頃から起こっているように私は感じています。
(
井上麻紀: 臨床心理士。公立学校共済組合近畿中央病院メンタルヘルスケア・センター主任心理療法士。学校教職員の専門病院で、教員に特化したメンタルヘルスケアや職場復帰支援している)

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学級崩壊から生還した教師たちはどのようにして解決したのか

 子どもが荒れる一番の原因は授業であり学級崩壊は授業崩壊から始まる。また、荒れから生還する唯一の道も授業である、授業の再生が学級を再生することを肝にめいじて授業をしなければならない。授業がしっかりしていけば、学級経営もしっかりしていく。
 教師が勉強し、授業を変えていくことこそが、学級を良くしていく最善の方法である。授業がへたな教師は、教師優先の我流の授業スタイルが多い。教師が変わらなければ、子どもも変わらないし学級崩壊は解決しない。
 学級崩壊の大半の責任は教師にあると素直に認めることである。授業がへたでつまらなかったことであり、その点を反省することである。これまでの我流をすべてすてて、素直に多くの教師の実践の成果に学ぶことである。
 つまり、これまでの自分を否定し、新しい出発をする決意をすることである。そうすれば、未来は明るい。教師が変わり、授業が変わり、子どもが変わるのである。
 
「子どもの事実」こそが大切なのだ。「子どもの事実」が評価する唯一の基準だ。ごまかしがきかない。なぜ、失敗するのか。それは自分のやり方が未熟だからだ。自分の未熟さに目を向け、それを克服していくため日々、挑戦し続けなければならない。たとえ「ほんのちょっとの、子どもの変化」を生み出すにも、山のような反省と自己変革が必要だ。
 そして、つかんだ子どもの変化は、ずしーんと腹の底まで響く手応えがある。これこそが実践であり、教師の仕事なのだ。どれだけ困難な子どもでも、その可能性を伸ばすことに挑戦するのが教師の仕事だ。
 学級崩壊で大切なのは、学級崩壊から生還した事実なのである。悩んでいる多くの教師の福音になる。子どもや保護者は救われるだろう。学級崩壊から生還した教師たちが体験したことをみていくと、つぎのようなことがいえる。
(1)
現場で悩んだとき「どうしたらいいか」を研究会やサークルに参加して具体的に教えてもらう。子どもたちへの指示・発問のやり方や、楽しい授業、知的な授業など多くの情報に出あえることができる。
(2)
学級経営や授業について優れた本を読み、追試(すでに行われた研究成果をその通りに行って試すこと)し、優れた学級経営や授業を積み重ねる。そのとき、優れた実践の裏にある考え方を知ることが大切である。
(3)
学級を統率するのは自分だという、気概、気迫、責任感を持つ。
(4)
教師は時として「ダメなことはダメ」と毅然とした態度をとらなくてはいけない。
(5)
新年度、最初の「黄金の三日間」を大切にする。
(6)
一人では立ち直ることはできない。よき相談相手、理解者が必要である。
(7)
保護者との連絡(家庭訪問、学級通信など)を密にしてコミュニケーションをはかり、理解を得るようにする。
(8)
子どもたちへの見かたを変える。子どもを叱ることで動かすのではなく、子どもたちの良いところを見つけ、ほめる。楽しいゲームや遊びなどもふくめ、一人ひとりの子どもとの関係改善をはかる。
(
向山洋一:1943年生まれ、元東京都公立小学校教師、教育技術法則化運動代表を務めてきた。教師を退職後、TOSSインターネットランドの運営に力を注いでいる)

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授業のスピードを加速すると学習が楽しくなり、高度なことに挑戦すると能力が向上する

 授業のスピードを加速すると学習が楽しくなります。
 速く、テキパキと、パッとできることって気持ちいいことです。それなのに、授業の最初に「きりーつ、れいー」と、ノロノロするのではなく、「起立、礼、着席!」までを2秒以内でできるまで指導しましょう。授業の始まりの集中力が見違えるように変わります。
 授業の導入に、スピードを重視したさまざまな基礎練習を毎日、反復しています。たとえば、10マス計算(1ケタの計算問題が10問ずつ記載されているプリントを使った反復学習)です。たとえば「10問を5秒で解きます」と言ったら「えー、無理」と言いだす子がいます。
 そんなときは「じゃあ10秒」と言って始めます。タイムを競わせることもあります。タイムを競ううちに「速くできた!」と、速さの気持ちよさも実感できるようになるのです。
 あいさつも10マス計算も音読も、常にスピードを意識させます。最初は優しく接して雰囲気づくりをします。信頼関係ができあがったら、高速で基礎固め、反復学習を始めます。
 すべてをスピードアップすることで、他のクラスが1時間で教えることを5分で終わることもできるようになります。その分、発展的な内容を、深く教える余裕も生まれるのです。
 最初からスピードアップして始めれば、最後までスピードが保てます。速いのは楽しいと思えば学習が楽しくなります。
 高度なことに挑戦させることが能力向上につながります。
 高度なことをやらせて、次々にレベルの高いことをやらせる理由は、いくつかあります。
(1)
小学生のうちに
 漢字プリントにしても10マス計算にしても、超高速でやることで小学生は盛り上がります。そして効果が出てきます。しかし、中学生になったら「何でこんなことをやらなきゃいけないの」と、真面目に取り組もうとしないでしょう。
(2)
現代の情報化の時代の問題
 インターネットがあり、情報は簡単に手に入ります。交通機関も発達し、いろいろな場所に行けます。携帯電話の進化もものすごい速さです。こういう環境になると「便利=ラク」と思うようになってもしかたがありません。
 だからこそ、自分で汗をかいて獲得した能力に感動するのです。そして「もっと伸びたい」と、さらに汗をかくでしょう。
 自分が苦労して手に入れた技術、能力は一生ものです。イチロー選手だって、毎日同じトレーニングをして、自分で能力を高め続けてきたからこそ、大きな記録を生み出すことができたのです。
 たとえば、漢字プリントや10マス計算、そして百人一首で札を取る速さもそうですが、高度なことをやらせるとき、私がよく言うのは「できなくて当然だよ」です。
 トップレベルのスピードを私が見せることで、子どもたちは挑戦したいと思います。トップレベルになるための練習ですから、夢中になってやります。
 しかも、そのトップレベルをクリアしても「やった! できた!」と、安心させません。「これで終わりじゃないよ。次のレベルのスタートだよ」と言って、次々に与えます。
 漢字ができた、つぎは熟語、つぎは意味を覚えろと、必ず「つぎ」があります。「漢字を一通りできた? じゃあ漢字検定の勉強だ」と、これで実際に合格した子どももいます。
 なぜ、子どもを安心させないのか。学習能力を鍛える効果があるからです。一回やって、わかったつもりになるのが、今の小学生のよくないところです。それでは、内容がわからず授業から落ちこぼれていく子どもが出てしまいます。
 私は毎日、少しずつ繰り返し教えます。一人ひとりの子に対して、どこがわからないか、その部分を補強し、高度なことに挑戦させるのです。
 次々に高度なことをやる楽しさがわかった子、自分が伸びるおもしろさを知った子は、他の子には見えない世界が見えてきます。
 有名なスポーツ選手や科学者だって「人生はつねに学び。これで終わりということはない」という意味のことを言っているでしょう。小学生がこの境地に立てるのです。
(
杉渕鉄良:1959年東京生まれ、東京都の小学校教師。「教育の鉄人」と呼ばれる実践家、子どもを伸ばす為に命をかける熱血教師。ユニット授業研究会代表。その実践スタイルは全国の教師、保護者から支持を受ける。2003年夏、日経スペシャル「ガイアの夜明け」に出演。PHP「VOICE」や、経済誌「プレジデント」での教育シリーズに取り上げられ、各方面からの注目も高い。ユニット授業、10マス計算、表現読み、指名なし発言など、子どもの可能性を引き出すため、さまざまな工夫を凝らした教育実践を行っている) 

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面白くなければ授業ではない、教師の道に惚れ込み、面白さを見出すのがいい

 教師にとって授業が面白くなければ、子どもにとっても面白いはずがない。面白いということは、笑いがあるということである。笑いがある授業は楽しいのである。野口芳宏は面白い授業を求め続けている。
 笑いというものは楽しい時にしか生まれないから。良い授業には必ず楽しさがある。子どもの表情が生き生きするのである。そういう面白い授業を子どもたちにしていく、心がけが必要である。
 しかし、むろん笑いだけが面白さではない。笑いはしないが、考え合い、問いつめ、新しい解決の糸口を見つけ出せた時の喜びは格別すばらしいものである。
 そういった「知的興味の充足」も「面白さ」である。そのような面白さは、問いや、課題の質によって決まってくるとも言える。
 知的な面白さのコツは、ちょっとむずかしい問題を出し、初めは「わからない」と思わせ、少しずつその不満状態を解決していくプロセスをドラマにしていく点にある。
 野口の「うてとこ」の授業(「子どもを動かす授業の技術20+α」明治図書刊)などはその一例になろう。
 また、初めの考えが、時間の経過とともに否定され、やがて脱皮し、成長していくそのプロセスも、十分に子どもの知的興味をかきたてる。
 さらに、子どもが教師を乗り越えていくこともまたすばらしいドラマを生み、子どもを大いに楽しませる。
 教師の解答に不満や誤りがあり、子どもがそれを見つけ、教師の考え方を改めさせていくという面白さは、本当に教師も子どもも燃えに燃えることになる。その例としては、野口の実践「菜畑」が好適である。
 いずれにせよ、授業は面白くなければいけない。面白くなければ授業ではない、とさえ言ってよいだろう。野口は、あえて自らにそう言いきかせている。それをめざすところに、授業の腕を磨く楽しみもまた生まれてくるに違いない。
 教師の道を選んだなら、教師の道に面白さを見出し、教師の道に惚れ込んで、のめりこみをするのがいい。
 だから、どうしても教師という仕事、授業という仕事に面白味を見いだせないとしたら、教師としての人生はさぞ味気ないものになるだろう。また、そういう教師に教わる子どもたちの不幸も大きいことになるのではないか。
 私は人生にとって何に「面白さ」を見出すかということがたいへん、たいせつであるように思うのである。できうれば自らの選んだ職業の中に「面白さ」を見出し、それにのめりこんでみることが良いと思う。そういう、のめりこみの姿勢こそが、自らの人生の「探究」そのものになるのだと思うのである。 
(
野口芳宏:1936年生まれ、元千葉県公立小学校校長、植草学園大学名誉教授。千葉県教育委員会委員長職務代理者、日本教育技術学会理事・名誉会長、授業道場野口塾等主宰)

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子どもとよい関係をつくるためには、教師はどうすればよいか

 いまの子どもたちとつきあうのは、本当に疲れる。いいかげんにしてくれよと言いたくなる。とにかく子どもたちは我慢ができない。トラブルは日替わりメニューのように起きる。教室にはトラブルメーカーの子どももいる。こうした子どもたちを相手に教師はどうすればいいのだろうか。
 子どもの荒れが広がり始めたころ、私は子どもの言動を許せず苛立っていた。教室にザラついて空気が流れ、不信は不信を呼び、子どもたちは私の言うことを聞かなくなった。
 現実を変えることができないと悟ったとき、子どもへのまなざしを変えなければと考えた。腹立たしい子どもを嫌わないためには子どもの見方を変えるほかない。
 私の家庭での子育ての経験がヒントになった。家で小学生の姉が失敗した。私は思わず激しく怒ったのに、幼い弟が同じ過ちをしても、幼児は「できなくて当たり前」と思うから腹は立たなかった。
 一人ひとりの子どもの細部を丁寧に見れば、どんな子どもにも健気な気持ちや成長したいという願いと小さながんばりがあり愛おしくなる。肯定的に子どもを見て、よさを発見することが教師と子どもとの関係を変える。
 そう考えると、教育は恋愛に似ていると思い始めました。人は恋すると好意を寄せ、よさを見出してくれる。好きな人のために、自分を向上させようとするエネルギーが生まれる。片思いでさえも好意が伝わる。
 教師の子どもへのあたたかい感情なしに教育は成り立たない。苦手な子、なかなか好きになれない子でも、関心や期待を寄せることならできる。
 どんな子どもも、愛されたいと願っている、誇りがある、心の奥で自分を成長させたいと願っていることを胸に刻んでおきたい。
 子どもへの対応にはマニュアルはない。教師は学校現場で学び、幅広い読書や文化のなかからできるだけ人間的な直観を養うほかない。「子どもだった自分なら、こうは言われたくない、こう接してほしい」と思う対応ができれば、子どもの心に届くものがあるはずだ。
 子どもたちは私たちがかつてそうであったように、大人になる過程でいつか変わり、成長する。根っこから悪い子も、いつまでも悪い子もめったにいない。
 そうだとすれば、目の前の悪い子を嫌わず、いつか「変わりゆく子」のために、何かを心に残すことが教師の仕事だと考えるようになった。それは「悪かったが、信頼してくれた先生がいた」という思いであり、すぐに成果が出るかどうかより、教師が何を願い、何を試みていたかが子どもの人生に残ればいいと思う。
(
佐藤 博:1948年香川県生まれ、元東京都公立中学校教師。千葉大学・法政大学非常勤講師。教育科学研究会常任委員、「学びをつくる会」世話人)

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教師と子どもの関係づくりに必要な3つのこととは何か

 子どもたちは、大好きな教師からほめられたら、うれしいでしょう。しかし、反対にあまり好きでない教師にほめられてもさほどうれしくないものです。言葉よりも、誰にほめてもらったかが重要なのです。
 教育は、教える者と教わる者の関係性が鍵になります。そのためには、
(1)
教師が子どもたちから信じられること
 人は信頼している人の言葉には耳を傾けて、従います。教師は、子どもからも保護者からも「信頼」を得ることがまず大切です。
 教師は、子どもたちに「望ましいこと」を語り続けます。
「昨日よりも今日、今日よりは明日と、いつも進歩を心がけましょう」
「自分の考えに責任を持って行動しましょう」
「すすんで学校をきれいにしましょう。ゴミを拾いましょう」
 これらは、立派な言葉です。立派な指導です。ただ、教師自身が、はたしてそのような自分の言葉にふさわしく生きているかが問題です。
 教師が語る理想と、本人の日常がかけ離れたものであれば、その教師が子どもや保護者に受け入れられることはないでしょう。一つひとつの小さな言動が、子どもにも保護者にも納得されるものであってこそ、初めて教師は信用され信頼されるのである。
 そして、教師自身も、子どもを信じなくてはなりません。「必ずよい子になる。よい子にさせる」という信念で子どもに接してこそ、日々の実践に力が入り、教育の楽しみを生み出すことができるのです。
(2)
子どもに敬われること
 人は「あの人は立派だ、人格者だ」と敬服するとき、初めてその人の言葉に耳を傾け、受け入れようとするのです。自分の不十分なところに気づき、補おうとして努力を続ける謙虚な人に対してこそ、人々はあこがれを抱き、あのようになりたいと思うのです。
 そして、教師は「これだけは」と誇れるものを持ち、その姿を子どもたちに示しましょう。たとえば「ぼくらの先生は、とても教え方がうまい」「先生のように歌えたら楽しいだろうな」といったことです。これといった特技でなくても、教育にかける情熱や、子どもと遊ぶことなど、何でもよいのです。
 教師もまた子どもを敬うことが大切です。子どもの背後には、両親をはじめ、その子に望みと期待をかけ、愛を注いでいる人たちがたくさんいます。その人たちの存在に気づいて「大切な宝をお預かりします」と心から思えたときに、教師は子どもを尊敬できるのです。
 そうなれば、教師は子どもたちに「きみたちはかけがえのない大事な人間だよ」という言葉をかけ、敬意をもって接しられるようになるでしょう。
 このように尊重される子どもは、自分を重んじ、軽はずみな行動をしなくなります。そして、教師との心のつながりが太くなり、教育の効果も上がるのです。
(3)
慕われること
 子どもたちが教師を尊敬するが敬遠するようでは、真の教育にはなりません。「先生から教わりたい」「先生に会いたい」という、子どもからの慕わしさを生むのは、人間としての「温かさ」であり、「優しさ」であり、「寛大さ」であり、「明るさ」であり、「大らかさ」です。
 人は誰でも、温かさを感じるところに寄っていこうとするものです。特に、小学校の教師は、まず明るく温かくなくてはいけません。
 子どもが、先生が好きでたまらないとき、教育の実は大いに上がります。「先生と話がしたい」「先生の顔が見たい」と、子どもが教師を慕い、先生に会うことを楽しみにするようになったら、教師として本物だと言えるでしょう。
(
野口芳宏:1936年生まれ、元千葉県公立小学校校長、植草学園大学名誉教授。千葉県教育委員会委員長職務代理者、日本教育技術学会理事・名誉会長、授業道場野口塾等主宰)

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保護者の要求が無理難題へとエスカレートしないようにするには、どうすればよいか

 無理難題を言う親は、そこに至るにはプロセスがあって、突然そうなるわけではありません。始めは要求が苦情になり、攻撃的になって無理難題へとエスカレートしていくという経過をたどることが多いのです。
 保護者がどういう理由で不信を蓄積させてきたか「見立て」ができると、合理的な対応方法を考えることが可能になります。早期に「見立て」を行う意識が大切です。問題の背景、原因、プロセスを見立てる「前さばき」が本当に重要なのです。
 怒りや攻撃性に振り回されることなく、その背景・原因に何があるのか、保護者の本当のニーズは何なのか「見立てた」うえで、学校として「何をすべきで、何ができるのか、何ができないのか」などの判断基準をしっかりもって、対応プランを考えていく必要があります。
 その判断基準となるのは「子どもの最善の利益の実現」「子どもの成長発達の保障」「子どもが安定して学校にくることができる環境を確保する」という視点です。
 保護者から出てくる要求は、いくつかのパターンがあります。学校の非を突いてきて「謝罪要求、土下座しろ、事実確認の書面を出せ、念書を出せ、担任交代、加害者を転校させろ、クラス替えをしろ、教育委員会に訴える」などがあります。
 判断基準をもとに「必要なこと」「できること、できないこと」「応ずるべきでないこと」をきちんと見極めて対応することが大切です。
 無理な要求については、早い段階から「不可能である」と明確に回答する必要があります。その場しのぎにすると、問題は必ずエスカレートしていきます。
 暴力的な雰囲気で脅し的な要求は合理的なものであっても応じてはいけません。金銭要求についても、スポーツ振興センターの給付以外は不可能です。
 保護者対応は、表面的な怒りや攻撃、拒否的な姿勢などに振り回されることなく、その背景や原因の見立てを行い「保護者とつながって」いく取り組みが必要となります。そのうえで、無理なことは無理だと伝え、学校がしっかりとしたスタンスで対応プランを提示していくことが求められます。
 しかし、現実には学校が、子どもや保護者の見立てのスキルを十分にもてていないために、表面的に振り回されてしまい、いたずらに感情的になったり、ノーと言えず無理な要求を受け入れてしまうなど、大切な初期対応を誤ったり、悪循環に陥ることが少なくありません。
 また、個々の教師の抱かえ込みも生じやすく、つい防衛的・自己弁護的になってしまい、子どもの最善の利益のための、是々非々のスタンスをとりきれず、それによって問題がエスカレートしてしまうことも珍しくありません。
 保護者問題の解決の筋道を計画する力が、以前よりも増して求められています。そのためには、学校がチームとして対応できることと、それをサポートする教育委員会のサポート体制(弁護士、臨床心理士などをふくむ)が必要となります。
 学校における保護者対応は、一般社会の消費者のクレーム対応とは異なり、保護者と継続的な信頼関係を維持しながら「子どもの最善の利益の実現」「子どもが元気に登校できる環境を回復する」ためのサポートを目的とするものでなければなりません。
 最終的には、学校と保護者、子どもとの関係の中でしか解決できないものです。
(
峯本耕治:大阪弁護士会弁護士。大阪府教育委員会スクールロイヤー事業スーパーバイザー、NPO法人TPC(教師・親・子どものための)教育サポートセンター代表)

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子どもが納得するように叱るには、どのようにすればよいか

 「叱る」行為には、相手を否定する感情が指導するなかに含まれている。だから、できるだけ、自分の感情をださないようにすることが求められる。
 何かがあると、叱らなければならないときがある。なぜ起きたのか、本人に説明させることがまず必要だ。たとえどんな理不尽な理由であったとしても、まずは言い分を聞くことだ。
 言い分も聞かずに、叱ることは避けるべきだ。行動の裏の本人の理由を見きわめてから叱るようにしたい。
 一日の中で、叱る場面はしょっちゅうある。つい、言い分も聞かずに叱ってしまいがちだ。現場の教師にけっこうありがちなことである。叱ってしまってから、正当な理由があったことがわかってしまっては、子どもに不信感をもたれてしまう。
 子どもの言い分を聞くときは、本音を話させるようにしたい。そうしないと、表面的な解決になり、納得した結論に至らないからだ。では本音を引き出すにはどうすればよいか。
 それは、子どもの感情を否定しないことだ。「だって、あいつ頭にくるんだ」といった、どんな不条理な発言だったとしても、まずは「そうなんだ」と受けとめる。
 否定したりすると、次第に本音を話さないようになってしまう。本音がでないと、本当の意味での指導ができなくなってしまう。
 子どもの理由を聞いたら、教師の見方を伝える。たとえば「あなたもふざけて叩かれたら嫌だよね」と、嫌な思いになることを理詰めで話す。
 その後で「算数の勉強すごく頑張っていたし、友だちに親切にしていたのに、とても残念だね」と、教師がその子を肯定的に見ていることを伝える。
 叱られていると、子どもは自分の全人格を否定されているように感じるものだ。そうではなく、教師は行動を叱っているのだ。そのことを伝えるためにも、その子のよさを理解していることをアピールする必要があるのだ。
 そうすることで「あ、先生は自分のことをよく見てくれている」と感じるようになり、より指導の言葉が深く入るようになる。
 そして、これからどうしたらいいかを問う。子ども自身に考えさせ、行動を選択させることが大切である。子どもが「嫌だと思っても、叩かないようにします」など、自分で決めたことを評価したい。
 これは子どもの感情を受けとめてやったうえでないと効果がない。そうでないと、うわっつらだけの反省で終わってしまう可能性が高い。
 叱る場合は、感情を抑えて行うべきだが、悪質なケースは、語気を強めて迫力を出して叱り、話すことも必要である。時には、教師の怒った顔を見て、子どもが自分のしたことの重大性を認識できるようにさせる必要がある。
 叱った後は、その子の変容をしっかり見届けます。フォローすることで、「叱る」で終わるのではなく「ほめる」で終わることができます。「できるようになったね。えらい」とほめるのである。
(
佐々木 潤:1962年、宮城県生まれ、宮城県石巻市立公立小学校教師。授業づくりネットワーク・東北青年塾スタッフ。お笑い教師同盟・東北支部長。笑えて,知的な社会科授業を目指して実践研究、講演などを精力的に行っている。「一番受けたい授業」(朝日新聞社編)で全国76人の「はなまる先生」の一人に選ばれる)

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わが子が四月に、はずれ先生にあったとき、保護者はどうすればよいでしょうか

 四月は喜びと失望の季節です。この世に先生という職業があるかぎり、はずれの先生にあたる確率は必ずあります。変な先生にあたったら大変と思いますよね。
 はずれの先生にあたれば、はずれた事実は変えようがありません。だから、これをどう親が受け止めるかが解決の近道です。
 ある親子は、子どもが親に先生の悪口を言うので親も一緒になって悪口を言っていました。別の親子の親は先生のことを「怖いけど、ベテランで、よく指導してくれている」と思っていました。一年後、親が子どもの前で先生の悪口ばかりを言っていた子どもは伸び悩んでしまった。
 このような話はいっぱいあるのです。じつは親の対応、先生とのつきあい方ひとつで、子どももガラリと変わります。子どもは親の影響をそのまま受けます。わが子の大事な一年を無駄にしないためにも、ぜひ「先生」とのつきあい方を知っていただきたいと思います。
 はずれてしまった子どものために、具体的にどう対応すればよいのでしょうか。
(1)
子どもが先生と相性が悪いとき
 子どもが先生と気が合わなかったら、本当に困ってしまいます。相性の悪い先生へは「どうもうちの子、先生にほめられると、うれしいみたいです。先生のこと好きみたいです」と、言いたくなくても、声に出してみましょう。
 最近の先生はすぐ先生のせいにされることが多く、ほめられたり、みとめられたりすることが少ない。人は皆、認めてもらいたがっています。きっとあなたを見る目が変わるはずです。
(2)
新任の先生
 新任で目が泳いでいかにも自信なさそう。「未熟者ですが」となんて言われたら「うちの子が犠牲になるのなんて」と思ってしまいます。
 新任の先生は、先生になりたくて念願の教師になったのですから、熱意があり何ごとにも一生懸命です。喜んで実験台になりましょう。若い先生を育てるんだと応援しましょう。親が温かな目で担任を見ていると、子どもも先生が好きになり、きっとうまくいきます。
(3)
めだつ子どもだけを相手にする
 
「えこひき」している意識が先生にはありませんが、「はい、はい」と目立っている子を指名したり、問題行動する子を相手にしています。おとなしい子は忘れ去られています。
 先生の意識を子どもたち全員に向けるように、保護者から働きかけるようにします。「おとなしい子も、かまってもらいたいと思っています」と率直に伝えましょう。
 
教師は気を引く行為をする子に対しては無視するようにします。かまってもらえなくなったという体験をさせることが必要です。態度が悪いと叱るばかりでなく、できたことをほめることで望ましい行為を強化できる先生は、はずれではありません。
(4)
子どもの人格を否定する
 行動だけを叱ればいいのに「鉛筆を忘れるなんてダメな子ね。いったい何をしに学校に来ているの」と、人間、丸ごと否定します。これでは、子どものプライドはズタズタです
 先生を教育するつもりで、先生の前で保護者が手本になり「鉛筆忘れたら、自分が困るよね。明日からは気をつけようね」と、大きな声で見本を見せるつもりで言いましょう。
(5)
謙虚すぎ腰が低すぎる
 自信なさげな先生の心の隅には「優しい先生と思われたい。子どもに嫌われたくない」「子どもを叱って、マイナスの評価をされたらどうしよう」「保護者の信頼を失いたくない」という気持ちがあります。
 一人で言うのではなく、保護者会で「先生はとても優しく穏やかで、私たち親も喜んでいます」と、まず先生を評価しましょう。
 そして「もう少し厳しくしてくださるとうれしいです。授業態度が悪いときは、どんどん叱ってください。親はそれを望んでいます」と、大勢の意見として伝えましょう。後押しされると先生は少しずつ変わります。
 保護者も家庭内での今までのしつけを反省する姿勢も大切ではないでしょうか。
(6)
単なる子ども好き
 愛にあふれている先生に対しては、我慢させたり、厳しいことを言って子どもを育て、自立させる使命を負っていると自覚してらうことが大切です。厳しさも成長につながることを伝えましょう。
(7)
お友だち先生
 言葉づかいも態度もお友だち感覚。先生自信もフレンドリーと錯覚していて自分が先生らしくないことに気づいていません。最初は親しみやすい先生として人気が出ますが、一時的なこと。だんだんクラスがまとまらず、学級崩壊の道へまっしぐら。
 友だち同士のなれあい感覚は、信頼関係ができ、良いクラス運営ができるという間違った思い込みを覆してあげましょう。
 「先生、子どもが泣いてもいいので、授業態度が悪いときは厳しくしつけてくださってかまいません」と威厳をもって、けじめをつけて接してほしいことをしっかり伝えましょう。
 教師は、保護者望みとは逆行していた自分のやり方にハタと気づかされます。そして、人生の師として時には優しく、時には厳しくできる先生に育っていくことでしょう。
(
立石美津子:1961年大阪市生まれ、石井勲氏のもと、幼稚園・保育園に漢字教育を普及する。パワーキッズ(教室名 エンピツらんど)を創業し、幼児教室を経営。著者、講演家として活動)

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子どもの心をつかむ話し方のうまい教師になるには、どのようにすればよいか

 国語教育で有名な大村はまさんは「私は、ちょっとした小言にも話の構成を考えて話します」と言い「はじめは、こんなことばで、中にこんな例を入れて、終わりはこんなことばで結ぶ、と大まかな構成ですが、こんなことを考えて小言を言います」と述べています。
 このことは、いかに話というものを大切にされているか、教師としての生き方をいかに厳しくとらえられているかを感じさせてくれる。話ことばを愛し、話そのものを非常に大切にしている姿勢がひしひしと迫ってくる。
 話の準備と話す技術と能力の総合的な力が「話すということ」なのだと感じるのである。自分の話を聞いてくれる相手を尊重するからこそ、話す力を身につけようとするのである。準備していない話、出たとこ勝負の話は、相手を甘く見て、バカにしている現われである。
 私は見たり(テレビもふくむ)、聞いたり、読んだことで、これはと感じたことは、必ずメモする。メモはその日のうちに記録する。メモを見ながら、自分の考えを書いてみる。こういう習慣が私の話の準備になっている。
 上手な話し方は、話の内容の適否が大きくひびいてくる。子どもの理解力、生活経験によって話の中身を調整する必要がある。
 話すことは、声のひびき、韻律、抑揚、全体の調子、話し手の表情、ちょっとした身ぶり、話す人の人柄が醸し出すもの、その場の雰囲気、そういうもろもろの全体が、聞き手にイメージをつくらせると思う。
 好ましい話は、聞き手の身になって話すということである。聞き手にとって好ましい話になるためには、自分が人の話を聞くときに、どんな話が好ましいのか、うんざりなのかを調べるとよい。好ましい話のためのポイントは
(1)
短いこと
 長い話はくどくなる。好感が消える。もう少し聞きたいと思うところで止めておくのが、いい話のコツである。話に熱が入ってくると、自分本位になる。聞き手はそれを感じて鼻持ちならなくなる。
(2)
わかること
 自分の言いたいことは、これとこれだと、自分でわかることが大切である。その確認のために、話す原稿を書く。話の全体構成、筋書き程度はメモとして持っていていいが、原稿を読み上げる話し方は、聞き手に訴える迫力がなくなる。
 
「話すときは、書くように話せ」と言われるように、話すことばは自分のハートにあり、それを文章にしていくつもりで語ればいい。
 自分が考えながら話すとよい。それが聞き手にとって考えながら聞くということになって、自然な「話の間」が作られることになる。
(3)
言いたいことは三つ以内にしぼる
 多くの先輩たちが経験的に話の要点は三つ以内がよいと指摘している。話し手が三つ以内にしぼり込むことで、焦点化できる。それだけ訴える力があるといえる。生徒指導のときの話に迫力がでる。
(4)
単文の積み重ね
 わかりやすい話は、単文の積み重ねになっていることが多い。単文は「今日は寒い」というような主語と述語が一回だけである。わかりすさ、テンポの明快さが現代感覚にマッチする。
 教室での話し方は新聞の文章を身につけるとよいといわれる。自分の話を録音してみると、自分の癖がわかる。
(5)
韻律を大切にする
 日本語独得の七五調とか何かの標語など、語感のひびきに留意し、心地よいことばを使うようにする。例えば「ゆずり合う、心のゆとりが、身を守る」
(6)
論理性がある
 生徒に語るときは、比喩など交えてわかりやすく話したりするが、だからといって論理にはずれるようであってはいけない。
(7)
声の質、歯切れがよい
 子どもたちの耳に心地よく受け取れるように、教師は自分の声を変えていこうとする姿勢が大切だ。アンウンサーが毎朝、口を大きくあけて、はっきりした大きな声でアイウエオ・・・・と体操するという。これは歯切れをよくする訓練であると聞いた。
 自分の気にいった文章を読み聞かせるつもりで、感情をこめて読み、録音して聞いてみると訓練になる。
(8)
腹式呼吸で、音声にボリュームとひびきを
 吐く息の量が少ないと音声にもゆとりがなく、貧弱でボリュームがでない。話す前は数回腹式呼吸して、息を十分吸い込むようにする。
 腹いっぱい息を吸い込み、ゆっくり吐きながら話をするようにする。ひびく声が出せる。力強い張りのある話を引き出すことになる。
 聞いていてすてきだなと感じる講演がある。その人が話す調子を真似て話してみる。間の置き方、息つぎなどを体験してみる。こういうことも話す練習になる。
(9)
話すとき、話し手と聞き手がともに考える
 何かを話すとき、聞き手の子どもとともに考える。考えながら話し、話しながら考える。そうすると自然に「間」が出てくる。
 この「間」によって、ともに同じ歩調で考えることになる。教師が何か教えてやるという態度でなく、話し手の教師も常に学んでいるという態度である。
(10)
切れ味の鋭い話
 話が一本調子でなく、山あり谷あり平たんな道ありで、適当な変化があることが望ましい。話の筋にも緩急の変化があること。そして話の筋が明快なことが大切である。
 スカッとした感じ、爽快な感じが残る話がいい話である。
(
関根正明:1931年生まれ、小・中学校教師、指導主事、東京都公立中学校校長、大学助教授を経て、元山形大学講師)

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保護者の協力を得るには、教師はどのように態度を変え、つきあえばよいか

 教育は保護者とともに進める仕事である。両者が手をとりあって、仲よく教育しなければ、子どもの発達は保障されない。教師と保護者は「共育」のパートナーなのである。
 しかし、「共育」はそう簡単にできなくなった。教師と保護者との関係は最悪の状態にあるからだ。保護者の教師不信は70%に達している。原因は保護者の学校観、教師観の変化に対して、学校や教師が十分に対応していないことも原因のひとつである。
 こうしたなかで、教師は、どのように保護者と連携するか、その知恵が問われている。
 教師は、保護者のことを「親のありかたを棚あげにして、子育てがうまくいかないのはすべて学校・教師の責任だとする親」 「身勝手な親」「非常識な親」「わが子を正しくとらえられない親」などが増えてきた、といった言い分はあろう。
 しかし、声高に保護者を追及したところで、教師不信に輪をかけこそすれ、事態を変えることにならない。まずは、教師の保護者に対する次のような態度を改めることから出発したい。
(1)
専門家的態度
 教師は教育の専門家だから、素人の保護者はよけいな口だしをするな。教師にまかせておけといった態度。
(2)
啓蒙的態度
 一段高いところから、教えてやるのだといった態度。
(3)
事務的態度
 木で鼻をくくったような、誠意や愛情のない、冷ややかな対応。
(4)
権威的態度
 いばった態度。問題行動があれば、保護者を学校に呼びつけ、頭ごなしに親の責任を追及する態度。
(5)
独善的態度
 保護者は学校に協力するのはあたりまえだとする態度。原因は保護者のせいだとすることから生まれるのだろう。
(6)
脅迫的態度
 学校の方針や教師のいうとおりにしないと成績や内申書にも影響して、子どもの進路や指導に責任はもてない。どうなっても知らないぞ、といった態度。
 
「保護者は苦手」という教師が多い。教師が保護者を敬遠していたら、両者の関係改善は遠のくばかりである。そこで、次のようにつきあってみたらどうだろうか。
(1)
保護者と会う回数を増やすようにする
 保護者の本音は、教師と仲よくしたいのである。その願いにこたえるには、教師と保護者がしばしば顔をあわせて、人間的な接触を深めることである。
 教師も保護者も、共に交わる能力が衰えてきているから、会う回数でこなしていかなければ、相互理解は深まらない。学級通信だけ配布していれば、保護者との協力関係が進むというものではない。しばしば顔をあわせていくと、両者をへだてる垣根も除かれていく。
(2)
保護者と率直に接するようにする
 若い教師のなかには、保護者の前に出ると「つっこまれないようにしよう」「親が感心することを言おう」「ボロを出さないようにしよう」「バカにされないようにしよう」と、そんなことばかり気にしていることが多い。
 そうではなく、もっと率直に接することである。
(3)
教師くささを捨てる
 ごく普通の社交的儀礼にのっとって、交際しようとすればいいのである。世間知らずの教師では、いまどきの保護者と楽しく談笑できないだろう。
(4)
教師の接し方で保護者の態度は変わる
 教師は保護者に子どもの悪口はいわない。保護者は教師からの、子どもの非難にうんざりしているのである。
 教師が保護者に話をするときは、子どものなかにあるよい面(考えや行為など)を知らせるようにする。
 そうした、子どものとらえかた(人間観、教育観)が保護者を変え、教師への信頼を回復させるのである。
(5)
保護者といっしょに考えていく
 教師が子どもの指導で困っていることは、じつは、保護者も困っていることが多いのである。だから、保護者の責任を追及してもはじまらない。
 保護者といっしょに研究しながら「どうしたら子どもがよくなるか」をさぐることである。
 こうやって、つきあっていくうち、お互いの気心も知れて、保護者の教師への不信感もうすらぎ「教師に隠しておきたかったこと」も「先生だけは話しておく」というようになるのではないか。
 そして、何よりも、教師の指導が成立する条件が整うことになる。保護者が「いい先生だ」といえば、子どもも「いい先生だ」となりやすいのである。
(
家本芳郎:19302006年、東京都生まれ。神奈川の小・中学校で約30年、教師生活を送る。退職後、研究、評論、著述、講演活動に入る。長年、全国生活指導研究協議会、日本生活指導研究所の活動に参加。全国教育文化研究所、日本群読教育の会を主宰した)

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教科書をどの子にもよくわかるように、まちがいなく教えていくことが授業だろうか

 私は教師になって最初の頃、教科書に書いてあることを、どの子にもよくわかるように、ていねいに、そしてまちがいなく教えていくことを授業と考えていたようである。そのことに何の疑問もなく過ごしていた。
 私は、授業とは「子どもに問題を投げかけ、考えさせ、発表させ、助言し、補足し、励まして」やっていけばいいのだと信じきっていたようである。
 そういう私が、授業について「国語の短い文章を、なぜ、何時間も時間をかけて教えねばならないのか」と、はじめて問題意識をもつようになったのは、一年目が終わろうとする頃であった。
 「『これは、こういう意味だ、忘れないように覚えておくんだぞ』と、あっさり教えることは、なぜいけないのか」「なぜ、発問とか助言だとか『遠まわりなやりとり』をしなければならないのか」という問題である。
 私は学年主任に質問した。主任は「きみ、国語の読み取りかたは、読みとり『方』なんだよ」と「方」に力を入れておっしゃった。私の頭に、いなずまのような光が走り「ああ、そうだったのか『方』だったのか」と、すべてが一気にわかったような気がした。
 というのは、ちょうどその頃私は、国語教育の大家の先生のまねをして「さるも木からおちる」という諺を教材に子どもたちがどのように読みとるか授業で調べたことがあったのである。
 
「さるが木からおちたということである」という子どもが半数以上あった。「も」という助詞を無視して読んでいるのである。 
 ところが「も」に注目した子どもの中にも、
「さるは人まねがうまい。それで、人が木からおちたので、さるもまねをして木からおちた」
「その木は、さるすべりの木だった。それで、木からおちた」
「その木は雨あがりでよくすべった。それで、木からおちた」
「木のぼりのうまいさるでも、ゆだんをしていると木からおちるということだ」
「さるにかぎらず何でも、あまりいい気になってゆだんしていると、失敗するということだ」
というように「十人十色」の読み方をしていたことを思い出したからである。
 まず、子ども一人ひとりの「読みとり方」を確かめる。
 
「さるが・・・・」と読んだ子どもには「さるも・・・・」と読んだ子どもをぶつからせていく。
 それによって「さるが・・・・」の子どもが「も」に目ざめていく。「さるもまねをして木からおちた」と読んだ子どもが得意になる。
 それに対して「きみたちは得意になっているが『おちた』じゃなくて『おちる』になっているよ」と批判する子どもがあらわれてくる。みんなが「おちる」になっていることに目ざめていく。
 このようにして、表現を手がかりにして、どの子も、客観性のある読みとり「方」ができるように練りあげていく仕事が、読解力を育てる授業というものであったのだ。
 したがって、その意味を与えてしまってはいけなかったのだ。私はすべてが、うなずけた気がしたのである。
 それといっしょに思い出したのは私が教育実習生のとき、国語の授業で「わが国民性の長所短所」という授業をした。そのときの批評で
「東井くん、国語の授業は修身(道徳)の授業とはちがうんだよ」と言われたことを思い出した。きっと、国語の教科書に書いてある中身を、どんな子どもにもよくわかるようにと考えて、一生懸命に教え込もうとしていたのであろう。
 それに対して「わが国民性の長所短所を、どの子にもよくわかるように教えることよりも、子ども自身が、それをわかりたいと考え、一字一字をも大切にしながら、わかりとっていこうとする、そのわかりとり『方』をこそ、練り鍛えなかったら、国語授業とはいえないんだぞ」と教えられたのにちがいない。
 ということも、いっぺんにわかった気がしたのである。
 子どもの「方」からスタートし「方」を練りあげる仕事は、国語の授業だけのものであろうか。算数にも、理科にも、社会科にも「方」がある。十人十色のそれがある。その「方」を見きわめ「方」から出発して「方」を練りあげていく。それが「授業」というものだ、といえるのではないだろうか。
 授業の創造ということは、テクニックの追求ではない。教師が古い自分を切り捨て、新しい自分を生み出していく、創造的な仕事である。授業に既製品はない。
 子どものころ受けた授業の形だとか、どこかで見た模範授業だとかが頭を縛って、それが授業を個性も生気もないものにしている。教科書に出てくるから教えるという安易さが、授業を空回りさせ、人間を駄目にする授業をはびこらせている。
 教科書にあることを、にぎやかに話し合わせても、願いもなく、人間そのものを根本からゆさぶるものでなければ、授業にはならない。
 教科書にあるのは素材である。それが生きたものになるかどうかは、教師に願いがあるかどうかにかかっている。願いがぼやけていては授業にならない。願いに、まずわが身を燃え上がらせる。
 話術をまねしても駄目、板書を写し取ってまねしてもだめ。技術というものは、それを使う人のやむにやまれぬ願いが具体化されたものだから、その願いを学ばないで形骸だけをまねても駄目になるのは当然。
 願いや心だけでも駄目。技術だけでも駄目。この二つが一つにとけて力になる。
 授業とは直接関係ないように見える教師と子どもの信頼関係、これなくしては授業も成り立たない。
(
東井義雄:19121991年、 兵庫県生まれ、小・中学校長。ペスタロッチ賞を受賞。生活の中から問題を解決していく学力を育てた「村を育てる学力」が大きな反響を呼ぶ。生活綴り方教育の代表的な実践家)

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「人の長所を観察する、考える」習慣で、壁を乗り越え、新たな道が開けた

 身長が低いが全日本女子バレーボール選手代表として活躍しました。つねに続けてきたのは「考える」ことです。そのおかげで、いろいろな出来事を乗り越えてこられた気がします。
 バレーボール選手として最大の壁は、159cmという低い身長でした。身長が高いほうがバレーボール選手として有利です。高校卒業後も、どこのチームからも声がかからず、実業団入団後も控えの選手であることが長らく続きました。
 それでも、あきらめずにいられたのは、つねに「そうであるならば、どうする」と考えてきたからです。バレーボール人生を通して続けていたのは「考えることから、逃げない」ことです。「身長が低いから通用しない」ではなく
「身長が低くても通用するためには、どうすればよいか」
「何を頑張れば、世界で通用するか」
「チームの中で、自分の居場所をどうつくるか」
といった、「できない理由」ではなく「できる方法」を考え、あらゆることを実践してきました。
 考えないほうが、生き方としては楽だし、簡単です。考え始めれば悩みも出てきて、悩んでいる間は苦しい。しかし、周囲の助言も聞き入れながら、考え続けていると、必ずいい道がひらけてくるものです。
 考えるなかで、もう一つ日常的に行ってきたことは「観察」です。これは「セッター」(攻撃する選手に向けて球を上げる)という私の役割が影響しています。
 セッターは、いわばチームの司令塔です。仲間の選手にサインを出し、球を攻撃する選手に向けて上げるという重要な仕事です。チームの力を最大限に発揮するうえで、各選手の特性や性格をよく理解していなければ、この仕事はつとまりません。
 選手の性格や考え方などはさまざまです。気の合わない人も必ずいます。しかし、一人ひとりをじっくり観察すれば、どんな選手も長所や強みは必ず見えてきます。
 そのうえで「この選手の強みと、あの選手の強みはこんな風に活かせないか」と考えるようにする。長所をパズルのように組み合わせ、シミュレーションすることを続ける。
 このように考えて練習したことが成果につながり、少しずつ評価を得ることができたのだと思います。
 選手たちの長所を探せば、新しい発見ができて、いい関係が生まれる。チャンスが広がるし、人間関係も豊かにしてくれる。
 勝ために始めた「観察」は、その後、すっかり私のクセになっています。
 頑張っても報われないことは、いくらでもあるでしょう。しかし、努力は必ず人生のどこかで「何か」につながります。自分自身が強くなれたり、成長できたり、周囲の信頼を得られたり、新たな道が開けたりします。
 2012年のロンドンオリンピックでは銅メダルを獲得することができました。
 コツコツとした努力は、いたって地味な繰り返しで、その時は意味があるのか、ないのかわかりにくいときもあります。しかし、実は一番、その人の人生を変えるものだと思います。
(
竹下佳江:1978年福岡県生まれ、元全日本女子バレーボール代表キャプテン。2012年のロンドンオリンピックで銅メダルを獲得。女子バレーボールチーム「ヴィクトリーナ姫路」監督)

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新任で一番大変な学級の担任になり、崩壊の日々からどのようにして生還したか

 私自身、体がとても大きい。子どもが大好きで、大学四年の二月に産休補助講師として入ったクラスでも、子どもたちと仲良く楽しくやれた。
 大学を卒業してすぐに学校で一番大変なクラスと言われている小学校三年の担任になった。子どもたちが探りを入れた結果、「この先生ならいける」と、子どもたちは思ったのであろう。
 一番やんちゃなAくんは、私の話の途中で口をはさむようになる。私が注意をしても、聞こうとしない。逆に「うるさいな。いちいち注意するなよ」と、いうようなふてくされた態度をとる。
 見かねた子が「静かにしいや」と、注意したが「うるさいんじゃ」と罵声を浴びせた。でも、私は何もできなかった。「あ~、情けない」という雰囲気が子どもたちの間に流れた。
 学級の状態は、授業中のおしゃべり、私に対する暴言、批判。子どもたちのいじわる、いたずら、暴力がおき、教室から飛び出していく子もいる。
 女子たちは勝気な子が大勢いた。「この先生あかんわ」という雰囲気が子どものなかに蔓延していった。小さな町の小学校のことである。担任の様子は保護者の間にさっと広まる。
 五月の授業参観は悲惨であった。親が見ているにもかかわらず、私に向かって「デカ」「あほ」などと叫ぶ。親の前で叱るのもどうかと思い、そのままにしておく。授業のほうもうまくいくはずがなかった。
 参観後の懇談会では「先生のことをバカにしている」「まったくなめきっている」「もっとしっかりしてもらわないと」と、つるしあげの状態だった。管理職に抗議している親もいた。
 つらかった。本当につらかった。休み時間は職員室に逃げ込んだ。「死んだら、楽になれるな」と思ったこともあった。
 新任研修に出かける日は、ホッとできた。よき先輩のアドバイスを受けながら、少しずつ自分を変えていった。
 
「教師は統率者である」と言われる。当時の私は「統率者」という言葉さえも知らなかった。
 ある日、Aくんに厳しく注意すると、教室から飛び出していった。「途中で事故にでもあったらどうしよう」と、私はもう全身の力が抜けてしまった。
 そんな私に、ある先輩が「きみは、子どもに振り回されている。子どもを振り回すぐらいでないとダメだ」と言われた。そう言われたことで「私自身がクラス一のガキ大将になってやろう」と決意した。
 私はガキ大将ならだれにも負けない。小さい頃から、やんちゃ坊主の頭だった。
 
「先生の言っていることが正しいんだ。このクラスのルールなんだ」という気構えで、子どもたちと勝負していった。
 少々反抗されても「何を言っているんだ。オマエたちの言っていることは筋が通らない。俺の言っていることのほうが絶対に正しいんだ」と思えるようになってきた。
 今から考えると「何て無茶なことを」と思ってしまう。でも、こういう構えを持つことによって「このクラスを創っていくのは俺なんだ」という自覚を持てるようになった。
 もちろん、これだけではない。「ガキ大将」として、子どもとしっかり遊ぶようにした。Aくんも私と遊ぶようになった。
 子どもたちにも、私の指示、考えが、受け入れられるようになった。統率者としての自覚。そして、自分の得意なチャンネルでの勝負がとても大切なことであったと思う。
 当時の私には、子どもたちや保護者と強いパイプを作ることは無理だった。そこで、家庭訪問を頻繁に繰り返した。特に「クラスを引っかき回す中心人物、この子ならクラスを立て直す手助けをしてくれるだろう、俺の気持ちをわかってくれるだろう」と思える子どもの家には、しょっちゅう行かせてもらった。
 言いにくいことでも、しっかり伝えておかなければならないこともある。そのためには、話を受け入れてもらうのに、教師と保護者はいい関係でなければならない。
 そこで、問題を起こす子の家には、その子のがんばったこと、伸びたこと、友だちへの優しさなど、ほんの些細なことでも、ほめるみやげとして、子どもたちの家に足を運んだ。
 勉強が得意でない子には、夜遅くまで一緒に勉強した。家庭訪問のはしごをしたときもよくあった。
 子どもにとって、家に来てもらって、ほめられたり、一緒に勉強することは、とてもうれしいことらしく、次の日、学校で自慢する子がたくさんいた。私は「教師は刑事と一緒で、足で稼ぐんだ」と真剣に思っていた。
 
「クラスがこんなふうに良くなっているのですよ」と、いうことをクラス全体の保護者に知ってもらいたい。そんな思いで学級通信をたくさん出すことにした。楽しいこと、ほめたいこと、成長したことを掲載した。
 そして何よりも楽しい授業を作ろうと心がけた。跳び箱の本を読んで試してみた。クラスの泣き虫の女の子が初めて跳び箱を跳べた。本人も、周りの子も見る目が変わった。そして何よりも、子どもたちの私を見る目が変わった。
 このような実践で、自分で荒らしたクラスを、自分で立て直すことができた。三学期になると、毎日が楽しかった。持ち上がりできなく、悲しくて涙がこみ上げてきた。
(
辻 弘一:京都府公立小学校教師、優秀教職員表彰、教頭を経て宇治市教育委員会総括指導主事)

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子どもたちが教師の話を聞くようになるには、どうすればよいか

 文章を読むときは何回も読みなおしたりできるが、話し言葉は立ちどまれない。耳にわかる、やさしい言葉で話すようにしたい。これは初歩的なルールである。
 先輩教師が「教師は泣かせる話ができなくては、一人前とはいえない」と言っていた。たしかに、話の中味がよければ、子どもは身をのりだし、涙を流して聞いてくれる。しかし、それには話しかたも大切である。
 感動的な話だから、感動して聞くだろうと思ったら大まちがいである。どんなにすぐれたテーマでも、子どもの感情や感覚に根を下ろさないとだめである。感動的な話は、その感動に共鳴するように、感情的に話さなくてはならないのである。
 例えば「タバコはやめなさい。健康を害します」という話をしたら「タバコは怖い。ぶるぶるっ」という感情を植えつけなくては、ほんとうに話をしたことにはならない。
 子どもに聞かせる話をする最大の秘訣は、子どもに疑問を出し、聞けばいいのである。たとえば
「日本の子どもはほんとうに幸福なのでしょうか?」「たしかに腹いっぱい食べている。欲しいものは買ってもらえる。だが、心は病んでいる」
 というように、最初に疑問を提出し、以下、論をすすめる方法である。「・・・・・か?」と投げかけられると「はっ」として集中する。ときどき、問いかけながら話を進めてみるとよい。
 
「みんなは、どう思う?」と問いかけながら、話をすると、話に変化が出てくるし、子どもも「うむ」と考えたりして、子どもが参加する話になる。
 子どもを見ながら話すようにするとよい。
 それは、子どもの表情から、自分の話がどれだけ、理解されているかを見るためである。「わかったかな」といって、子どもたちの顔を見る。すると「わかった」「わからない」「とまどっている」顔と、いろいろな顔が見える。
 子どもの顔を見ながら、教師の話のしこみ具合を見るのである。「あきてきたんだな」と見えたら、ジョークを飛ばして笑わせる。脱線話をしてみる。そうして一息ついて、次にすすむ。
 このように、教師は子どもの表情、その身体に起こるすべての変化を身ながら、その変化が伝えるメッセージを読みとりながら、その変化に対応した話をしなくてはならない。
 それは、教師が自分の身体の全部を使って話しているように、子どももその身体全部を使って、教師の話を聞いているからである。そのことを忘れると、教師の話は一方的になり、子どもに聞かれない話になる。
 子どもに拒否される話し方は、話が長いと感ずる話である。それは、話が平板だからである。話にメリハリをつけることである。話に変化をつけるには、つぎのように留意して話すといいだろう。最初はぎこちなくても、やがて、話す内容に応じて、しだいに単調さから脱することができる。
(1)
大きな声、小さな声をまぜる。
(2)
強弱をつけて話す。力を入れて話したり、ときに、息をひそめて話す。
(3)
話の速度を変える。早くしたり、ゆっくりしたテンポで話したりする。
(4)
話のやま場、感動的な部分は感情をこめて話す。
(5)
「間」をとる。
 教師の話に反応し、子どもたちが頭の中で「なぜかな」と考える時間が「間」である。話の続きへの期待感を高める。日々実践的に試してみることである。また、同僚教師の話を聞き、間のとりかたを学習するといいだろう。
(6)
表情や身ぶり手ぶりをまじえて話す。
 表情も「目は口ほどにものをいう」ということわざにもあるように、言葉の一つととらえることである。話し方のどの本にも「笑顔で話せ」と書いてある。笑顔が、言葉に勝る力を発揮するからである。
 笑顔にも「明るい」「暗い」がある。教師の表情は、まず明るさが求められる。教師の明るい表情は「今日もめげずに、元気にいこう」というメッセージを子どもたちに伝える。元気のない子どもも、教師の笑顔をみて勇気づけられる。
 「大事なことが二つあります」というとき、指を二本、前に突き出し示す。子どもは、こうした教師の言葉と身ぶりによって、話の内容のイメージをふくらませたりする。なによりも、子どもたちは目を凝らし、聴き耳を立てて教師の話を聞こうとする。授業にも変化が出てきて、あきることはない。
 しかし、乱用すると、大げさになり、いやみ、押しつけがましくなったり、イメージをそこなうことがおこる。
 私は身ぶりがへたで、話のあとに、その録画を見せられて恥ずかしい思いをする。教師は、手話などを参考に、独自の、表情豊かな身ぶり語をつくりだすようにしたい。
 アジティション(社会運動で,演説などによって大衆の感情に訴えそそのかすこと)にもよく使われる自問自答法というのがある。たとえば
「それが、人間のすることだろうか、いや。血の通った人間のすることではありません」と話す。「いや」までは一気に強く、「いや」のあとに「間」をおいて、以下、やや声をひそめて話す。
「いや」のあとに間をおけば、子どもの心に「人間のすることではない」という否定的な方向での共感を呼びさますから、以下、その共感に寄りそうように、声をひそめて、あとを続けるのである。
(
家本芳郎:19302006年、東京都生まれ。神奈川の小・中学校で約30年、教師生活を送る。退職後、研究、評論、著述、講演活動に入る。長年、全国生活指導研究協議会、日本生活指導研究所の活動に参加。全国教育文化研究所、日本群読教育の会を主宰した)

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授業や学級が荒れ、苦労しないようにするには、自分を過信せず謙虚に先人の知識を学び新しい実践を

 私の同期の教師には「自分の経験や情熱さえあればで何とかなる」といった考え方をもっている人が多かった。中には「余計な先入観をもちたくないから」といった理由で、学校現場の現状や、教育技術を学ぶのをあえて止めた人もいた。
 その結果はどうなったか。学級経営と授業に嫌というほど苦労した。学級は荒れ、できない子はできないまま。担任をはずされた人もいた。
 謙虚に先人から学ぶことをせず、自分の力を過信した人は、どんなに優れた才能や人格があったとしても、子どもから反乱を受けていた。保護者からの信用も落としていた。
 中には、子どもに恐怖心をあたえ、何とか子どもを押さえつけている人もいた。
 狭い価値観で、狭い教育の中に子どもを閉じ込めてしまっていた。そして、子どもも保護者も不幸にし、自分自身もだめなものにしてしまっていたのだ。
 しょせん、自分一人の経験などたかがしれている。謙虚に先人から学ぶ姿勢があれば、もっと懐の大きな教師になれたはずなのだ。
 私は教師という職についたにもかかわらず、勉強しない人は傲慢であると考えている。
 教師という仕事はそんなに甘いものではない。学ぶべき知識と技能は山とある。
 それを学ぶことで、人を教え導くという畏れ多い仕事につく権利が、初めて与えられるのだと考えている。
 かつて、若い教師は多少力不足でも、大目に見てもらえる雰囲気があった。保護者も温かい目で教師を育てようとする雰囲気があったのだ。ところが、時代は変わった。古き良き時代は過ぎ去ったのだ。
 謙虚になって先人の知恵を学ぶ。そして、先人の知恵を一歩でも進化させていくことである。
 学校現場の事実を毎日のように目の当たりにしている教師こそが、先人に学び、先人の業績を改善できるのである。
 学校現場の実践から理論が生まれ、その理論が正しいかどうかを現場で検証する。教育は現場が第一である。
 先人の知恵を学び、その知恵を一歩でも前に進め、それを後世の教師たちのために記録として残していく。
 現場の教師はこの行為によって、子どもたちにとって価値ある教師に変貌していくのである。
(
大前暁政:1977年生まれ、岡山市立小学校教師を経て、京都文教大学の准教授(理科教育)。理科の授業研究が認められ「ソニー子ども科学教育プログラム」に入賞)

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保護者からの苦情の電話が鳴り止まないとき、どのようにすればよいのでしょうか

 保護者から学校への苦情は増え続けている。学校と保護者のコミュニケーション不足で悪循環に陥っているケースが多い。
 保護者からの苦情を処理するだけでは、苦情は減らない。対応する教師は疲労し、子どもに注ぐエネルギーが奪われる。子どもたちに目が行き届かず、子どもが荒れてゆくおそれがある。
 保護者からの苦情対応に追われる状態を解決して、保護者との信頼関係を回復しなければならない。保護者からの苦情の電話に困っている場合は、どうすばよいでしょうか。
 保護者からの苦情の電話が朝から夜遅くまで鳴り止まないようなときは、学校の保護者会で「大事なお話は電話ではなく、ちゃんと会ったうえでお話しをします」と確認し、保護者間での約束事にするとよい。
 そして、学校と保護者との話し合いの場を定期的に設ける。その代わり、電話だけの苦情は受け付けないようにする。もし電話での苦情があったときは「話し合いの場でお聞きし、お答えします」と伝える。
 もし電話が終わらない場合は「これ以上お話ししていると、授業に支障が出ます」と言って切って長引かせない。大事だからこそ直接会って話したいと、対話を求めてゆくのだ。
 一時的に苦情は悪化するかもしれないが、必ず収束する。この実践の成果や失敗などを確認し修正点を検討するための会議を週に2回、30分、持つようにした。
 実際に保護者対応で困っているいくつかの学校で実践してもらい、成果も出ている。
 対話のないところで、不満を言いだすと、あっという間に関係性は悪化してしまう。一方的な要求とか文句が、子どもたちにとってよい結果をもたらすことは、まずない。
 
「子どものため」にできることは、要求ではなく、話し合い、互いに協力することだ。
 これは、学校と保護者が、サービスの供給者と消費者のような取り違えた関係にならないための一つの方法である。
(
山脇由貴子:1969年東京生まれ。東京都児童相談所児童心理司。年間100家族以上の相談や治療を受け持つ臨床家。臨床現場の生の声を発信し続ける)


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いじめや暴力など被害を受けた子どもや保護者への対応はどのようにすればよいか

 いじめや暴力などが発生した場合、被害を受けた子どもと保護者に対して迅速かつ丁寧な説明をしないと問題が拡大してしまうので十分な配慮を要する。
 被害者の子どもに対応する場合、何より大切なことは、被害者の胸の内をどれだけ理解できるかであり、それに寄り添うことが大切である。
 被害にあった子どもの保護者の思いは、加害者が反省をし、今後一切このようなことがないよう約束してほしい。教師には、指導の在り方を改善し、指導を徹底してほしい、ということである。
 いじめの被害者が学級全体の中で被害にあうと、長期化しやすく、被害者に心的外傷や集団参加への消極性などが心配される。排斥されるのは自分のせいだから仕方がないとあきらめ、自己否定してしまっている場合もあるので、全力をあげて味方になることを伝え、安心感を持たせながら支援していきたい。
 また、仲間の中でいじめが起こる場合は、多数対1人の構図ができ、命令されたり、面白がったりなどがエスカレートしていき、悲惨な状況が起こってしまう。周囲からは遊び仲間と映ってしまい、状況が見えにくく実態の把握が困難である。仲間集団との決別をどう進めていくか複雑な心境でいることを念頭に置き、強く切り込んでいかなければならない。
 けんかの場合は、正当防衛やどちらにも原因があるなど、加害と被害を明確に分けにくい状況もあるので、事実の把握については慎重におこなうようにする。被害状況が明らかになったら「この部分については謝罪しなさい」などの細かな対応が必要である。
 被害者が恐怖感を抱いている場合もあるので、全力をあげて被害者を守ることを表明して支援したい。加害者の子どもにも、その背景要因を探りながら、情緒の安定やコントロールする力を育てる支援を展開したい。
 被害状況を保護者に説明し、支援を展開していく場合は、何よりも誠意を持って寄り添い、苦しい状況に共感しながら対応していくようにすることが大切である。
 被害状況が発覚したら、できるだけ早く第一報を入れる。他の子どもや保護者から聞いているのに、教師からは何の連絡もないと不信感を抱くことになるので、迅速に連絡を入れたい。
 被害状況は、電話などではなく直接、家庭に出向いて、顔を合わせて丁寧に説明する。その際、事実関係を丁寧に記録したノートを見ながら、時系列で、前後関係や人間関係の動きがわかるように丁寧に説明すると、保護者は「この先生だったら任せられる」という安心感が生まれる。
 正確に把握していない段階でも、躊躇することなく「このようなことがあるようです。詳しくはこれから調べます」と伝えておくと、保護者は随分と助かるものです。
 なお、その後の段階で、事実関係が動いていく場合もあるので「今の段階として、わかっていることですが、・・・・・」と前置きして説明しておくと、その後の変動にも対応できる。
 被害者の支援は、その子と保護者の辛さや苦しみに共感しながら、新しい段階へ成長していくために、どう寄り添っていくかという、人道的な関わりが強く求められる。
 被害者の心の傷は、癒えることなく、心の中にずっと残り続け、その後の集団参加や生きる力を弱めてしまうことがある。事を急いではいけないし、じっくり関わりながら、自己治癒力や自己成長力が動き出すことをめざして、支援を継続したいものである。
(
光武充雄:佐賀県公立小学校長)

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クラスが荒れても保護者に教師を応援してもらえるようにするには、どうすればよいか

 クラスに問題が多い時こそ、保護者への対応も難しくなってきます。トラブルが発生すると、子どもの問題行動を保護者へ連絡しなければなりません。
 教師の「家庭でも指導してほしい」「学校と保護者が一緒になって子どもを良くしていきたい」という願いは保護者にはなかなか通じません。
 それどころか、保護者は「教師に文句を言われた」と反感を持ち、教師不信になります。
 そこで、逆転の発想をします。学校からの電話を楽しみにしてもらえるように「子どもが成長したこと」を伝えるように心がけるのです。
 保護者は学校からの電話に身構えて、不安な気持ちで受話器を取ります。教師は開口一番「良いことがあったんですよ」と言うと、保護者は安堵し、胸襟を開いて話をしてくれるようになります。
 例えば「ちゃんと謝ったのですよ。成長しましたね」とトラブルを通して子どもが成長したことを知らせ、子どもの変容を強調します。
 その際、教師がどのように指導したのかを話します。教師の対応が子育てに役立つからです。
 また、教師が「子どもだから、つい手が出るんですね」というように、子どもの気持ちに理解を示すと、保護者は「それはダメです。どんなことがあっても暴力はダメです」と、保護者のほうから、わが子へ厳しい意見を言うようになります。
 教師が子どもを擁護するほど、保護者はわが子への厳しい指導を望むようになります。
 子どもの良さを伝え続けることで、保護者は教師に親近感と信頼感を持ちます。
 保護者がわが子からクラスの荒れを聞いても「あの先生なら大丈夫」と教師を批判せず、前向きな言葉で子どもの背中を押してくれます。保護者が教師を応援してくれるようになります。
(
城ケ﨑滋雄:1957年鹿児島県生まれ、千葉県公立小学校教師、教育委員会、不登校対策教員として不登校児童と関わる。荒れた学級の立て直し、小学校教師として教育情報雑誌「OF」等で情報発信している)

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崩壊した学級を担任して自信を失ったが、外部研修で考え方が変わり改善していった

 教師になって十年目、私は三度目の六年生担任となった。荒れている問題のクラスだった。自分の力でよいクラスにしてみせるという自負があった。
 
「悪い子」という先入観さえ持たなければ、子どもたちと心が通じ合えるはずだと、わりと軽い気持ちで教室に入っていった。
 しかし、私の安易な予想はみごとにくつがえされた。これほど教師を無視する子どもたちに出会ったことはなかった。私が教室に入っていって前に立っても、子どもたちは自分の席につかない。授業を始めても、子どもたちはしゃべりまくっている。10分でも20分でもしゃべり続けるのだ。
 私はあせった。しかし子どもたちは変わらない。これまでの経験から「詩」の授業なら集中すると思って、黒板に私の好きな詩を書き、発問してみたが、今度は全員黙りこんでしまう。こうしたシラけた授業が何日も続いていく。私は次第に、自分の指導力に自信を失っていった。
 子どもは自然の中で遊ぶのが好きだ。私が散歩に行こうと誘うと「めんどくさい」と言うのだ。それでも強引に連れ出すと、ノロノロついてくる。そのうち男子の数人はずっと遅れて、ほかの所へ行ってしまった。
 私は事態を冷静に受けとめることができなかった。私をばかにする行為と映り、腹を立てて叱った。
 もう一つ、びっくりしたことがある。A男がみんなから徹底的に嫌われていることだった。休み時間は一人きりで、廊下をうろうろしている。まわりの子はくさいとA男の机から自分の机を遠ざけていた。
 このような子どもたちを受け入れられずに、私は職員室で元気をなくし、教室ではイライラしていた。「担任が替わっても、全然子どもは変わらないね」という声が聞こえてきた。
 私は、あせって子どもを変えようとし、変わらない子どもたちを見て、またあせり、悪循環にはまりこんでしまった。
 四月、五月ころは、掃除をサボっていれば怒鳴り、大きい声で歌えと怒鳴っていた。授業で私と目が合うと聞いていないふりをする子、友だちになにか言われるのを気にして私をさける子もいる。
 そこで私は子どもたちに話した。
「みんな、自分をごまかしていたら、つまらないよ。自分が生きたことにならないよ。お墓に入るとき、さびしいよね。みんな、目立ちたがりになろうよ。先生は大学生のとき教授に怒られた。君はだれの人生を生きてるんだ!ってね」
といった経験談を話した。この話のあと、ボスのB男が運動会の応援団に立候補した。
 A男に対するいじめだけは許せない。どんなことがあってもやめさせたいと私は思った。私はまず、できるだけA男と話をする機会を多くし、よく話をした。掲示物をはがす手伝いをしてもらったりした。その様子を子どもたちは見ていたのである。
 私がクラスの子どもたちを徹底的に叱ったのは、五月の運動会の組み体操の練習していた時である。A男と二人組を組むことになったC男が練習中、A男のおなかを思いきりひじで突いたのである。
 私はかけつけて、思わずC男の胸ぐらをつかんだ。この出来事のあと、私は教室でみんなに話した。
「今日から、A男をバカにし、いじめる子がいたら絶対許さない。A男、イジメられたら、すぐ先生に言いなさい。私は言いつけは嫌いだけど、だれも味方がいないんだから」
この日からあからさまな暴力はなくなった。
 ある日、くじで席替えをした。私はみんなに話かけた。
「さっきC男がA男の席の近くになりそうだったので『あぶねぇ』と言った。私はそのC男の言葉はどうしても許せない。C男は自分がA男より強いと思っているかもしれない。でも本当にそうだろうか」
「A男は、これだけ毎日みんなにいじめられても泣かない。一日も休まない。がまんしている。これは、ものすごい強さじゃないか。このA男の強さが、みんなにわかっているだろうか」
子どもたちは、みんなシーンとして話を聞いてくれた。
 私は放課後、ボール使って子どもたちと遊ぶことにした。A男もみんなと遊ぶようになった。
 二学期が始まった。クラスの雰囲気も明るくなってきた。しかし、何度叱っても、どんな話をしても、子どもたちのイタズラやシラケがなおらないのだ。楽しいゲームを考えても、子どもたちはダラダラつきあうだけなのだ。
 私は疲れてきた。教室に行くのがおっくうになった。教師になって初めてやめたいと思った。そんな悩みをかかえたまま、ある日、セルフ・カウンセリング学会で渡辺先生の話を聞いて、やっと、次のことがわかった。
 私は四月から、私の「言葉、行動、態度」すべてが、子どもたちを変えなければという動機から生まれていたのだった。私のこだわりが、子どもたちの心を閉ざしていたのである。これがいけなかったのだ。
 このことがわかったとき、こだわりがなくなり、あせりがだんだんとれていった。落ち着いて、自分のなすべきことを見つけていこうと思った。子どもたちがどう対応しようが、私は明るく声をかけようと思った。
 私がそういう気持ちで「おはようございます」と声をかけると、子どもたちから、とても元気な返事が返ってきたのである。私に「さよなら」と声をかけて帰る子も増えてきた。もちろん私の返事の声もはずんでいる。私は毎日のあいさつが楽しくなってきた。
 A男をいじめていたC男を、私は好きになれなかった。ところが、私がよいクラスにしようとあせらなくなると、C男のあどけなさが目に入ってきた。私は自然と声をかけることも多くなった。
 子どもたちと気持ちが通い合ってくると、今度は授業も楽しくなってきた。気になることも待てるようになった。注意するときも、ユーモアが出るようになった。
 教材研究も、どう組み立てにしようかと、子どもたちと授業を楽しむための手段になった。失敗すれば、また次のプランを考えればいい。
 二学期も明日で終わる日、みんなで学校の近くの森林公園に遊びに行った。私の気持ちはゆったりしていた。「先生、何かしようよ」と男の子がさそいにくる。大縄跳びを始めた。私もいっしょになわとびをしながら、二学期を終えられる幸せを、しみじみ味わったのだった。
(
樫村 悌:1945年茨城県生まれ、元東京都公立小学校教師)

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保護者や地域からイチャモンが急増し教師は疲れ果ててしまっている、どうすればよいのでしょうか

 文部科学省が実施した教職員の勤務実態調査(2006)によると、一日の労働時間は11時間(休憩時間は9)、残業が2時間、自宅へ持ち帰り残業が35分です。給食の時間でさえ、教師にとっては貴重な業務時間。クラス全員分の連絡帳に目を通しながらメモし、片手でパンをかじる。これが現実の姿なのです。
 
「おまえとこの生徒がマンションの玄関でたむろしているぞ。早く来て注意せんかい」と言う電話がかかってきたら、教師たちはすぐに飛んでいきます。 
 
「うちの子、最近元気がないねん。学校で何かあったんやろか」という相談があれば、話し合いに出かけます。
 こうした目のまわるような日々は、教育にかける情熱や、子どもとふれあう喜び、そんな根っこからの教師魂が支えているのです。
 けれど、現実は過酷です。年間の病気休職者が8069人、うち、精神性疾患による休職者が4995(文部科学省調査 2007)という現実が、それをはっきりと物語っています。
 世間には学校に対する誤解や偏見がたくさんあります。学校知らずといえるかも知れません。教師たちの精神的なしんどさは、ギリギリのところまできています。でも、いまやそれも難しい状況になってきています。
 国からやつぎ早に降りてくる、場当たり的な「教育改革」は、確実に学校から活力を奪っています。
 さらに、学校はこの20年あまりの間、じつにさまざまな荷物を背負わされてきました。世の中のあらゆる問題の原因が、すべて教育にあるかのように吹聴する一部の政治家やマスコミによって「学校がやって当然だ」という意識が急速にふくらみました。
 たとえば「おい、四丁目の道路に猫の死体があるぞ。子どもの通学路だから何とかしろ!」
 かつて、家庭や地域社会で対応していたものが、すべて学校に求められる構図になっています。それらは本来、学校の守備範囲を超えた領域のはずです。もしも、断ろうものなら徹底的に叩かれる。
 まさに「学校はゴミ箱、教職員はサンドバック」なのです。そうした状況のなか、学校や教師のゆとりと保護者と向き合う気持ちは急速に低下しています。
 実際いま、学校はこれまで考えられなかったような要求の前にうろたえています。
「子どもがケガをさせられて休んだのだから、相手の子も休ませろ」
「担任の能力が低いから、うちの子が非行に走った。担任を変えろ」
「校庭の砂ぼこりで洗濯物が汚れる。なんとかしろ」
「息子が窓ガラスを割ったというが、割れるようなガラスのほうが問題だ」
 すべて本当の話です。学校にもどうしようもできない無理難題(イチャモン)の要求が急増しています。
 そもそも「善意の集団」というレッテルが貼られた学校は、必死になって対応をする。その結果、学校も教師もくたくたに疲れ果ててしまっているのです。
 消費者意識が急速にふくらんでいます。けれど、果たして教育はビールと同じような商品と考えてよいのでしょうか。
 教育においてサービスの受けてである子どもと保護者は、一方的な消費者ではないのです。子どもと保護者と学校は、いっしょになって教育の満足度を高め合うパートナーなのです。
 けれどいま、その事実がまったくかえりみられず、学校は消費の対象に変わろうとしています。保護者と教師のコミュニケーションが薄まり、消費者意識の高まりから間違った関係性がつくられようとしています。そこから保護者と学校のトラブルが発展していきます。
 教育の主人公は、子どもたちです。いまこそ、私たち大人がその事実をしっかり胸にきざみ直しませんか。保護者も学校も地域もまっすぐ子どもを向いて、手を取り合おうではないですか。
 そのためには、保護者と学校・教師が何らかの共同作業をすることです。まず、これが重要だと私は思うのです。
 連携するためには、まず学校の姿を保護者がきちんと理解すること。それが前提条件として必要なのではないか。
 そういう思いから、大阪大学の私の研究室が、大阪府吹田市の片山小学校にお願いして、保護者のための学校ガイドブックをいっしょにつくりました。
 ガイドブックの内容は、たとえば「学校でケガをしたときは、どう給付金を請求すればよいか」「忌引きは何日間欠席できるか」「通知表の評価は何を基準にしているか」といった、知っているようで知らない学校の情報を掲載しています。
 いまの学校は保護者のみなさんが通っていたころとは相当にさまがわりしています。その実像を知ることで親はまず安心するし、学校も知ってもらうことで教育活動をスムーズに進められる。なにより、学校ガイドブックづくりの共同作業の過程で保護者と学校の相互理解が深まり、ともに手をつなぐきっかけになるのではないかと期待しました。
 私たちはPTA、教職員のみなさんといっしょになってつくりました。「学校の先生って、楽な仕事だと思っていたけど、違うんですね」と、何かすることで、PTAのみなさんもはじめてわかったと言います。
 職員室はいつも戦場のようにあわただしい。教師たちはしじゅう走っていて、座っている姿を見たことがない。その現実を肌で知ったのです。近づかなかったら、偏見と先入観で誤解したまま終わったことでしょう。
 いまでは、学校ガイドブックは「学校ナビ」として全国にひろがりつつあります。大事なのは楽しんで作成するということです。つくらされるものではありません。「できたらいいよね」という気持ちで無理をしないことが大切です。
 学校につどう関係者(子ども、保護者、教師など)みんなで「いっしょに考えませんか」という双方向の交流が生まれるようにしていくことが大切です。
(
小野田正利:1955年生まれ、大阪大学教授。専門は教育制度学、学校経営学。「学校現場に元気と活力を!」をスローガンとして、現場に密着した研究活動を展開。学校現場で深刻な問題を取り上げ、多くの共感を呼んでいる)

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いじめの対応は父性型教師と母性型教師のタイプではちがうが、どう指導すればよいのか

 学校は協働の意識をもつことが重要だ。学校全体の規律維持のキーマンとなるのは父性型教師である。集団生活のルールを守れと訴える教師はどうしても父性型教師である。父性型教師がいなければ母性型教師は機能しえない。
 しかし、母性型教師は、父性型教師が取りこぼしてしまう子どもたちを救っている。母性型教師がいなければ、父性型教師もまた機能しえないと言える。
 いじめ指導は
(1)
事実関係を細かく確認し、いじめの事実の全体像を明らかにする。
(2)
確認された事実に基づいて適切に指導する。
(3)
これで解決と考えずに時間をかけてフォローとケアを心がける。
という三段階なのだと意識しなければならない。若い教師は経験がないゆえに、いじめ指導で初動を誤り深刻化してしまうことがある。
 教師には父性型教師と、母性型教師がある。父性型教師は社会的な規範で善悪の判断をし指導する。母性型教師はいま目の前にいる子どもの精神的安定を考えより添う。
 父性型教師のいじめの指導は、まず「いじめの事実」を確認しようとする。関係した子ども一人ひとりから事情を細かく確認して、それがわからないうちは指導を入れない。
 いじめが明らかになった段階で、加害者にどんな行為がどのように悪かったとか、悪気のない行為でも相手が自分と同じようにとらえるとは限らないとか、細かく確認していく。
 被害者には、加害者とつき合いたいと言えば、仲直りの儀式をし、そうでなければ加害者に「もうかかわるな」と念をおすことになる。
 最後に指導の経緯を保護者に連絡して一応の解決を迎えることになる。
 母性型教師のいじめの指導は、まずは被害者に寄り添うことから始まる。どんな気持ちでいるのか、トラウマにならないか、保護者はどれほど心を痛めているか、など心情に寄り添う発想に立つ。
 加害者にも「ほんとうは悪い子ではない」というケアをしていく。その結果、線引きがなかなかできないので、両者ともズルズルとケアが続いてしまうのだ。優しさと励ましが少しずつ機能して解決することになる。
 どうしても、母性型教師は加害者の指導を苦手とし、父性型教師は被害者の心情をすくい取れないという傾向がある。
 すべての教師には父性、母性のどちらかの傾向をもっているが、教師には両方の態度がともに必要なのだ。社会規範をもとに毅然とした態度で解決する。指導した後もケアをおこたらず、見守り続ける。教師には、そのどちらもが求められている。
(
堀 裕嗣:1966年北海道生まれ、札幌市立中学の国語科教師。92年、国語教育研究サークル「研究集団ことのは」を設立、道内の民間教育団体でつくる「教師力ブラッシュアップセミナー」顧問)

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子どもがケンカしたとき、どう考えて指導すればよいのでしょうか

 子どもにとってケンカは、人間関係を学ぶ大切な場です。ケンカによって相手の気持ちを理解したり、仲直りの方法を学んだりするのです。
 集団生活をしていれば、意見や感情のぶつかり合いが生じます。子どもは自分の思いを素直に表現します。ケンカが起きて当然です。
 ですから、ケンカを防止するのではなく「子どもはケンカをするもの」と考えて、子どもを見守り、日ごろからケンカへの対応を考えておくことが大切です。
 ケンカが起きれば、少し時間を空けて、子どもが落ち着いたら、双方に何が原因でケンカになったのか、相手がどのような言動に腹が立ったのかを言わせるようにします。
 その後で、「自分の悪かったところはどこか」、「どうすればケンカにならずにすんだのか」を考えさせます。
 自分の悪かったところを反省し、相手の立場も理解させることができるように指導するのが教師の役割です。
 子どもを納得させることが、ケンカ対応のポイントです。ケンカは子どもを納得させて下校させることに尽きます。
 「ぼくも悪かったよ」と、わが子に言われれば、保護者も納得です。
 少し気になる場合は、念のため、連絡帳や電話で保護者に伝えておくのも良いでしょう。
(
中嶋郁雄:1965年鳥取県生まれ、奈良県公立小学校教頭。子どもを伸ばすためには、叱り方が大切と「叱り方&学校法律」研究会を立ち上げる。教育関係者主宰の講演会や専門誌での発表が主な活動だったが、最近では、一般向けのセミナーでの講演や、新聞や経済誌にも意見を求められるようになる) 

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成績にクレームをつける保護者にどう対応すればよいか

 保護者はわが子のテストの点数が下がると「教師の教え方が悪い」、通知表をもらえば「もっと成績がいいはず」と文句を言う保護者がいる。どう対応すればよいのでしょう。
 保護者が「教師の教え方が悪い」と言うからには、それが事実であろうとなかろうと、授業に対する不満や教師に対する不信感がある。
 そのようなことを招いた自分の授業を点検し、反省したうえで、授業の意図や評価のあり方を説明して理解をしてもらうようにするとよい。
 成績の評価は教師がするので、教師だけのものと考えてしまい、どのように評価しているのかが保護者に伝わらないことも多く、誤解が生じやすい。
 テストは点数だけを見て判断するのではなく、それぞれの観点で分析をし、今後に生かしていくものだということ。通知表は、テストだけでなく授業中の態度や発表、ノートや提出物、忘れ物など多様な面をみて評価していること、などが保護者に十分に伝わっていなかったのではないか。
 成績のつけ方について、教師が保護者会等でていねいに説明し、周知徹底されていなかったおそれがある。
 保護者が「教師の教え方が悪い」と言うからには、授業に対する不満や教師に対する不信感があると考えられる。
 たとえ理不尽な理由による訴えであっても、保護者の不満を解消しなければ、教師がなにを言っても理解してもらえない。
 そこで、まず保護者の言い分をよく聞くことが必要になる。保護者は話をよく話を聞いてもらえれば、落ち着いて教師の話に耳を傾けてくれるようになるだろう。
 授業の意図や評価の方法を保護者に話したうえで、テストの点数や作品への評価、日頃の様子などをもとに、今回の成績をつけた理由を説明し、保護者に理解を求める。
 通知表は、テストだけでなく授業中の態度や発表、ノートや提出物、忘れ物など多様な面をみて評価していることを、ていねいに説明する。
 そのうえで、自分の教え方に不十分な点があれば率直に謝る。具体的な改善の方策を示す。
 保護者からの指摘を参考にして、教師は自分の授業を点検してみる。「子どもがわかる楽しい授業ができているか」「わからない子どもへの援助は適切か」「テストの内容に偏りがないか」など、反省し、自分の授業の仕方やテストの内容を見直すようにします。
 とくに「子どもが満足する授業を心がける」ことは、保護者の不満の抑止になるのではないか。
 さらに、テストを返すときに「計算の分野はよくできていました。今後の課題は文章題だね」と子どもに話しながら返す。それを保護者にも伝わるように、テストの分析表などに、子どもが努力した部分、苦手な部分を記入するようにしてはどうか。
(山中伸之:1958年生まれ。栃木県公立小・中学校教師。実感道徳研究会会長 日本群読教育の会常任委員)
(重水健介:1958年長崎県生まれ、長崎県公立中学校教師。日本群読教育の会事務局長)

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教師は話す職業であるが、話すことに努力しているだろうか、話す力をつけるにはどうすればよいか

 私がNHKの朝早い番組に出演したときのことである。有名な司会者が楽屋で「あ、え、い、お、う、おはようございます」と口を動かしている。そうしながら、服装や髪を整え、ときどき笑ったり、きびしい顔をつくっては、自分の表情を点検している。その姿を見て、私は心を打たれた。話すことを職業とする者の、とうぜんの職業的努力とはいえる。
 ひるがえって、教師の場合はどうだろうか。教師から話をするという手段を取り去ったら、教師の仕事は成立しない。教師も話すことを職業とするものであるが、話すことに努力しているだろうか。残念ながら、教師にそうした自覚は弱い。
 教師の話すことは、子どもが黙って聞くのがあたりまえと考えているかぎり、話す力量は発達しない。子どもの聞く力も弱まっている。だとしたら、教師はいっそう言葉による「聞かせる話」をしなくてはならないのである。教師は話す力を自覚的に自ら育てなくてはならなくなったのである。
 私が話すことの大切さを考えるようになったのは、僧侶でもあった先輩教師のおかげであった。私の話しぶりが気になっていのだろう。あるとき「良寛 不妄語戒九十条」を渡してくれた。九十条からなる長い戒めだが、教師としての言葉を考えるうえで、大いに参考になった。
 少しだけ紹介すると、
「口数が多く、くどい」「ものの言いかたが乱暴」「しゃべりかたがはやい」「話が長い」「自慢話」「人の話が終わらないうちにしゃべり出す」「よく知らないことを人に教える」「いかつく、ものを言う」「理屈っぽい」「軽蔑したものの言いかた」「人の話を聞こうとしないで言葉をかわす」
 教師の話しかたは、理解しやすく、正確で、美しく、快くなければならないと言われる。そういう話しかたができれば、それにこしたことはないが、それが教師の話しかたを決定づける条件ではない。
 私は「教師の話しかたで、もっとも大切なことはなにか」と聞かれたら「子どもに届く力をもっているか、どうかだ」と答える。
 
「子どもに届く」とは、子どもの耳に、正確にわかりやすく伝わるだけでなく、子どものからだに快く触れ、心に響き、知にはたらきかけ、感情に訴え、行為・行動をやさしく導くように「届く」ということである。
 そうであれば、雄弁であってもよし、とつとつとした語り口であってもよいのである。要は「子どもに届く力のある話しかた」ができるかどうかである。
 では、どんな話しかたをすれば、子どもに届く力をもつことができるのだろうか。それは教師各人がそれぞれ創意工夫して個性的にアプローチしていけばよい。
 これまでの、多くの話し上手な教師のすぐれた語り口から、学ぶことも、個性的な話しかたの創造に、さらに磨きをかけることになると思う。
 たとえば、教師の声はどのような声であればよいのでしょう。
(1)
聞こえる声
 教師の声が小さく、聞きとれなくては教育は成立しない。最初に子どもにきらわれる教師の多くは「先生の声がよく聞こえない」理由からである。大きな声が出ない教師は、とりあえず、からだをつくることである。からだをよくほぐし腹式呼吸で、息をいっぱい吸う。吸った息の量に比例して大きな声が出る。
(2)
わかる声
 教師の話は明瞭に、その言葉が聞きとれなくてはならない。はっきりとした、澄んだ、透る声、つまり明晰な声でなくてはならない。
 声は聞こえるが、言葉が割れていたり舌がよく回らなかったり、くぐもったり、団子状だったりしては、よく聞きとれない。
 明晰な声を出すには、口先だけの不完全発声をなおすことである。明晰な声になるためには、口を大きくあけ、口の全部を使って一音一音を一番後ろの子どもに飛ばすような気持ちで発声する。口のなかに残さない。そんな発生をしながら、くっきりした声をつくっていく。
 話す速さは、知識が子どもにしみこむ速度にあわせて話すとよい。子どもが集中しなくなったら、話を中断し、吸収するまで、少し休憩するか、いったん終了して別のことに移るようにする。
(3)
明るい声
 教師の声は明るくなければならない。子どもが学校で教育を受けようとするときの気持ちが、後ろ向きの子どもが多くなった。ゆえに、教師の言葉は明るく、彩に満ちて、子どものやる気を引き出すものでなくてはならない。
 では、どうすれば明るく話せるようになるのだろう。なんといっても、明るい話題でなければならない。明るい話題は、指導によってつくりだすものなのである。ほっておいて、しぜんに生まれることはない。子どもたちによいことをさせ、それを取り上げ、ほめるのである。
 子どもの成長を励ますような明るい話題でなければ、明るい話しかたはできない。
 明るい話しかたをする教師は、生き生きして、人間としての勢いがある。姿勢がいいうえ、相手の顔を見て、安定した視線で、明るい表情と、しっかりした口調で、自信をもって話している。
 まずは明るく話そうと自覚するだけで、ずいぶん明るい話かたになる。そのためには、体調を整えて健康であると、しぜんに生き生きして明るくなる。また楽観的であると明るくふるまえる。
 明るく話すための技術は「語尾をはっきりと発音する」「メリハリをつける」「話を尻上がりに高くする」と明るい感じがでてくる。
(4)
豊かな声
 鋭角的でキンキン声などのような、やせた声はなんとなく訴える力が弱い。教師の声は、暖かな、包み込むような豊かさが求められる。
 まずは、口腔いっぱいに広がりを持った声を出して、声量の豊かな声にすることである。口をよく開けて腹から声を出し、腹に響くように、しかし、やわらかく発声する。
 他の教師の話を聞きながら、少しでも豊かな声を出すように心がけたい。
(
家本芳郎:19302006年、東京都生まれ。神奈川の小・中学校で約30年、教師生活を送る。退職後、研究、評論、著述、講演活動に入る。長年、全国生活指導研究協議会、日本生活指導研究所の活動に参加。全国教育文化研究所、日本群読教育の会を主宰した)

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学級崩壊を回復するために、学級崩壊した担任をどうサポートすればよいか 

 学級崩壊に直面したら、だれでも気が動転し傷つきます。それを癒さなければ学級崩壊に対応できません。
 私は学級崩壊した担任から相談を受けたとき、学級回復を援助するためのアドバイスのポイントは「受容し心を安定させる」「自分自身を否定するのを防ぐ」「対応を計画しリハーサルする」です。
 相談にのるとき、具体的には次のようにしています。
1 まずは、学級崩壊した担任のつらい気持ちに十分、耳を傾けます。最初、担任は自分の正当性を主張し、周りを強く攻撃しますが、それほどつらいのだと受容します。
2 次に、担任は「学級を崩壊させた私はダメ教師である」と自分を厳しく責めてしまいます。これをうまく乗り越えないと、自信をなくし退職を選んでしまう場合があります。「私はダメ教師である」という考え方は論理的ではありません。問題を冷静に見て論理的な思考にもどすようにします。
「今まで学級経営がうまくいっていたのは、今までの子どもに合っていたからだ」
「今うまくいかないのは、今の子どもたちに、従来うまくいっていた方針で対応しているからだ」
「今の子どもたちに必要な対応方法を考え、従来のやり方を修正して学級経営すればよい」
「コツがわかれば対応できるはずだ」と。
3 担任が自分を責めることから、行動を修正しようという方向に視点を向ける
 落ち着きを担任がとりもどしたら、具体的な対応に入る計画を立てます。まず、学級の状態を客観的に把握(学級満足度尺度Q-Uなどを利用するとよい)し、それをもとに自分の学級経営のあり方を検討します。
4 具体的な目標に向け、やればできそうだという見通しを担任にもたせる
 学級崩壊の段階や残りの日数、担任の力量などから、どこまでできるかを検討します。また、学級の目的地のイメージを確認します。
 すると、月ごと週ごとにやる量の目標が見えてきます。現状がスタートです。どれくらい向上したかを定期的に検討します。
5 具体的な対応の計画を立て、実行できるように練習をする
 教師の仕事は、子どもたちに知識技能、社会性を身につけさせる「指導的」側面と、一人ひとりの子どもの自己の確立や人間関係の育成を「援助」する側面があります。
 この二つの側面を子どもたちの実態に合わせて統合し、学級経営を行っています。
 学級崩壊は、担任がふだんからどんな学級経営方針をもっているか、どう子どもに対応しているかと関係があります。学級崩壊までのパターンと教師のタイプは
(1)
「反抗型」学級崩壊-指導的なタイプの教師
 知識技能、生活態度をしっかり身につけさせようとする指導に、子どもたちが息苦しさを感じ、集団で教師に反抗する。
(2)
「なれあい型」学級崩壊-援助的なタイプの教師
 教師と子どもが仲がいいだけ、子ども同士は他人のままなので、トラブルが積み重なって学級がバラバラになってしまう。
 まず、担任の対応が、指導と援助のどちらに偏って子どもたちに伝わっているのかを理解するようにします。
 次に、いい点、修正すべき点を分類し整理します。観点は
(1)
子どもたちとの関係のとり方
(2)
学級全体への指示の出し方
(3)
話し方
(4)
注意のしかた
(5)
規則の定着のさせ方
などです。
 いい点は、今後も意識して実行します。一方、修正すべき点については、修正した後の具体的な方法まで考えます。
 そして、必要度の高い順番に整理し直し、担任の対応できる力量を考慮しながら、全体計画の中に位置づけていきます。
 なかでも、(2)(3)(4)などは、授業や学級の活動に直接影響を与えます。これらは特に、一つ一つセリフでマニュアルをつくり、ロールプレイ方式で練習するようにします。
6 筋目ごとに成果を確認して力ずけ、4と5を繰り返せるように援助する
 全体計画の中の区切りごとに、その効果を確認します。学級満足度尺度Q-Uなどを利用すると便利です。結果を確認することで、担任は不安を解消できます。
 一つでも良くなっている点があれば、次への意欲につながります。
 あまり変化がなかったとしても、担任は自分を責めずに原因を考え、次の期間から新たに修正して対応すればよいのです。
 いい結果がでなかったら、先生がダメだからではなく、採用した方法が合わなかったからなのです。
 私は、教師が心の安定を取り戻すまでカウンセリングしています。計画を立てて、具体的な対応ができるように励まし、そのための内容をアドバイスし、かつ、ロールプレイ方式で練習の相手になっています。
(
河村茂雄:1959年生まれ、早稲田大学教育・総合科学学術院教授。15年間公立学校教諭を経験した。学級崩壊,学級経営など教育実践に生かせる研究成果を多数提供している)

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朝の会・帰りの会が楽しみになるようにするには、どうすればよいか

 学級に集中力がなく、けんかやトラブルが多い状態なら、朝の会・帰りの会も集中力に欠けた落ち着きのない雰囲気になる。学級が生きいきとして明るく、係や当番活動などにもやる気が十分なら、朝の会・帰りの会も明るい雰囲気になる。
 したがって、担任は朝の会・帰りの会にもっとこだわりをもち、子どもも教師も楽しみになるようにしていくことが必要である。
 朝の会・帰りの会に歌を歌ったり、ゲームをしたり、スピーチなどをしたりして楽しみをつくるのもよい。曜日によって運営内容に変化をもたせ、マンネリにならないように、学級の状態に応じて運営を手直しするものいいだろう。
 先生の話のあと、お楽しみコーナーを設け、子どもたちが喜ぶような活動を日替わりでおこなうとよい。例えば、
○歌
 一日のはじまりを明るい雰囲気ではじめ、みんなのやる気を引き出すのに歌がよい。最初は簡単なもの、元気が出るもの、大きな声で歌えるものがよい。
 歌うときは、教室の壁いっぱいに広がり、内側を向いて並び、おたがいの顔を見合いながら歌うようにする。響き合って楽しくなり、元気が出てくる。みんなの気持ちがひとつになる。
 例えば「手と手と手と」は歌詞に合わせて体を動かしながら歌う楽しい曲である。
○手遊び
 手遊びは、指・手をはじめ、おもに上半身を動かしてする遊びでである。座ったままでも行うことができる。
 ひとりで楽しめる手遊びは「どんぐりころころ」「ごんべえさんの赤ちゃん」、ペアやグループで楽しめる手遊びは「おちゃらかほい」「げんこつ山のたぬきさん」などがある。組み合わせて行うと、なごやかな雰囲気になる。
○かるた取り
 百人一首は絵札を読んで、下の句を書いた札を取るあそびである。20枚でかるた取りをすると5分くらいかかる。くり返すと3~4分でできるようになる。机を向かい合わせて2人一組で、お互いに10枚ずつ並べるだけで、すぐはじめることができる。
 対戦相手をくじ引きで決めたり、順番に交替したり、実力が同じ子ども同士で行うなど、工夫してみるとよい。
○クイズやなぞなぞ
 子どもたちは、クイズやなぞなぞが大好きである。朝の会にクイズを出題して、学級のみんなで楽しむようにする。
 例えば、歴史クイズ、日本一クイズ、ことわざクイズ、スリーヒントクイズ、なぞなぞ、いいろいろある。
○スピーチ
 テーマを決めて短いスピーチをする。自分の思いをわかりやすく伝えたり、友だちの思いを聞きとることは、コミュニケーションのうえで大切なことである。
 低学年は「きのうのできごと」を20秒くらい、高学年は「世の中のできごと」を30秒くらい話をさせる。1日に2人ずつ発表する。必ず質問させ、受け答えをはっきりさせるようにする。
 マンネリにならないよう、子どもたちが関心をもつようなテーマを選んでおき、サイコロを転がし、出た目でテーマを決めるようにする。スピーチする子には前もって知らせておき、心の準備をさせておくようにするとよい。
(
加藤辰雄:1951年愛知県に生まれ、元名古屋市立小学校教師。愛知教育大学等非常勤講師。「読み」の授業研究会運営委員)

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難しい保護者との対応で精神的に追いつめられないためには、どうすればよいか

 最近では、中堅やベテラン教師、管理職までもが保護者対応に苦慮し、なかには休職や早期退職にまで追い込まれるしまう場合も少なくありません。
 教育委員会によっては、支援チームを設置したり、弁護士を雇ったり、教師向けのマニュアル作りや研修会を開催するなど様々方策を講じていますが、トラブルが減少する気配は見えません。
 教師にとって保護者と人間関係を築いていくことは子どもとの関係を築くことと同様に重要です。しかし、日々の仕事に追われるなかで、学級通信や連絡帳、電話といった間接的なものになってしまい、顔を合わせる機会は限られてしまいがちです。
 保護者が多様化するなかで、これまで通りの指導方針では保護者との連携が難しくなってきているのも事実です。このようなとき、難しい保護者との対応で精神的に追いつめられないためには、何が必要なのでしょうか。
1 日頃から信頼関係の形成をはかることが大切です
 信頼関係とは「この人なら自分の思いや悩みを話しても大丈夫」という感覚をもつ関係です。
 そのためには、保護者の関心に寄り添って誠実に話を聴くことが何より大切な姿勢です。そのうえで、次のような対応をすることが信頼関係の形成につながります。
(1)
保護者への連絡はこまめに、ていねいに
(2)
初期対応が肝心。迅速かつ誠意ある対応を
 後手に回ってからの不用意な説明は言い訳にしかとられかねない。
(3)
素早く的確に事実確認して、説明責任を果たす
 問題が広がりを見せる場合には、複数の教師で対応する。
(4)
問題があると思われる場合には、直接「保護者と顔を合わせる」ことを心がける
 電話や連絡帳による連絡はできるだけ避ける。
(5)
具体的な対応策なしに「様子をみましょう」ということは避ける
2 教師と保護者が目標を一致させるように努めることが大切です
 子どもの問題をめぐって、教師と保護者が目標を一致させないことで混乱をまねくことはよく見られます。そうならないためには、
(1)
保護者の訴えを明確にする
 何が問題なのかを明確にします。訴えの根底にあるものが「子どもの課題なのか」「保護者自身の課題なのか」を、見きわめ、関わる距離を定めることが、精神的に追いつめられないうえで重要です。
(2)
組織的に対応する
 決して一人で抱かえ込まないで、組織的に対応することです。解決の見通しが見えない問題を、解決できる問題にするためには、衆知を集めることが必要です。
 中心になる人を明確にし、役割分担して、学校をあげて組織として対応していくことが、問題解決や教師の精神的な健康を保つためにも重要です。
3 学校の対応できる範囲を超えた問題
 学校だけでなく外部との連携を視野にいれて対応する。カウンセリング的な「受容・共感を伴う対応」と「法的な対応」(法的に判断すればよりよい結果が導き出せるかを考える)のバランスをとることも、これからの保護者対応で教師が燃え尽きないためには必要なことであると思われます。
(
新井 肇:1951年生まれ、埼玉県公立高校教師を経て、兵庫教育大学教授。カウンセリング心理学を基盤とした生徒指導実践の理論化、教師のストレスとメンタルサポート等を研究)

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教師は自分の仕事をどのようなものだと思っているのか

 学校で大事なことは、子どもが勉強して学ぶこと。そして、それを通じて子どもが自立の精神を身につけて社会に出ていくこと。この二点です。社会に出れば、すべて自己責任で、自分で決めなければなりません。そのトレーニングする場(自治活動など)が学校のもうひとつの使命です。
 
「子どもが好きで先生になった」という言葉をよく聞きます。子どもが好きというのは、当人は気がつかないが「自分の言うことを素直に聞く」「自分の思う通りになるから」好きと言っているのと同じです。
 ちょうど、よく飼いならしたペットを可愛がる飼い主と同じ程度の心境なのでしょう。こういう人は、飼い主に手を噛まれてみて初めて、犬だって噛むのだ、ましては人間においてをや、と覚るのではないか。
 
「子どもが好きだから」先生になった教師は、好きな子どもだけ周囲に集めるような心性が生じてきます。中心に教師である自分がいないと気が済まないから、言うことを聞かない子どもを自然に遠ざけることになる。子どもに対するエコヒイキはここから生じます。
 教師になろうとすれば、教職の悪い面もしっかり見据えることが大事です。よく「結婚する前は両目を開いて相手をよく見なさい。結婚したら片目をつむり悪いほうを見ないようにしなさい」と言うでしょう。職業選択も同じだと思います。
 私は弁護士や医師と同じように教師も客商売に違いはないと思っています。弁護士は依頼人が、医師は患者が、教師は学習者が、来なければなりたたない商売です。それであるにも関わらず、客を客とも思わないところがあります。
 教師は公務員であり、全体の奉仕者です。公務員は税金で食べさせてもらっているから、国民に奉仕する精神を持つべきものです。学校は生徒や保護者に対してサービス精神を持ってもらいたい。
 私は塾、予備校の校長も経験したので、よくわかっていますが、学習者が教師を選び、学校を選ぶのは当たり前なのです。お客さんが来てくれないと、潰れてしまうし、クビになってしまうんですね。
 だからいちばん苦労するのは、お客を集めることです。特に二月三月は毎年、胃が痛む思いをしたものです。客の入りが悪ければ、即座に教職員のリストラにもつながりかねない。教職員も必死です。生活かかっていますから。
 ところが、公立学校の教師はお客が来なくなったら統廃合すればいいし、教師は異動すれば良いからクビにはならないんです。親の悪口を言っても成り立つ商売が公立学校で、塾・予備校などは親の悪口を言ったら成り立たない商売なのです。この違いは大きいですね。
 新採の教師が夏休み私のところに遊びにきて「保護者とつきあうのは本当にシンドイ」と。そこで私は言ったのです。
「教室で子どもたちに教えることだけのために、給料が払われているのではないのですよ」
「じつは、その背後にいる保護者に、きちっと説明ができるというサービス料も給料の半分くらいは入っているのではないですか」と。
 ところが、教師本位の教師ほど「子どものことは私に任せておけ。親がいろいろ言ってくるのは余計な仕事が増えるだけだ」と思っています。ところが期待や信頼を裏切ると問題が生じるのです。コミュニケーションをとるうえでの責任がある。
 日頃から、よく保護者の声に耳を傾けて、コミュニケーションを取っていれば、その教師に対して親が攻撃的に出てくることは少ないと思います。
 NHKの「ようこそ先輩」という番組がありました。教員免許のない人でも「サービス精神がある」から良い授業ができるのです。ふだんから「お客(市場)に鍛えられている」からです。
 たとえば、一流デザイナーが母校で授業をする。デザイナーの力量は、お客さんが「この人のデザインが良い」と支持してくれるからでしょう。授業も聴いてくれるお客(生徒)に理解してもらおうと考えるから、良い授業ができるのです。
 やはり授業で大事なことは、まず聴いてもらうということ。聴き手が聴いてくれなければ話にならない。聴いてくれないなら、話し手は反省しなければならない。基本的には、教えるほうが、子どもの反応を受け止めて話を進めなければなりません。
(
戸田忠雄:1937年生まれ、長野県の私立、公立学校の教師、公立高校長、信学会長野予備学校長などを歴任し、政策研究大学院大学政策研究科客員教授。XYサタデースクールネットワーク代表。専門は教育政策・学校論など。政府の審議会専門委員も務めた)

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荒れる子どもをどう理解し指導すればよいか

 「学校に行きたくない。もう辞めたい」と私は思った。暴力や破壊が繰り返され、昼食も食べずに走りまわって生徒に対応しても、荒れが繰り返される中で、砂をかむような気分になって憔悴しきったのです。
 そうした中で、いくら働きかけても「悪いこと」を繰り返し、何の反省もしていないように見える生徒を前にすると「あいつはどうしようもない」と指導を放棄したくなります。
 子どもたちをどんな視点で見ていけばよいか。子どもたちが寄せる教師への信頼とはなにか。
 荒れる生徒の問題の根は多くの他の生徒と深くつながっており、その問題を見える形で突き出しているのだ。私たち教師は
「子どもたちが抱かえる課題や心の揺れを見なくてはいけない」
「どの子も伸びようとしている。賢くなろうと思っている。でも、荒れている子は、なかなかそれがうまくいかないし、うまく表現できないのだ」
 このことは、子どもたち人間を丸ごと理解するうえでの原点だと思う。そのことなしには、子どもたちと教師の共感はあり得ないだろうと思う。
 家庭訪問の量は生徒指導の質を変える。それは学校の中だけで生徒を見るのではなく、生活の場で生徒を見るということです。生徒の気分や感情が生まれるところをつかもうとすることです。鬱屈とした気分や冷たく醒めた生活感情に浸ってくようになるのが理解できるようになります。
 それを知ったうえで、その生徒の判断のあり方やまわりへの関わり方を注目して、働きかけねばなりません。
 事例研究して、一人ひとりの生徒の具体的な様子や言動を教師集団が検討して、その生徒の理解を深め、生徒への働きかけの質を変えていくようにしました。
 例えば、暴力事件が起きたとき、事実を具体的につかむ。そこにとどまらずに、なぜ暴力を振るうのかを生活の中から考えてみる。どのように働きかけたか、それに対する反応はどうだったかと。
 このように教師としての経験の共有が意識的にはかられることで、教師の生徒への対応に変化が生まれます。
 その生徒の内面の葛藤に目が向き、その模索に付きあい、その生徒のペースで伴走し、対話する指導力の形成をはかっていきます。
 荒れる生徒に感じられるのは人間不信です。生活史の中で何回も裏切られてきたのでしょう。安心して甘えた経験が少ないのではないか。そうであれば、あらゆる働きかけを通して、人間信頼を回復させねばなりません。
 荒れた生徒を「甘えさせる」といった、ふくらみを持った生徒対応を教師が見せると、生徒たちは敏感に察知して、攻撃性に変化が生まれ、いっしょにはしゃいだり、ふざけたりできるようになりました。人間的な感情の交流が指導を成り立たせることになるのではないでしょうか。
 荒れる生徒の言動に「現在の自分を取りまく状態に満足できない」というメッセージがあります。荒れるのは「いかに生きるか」という問いの未熟な表現だと思うのです。
 
「自分はどうしたらいいのか」「どう生きるのか」の問いがうまくいかないと、暴発するエネルギーが攻撃的な形で噴出してくるように見えます。 
 一人ひとりの生徒が暮らしの中でさまざまに葛藤し、多様な感じ方をしていることを把握できることは、特定の子どもの全体像に接近することになります。
 
子どもの実感から出発して、その子の問題に迫る学習を創りだすことは、生活指導の課題だけでなく、教科指導をもつらぬいて現代の学校の中心的な課題だと思います。
(
福井雅英:1948年滋賀県生まれ、滋賀県公立小学校・中学校教師31年、「教育困難校」に長く勤務し荒れと向きあい学校再建に取り組む。北海道教育大学教授、北海道文教大学教授を経て滋賀県立大学特任教授)

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教師が子どもに腹が立つのはどのようなときか、どうすれば少なくなるのだろうか

 教師が子どもたちのことに腹が立ったり、敵意が起きたりする原因のひとつに、教師として大切だと考えていることが子どもたちに否定されたときである。
 私の場合は、子どもにいやがられていると感じたときはプライドが傷つき腹が立つ。具体的には、私の指示が子どもたちに拒否されたときや文句をいわれ「○○先生の方がよかった」と言われたときである。
 教師の子どもたちに対する敵意は持続し、子どもたちとの関係が気まずくなり、落ち着いた交流を妨げる。
 教師のモノサシがちがえば、敵意を感じる場面もちがってくる。たとえば、計画どおりに授業をすすめることに強い価値観を持っている教師は、おしゃべりして授業を妨害する子どもに敵意を感じるだろう。
 あるいは、失敗を恐れず困難にチャレンジする強い子どもを育てることに価値観をおいている教師は、失敗を恐れ、思いきった行動がとれない子にイライラするだろう。
 自分のこだわりを発見するには、自分が得意になったり、ガッカリする場面を思い出してみるとよい。そうすると、必ず自分のこだわりやクセが見えてくる。ときどき、その場面を再現してみると、はっきりと自分のモノサシが見えてくる。
 そうしていると、あのモノサシだなと気づき、立ち止まることができるようになる。また、子どもに対する否定的な感情の渦にまきこまれる度合いも少なくなる。すると、子どもの微妙な気持ちに気づく度合いも増えてくるのだ。
 このように、自分のモノサシの発見は、自分の思い込みをゆるめてくれる。そして、その思い込みからの解放が、子どもに対して肯定感を生み出すのである。
 教師と子どもの間に、どんな空気が流れているかは大切なことである。教師の話す言葉よりも、教師の肯定的な感情から出てくる雰囲気が、子どもを落ち着かせ、安心させる。そして、子どもが落ち着いているときは、教師の言葉も子どもの心に入りやすいのである。
(
樫村 悌:1945年茨城県生まれ、元東京都公立小学校教師)

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教師の指導力の不足をのりこえるには、どうすればよいか

 どのような教師には指導力があるのだろうか。
 わたしは、顔つき、からだつきから「怒るとこわい先生」と見られ、そのことが指導の武器になっていた。
 美人や美男子の教師もそうで、逆の教師より指導の入りがよい。
 声の大きさ、明瞭さ、すてきな笑顔もそうだ。
 これは、嘘のような話だが、指導力不足に悩んでいた教師がいた。「太い縁取りのめがねをかけろ」と助言した人がいて、そのとおりにしたら指導が成立するようになったという。
 ということは、教師は、あらゆるものを用いて教育していることになる。
 とすると「自分のどこが子どもたちに受け入れられているのか」、反対に「自分のどこが子どもたちに拒否されているのか」を知ることである。
 その結果、ユーモアに欠けるとすれば、その力をつけるように努めることだ。
 教師は自分をらち外において、わたしの教育がうまくいかないのは「子どもの質が悪いからだ」「地域もよくないし、保護者もみんなわかってない」と、他の者のせいにしてはならない。
 教師が指導力をつけるには「自分を知り、自分を変える」ことである。
(
家本芳郎:19302006年、東京都生まれ。神奈川の小・中学校で約30年、教師生活を送る。退職後、研究、評論、著述、講演活動に入る。長年、全国生活指導研究協議会、日本生活指導研究所の活動に参加。全国教育文化研究所、日本群読教育の会を主宰した)

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子どもに好かれ、子どもとつながるにはどうすればよいか

 子どもの心情の機微を手に取るように理解できなくては指導も始まらない。そのためには、教師と子どもたちがつながる必要がある。どうすればよいのだろうか。
 子どもとの出会いが始まったら、一人ひとりの子どもと自分の共通点を探すようにするとよい。好きなタレント、好きな色、なんでもよい。共通点を見つけたら、必ず「○○が先生と同じだなあ」と子どもに伝える。そのことが子どもを好きになる第一歩なのだ。
 こうすることで、まず教師自身が子ども一人ひとりに対して愛着を感じることができるようになる。教師だから、厳しく指導することもある。深い愛情を前提にするためには、教師は子どもを精いっぱい愛することができるような具体的な努力をする必要がある。
 教師である以上、子どもに語りかけることは重要なことである。教師の失敗談、小さい頃の思い出話、怖い話、人生論・・・・・。それらを子どもに語ることは、子どもの心に宝を残すことになる。
 しかし、どんな風に語ったら良いか悩む教師は多い。語りが苦手なら本の読み聞かせを。自分の伝えたいことに合致した絵本などを選び、語りの代わりに読んで聞かせるとよい。
 緊張が強い子ども、プレッシャーを感じると本来の力を出せない子どもがいる。そうした子どもには、「励まし・慰め・ほめ」のプラスの言葉を浴びせる。そして、そのあと軽くハイタッチする。これを組み合わせると、不安解消や、怒りを鎮めるなど、気持ちを安定させる効果があると言われる。
 言葉をかけずとも、肩を触れる、背中に触れるだけで「励まし・慰め・ほめ」を感じさせることもできる。
 教師からの厳しい注意ばかりを続けていくと、子どもとの関係はどんどん悪化していく。さらに、教室全体の雰囲気まで重たいものになる。
 しかし、そのまま何も言わないでいれば、子どもはそのままでよいと誤解してしまう。子どものミスは見て見ぬふりはできない。
 そこで、子どもの小さなミスやうっかりミスは、強く責めずに、お茶目にとがめるようにする。たとえば、
 靴のかかとをいつも潰して履いている○○子を見かけたとき、
「○○さん、きみには上靴の声が聞こえないのか!」
「???」
「ほら、耳を澄まして、靴の声を聞いてごらん」
「痛いよお、痛いよお、○○さん、かかとを踏まないで」
 と、靴が話しているような声色で話す。
「ほら、きちんとはくように」と言うと、○○は「わかりました」と言う。顔は笑顔だ。
 子どもとのコミュニケーションが苦手な教師は、小物(筆箱、消しゴムなど)に、ちょっとだけ凝ってみるのもよい。自分の持ち物に、子どもがハッとするようなシールを貼るだけでもよい。
 これで、子どもと話すきっかけができる。しかも、教師から話しかけずとも、子どもたちが寄ってきて、子どものほうから教師に話しかけてくる。特に女子は持ち物に敏感だ。目新しい小物で、子どもとの話題が新鮮なものになる。
 風邪や花粉症がひどくなる時期にはティッシュを必ずポケットに入れておいておこう。鼻の調子が悪い子どもに、まるごと1つあげる。子どもたちは、自分の辛さに共感してくれる教師が大好きなのだ。
 また、給食後の床掃除にも、大活躍する。教師が自分で一枚持って、落ちている食べ物を拾う。近くにいる子どもに、もう一枚渡して「手伝ってくれる?」と言えば、嫌がる子はいない。
 子どもは教師と一緒に働くことが大好きだ。一緒に手を動かせば心も一緒になる。
(山田洋一:1969年北海道札幌生まれ、私立幼稚園に勤務後、北海道公立小学校教師。教育研究サークル「北の教育文化フェスティバル」を主幹し、柔軟な発想と多彩な企画力による活動が注目されている)

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