国語(小学校):作品は長い時間をかけず新鮮なうちに  持田俊介

教科書教材というのは、あくまでも資料のひとつです。漢字だけはちゃんと教えておかないといけないでしょうが、教科書の作品ばかりをしなくていいと思います。そして、浮いた時間で、やっぱりいろいろな名作を読ませてあげてほしいのです。そのことは実は、読書指導につながる国語の授業だと思いますと持田俊介(注)がつぎのように述べています。
たとえば、あまんきみこさんの「ちいちゃんのかげおくり」をするなら、あまんさんの他のいろんな作品を用意しておかなければなりません。勉強したあとに「いいお話でしたね。あまんさんの作品、他にもこんなのがあるよ」と言ったら飛びついて読みます。このことの積み上げが、自然に子どもたちを本好きにするのではないかと思います。
私は読み方の授業の延長線上に読書指導があるんだと考えています。教科書にある、いい作品一つで勝負しようなんてことはダメだと思います。一つの作品だけにシャカリキになる人に限って、長時間やる傾向があるようです。一つの教材を9時間も10時間もかけるのです。私はせいぜい5、6時間でいいと思います。
「くまのこウーフ」などの作者・神沢利子さんは、以前、講演でこんなことを言われていました。
「私たちの書いた作品は、作者の手をいったん離れたら、読み手がどう読んでもいいんです。だけど、私たちが書き上げた作品というのは、子どもたちの手に届くときには新鮮なはずです。おすしにたとえたら新鮮なネタです。ところが料理人の先生が、ああしたりこうしたりしているうちに、だんだんネタが古くなってしまって、子どもが興味を失ってしまう。そんな授業はしてほしくない」
私は、これを一つの作品は長い時間かけず、短時間でしてほしいということだと受け取りました。
私の娘が4年生のときです。2学期のある日、「今、国語で何勉強してるの」と聞いたことがあります。そのとき彼女は「今日から『ひとつの花』やねん」と実にうれしそうな顔で答えました。それからずいぶんたってから、また同じように「今、国語で何勉強しているるの」と聞いたら、今度はイヤそうな顔をして「まだ『ひとつの花』やねん」と言うのです。私はこのことばをいまだに忘れることができません。これは神沢さんが講演で言われていたこととピタリと重なります。それ以来、私はいよいよ、そう思うようになりました。

(注)持田俊介:元大阪府公立小学校長

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国語(小学校):作品は長い時間をかけず新鮮なうちに  持田俊介

教科書教材というのは、あくまでも資料のひとつです。漢字だけはちゃんと教えておかないといけないでしょうが、教科書の作品ばかりをしなくていいと思います。そして、浮いた時間で、やっぱりいろいろな名作を読ませてあげてほしいのです。そのことは実は、読書指導につながる国語の授業だと思いますと持田俊介(注)がつぎのように述べています。
たとえば、あまんきみこさんの「ちいちゃんのかげおくり」をするなら、あまんさんの他のいろんな作品を用意しておかなければなりません。勉強したあとに「いいお話でしたね。あまんさんの作品、他にもこんなのがあるよ」と言ったら飛びついて読みます。このことの積み上げが、自然に子どもたちを本好きにするのではないかと思います。
私は読み方の授業の延長線上に読書指導があるんだと考えています。教科書にある、いい作品一つで勝負しようなんてことはダメだと思います。一つの作品だけにシャカリキになる人に限って、長時間やる傾向があるようです。一つの教材を9時間も10時間もかけるのです。私はせいぜい5、6時間でいいと思います。
「くまのこウーフ」などの作者・神沢利子さんは、以前、講演でこんなことを言われていました。
「私たちの書いた作品は、作者の手をいったん離れたら、読み手がどう読んでもいいんです。だけど、私たちが書き上げた作品というのは、子どもたちの手に届くときには新鮮なはずです。おすしにたとえたら新鮮なネタです。ところが料理人の先生が、ああしたりこうしたりしているうちに、だんだんネタが古くなってしまって、子どもが興味を失ってしまう。そんな授業はしてほしくない」
私は、これを一つの作品は長い時間かけず、短時間でしてほしいということだと受け取りました。
私の娘が4年生のときです。2学期のある日、「今、国語で何勉強してるの」と聞いたことがあります。そのとき彼女は「今日から『ひとつの花』やねん」と実にうれしそうな顔で答えました。それからずいぶんたってから、また同じように「今、国語で何勉強しているるの」と聞いたら、今度はイヤそうな顔をして「まだ『ひとつの花』やねん」と言うのです。私はこのことばをいまだに忘れることができません。これは神沢さんが講演で言われていたこととピタリと重なります。それ以来、私はいよいよ、そう思うようになりました。

(注)持田俊介:元大阪府公立小学校長

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自分や他人への向き合い方は幼児期の親との関わりによって決まる   三沢直子

自分と他人に対する向き合い方は、自分や他人に対して「肯定的」であるか、あるいは、「否定的」であるかといった基本的なパターンがあります。
それは、主として幼児期に親とどのような関わりをもったかによって決定されると三沢直子(注)は述べています。
ともすると、その人の対人関係のあり方を一生涯支配するようなパターンになる、といわれていると三沢つぎのように説明しています。
パターンはつぎのような四つがあります。
(1)
自己否定・他者肯定型
自分には「否定的」で、他人には「肯定的」と思っているパターンです。
「どうせ私なんか」と劣等感をもちやすく、自分にひきこもったり、憂うつになったりしやすいタイプです。
自分に自信がないので、なかなか自己主張ができず、人に合わせてばかりいたり、あるいはなんとか人に認められようと過剰な努力をして、自らストレスを抱かえこんだり、疲れ切ってしまう傾向もあります。
このタイプは、赤ちゃんが自分は小さくて無力で、まわりの大人よりも劣ると感じているところからはじまりますが、親から「お前ダメな子だ」とか、悪い面や小言ばかりを言われ続けていますと、さらに強化されてしまいます。
(2)
自己肯定・他者否定型
自分には「肯定的」であるが、他人には「否定的」に思いがちなパターンです。
なんでも人のせいにして、自分をいつも正当化したり、被害者あるいは犠牲者であると思いがちなタイプです。
人の欠点ばかりに目がいって、他人が好意を示してくれても、それを素直に受けとめられません。なにか問題が生じても、すべて他人や環境のせいにするので、周囲の人々にストレスを与えることになります。
このパターンは、幼児期に心身に大きな苦痛が与えられて、それを一人で耐えてきた子どもが身につける態度といわれています。
このパターンの重いケースには非行や犯罪を犯す、人格障害者がいますが、その場合は、幼児期に身体的な虐待を受けて育った人が多いといわれています。
(3)
自己否定・他者否定型
自分にも、他人にも「否定的」に思うパターンです。
自分に自信がなく、なおかつ人を頼ることもできないので、人生に対して虚無的、絶望的になり、すべてのことに対して努力を放棄し、投げやりになりがちです。
重い場合は、自殺や薬物中毒、アルコール中毒など、自己破壊的な行動におよんでしまうこともあります。
このパターンは、乳幼児が終わって歩きはじめたころから一年間くらいのあいだに、急にきびしくされたり、放置されたり、拒絶的にされたりして、周囲から温かく適切な関わりが得られなくなってしまった場合にできやすい、といわれています。
(4)
自己肯定・他者肯定型
自分にも、他人にも「肯定的」に思うパターンです。
このパターンは、目標とすべき理想的なパターンといわれています。
この場合は、自分の価値と人の価値を認め、かつ尊重できるので、自分をだいじにしつつ、人とも適度に協調していくことが可能です。
これは、小さいときから親との親密な関わりのなかでだいじに育てられ、なおかつ、自分や他人の価値をしっかりと教えこまれた場合に身につくものといわれています。

(注)三沢直子:1951年生まれ 明治大学教授 臨床心理士として心理療法など、子育て中のお母さんをサポート

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Q-Uテストで学級崩壊の不安をなくす         河村茂雄

自我の未発達な子どもを相手にする教師は、子どもの内面を理解する余裕がなくなったり、子どもの問題行動を必要以上に感情的に叱責してしまったりしないよう、自分の心の健康を保たなければなりません。
学級担任をもつと、学級経営に不安感を抱く教師は少なくありません。学級集団は段階を追って崩壊していくのです。崩壊初期で具体的な対応ができればと河村茂雄(注2)は強く思い、つぎのように述べています。
教師の日常の観察だけではなく、調査法による子どもや学級集団の理解は、とても大切だと思います。
教師の意図と子どもの受け取り方のあいだには、少なからずギャップがあるのです。そして、子どもは自分が受け取ったことに反応して、行動するのです。「A男は何度言っても、私語がおさまらない」と教師が嘆いても「私語は勉強の取り組みにマイナスの影響を与える」という意味を、その子ども自身が感じていないのです。この子どもは教師の注意をうるさいとしか感じず、反発することになるでしょう。
また、夏休み明けから不登校になる子どももいます。教師が心情を事前に理解できていたら、不登校に至る前になんらかの対応ができたかもしれません。教師の前でも子どもの行動は、教師の存在を意識してなされるものです。そこには、自分の本音が形を変えて現れている場合が多いのです。
したがって、教師は子どもの本音から
(1)
子ども一人ひとりの特性・心情面
(2)
学級集団の実態
(3)
教師の指導や援助をどうとらえているか
という3点を、定期的に調査しておくことが、実践を進めるうえで、大きな指針となるのです。教師の意図と子どもの受け取り方のギャップを小さくすることが、子どもたちに、学級集団に、自信をもって具体的な対応をすることにつながのです。
学級崩壊で苦しむ先生方と面接していて、河村が強く感じることがあります。それは、学級崩壊が中期から末期の状態の場合、担任教師にとても強い焦りや不安が生じ、最後には万策尽きたという無力感が支配してしまうことです。
教師も学級集団にまきこまれた状態でいますから、自分が実施した手だての効果がみえないのです。その結果、あれをやったがダメだった。これを試してみたがダメだったと、自分を追い込んでいってしまい、ますます悪循環を生んでしまうのです。
このようなとき、定期的に調査法(注1)を行い、適切な対応を実施すれば、再建策を実施した時点を底にして、子どもたちの学級生活への満足度はジリジリと上がってくるのです。
つまり、焦って自分の実践のマイナス面しか見えなくなっているときに、調査法の結果は大きな安心感を与えてくれ、自分の対応に自信が持て、今後も計画的に再建策を続けていこうという意欲につながってくるのです。
学級崩壊に悩む先生方の援助をさせていただいていて、この意欲の喚起と持続が問題解決の重要なポイントになると思います。
(注1)Q-Uテスト:学校生活意欲と学級満足度の2つの尺度と自由記述アンケートで構成。学級経営のための有効な資料が得られ、学級診断アセスメントとして活用できる。対象は小学1年~高校3年、実施時間約15分、価格 300
(注2)河村茂雄:1959年生まれ、早稲田大学教育学部教授 15年間公立学校教諭を経験 学級崩壊,学級経営など教育実践に生かせる研究成果を多数提供している

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つながりの創造で教育の危機を救おう     木村浩則

 現代が教育あるいは人間にとって危機の時代であるとするなら、その危機をつくりだしている根本の要因は何だろうか。
 それは、現代を生きる人間の“つながり”の感覚の喪失、そしてその人間の危機を誤った仕方で克服しようとする企てであると木村浩則(注)は考え、つぎのように述べている。
 そもそも人間は、次のような二つの“つながり”の感覚の中で生きていると言うことができる。
 一つは、過去・現在・未来の時間的な“つながり”の感覚である。われわれは、将来への希望と見通しがあってはじめて現在を豊かに生きることができる。だがリストラによる失業不安、職場における不安定雇用の増加と成果主義の導入、社会保障の切り捨ては、われわれからこの“つながり”の感覚を奪い、将来への不安をつくりだしている。
村上龍は小説『希望の国のエクソダス』の中で、主人公の中学生をして「この国には本当にいろいろなものがあります。だが、希望だけがない」と言わしめたが、それは現代の子どもたちの心情にきわめてリアルに響くに違いない。
 もう一つは、他者との”つながり”の感覚である。われわれは、地域や学校でのさまざまな人間的”つながり”を通じて自己形成していく。しかし、地域社会の崩壊、家族の孤立化、学校や職場での競争主義、消費文化の浸透が、人と人との”つながり”を断ち切り、われわれをバラバラの欲望し消費する個人へと変えていく。親や子どもは自らを孤独な教育サービスの消費者と位置づけるようになり、その結果、早期教育や学校選択の自由化が積極的に支持されるようになる。
 現代社会のこうした”つながり”の感覚の危機は、人間の危機そのものにほかならない。それをまず体現しているのが、現代の子どもたちと教育の現場である。
 少年犯罪は第四のピークを迎え学校では、校内暴力や学級崩壊が増え続け、不登校は13万人を超えた。
 また「いま現在が楽しければよい」という子どもたちの時間感覚は、「学びからの逃走」と言われる教育(学力)問題を生み出している。
 さらに100万人とも言われる若者のひきこもり、急増する児童虐待と家庭内暴力、心病む教師たちの問題も深刻である。これら教育の危機の背景に、人間の危機としての”つながり”の感覚の喪失がある。
 危機の第二の背景は、こうした”つながり”の感覚の喪失によって引き起こされていると考えられる教育の諸問題を、政府や文部科学省が、まったく誤った復古的な仕方で解決しようとしていることである。
 彼らが進めようとしているのは、学校教育を自由化・市場化の波に投げ入れることで、この“つながり”を寸断すると同時に、その寸断された個人を、戦前のように国家という共同体と民族の伝統の中に回収することである。
 その具体的なあらわれは、日の丸・君が代の強制、道徳教育の強化、歴史教科書の修正、そして教育基本法改正などにみることができる。
これらは、戦後民主主義が子どもをダメにしたという俗論、強いリーダーや誇り高き国家を待望するファシズム的気分と重なって、社会の中にしだいに浸透しつつある。
 しかし、こうした危機克服の企ては、危機を災いに変えるものにほかならない。なぜなら、現代の学校や家族が抱える病理は、“つながり”の喪失それ自体によってだけでなく、この誤った克服の試みとの矛盾によって引き起こされているからである。
 いま求められるのは、国家共同体や伝統への回帰ではなく、新たな“つながり”を創造すること、すなわち子どもを含む市民の「参加」と「共同」を通じて、新たな関係の網の目を編みだしていくことである。しかも、その“つながり”は、人間の画一化に反対し、互いのかけがえのなさと多様性を承認しあう場でなければならない。

(注)木村浩則:1961年生まれ 熊本大学教育学部助教授(教育哲学)

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自由自在に見方・考え方を変え対処できる心を持つ     松下幸之助

 ものごとに対して臨機応変、自由自在に取り組むことのできる心を持てば、いつどのようなものごとに出くわそうとも、必要以上におどろきあわてることはなくなります。
 またゆきづまることなく、つねに正々堂々とものごとに対処し、そこによりよき成果を生みだしていくことができるのではないでしょうかと
松下幸之助(注)は考え、さらにつぎのように述べています
 それはいってみれば、一つのことにとらわれたり、固定してしまうというようなことがなくなるからでありましょう。つまり、極端にいえば困っても困らない、一見できないようなことでもできるというように、まことに自由自在な行動、姿というものがそこに生まれてくるからではないかと思うのです。
 たとえばお互いが何か大きな失敗をしたとします。失敗をすること自体は、お互い人間の常として、一面やむをえないといえるかもしれません。しかしその失敗が自分にとってきわめて深刻な場合には、それを気に病んで悲観し、思いあまって自分の生命をちぢめるといったような姿さえ実際にはみられます。
これはまことに気の毒な、同情すべきことだと思います。 けれども、また一面においては、もしも素直な心が働いていたとするならば、おそらくそういう不幸な姿に陥ることはさけられるのではないかとも考えられます。
たとえば”失敗は成功の母である”というように考えて、それを生かしていこう、と思い直すことができると思うのです。
 すなわち、一つの固定した考えに陥って思いつめるという姿からぬけ出し、大失敗は大失敗だが、しかし死ぬほどのこともない、努力すればまたなんとかなるだろう、などというように、その失敗を本当に成功の母とするような考え方なり努力をしていくこともできるようになるでしょう。
 流れる水はいかなる障害物に出あおうとも少しも苦にせず、サラリと回って流れつづけていきます。それと同じように、真の素直な心になったならば、いかなる困難に出あおうとも融通無碍(考え方にとらわれるところがなく、自由であること)に対処して、みずからの歩みをきわめてスムーズに進めていくことができるようになると思います。

(注)松下幸之助:18941989年 パナソニック創業者、経営の神様と呼ばれ、日本を代表する経営者

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生き方次第で運命を生かすことができる         松下幸之助

 人生というものは、そのほとんどがいわゆる運命というものによって決められているのではないではないか。これまでの歩みをふり返ってみるとき、どうもそんな気がしてなりませんと松下幸之助(注)はつぎのように述べています。
 たとえば、なぜ自分は家電の仕事を始めたのか、幸いにしてある程度成功することができたということ一つを考えてみても、どうもそうなるような運命が与えられていた、という以外に説明がつかないように思うのです。
 というのは、世の中には、すぐれた人がたくさんいます。からだが丈夫、高い学問がある、素質才能に恵まれている等々、そのどれ一つとっても、私はずっと下の方だと思います。
 にもかかわらず、多少とも事業で成功している面があるとすれば、運命というものを自分なりに、あるいは自然のうちに前向きに生かそうとしてきたということです。
 家が貧しかったために、幼いうちから商人として働き、躾を受け、世の中の辛酸を味わうことができた。生来からだが弱かったがために、人に頼んで仕事をしてもらうことを覚えた。学歴がなかったので、常に人に教えを乞うことができた。あるいは何度かの九死に一生を得た経験を通じて、自分の強運を信じることができた。こういうように、自分に与えられた運命をいわば積極的に受けとめ、それを知らず識らず前向きに生かしてきたからこそ、そこに一つの道がひらけてきたとも考えられます。
 いうまでもなく、運命というものは、人間の意志や力を超えたものです。自分ではどうすることもできません。
 しかし、それでは、運命として与えられたものは、すべて全く人間の力ではどうにもならないかといえは、必ずしもそうではないと思います。そこが運命の実に不思議な、妙味のあるところだと思います。
 自らの意識や行動いかんによっては、与えられた運命の現れ方が異なってくる。つまり、”人事を尽くして天命を待つ”という言葉がありますが、お互いの生き方次第で、自分に与えられた運命をより生かし、活用できる余地が残されているとも考えられます。私のこれまでの生き方も、与えられた運命を生かすものであった、とは言えるような気がするのです。
 では、その人間に残された余地とはどのくらいなのか。私なりに推測すると10%~20%ぐらいあるように思います。つまり、この10%~20%の人事の尽くし方いかんによって、自らの80%~90%の運命がどれだけ光彩を放つものになるか決まってくるということです。
 とすれば、お互いにとって大事なのは、その10%~20%なりの範囲において精いっぱいの人事を尽くすということだと思います。自分の人生にはどうにもならない面があるけれども、その範囲において、こうだという信念をもって、自分自身の道を力強く歩むよう努めていく。そうすれば、たとえ大きな成功を収めても有頂天にはならないし、失敗しても失望落胆しない。あくまで坦々とした大道を行くがごとく、処世の道を歩んでいくことができるのではないかと思うのです。
(注)松下幸之助:18941989年 パナソニック創業者、経営の神様と呼ばれ、日本を代表する経営者

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誰にでも当てはまる学級づくり   磯野雅治

37年間の教師生活で、磯野雅治(注)は教師という仕事の2本柱は「授業づくり」と「学級づくり」だと考えてきました。
新任で磯野は中学2年生の学級担任になりました。当時、磯野は「・・・・・なクラスになったらいいなあ」という思いはあっても「学級づくり」という考え方はありませんでした。先輩の教師に言われるがままに、班を作り、班長会でクラスのようすを話し合う。でも何を問題にし、何を指示していいのかもわからない。行事もこなしていくのが精いっぱい。そんな日々が続きました。でも、子どもが大好きだった磯野は、休み時間も子どもと遊ぶフットワークのよい教師ではありました。
当時、磯野は、「めあて」や「てだて」も持たず、日々の子どもとの交わりに埋もれてしまっていました。当然のことながら、磯野のクラスでは、2学期末頃から教室の空気が変わり始めました。一部の子どもの「後ろ向き」な発言にクラスが引っ張られるようになり、多くの子どもが「こんなクラスはイヤだ」と言い出す始末。でも、有効な手を打てないままに学年末を迎えたのでした。
そんな失敗をくり返しながら、ようやく磯野の中に「学級は創るもの」という考え方が生まれ「学級づくり」をめざして「めあて」や「てだて」を考えるようになったのは、2回目の3年生を担任した時で、新任以来5年が経過していました。
「よい学級」とはどのような学級なのでしょうか?
磯野流にいうならば、それは「子ども同士がしっかりとむすびついた学級」「どの子にも活躍の場面がある学級」なのです。
磯野の「学級づくり」とは、そのような学級を目的に意識的につくることです。
つまり、磯野にとっての「学級づくり」は「どのようなクラスを創るのか」というめあてをたて、クラスを創りあげます。それを達成するために、学級組織をどうつくるのか、学級活動をどうするのか、イベントなどにどのように取り組むのかという思いをベースにして創ります。
学級は担任と子どもと保護者のおりなす関係によって成長し、ときには問題がおきます。磯野の学級づくりはこの3者を結ぶことです。それに、学級の一人ひとりの子どもに、めくばり、気くばりをして人間関係づくりをめざしながら、課題を持つ子により注意を払うことです。
そこから30数年、磯野は「学級づくりとは何か」ということを考え続けてきました。毎年新学期を迎えるにあたって磯野は「今年は去年より1つ新しいことを取り入れてみよう」と考えてきました。常に「自分はまだ発展途上にある」とも考えてきました。
しかし、こうして考え続けた学級づくりですが、磯野にとっては、いわば教科書のようなものはありませんでした。それは、学級づくりが個々の担任と子どもたちの集団という「個性」と「個性」の関わりを通してなされるものであり、ある教師の実践がそのまま他の教師の実践モデルとはなりがたい性質のものであるからだと磯野は思っています。言いかえれば一般化しにくいものであるということです。

(注)磯野雅治:1947年生まれ 大阪府公立中学校教師 退職後、学級づくり交流センターるるる塾を主宰

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熱意と誠意があれば何ごとでもできる         松下幸之助

 知識も大事、知恵も大事、才能も大事。しかし、何よりも大事なのは熱意と誠意である。この二つがあれば、何ごとでもなし遂げられると松下幸之助(注)はつぎのように述べています。
 私はこれまで、熱意と誠意の大切さを痛感し、自分がこの点において欠けるところがないかということをたえず自問自答してきました。そして、実際、こういうように仕事をしていきたい、従業員とともにこのような会社にしていきたい、といった経営に対する熱意と誠意だけは、誰にも負けないような強いものを持っていたのではないかと思います。
 ですから、学問もなく、体も弱く、これといったとりえのない私でも、自分よりすぐれた知識才能をもった部下の人たちに仕事をしてもらい、成果をあげることができたのでしょう。
 ですから、私はよく言うのです。「社長というものは、何よりも熱意と誠意だけは、その会社においていちばんのものを持っていなければならない。社長にそれがあれば、社員もそれに感じて、知識あるものは知識を、技能あるものは技能を、というように、それぞれに自分の持てるものを提供し、働いてくれる」と。
 このことは責任者の立場にある人だけに言えるものではありません。また、仕事の場だけに言えるものでもありません。人生のあらゆる場で、すべての人にとって、何か事をなし遂げようとする場合、熱意と誠意のあるなしが成否を決めるいちばんの鍵となってくると思うのです。
 極端に言えば、口がきけない人であっても、熱意と誠意に強いものがあれば、きっと筆談をするとか、身ぶり手ぶりをまじえるとか、いろいろとくふうして、事をなしていこうとするでしょう。またそうした態度が人の心をうち、共感を呼んで、必ず協力者が現れてくる。物事とはそのようにして成っていくものではないでしょうか。

(注)松下幸之助:18941989年 パナソニック創業者、経営の神様と呼ばれ、日本を代表する経営者

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子どものそばに立ってあげて           水谷 修

今、日本の子どもたちが、病んでいます。不登校、ひきこもり、心の病、自殺、いじめ、非行、少年犯罪、児童虐待・・・・・・。子どもたちについての悲しい報道が、絶えることなく続いています。
これらの子どもたちの問題の背景に、私たちの社会は、つねに緊張を強いられ、常に情報を集め、対応していかないと置き去りにされてしまう。そんな社会になっていますと水谷修(注)は、つぎのように述べています。
たぶん子どもたちの目に映る親や先生、大人たちは、いつも走り回り、何か話しかけても「あとで」と去っていく忙しい存在です。多くの子どもたちは、社会や大人たちに対して閉ざされてしまっています。
そして、その寂しさの中から「自分は愛されていない存在」「もうどうなってもいい」と、さまざまな事件や問題を引き起こしています。
子どもたちは、受けた優しさや愛が多ければ多いほど、語られた夢や希望が多ければ多いほど、非行や犯罪、心の病から遠ざかります。また受けた愛や優しさが深ければ深いほど、非行、犯罪や心の病になっても、その傷は浅くなります。
今、私たち大人は、子どもたちを見失っています。子どもたちが本当に求めているのは、お金や服や、ゲーム機や携帯電話なのでしょうか。確かに子どもたちは、欲しがりますし、親たちも、きちんとかかわれないことへの償いとして買い与えています。
でも、子どもたちは知っています。なぜ、そんなものが欲しいのか。満たされていないから、寂しいからだと。なぜ、大人たちが、いとも簡単に買い与えてくれるのか。親たちがきちんと向き合って日々生きていないことに対して、やましさを持っているからだということを。
大人のみなさん、子どもたちが本当に求めているものは、何なのでしょうか。わかっているはずです。
すべての大人たちにお願いです。親として、祖父母として、近所の一人の大人として、人生の先輩として、子どもたちのそばに立ってあげてくれませんか。そして、ともに喜び、ともに悲しみ、時にともに悩み、多くの時を一緒に過ごしてくれませんか。子どもたちは待っています。

(注)水谷 修:1956年生まれ 定時制高校の教師となり、横浜市を中心に夜の繁華街をパトロールする「夜回り」を始める 2004年教職を辞し、全国で講演と夜回りを続けている

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指導主事になって人柄が変わってしまった    有田和正

指導主事や管理職に向く人、担任や授業に向く人等、人には向き、不向きがある。こういう例を有田和正(注)はたくさんみてきた。有田はつぎのような例をあげている。
担任をしているころは優秀で、授業や研究で地域の教師をリードし、若い教師の面倒もよくみていて人望もあった。この人が指導主事になってから、人柄が変わってしまった。学校へ指導に出ても、命令的な言い方をしたほうが人は動くと勘違いして、高圧的で権力的な言い方になった。やがて、一人ずつ支持者が減っていき、上司もその指導主事が現場から総スカンをくっていることに気づき、閑職へ配置換えになり、定年前にやめた。
これとは逆に、別の教師は指導主事になってから、今まで以上に頭が低く、ことばもていねいになり、誰にでも気軽に声をかけたり、はげましたりした。このため人気が出てきてやがて課長や部長になった。その人の指導で地域の学校現場も変わった。上から命令でおさえつけたりせず、学校が自由に判断できるようにはからった。その影響で校長も教師も、のびのびと研究に力を入れるようになり、研究発表会などを学校で自主的にするようになった。この人が退職してからも家を訪ねる若い教師の数は減らないという。

(注)有田和正:1935年生まれ、筑波大学付属小学校,愛知教育大学教授を経て,東北福祉大学教授。教材・授業開発研究所代表

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教師の意識を変えて学校を立て直す   山廣康子

学校を再生するためには、まず「教師の意識を変えなくてはならない」というのが教頭として赴任した当初からの、山廣康子(注)の考えだった。というのも、教師たちの大半が、都合の悪いことはすべて社会のせい、他人のせいにしていたからである。山廣はつぎのように改革を進めていった。
生徒は社会の犠牲者で「生徒を受け入れてやらなければ」と教師たちは言うけれど、それでは生徒のためにはならない。そのまま社会に出したら、生徒たちは間違いなく切り捨てられる。
生徒たちを受け入れ、救うと言いながら、生徒たちの行動を放置し、容認するだけという野放しの状態。いったん、このように割り切れば教師はとても楽である。
教師たちは口では「大変だ、大変だ」と言っていたが、生徒指導も進学指導もろくにしない。教材研究も、クラブ指導も同様である。教師にとって、こんな楽な学校はない。授業中寝ていてもオーケー。制服を着ていなくてもオーケー。
このままでは、この子たちは落ちるとこまで落ちてしまう。山廣は危機感を持っていた。とはいえ、いきなり教師たちの意識を変えることはできない。
そこで山廣はまず生徒を指導するという、教師としてごく当たり前の意識を芽生えさせようと思いついた。夏休みに教師を集めて会議や研修を行い、いくつか提案することにした。まず、提案したのは、遅刻指導をするということ。しかし、教師たちは、ことごとく反対した。「では、ゆっくりやりましょう」と、山廣はこんこんと説得を続けた。
次に服装指導を提案した。山廣は、まず身だしなみをきちんとしなければ生徒たちの意識は変わらない、という確固たる信念をもっていた。しかし、またもや教師たちの反対にあった。
職員会議を延々と続け、ようやく、遅刻指導から行うことが決定した。服装指導は、とりあえず、山廣をはじめ生徒指導部の教師が積極的に指導することで落ち着いた。
早速、二学期の始業式から、校門の前に遅刻指導用のテントを張った。教師が交代で常時テントで指導する体制を整えた。実質的には“出入り指導”であった。朝、遅刻してくる生徒はもちろん、授業中に勝手に学校に出入りする生徒をチェックする機能も兼ねていたからだ。出入りする生徒を呼び止めて、話をして、少しずつ人間関係を築いていく。それが、この指導の目的でもあった。
1カ月、2カ月と続けるうちに、遅刻指導は次第に効果をあげ始めた。遅刻が目に見えて減少。さらに、生徒と教師の関係が密になった。テントの前で、一対一で話をすることができるため、生徒が勉強、家庭、恋いの悩みを打ち明けることなどが次第に多くなったからだ。同時に、教師間で生徒たちに関する情報の共有化も図れるようになったのである。

(注)山廣康子:1949年生まれ 広島県公立高校教師、元高校長。荒れた学校をトイレ掃除などさまざまな改革を行い学校を立て直した

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教育は日々新しいものをつくり出す力にある    芦田恵之助

子どもは生きたものであり、教師も生きたものである。子どもや教師の日々の生活は、日々新しいものをつくり出す態度でなければならないと芦田恵之助はつぎのように述べている。
たとえば全校朝会をするときに「合図の笛が鳴ったら、みんな立ち止まって」と言っても、千何百人の子どもたちの心が同一にと言うわけにはいかんものであります。それを同一の方に向くように、しかも子どもたち各自が己の志す所に向かって努力して学ぶ気持ちに仕向けるということこれが即ち創作であります。
「合図の笛が鳴って立ち止まる」と言うことは日々同じであるけれども、一回として同じ合図の笛がであり、同じ直立ではありません。一回として同じものであろう道理はないのです。
育つもの、育てるもの、共々に刻一刻と変わって行くものであります。そういう風に観るところに学校の隆々たる教育精神が見え、それが機械化するところに価値の乏しいものになり学校教育は、ほころび行くようになると思います。
教育の精神は日々築き上げて行くその創作の力にあると考えているのであります。
私はこの意味に於いて、することは日々同じであっても、生活そのものに変わりはないようであるけれども、日々が新しいものであると言う、この気持ちは、教育の神髄でありまして、学校の日々の生活を創作的に稔じあげて行くという精神が、教育であると信じます。
(注)
芦田恵之助:18731951年、東京高師付小教師、全国各地で授業をする。国語教授法や自由作文の教授法を考え実践した

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カウンセリングの効用と限界   山崎洋史

カウンセリングの効用と限界について山崎洋史(注)がつぎのよう述べている。
カウンセリングは、原則として、心の健康な子どもを対象に、心理的サポートをしたり、比較的簡単な課題解決の支援をするものである。
カウンセリングを続けていくと、症状がいっこうに改善されず、悪化していくこともある。
面接していくなかで病理が明らかになったり、精神的脆弱さが露呈されてきたときは、相談を中止し、すぐに専門家に繋げていくことが求められる。
カウンセリングは、適切な心理的距離が保てる第三者のカウンセラーが行う方がうまくいくことが多い。
カウンセリングの最大の困難さは、自分の問題を解決したいという意識のない子どもである。親や教師が、何とかしたい気持ちで無理につれてこられても、関係がうまくとれずに終わることが多い。そのような場合は、カウンセリングではなく、教師が指導的なアプローチでかかわることも考えるべきであろう。
一方、カウンセリングによってサポートされ、心の平穏が得られたと感じる子どもたちも少なくない。その効用は
(1)
心の安全基地
カウンセラーに、勇気づけられて問題解決に努力していく力が涌いてくる。カウンセラーから守られ、認められることによって、本来の能力を安心して発揮できるようになる。
いつでも困ったらカウンセラーに相談に行けるという関係が、心の平安の源になるのである。
(2)
カルタシス効果(精神の浄化作用)
誰にも言えなかった苦しみや悩みを、カウンセラーに打ち明け、そのまま受けとめてもらえたと感じたとき、子どもの気持ちは落ち着き、安定感を取り戻し、癒されてくる。気持ちがすっきりとしてくる。
(3)
問題に対する見方が変化する
子どもが「困難な問題である」
と思いこんでいても、カウンセリングで問題に対する考え方が変わることで、子どもの気持ちが楽になることがある。
(4)
問題が解決する
一人で悩んで煮詰まっている場合は、カウンセリングを受けることにより、子どもと一緒に考え、寄り添うカウンセラーがいる方が、解決する方法が見つかりやすい。
その際、解決方法はカウンセラーが教えるのではなく、あくまでも子ども自らが選択し、実行し、解決できるようにするスタンスが重要である。そのほうが定着しやすい。
(注)山崎洋史:昭和女子大学大学教授 臨床心理士

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子どもを育てる基本

教師が子どもを育てるためには
第一に聴くということ
子どもにあれこれ教師が言うまえに、子どもの言うことを教師が二倍は聴いていますか。子どもは語彙力が少なく、上手に自分の気持ちを言葉にできないことがあります。まずは、子どもの言葉をしっかりと聴きながら子どもの雰囲気や眼を注意深く観察し、子どもの心の声を聴くことが大切です。
第二に教師の思いを伝えるということ
思いを伝えようとする真剣な気持ちと姿勢が大切なのです。
第三に教師が学ぶということ
ものを教える前に、まず教師自身が学ぶ主体であること。子どもを学ばせ育てるためには、教師が学び続ける人でないと子どもは学ぼうとはしません。
第四に教師は親と共に子どもを育てること。
教師と親は責任をなすりつけあうのではなく、もっと腹を割って話しをして、「子どもの成長」という一点に力を合わせ、共に協力し合わなければなりません。
第五に問題がおきたとき、教師は逃げずに子どもと真剣に向き合うこと。
教師が必死でさえあれば、効率が悪くとも一人ひとりに合った良い教育が行われると思います。

以上のようにすることで、子どもたちと教師の間に信頼が生まれ、絆が生まれ、やがて子どもたちは自分自身の足で、人生に向かって自立していけるようになるのではないでしょうか。
(参照:義家弘介)

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子どものしつけに無関心な親が増えている     三沢直子

最近の傾向として、しつけに関しては無関心という親が増えているようです。そればかりか、「しつけ」という言葉に抵抗感があって「子どもを自由でのびのびと育てたい」ということで、ほとんど子どものやりたい放題にさせている、という親が増えていると三沢直子(注)はつぎのように述べています。
子どもにとって本当に頼りがいのある親とは、ただ甘いだけの親ではなくて、悪いことに対しては、しっかりと壁のようになって立ちふさがってくれるような、ときにはきびしい親なのです。
親は子どもから「愛される権威」であると同時に「尊敬される権威」であることが大切です。
子どもはよく大人を見ているものですから、たとえきびしく怒られたとしても、それが真剣なもので、その子に対する深い愛情から発するものである場合は、子どもはしっかりと受けとめることができます。
ところが、大人の都合やその場の感情によって子どもをしかったり、しからなかったりするならば、子どもは何にしたがっていいのかが、わからなくなってしまいます。そして結局、いつまでも自分の欲求をとおそうとして、まわりの人と常に戦いつづけるような子どもになってしまう恐れがあります。どうも最近の相談を聞いていますと、そういう問題が増えているように思うのです。
かつての家族では、そのきびしくしかることを、おじいちゃんやお父さんが担い、優しくなぐさめるのは、おばあちゃんやお母さんが受けもつという役割分担がありました。しかし、核家族になり母親一人がその両方の役割を果たさなければならないのですから、どちらも中途半端になりかねません。
後でなぐさめてくれる人がいると思えば、思いきりしかることができるでしょうが、しかったその母親が、また、なぐさめ役もやらなければならないのですから、現実はなかなか大変なのです。
そういうなかで、私たちカウンセラーの役割も、単なる受けとめ役だけではすまされなくなって、最近ではどうもその「きびしい壁」の役割を、になわされることが多くなっているのです。

(注)三沢直子:1951年生まれ 明治大学教授 臨床心理士として、心理療法など子育てのお母さんをサポート

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学校には怖い教師が必要だ             河上亮一

最近は世の中どこでも、子どもへの接し方が母性的になっているようだ。
しかし学校の場合は、父性的な要素が必要であると河上亮一(注)はつぎのように述べている。
いやなことでも我慢してやりなさいとか、自分のことだけ考えてはいけないというように、子どもに拒否したり、強制するような姿勢が教師の側に必要なのである。もちろん、その一方で、場合に応じて子どもたちの状況をそのまま受け入れるという母性的な要素も必要だが。
父性的なものがなければ、学校という集団を維持することは不可能なのではないかと思う。
いま小学校はほとんど母性的になってしまった。いま、小学校がいちばん考えなければならないことは、教師-子どもの関係をどうするか、学校の役割は何かということだろう。
どんなに騒いでも、子どものそのときの状況を受け入れ、言葉で説得しようとしているようだが、それが学級崩壊を生み出しているのではないか。
クラスという集団を安定させるためには、守るべき原理を無理やりにでも押しつけなければいけないと思う。そして、あの教師は怖いと思わせるような、ある種の力がなければクラスを維持していくのは無理だろう。子どもは言葉で言うことを聞くわけではない。欲望にしたがって体が勝手に動いてしまうのだから、それは力で抑えてやらなくてはいけないのである。
たとえば、どうしても言うことを聞かなかったら、いまはゲンコツをふるうわけにはいかないから、とりあえずは、烈火のごとく怒鳴りつけるしかないだろう。それでもくり返すようだったら、親に来てもらうから、いまやっていることを、そのままやってみせなさい。それでお父さん、お母さんに判断してもらうからと言う方法もあるかもしれない。
大切なのは、教師の生徒に向かう姿勢である。あっ、この先生は怖いというふうに思わせることなのだ。怖いからとりあえずは黙っていなくてはいけないとか、座っていなくてはいけないということをくり返すなかで、自分を抑える力を少しずつつけるようにしなくてはいけないのだ。
小学校の教師たちが父性的な面をほとんど出さなくなっては、クラスを維持していくのは無理だろう。
中学校でも、この先生は怖いと生徒が思うような教師がいないと、学校そのものが成り立たない。仮にやさしい教師がばかにされて、生徒が言うことを聞かなくなっても、これ以上やると、怖い教師が出てくるかもしれないからこの辺にしておこうというような、そういう教師の共同性をつくっておかなくてはならないのだ。
それをしないで、一人でやろうと思っても無理である。問題なのは、教師たちも事態がよくわかっていないということである。社会が変わり生徒が変わってきているのだから、これまでと同じようなやり方は通用しなくなっているのだ。教師のほうに力量がないということだけではすまないわけである。
一般的に、校長は、教師個人の力の問題だと考えているようだが、事はそんなに簡単ではないのだ。私も偉そうにいろいろ言ったりしているが、現場では、私の個人的な力量だけでなんとかなることなどほとんどない。実際は、その学校の教師の共同性と、それを支える親たちの力に支えられて、なんとか教育力を発揮できるのだ。
安定している学校の場合には、教師のなかに父性的な要素を持った何人かいて、あるときは生徒を怒鳴りとばし、全校集会で大きい声で号令をかけ、おしゃべりをしている生徒を全体の場で叱りつけるというように、陰で基本的なところを押さえているということがあるのだ。
ところが、このことがよくわからず、自分の力でやっているんだと思い込んでいる教師も多いから、そういういやな役割を引き受けている教師が転勤していなくなったとき、あっというまに荒れてしまうということがありうるのだ。
(注)河上亮一:1943年生まれ 元埼玉県公立中学校教諭、日本教育大学院教授、プロ教師の会主宰

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学期の始めに担任の人間的な魅力と指導力を感じさせる

教師であれば新学級の始めが大切であることはだれもが感じることです。
最初の出会いで子どもたちは、どのような担任かレッテルをはってしまうのです。
この最初の時期に、担任の人間的な魅力と指導力を感じさせる、かかわりや対応が、子どもたちとの人間関係に大きな影響を与えます。
一度できてしまった担任のイメージの修正には、長い時間と多くのかかわりを必要とします。
現代の子どもたちは、担任との人間関係を、友だち関係の延長線上でとらえます。担任と子どもたち一人ひとりとの関係ができていないと、担任が指示や指導をしても、すなおに受け入れようとしません。最初は、担任の指示に従っていたとしても、やがて反発するようになってきます。
子どもたちとの関係づくりは、始めの1~2か月がとても重要です。
子どもたちに担任の人間的な魅力を感じてもらえることがキーポイントになります。それがうまくいくと、子どもたちは担任に心を開いてくるのです。
その担任の人間的な魅力とは、河村茂雄(注)によると、まず、担任に対する親近感や、先生は自分を受け入れてくれるという受容感があります。また、担任といると楽しい気分になれるという明朗性もあります。さらに、担任に対する好意や信頼感、ある種のあこがれなどもあります。そして、担任の教え方のうまさ、熱意なども含まれます。
そして、子どもたちの指導についても河村はつぎのようにのべています。
現代の子どもたちは、精神的に弱く幼い、自己中心的で、対人関係が不得意です。現代の子どもたちのこれらの部分は、教育を通して育てていくことが期待されています。だからこそ、子どもたちを責めるのではなく、まず子どもたちを受け止めることが大事になってくるのです。
十分に受け止めた後で、子どもたちの意欲が見えてきたときに、「ではどうすればいいのか」という、その方法を担任が親身になって教えてあげる。そして十分体験学習して、自信を持つことができれば、後は自分で努力するようになると思います。
(注)河村茂雄:1959年生まれ、早稲田大学教育学部教授。15年間公立学校教諭を経験した。学級崩壊,学級経営など教育実践に生かせる研究成果を多数提供している

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子どもの指導方法-自分流を編みだす    家本芳郎

家本芳郎(注)の学校で、教師が「何しゃべっているんですか。おしゃべりやめなさい」と私語を注意したら、その子どもに「うっせーな」と反抗された。
教師がこう言われたというので、この事例をもとに学校で研究会を開いた。この場合、どう指導すればよかったのでしょうか。
参加者が、それぞれ自分の考えた方法をつぎのように演じて見せ合った。
・新卒の教師は「すみません。おしゃべり、やめてくれますか」
・ベテランの家庭科の教師は「楽しそうだね、その話、あとで先生に教えてね」
・社会科の教師は「仲良くていいね。さて、話の続きは休み時間にしたら」
・国語の教師は「そこ」と注目させ、ニコッと笑って唇に指を立て「しーっ」という静粛の合図を送った。
・怖そうな体育の教師は「うるさい。おしゃべりやめろ」と怒鳴った。
・理科の教師は「なに話し合っている。大事なことらしいな。みんなにレポートしてもらおうかな」
・音楽の教師は、近づいて行って「どうしたの。緊急事態発生したのかな」と聞いた。
・保健の教師は「何か先生の授業がおもしろくないのかな。おもしろくなかったら要求してください。どうぞ発表して。ここでいやなら、あとで教えてね。保健室で待っているからね」
と、いろいろな指導方法のあることがわかる。どれも正しいと家本はいう
こういう指導の研究で大切なことは、一つの方法に統一しないことだ。みんながみんな体育の教師のように、みるからに怖そうな教師でないからだ。指導方法は「各自の自由」である。
このように、それぞれの指導方法をだしあって、つぎの順序で自分流の指導方法を編みだせばよい。
・いろいろな教師のいろんな指導方法を学ぶ。
・そのなかから、自分にもっともふさわしい指導方法をさぐり、発見する。
・発見した指導方法をそっくり真似してみる。
・真似した指導方法を自分に適するように修正してみる。
・さらに、発展させ、自分流の指導方法を編みだす。
指導方法は自分流を編みだせれば、いうことはない。そこにいたるまでは、先人に学ぶことであると家本は述べている
(注)家本芳郎:19302006年、小・中学校教師長年、生活指導の研究会活動に参加した


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授業づくりの基本   有田和正

授業で「これだけは何としても教えたい」ことを教師が鮮明に持ち、子どもたちが「何としても調べ追求してみたい」というように指導することが授業なのであると有田和正(注)はつぎのように述べている。
教師が「教えたいこと」を子どもが「学びたいこと」にするには、指導技術が必要である。この技術がなければ愛情があっても役にたたない。
最低限、身につけるべき指導技術はつぎの4つである。
1 発問・指示の技術
授業は教師の発問・指示で始まる。優れた教師は実にうまい。たとえば「バスの運転手はどこを見て運転しているでしょうか?」と問いかければ全員の手が上がり「前を見ている」と活気が出てくる。「前だけですか?」と問うと「バックミラーで後ろも見ている」という。「いや、横も見ているよ」とどんどん広がっていく。こういう発問・指示をすることである。
2 板書技術
発問・指示すると「子どもが反応」する。それをうまく整理して、黒板に色チョークを使い、きれいな文字で、内容のまとまりごとに区切って書いていく工夫が求められる。板書で「子どもの反応」をうまくまとめていくことは重要な技術である。
3 資料活用の技術
授業で教えたい内容にふさわしい情報を集め、子どもがそれを見て「はてな?」という資料を作成する。そして、「ここぞ」というところで資料を提示する。資料提示により「子どもの反応」をうまく集約焦点化できる。
「これだけは何としても教えたい」という内容を、この資料の中に含み込んだものを作成することが重要である。
子どもたちの追求の出発点になるので、優れた教師は最も資料作成にエネルギーを注ぐのである。
4 話術・表情・ゼスチャーの技術
教育は「ことば」で行われるので、教師は話術を磨く必要がある。短く、歯切れのよい、内容がはっきりとわかり、明るい話し方をすることである。
能面のように無表情で教師が話したのでは、子どもは聞かないし、おもしろくない。教師の表情も大切だ。ゼスチャーを入れ、ややオーバー気味に、明るく、おもしろく話すことだ。声も大きすぎるくらいがよい。
授業で指導技術以外に重要なことは
1 人間性
これは技術ではない。授業には必ず教師の人間性が出てくる。子どもを心から愛しているかどうかは、子どもは敏感に感じとる。技術と人間性が必要である。人間性も磨くことだ。
2 評価
学習活動は、身近なこと、やりやすい活動から、次第にむずかしいものへと進むものだ。一つのことができたと評価したら、つぎの段階の活動へと進む。指導しながら、常に「どのくらいわかったか」と評価することである。
(注)有田和正:筑波大学附属小学校、愛知教育大学教授を経て東北福祉大学教授 教材づくりを中心とした授業づくりを研究

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若いうちは、たくさん恥をかいておけ        野口芳宏

本当にすぐれた授業にはなかなか出合えないものである。野口芳宏(注)は六十歳を越えても会心の授業などとてもできないままでいる、お恥ずかしいかぎりだとつぎのように述べている。
教師になって二年目に「若いうちは、たくさん恥をかいておけ」と地域の国語研究会で授業をするように言われて野口は引き受けた。野口は「無言の行」という十訓抄(鎌倉時代の面白い小話や教訓の説話集)のなかの笑い話の授業をした。笑い話の授業なのに何となく白けて良い授業とは言えなかった。
野口の後にベテラン教師の授業があった。立ち上がりはやや鈍い授業だったが時間が経つにつれ活気を増していくことに野口は驚きを覚えた。野口はこのとき「授業は教師の力量次第である」という思いを味わった。この感銘は、その後の野口の教師修業の底流となった。「授業の責任はいっさい授業者にあるのだ」という自戒の思いは、授業に失敗したときでも、自分の成長の糧として生かせ得るようになった。
かくて、野口は授業を好み、授業にかけ、燃え、こだわるようになった。研究授業は苦痛のたねとされるが、野口は苦労も、苦心も、辛さもあったが、それを越えてもたらされる楽しさがあった。
そのベテラン教師は、国語研究会の講話の中で野口の授業にもちょっと触れて話してくださった。「そもそも十訓抄に出てくる話というのは、いずれもそんなにおかしい話、大笑いするような話ではない」と言われた。
この一語が野口には大きな示唆となった。野口は今日の授業に使うものにだけに目が奪われて、その背景やら、出典やら、原典やらにまで目を向けることなど、まったく眼中になかったのである。新しい授業のあり方に開眼させられる貴重な機会となったのである。
やはり、この授業を断らなくてよかったのだ。かつて千葉大学付属小の名校長であった四宮教授は「伸びていく上で最もたいせつな条件は『素直さ』ということだ」とよく言っておられた。本当にその通りであると思う。
(注)野口芳宏:1936年生まれ 千葉大学附属小教師 小学校長経て大学教授、授業道場野口塾等主宰

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若い学級担任は保護者が心配する         仲島正教

若い新任の教師が担任になると、保護者が心配するのは当然です。
では、その不安をどうやってぬぐっていくか。それには、一生懸命にするしかありませんと仲島正教(注)はつぎのように述べています。
少々授業がへたでも、保護者との対応が少々まずくても、一生懸命さは保護者にも通ずるもので、やがて保護者のほうから協力してくれるようになります。ですから、とにかく一生懸命にやるのです。
では、どんなことを一生懸命にやるのでしょうか。すぐにできることは「一緒に遊ぶ」、「わかるまで教える」ことぐらいです。
とにかく一生懸命に遊ぶことです。子どもは一緒に遊んでくれる先生を好きになります。少々授業がへたでも、一緒に遊んでくれる先生の授業は好きなものです。そして家で「学校は楽しい!○○先生大好き!」と言います。保護者からみれば少々頼りなくても、子どもが「先生、大好き!」という教師に、親は決して文句は言いません。
もう一つできることは「わかるまで教える」ことです。でも本当に大事なのは、実際に「わかるまで」教えることができるかどうかではなく、担任が私の子どものためにだけしてくれているかということなのです。「私の子どもだけのため」の先生に、親は決して文句は言いません。
つまり、一人ひとりの子どもたちに声をかけること、かかわることです。「今日も先生は私の机に来てくれた」「今日も先生はボクに話かけてくれた」「今日も先生はボクの肩を抱いてくれた」・・・・・その積み重ねです。
担任から一人の子どもをみたら40分の一かもしれませんが、子どもからみるとまぎれもなく一分の一です。全体だけをみるのではなく、若さを生かして動いて動いて、一人ひとりの子どもたちに必死にかかわっていくことです。
「若い」からこそ保護者からは心配されますが、「若い」からこそ期待もされます。その期待に応えられるように、一生懸命にしたいものです。
(注)仲島正教 1956年生まれ兵庫県で小学校教師・指導主事を経て退職。若手教師セミナー塾主宰

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教師は人間の本性にたち帰るように努めねばならない    芦田恵之助

 芦田恵之助(注)は人間を育てる教育は、名画家や名俳優以上に、日々行う授業に、入神の技が必要だと主張する。これを求めるには知識のみではだめである。方法のみでも得られない。人間の本性(本来もっている性質)に帰ることに努めねばならないと芦田はつぎのように述べている。
 修養の本性は人間が本来もっている性質にたち帰るという意味である。
 私は、人間の本性を定義することはできない。ただ明鏡(曇りのない鏡)の如き止水(なんのわだかまりもなく、澄みきって静かな心の状態)、七色の配合した太陽の光線、七情(喜・怒・哀・楽・愛・悪・欲)の調和した人間の本性、これらを思いあわせて、万物一如(あらゆるものが一体であること)の真理を認めないわけにはいかない。
 人間の本性を悟ったものは、利害得失の思いを超越してしまう。この本性を得るには修養しかない。
 人間の本性に帰る最も早い道は、端座瞑目(姿勢を正して座り目を閉じる)して自己の内観(自分の考えや行動などを深くかえりみて精神状態を観察する)につとめるのがよいと思う。
 私の内観の方法は、自然にまかせて、意識にあらわれるものを静かにながめて、去るものは追わず、来るものはとがめないのである。お金もあらわれる、美人もあらわれる、名声・利達・嫉妬・怨恨、あらゆる悪徳の行列が通る。あさましいが、それが七情の仮装であるからしかたがない。過ぎ行くままにまかせておく。
 これら百鬼(種々の妖怪)は次第に影を潜める。かつて夜も眠らぬほど苦悶したことも、児戯(幼稚なこと)に等しいように感じて来る。こうなると一面には広々とした世界が、次第に展開して来るようになって、本性の閃きかと思われるものが見える。
 内観により、お金よりも、美人よりも、名声・利達よりも、嫉妬・怨恨よりも、世相を超越した心の安住の場所が感じられる。人間の「性」とか「道」とかいうものはこれだろうかと思うようになる。物があるのではない、規範があるのでもない。世の中の百事をこれに映して、即断即決してもあやまりではないように思われる。これは私一人の経験である。
 私は読書をしたり、他人の説を聞いたりして、人間の「性」とか「道」を会得しようとつとめた。いつのまにか自己に「性」が宿り、「道」が行われていることに気づかなかった。
 瞑目(目を閉じること)は内観を行うために最良に工夫されたものである。端座(姿勢を正して座ること)は身心を平静させる唯一の方法である。心身の気分に注意をすると、百鬼の往来する間は、形は端座していても、心は平静ではない。百鬼が次第にその影を潜めてくると、自ら心がひろく体がゆたかになる。
 端座瞑目して内観につとめ実行することを、一日でも怠ってはならない。ひたすら心がひろく、体がゆたかなる気分を得ようと端座瞑目するがよい。これが即ち修養である。
 内観によって得たものは、強い信念が伴っている。信念の伴うものは、事に当たっては融通自在である。茶道の達人は茶を点てる技から悟入(一切のものの真実のすがたをさとること)して、天地を開拓している。およそ一道に名を得たる人の動作には、いずことなく典雅(上品なさま)の趣がある。
 修養に志す者の身体的工夫の一つとして、丹田(へそより少し下のあたりをいう。ここに力を入れると健康と勇気を得るといわれる)に力をこめることを説かないものはない。忙しいときや事件に遭遇しても、丹田に力が抜けないように修養すれば、非常時でも普通の事となり、忙中に閑を発見することができるだろう。
 私は、修養の方法として、内観につとめ継続すること、丹田に力をこめること、読書することを勧める。常に丹田に力をこめて、自ら内観につとめ、本性のひらめきを認めてここに心を安住し、七情の調和をたのしめば、心はおのづからひろく体はゆたかになる。これを何十年も実行すれば、そのうち人生の真意義が、釈然として氷解するときがくるであろう。
 修養の道場として、教室と運動場を特にあげたいと思う。子どもが事件をおこしたときは丹田の力が抜け、七情の調和がやぶれ腹をたててしまう。後で心が平静になったとき、なぜこの事に腹をたてたのか、即ち怒る要のないときに怒ったということが多い。
 教師は太陽が年中その光を閉ざさないように、雲が光を覆うことがあっても、雲が去ると共に輝きだす態度が望ましい。万物は太陽の光により成長し、子どもはこれがために育つのである。
(注)芦田恵之助:18731951年、東京高師付小教師、全国各地で授業をする。国語教授法や自由作文の教授法を考え実践した

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子どもの成長を支えるものは教師の高まりとひろがり   稲垣忠彦

大阪の小学校教師の西岡陽子さんの実践において、稲垣忠彦(注)が受けてきた印象は、より高い可能性、より洗練された表現という志向であった。子どもたちの成長を支えるものは、なによりも実践者自身の高まりとひろがりであると稲垣はつぎのように述べている。
西岡さんの高まりと広がりの契機となったのは、実践による子どもの高まり、広がりの発見であり、とりわけ障害をもった子どもとの出会いが、人間の可能性の深さ、豊かさへの理解を深める契機となっていることが注目される。教える者が、教えられる者の変化をとおして学び、変わっていくという教育の仕事のダイナミズムが示されている。
西岡さんが言ったことは、「子どもを生かし、自分も生きるということを大切にしたい。また、実践ではじっくり、ゆっくり、しっかり、そして楽しくをこころがけている」ということであった。
子どもたちの表現を手がかりに、西岡さんは子どもに働きかけていく。それは、はげましであったり、基礎の注意であったり、新しい方向づけであったり、子どもがゆきづまっていることをのりこえるための示唆であったり、じつに多様な助言を西岡さんがおこなっている。
子ども同士の表現や発見の共有、相互の触発をどのように組織していくかが、西岡さんの授業の大切な部分をなしており、それはクラスにおいて子どもたちがお互いの存在を理解し、必要感を学ぶ機会となっている。
新任の西岡さんと出会って十七年になる。西岡さんの歩みをたどるならば、教師になった年に教授学部会で斎藤喜博先生に出会い、教師として人間としての生き方を学び、助言や示唆を成長の糧とされている。
そしてその後、細田さんという先輩に出会い、そのサークルや学校で、相互に実践を検討し、経験を共有し、支え合う仲間をもっている。また、美術の指導については、上野省策先生の批評や助言によって学んでいる。
実践に必要な研究の機会を積極的に求めてサークルに参加し、教室でつきあたった問題をいっしょに考え、自分とは異なった目で、代案を提出する先輩や友人から学ぶことで、西岡さんは授業のひろがりをつくっている。
(注)稲垣忠彦:稲垣忠彦:19322011年、日本を代表する教育学者、東京大学名誉教授、教育方法論、学校現場の授業実践などを研究

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教育と愛   東井義雄

愛は「わしのもの」という意識のことだと東井義雄(注)は思っている。
「もの」が「人のもの」ではなくて、「わしのもの」になると、「あばた」も「えくぼ」に変わってくる。「こと」が「人ごと」ではなくて「自分のこと」になると、ない力まで出てくる。そういう力まで出てくる。そういう不思議なはたらきをするものが「愛」だと東井は述べている。
主体的な「愛」は、ものを、自分ものもとしてかわいがり、育て、調べていく行動的な学習を通してのみ、子どもを育て得るものだと東井は信じている。
それは、身のまわりの物事を、自分のこととして考え、処理をしていくような算数の形によっても育て得るだろう。
かわいがり・育て・製作する理科というような形でも、育てられなければならない。
また、国語では、作文がこの大事な仕事を受け持ってくれるのはもちろんだし、読みの学習においても読みの身構えの問題として「愛」が問題にされねばならない。
(注)東井義雄:元小学校長 地域の生活を取りあげる生活綴方教育の代表的な教育実践家。「ペスタロッチー賞」を受賞

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授業が上達する研修とは   佐藤正寿

佐藤正寿(注)は新任のとき校長から「この分野ならあの先生にと言われるようになりなさい」と言われた。それで佐藤は得意な社会科に決め、社会科の指導方法を学ぶための学習環境をつぎのように設定した。
社会科の教育研究会(県・市・組合)に参加する。研究会で授業参観、報告書の提出、研究授業を行った。後に研究会の事務局を引き受けたので、ネットワークが広がり、会員や役員と話す機会が増え多様な情報を得ることができ、教材開発にもつながった。
社会科の専門書と雑誌を毎月2冊購入する。また民間教育団体の授業報告も入手する。
授業の上達のために優れた授業を見ることは欠かせない。社会科は授業を参観する機会が少ないのでいろんな研究会の案内を必死に探して参観した。
授業参観するとき、特につぎのような視点にこだわった。
指導案の形式、教材とその資料、興味をもたせるための導入の準備、子どもたちが変化した発問や指示、思考を深める授業の組み立て、子どもたちは何をノートするか、社会科用語をどれくらい子どもたちは使っているか、授業づくりに役立った本等
このように、多くの視点をもって参観するとメモも多くなり、自分の授業に生かせる部分も多くなってくる。
佐藤は教室の前方の教卓のそばから参観した。教卓には教師の資料が置かれているのでどのような準備がされているのか参考にできるし、子どもの表情やノートも見える。
それと参観するとき、今日は10個を学びとるといった目標を持つとメモの量や質が違ってくる。参観後の研究会での発言は教師の力量が現れるので勇気がいるが、力量を上げるためにも発言するようにした。
授業力を高めるためには、授業の記録をとるのがよい。教師の発問と子どもたちの発言を記録すると、反応がよかった発問は何か、なぜよかったのかと授業の振り返りができるからだ。また発問の原則・資料の読み取らせ方・話し合いのさせ方といった指導の改善が図られる。
授業直後に板書をデジカメで撮影すれば授業記録も時間がかからないし、授業の流れや資料の掲示がわかる。同時に子ども数名分のノートも撮影し、子どもの感想を確認する。
教材研究はつぎのようにする。
基本的な教材研究は単元が始まる前に終えておく。教科書と学習指導要領と照らし合わせて、指導のポイントをつかむ。教科書は何度も読む。教科書の掲載資料の意図を考える。各社の教科書を比較するとヒントになる。
関連情報をネット調べて必要な本を購入するか図書館で借りる。教育雑誌で先行実践調べる。単元構成や主発問を考える。
社会科の教材のヒントは、日常生活でおもしろいと思ったものを「種」として記録しておくとよい。
(注)佐藤正寿:1962年生まれ。岩手県公立小学校副校長

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話を聞かない1年生のクラスづくり   五十嵐百恵

五十嵐百恵(注)は教師になって6年目に初めて1年生の担任になりました。入学式で五十嵐のクラスの子どもたちは後ろや横を向いておしゃべりを始めました。教室に入っても、自己紹介している五十嵐の話を聞かずおしゃべりを始めます。
4、5月と子どもたちの困った言動に振り回されていたとき、五十嵐は忘れかけていた「仲間を大切にする気持ちを育てる」という学級づくりをふっと思い出したのです。
そこで、五十嵐は仲間づくりのために小集団グルーブを育てるようにしました。個人をほめても、子どもたちは話を聞いていないので意味がなかったからです。
五十嵐は4人グループをつくり、グループごとに「1班さん、姿勢がいいですね。話をよく聞いていますね」といいながら1班に花丸をつけると、他の班の子どもが「○○さん、いい姿勢をするんだよ」といって子ども同士で声を掛け合っていきます。五十嵐はすかさず「さすがリーダーですね。友だちのことをよく見ていますね」というと、グループのみんなは顔を見合わせながらニコニコしています。すると、正しい行動がグループごとに連鎖反応していき、学級全体がピンとした空気に変わりました。
五十嵐は帰りの会には「今日のすてき」というコーナーをつくりました。友だちにやさしくされたこと、素敵なことをしている友だち、がんばっていたことなどを発表します。友だちに認められることで子どもは自己肯定感をもつことができます。そして、友だちの素敵なところをみんなで共有し合うことで、知らなかった友だちのよいところを知ることができます。
けんかが起こったときは、五十嵐はみんなで話し合って解決するようにしました。けんかした子にそのときの状況を一人ずつ話してもらいます。それを五十嵐がわかりやすいように図を交えて板書します。そして、子どもたちに「どうしてけんかになったのでしょう。どうすればけんかにならなかったのでしょう」と五十嵐が聞きます。けんかを冷静に分析した子どもちは、どんどん自分の考えを出していきます。「叩くのでなく嫌な気持ちを話せばいいと思います」それを聞いてけんかをした子もだんだん冷静になっていきます。「そうか。嫌だって言葉で言えばよかったんだ」と、みんなで解決できたことを喜び、言葉で気持ちを伝えることの大切さを学びます。
休み時間には、五十嵐はどんなに忙しくても子どもたちと遊びます。担任が加わるとみんなが集まってきます。授業中に見せない姿も発見できます。飾らない姿でぶつかり合うことで仲間っていいなという思いが学級を一つにしていきます。
ありのままの子どもの姿を受けとめ、仲間を大切にする気持ちを育てていけば、子どもたちは心から学校が楽しいと言うようになると五十嵐は述べています。
(注)五十嵐百恵:1980年生まれ 神奈川県公立小学校教師

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理科:授業づくりの手順   大前暁政

授業づくりを大前暁政(注)はつぎのようにしている。
資料はインターネットでキーワード検索する。たくさんの本が掲載されているのでリストアップしておく。
大きな書店でそれらの本を斜め読みする。特に重要だと思える本を購入する。インターネット情報でよいと思われるものは印刷する。
購入した本や集めた資料を読んで、子どもが驚くだろうなという情報をメモしていく。それら情報の内から骨格になるものは何かを考える。教えたい内容をすべて列挙していく。
つぎに1時間の授業の組み立てを考える。授業は二転三転させて変化をつけたほうが、子どもたちが熱中し盛り上がるので、相矛盾する情報を紹介する。矛盾した情報を示すと子どもちはなぜろうと考え授業が知的に展開するようになる。
そして教師が授業で実際に発問しようとする発問言葉をノートにメモしていく。書いたら口に出して言ってみる。くどいと感じたらできるだけ言葉を短くしていく。発問・指示・説明を何度も修正していくと、よい授業になっていく。
最後に授業に使えそうな映像資料や実験をインターネットで探す。実験は大切なので、実験ができない場合は実物を見せて観察させてもよい。
授業が終われば、反省文を書いて次回の改善に役立てるようにする。
(注)大前暁政:1977年生まれ 岡山県公立小学校教師 理科教育学修士の免状をもつ。「楽しい理科授業」、「初等理科教育」、「授業研究21」などの雑誌に論文を執筆。2007年度ソニー賞入選

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理科:つながりが見える学習  山崎隆夫

理科の「タネと実」の学習のとき、山崎隆夫(注)は「アエラ」という雑誌の記事を使って授業をしました。奈良県でイチゴをビニールハウスで栽培している農家を記者が訪ねて書いています。
「記者がまずビニールハウスに入って驚いたのは、ストーブがあったことです。なぜストーブが置かれていたのでしょう?」と発問すると、最初は「寒い時期だから」と答えていた子たちも、イチゴの成長のためには「二酸化炭素」が必要だからということを見抜いていきます。
「さらに記者が不思議に思ったことは、いくつかの箱のようなもを置いてあることです。なんのために箱が置いてあるのでしょう?」と話すと、最初は「道具を入れておく」「肥料を入れて置いている」などの意見が出ましたが、議論していくうちに、それは受粉のために蜂を入れていると的確にとらえていったのです。
ダイコン、ニンジンにしろ果物にしろ、自分たちが食べているかなりの作物が、蜂のちからによって生産されていることを知って、子どもたちは驚くのです。
子どもたちは、推理・想像しながら、自分たちで発見・解明していく学習が大好きです。農業が自然の法則をうまく利用していることも、新鮮に感じられたようです。
「学びからの逃走」という状況が依然として進んでいるとき、「なんのために学ぶのか」に応える学習が求められます。
(注)山崎隆夫:1957年生まれ 東京都公立小学校教師

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社会科:発問は授業の中核である   佐藤正寿

教師の発問は授業の中核をなすものである。教師の発問の違いによって授業の流れは変わる。佐藤正寿(注)は授業の発問についてつぎのように述べている。
授業の導入での発問は子どもたちがテンポよく答えるような発問がよい。子どもたちが一気に授業に集中するからだ。たとえば、漁業の学習で「あなたがよく食べる魚は何?」と発問すると、つぎつぎと答えがかえってくる。
授業の展開段階では子どもたちの思考を深化させる発問をする。ねらいに迫る発問で子どもたちの思考に働きかける。子どもたちからつぎつぎと発言が出て、絡みあって、さらに深い話し合いになるようにする。
学習のねらいに迫る発問の種類とその意図はつぎのようになる。
「いつ・どこ・だれ・いくつ」:時・場所・人・数を聞くことで社会的な事象が明確になる。
「どのように」:方法・過程・事実を問うもの。「なぜ」:理由・根拠を問うもの。「もし・・・・だったら」:仮定の場面を設定する。今後の社会を考えることにつながる。「○○に賛成か反対か」:話し合う学習活動が展開される。「キーワードは何か」:歴史学習でその時代観を考えさせる。
(注)佐藤正寿:1962年生まれ。岩手県公立小学校副校長

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中堅教師が置かれている立場とは   長瀬壮一

中堅教師はどのような状況に置かれているか、長瀬壮一(注)がつぎのように述べている。
教師も若い頃は、経験不足から視野が偏ったり狭くなっていることが多い。教師生活も10年を過ぎると、子どもや保護者の声をゆったりと受けとめる余裕がそなわるし、授業や学級経営をうまく運ぶコツも身についてくる。自分の考えを、個人としてではなく、学年や学校全体の教育実践に広げる面白さを感じられるようになる。そして、学年や委員会を企画運営すことも多くなる。ベテランや若い教師の意見をまとめる役割も担う。
中堅教師は、校長や教頭が頭を悩ます問題や若い教師がぶつかる問題が集まってくる。問題を乗り越えるための協力や行動の期待が中堅教師に寄せられている。
問題が簡単でないから、中堅教師に相談されているのであるから、誠実に自分ができる限りのことをすればよい。そんな仕事を楽しむようになれば中堅教師としては一人前である。
中堅教師には人の意見を聞くという姿勢が求められる。若い教師もベテラン教師も安心して相談できるのは、自分の考えを聞いてくれる人である。話しを聞いたうえで、学年や学校全体をみた判断が中堅教師にできるようになっていなければならない。
中堅教師は、学校の核となる考え方や行動の仕方について、校長や教頭から学ぶ姿勢を忘れてはならない。日常から学校として間違いのない判断ができるよう管理職と意思疎通を図り、適宜判断を仰ぐことが必要である。
学校は校長の教育理念を具現化する組織であり、子どもの成長に生かされるよう、教職員が智恵を出し合い、運営するチームワークが求められる。中堅教師は困難が伴うが、その中間に立ち、教師として生きがいのもてる立場にいるのである。
(注)長瀬壮一:神戸女子短期大学福学長 教授

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先輩に授業以前の問題だと言われた

いっこうに授業がうまくならない。学校に行くのが憂うつだった。
授業がうまい先輩の授業を見せてもらったり、自分の授業を見てもらったりした。そのとき先輩から「授業以前の問題だ」と言われた。ショックでそれが何なのか問い返すこともできなかった。
よい授業をしたいと焦る気持ちから、てっとり早く手に入れた授業技術や奇抜なアイデアばかりに気を取られていた。一面的な授業観と、目の前にいる子どもたちに目を向けずに、形式的な準備ばかりをしていた。
今にして思えば、授業を成立させているのは教師と教材だけでなく、子どもという主体が欠かせないことに気づいていかなかった。生きている子どもたちに対応できないのもあたりまえだった。
(参考)「教師という仕事・生き方 若手からベテランまで」山崎準二編著 日本標準 2005

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国語科:導入のもつ役割   三浦和尚

国語の導入のもつ役割を三浦和尚(注)は次のようにまとめている。
(1)
子どもの意識を学習に向ける
理科など実験材料のような「もの」がある教科に比べて、国語は学習材の魅力いかんのところがある。歌を歌わせたり、低学年だと「手遊び」をさせることもある。場合によっていわゆる「無駄話」をして、顔を教師のほうへ向けさせることもあろう。
(2)
学習材の内容に関心を高め、意欲化を図る
これからの学習がおもしろそうだという予感をもつことができれば、上出来である。読むことの学習材の場合、例えば学習材の表題「クジラの飲み水」(大隅清治)について「クジラは水を飲むの?」「クジラの飲み水って何?」など表題読みで関心を高めることはできる。
「宮沢賢治という人を知っていますか。作品を読んだことはありますか?」など知識から入ることも可能であろう。
(3)
これからの学習の見通しを立てる
例えば朗読の学習を展開するときに「朗読発表会を開こう」という主題を提示すれば、子どもたちは「朗読発表会を開く」という明確な目的を意識して学習を進めることができる。
(4)
これからの学習に必要な知識や技能を確認する
読むことの学習においては、まず本文に子どもたちをぶつからせることが望ましい。読む前にいろいろ語って、先入観を与えてしまうことは基本的には避けたい。「あめ」(山田令次)や「故郷」(魯迅)などの場合、読みの過程で当時の社会状況にふれることがあるにしても、最初からそういった背景をもとに読む必要はなかろう。
しかし、例えば「トロッコ」(芥川龍之介)の年代イメージや「やまなし」(宮沢賢治)の北の国のイメージなどは、作者を通して事前にイメージ化しておくことは考えられる。
説明的文章の学習においては、その話題について理解しておくほうがよいこともあろう。
また「話す・聞く」「書く」学習において、その話題や技能について確認しておくことが必要な場合もある。
(5)
これまでの学習とのつながりを明らかにする
これまでの学習を振り返り、その流れの中でこれからの学習があるのだと、学習の必然性を確認する場合である。
(注)三浦和尚:1952年生まれ 広島大学附属中・高等学校教諭 愛媛大学教授 日本国語教育学会理事国語科学習指導の方法について考察

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英国の教育改革

英国の教育改革が始まった背景には、1970年代後半の長引く経済停滞や高い失業率、賃上げストライキが続き、財政赤字が深刻化することで福祉の維持が困難になっていた。英国病(勤労意欲が低下して福祉に依存し、既得権益にしがみつき経済や社会が停滞した状況)といわれる状況にあった。
この困難な状況を克服するために、サッチャー首相(19791990)は金融・経済の規制緩和をおこない、市場原理による産業の再建、活力ある社会の建設をめざした。教育水準の向上を教育改革の目標とし、優秀な労働力づくりを始めた。
優秀な労働力づくりのために、地方教育当局の権限を縮小し、国の教育課程基準を定めて教育を国家が計画・管理していくシステムづくりを始め、すべての学校が定期的に監査を受ける体制がつくられた。
グローバルな競争社会の到来で、教育水準の向上をはかるために、市場原理による競争を教育にも取り入れ、学力競争を学校に持ち込んだ。全国学力テストを実施し、その成果を学校別に公表した。また、親の学校選択の拡大や学校の自主的運営(学校による教育改善をはかるため、学校理事会で教育課程の編成・人事・予算の運用を決定する)を強化した。
その後のブレア首相(19972007)も教育を最優先課題にして教育施策を引き継いだ。
英国で現在進められているこれらの教育改革は1988年教育改革法から始まっている。

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理科:授業の記録のとり方   大前暁政

授業が終わったら必ず授業の記録をとるようにするとよい。理由は、今後の授業改善に生かせるからである。
大前暁政(注)は、教師の発問・指示・説明と子どもの反応を必ず記録するようにしている。大前が言った通りの言葉を思い出して書いていく。言い方が異なると子どもの反応が違ってくるので、できるだけ正確に記録するため、大前は録音することが多い。
子どものつぶやき・表情・発言内容も記録しておく。
子どものノートをみることで、子どもの理解の程度・疑問・思考内容を知ることができるので大前は写真をとっておく。
板書も大前は写真に収めておく。写真に収めておけば記録するのに時間がかからない。
テストが終わったら、子どもの理解度を調べるようにする。一人でも勘違いしていたら、その勘違いはなぜ起きたのか、それを防ぐためにどんな授業展開がありえたか、などを大前は考えるようにしている。
授業の記録は、再び同じ内容の授業を今後するとき、授業記録と反省の記録が生かされることになる。
(注)大前暁政:1977年生まれ 岡山県公立小学校教師 理科教育学修士の免状をもつ。「楽しい理科授業」「初等理科教育」「授業研究21」などの雑誌に論文を執筆。2007年度ソニー賞入選

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国語科:大きな声で話す力をつける   大村はま

「声が小さい、大きな声で言いなさい」と教師が言っても、声が大きくなるというものではありません。何をすればそのことができるだろうかと考え工夫するのが教師の工夫の始まりです。
大きな声で話すには、言う内容に自信があるようにしなければだめだろうと思います。また、息の使い方がたいてい弱いので、しっかり息を吸って言う指導も必要です。
大村はま(注)は「クリちゃん」(大村はま国語教室:第2巻 聞く話す)を使った単元学習で大きな声で話す工夫をしています。
「クリちゃん」は四コマ漫画です。四冊にまとめたものを、一人一冊ずつ持たせます。その中から、これはおもしろいと思うものを選びます。そして、ことばをつけます。どう言ったらいいか台本のような手引きを大村は作りました。
「見つけました」と子どもは大村に呼びかけてきます。大村は教室の、その子どもから、いちばん遠いところへ移動します。期待して聞く姿勢をとります。聞こえにくいときは、目立たない態度で子どもに気づかせるようにします。一コマずつ漫画の場面を紹介し「わたしは、こんなことばをつけました」と自分で考えたことばを発表します。
「大きな声で」と、教師が言うのはつまらないことです。かえって教室を暗くします。要求をそのまま口で言うのが一番だめだと大村は言います。こうしなさいとは言わないけれども、そうさせなくては教師として指導していないことになり、教師は何しているのかということになってしまいます。そこにいろいろな工夫が生まれてくると思うと大村は述べています。

(注)大村はま:1906-2005、長野県で高等女学校、戦後は東京都公立中学校で73歳まで教え、新聞・雑誌の記事を元にした授業や生徒の実力と課題に応じた「単元学習法」を確立した。「大村はま 国語教室の会」を結成し、日本の国語科教育の向上に勤めた。

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国語科:読んで要点をつかむ力をつける   大村はま

文章を読んで要点をつかむ力がなかったら、ことばの生活は崩れているという気がします。
要点をつかむ力をつけようとして文章を読んで要点を書く練習をする。しかし、うまくいかない場合が多いので心配していますと大村はま(注)はつぎのように述べています。
要点をつかむには、どうしても目標というものがいるのです。ひとつの目標があって、そのことについてこの文章から要点を、と言えば子どもはかなり一生懸命になります。生活的な目標がないと、ただ勉強のためということでは、生活のなかに生きて働く力は養えないと思います。
読んで要点を取らすとき、求めるもの、目標がないと、生活に役立つ力がつく子どもになってこない気がします。
うれしいにつけ、悲しいにつけ、寂しくて自分を慰めたいにつけ、気が勇むにつけ、ことばの生活の中に本を読むことを結びつけていくというのが読書生活です。自分が何かあるときに、本の方に心が向くのが読書生活の始まりです。そこに求めていく、そういう態度が読書人の基だと思います。

(注)大村はま:1906-2005、長野県で高等女学校、戦後は東京都公立中学校で73歳まで教え、新聞・雑誌の記事を元にした授業や生徒の実力と課題に応じた「単元学習法」を確立した。「大村はま 国語教室の会」を結成し、日本の国語科教育の向上に勤めた。

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国語科:国語力とは論理的思考力である       福嶋隆史

国語科は思考技術を身につけさせる教科である。したがってすべての教科の基盤となる。
国語力とは論理的思考力であると福嶋隆史(注)はつぎのように述べている。
論理的思考力とは言葉や考えを整理し関係づける能力であり、前後の関係を示す接続語がカギとなる。論理的思考力は「言いかえる力」「くらべる力」「たどる力」の三つに分類できる。
「言いかえる力」(同等の関係を整理する、AつまりB、BたとえばA)(例)まとめる・・・・バナナ、イチゴを食べた。つまり、果物を食べた。(例)具体化・・・・果物を食べた。たとえば、バナナ、イチゴなど。
「くらべる力」(対比の関係を整理する、Aそれに対してB)(例)歩くのは遅い。それに対して走るのは速い。
「たどる力」(因果関係を整理する、AだからB)(例)公園にゴミ箱がない。だからゴミが散らかっている。だからゴミ箱を置くべきだ。
国語科で身につけさせるべきことは、言葉を自在にコントロールできるようにするための技術であると福嶋はいう。話すときや書くときに、Aという言葉をBという言葉に替えたらどんな意味が生まれ、聞き手や読み手にどのようなメッセージが届くか。なぜAという言葉を選んだのかといった、言葉の機能を国語科であつかうべきであると主張する。
長い文章を読んだり書いたりするのではなく、論理的思考の「型」の習得に重点を置き、短い文章の読み書きを徹底的に行うことによって言語技術を高めるようにする。その結果、子どもたちは自由に読み書きできるようになるという。
(注)福嶋隆史 1972年横浜市生まれ 公立小学校教師を経て、ふくしま国語塾を創設した

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攻撃的な親にどう対応するか

子どもが問題行動をおこしても、親は子どもがやっていないと言うことを信じて、学校を攻撃してくるケースがある。
当然、子どもは堂々と問題行動をくり返し、子どもをダメにしていくことが親はわかっていない。
このような場合は、担任だけで対応しないようにする。学年や学校全体で対応する。
親が学校攻撃を続けると子どもが学校で頑張ろうとする気持ちが起きないことを親に理解してもらうことである。親が学校攻撃を続けると子どもが正常に学校生活を送ることは難しいことを多くの教師は経験して知っている。
背景に親がもともと学校に反感をもっているとか、子どもが叱られてばかりで親が気分を害して学校を攻撃することがあるので、親の話をよく聞いて親の気持ちを受けとめるとともに、子どもの良いところを見つけ、ほめるようにすると親も受けいれやすくなる。

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教師はなぜ叱らなければならないか

子どもがやってはいけないことをした場合は叱らなければならない。叱ることでやってはいけないことを教えるのである。生命にかかわるような問題行動をした場合は烈火のごとく厳しく叱らなければならない。
子どもは教師をよく観察している。あの教師は甘いとか、この教師はこういうことにはうるさいのだということを判断する。教師の価値観にそって子どもは行動する。叱るのは子どもに善悪の価値観を身につけさせるようにすることが目的である。
ほめるだけでもいけないし、叱るだけでもいけない。思春期の子どもは叱ったら反抗するが、叱らなければ見捨てられたと思う。子どもは、ほめる・しかるの両方があってはじめて価値観を身につけて社会的に自立するのである。
子どもは怖いと思うと自分を抑える。自分を律することができない子どもは怖い人がいない。そのような子どもは問題行動をくり返しエスカレートする。
叱ったとき、子どもが心から従うのは子どもたちから尊敬され信頼されている教師である。もしそのような教師がいないときは、子どもの指導は集団で指導体制をつくり役割分担を決め組織的に叱るようにしなければならない。それでも怖さを感じない子どもには法的手段も考えなければならない。

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理科:楽しさを子どもに伝える          八嶋真理子

理科の楽しさは、変わったことや不思議なこと、自然の美しさに出会えることである。子どもにこの楽しさを伝えたいと思っても、教師の思いが強すぎて一人よがりになり、空回りすることがある。
子どもたちは自分と関係ないと思うことには心を動かさない。教師が楽しいと思うことを子どもの興味とつなぐ出会いを工夫し準備しなければならない。
そのために、子どもが入りやすいストーリーを考え演出を工夫する。ストーリーは科学的でなければならないと縛られないで、幅広い材料のなかから考えるようにする。「不思議だな・なぜ?」といった問題の解決の方法は科学的にすればよい。
たとえば、種のもつ命の不思議さを子どもに伝えるとき、ミステリー好きな子どもが多いので、ツタンカーメンのエンドウマメの話しは子どもたちが興味をもつのではないかと八嶋真理子(注)は述べている。
ミイラと共に3000年も眠っていたエンドウマメが発芽し、花が咲き実を結んだ話しである。
子どもたちは「種って本当に生きているの」「種って何が入っているの」「どうやったら芽がでたの」・・・・・と質問し、学習してほしいと思う課題は、子どもたちからでてくる。
理科の楽しさを伝え、子どもの感性をゆさぶり、問題の解決にまで高めるには、教師の感性と幅広い教養や、インターネットやテレビなどのさまざまな情報の中に教材があるかもしれない。子どもが問題をもてる楽しい出会いをつくっていくように工夫したいものである。
(注)八嶋真理子:神奈川県横浜市立小学校副校長 理科教育学会 理科の教育編集委員

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アメリカの教育改革

アメリカはベトナム戦争の影響で1960年代後半から社会が退廃し学校が荒れだし学力の低下が進み政府は1983年に「危機に立つ国家」を発表した。それ以降、小学校から高校まで教育改革に取り組んできたが、アメリカの教育改革で重視されているのは、教育の成果に対する責任の明確化である。
アメリカの国際競争力の低下で、教育の権限を持つ州や学区に国が介入するようになり、州の教育内容や到達目標を基準にした統一学力テストを小学校から高校まで実施し、結果を公表するようになった。
目標が達成できないと、子どもたちの転校や補習の支援がおこなわれ、それでもできないときは、教師の入れ替えや、州の管理、民間への委託、チャータースクール(地域の住民や教師が設置し独自な運営ができ、成果がでないと閉校となる)への変更などの措置がなされる。
アメリカでは学校の荒れを防止するため、学校内で問題行動を起こす、好ましくない子どもを補導補習学校(オルタナティブ・スクール)に送り、まじめに授業を受ける生徒のじゃまにならないようにして、学校の安全を確保している。問題行動をなくし、学習の遅れを取り戻すよう個別指導をして更正をはかるという目的もある。

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世界の教育改革の動向

情報通信が進歩し、国を越えた世界的な広がりや、知識主導型の経済が行きわたり、国を発展させるためには高度な知識や技術を持ち、時代の変化に合わせて変えていく人材が求められている。
そのために各国は小学校入学前から大学卒業までの教育を受ける機会の提供と量的拡大に取り組んでいる。また教育内容を改善し学力の向上と落ちこぼれ防止にも取り組んでいる。また技術や職業教育の向上をはかろうとしている。
イギリスでは05歳の幼児教育を無償化し18歳まで義務教育を延長した。韓国では大学進学率が1980年代の27%から2004年に80%をこえた。
学力向上のため各国とも教育課程の改訂に力をいれている。落ちこぼれをださないため、アメリカでは「落ちこぼれを作らないための初等中等教育法」に基づき改善を図ろうとしているが、各国も共通に落ちこぼれ防止の努力をしている。
各国とも普通教育と職業教育の統合や高校と大学と連動させるなど職業教育の向上に取り組んでいる。

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ありがとうで学級がやわらいか雰囲気になる   有田和正

教師が子どもたちに何かしてもらったら、大声で「ありがとう」と言おうと有田和正(注)はつぎのように述べている。
子どもが椅子を机の中にいれるのを見たら「ありがとう、きみのおかげて、机がきれいに並んだよ、ありがとう」と教師が言う。
小さなことでも、見つけたら、子どもたちに「ありがとう」を言い続けるのである。
子どもがどう変わるか、やってみてほしいと有田は勧める。しだいに教室がやわらかい雰囲気になると有田はいう。
教師が「ありがとう」を言い続けると、子どもたちはまねをするようになる。友だちが消しゴムをなくて困っていたら、「どうぞ」と消しゴムをあげると、友だちは「ありがとう、助かった」と言うようになる。何かをしてもらったり、助けてもらったら、「ありがとう」と言うことは、学級経営の柱である。
有田はいろんな学校に行くが、子どものようすを見ていると、「ありがとう」を言っていないという。「どうぞ」も言っていない。これではギスギスするはずだと有田は言っている。
「ありがとう」の一語で、人間関係は全く変わるのである。人間は「ありがとう」という感謝のことばで結ばれているのである。家庭でも有田は妻にいつも「ありがとう」を言っているそうである。
(注)有田和正:筑波大学附属小学校、愛知教育大学教授を経て東北福祉大学教授 教材づくりを中心とした授業づくりを研究

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指導が厳しくても子どもが従うわけ

学校には厳しい指導をして子どもに信頼されている教師がいる。その教師の前ではしかられなくても、子どもたちはきちんとする。
子どもたちはなぜ厳しい指導するその教師に従うのだろうか。怖いからだけで子どもたちは従っているのか。
好きなことができるからといって、教師に対する子どもたちの評価が良いわけではない。
教師は子どもたちとの信頼関係がとても大切だ。
その厳しい教師の指導でやりとげた子どもたちは充実感にあふれた表情をし、感謝をする。その教師の指導は、自分の力を伸ばすことができ、充実感もあるということが子どもたちにはわかっているのだ。

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英語科:フォニックスで英語の好きな子どもが増えた

日本語のひらがなであれば、たとえば「あ」は「あ」という呼び名であり発音でもある「表音文字」なので子どもは比較的簡単に覚えます。でも、英語のアルファベットは呼び名と発音が異なる「表記文字」なので、単語を読めるようになるまで一苦労します。
中学英語はいきなり単語の読みを覚えることから始めます。カタカナでルビをふって覚えさせるケースもあります。だから日本人は正しい発音が身につかないのだといえるということです。
アメリカでは子どもの読む力を短期に一気に伸ばせるフォニックスが教育現場では人気があるようです。フォニックスとは「英語の発音と文字のルール」のことです。
英語を親しむにあたって、文字と音の関係はとても大切です。読みの学習をするとき、手助けになるのがフォニックスです。アルファベットの文字と、実際の発音が結びつく基本的なルールを知ることで、初めて出会った単語でも発音でき、また綴れるようになります。
アルファベットの文字を普通に読むと、
(エイ)(ビー)(スィー)となりますが、フォニックスで読むと、a(ェア)(ブ)(ク)(ドゥッ)というような音になります。
アルファベットの文字の音がだいたいできるようになると、次に二文字の音に移ります。母音に子音をくっつけて練習します。例えば、
ab(ェアブ) eb(エブ) ib(イブ) ob(オブ) ub(アブ)となります。
ここまでできるようになると、三文字の単語を読みます。音と文字がくっつくことで意味のある英単語ができることを気づかせます。例をあげると、
d+o+g =
ドゥッ+オ+グ ⇒ dog(ドォッグ) 犬
c+a+t =
ク+ェア+トゥッ ⇒ cat (キャット) 猫

という具合に読んでいくのです。
ある教師が中学1年生にフォニックスを導入すると授業がスムーズにできるようになったそうです。発音が良くなると同時に英語の発音に自信を持つようになります。はじめての単語でも文字を見れば自分で読めるし、音を聞けば文字が頭に浮かぶようになります。
英語の好きな子どもが増え、英語嫌いや英語の落ちこぼれが減ります。初めに時間がかかっても後で発音や単語を丁寧に指導する必要がなくなるから、結果的に時間的な心配は少なくなります。
ただし、フォニックスが全部読めるようになったからといって、英語を問題なくスラスラ読めるようになるわけではありません。だいたい規則的にあてはまる音は全体の75%だからです。その他の音は例外として覚えていくよりほかありません。

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一人で悩まず、がんばりすぎない       大前 忍

ほとんどの学校は、日々の仕事に忙殺され教師の間で話し合う余裕がなくなりつつあります。大前忍(注)が教師になったころは、授業や子どもについて熱く語る教師がたくさんいて、その中で教師は創造的でなければならないと教えられたという。今は、職員室で子どものことを話す明るい声がきえて、パソコンに向かうようになっています。
心身ともに疲れるが大前は、子どもの心の声を受けとめながら、教師として自分を貫き通したいと思っている。大前は教師になってからずっと子どもたちに作文や詩を書かせてきました。子どもの言おうとすることが大前に伝わってくるのです。子どもの息づかいが感じられてくるのです。そのことを大前はなによりも大切にしてきました。
子どもの事実を何よりも大事にし、共感し、ともに笑い泣き怒る教師は乗り越えていけると大前はいいます。
楽しく子どもと教育を語る教師の輪をつくり「がんばりすぎない」「一人で悩まない」「明日のことまで心配しない」と手を取り合って、自分らしく、したたかに、なるようになると生きていこうではありませんかと大前は呼びかけています。
(注)大前 忍:1949年生まれ 群馬県公立小中学校教師として「群馬作文の会」に学び、感性を育てる児童詩教育に一貫して取り組んだ

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よい学校の共通点   金子郁容

よい学校に共通したものがあると全国各地の学校を訪れた金子郁容(注)はいう。
それは、地域の人たちが自分たちで学校をなんとかよい学校にしたいという気持ちをもっていることだという。
たくさんの大人が本気で子どもに関心をもってかかわっていると、それを見て、子どもたちは学校が好きになり、安心して遊んだり学んだりするようになる。
よい学校の実現には、あたりまえのようで難しい秘密はその辺にあるのではないかと金子は述べている。
(注)金子郁容:1948年生まれ東京都、工学者 慶應義塾大学教授 専門は情報組織論


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子どもとの関わり方

子どもを知り理解することはもっとも大切なことである。これをベースに教師は教育活動を展開する。子どものよさを見つけるようにすると、子どもはよりよい行動をするようになる。
問題になっていることを教師が自分の気持ちや思いをもって語ると、子どもたちは教師を身近な存在として感じ、自分たちの先生と思う。そうなれば、子どもたちも安心して本当の気持ちや考えを話すことができる。
子どもの話しを聴くときは腰をかがめて子どもと目線の高さを同じにするとよい。教師が子どもの話しをよく聴き、復唱して受けとめることで、子どもの気持ちが整理され心が安定する。
いつも子どもと明るく笑顔で接すると、子どもは安心して学べる。人間性のある温かいユーモアのセンスの感覚をもちたい。
子どもが話しかけてきたとき、教師がすばやく対応すると、子どもたちは安心感や満足感が得られ、意欲的な学習や行動のエネルギーになる。
子どもの気持ちをつかみ、願いや欲求を受けいれる指導を工夫するようにすると、子どもたちの学ぶ意欲が引き出される。
悪いことをしたら、その直後に短くびしっとしかるようにする。よいことをしたら、その場で率直に具体的にほめる。ほめる教育効果は大きい。

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モンスターペアレントは個人で対応しない     山脇 由貴子

 モンスターペアレントは絶対に個人で対応してはならないと山脇由貴子(注)はつぎのように述べている。相手のペースに巻き込まれ、精神的に追いつめられるからである。
 学校の組織として対応しなくてはならない。だから、教師個人がクレームを言われたり、無理難題の要求を保護者から出されたら、躊躇せず、速やかに校長や教頭、学年主任に知ってもらう必要がある。楽観視して、誰にも相談しないと、後々の惨事につながる。
 できれば、モンスターペアレントと話をしたのは誰で、どういう話で終わっているのかを、時系列で確認できる記録をつくっておくと良いだろう。必要なときに誰でも見られる形にしておけば、職員室で情報が共有でき、モンスターペアレントから電話がかかってきたときに、記録を確認して電話にでることができる。また「言った、言わない」の議論になったときも記録の存在は重要である。
 何らかの返答を「明日までに」などと求められたときに、相手の言ってくる期日で約束してはならない。「要求は重要なことなので、そんな短期間でお返事する約束はできません」と答え、相手のペースに乗らないことが非常に重要である。
 まずは、苦情の当事者になっている教師に事実を確認し、組織としてどう対応するかを検討したえうでなければモンスターペアレントと対応してはならない。
 「訴えてやる」「マスコミに言う」「議員を知っている」という言葉はクレーマの常套手段である。しかし、この言葉に全くおびえる必要はない。モンスターペアレントが言っていることなど、まともに誰も取り合ってくれない内容であることを皆良く知っている。教師や学校をおびえさせて主導権を握るための脅しに過ぎないのだから、気にすることはない。
 もし仮に訴えられても、負けることなどありえない。それに弁護士が間に入ってくれたら、直に話をするよりも話は早くなる。マスコミも信じるはずがない。議員もせいぜい一度電話をかけてきて、「よく話し合ってください」というレベルであろう。
(注)山脇 由貴子: 1969年生まれ、東京都児童相談センターの児童心理司。年間100家族以上の相談や治療を受け持つ。児童相談所のスタッフ養成のための講演を行っている

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