子どもが思わず集中して聞く、話し方の3つの技とは

 子どもに話をするとき、「目線」「抑揚」「ジェスチャー」の3つを押さえれば、子どもたちもグッと集中して話を聞きます。
(1)
視線
 子どもに指示、説明するときは、視線を合わせます。
 子ども一人に2秒くらい視線を置くと「先生は今、私に話している」と思わせることができます。
 視線はNやZの形に動かします。学級の全員を見渡すのに効率的だからです。
 視線を合わせて指示する方法と、視線を合わせないで指示する方法を試してみてください。子どもの注目度がまったく違うはずです。
(2)
声の抑揚、間、声の大小
 自分の指示や説明を録音して、聞いてみてください。
 私が初任者のとき、声が単調だったり、冷たい感じの声になっていました。
 子どもが集中するようにするためには、抑揚(高低)、間、大小をうまく工夫することです。
 文章を読むとき、言葉と言葉の間は、しっかりと間を取るようにします。あるいは、縮めて読むようにします。
 一文の中に、強く読むところ、弱く読むところ、抑揚を意識して読みます。
(3)
ジェスチャー
 話をするとき、ジェスチャーを入れると、多くの子どもに興味をもたせることができます。視覚が優位の子にとって理解しやすい。
 話すときは、ストーリー仕立てにします。
 教師は、その話の登場人物になりきり、俳優のように演技をしながら描写して語るようにします。
 恥ずかしがらずに、表情も豊かにすると、子どももグッと集中します。
 特に生活指導、安全指導には有効です。例えば、
「先生が一昨日、学校帰りに、〇〇道をこうやって歩いていました。(歩くジェスチャー)
「すると、ずっと遠くの方向から、自転車に乗ってくる子が見えました(遠くを見るジェスチャー)
「あっ!(驚く)
(
小声で)「急に、車道にはみ出たかと思うと、すぐそばを走っていたトラックとぶつかりそうになって・・・・・・」
というように、演技、描写を交えて話すと、子どもたちはシーンと集中します。
(
西野宏明:1983年生まれ、東京都公立小学校教師。教育サークル「オリエンタル・レボリューション」代表
)

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学級崩壊に苦しみ退職したが、再び教師に復帰し、仕事が管理職から評価されるようになった

 中学校の教師が学級崩壊に苦しんで退職し、その後、採用試験を受け教師に復帰した。その教師の経験を取材した。
 初めての担任で、生徒との4月の出会いは、準備することなく、行き当たりばったりだった。
 やんちゃな生徒が「〇〇しなくてもいいですか?」と、担任を試す言動(アドバルーン)をくり返し、担任が思いつきの対応し、他の生徒たちも真似るようになった。こうなると崩れるのは早い。
 優れた実践を知らなければ危機意識も持ちようがない。
 できない自分に非があるという反省には至らずに、生徒のせいにしたり、家庭や地域のせいにしてしまう。
 当時の本川先生もそうであった。我流を通しているうちに生徒たちが荒れていった。
 本川先生の問題点は
(1)
挨拶ができていなければ、何度もやり直しをさせた。
(2)
一部の生徒の問題を、全体の問題にして、くどくどと説教をした。
(3)
過去のことを持ち出して「あの時もそうだった」などと責め、生徒の変容を認めなかった。
 どれも「禁じ手」である。生徒の自己肯定感を、むやみやたらに傷つける方法だからである。
 自己肯定感を高めていくために私たち教師の仕事がある。それを傷つけては生徒から忌避されて当然なのだ。
 生徒たちは次第に本川先生を呼び捨てにするようになり「タメ口」をきき、指示に従わなくなっていった。授業ができなくなっていった。
 心底困り、信頼できる教師に相談した。しかし、納得のいく答えは返ってこない。
「原因はこれだから、こうすればよくなる。そのためには、まずこれを学べ」というような具体的な対応策が一つも出てこなかった。
 教師が学ばず、実力を高める努力をせずに、失われた信頼と尊敬を取り戻すことはできない。
 信頼と尊敬のないところでいくら指導をしても、叱責をしても、生徒は聞く耳を持たない。
 だが、若い本川先生はそのことに気づかなかった。
 何をどうしたらうまくいくのかがわからず、指示してくれる教師もない。崩壊状態に悩み苦しみ、自分の力量では教師は務まらないと、ほどなくして退職をした。
 一旦退職した本川先生に臨時採用の話が舞い込んだ。数学の教師を探しているが見つからず困っているという。人助けのつもりで引き受けた。
 いざ赴任してみると、その学校は学級崩壊どころか、学校そのものが崩壊していた。授業中にもかかわらず廊下に生徒たちが寝そべり、罵声が飛び交っていた。
 その学校の教師たちの多くは、すべてを生徒のせいにするばかりで、悩んでなどいなかった。教師自らの非力が生徒に荒れた言動を取らせているのだという認識がなかった。
 ちょうどその頃、本川先生の子どもが中学生になろうとしていた。「こんな教師たちに子どもは預けられない」と憤り、教師に復帰することを決意した。
「今度こそ、学級崩壊はさせない。そのためには勉強するしかない」と意気込んで本屋に行って「女教師ツーウェイ」の本を買った。何度も読み込んだ。そこから、つぎのような変革が始まった。
(1)
全体を優先、個別対応は後にする
 一部の生徒ができていなくとも、全体を動かしてから、個別対応をするようにした。すると、まじめな生徒が安定した。
 また、ヤンチャな生徒も目立たずに指導されるので、素直に直すようになった。
 教師が怒る必要もなくなり、教室に明るい雰囲気が保てるようになった。
(2)
一時に一事の指示を徹底する
「教師がしゃべりすぎてはいけない」と本に書かれていたので、一時に一事を意識して指示を出すようにした。
 すると、全員が一つの指示で反応するのがよくわかるので、指示に従わない生徒への対応もしやすくなった。
 朝の会、帰りの会もプログラムをシンプルにし、司会者にテンポよく進めるように指導した。無駄を省くことも信頼を深める大事な術だと気づいた。
(3)
サークルに入り、模擬授業で指導を受けた
 自分が模擬授業を受ける身になると、教師の立ち居振る舞いの重要性が身にしみてわかった。
 例えば、生徒全体をくまなく見渡す。板書するときは、生徒に背中を向けずに半身になる。教科書を読むときは、どこから読むのか指を置いて見せるなど。
(4)
机間指導に赤鉛筆指導を取り入れる
 赤鉛筆で、勉強の苦手な生徒のノートに途中式を書き込む。時には答えを書き込む。全員のノートに丸をつける。
 そのような支援をすると、授業に参加する生徒が増えていった。
 自分の書いた答えが教師の目を通過していることで自信がつくのか、発表する生徒も増えた。
 生徒全体が思考している最中に、黙って個別対応ができるので、どの子も満足していった。
(5)
ノート指導を徹底する
 行間をあけた、余裕のあるノートを作らせるように、指導を徹底した。
(6)
趣意説明をする
 ノート指導、音読、鉛筆を使う理由など、趣意説明することで納得して行動する生徒が増えた。
(7)
個別評価する
 ノート指導、生徒の解答、一分間スピーチ、日記に対してその場で個別評価すると、生徒はより高い方向へ、さらに伸びようと努力をするようになった。
(8)
生徒の3倍動く
 清掃指導では、生徒の模範となるように、まず自分が動くことを心がけた。
 それも生徒と同じスピードではダメだ。教室・廊下・トイレ掃除をして教室にもどることが常となった。
 模範を示せば、生徒は自然と掃除をするようになる。
(9)
ほめて、ほめて、ほめまくる
 出会いからほめて、ほめて、ほめまくった。授業でも些細なことをほめた。
 よくやっている生徒をほめることで、生徒全体がほめられたいというムードになり、クラスが安定していった。
 静かな生徒も、赤鉛筆でノートにほめ言葉を書き込むとにっこり微笑んだ。
(10)
教師が笑顔で、自分自身が楽しむ
 どんな時も、どんなことも、笑って吹き飛ばすことにした。
 指示に従わないときも、アドバルーンが上がったときも、掃除をしない生徒がいても、笑顔を忘れないことを心がけた。
 全体の場では明るく、短く指導することで効果がでてきた。
 笑顔を保つことで、教師も生徒も楽しく授業ができることを学んだ。
 管理職から「管理職試験を受けてみなさい。あなたのやりたいことを実現する手段です。なってほしいと思う教師に声をかけているのです」と言われたという。仕事が評価されている証である。
(
本川由貴子:中学校数学教師
)

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子どもと関わり、成長していくのを見ることが教師としての私の喜びです

 東京都内の公立中学校に勤務する20年目の美術科女性教師。美術教師は「風変わりな教師が多い」とは世の風評だが、この先生もかなりユニークで、元気印教師。話を聞いてみた。
 私が教師になったのは「教師は時間があるから自分の絵を描ける」と思ったから。じつは大間違いだったけど。
 でも今は自分の作品を描くより、子どもに描かせる才能のほうがはるかにあると思う。
 ちょっとアドバイスしたら「あらら、この子、どうしちゃったの?」と思うくらい、いきなり二段階ぐらいうまくなっちゃうことがあるもの。
 そういう意味では、やっぱり私には教師が天職なんだと思うわ。
 私、中学教師って「おいしい仕事」だなって思う。ちっちゃな子どもだった子が3年間の間に一人前になっていく姿を目の当たりにする。
 しかも、家族にも見せない顔を、私たち教師は間近かでみることができるんですよ。
 中学時代って精神的に不安定なぶん、一生のうち一番キラキラ輝いているときじゃないかな。
 たとえば、すごい感性を持ってて、将来どんな作家、どんな芸術家になるんだろうって子がいる。
 そういう子を見ていると、きっと私たち教師だけが、その子の一生のなかで一番の輝きを見ているんだなって思うんです。
「最近、教師と子どもは信頼関係がないのでは?」なんて問われても、私にはなんとも言えないな。
 だって、子どもとの関係なんて、それこそ一人ひとり、みーんな違う。生徒も親も3年ごとに変わるでしょ。
 でも、私は子どもたちの本質は、どの学校でもそんなに違わないと思うんですよ。
 やっぱり、可愛がられたい、評価されたいという気持ちは同じだと思う。ただ、その表現の仕方が違う。
 中学生といえば思春期まっただ中。一年生のときは緊張感もあって大人しくても、二年生になると反抗期で生活が乱れたり、やる気をなくしたり、悩んだり。三年生になって受験体制に入るのが最近は遅い。
 子どもたちってね、あるとき教師を乗り越えていく瞬間がある。たとえば、教師の意図を超えていい企画が生まれたり、あっと思うような行動をすることがあるんです。
 それと「つぶしがきかない」というかな、生徒指導の方法として、一度失敗させて、自分たちで考えさせるという方法があるんですけど、今の子はそれができないんですよ。失敗するとシュンとなっちゃう。だから生徒との会話でもすごく気を使う。
 私は、生徒との関係に一番気を使っているんじゃないかな。なるべく子どもを追いつめないようにね。
 どんなふうに話すか、言っちゃいけない言葉は何か。その子との対話のなかで素早く嗅ぎ分ける必要がある。
 例えば、受験の前日に夜遅く生徒から電話があって、寝ぼけまなこで電話にでると「先生、明日の試験に行けません」と。
 最初の1,2分が勝負で、まず気を落ち着かせるために、私は「何があったか最初から話してごらん」と、その間にこっちはどう言うか考えるの。時間かせぎね。結局その子は説得されて受験しました。
 そんなふうに落ち着かせるときもあるし、場合によっては泣かせることもある。
 子どもへの対処は毎回違うんですよ。それがうまく当たると「ヤッた」という快感があってね。
 私は、いつも「基本的に、あんたが好き」って態度で生徒に接している。
 なかには合わない生徒もいますよ、合わない生徒に合わないことを悟らせないために、相手のいいところを探して「好き」になる努力をしますからね。
 だから、生徒がいやで教師を辞めたいと思ったことは一度もないな。
 私は、けっこう生徒たちと人生を語り合っちゃうんだよね。放課後とか委員会の後とかに。
 教師と生徒の関係って不思議でね。ときには恋愛関係よりも深いつきあいがあるんですよ。すごく深いむすびつき。なんていうか「あうん」の呼吸なのね。
 いわば会社でチームの仕事をしていて、有能な部下を持った上司の気分なのね。
 私は昔から、クラス担任だけじゃなくて、生徒会とか委員会とか、いくつも担当しているの。なんでかといえば、面白いから。
 それぞれの子どもへの関わり方が違うし、生徒を動かすというか、一方的な命令や管理じゃなくて、いろいろ指導していくうちに、こちらの意図を裏切って育っていく姿を見るのは本当にうれしいですね。
(
東京都公立中学校の美術科女性教師
)

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悩みや憎しみは、どんどん膨らんでいく、どうすれば楽になるのでしょうか?

 悩んでいる自分を認めず「こんなふうに悩んでいてはだめだ」と責めてはいけません。
 悩みは鎮まるどころか、かえって膨らんでいきます。
 悩みや憎しみや不快などのマイナス感情は、それを否定すればするほど、どんどん膨らんでいくのです。
 悩んでいる自分を否定するのではなく「ああ、自分には『教師を続けられないのではないか』という不安や自信のない気持ちがあるんだな」と、まず、認めること。
 そして、それをただただそのまま認め、眺めるような姿勢でいるのです。
 これができるようになり「ダメ教師としての自分」も、自分の一部として認めることができるようになると、そうした否定的な気持ちそのものが小さくなっていきます。
 重要なことは、何が出てきても、ただただそのまま認め、眺めるという姿勢です。
 実際に、悩みと上手につきあえるようになると、それまでのクヨクヨした心の重さが消えていき、生きることがだいぶ楽になっていくはずです。
 私のカウンセリング室に来られる人に「あなたは、どうなりたいですか」と尋ねると、多くの人は「悩みのない人生を送りたい」と言います。
 しかし、悩みがまったくない人など一人もいません。
 カウンセラーである私は、相談にくる人を「悩みがまったくない人」にしようとは思っていません。
 むしろ「悩みと上手につきあう方法を学んでもらう」お手伝いをしています。
 自分の悩みとの関わり方は、つぎのように3つあります。
(1)
感情を押し殺してしまう方法
 自分の悩みを自分から切り離して、自分の外に閉め出し、あたかも悩みなどないようにふるまう方法です。
「私は大丈夫、私は大丈夫・・・・・」と感情を押し込めていると、いずれ症状に出てきます。
(2)
いっぱい、いっぱいになって苦しんでいる状態
 悩みと自分が同一化してしまい、それにとりつかれてしまっている状態です。
「教師として、自分はやっていけないのではないか」という、いやな感じばかりが膨れあがり、やがてその悩みに覆い尽くされてしまう。
(3)
悩みを認めて、距離をとる
 自分の悩みを認め、それと同一化してしまうのではなく、外に追いやることもせずに、それを「認めていき」「距離をとる」方法です。
 悩み、うつ的な気分がある。そんな自分を否定するのではなく、そういう自分も、自分の一部だとそのまま認めていくのです。
「うつ」の人は考えすぎる傾向にあります。考えすぎると心のエネルギーは奪われていってしまいます。
 私は相談に来られた人に「どうやったら、考えすぎずにすむか、その工夫を一緒に考えていきましょうね」と言うことがよくあります。
 そして「悩みを認めて、距離をとる」方法を学んでいただくのです。
「私はダメな教師ではないか」とまじめな人ほど、ひたすら考えます。前向きな人であればあるほど、そこから脱出しようとして、もがき苦しみ続けます。
 しかし、それは不可能なので「やっぱりダメだ」となってしまう。脱出できるような悩みでしたら、うつにはなりません。
 どうしても自信がない。そうしたら、自信のなさやうつ的な気分をそのまま、認めていくしかないのです。
 認めて、しかしそれにどっぷりつからない。「自分の悩み苦しみと、一歩距離をおく」のです。
(諸富祥彦:1963年生まれ、明治大学教授。専門は臨床心理学、カウンセリング心理学。悩める教師を支える会代表。現場教師の作戦参謀としてアドバイスを教師に与えている)

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子どもが変われば、保護者も変わり、教師を信頼する

 新年度が始まった4~5月。保護者たちからは、クラスへの不安が多くよせられました。
「いじめの加害者の〇〇さんと、また同じクラスになってしまった」
「うちの子は△△さんから手を出されたことがあるので心配」
など、わが子にのみ関心が向いている保護者がおおぜいいました。
 家庭訪問でこうした保護者の話を一つひとつていねいに聴きながら、学級経営と授業をしっかりやっていくことをはっきりと伝えました。
 子どものよいところを見つけて、教師がほめることからスタートし、子どもたちがお互いにほめ合う。
 さらに「ほめ言葉のシャワー」「成長ノート」などを通して、友だちのよいところを積極的に見つけていく。
 こうした繰り返しの中で、少しずつ自信をもっていった子どもたちは、学校での様子を積極的に家庭で話すようになりました。
 今まで、友だちや学校への不満をこぼしてばかりいたわが子が、ほめられた喜びや友だちのよいところを話し始めたことに気づいた保護者は「今年は、今までと違う」と感じてくださったようです。
 保護者が学校に抱くマイナスの気持ちをプラスに転換してもらうために、私は最初の授業参観で子どもたちの学び合いの姿を見てもらい、これまでの不満・不安をふっしょくしてもらおうと考えました。
 授業では、話し合いの場面を多く取り入れました。話をしている人の方に体を向けてしっかりと話を聴き、全員が自分の考えを自由の考えを自由に出し合う。
 正解を求めるだけの授業とは全く異なる話し合いの授業に、保護者は驚かれていたようです。
 授業参観の後、子どもたちの「成長ノート」を各自の机の上に置いておきました。懇談会で、わが子の席に座った保護者おもむろに「成長ノート」を広げました。
「成長ノート」は、筋目筋目に合わせた規範意識や育てたい目標など、学級の中で学ばせたい“価値ある行為”を、書くことによって意識化させるノートです。
「今日の話し合いの授業で学んだこと」など、私が提示したテーマについて、子どもたちは意見や感想を書いていきます。
「うちの子が自分の意見をこんなに書けるなんて知らなかった」
 初めて見るわが子の「学びの軌跡」に、保護者は高い関心を示していました。
「うちの子は、新しいクラスでやっていけるのだろうか」という不安が「子どもたちは変わろうとしている」という期待に変わっていく様子がまざまざと感じられました。
 教師の仕事は、日々の授業が中心です。全ての大切なことが授業の中に入っていると思っています。授業づくりには「これくらいでいいだろう」という妥協点はありません。
 私は一人ひとりの子どもの学習ノートや「成長ノート」に必ずコメントを添えます。
 子どもたちに伝えたい大切なルールや学習のポイントをまとめたプリントや、子どもたちの意見や感想を集約したプリントを作って配ることもあります。
 結果的に、子どもたちの学びの姿を保護者に伝えています。
 日頃のつながりとは、日々の授業の積み重ねです。あくまでも教師は、授業で子どもたちと向き合っていくことが大切だと思っています。
 日々の授業で子どもたちが育てば、それを実感した保護者も成長するのです。
(
菊池省三:1959年生まれ 福岡県北九州市公立小学校教師、2015年に退職。コミュニケーション教育を長年実践した。「プロフェッショナル-仕事の流儀(NHK)」などに出演、「 菊池道場」(主宰)を中心に全国で講演活動をしている。 北九州市すぐれた教育実践教員表彰、福岡県市民教育賞受賞)

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教師が学級崩壊など危機的状況になっても、乗り越え教師人生をまっとうしていくうえで支えになることとは

 教師の抱かえる悩みが、最初は子どもとの関係、保護者との関係などによって生み出されたものであったとしても、それだけで退職や休職に追い込まれるケースはそう多くはありません。
 同僚や管理職に仕事の悩みを相談できると答えた教師は約14%しかいません。学校現場において教師がいかに孤立しているかがよくわかります。
 同僚や管理職との人間関係ができていない教師が精神的に追い込まれていくのは、精神疾患による休職教師の約半数が、その学校へ転勤して2年以内に休職している、という事実にも示されています。
 こうした現状の中で求められるのは「お互いに、お互いを支え合う職員室」づくり「弱音を吐ける職員室」づくりです。
 私が多くの学校現場に足を運んできて最も強く感じたことのひとつは「管理職によって職場の雰囲気はこれほどまでに大きく影響されるのか」ということです。
 ある学校の教頭は、かつて担任だったとき、クラスが崩壊した経験があります。うつ病を患い、精神神経科のクリニックに通院していました。彼は次のように言います。
「今はこれだけ教師が大変なんだから、うつ病になるのは、まじめに教師をやっている証拠でしょう」
「だから、担任の先生方には、みんな抱え込まずに、支え合っていきましょう、口をすっぱくして言っているんです」
 この教頭先生は、自らつらい経験にしたことで、今、担任が助けを求めやすい雰囲気づくりに努めています。
 また、ある小学校教師はかつて学級崩壊を体験し、うつ病になった折り、休職をしようと相談にいった校長から、こう言われたと言います。
「うつ病になったのは、むしろ真剣に責任感を持って仕事をやっていた証拠だ。うつ病は教師の勲章だよ、きみ」
 校長からこの言葉をもらったのをきっかけに、この教師は回復していきました。
 結局、一度も休職せず、通院治療でうつ病を治すことができ、今では、ある小学校の校長になっています。
 この教師は言います。
「もしあのとき、校長はじめ、同僚の先生方から、厳しいことを言われて突き放されていたら、私はたぶんもう退職していたと思います」
「今、こうやっていることができるのも、校長や同僚に支えてもらったおかげです」
「教師にとって、同僚や管理職による支えほど、教師人生の危機を乗り越えるうえで大きな力になるものはないですね」
 学級崩壊のような危機的状況にあっても、その問題をみんなで共有できる学校では、ともに危機を乗り越えていくことを通して、一人ひとりの教師が成長していくことができるのです。
 教師には「学級経営の失敗をさらすのは恥である」といった意識の人がいます。
 しかし、担任が問題を抱え込むと、保護者との関係の悪化など、二次的な問題が生じる可能性が高くなります。
 このような悪循環を防ぐために必要なのは、早期発見、早期対応である。そのため教師には「じょうずに助けを求める力」が求められます。
 それが、これからの教師に求められる資質であると考えられるのです。
 不運にも現任校でそうした人が見つけられない場合には、一人悩みを抱かえるのではなく、外部の仲間や専門家に助けを求めることです。
 かつての同僚や管理職、初任者研修のときの同期の仲間、大学時代の仲間、教師のサポートグループや研究会で知り合った仲間などの中から、一人でもいいので「何でも言える人」「わかり合える仲間」を見つけていきましょう。
 そんな存在が見つかった教師は、回復を見せていく場合が多いのです。
 このような仲間の存在こそが、教師が幾度かの不調を乗り越えながらも、数十年の教師人生をまっとうしていくうえで、最大の支えとなるのです。
(諸富祥彦:1963年生まれ、明治大学教授,臨床心理学、カウンセリング心理学、現場教師の作戦参謀としてアドバイスを教師に与えている)


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あなたに中学生の心が聞こえますか?

 中学校時代は小学校時代に比べて、あらゆる分野との関係が一気に拡大する「黄金時代」であるといえる。
 まず第一に、行動範囲が大幅に広がり、何かを実現することが可能になる。
 学校の自治を自分たちで行うという意識が生まれる。
 校則を吟味し、批判的精神をもって全てに耳を向け、受け入れるか否かを判断し始める。
 学校のひとつひとつの教科について「誰が」「何を」「どのように」教えているのか、そこにどんな価値が生まれるのか、実に気難しく考えるようになる。
 そして受け入れがたいものは、自らの手で行動を起こして、変えていこうという自主性が芽生える。個の確立にとってある意味、革命的な時期でもある。
 だから「黄金時代」と言ってみたものの、その反面、様々な抵抗を示す時期でもあり「暗黒時代」という、諸刃の剣的な言い方もできる。
 それと同時に、自分が不得意なものに粘り強く挑戦し、それを克服して自分を高めたいという知識欲も大変強くなる。
 例えば、私の場合、苦手だった数学を強くするため、1日に問題集を何十ページも自分に課し、正答率が自分の定めた基準以下だと、間違えた問題1題につき問題集を1ページを追加した。
 中学生にとって、自分の努力に対する他人の評価はもちろん大切である。
 その一方、「評価されればそれでいい」ではなくて、その真価をちゃんと評価してくれているのかどうか、評価の理由付けも大きな意味を持つ。
 ちゃんと相手が自分を見て、理解した結果の評価なのかが、逆に相手への、自分なりの評価軸になる。
 受け入れるものと、受け入れないものとの、自分なりの基準を作り上げるのも、この時期である。
「認められたい相手」と「認めない相手」とを明確に差別化する。
「認めない相手」に対しては「一見、従順な無視」をもって向き合う、静かなる反発も始まる。
 また「無関心さ」が顕著に現れるのもこの中学校時代である。
 中学校時代は自分の力を最大に発揮する挑戦の始まりの時期です。
 それだけに、定められた規範が与える保障と制約をうとましく思い、自我の芽生えて、その保障と制約から飛び出して自分独自の何かを確立したいという葛藤が生まれる。
 その結果、自分を取り巻く人間関係もより複雑になり、ぶつかり合うことが多くなる。
 この繰り返しからの中から「過去」を壊して「未知なる何か」を求めるため、楽しいようで、全ての挑戦からあらゆる不協和音が生まれる。
 あまり良い思い出がないと中学生時代を振り返る人が多い。
 中学校時代は、皆、自分を発揮し始め、人間関係での葛藤や自意識過剰や人に認められたい願望が高まり、そこからいろいろな新しい視座獲得の時期を迎えている。
 中学校時代とはまさに「過去と現在から離脱し、未来へ向けての冒険の旅につながる第一のトンネル」である。
 そんな中学校時代でもがいている時、言葉はある意味、当てにならず、その答えは中学生の行動、まなざしの中にあるのだ。
(
長谷部葉子:東京都出身、慶應義塾大学准教授。不登校、高校・大学受験失敗などの経験から、20歳代半ばで寺子屋を立ち上げ、教育支援に携わる。教育とコミュニケーションを研究
)

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教育実践で、一般的法則をつくり出すことができるか

 教育実践家の中で一般的法則をつくり出す教育実践「学」への志向をもっていた人はそれなりにいるが、その強さにおいて昭和を代表する教育実践家の一人の斎藤喜博は特筆すべき存在である。
 斎藤喜博は、次のように書いている。
「教育実践家の幸福の一つは、実践がわれらに無限の教育問題を投げかけてくれるということである。実践によってわれわれ自身の学問ができるということである」
「われわれの研究は教育することである。それは、われわれ自身を高め、同時に子どもたち一人ひとりを高める仕事である」
「教育実践家は指導記録をとって、学者はそれを読み、実際を見て、それを理論づける義務がある。そういう立場から打ち立てられた教育学は、実践家の役に立つ科学的な教育学となるわけである」
 そして、この主張は後年まで変わることなく「科学的な教育学」つまり「教授学」となっていくのである。さらに
「つくりださなければならい問題は、教授学および授業展開の一般的法則をつくり出すことである」
 そして、斎藤喜博が教育研究者に要請することは、
「人間として豊かなものをもつ。事象を全体的・総合的にとらえる。ひとつの具体的事実の中に本質的なものをつかみとる力をもつべき」
「そのためには、創造体験をもつべきであるし、自分で授業に立ち向かう体験をしてみることが必要ではないか」と
 斎藤喜博の教授学のキーパーソンになったのが元東京大学教授の稲垣忠彦氏である。その稲垣氏は授業の定型化を基本的には否定的に評価している。
「授業の定型化は、現象としては授業の手続きが固定化し、授業が一定のパターンによってわくづけられていることを意味している」
「実践の主体である教師に即してみるならば、授業における目的・内容の選択が限定され、授業の過程における子どもへの対応力が失われ、教師の方法の選択が限られていることを意味している」
「明治以降の規範的な定型の支配が一般的であった」
「このような状況の克服の努力の一つに斎藤喜博の実践がある。39年間の教師生活を通じて、多くの教師との協力によってつくられてきた授業の事実を重要なてがかりとして、授業を創造しつつ、その理論化をすすめている」
 しかし、教育実践、特に授業実践を科学研究や芸術創作の成果と結びつけながら、新しい教育学、いわゆる教授学をつくり出す仕事は言うほどには容易なものではなかった。
 斎藤喜博にしても稲垣忠彦氏にしても、教科の最新の研究成果、すぐれた授業実践、それを理論化する研究の成果を総合することが教授学構築の課題であることを鮮明にしていたが、実際は高い壁に直面していたことになる。
 授業は基本的に教師と子ども集団との間の言語的コミュニケーションの過程である。
 その進行過程ははなはだ不安定なもので、常に予定する軌道からはずれる危険性をはらんでいる。
 しかも授業というものはテレビ番組のように予定通りの進行が保たれることに価値があるものではない。その安全な進行を虜るあまり、子どもたちの感性の発想から遠くなってしまう事態がしばしばおこる。
 教師の予定や想定を越える進行が起こったとき、子どもたちの認識活動がかえって活性化するという性格をはらんでいる。
 それはある意味で授業というものがもつ宿命なのである。
 斎藤喜博は、島小学校の実践を背景にして、次のように書いている
「一時間の授業で、子どもや教師が対決し、火花を散らし、つぎつぎと真理を追及し、子どもたちがへとへとになって、満足しきる」
「このような授業をしていれば、子どもたちは自分を出しきり、つかみとった満足がそこにはある」
「専門家である教師がやる授業は、子どもたちが自分の力を出しきり、正確な知識を獲得し、新しい認識とか創造とかをし、それを翌日の授業に持ち込むようなものでなければならない」
「そうなるような必然性とか法則とかを、授業はもったものでなければならない」
 斎藤喜博は学校における一時限の授業の充実、そこに生きる子どもたちの集中と解放にすべてを賭けたのだと思う。
 斎藤喜博がたくさん書き残した教師論も授業技術論もそのためにあり、そういう授業の実現を可能とする学校を各地につくろうとして晩年、全国を行脚することになったのである。
 しかし、教育の世界は、このような方向を追究することにはならなかった。
 子どもたちのために一時限の授業づくりに苦闘する道を選択することはしなかった。
 それよりは、できるだけ楽にやれる道を求め、教育ジャーナリズムもそれを推奨したのである。
 しかし私は、日本の教師たちが一時限の授業に集中と解放を実現することに、教師としての生きがいや喜びを見出す日がいつかきっと来ることを信じたい。
 そのときのために、斎藤喜博の思想や真の姿を後世の伝えておこうとしているのである。
(横須賀 薫:1937年生まれ、元宮城教育大学学長・十文字学園女子大学学長。教員養成や授業に関する研究を主に行った)

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ささいなことで苦情を言い、攻撃的になる保護者にどう対応すればよいか

 6年生の保護者のDさんは、自分の気持ちが滅入ると担任や教頭に電話をかけてくる。
 内容は「子どもが遅く帰ってきた」とか「子どもがすり傷をしているがどうしたのか」というささいなことなのだ。
 会話をさえぎったり否定するようなことを少しでも言うと、豹変して攻撃的になる。
 自分の正当性を主張し、さらに恫喝したり、威嚇するようなことを言い、気持ちがおさまるまで延々と続くことがしばしばある。
 教育委員会などに、学校や教師のうそを言い広め、担任は精神的に消耗してしまった。
 どうすればよいのでしょうか。
 苦情を言うことで自分の気持ちをはらそうとする保護者は、時間も気にせず、あることないことを言いふらすことも多く、相手をしていると精神的に消耗してしまう。
 実際、担任が電話で対応すると教頭や校長の悪口を言い、教頭が対応すると担任を批判する。校長が対応すると担任と教頭の批判をする。
 組織内の人間関係を悪化させるような発言をする保護者がいて困ったというケースもある。
 この保護者のDさんの場合、虚言、操作性、衝動性、依存と攻撃の併存など、母親本人の心の問題が懸念される。
 対応にあたっては、必要以上に巻き込まれないように注意する必要がある。
 具体的には
(1)
だめなこと、できないことは、はっきりと言う。
(2)
身の上話に同情しすぎない。
(3)
あわてず騒がず、冷静に対処するように心がける。
 保護者から聞かされた内容を一人で持ちこたえるのが大変な場合には、信頼できる先輩教師や管理職、スクールカウンセラーなどに相談しアドバイスを受けるようにする。
 少しでも心の負担を軽くすることが自分自身のメンタルヘルスのために必要である。
 また、校内の教職員間の連携をしっかり取って情報を共有すること、関係する外部機関とも情報交換をこまめに行うことも忘れてはならない。
(新井 肇:1951年生まれ、埼玉県公立高校教師を経て、兵庫教育大学教授。カウンセリング心理学を基盤とした生徒指導実践の理論化、教師のストレスとメンタルサポート等を研究)


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授業崩壊の予防に効き目バツグンの予防薬とは

 授業崩壊の予防の秘訣は、子どもたちが静かに集中している状態を自覚させることです。
 子どもたちの中には「集中しなさい」と言われても、何をすることが集中することなのか分からない子がいます。
「集中する」とはどんなことなのか、体験的に理解させます。
 子どもたちがわき目もふらず、無言で学習に取り組んでいる瞬間をとらえて、
「みんな、鉛筆を一度置いて聞いてください」
「今、みなさんは、とても集中していました。立派です」
「これが集中して学習するという状態です」
「これを1年間続けましょう」
「そうすると、とても賢くなり、勉強ができるクラスになります」
「集中しようと、先生が言ったら、この感じ、この雰囲気を思い出してください」
「集中しているみんなの姿を見ていると、とても気持ちがよいです」
「では、続けてください」
 このように、子どもたちが静かに集中している瞬間に、そのことを自覚させ、それはよいことだと価値付けるのです。
 すると、集中する状態がさらに定着するようになります。
 授業が荒れ崩壊する予防に役立ちます。
 子どもが静かに集中する状態になるためには、私が「この状態が続けばいいのになあ」と感じた瞬間に次のようにほめて、その輪を広げます。
「言われなくても、姿勢のよい人がいる。すばらしい」
「とても姿勢のよい人が3人います」
と言いながら、姿勢のよい子にハイタッチをしにいきます。
「さすが〇組、やる気が姿勢と目に出ているねぇ」
「うなずきながら聞いてくれる、うれしいな」
「だれも、しゃべらないで、書くことができています。さすがだなー」
「足をしっかりと床に付けている。だから姿勢がいいんだねぇ」
 そのときの状況に合う言葉かけ、自分に合った言葉かけを見つけて試してください。
 ほめるときは、声に抑揚をつけると子どもの反応が変わります。例えば、静かな状況では、ささやくように小声でほめると効果的です。
(
西野宏明:1983年生まれ、東京都公立小学校教師。教育サークル「オリエンタル・レボリューション」代表
)

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他の子どもの発言に無関心な子を、聞き上手にするにはどうすればよいか

 クラスの子が発言しているのに、顔を見ようともせず、自分は関係ないといった態度でいる子どもが多くいます。
 一番失礼なのは、人が発言しているときに「どうでもいいや」という態度で聞くことです。
 どうすれば聞き上手な子どもになるのでしょうか。
 子どもに「話を聞く目的を与える」と、よいと思います。
 他の子どもの話を次のような視点で聞くようにします。
(1)
なぜ、この子は、こんな発言をするのか。
(2)
ほんとうに、何が言いたいのか
(3)
その子の言っていることは、正しいのか。 
 このような視点を持っていれば、どんな発言も退屈せずに集中して耳を傾けられます。
 他の子どもの発言に対して、その内容の当否や深さ浅さなどを、常に評価し続けるのが聞き手の作法です。
 また聞くことは、自分の思考力や判断力を高める大きなチャンスでもあります。
 ですから、私は子どもたちに対して、次のように話しています。
「なぜか」
「ほんとか」
「正しいか」
「この3つをいつも頭の中において、人の話を聞きなさい」
「わからないことは、たずねなさい」
「おかしいと思うことは確かめなさい」
「まちがいだと思うことは、指摘しなさい」
「ぼんやりと、どうでもいいや、という態度で聞くのは最悪です」
 これは、大人にも通用する聞き方の大原則。
 よい聞き手の育成は、発言する技術の訓練以上に難しいものですから、折りにふれ、繰り返し、一貫した姿勢で語り続けねばなりません。
 もうひとつ、教師にとって重要なのは、この3つの中の「なぜ」です。
 どんな誤答や奇数であっても「なぜ」この子はこんな発言をするのか、なぜこんな風に考えたのか、その問いかけが教師としての、先入観を取り払い、子どもの心に迫る糸口になってくれます。
(
野口芳宏:1936年生まれ、公立小学校・千葉大学付属小学校教師を経て、公立小学校校長。退職後、北海道教育大学・植草学園大学各教授、千葉県教育委員会委員等を歴任し、植草学園大学名誉教授。「鍛える国語教室研究会」「授業道場野口塾」「実感道徳研究会」各主宰
)

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子どもたちのよさを引き出す「魔法の質問」とは

 教師が自分から、子どもにかかわっていくことができ、短時間で子どもたちのよさを引き出すことができる方法です。
 例えば、友だちとうまくいかずに悩んでいる子が、相談に来たとしましょう。
 そのとき、次のような、子どもたちのよさを引き出す「魔法の質問」を行うのです。
魔法の質問1
 奇跡が起きて、すべての問題が解決したらどうなるのかなあ、とたずねる方法です。
「もし、あなたがひとばん寝たら、すべての問題が解決しているとしましょう」
「奇跡が起きて、すべての問題がひとばんにして解決してしまうのです」
「そうしたら、あなたはどんなあなたになっているでしょうか」
「あなたは、どう振る舞っているでしょうか」
 すると、その子の持っている一番いいところが引き出されると考えます。
 つまり、
「奇跡が起きて、ひとばん寝ている間に、すべての問題が片付いちゃったら、どうなるのかなあ」
と質問する中で、その子のいいところを引き出していくのです。
魔法の質問2
 子どもたちに自分の状態を「今、何点かな」とたずねていく方法です。
例えば
教師「〇〇ちゃん、先週の水曜日、最悪だったんだよね」
  「先週の水曜日が0点だとしたら、今の〇〇ちゃんは何点かなー」
〇〇ちゃん「4点くらいかなー」
教師「じゃあ、0点と4点とは、どう違うの?」
  「4点を5点にするためには何ができるかな」
このように聞いていくわけです。
 つまり、最低の状態が0点だとしたら、今は何点で、そこからまた1点あげるためには何をする必要があるかを聞いていくのです。
(諸富祥彦:1963年生まれ、明治大学教授,臨床心理学、カウンセリング心理学、現場教師の作戦参謀としてアドバイスを教師に与えている)


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子どもたちが授業に飽きていることに気づけますか、どうすれば授業のマンネリを防げるか

 ワンパターンの授業が続き、授業がマンネリ化すると、子どもたちは授業に集中できなくなり、違うことに面白さを求めるようになる。
 時には、それが問題行動であったり、他者へのいじめであったりもする。
 あなたは、子どもたちが授業に飽きていることに気づけますか。
 授業をしながら、常に子どもを観察し、子どもの表情や動作などから、授業を子どもたちがどう感じているかを読むことができますか。
 授業がワンパターンになっていると、子どもたちはストレスをためる。常に「教え込み一辺倒」や常に「子どもの考え主体の授業」だと、嫌気がさしたり、手遊びを始めたりする。
 また「教え込み」と「練習」を繰り返す授業では、子どもは飽きてくる。
 子どもたちが授業に集中できずに、落書きを始めたり、足を動かしたり、勝手におしゃべりを始めたりする状況になると、もう子どもたちはあき始めていることになる。
 これを無視して教師本位の授業をしていくと、子どもたちは教師の話を聞かなくなり、学級崩壊のきっかけとなる可能性がある。
 常に子どもは変化のある授業を望んでいる。ある時は「教え込みの授業」と「練習」、またある時は「子どもの考え主体の授業」というように、さまざまに組み合わさっている授業だと、子どもは授業に引き込まれ興味を示す。
 このことがわかっていないと「私は子どもたちの考えを生かして授業をしているのに・・・・・」と言いながら、だんだん学級が荒れてくることがある。
 それは、子どもがマンネリを嫌っていることに気づいていない教師だからだ。
 だからこそ、子どもの動きに気を配れる教師である必要がある。そのためには、
(1)
子どもの視線を読めること
(2)
子どもの手の動きを読めること
(3)
子どもが今、何をするべきかをわかっているかを読めること
 学級全員の考えを集結して「できた!」と実感できる授業。友だちの考えを聞いて「わかった」と言える授業。
「できた!」という喜びを学級で実感できる授業をときおり行うようにする。
 この学びが成立する学級の子どもたちは、学習することが好きで、考えることが好きになる。 
 子どもたち一人ひとりのよさを引き出し、よさを語ってあげることも大切だ。
 学級の子どもの反応のよかった授業はどんな授業であったかを分析する。子どもたち一人ひとりを逃がさずに、しっかりと「ねらい」にもっていく手だてを常に考える教師でありたい。
 授業のマンネリを防ぐ努力は、教師が子どもたちから信頼されるために必須のことである。
「子どもってすばらしい、面白い!」と思わない教師は、授業のマンネリ化の危険がある。
(
成瀬 仁:新潟県公立小学校教師。国立大学教育学部非常勤講師、オーストラリア公立小学校での勤務経験がある。また、幼稚園の経験もあり、多彩な教職経験を生かし、子どもと環境、教師の雰囲気を考えている
)

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子どもと仲良しになる方法

1 朝の出会い
 学級づくりは、朝、出勤した時から始まっています。
 職員室でパソコンに向かって事務的な仕事をしているとしたら、実にもったいない時間を過ごしていることになります。
 事務的な仕事は、学級の子どもたちがいない時でも可能なのです。
 朝の学級は、授業時間とは、ひと味もふた味も違う子どもたちだけの新鮮な世界が展開されています。
 この新鮮さを味わいながら、子どもたちの姿をさわやかな目で観察しました。
 もちろん、朝一番のハイタッチも欠かせません。
2 朝の会
(1)
教室に、無造作で入るのはもったいないことです
 今日はどんな態度で入るか、どんな表情で入るかの戦略を考えました。
 ネクタイをわざと曲げて入った。普段は物静かな子が「先生、ネクタイが曲がっていますよ」と注意してくれた。
 早速「よく気が付くで賞」を贈った。
 この日を境に、子どもたちの担任を見る目が変わった。
 ただし、この方法は、身だしなみの良い担任だから有効なのであって、普段だらしのない担任の場合は、子どもたちに嫌われるだけなので注意が必要です。
(2)
ふだん落ち着きのない子が、教室で走り回っていた
「おっ、今日も元気があっていいぞ。休み時間に外で相撲をとろう。それまでエネルギーを残しておくといいよ」と伝えた。
 その子は、ニコニコしながら席に着きました。
 落ち着きのない子を元気のある子と捉えることが相互信頼の根本です。
(3)
朝の会の次第に「一人ひと言」というコーナーを設けました
 初めの席の2人が、自分が思っていることを発表します。話す内容は「自然現象に関すること」「学校生活で楽しい、あるいは嫌だと感じていること」「自分の将来の夢や希望に関すること」などです。
 次の席の2人が発表した2人に対して質問し、最後の一人が感想を述べます。
 このコーナーの表向きのねらいは、発表力の育成ですが、実は学級の人間関係を把握するねらいも秘められているのです。
 発表している時に、学級内を見渡せば、好意を持って聞いている子と反感を持って聞いている子が見えてきます。
3 放課後
(1)
子どもたちを昇降口まで見送りました
 朝に雨が降り、下校時に晴れている場合は、できるだけ昇降口まで見送るようにしました。
 子どもにかける言葉は「交通事故に気をつけましょう」に加えて「傘を忘れないように」でした。
 傘を忘れて下校すると、翌日に雨が降れば、その子が困ると思ったからです。
(2)
小黒板にメッセージを書きました
 金曜日の放課後のこと、担任が教室の外を見ていました。そこに女の子が図書室から戻ってきました。
 その子は、乱れていた机を直し、窓を閉め、さらに電気も消し、最後ににっこりとほほ笑んて帰って行きました。
 その様子が、とてもさわやかだったので、うれしくなって小黒板に次のようなメッセージを書きました。
「明日は休みの金曜日の放課後に、黙って窓を閉めていた。机を直して電気を消して、そしてにっこり笑ってさよならと言った。その子が今日もいるといい」
 この短いメッセージが子どもたちの心に伝わったのでしょう。下校時の教室は、今まで以上に整理整頓されるようになりました。
 事実に基づいてほめることの効果でした。
(3)
事務的な仕事を効率的に行いました
 短縮できた時間で、学級通信を作成しました。
 学級通信には、行事の連絡や報告の記事に加えて、いじめを出さないという観点から、学級内のさわやかで明るい出来事も紹介しました。
(
野口晃男:小学校教師、指導主事、教頭、校長を経て盛岡大学非常勤講師
)

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ボスに勝つにはどうすればよいか、荒れたクラスを立て直す第一の方法とは

 授業中にボスが勝手に出て行って、戻ってきたときこそ取り上げるべきです。
「今、授業中ですよ。あんたは勝手に出て行った。今度は、先生に言いに来なさい」
「そんなのうるせーな、いいじゃねーかよ」と言うかもしれません。
「いや、いけません。授業中ですから、行くんなら先生に断りなさい」
「いいよ、ケチ」
「じゃ、きみがいいって言ったから、いけないと思う子、手を挙げてごらん」子どもだから半分くらい手を挙げますよ。
「この子が言っていることがいいと思う人、手を挙げてごらんなさい」仲間が何人か手を挙げます。
「そう、授業中に先生に黙って出てもいいって子が何人かしました。先生はとっても大事な問題だと思いますので、これから学級通信を書きます」
「〇〇くんとか、△△くんとかは、正しいと言ったので、ちゃんと名前を書いて意見を書きます。ですから、〇〇くん、意見を言ってください。本心ですか?」〇〇くんは、しょんぼりした。
「勘違いだったのね。勘違いなら、もう一回聞きます。授業中に先生に断りなく勝手に出ていった。このことが悪いと思う人、手を挙げてごらんなさい」わーと手をあげますよ。
「いいと思う人、手を挙げてごらんなさい」
 その子は、手を挙がった方を見ないかもしれない。さいなまれるんです。
 けんかはこうでなくちゃいけないんですよ。
 そういうことを一つ一つやるんです。今、言った、たった一つのことを突破すれば、半分は従います。
 荒れたクラスを立ち直らせるのは、教師の統率者の自覚です。必ず勝つ。
 そして、授業が楽しい。授業が楽しくおもしろければ、いつの間にか、だんだん、じわじわ効いてきます。
 第一は、授業ですよ。授業がおもしろくて楽しいことですよ。このおもしろくて楽しいこと抜きに学級を立て直すなんてないです。これはもう第一条件ですね。
(
向山洋一:1943年生まれ、元東京都公立小学校教師、教育技術法則化運動代表を務めてきた。教師を退職後、TOSSインターネットランドの運営に力を注いでいる
)

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叱れない教師を生徒はどう思っているのか、なぜ生徒を叱れないのか

 叱らない教師が増えてきているという。なぜ叱らないのか。
 生徒は教師をよく見ていて、教師のホンネを指摘してしまう。
 生徒たちは叱らない教師を次のように言う。
「叱れば、なんだかんだと、生徒とやり合うことになるでしょう。時にはケンカのようになることだってあるからね。それが面倒なんですよ」
「こわいんですよ。生徒をこわがっている。教師が文句を言うと、こっちだって反発しますからね。だから、見ても知らないふりして行ってしまう。あわれなものですよ。そんなふうだから、生徒にバカにされる」
「逃げているんですね。相手にしないんですからね。それならこっちだって相手にしない。そんな先生、いてもいなくても同じですからね」
 教師が生徒を叱るときの意図を考えると、
(1)
教師が自分がよいと思っている生徒のイメージに生徒を近づけていきたい。
(2)
もっと露骨に言えば、教師は自分自身の思うように生徒をぎゅうじっていきたいために、生徒たちの言動を矯正しようする。
 だからこそ、教師は自分自身の思いに十分な目を向けなければならない。
 叱れないとは、そういうことを考えていない、それだけの情熱がない、叱ることに自信がない、ということなのか。
 それは自信の問題ではなく、自己保身の問題ではないか。生徒に愛情を持っていないということではないのか。
 つまり、教師としての自分は、生徒をどのようにしたいのか。どんな生徒になってもらいたいのか。
 しかも、それはその生徒にとってムリな要求ではないのか。生徒のしたい方向、なりたい方向とちがうのではないか。
 こんなことを十分考えていないことからくる問題ではないのか。
 叱れないとは、叱り方のうまいとか、へたとかという技術のことではない。
 教師自身が、人間というものをどう見るか、生徒の立場や「めんつ」をどう感じ考えるか、生徒の感情をどれだけ共感できるかという、共感の能力とも言うべき問題でもある。
 叱り方とは、技術論ではなく、愛情論である。
 叱り方は、生徒の「よく」なってもらいたいと祈る教師の心の問題でもある。
(
関根正明:1931年生まれ、小・中学校教師、指導主事、東京都公立中学校校長、大学助教授を経て、元山形大学講師)

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学級崩壊がなぜ起きるのか、荒れた学級との戦いから学んだこと

 大賀先生は客室乗務員になるか教師の道をとるかで悩み、結局教師になった。すてきで知的な教師である。しかし、新卒のころは次のような学級崩壊を経験した。
 小学校2年生の授業中に、やんちゃな子が立ち歩き、それにつられてもう一人のやんちゃな子が立ち歩き始めた。
「今は授業中です。座りなさい」と優しい声で注意した。
 しかし、立ち歩いたままなので、近づいて「授業中です。座りなさい」と少しきつめに注意した。その子は、へらへら笑って座ろうとしない。
 しばらくすると、その子が立ち歩いたまま手をあげた。彼を指名しなかった。すると「先生が無視した!」と叫び、暴れだし、教卓の上の物を全て落とした。
「直しなさい」とどなると、私に物を投げてきた。教室は格闘場になり、授業は中断せざるを得なかった。
 こんなことがたびたび起こった。クラスがこのようになったのは、すべて私の教師としての未熟さや統率力不足が原因であった。
 私はあきらめずに荒れたクラスに必死に立ち向かった。朝早く学校に出勤し、子どもを笑顔で迎えるようにした。休み時間は子どもと一緒に遊んだ。子どもが帰った後、散らかっている教室の掃除をした。
 一人ひとりの子どもの顔を思い浮かべながら、今日何が起こったかを思い出し記録した。
 しかし、毎時間何かトラブルが起きた。ふつうに授業できるのが一日に1時間あれば、いいほうであった。
 身も心もずたずたになっていった。一人でもがき、苦しんでいた。
 向山洋一は、著書「学校の失敗」で「学級が荒れる原因は教師にある。つらいけれど、そのことを見つめなければならない。
 教師がすべて悪いのではない。悪いのは教師の教育行為にある。子どもの前で教師として振る舞ったことの中に、学級が荒れる原因がある」と述べている。
 私の行いのどこが悪かったかを自分なりに振り返ってみた。
 なぜ私のクラスが荒れたのか。荒れた原因は
(1)
私の授業の腕が未熟だったからである。
(2)
集団を統率する力が弱かったことである。
の2つである。
1 集団を統率する力が弱かった
 統率力を失った原因は、指示が不明確でぶれてしまうことであった。
 例えば、算数の時間に「ノートに式と答えを書きなさい」と指示した。すると「先生、教科書に書いてしましました」と子どもが言った。
「しかたがないですね。今度からは、きちんとノートに書きなさい」と言ってしまった。
 やんちゃな子たちは、この指示のぶれを見逃さない。見る見るうちに、アドバルーンを上げて、指示が通らなくなり、荒れ始め、騒乱状態になってしまった。
 私は、最初に子どもたちと仲良くなりたいと思い「ダメなことも、まあいいか」と、子どもたちに言ってしまった。
 次第に、子どもたちは私をなめるようになり「この先生はあまり恐くない。何をしても怒らない」と甘えだしてきた。
 そのうち、私が集団のリーダー(ボス)になっていなかったために、やんちゃな子がボスになり弱肉強食の構造を作ってしまっていた。
2 私の授業の腕が未熟だった
 他の先生に私の授業を見ていただいて、次のように分析してもらった。
(1)
発問が子どもたち全体のものになっていない。一人ひとり何をしたらいいか、はっきりしていない。
(2)
こわい顔で授業をしている。
(3)
授業のねらいがぼけている。クライマックスがない。流しているだけ。
(4)
子どもたちに指示が伝わっていない。
 クラスが荒れた最大の原因は、私の授業がまずかったことであった。
 向山洋一先生から次のアドバイスをいただいた。
(1)
少しでもいい状態にするには、楽しい授業をすることである。9割は授業である。
(2)
叱れば叱るほど、荒れていく。たくさんほめるようにする。
(3)
子どもと戦うときは、一人に絞り、一点だけについて戦うようにする。
 荒れたクラスでの目標の一つは、授業を成立させることである。私は「勉強って楽しいな」「今日の勉強はよくわかったよ」と思えるように次のことをした。
(1)
授業で使えそうなものを、教育雑誌などで見つけ、手当たりしだいにコピーし、各教科ごとにノートを作成した。
(2)
毎時間、発問・指示を明記した指導案を書いた
 トラブルが起きても指示を明確に出せた。空白の時間を作らずにすんだ。
 荒れたクラスを立て直すために、私がいいなと思ったものをたくさん追試した。例えば
(1)
フラッシュカードを利用して、いきなり授業に突入する
 授業の始まりに「席に着きなさい」「教科書とノートを出しなさい」と言うのをやめた。算数の授業はテンポよく、パッパッとフラッシュカードを出した。
(2)
忠実な追試をする
 授業で使えそうなものをノートにはっておいたおかげで、発問、指示が明確に書かれているから、忠実に追試を行うようにした。
 荒れたクラスでの戦いは非常につらい。しかし、あきらめたらもっと地獄に落ち苦しみを味わう。
 荒れたクラスとの戦いは、自分との戦いでもある。ネバーギブアップ、あきらめないことが荒れたクラスとの戦いでは、いちばん大事なことである。
(
大賀由里子:東京都公立小学校教師
)

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チャイムが鳴ったのに席に着かず、私語やマンガを読んだり遊んだりして授業が成立しない時、どう対応すればよいのでしょうか

 チャイムが鳴り、授業の挨拶をしようとしても、教室が騒然としているとき、どう対応すればよいのでしょうか。
 このような場合、注意すべき子どもをピンポイントで指導して、学習態勢の確立をはかるようにするとよい。
 子どもの名前を呼び、具体的な指示を出した。
「〇〇くん、前を向いてください」
「□□さん、口を閉じてください。号令がかかっています」
「△△さん、手を膝の上に置きましょう」
 そして、その子がきちんとしたら
「OKです。ありがとう」、「はい、できました」
と言うようにした。 
 また、一度で直らない子には
「〇〇くん、2回目の注意です」
と、毅然かつ冷静に指導した。
 このようにして、全員の学習態勢が整ってから授業に入るようにした。
 そのとき、個別の子にも全体の子どもたちにも、もくどくど説教はしなかった。
 きちんとできたことを認めて授業を始めた。
 ほかの方法の例を次に示すと、
「教科書の〇ページの一番上の番号1を指でさしなさい」
と指示を出す。
 教師が「5,4,3,2,1」と数えて少し待ったあと、教室の端の子から一人ずつ「〇、〇、〇、×、・・・・・」と言いながら評価していく。
 また、リズミカルに「マル、バツ、マル、マルのマル」などと言いながら机間を回る。
 これを何回か実施すると、すぐに教科書を開いて指がさせるようになった。自然に学習態勢が整った。
 よくない方法は「静かにしなさい!」といった全体への注意です。
 子どもたちは自分に向けられた言葉だと感じない。
 大声でどなると、全体萎縮させ、きちんとしている子にも「なんで僕たちまで怒られるの」といった受けとめ方をされてしまう危険がある。
 注意や指導は、それを必要とする子に直接向けられるべきである。
 ほめることは、全体へふくらませて効果がある。しかし、叱ることは、その個人に限定したほうがよい。
(
神部秀一:群馬県公立小学校教師
)

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教師が心を痛め休職したりする原因は何か

 教師は真面目で誠実だ。誠実だから教師になったのだ。真面目でない人間には教師は絶対つとまらない。
 心を痛めて、休職する教師が増えている。辞める教師が増えている。
 それを取り上げてくださるマスコミも多い。有り難いことである。
 しかし、マスコミの方々は、われわれ教師の「さが」をよく分かっていらっしゃらないようだ。
 教師が自殺したり、休職者数が増加したりすると、すぐに労働時間などが問題にされる。
 確かに教師の仕事は忙しい。しかし、私は、そんなことは問題でないと思っている。
 教師が心を痛める原因は何か? それは「報われない」からである。
 どんな仕事でも、辛いことはある。忙しくて、睡眠時間も満足に取れないことがあるだろう。
 仕事は、厳しいものである。それは仕方ない。
 それでも、その努力が報われれば、人間はがんばれるのだ。
 どんな忙しかろうが、徹夜が続こうが、報われている限りはがんばれる。
 われわれ教師は真面目なのだ。良心的なのだ。子どもたちの笑顔を見て、やりがいさえ感じられれば「教師になって良かった」と思える。
 どんなに仕事が忙しくても、体がきつくても「がんばって良かったな」と思える。
 それなのに、いまどきの教師は「報われない」、がんばっただけの見返りがない。
 見返りとは、現金ではない。子どもたちの笑顔、保護者の笑顔、つまりは「先生のお陰で」と言われることが少なすぎる。
 いや、逆に一生懸命やった、がんばりが裏目に出ることが実に多いのだ。
 これでは、われわれ教師は「報われない」、がんばれない。
 教師という仕事の本来の喜びは、子どもの成長である。かけ算九九ができるようになったなど、子どもを成長させることができると、ものすごくうれしい。
 そして、自分の成長を実感した時の子どもたちの笑顔を見ると、さらにうれしい。
 これが、教師の「さが」である。そのためなら、どんなに大変でもがんばれる。
 われわれ教師は辛いのは、忙しいからではない。「報われない」から辛いのだ。
 今、教師に必要なのは、教師が報われることである。
(
中村健一:1970年山口県生まれ、山口県岩国市立小学校教師。授業づくりネットワーク、お笑い教師同盟などに所属。笑いとフォローをいかした教育実践は各方面で高い評価を受けている。 また、若手教師を育てることに力を入れ、多くの学生に向けて講演も行っている
)

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小学校の教師が人事交流で幼稚園に赴任して、わかったこと

 中部地方の小学校教師が2年前に人事交流で大学の附属幼稚園に赴任した。
 子ども観が大きく変わったという。ニコニコしながら、小さな子どもに語りかけるような、ゆっくりとした口調で話してくれた。
 幼稚園に赴任した頃は、4,5歳の子を扱ったことがないから、何をしていいかわからなかった。
 それに幼稚園って教科書がないでしょ、4月にこれを勉強させなきゃいけないっていうのがない。
 折り紙の時間に子どもがケンカをしても「ケンカしちゃダメ!」なんて言わない。ケンカを通して痛みもわかるし、子どもが育っていくことをすごく大事にしているんです。
 プールの時間でも、入りたがらない子に無理じいしない。「この子はまだ、そういう時期じゃないんだ。機が熟すまで待とう」と。子どもの心の解放が大切なんですよ。
 つまり、子どもに「〇〇しなさい」と強制しないんですね。もっと自由でいいんじゃないかと。自由な時間を与えて、自分の生活を主体的につくらせる。
 わが子を見てても「子どもって、ほんとに自分の思うようにならないなあ」と感じるけど、幼稚園はそれが集団だから、すごい世界なんです。
 もろに本能のぶつかりあいで。逆に、教師が変わらなきゃならない。
「できるようにさせる」という関わりじゃなくて、その子が「やりたい」と思っていることや、発達段階で大事なことを先生が認めたり、助けてあげる。
 一人ひとりの子どもの成長に、どこまで関われるかが大事。4歳や5歳という幼児期に大事なことを伝えていく、という考えなんですね。
 それで、自分のことをふりかえったんですよ。
 小学校の教師でいたときは「私のクラスは、ぜったいに全員、逆上がりができるようにさせてやるぞ」みたいなことが、すごく強かったなあって思ったんです。
「それができるのが、教師の力量だ」なんて、私は偉そうに思っていたし、保護者も喜んでくれたし。
 小学校では目標達成主義で、子どもたちを育てている。できなかったら「あなたの指導が悪いんだ」と、教師の評価にもなってしまう。教師も追いつめられちゃうんですね。だから、子どもがいうことを聞かないと叱る。
 幼稚園に来て「教師のほうから、子どもたちのほうに行く」のが大事だと、思うようになりました。
 小学校1年生のクラスが5月に学級崩壊したという報道が以前ありました。
 5月ということは、幼稚園から上がったばかりで、はたして子どもが、授業中ずっとおとなしく席に座ってられるのか。この時期はまだ無理なんですよ。
 もしも、子どもが全員きちんと座っているようだったら、それは幼稚園のときに「やりたい」「楽しい」ってことを抑制されてた、としか言いようがない。
「先生に怒られるから、とりあえずおとなしくしてるよ」っていうレベルで、子どもは受けとめちゃう。
 それじゃ、教育じゃない。自分から主体的に「相手のために、話を聞くんだ」という大事なことは育たない。
 その子の心が今、どこにあるのかってことを見届けていく必要があると思うんですよ。
 私が幼稚園に来て「おはよう」と言っても、あいさつしない子がいた。「ちゃんと、あいさつしなさい」とは叱らなかった。
 でも、1年かけたら、その子も「先生、おはよう」って言うようになりました。
 あと1年半で幼稚園の勤務は終わるけど、早く小学校に戻って授業をやりたいですね。
 幼稚園で学んだこと、実感したことを生かして、子どもたちに接していきたい。
 きっともっと幅の広い授業なり、子ども理解なりができるんじゃないかなあ。それが私の使命だと思うし。
(
中部地方の小学校教師
)

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子どもを教える仕事をする人に絶対必要な心構えとは何か

 当時、生活指導主任をしているA先生の学級の前を休み時間に通ると、教卓のところに子どもたちが何人も群がっていた。笑い声がいつもおきていた。
 群がっている子どもたちはいつも決まっていた。それはクラスで一番勉強ができない子。みんなに嫌われている子だった。
 A先生のひざの上にいるのは、決まって「できない子」であり「嫌われている子」だった。
 勉強のできる子をひざの上にのせていることはなかった。
 ある日、私は「A先生は、いつも子どもがいっぱいいますね」と声をかけた時、初めて所信を語った。
「勉強のできる子や人気のある子は、これから先の人生で、いつだって脚光をあびたり、人から大切にされたりするんだ」
「だけど、クラスでは最下位のような子は、今大切にしてやらねば、再び大切にされることは、ないのかもしれないんだ」
「今大切にしてやって、人生のバランスはとれているんだ」
 私はそれ以来、心の中に「教師として、子どもを大切にしているかどうか」という明確な判断基準が加わった。
 クラスで最も嫌われている子がひざの上に来るような教師なら「子どもを大切にしている」と私は判断する。
 口先だけ、うまいことを言う教師ではだめだ。子どもは敏感なのである。内心「嫌だ」と思っていることは相手にも伝わるのである。鏡の原理が働くのである。
「最も嫌われている子どもがひざの上にのる」ことは簡単ではない。どうしても通過しなければならない心の革命を必要とする。
 それは、次のことである。「いかなる状態のいかなる考えの子も、すべて暖かく包み込める」
 教師は人を教えて育てるという恐ろしい仕事をしている。
 人を教えたり、人を助けたりする仕事の人が、絶対必要な心構えがある。
 それは、子どもを「包みこめる」ということであり、「暖かく接することができる」ということである。
「ぼくは先生なんか、大嫌いだ」と憎たらしく言う子をも、なおも包み込まなければならない。
 これが教師という仕事の宿命なのである。
 子どもたちのすべてを受け入れて、包み込み、そしてさらに「子どもの可能性を伸ばそうという努力」が重なった時、子どもは別の表情をみせるのである。
(
向山洋一:1943年生まれ、元東京都公立小学校教師、教育技術法則化運動代表を務めてきた。教師を退職後、TOSSインターネットランドの運営に力を注いでいる
)

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保護者からのクレームに若い教師はショックを受ける、クレームが起きる前提と真意を知って対応するとよい

 保護者からの苦情やクレームに悩み、対応がこじれて失敗する教師の多くは、問題を一人で抱かえ、悩み、職場で孤立する若い教師が多いのである。
 若い教師にとって、クレームの始まりは、たいがい「子どもとの関係づくり」のつまずきからスタートする。
 保護者からの初めてのクレームは、若い教師にとっては大変なショックである。厳しいクレームに映る。
 保護者からのクレームは「先生に力がないからですよ」と教師の誇りを打ちくだき「私は無力だ」と自責の念や自己否定の感情に追い込んでいく。
 だからこそ、若い教師の周りには仲間の教師や先輩教師がいて
「あなたは、がんばっているよ」
「教師として自信をもてよ」
などと、教師仲間が支えるというフォローが必要なのである。
 若い教師は、職場の仲間とつながって、問題解決の力量を養って、たくましい教師に成長してもらいたいと願わざるを得ない。
 それでは、実際にどのような問題で苦情やクレームを受けるのか。
授業では「先生の授業がわからない」「先生は特定の子ばかり当てたり、ひいきする」「授業は一部の子だけが発言して、先生一人がしゃべっている」「授業の進度が他の学級より遅れている」「わからない子は置いてきぼりだと子どもが言っている」「一部の生徒が騒がしいが、注意しない。頼りなく担任として大丈夫だろうか」「授業は生徒が騒がしく、学級崩壊の状態だ」
 生徒指導では「いじめがあっても、いじめた子をちゃんと注意しない」「子どもがケガをしても親への連絡が遅い」「骨折しているのに、ちゃんと病院に連れて行ってくれない」「行事の連絡が遅い」「顧問の先生が部活動に毎日来ない」「部活で実力があるのにうちの子がどうしてキャプテンに指名されないのか」等々。
 教師はクレームが起こる前提と真意を知っておくことが必要だ。
 親は自分の子どもはかわいい。したがって、わが子の言動を「うのみ」にして、学校の対応に不満や怒りを爆発させ、突然クレーマーになることは日常茶飯事である。
 教師の指導や対応が悪いと感じたとき、ある瞬間からクレーマーになるのである。
 教師が心得ておかなければならないのは、クレームの裏にある真意をつかむこと。
「一度、機会があれば学校に文句を言ってやろう」
「これまでたまっていたストレスを、学校へ攻撃して表してやろう」
と考えていたりする保護者であるか。
 あるいは、以前にもクレームを言って学校を謝らせた成功体験をもつ保護者であったりするか、である。
 クレームの裏にある真意をつかまねば、保護者と学校の間の溝は埋まらないし、問題は解決しないのである。
 それだけに「お母さん、それはですね・・・・・」と、保護者のクレームの途中で口をはさんで、上から目線で、話の腰を折ってしまったり、クレームの内容をじっくりと経過を追って聞いたりすることがなければ、ため込んでいたクレームの原因や背景はつかめない。
 学校であった指導に満足していない子どもが親に言い、親がそれを「うのみ」にして学校にやってくるのである。それだけに問題の解決を複雑にする。
 クレームの問題解決を子どもの視点で行うのか、大人同士の問題として扱うのかを間違えると問題を複雑化させてしまうことになる。
 大人同士の目線で話を進めると「謝れ」「謝らない」という言葉尻をつかんだ口ゲンカになり、メンツが先行する。
 そうではなく、子どもの目線でクレーム問題の解決をはかるとよい。
「子どもがどう思っているのか」「子どもはどうしてほしいと言っているのか」「どうすれば、一番子どものためになるのか」という教育的視点を最優先に話を進めていくことである。
 保護者と学校とのコミュニケーションの実体調査の結果から、保護者が学校とコミュニケーションがとれていないと思っている割合は、教師より4倍も多い。
 保護者は教師よりもコミュニケーションが取れていないと実感しているのである。
 したがって、教師から保護者への日常的な「お知らせ」や「おたより」、すばやい「連絡」「報告」「家庭訪問」などを通したコミュニケーションや話し合いで、子どもについての情報を共有し、信頼関係をつくることが非常に重要である。
 特に、常に学校へ不満やクレーマを言うタイプの保護者は、日頃からの連絡を早くし、連絡も密にする必要がある。
(
古川 治:1948年生まれ、大阪府公立小学校教師・指導主事・校長、東大阪大学教授を経て、甲南大学特任教授
)

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子どもたちを受信する力がつけば、信頼され、指導力のある教師になることができる

 子どもたちや保護者から信頼される教師になりたいという思いは、すべての教師の願いです。そうなるためには、どうすればよいのでしょうか。
 私の長い教師経験から言えることがあります。
 経年とともに、教師は発信力が強くなります。
(1)
子どもたちにどう伝えられるか
(2)
どう噛みくだいて伝えればよいか
の研鑽を積み、子どもたち全体を仕切り、的確な話や指示を明確に伝える発信力に力を注ぐことが多いと思います。
 しかし、私の長い教師経験から、発信力を発揮するためには受信力が大事です。
 発信力を発揮するための大前提として、
(1)
聞く力
 冷静な落ち着いた気持ち対応する。相手の波長にあわせ、答えやすい質問を心がける。
(2)
受けとめる力
 見えてないことが多いと思い、どんな思いか興味を持ち、理解することに情熱を持つ。
(3)
感じとる力
 日々新たな気持ちになり感覚の鮮度を高める。人の気持ちは日々変わるので、決めつけない。行動の傾向を探る。
 すなわち、受信力が大事だと考えています。
 しっかりと、受信力を磨き続け、豊かな受信力によって子どもを把握することができれば、発信力を効果的に発揮されます。
 豊かな受信力を取得すればするほど、おのずと発信力は身についていきます。
 この受信力をすべての教師の皆さんに磨いていただきたいと思っています。
 教師は生活指導ができる人が、力があるとされています。生活指導とは集団統率力です。
 教室全体を静かにさせる力、朝会で全校の子どもたちを静かに整列させる力、これらができる教師が力量を高く評価されます。
 例えば、授業中に私語する子どもたちを指導することを考えてみます。
 授業中に私語をしている子どもがいるときは、私語を慎むようしっかり指導することが求められています。
 教室がざわついている状態の学級を子どもたちの視点で考えてみましょう。
 子どもたちの教師への評価はどうでしょうか。その教師がいやな子どもが多くいたり、不満を抱いていたりしているのではないでしょうか。
 一方、とても雰囲気のいい学級の子どもたちの多くは、教師のことを好きであったり、信頼感を厚く抱いていたりします。
 子どもたちは、
(1)
ちゃんと自分たちのことを見てくれている教師
(2)
自分たちの話をちゃんと聞いてくれる教師
(3)
誰に対しても同じ気持ちで接してくれる教師
このような教師の姿を理想像として描いていると言えます。
 つまり、教師に対して敬意や信頼があれば、その教師の指示にはちゃんと従うのです。
 このためにも、教師は子どもの気持ち、子どもの心の奥底にある思いを理解しようとする姿を、子ども自身にしっかり認知させることが、最も重要なことです。
 さらに、発達特性や学習障害等、教師がしっかり理解することもたくさんあります。
(
森上一美:名古屋の公立中学校、小学校教師、小学校校長を経て金城学院大学教授
)

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一流の実践家の教育技術を学んでも出来ないのは、その実践家の生きざまによる部分が大きい

 教育技術を学べば、教師としての力量は格段に伸び、教育実践は充実したものになると、私は若い頃信じていました。そして、多くの教育技術を一流の実践家から学びました。
 ところが、私はその実践家の先生のようになることはできませんでした。
 私は、あるとき気づいたのです。
 一流の教育実践家が、その講座や著書によって披露している教育技術は実のところ、その本人が意識できていることだけに限定されるということに。
 そして、実践家の実践を形作っているのは、むしろ意識されていないその所作や、教育観、子ども観、また実践家の性格による部分が大きいということに気づいたのです。
 そうしたその実践家の人格としか言いようがないものと、教育技術がマッチしているからこそ、一流の教師は一流として存在しているわけです。
 教育技術と教師の人格は背中合わせにあるものだというのが私の結論です。
 ですから、私が研修会の講座で語る場合や、またどなたかの教育技術論を聞かせていただく場合にも、「その技術は、なぜ必要なのか」「その教育技術は、どのようにして生まれたのか」「その教育技術が、その教師にとってなぜ可能であるのか」といったことに留意するようにしています。
 つまり、教育技術と教師の人格をまるごと語るときに、はじめて教育情報は価値あるものになると私は考えています。
 教育実践家から真に学ぶべきは、その教師の生き様です。なにを体験し、なにで失敗し、なにで成功したのか。そしてどのように学ぼうとしたのかです。
(
山田洋一:1969年生まれ、私立幼稚園に勤務後、北海道公立小学校教師。教育研究サークル「北の教育文化フェスティバル」代表
)


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授業で、発問・説明・指示の仕方をプロ級にするにはどうすればよいか

 教室で大勢の子どもたちに話をするのですから、声も間も大切です。いつもよりも、大きく、はっきり、ゆっくり話します。
 すると、落ち着いた話しぶりになり、発問や指示が通りやすくなります。
 見ればわかるように、身振りや手振りを入れたほうが、わかりやすいと言えます。
 表情も重要なポイントです。笑顔で話をすると聞き手は安心します。
 特に真剣な話をするときには、目を見開き、しっかりと子どもたちを見渡しながら話をすると効果的です。
 話し始めに、わざと長めに間をとったり、あえて小声で話したりすると、聞き手を引きつけることができます。
 発問には、いくつもの答えが予想される発問があります。例えば社会科で「写真を見て、気付いたこと、疑問に思ったことは何ですか?」とか、曖昧な部分を聞く発問です。
 いくつもの考えを出させることで、思考を広げ、比較検討し、妥当な解に絞ることを通して子どもの思考を深めるのです。
 発問の後に、全員が考えさせるように指示をするとよい。「自分の考えをノートに書きなさい」と指示をします。
「賛成なら〇、反対なら×と書きなさい」「根拠をずばりひと言で書きなさい」という指示なら1分以内で終わります。
「考えを10文字以内で書きなさい。時間は2分です」
「3分以内に根拠を3つ、ノートに書きなさい」
 このように指示されれば、全員が目安をもって取り組めます。 
 説明内容が見えると、さらにわかるようになる。実物や写真、動画があると話がわかりやすくなります。
 黒板に絵を描いたり、図解したりして描写するようにします。わかりやすい説明をしている教師の授業を参観すると、黒板を効果的に使っています。
 子どもの身近なことに置き換えることができれば、説明内容がよりわかりやすくなります。
 説明するときは、具体例があるとわかりやすい。しかし、具体例だけでは、すっきりとわからないことがあります。
 例えば「私が好きな食べ物は、ラーメン、うどん、パスタです」という話は、すっきりわかったという気にはなりません。
「私の好きなのは麺類です」と、束ねる(抽象化する)ことでわかりやすこなります。
 つまり、具体的な説明を入れるには「例えば」、束ねて抽象化するには「つまり」を使うようにします。
 説明は短いほうがよいですね。時には説明が長くなるときがあります。そんな時には、合間に笑いを起こすようにしてみましょう。リラックスでき、再び集中して話を聞くことができるのです。
 説明を聞いているだけでは、子どもたちは飽きてしまいます。大切なポイントを復唱させることで、聞き手を参加させることができます。
 問いかけることも有効です。「今、〇〇について説明しましたが、どんな点に気をつければよいでしょか?」と、聞けば復習になります。
 ペア対話やグループ学習など、ある程度まとまった時間が必要な場合があります。
 その作業を終えるのに、どうしても時間差が出てきます。
 その場合は、指示を終えた後の行動もセットで説明しておきましょう。例えば
「今日の学びを振り返り、感想を書いておきましょう」
「話し合いの内容を発表してもらいます。発表の練習をしておきなさい」
などです。こうしておけば、ムダな空白時間が生まれません。
(
瀧澤 真:1967年埼玉県生まれ、千葉県公立小学校教頭
)

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授業中、騒がしい子に注意をしたが無視された、どうすればよいか

 授業中、騒がしくなったので、教師が騒がしくしている子に注意をしたが、子どもは無視をした。
 無視という子どもの挑発的な態度に、教師が感情的になり「ちゃんと聞きなさい。悪いということがわからないの」といった感情的な言葉で叱るのは禁句である。
 教師が感情的になると、まわりで見ている子どもたちには、子どもと教師が対等に言い合っているように見える。
 そうなると、反発する子どもに加わる子どもたちが出てきて、収拾がつかなくなる。このままにしておくと、学級崩壊になりかねない。
 どうすればよいのでしょうか。
 教師自身が自分の何が問題かを考えるとよい。
 教師の言動に、子どもが反発していると考え、教師自身の何が問題なのかを、振り返ることが大切である。
 教師の言動や授業の進め方が引きがねになり、子どもたちが反発することがある。
 授業後に、その子と個別に話し
「〇〇ちゃん、先生に何か思っていることがあるんじゃないかな? 先生は思いつかないの。だから、教えてくれないかなあ」
と、無視している原因を探った。
 また、まわりにいる子どもたちにも個別に話をしたり、クラスの子どもたちから、先生に関するアンケートを取ったりして情報を得た。
 情報をつかんだので、無視した子どもともう一度話をした。
「この前、先生があなたのことを注意したことに腹を立てていたんだね」
「先生は、勘違いしていたようだね。それで、先生の言うことを聞けなかったんだね」
「本当に悪かったね。ごめんよ」
「今度から、ちゃんと、あなたや、みんなのことを見ていたいと思っているよ。これからも教えてね」
と伝えた。
 その他の解決の方法として、無視した子どもも参加したくなるようなゲームすることが考えられる。
 授業を中断しゲームをします。例えば
「今から楽しい『20の扉』のゲームをします」
「では始まり。それは動物です。さあ、20回、質問してください。それに『はい』『いいえ』で答えます。答えを当ててください」
子ども「大きいですか?」、教師「はい」
子ども「色は灰色ですか?」、教師「はい」
子ども「鼻が長いですか?」、教師「はい」
子ども「わかった。象ですか」、教師「そうです。象です」
当てた子どもは大喜びです。
教師「3問で当たったね。この調子で後2題します」
と進めて授業に戻った。
(
松本順子:高知市子ども科学図書館
)

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いまどきの保護者とは

 小学校の教師になって18年目になる。スポーツ好き、子ども大好き、子どもたちや保護者にも人気が高い、頼もしい女性教師である。インタビューした。
 保護者から、学校のことにかぎらず、家庭の問題とか仕事の悩みまで、いろいろな相談が持ち込まれます。なかにはパニックになって夜中に電話してくる親とか。
 まあ、ふだんから「自宅に電話してもいいですよ」と言っているので、かまわないのですけれど。
 お母さんたちは一人で考えていると煮つまっちゃうらしくて、たいしたことじゃなくても、やっぱり聞いてもらうと、ホッと安心するみたいです。
 どうにもつきあいきれないなと思うのは、やっぱり親のエゴや見栄かしら。
 子どもの成績があまり振るわないのに「なんとかして私立を受けさせたい」という親がいる。いったいだれのため?といいたくなる。結局ブランド信仰でしょ。
 私に言わせれば、子どものことなんてまるで考えていない「たわけ親」ですね。親がこんなふうだと、子どももうまく自立できない。
 今の子どもたちをひと言でいえば、自己中心的で、依頼心が強い。セルフコントロールができないんです。
 子どもたちは集団のなかで、ケンカをしり、いろいろな経験を積んだりしながら、自分で考えること、自分を抑えることを学んでいく。
 ところが、高学年になっても、それができなくて、相手をケガさせるまで殴ってしまうとか、ケンカの仕方もわからない。
 女の子を殴った男子がいて、許せないから、私は、その子を引きずり出すつもりが、逆に投げ飛ばされてしまった。いつの間にか、子どもの方が力が強くなっていたの()
 ところがその子が謝らない。家庭でも謝ったことがないらしいんです。両親が優しく、悪いことをしても謝らないで済んできたんですね。
 ただ、この両親は子どもに対して真剣だった。学校に来て「謝らせたい。いま頑張らないと、あの子は立ち直れないから頑張ります」と。
 三週間経たとき、その子が、ようやく私のところに来て「ごめんなさい」って言ったの。それからは、つきものが落ちたように変わってね。返事もろくにしなかったのが、きちんと挨拶するんです。
 親と話したり、家庭訪問をしていると、なんだか子どもたちが放任されているように感じますね。精神的な面で放置しているんじゃないかなと思います。
 教師以上に、親たちが自分の子どもと、どう関わっていいか、わからなくなっているみたい。子どもを友だちあつかいする親がふえた。けっして叱らないとかね。
 子どもにとっては、いっけん、らくそうに思えるけど、やっぱりちがうと私は思う。
 教師がガンガン叱っても、あとで「叱られて良かった」って言う子、けっこういるんですよ。叱ることに、結局は愛情の裏打ちがあるからじゃないかしら。
 奇声を発する子、やたら触ってくる子、そういう不適応な行動をする子には、それなりの理由があります。
 かまってほしいから、わざとそういう行動をする。心のつながりがほしいんです。家庭でかまってもらえないぶん。
 本気でぶつかったり、叱ったりするのは、教師もすごくエネルギーを使うけれど、面倒がってたらダメなの。
 それだけのものは子どもから、かならずかえってくるんですから。
(
関東圏の公立小学校女子教師
)

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運わるく学級崩壊してしまっても自分を責めてはならない。人のせいにしてでも、生きのこれ

 教師は真面目な人が多い。だから、学級崩壊してしまったら、自分を責めてしまう。そんな人ばかりだ。
 そして、心を壊す。体を壊す。辞めてしまう人だっている。自殺してしまう人だっている。
 学級崩壊しても、悪いのは自分(教師)ではない。学級崩壊を起こすような子どもが悪いのだ。保護者が悪いのだ。少しはそうやって、人のせいにしてみよう。そうすれば、少しは心が軽くなるのではないか。
 ある女性教師がいた。かなりの確率で学級崩壊した。すごいのは、彼女の明るさだ。職員室で見ていると、学級崩壊している担任だなんて、とても思えない。
 よくしゃべり、よく笑う。風邪ひとつひかない。学校を休むなんてことはない。毎日元気に働き続けていた。
 なんでこんなに元気で明るいんだろうと、不思議に思っていた。彼女の話を聞いていて、よく分った。
 彼女は、自分が悪いとは全く思っていない。悪いのは全て、子どもであり、保護者であり、世の中なのだ。
 だから、彼女は傷つくこともなく、明るく元気に働き続けられる。すごいことだ。
 私は、彼女に学ぶべきだと思っている。人のせいにすれば、病気にならなくて済むのだ。辞めなくてすむのだ。少しはそうやって、人のせいにしてみよう。
 また、彼女が元気でいられたのは、周りにいた同僚教師の力も大きい。人のせいばかりにする彼女の発言を一切とがめなかった。「うん、うん」とうなずき「そうだよねえ」と共感的に聞いてあげた。
 彼女が元気で居続けられたのは、職員室の力が大きいと思う。
 人間誰しも、相性というのがある。もし私がものすごく相性の悪い子や保護者の担任になってしまったら、私のクラスだって学級崩壊してしまうのだ。
 もちろん、教師の努力で学級崩壊になる確率は下げられると思っている。そう思っていないとやってられない。
 しかし、学級崩壊の確率はゼロではない。学級崩壊してしまう可能性は誰にだってあるのだ。
 運わるく学級崩壊してしまっても、自分を責めてはならない。人のせいにしてでも、生きのこれ。
 教師として1年間生き残りさえすれば、次の年は楽勝に感じられるはずだ。とにかく1年間をしのぎきり、生き残ることが大切なのだ。
 これは、将来、学級崩壊に当たってしまった時の私へのメッセージでもある。
(
中村健一:1970年山口県生まれ、山口県岩国市立小学校教師。授業づくりネットワーク、お笑い教師同盟などに所属。笑いとフォローをいかした教育実践は各方面で高い評価を受けている。 また、若手教師を育てることに力を入れ、多くの学生に向けて講演も行っている
)

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今どきの保護者・子どもの対応で、教師は精神的な疲れがドーッと来る

 以前から、小学校高学年の大変さというのはありましたけど、小学校の低学年から大変ですね。
 落ち着いて話が聞けない子ども、何かをやると言うと最初からイヤダーと叫ぶ子。いまは、1,2年生はおとなしく椅子に座って、先生の言うことをよく聞くという状況じゃないですよ。
 私のクラスでも、1人の男の子が手当たり次第に友だちに暴力をふるうんですよ。その子は小さいころ病気がちで、友だちと交わりのないまま小学校に入ってしまった。どうやって人と繋がったらいいのか、分からないんですね。
 そういう人と繋がれない子どもが急速に増えています。その一方で、ちょっとした刺激や苦痛にも耐えられない、ひ弱な子どもがいます。
 家庭では、父親が不在で、母親がいつも子どもとだけくっついている。
 それで、感情だけで可愛がるか、怒るかで、客観的に子どもを見ることができないんです。だから、子どもの気持ちが安定しないんですね。それでひ弱な子や、わがままな子ができる。
 特に、高学年の男の子は、がわがままになっている子が多いんですよ。
 母親は男の子をどう扱っていいかわからないですよ。それで子どもはいうことを聞きません。父親がかかわっていれば、バンと言ってくれるはずなんですが。
 母親は同姓として分かる部分があるので、女の子には結構厳しくしつけますから、逆に5,6年生になると女の子はしっかりします。
 中学生になると男の子は女性教師に対して差別的な目で見てくるんです。それは母親との関係のせいなんですね。もう歴然としています。
 私自身、男子生徒が後ろを向いて座ったり、好き勝手におしゃべりして、授業なんてどうでもいいよ、というポーズをとられたり、さんざん試されました。
 そういう時に、私は「何、その話、面白そう」と言って、クラス全体の話に持っていったりするんです。
 そうするうちに「この先生、少々のことでは動じない」とか「自分たちの中に入ろうとしているな」とか思ってくれる。
 子どもたちは敏感ですね。今はとってもなついてくれるんだけど。その辺、若い教師が一生懸命なあまり、子どもと正面にぶつかって、すごく苦労している人もいます。
 子どもは、人の気持ちが分からなくても平気という雰囲気がある。聞きたくない子どもの話は聞かなくても平気。
 何か話し合いをさせると、すぐにケンカが始まってしまうので、教師はどこで介入するか常に神経をピリピリさせていないといけないんです。
 地域にもよるでしょうが、怖さで子どもたちを押さえつけるというのは、子どもたちは受けつけないです。
 まず、子どもの話を聞いて、自分たちの思いを教師が受けとめてくれて、それから何かアドバイスをしてくれる先生を求めますね。
 高学年になって問題が起きてルールを決めるときも、教師が「こうしなさい」と言うのではなく
「その問題について、あなたたちはどう考えるの?」と聞いて、
「それだったら、どういうルールが必要?」
って考えさせて、その上で決めないと、子どもたちは守らないです。
 だから、時間がかかっても話し合いで決めさせます。
 今、親が人の話を聞けなくなっている。授業参観の時に後ろで親たちのうるさいこと。ベチャベチャしゃべって。クラスの男の子が「うるさい!」って怒鳴ったんで、私は笑ってしまったんですけど。
 母親はわが子の話を聞かないんです。しかも、自分はわが子の話を聞いているつもりなんです。
 実は子どもがちょっと何か言うと「あなたは、こうで、こうなんでしょう」と話を横取りしてしまう。
 子どもは、まただ、と思って話すことをやめてしまうし、親は子どもが納得したんだと思い込むんです。
 親は、学校に対する苦情はバンバンいいますよ。
 例えば、運動会をやった後、第一声に出てくる言葉が「子どもたちの先生の話を聞く態度がなってない」「あの時の進行が悪かった」なんですよ。
 うちの学校で、高学年の子が集団万引きしたんですよ。そしたら、その中の1人の親が、学校に抗議に来たんですね。
「ウチの子はそんな子じゃない。友だちにそそのかされた。学校の集団生活でこういう子どもにされた」
「学校側が子どもに対する具体的な指導の方針をきちんと示さないかぎり、二度と子どもを学校には出さない」って言って、子どもを学校に来させないんですよ。
 他の学校で子どもがいじめられたらしい。学校が善処しなかったら、裁判を起こすという親もいました。
 担任は、それでなくても大変なのに、裁判なんか起こされたら、本当に落ち込みますよ。
 担任とよく話し合えば、誤解だったとか、自分も見直さなければいけない点があるとか、見えてくるはずなんですけれど。
 そうしないで、親はバーッと感情をぶつけてきて、校長や教育委員会に言ったり。感情のままにという解決の仕方です。
 そういう風に言ってくる親のまわりには「学校に言うべきよ」って応援する親が必ずいるんですよ。
 逆に、まともに考えている親たちがものを言えない雰囲気がある。以前だったら「そうは言っても、ウチの子もこうだから」となだめ役になってくれる親がいたんですが、今は少なくなりました。
 日々教師は、親との対応、子どもとの対応の中で、精神的な疲れがドーッと来る。忙しさの中にも、精神的なゆとりのなさと、時間的な大変さがあるんです。
(
別冊宝島編集部)


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教師はいじめを見つけたり、探ったりするのがへた、どうすればよいのでしょうか

 いじめでも悪質ないじめがある。例えば、誰かをやっつけないと気がすまない、キレやすい子っている。やたらと友だちを殴るとか、鉛筆で刺すとか。
 そういう場合は、私は本格的ないじめになる前に、集中してその子に力を注ぐんです。教師対子どもの力関係でやることもあるし、親と一緒に取り組むこともあります。
 親に「このままいったら、まずくないですか?」って。やみくもに乱暴するわけですから、親だって、それはまずいと思っているわけですよ。
 その子が落ち着くまでクラスから離す時間を2週間設け、その子とつき合うことにしたんです。その子と一緒にいて、その子が言いたいこと、やりたいことをさせてみようと。
 もちろん本人だって、いじめが悪いなんてことわかっているから。私が話したのは「自分がやられて嫌なことは人にもやるな」って、それだけです。
 その間は、同僚教師に「今、クラスに大変な子どもを抱かえているから」と、かわりに授業をやってもらいました。そしたら、だんだん落ち着いてきました。
 たいていの教師は、親から「いじめじゃないですか」って言われたら、オロオロしちゃんだよね。
 親から言われるまで、わからない教師が多い。私は、絶対わかると思うんだけどね。
 だって、着替えのときに体にアザがないかとか、それとなく見るんだけど、わかりますよ。
 子どもの目つきを見て、オドオドしていたら、おかしいんじゃないかとか。わからないというのは、鈍感なんじゃないかな。
 でもね教師が、いじめはないかって目で、見ていたらダメ。平静な顔で、見ていないような目で見ないと。そのへん教師はへたなんだね。
 だって「いじめはありませんか?」なんて言ったら、子どもは絶対に見せないようにするもん。
 だから私は、月に一回くらい学級で「なにか言いたいこととか、苦情はない?」って、子どもたちに聞くんです。
 もちろん、そんなこと言ったって、まず誰も言わない。だけど、みんな本心ではウッと思うわけ。そこで今度は
「自分は、本当は親切のつもりでやったのに、相手に嫌なこと言われたりしたことない?」
「相手の名前を言わなくてもいいから、例えばの話でいいからさぁ」
とか、聞くわけ。そうするとみんなワーッと言い出すわけ。
 今度は給食を食べながらでもいいんだけど「昨日、誰と遊んだの?」とか聞くと、
「〇〇ちゃんとゲームして遊んだ」とか、「公園で遊んだ」とか、いろいろ返ってくるでしょ。
 それから「友だちに奢ってもらったことない?」ってだんだん絞り込んでいくんですよ。
 それで最後に「おごったことのある人?」って聞くと、ワーッと手が挙がって、おごっているのが特定の子だったり、おごられている子が特定の子だったら、これはもう、カツアゲの兆候ありってわかる。
 お金と物の時は、すぐに親に話しますね。それも断定てきに言わない。例えば
「今日、子どもと話をしていたら、こんな話していたんですよ。ちょっと家で聞いてもらえませかん?」
「相手の親は〇〇さんですから、ちょっと親同士で連絡とってみてください」
って、やるわけです。そうすればだいたいおさまる。
 親から、ちょっと言われれば、本人だってヤベエなと思うし、まだ2,3回のレベルのカツアゲだったら、それで解決しますね。
 親も「一緒に頑張ろうね」っていう形でやらないと。それを見過ごすといじめに発展すると思う。
 教師も、へたなんだね。見ていると、そのへんの探り方が。余裕がないっていうか。
 人間なんて、力の関係を避けたところでは生きられない。人間であるかぎり、トラブルは避けられない。トラブルのない人間関係なんてないんですよ。
 私は子どもたちに日頃から言っているんだけど、力の関係があるかぎり、やっぱり、やった、やられたってことはあるだろう。
 そのときの対処の方法は3つしかないと。
「戦うか、逃げるか、我慢するかの3つだよ」って言っているんです。
 私は親たちに、学校は「無菌状態にはできません」と言っているんです。
「お母さんたちだって、無菌状態で子どもを育てたいなんて、思わないでしょ」って。
 実際には、たいていの親は、自分の子どもには、強くなってほしいと思っているのだから。ちょっとのことでウジウジしてほしくないという思いがあるのです。
 もちろん、陰惨ないじめや暴力は許さないけど、トラブルに対しての身の処し方みたいなのを、子どもに教えてあげればいいんじゃないかって思っているんですけどね。
(
中部地方の公立小学校のベテラン教師
)

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学校の教頭・校長の醍醐味とつらさ

 東京都内の公立中学校で5年間教頭を務めた後、45歳で校長となった。風貌もかなり若々しい。新任校長ということもあって、教職員とのコミュニケーションに悩む日々が続いている。インタヴューしてみた。
 教頭になれば授業を持つこともありませんし、楽かなと思っていました。ところが、教頭は忙しい。調査など、とにかく事務処理が多いんです。
 例えば、どこかで事件が起きると、すぐに関連の調査依頼がくるし、いじめなどの飛び入り調査がけっこうあります。
 でも教頭の仕事で苦労するのは、いかにして校長の考えていることを教職員に浸透させるかです。校長と教職員の橋渡し役ですね。それが教頭の一番大事な仕事だと思うんです。
 例えば、私が教頭として赴任した学校では研究発表することが決まっていた。前任の校長が強引に引き受けた。ところがそれにものすごい反対がありました。
 赴任してみたら、当の校長も教頭も転任してしまい「えっ、そんなのあり」って感じでしたよ。
 研究発表に賛成する声をうまく引き出すために「あの研究発表どうする?」と飲みに行ったときに声をかけ、水面下でずいぶん動きましたね。
 やっぱりふだんの人間関係が大切なんです。それでなんとか研究発表にこぎつけることができました。そうした役割を果たさない教頭も多いようです。
 校長から「あの先生は遅刻が多いから注意してください」と言われれば、自分より年上の先生でも注意します。
 一方、校長の仕事というのは学校をあずかる立場ですから、ビジョンをしっかり持つことが大切だと思います。
 学校を運営するうえで、決断すべきさまざまな局面が出てくる。そういう意味で、校長は力量がないとできない。
 幅広い知識が必要だし、広い視野に立った見通しも持っていなくちゃいけないと思うんです。
 例えば、以前、妊娠していた先生が具合が悪くなって入院したことがありました。法的な知識があれば「こういう場合は妊娠初期休暇があるんですよ」と教えてあげられる。
 相談を受けたときに、パッと答えられれば、教職員は管理職に対する信頼が持てるんですよね。
 それに自分の学校だけ見ているんじゃダメだと思うんですよ。教育界の流れや、地域の動きなんかも見えていて、そのなかで「さて、うちの学校はなにができるか」と。
 そんなビジョンが語れなければ、先生方もついてこないんじゃないでしょうか。
 私は管理職になろうなんて、全然思ってなかった。「管理職に、もっとしっかりしてほしい」と、生意気に思っていた。
 でも思っているだけじゃなくて、自分でもやらなきゃと思って、学年主任、生活指導主任、教務主任と、ひととおり、役職がつくものはやった。
 あるとき担任から外れて暇になったとき、校長から「研究会に参加しないか」と、声をかけられたんです。これが面白かったんです。
 研究会には、私のような教職員のほか、校長、教頭、指導主事なども参加していました。私は古臭い、保守的なものと思っていましたが、ところが現場よりもはるかに進歩的だっんです。
 それで考え方が変わってきたんですね。それまで、管理職にしっかりしてほしいと思っていましたが、自分でやるべきじゃないかと考えはじめたんです。
 でも、正直言って、管理職になろうと思った本当の動機は、飽きちゃったんですよ。学年主任も生活指導主任もひと通りやって、毎年同じことの繰り返しで、子どもたちを送り出していくことに飽きちゃったんです。
 それと部活動ですね。体力的にきついのと、勝ち負けの世界にはまっていくことへの疑問。とにかく何か新しいものに目先を変えてみたかったんだなぁ。
 管理職の醍醐味ですか、うーん、教頭のときは感じてましたけどね。教頭ってクラス担任と同じで、いろいろな先生をまとめていく面白さがあるんです。
 みんなの気持ちが一つになってウワーッとせり上がっていくときがある。そういうときはやっぱり面白いですね。
 でも、校長の醍醐味というのは、私はまだ感じたことがありません。今は胃の痛いことばかり多くて。なんとか先生方の理解を得たいなとは思っているんですけど。
(
東京都の公立中学校男性校長
)

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教師と子ども、子ども相互の人間関係を改善して、学級崩壊を解決した

 N教師が小学5年生を担任して、学級崩壊になり、朝、教室に行く気力が身体に湧いてこなくなりました。
 子どもに要求する指導だけをして学級崩壊に陥ってしまったのです。例えば
「あなたにとって、〇〇することは基本的なことでしょう。自分で責任をもってやるのが当たり前」
「静かにしなさい! 言っているでしょう。静かに」
 このように注意していました。
 学級崩壊をなくそうと、N教師は、コンサルタントの私と相談し、つぎのようなことを実践して学級崩壊を解決しました。
 教師の気持ちを伝え、子どもたちが自ら変えていくようにしました。例えば
「今、大事なことを説明しています」
「そこで、Aさんに話をされると、大事な説明がじゃまされたようで、とてもやりにくいのです。説明が終わるまで聞いてください」
 教師と子どもの気持ちの交流を厚くし、ありのままの気持ちを伝えるようにします。
 そして、教師の願いと期待に応えるかどうかは、子どもの選択にまかせ、自発性を尊重していきます。
 子どもの反抗的な言葉には
「Bさんに、そのような言い方されると、先生がつくらく、心が痛んで苦しいのです。先生がBさんを大切に思うように、先生も大切にされたいのです」
 また、子どもの個性をほめることが大切です。
「Cさんが、いつも自分の考えや意見をどんどん自由に出すのは、とても積極的でうれしい。Cさんの発言に、クラスのみんなも励まされている」
 このように、子どもたちに、新しく意味を見出して評価をしていくようにします。
 教師と子どもたちとの関係の悪化の原因となる「注意する」「叱る」指導を、子どもたちが納得できる「じょうずな叱り方」ができるように取り組みました。
 例えば、乱暴な言葉で関わってくる子どもに対しては、
「先生は、Dくんの意見を大事に聞きたいと考えています。でも、そのような乱暴な言い方では、先生は大事に聞こうという気持ちがなくなってしまいます」
と対応し、新しい関係づくりをすすめていきます。
 子どもたちが教師に表す反抗には「先生自身がつらい」「困っている」ことを自分自身の気持ちで語り、その子どもの気持ちと通ずる注意の仕方と対応方法を開発していきました。
 できる限り、直接的で命令的な指導をやめ、子どもを動かすときには「頼む」、信頼する相手として「願う」という方法をトレーニングしました。
 授業を、子どもたちが興味と関心を持ち、主体的に取り組んでいける教材づくりに力をいれるようにし、班を単位としたグループ学習を取り入れました。
 一人ひとりの子どもの声を受け取る授業を積極的に展開していきました。
 子どもたちが互いに理解し信頼しあう人間関係を築いていくのは、お互いを受け入れ傾聴する学習である。
 子どもたちが仲間の発言を聞き合う「聞き合う学習」を導入し、班活動の中に、子どもたち一人ひとりの自由な発言とありのままの気持ちをそのまま受けとめ合う。
 友だちの語りに批判や評価などを一切排し、子どもたちが気持ちや感情をありのまま安心して表現できる学習を授業の基本としていきます。
 友だちは、自分と違う感じ方、考え方をしている人であることを教え、その違いを理解し、違いから学び、それを受けとめていく指導を展開していきます。
 そして、違いをもつ友だちの意見と自分の考えが共に育っていく学習活動とその共有体験を大事にしました。
 どんな課題に対しても「子どもが感じとった気持ちや感情」を丁寧に取り上げ、子どもたちが共有していくことを重視していきました。
 また、それらを通じてクラスの人間関係や仲間づくりが促進されるようにも配慮していきました。
(
小島 侑:1948年生まれ、埼玉県公立中学校教師(20)、教師教育コンサルタント、東京電機大学理工学部教授。セレニティ臨床教育研究室(さいたま市)で授業や学級指導、子どもとの関係で悩む教師の相談と支援にあたる)

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授業中のおしゃべりは、子どもたちの「友だちと仲良くしたい」という行動原理を読んで、叱るとよい

 最近の子どもの価値観の調査では、「友だちと仲良くしたい」という結果が出ています。
 子どもにとって、授業中に友だちから話しかけられたら、しゃべるのが愛情のある行動、無視したらシカトと同じなのです。
 授業中に話しかけられたので、話しをしていると、教師から叱られ、納得できない子が増えています。
 教師が授業中に、おしゃべりしている子どもたちを注意すると、
「友だちが話しかけてきたから、話しただけ」
「授業中に、勉強の話をして何が悪いの」
「先生は怒ってばかり、わたしたちの気持ちをわかってくれない」
となります。
 まずは「友だちの発言に耳を傾けて」と、子どもたちの「友だちと仲良くしたい」という価値観に訴える言葉がけを工夫したいです。
 例えば、
「友だちが話しているときは、おしゃべりをしないで、聞こう」
「みんなに向けて、話してくれている友だちの発言に、耳を傾けよう」
と、子どもたちの行動原理を読んで注意するとよいと思います。
(上條晴夫:1957年山梨県生まれ、小学校教師(10年)、作家、教育ライターを経て東北福祉大学教授。学習ゲーム研究会代表、お笑い教師同盟代表、実践!作文研究会代表) 

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学級の子どもたちには能力に差がある、みんなを生かすには、教師はどのように発問し、子どもの答えにどう反応すればよいか

 学級の子どもたちには、能力の差が、歴然とあるのが現実です。発達がゆっくりで、理解がなかなか深まらない子もいます。
 発達は、待っていれば伸びていきますが、能力の差は、時間の経過だけで克服できるわけではありません。
 その意味では「すべての学級が能力的には複式学級である」というのが、私の持論です。
 私はたいてい、学級全体に投げかける発問は、平均的な学力の子に向かって問うことを想定しています。
 一人ひとりの能力や発達の差に、応じた問いをつくることは、不可能です。
 しかし、そもそも、落差があるからこそ、授業はおもしろくなるのです。
 さまざまな子どもがいるために、ある問いを出したときに、高い解から低い解まで多様な解が返ってきて、活発な討論が起きるのです。
 能力が高い子も低い子も、相互に刺激し合いつつ伸びていくことが大事であり、そのプロセスでお互いが鍛え合い、高め合っていくのです。
 差は、なくそうとしても、なくなるものではありません。教育は、子どもには能力の差があるという、当然の前提から出発すべきです。
 子どもの能力を同じようにそろえようとして、上の子を放っておいて、下の子ばかりにかまけるようでは、上の子はたまったものではありません。
 同じく、上の子だけ伸ばして、下の子を切り捨てて進むのでは、教育の名に値しません。
 落差は、最後まで残るのが現実です。
 それを認めたうえで、上の子も下の子も一緒に伸ばしていくのが、理想の発問であり、優れた授業なのです。
 子どもの中に落差があるのは事実ですが「この子はできる子」「あの子はできない子」と、先入観で固定的に見るのは避けなくてはなりません。
 子どもの成長はめざましく、いつどんなドラマを起こすかわかりません。
「この発問は、この子には答えられないだろう」と決めつけてしまうと、伸びる子も伸びなくなってしまいます。
 子どもたちには、いつでも大きな可能性を秘めた存在として、接していくことがたいせつです。特に、ものごとを受けとめるセンスは、必ずしも成績の優劣を反映しません。
 発問に対する子どもの反応をどう「受け」るかが、授業の良否を決めます。
 子どもの多様な反応や答のうち、どれを潰し、どれに注目させ、どんな討論を導くか、教師はその場で即決しなければなりません。
 発問は、教師の優れた受けをともなってこそ、意味をもちます。子どもの答えを受けとめる技量がなければ、教育効果は上がりません。受けによって発問も意味をもちます。
 そのためには、教師は知識のすそ野を広げ、知識の引き出しを多くもっていることが望ましいのです。
 私が五年生を担任していたときのことです。社会科の授業で、日本地図を見せてから「気がついたことを述べなさい」と問いました。
 発問としては、ごく低レベルです。子どもたちは何を答えていいかわからず、きょとんとしていると、ある子が手を挙げて「上下に長いです」と答えました。
 教室は爆笑に包まれました。当たりまえすぎると思ったのでしょう。しかし、私は
「すばらしい発見だね。上下に長いということは、つまり南北に長いという意味だ」
「日本という一つの国の中に、北海道のように寒い地域から、沖縄のように暑い地域まである」
「雪も見られるし、パイナップもとれるのは、そのためだね」
と、その子を大いにほめました。そして、
「他に気づいたことがありますか」と問うと、その子が再び手を挙げて「周りが海です」と言いました。子どもたちはまた笑い出しましたが、私は激賞しました。
「それも、すばらしい発見だ。日本は島国で、外国と陸続きではない」
「そのため、外国の脅威が及ばず、独自の文化が発展したのだ」
「鎖国が可能だったのも、島国だったからこそだ」
 発言した子が戸惑うほど、ほめたのです。子どもたちも感心し、うなずきました。
 その子は成績がよいほうではなかったのですが、この問答をきっかけに社会科の学習に興味をもち、学力もかなり伸びていきました。
(
野口芳宏:1936年生まれ、元千葉県公立小学校校長、植草学園大学名誉教授。千葉県教育委員会委員長職務代理者、日本教育技術学会理事・名誉会長、授業道場野口塾等主宰
)

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子どものわがままや甘えをなくすには、どうすればよいか

 子どもを受容するとは、子どものしていることや言い分を100%受け入れることと思っている教師がいないわけではありません。
 子どもを100%受け入れると、子どもの発達課題は達成できそうにないし、学級がどうなってしまうのかと不安を抱く教師も多いはずです。
 そうなのです。子どもを受容するとは、子どものしていることや言い分を、すべて受け入れたり、認めたりすることではありません。
 子どものしていることや言い分には、わがままや勝手さが含まれています。それを受け入れたり、認めたりすると、学校はわがままを助長したり、甘やかしたりする場となりかねません。
 それならどうすればよいのでしょうか。
 子どものしていることや言い分について、いいことはいいし、いけないことはいけないことと、教師は見分ける目を備えていなければなりません。
 そして、いいことは、ほめて励ますことが大事です。
 一方、いけないことについては、どう対処すれはよいのでしょうか。
 いけないことは「いけないのだ」とすることも、子どもが成長していくための支援です。
 支援とは、子どものしていることや言い分を、何もかも認めて受け入れることではないのですから。
 もっとも、それを頭ごなしに厳しく叱りつけることが、支援・指導としてベストだなどと思わないでください。
 子どもが得心するように、教え諭すことが必要です。
 子どもの言い分を聞く耳を持ち、妥当な判断をしながら、子どもに接する術を磨くことが大事な時代になりました。
 それと、説得力のある話し方や、接し方ができるようにすることも大事でしょう。
 やはり、子どもの心をどうとらえるかなのだろうと、思われてなりません。
 それと、子どもに教師がゆとりを持って、接することが大事なのです。これをどう実現していくかが、教育界の大きな問題となっています。
(
飯田 稔:1933年生まれ。千葉大学附属小学校に28年勤務、同校副校長、千葉県浦安市立小学校校長を経て、千葉経済大学短期大学部名誉教授。学校現場の実践に根ざしたアドバイスには説得力がある)

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教師の仕事をやりきるためには、教師の服装が非常に重要であるということがわかってきた

 学校というのは、社会が子どもを一人前の社会人に育てるためにつくったもので、基礎的学力、基本的生活習慣、集団(社会)生活の仕方の三つを子どもに身につけさせることが、その中心的な役割である。
 人間は放っておいて、この三つの文化を自然に身につけるようにはなっていない。そのために、家庭や社会での教育と同時に、近代になって初めて学校での教育が必要になったのである。
 文化の伝達は、基本的におしつけなのである。だから、教育は基本的に強制はまぬがれないし、大人の側がそれにひるんでしまったら、子どもは一人前の大人になることなどできはしない。
 学校は、子どもがいきたくて来るところではない。親によって無理やり通わされるところなのである。もちろん、子どもにとっても、学校は将来の自分にとって意味のあることである。
 一人ひとりの子どもにあった学校を、などとバカなことを言う人たちがいる。しかし、そんなことは現実的にできることではない。
 また、一人ひとりにあうような学校を本気でつくろうとすると、一対一の家庭教師にいきつかざるをえず、それは学校とは呼べない。
 学校というところは、子どもにとっては、基本的におしつけられ、がまんしなければならないところなのである。自分が欲望を抑えることによって、初めて学習が成立するのである。
 中学生の時期は、欲望が大きくふくれあがり、自我を強く持ち始める時期である。放っておいて、つらいこと、嫌なことに立ち向かわせることが非常にむずかしい時期なのである。中学校の基本的な困難さはここにある。
 どうすればよいか。
 日本の学校は、子どもを生徒に限定するためのさまざまな小道具をつくり出している。制服はそのシンボルと言ってもいいだろう。
 家や街中で自由な私人としてふるまっていた子どもを、家を出る時に制服に着がえさせることによって、公人に変身させようとしたのである。
 演劇において衣装が重要な要素になるのと同じと考えていいだろう。
 学校は舞台であり、子どもは制服の衣装を着ることによって、生徒という役に変身し、がまんして学習することが可能になるのである。衣装の他に、せりふ、演技が重要になってくることは言うまでもない。
 学校では、これらすべての小道具を校則としてまとめあげたのである。
 さて、このように考えてくると、教師にとっても服装が決定的に重要なことがわかるだろう。
 教師にとっても、学校は私的な空間ではない。自由な個人としてふるまうことによって教育ができると思うのは、単なる思いあがりでしかない。
 学校には与えられた役割と目的があり、教師はその目的を達成させるために雇われているのである。好き勝手に家庭教師をやっているのとはわけが違うのである。
 授業中うるさければ、どなってでも静かにさせ、そうじをサボッていれば、なんとかしてやらせる努力もしなければならない。
 つまり、教師としては、個人としてはやりたくないこと、嫌なことであっても、仕事としてやらなくてはならないことがゴマンとあるということなのだ。
 教師は自分たちで、お互いに厳しく律していかなければ、どんどん崩れていくものなのだ。
 私は自由、人権、平等、個人尊重などの民主主義の理念をしっかり身につけて大きくなった。
 教師になった時、このような理念を学校現場のなかに実現しようと勢いよく乗り込んでいったのである。
 しかし、現実は理念とことごとくぶつかった。理念を第一に考えて行動すると、授業はうるさくて収拾がつかなくなるし、教室はゴミだらけ、クラスは混乱状態となった。
 私は、自分の理念(生き方)と教師としての仕事の矛盾のなかで、何度も教師をやめようと思った。しかし、中途半端で投げ出すのはなんとも悔しかった。
 ギリギリ教師の仕事をやってみて、自分に無理ならその時やめてもいいと決意した。ちょうど30歳になっていた。
 それから10年、私は教師の仕事に徹する努力を必死に続けた。それは精神的にも肉体的にも非常につらいものであったが、40歳になってやっと、教師としての仕事をやり続ける自信がついてきた。
 そのなかで、教師としての仕事をやりきるためには、教師の服装が非常に重要であるということがわかってきた。
 私はそれまでのジーパンにTシャツというラフな私的なスタイルを捨て、ネクタイにスーツというスタイルに変えることにした。私的に生活している自分を、ネクタイ、スーツを着ることによって教師に変身させようとしたのである。
 これは、自分を教師に限定し、生徒や他の教師にも、自分を限定させるために大いに力があった。どんなに寒くてもYシャツにネクタイ、スーツでとおした。どんなに暑くてもネクタイははずさず、やせがまんした。
 掃除の時は、サッと更衣室でジャージに着がえ、終わるとまたサッとネクタイ、スーツになることを自分に強制している。演劇における早がわりである。面倒だと言い始めたら、舞台は成立しないだろう。
 おもしろいことに、そういうなかで、だんだん自分が教師を演じることができるようになったのである。
 個人のなまの力で、なにかできると思うのは思いあがりである。自分の好きなように自由にふるまって教師の仕事ができるのは、天才的な教育者にのみ許されたことである。
 私たちは、ただの人である。とすると、演劇と同じように、衣装とせりふと豊かな演技力が必要になってくるのである。さまざまに武装して、教師を演じるしかないのである。
 現在、はげしい学校たたきのなかで、自由が大きく学校のなかに入りこんできている。教師-生徒(教え-学ぶ)の関係をつくることが非常に困難になっている。
 しかし、どんなにむずかしい状況になっていても、私たちが教師の役割をしっかりと演じなければ解決など不可能なのである。
(
河上亮一:1943年東京都生まれ、埼玉県公立中学校教諭、教育改革国民会議委員、日本教育大学院教授を経て、埼玉県鶴ケ島市教育委員会教育長、プロ教師の会主宰)


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教師が連携して学級崩壊を解決していくためには、どのようにすればよいか

 教職員がなんでも話し合える人間関係が大事であるといわれます。しかし、これがなかなかの問題なのです。
 小学校の場合、担任の裁量が大きく、同僚教師にも見えにくいところがあります。お互いの実践を批評し合うのはタブーの雰囲気が生まれてしまうのです。
 したがって、お互いに自分の学級経営の悩みが語れるような人間関係を、学校内に形成することはとても必要です。
 ですが、学級崩壊の問題は、教師間の良好な人間関係だけでは対処はむずかしいと思います。
 つまり、一つの学級の崩壊の問題は、学校経営の問題として位置づけて、管理職を中心に連携のあり方を計画しておくことが必要ではないでしょうか。
それは、
1 全教員で介入しようと判断した時、該当する担任や援助する教師たちの授業時間数や校務分掌の仕事はどうするのか。
2 学校行事や集会の取り組み方はどうするのか。
3 学級崩壊した学級、もしくはその学年の時間割の見直し、PTAの対応をどうするのか。
など広範囲に及ぶと思います。
 特に学級が高学年になるほど、学校全体に対する影響が大きくなります。組織だってやらないと、一部の教師に過重な負担がかかり、いい結果に結びつきません。
 学校運営の問題と位置づけて対応するためには、次の3つが必要です。
1 学級崩壊はどの学級にも起こる可能性があるという共通認識をもつ。
2 学級経営に関する校内研修を行う。例えば
(1)
集団理論
(2)
リーダーシップ
(3)
学級集団の状態を理解するための調査法
(4)
具体的な指示や注意の仕方についての演習
(5)
言葉がけの仕方についての演習
などを、計画的に実施し、教師間の共通認識と技術を高めておく。
3 学級崩壊の問題は不登校の子どもへの対応と同じように、
(1)
原因や責任の追及だけにしない。
(2)
問題解決志向で学校運営に位置づける。
(3)
援助チームのリーダーは管理職が当たる。
(4)
担任や援助する教師たちの具体的な役割や取り組む範囲を明確にする。
 大事なことは、現在よりも少しでもよい方向に向かうように、一歩一歩取り組んでいくことです。
 連携がうまくいけば、担任が精神的に支えられ、計画的に対応する意欲が維持され、対策を講じることも可能になっていくのです。
 学級崩壊の対応について、事前に職員間の連携について取り決めをしておく必要があります。学級崩壊の予防にもなり対応が効果的になります。
 連携の目的は問題解決です。学級崩壊の対応には少なくとも2か月はかかると考えて取り組みます。甘い見通しの連携では、援助する教師が疲れてしまいます。
1 学級崩壊の初期の連携
 学級崩壊の兆しは、ふれあいのある人間関係か学級のルールのどちらかが崩れてくることです。
 この時期に学年会などで、各学級の状況を担任同士が率直に語り合う必要があります。
 学級集団の状態が学級崩壊に向かっていると判断された場合は、すみやかに学年の連携を計画し実行します。
 連携の骨子は、合同授業などの学年活動です。例えば、合同で社会科の資料を作ったり、合同で体育やレクリエーションをするのもいいでしょう。
 大事なことは、学級崩壊している担任が全体の指揮をとり、他の学級の子どもたちがその指示に従っていることを、学級崩壊している学級の子どもたちに見せることです。
 同時に、学年の他の教師が学級崩壊している担任の指示に従っているのを学級崩壊しているクラスの子どもたちが見ることになります。
 学年の他の教師がその担任と親密に連携し、同じ考えややり方でやっていることを見せ、担任の信頼感を回復させるわけです。
2 学級崩壊の中期の連携
 学級はルールが崩れ、人間関係もギスギスしたものになっていますから、子どもたちは物事を悪いほうへ悪いほうへととらえます。いろいろな問題がでてきます。
 子ども同士のまきこみあいを、複数の教師が教室に入って、一つひとつ対応しながら断ち切っていくのです。したがって、学年の同僚教師や専科教師にTTとして入ってもらうことになります。
 このとき、教師は努めて厳しくする必要はありません。子どもの感情にまきこまれないように、ていねいな言葉づかいで距離を少し多めに取りながら、一つひとつ冷静に対処していくのです。感情的になったら教師の負けです。
 この時期の授業は基本的に、他の子どもと関わらない、例えばドリルやプリントを中心としたような授業展開をしますから、教師チームが子ども一人ひとりに対して丁寧に個別に対応していきます。
 さらに、学年で集まる機会を増やします。学年で集まることによって、自分勝手なルールは通用しないことを意識させるのです。集団生活には一定のルールやマナーがあり、特例がないということを、一人ひとりにわからせるのです。
 このような対策をとる場合、大事なことは、学級が崩壊したからそのような対策を取ったんだと、子どもたちにおもわれてしまうと、逆効果になることです。
 担任への不信が固定してしまうからです。したがって、学年当初から、学級間の交流や教師同士のTTの授業展開などをとっていくことが必要です。
3 学級崩壊の末期の連携
 この時期は、まさに全教員の連携が必要となります。教室に複数の教師が入り、それこそマンツーマンに近い形で指導したり、活動を援助するのです。
 例えば、立ち歩いている子どもに対して、ある教師が注意をしたとき、その子が「みんなもそうだろう」と逆にくってかかる場合があります。
 そのようなときには「みんなとは誰と誰かな」と問い、名前が出たらそれぞれの子どもに教師がついて指導するという具合です。
「みんな」という子どもたちが作り出した学級集団像を崩すことが大事なのです。
 必ず、行動の主体となっている子どもを確認し、行動の責任を明確にしてあげることが大事です。
 学級崩壊末期は、学年の合同授業や活動はしないほうがよいでしょう。合同することで他の学級の子どもたちが傷つくことが多くなり、合同することを嫌がってしまいます。
 何よりも問題なのは、他の学級の子どもたちが、その学級の子どもたちを特別視してしまう結果、その学級の子どもたちが新たな非建設的な行動にでてしまう可能性があるからです。
(河村茂雄:1959年生まれ、早稲田大学教育学部教授。15年間公立学校教諭を経験した。学級崩壊,学級経営など教育実践に生かせる研究成果を多数提供している)

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教師にできることは、荒れている生徒の精神的な自立をサポートすること

 東京での中学教師歴はすでに20数年。若々しい表情の割に髪の毛は全体が白くなりつつある。
 子どもの抱かえているストレスを憂いている。中学生の荒れもまた、ストレスが生み出しているのではないかと。
 そのために教師ができることは、生徒の自己決定権を認めること、思春期における精神的な自立をサポートすることではないかと、次のように述べている。
「子どもが、あるべき姿からはみ出したら、直させる」という取り組みをやったが、うまくいかなかった。
 子どもたちに直させると一度はきちんとするんだけど、また戻ってしまう。モグラ叩きみたいなものです。
 表面的に柔順にしているから許してしまうんだけど、それは子どもの本音ではないんですね。子どもは「謝らないと帰してくれないじゃん」と言う。
 よく言うんですけど、教師の側の「指導したつもり」、子ども側は「聞いたふり」ってね。
 そのうえ問題だったのは、教師と子どもとの関係が悪くなっていったことです。
 怒ったり、説教したりを繰り返すたびに、開き直るようになっていく。次から次へと問題が起きて指導すればするほど子どもたちは悪くなっていった。
 これじゃ、ダメだと思いました。教師が考えている「あるべき姿」がズレている、と考えた。
 で、発想を転換して、子どもたちの現在のあるがままの姿を受け入れていこうと。
 それと、子どもが問題を起こしたときにこそ、子どもとの対話が成り立つということ。
 ふだん、子どもの考えていることを聞こうとして「ちょっと話そうよ」と言っても「え、何もやっていないですよ」で終わり。
 それが、事件があると「どうして?」と尋ねられる。そこから子どもが何を考えているのかが聞けるわけです。
 子どもと話すときに、とくに注意したことは、問題を起こした生徒に、なぜダメなのかをこんこんと説明したり、指示したりはしないようにしよう、と。
 あくまでその子が自分で結論を出させるようにサポートしていくことです。その子の問題解決力を引き出す。
 例えば、誰かが友だちを殴った。まず、その子に
「どうして殴ったの。きっとわけがあったんじゃない」と聞きますよね。
 すると「ムカついてた」と答える。
「どうしてムカついてたの?」
「関係ねえよ」
「いいだろ、教えてよ」
 そのようなやり取りをするうち
「朝、家を出るとき、うちのババアがムカつくことを言ったから、むしゃくしゃしてた」
 従来なら、ここで「何言ってんだ!」となったところですが、そこからさらに聞いていくわけです。
「じゃあ、あの子は何も関係なかったんだね。きみがそんなことされたら、どう思う?」
「ムカつくよ」
「今度、彼はきみが近づいたら逃げるよ。それでもいいの?」
「もうしねえよ」
 形だけで謝るより、まずは「やらない」と結論を出したことが大事だと思うんです。
 またやることもある。それは仕方ない。でも、繰り返していくうちに、最後は、こんなことしたら友だちなくしちゃうなって気づきますよ。
 中学校の教師なら誰でも経験しているでしょうけど、どんなにグレてた子でも30歳を超えて大人になると、たいていは分別のある青年になっていくんですよ。
 全員とは言わないけど。中学校のときに問題児だったから先の人生が決まるなんてことは絶対にない。
 それを僕ら教師は知っていながら、それでも鋳型にはめようとするんです。
 僕は、あまり怒鳴らなくなりました。昔は怒鳴ってましたよ。
 でも、長い目で見ると、怒鳴ることで良いことなんて何もないと思ったからなんです。
 最近で怒鳴ったのは、去年2回、今年1回。
 ドアを蹴って、別のクラスの授業に入りこんだ子とやり取りしている最中、つい怒鳴っちゃった。
 すると、僕の話がその子には入っていかないのね。そのときは、別の先生が仲介してくれて、やっと話してくれた。
 あとで反省しましたよ。怒鳴っても、こっちの声が届かないと意味がないんです。
 相手が心の受信機のスイッチを入れないと。
 教師が子どもに、スイッチを入れてもらうような作業をしないといけない。
 怒鳴ることで行為が改まるのは、単にびっくりしてやめるだけですよ。
「怒鳴るにしても、真剣に怒鳴れば通ずる」と言う人もいるけど、僕はそうではないと思っています。
 きつく叱るとすぐ結果が出るために、怒鳴る側の自己満足になっていることのほうが多いんじゃないですかね。
(
宮下 聡:元東京都公立中学校教師。都留文科大学教職相談システム相談員
)

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子どものとらえ方はしなやかに、そうしないと子どもに寄り添うことも、子どもを受け入れることもできない

 心理学でかつて学んだ知識だけで、子どもをとらえることは出来にくくなりました。さりとて、教師の経験だけを頼りに子どもをとらえることにも無理があります。
 こうなるとどうでしょう。あるがままの子どもを、あるがままにとらえるしかない。
 もちろん、あるがままの子どもをとらえたとしても、そのすべてを教師は肯定することもできない。何を伸ばし、どこを改めるかが教育であり、生徒指導であるはずです。
 ところが、それを性急に行おうとすると、もろい子どもは崩れます。子どもの中には、反発、反抗する子どももいるのが現実です。
 ですから、どこから手をつけ、何から手を打つかが、学級経営や生徒指導なのです。
 しなやかで柔軟に子どもをとらえ、しなやかに経営を進める。それは、子どもにおもねることとは違います。
「こんなことをする子どもなんて」と、子どものことで戸惑ったり悩んだりする教師が、急増していることも事実です。
 そして、教師のめがねにかなわない子がいると「これは問題児だ」などと、レッテルをはりかねません。
 しかし、はってどうなるのか。はられた子どもや保護者はどうなるかを考えなければなりません。
 職業的な慣れほど恐いことはないし、子ども理解の際に、それを慎まなければと思います。 
 困った子どもだなどと思わず、その子に寄り添うことが必要です。あるがままに子どもを受け入れて、寄り添うようにするのです。
 そうしなければ、子ども理解もできないし、子どもと関わることもできない。教師の仕事の大事な部分は、こうしたところにあります。
 教師は、子どもを注意したり、指導的な言葉を発したりすることに、ずっと慣れてきたでしょう。
 でも、その慣れが通じなくなっていると考えるしかなさそうです。
 教師の仕事はつらいと、思う日があるかもしれません。
 でも、つらいのは教師だけではありません。
 教師の目からみれば、困った、荒れていると思えるような子どもも、鬱積したさまざまな感情を抱いて教室に集まってきているのです。
 そうしたことへの理解や思いが教師にないと、子どもに寄り添うことはできかねます。
 子どもを受け入れることも、できない
でしょう。土台は、教師の人間観かと思うのです。
(
飯田 稔:1933年生まれ。千葉大学附属小学校に28年勤務、同校副校長、千葉県浦安市立小学校校長を経て、千葉経済大学短期大学部名誉教授。学校現場の実践に根ざしたアドバイスには説得力がある)

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保護者とのトラブルが長期化するのは「初期対応のまずさ」と「感情的なもつれ」がほとんどである、どうすればよいか

 向山洋一先生が、理不尽な要求を繰り返す親たちを怪物にたとえて「モンスターペアレント」と命名された。
「モンスター」という言葉がこれほど広がったのは、もはや社会的に見過ごせない深刻な問題になっているからだろう。
 最近は保護者から、常識はずれとしか言いようのない抗議や要求で、学校運営をめちゃくちゃにしてしまう事例を耳にするようになった。
 そこで私は次の4つの項目に当てはまる親をモンスターペアレントと定義した。
(1)
学校や教師にささいなことで文句を言う
(2)
延々と抗議し、攻撃的な要求をする
(3)
学校の教育計画が滞り、子どもに悪影響が及ぶ
(4)
教師が病気や休職に追い込まれる
 彼らは、要求が通らないと、どんどん過激になっていくので厄介だ。
 たとえば、毎日のように学校に来て、校長や担任に「土下座しろ」「教師を辞めろ」と何時間も迫る。「子どもを登校させない」「裁判に訴える」と脅す。
 教師の中には、対応に悩んで病気になったり、辞めたりした人もいる。
 トラブルが深刻化、長期化するとき一番犠牲になるのは、子どもというケースが非常に多い。
 例えば、要求を聞き入れないと子どもを学校にいかさないというようなことや、教師が保護者対応に多くの時間を取られ、疲れ果て、他の子どもと向き合う時間が減ってしまうこともある。
 学校が安易にモンスターペアレントをつくり上げてしまうケースもある。
 教師が保護者をいったんモンスターペアレントと思い込んでしまうと、教師は自ら保護者を理解しようとする姿勢がなくなり、学校と保護者は敵対関係になってしまい、解決の糸口さえ見つからなくなることも多々ある。
 学校と保護者とのトラブルが長期化する多くのケースは「初期対応のまずさ」と「感情的なもつれ」がほとんどである。
 迅速な初期対応をするために必要なことは「少しの勇気」と「豊富な知識」と「コミュニケーション能力」だと、私は考えている。
 苦情対応の専門家の関根眞一は
「クレームにうまく対応できない教師が多い。これまで先生と呼ばれてきたわけですから、苦情を言われる側に立たされてしまうと、どうしていいか分かりません」
「頭を下げる経験も少なかったでしょうから、お詫びの仕方からして、うまくないのです」
「多くの教師が苦情で病んでいるのは分かります。しかし、苦情に対して不勉強であることも事実で、苦情の対応をもっと学んでほしいと、痛感せざるを得ません」
「教師といえども、苦情社会の中で生きていくためには、苦情対応能力を自分自身でスキルアップすべきです」
「解決の道は、経験とともに、対応に必要な知識を知ることです」
と述べています。
 苦情の初期対応で大切なことは、かまえないで自然に対応することである。
 とにかく、保護者の主張に対して一定の理解をしようとする気持ちが必要だと思う。
 理不尽な要求と思っても、そのような要求が起こる背景を考える必要があるのだ。
 そして、謝罪の必要性や寄り添う必要性、説明の必要性を考える。
 人間は誰しも怒ったり泣いたりするときは、それなりの負担が心にかかっているはずだ。
 私が対応した様々な事例の経験から考えると、なぜ、目の前の人は怒っているのか、泣いているのか、何となく気の毒に思えてくる。
 たぶん、そのとき私自身が相手の気持ちを受け入れようとする作用が働いているのだと思う。それが微妙に相手に伝わるのか、相手の感情も少し落ち着いていくことが多いようだ。
 学校が苦情に対応しようとするときに、苦情の内容が正当なのかどうかの判断をする必要がある。
 その判断の根拠になるものに対する知識がなければ判断のしようがない。私は判例を参考にすることがよくある。
 苦情の初期対応に必要なものはまさしく「豊富な知識」ではないだろうか。
 つまり、教育に関する専門的な知識はもとより、法令もこれからの教師にとって大切なツールになると思われる。
 教師はとかく法規法令にはうとい。一通り教育法規を心得たうえで、教育活動に根拠をしっかりもって取り組む必要があるのではないだろうか。
 子どもへの教育方針の違いや教育に対する価値観の違いをぶつけてくる保護者が増えている。
 それに対して、どのような根拠で、どのような方針でということを明確に答えられるようにしたいものである。
 単に教師自身の教育理念や価値観を押しつけるだけでは、もともと理念の違いから苦情を言っている保護者にとっては、違和感とともに隔たりを感じるばかりで、これではお互いの考え方が違うということを確認しただけのことになってしまう。
 教師は感情管理をしなければならない感情労働職である。
 特に、保護者との初期対応のときは、どのような言葉を浴びせかけられても、その場に必要な感情表出を必死で感情管理をしなければならない。
 このような感情管理は、これからの教師に求められるスキルのひとつではないだろうか。
 問題がこじれてから対応しても対症療法的なものになってしまう。保護者の無理難題を封じ込めるということではなく、学校と家庭が信頼し合うための対応策が必要なのではないかと思う。
(
西尾隆司:豊中市教育委員理事
)

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教師の言うことを、子どもが心から従うようになるには、どうすればよいか

 子どもがバラバラになり。教室が騒然となる原因は教師にある。
 子どもの責任にする教師は、いつまでも、技量が伸びない、伸びようがないのである。
 自分の責任として考えるから、何とかしようと思うから研究するのである。
 教師が「子どもを動かす法則」を知らないからいけないのである。
 では「子どもを動かす法則」は何か。それは、ただ一つである。
「最後の行動まで示してから、子どもを動かせ」
 子どもを動かす秘訣は、これに尽きる。
「最後まで、どうやっていくか」ということが、わからないから、子どもは場当たり的に行動するのである。
 この法則を支える補則は
(1)
何をするのか端的に説明せよ。
(2)
どれだけやるのか具体的に示せ。
(3)
終わったら何をするのか指示せよ。
(4)
質問は一通り説明してから受けよ。
(5)
個別の場面をとりあげ、ほめよ。
 これを、子どもたちに「校庭の石拾いをさせる」ことを例に説明します。
 教師はやることを、子どもたちに端的に示さなくてはいけない。よけいなことは言わない方がいいのだ。
「これから校庭の石を拾います。石はこのバケツに入れます」
 次にどれだけやるかも、端的に示す。
「五分間だけ拾います。五分たったら笛をふきます」
 これだけでも、子どもはやることがはっきりする。
 終わったら、どうするかも、前もって指示しなくてはならない。終わった時にどうするかという指示がないと、活動した後、崩れてしまう。
「終わったら、今の場所に集まって、すわって待ちます」
 さて、ここまで言ってから質問を受ける。途中で質問を受けてはならない。途中で質問を受けると、子どもたちの頭の中が混乱する。
 まず、最後まで一通り説明するのである。すると、はっきりとしたイメージが描ける。それから質問を受ける。
 一度、説明したことを二度言わなくて良い。「前に説明しました」と、きっぱり言えばよい。
 例えば「木の枝も拾うのですか」というような質問が出る。答えは端的に言う。「拾います」これだけでいい。
 質問はスピーディーにやっていくのである。長々と聞く子には「短く聞きなさい」と言う。動作の指示に対する質問は短くさせた方が良い。授業の場なら長々と聞く時もある。
 以上のことをすべて2,3分で終える。
 こうしてから子どもに石拾いをさせる。
 終わったら、子どもたちが集まってくる。やらせっぱなしはいけない。
 こういう活動の時に、光っている子どももいる。それをとりあげてほめる。
「〇〇さんと、△△さんは、こんなにいっぱい拾ってましたよ。先生は、すごいなあと思いました」
 これくらいでいい。まじめに仕事をした、そして授業では目立たない子をほめる。
 時には、仕事をしない子もいる。仕事をしない子を叱りたくなる。叱るのは、後になってからでもいい。
 まずは、ほめることだ。子どものいいところをさがしてやることだ。
 こうすると、学級全体の子どもが変わってくる。さぼっていた子も、さぼらなくなる。
 そうなってきて、なお、さぼる子なら叱ればいい。
 ところが、教師は、しばしばこれを逆にする。悪い子を叱るだけで、良い子をほめないのだ。教師は悪いところたけを見ているのである。
 子どもを評価するとは、まず、良いところを見てあげることだ。それをほめてやることだ。
 ほめてほめて、ほめまくるくらい、良いところを見てやることだ。
 それから、悪いところを叱ればいい。
 自分の良いところを見つけてくれる教師の言うことなら、子どもは心から従うのである。
(
向山洋一:1943年生まれ、元東京都公立小学校教師、教育技術法則化運動代表を務めてきた。教師を退職後、TOSSインターネットランドの運営に力を注いでいる)

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子どもを見ていて、やばいゾって場面があったとき、修羅場の経験が役立つ

 ある地方都市の小学校のベテラン教師。子どもの頃は相当なワルだったとは本人の弁。
 港町で育ったから、荒っぽい港湾労働者や海上生活者がいっぱいいて、カツアゲや刃物事件は日常茶飯事。
 そうした修羅場を生きてきた経験が教師の仕事に大いに役立っているという。
 学校での事件や、不祥事の対応に「そうした教師の経験・資質の差がでるんです」と具体的な事例をまじえて話してくれた。
 学校のなかで、なにか事件とか事故が起こったときに、教師が最初になにを考えるかというと、いかにして学校のなかでうまく決着をつけられるかを考える。
 表向きの理由は「子どもたちを傷つけたくない」「子どもたちに配慮して」ということなんですけどね。でも本音は「内々で済ませたい」と。
 学校でできることは何かというと、再発を防ぐ努力をするしかないわけ。
 学校の不祥事というのは、いじめなど内部で処理できなかった問題を指すんです。
 外部に漏れて問題になるのは、一つには内部告発があるから。対応に親が満足できなくて、教育委員会やマスコミ、警察に通報するとか。
 どんな小さな問題でも教育委員会から調査が入る、そうなったときは大変な騒ぎになります。
 なにか事件や事故があった時、それをどう対処するかは、教師それぞれが持っている経験や資質に左右される
 いまは教師自身が比較的いい子ちゃんで育ってきているから、いざ何かあっても自分の判断で対応できないんですね。
 例えば、殴り合いのケンカで脳震盪を起こして倒れている子どもを、どうしたらいいかなんて経験している教師は、なかなかいないわけです。
 僕のように経験があって、落ち着いて対応できれば不祥事にまでならないで済むことが多いんですけど。
 親が学校に怒鳴り込んできた時、教師の対応がだいたい三種類くらいに分かれる。
 いたたまれなくてその場からスッといなくなる教師。ただオロオロしている教師。とにかく売り言葉に買い言葉ですぐケンカしてしまう教師。
 僕なら、そこで「どうしました」と、まずお茶でも出して、ワンクッション置いて、とりあえず落ち着いて話を聞こうよってことが、どうしてもできないんだよね。そういう初歩的な対応が。
 僕にも、ここはちょっと緊張して頑張らないと、やばいゾって場面が一週間に一度はありますよ。
 子どもを見ていて、こいつ、ちょっとキレそうだからしっかり見ておかなきゃとか。あの子はちょっと元気がないから家まで送ろうかとか。あの親に一本電話しておこうとか。
 そういうのは、本当に勘だけど、それが結構、当たっちゃうから嫌だよね。
 例えば、子どもが頭を打ったら、すぐに病院に連れていく。そのときに痛いとか意識あるとか、担任と養護教諭がいろいろ様子を見ますよね。
 そういった経過も含めて、親にきちんと言うのと言わないのでは、もう全然違うんですよ。
 それをせずに、子どもが家へ帰って夜に、もどしたなんてことになったら大変ですよ。ところがその一言、一本の電話ができない教師がいる。
 それができないのは、経験のない若い教師ばかりといえば、そうじゃない。年配の教師でも「うるさい親だから」ってやらない教師がいるんだよね。
 リスクに対して、どう対応するかってことは大事。
 あんまり、こういう言い方は良くないかもしれないけど、やっぱり教師って、修羅場を経験していない人が多いんだよね。
(
地方都市の小学校教師
)

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子どもの心を引きつける教師に共通していることは何か

 子どもの心を引きつける教師に共通しているのは、明るく元気でよく働き、気持ちが安定していて、子どもの言動にアンテナを高くして敏感であり、「あとでね」を絶対に言わない。
 忙しい合間をぬって、運動場で一緒に遊んだり、始業前や放課後などに、子どもと何気ない会話に興じている教師は、子どもからの信頼度が高い。
 一言で言えば「授業がうまくて、明るくて、元気で、人間味にあふれる先生」である。
 日々の学校教育は、情熱的で前向きで元気な先生によるところが大きい。
 教師に求められることは
(1)
子どもに対する愛情と温かいまなざしと励まし
(2)
仕事への情熱と誠実さ
(3)
厳しさとやさしさ
こうした指導が、子どもの心にしみこむのである。
 子どもは、笑顔、励まし、まなざしの中で「元気」と「勇気」が湧いてくる。
「自信」と「達成感」と「居場所」が子どもにあることだ。そのためには、授業、友だちが必要条件になる。
 なかでも、わかる授業を日々、子どもに提供しているかどうかが要になる。
 教師の的確な発問に子どもたちが元気よく答える。子ども同士のうなずきや問い返し、共感や支持など、学び合い、支え合う学習集団があるかどうかである。
 真剣に学ぶ規律ある教室の空気が子どもたちの落ち着きをつくりだし、学びを深める。
 子どもたちは、意見を発表することで学級に居場所を感じ、授業に達成感や自信をもつ。
 そのためには、子どもたちへの深い愛情と専門的な指導技術が伴ってこそ、日々の実践が成り立つ。
 また、教師は人間の先輩として
(1)
よく学ぶ先生がよく教えることができる
(2)
人間的な温かさと協調性をもつ(ユーモア、気配り)
(3)
社会的な常識と責任感をもつ(あいさつ、返事、身のこなし)
などが求められている。
 学校で授業をしているときだけが教師の仕事ではない。
 教師の人間性や人格そのものが、子どもにとって「教科書」「お手本」である。
 その意味で教育は奥が深いし、教師の責任は非常に重い。
 子どもは、日々成長し「毎日が旬」である。教育は、子どもたちが元気に生きていくことへの限りない励ましである。
「実は、先生に出会ったおかげで、今の自分がある」と、教え子に言ってもらえたら教師冥利に尽きる。
(
明石一郎 大阪府公立小学校教師、全国同和教育研究協議会事務局長 大阪府教育委員会指導主事、貝塚市立小学校校長を経て関西外国語大学教授
)

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どのような教師が生徒になめられるのか、なめられないようにするにはどうすればよいか

 思春期の中学生は、教師が生徒に影響を与えるものは「教師の人間的魅力」「教師役割の魅力(授業の教え方がうまい)」「罰・強制性」の三つとみています。
 中学生になると「教師の人間的魅力」と「授業の教え方がうまい」と感じているときは、その教師の指導に従おうとします。
 しかし、どちらか一方の場合であってもよい。たとえば友人関係の相談はA先生、勉強の相談はB先生と教師を選択するようになるでしょう。
 中学生は、教師の理想的な姿として「授業の教え方がうまく」かつ「熱心」というイメージを持っています。
 理想を求める思春期の中学生は、自分たちの言い分を何でも認めてくれ、ものわかりのいい教師であっても、授業の教え方がうまくない教師を心から信頼しないようです。
 熱血一本槍の一面的な教師も、生徒はどこか冷めて見てしまい、心から信頼感がわかないのです。
 罰・強制性は、中学生と教師の心理的なつながりを少しずつ引き離す影響力があります。
 高圧的なものの言い方や叱責による指導をすると、中学生は強い反発を覚えます。
 最も中学生がきらう教師の対応があります。それは、生徒との対決を避け、生徒の批判の矛先をかわそうとする教師です。生徒はそういう先生を「なめる」のです。
 生徒になめられる教師は、「叱るべきときに、厳しく叱れない」「人間的な魅力がない」「教え方がへたで、熱心さ、指導力がない」と、生徒に感じられている教師ということができます。
 ただ、強く叱るだけで、生徒からなめられないようにしているとしたら、いつか手痛いしっぺ返しを受けることがあるでしょう。
 逆に、強く叱らない教師のなかにも、全く生徒からなめられない教師もいます。
 それは、ふだんから「教師の人間的魅力」と「教師役割の魅力(教え方がうまくかつ熱心で指導力がある)」と、生徒に強く感じさせている教師です。
 したがって、中学校の教師は、「教師の人間的魅力」と「教師役割の魅力」を、ふだんから、生徒に強く感じさせるような対応を積み重ねておくことが求められています。
(河村茂雄:1959年生まれ、早稲田大学教育学部教授。15年間公立学校教諭を経験した。学級崩壊,学級経営など教育実践に生かせる研究成果を多数提供している)

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「わからない」と言った子どもを「すばらしい」とほめていますか

 あなたの学級に「わからない」と言える雰囲気がありますか。
「わからない」と言った子どもに、あなたはどのように対応していますか。
「わからない」と言った子どもを「すばらしい」とほめていますか。
 教師に、正直に「わからない」と言ってくれる子どもは、教師を成長させてくれる大切な存在です。
 それなのに「できない子」というレッテルをつけて、見放していませんか。
「わからない」と言った子どもをそのまま放置して、それが一人、二人と増えていくと、学級全体の子どもたちが、学習意欲を失っていき、学級の雰囲気も悪くなっていきます。
 保護者からも「先生は、わからない子どもを放っておいている」という評判を立てられることにもつながる。
 子どもたちのちょっとした「つぶやき」にも、教師は聞き逃さないで
「〇〇さん、どこがわからないのか、言えるかな?」
などとたずねて、わからないところを具体的にその子が言えたなら、ほめてあげる。
 そして「わからない」と言った子どもに合わせて授業を組み立てたりして、その子に対して何らかの対策を講じていく。
 そうすることで、その子は教師を信頼し、好きになっていく。
 子どもたちも、安心して「わからない」が言える学級の雰囲気ができてくる。
「わからない」と言える子どもを学級の中で支えていく教師の姿を、他の子どもたちは見ているのだ。
「わからない」ところをとらえて「教え合い」や「協同的な解決」の場をつくることで、子ども同士の絆がより深まったり、教師への信頼感が増したりしていく。
 これが学級の力ともなり、後にしっかりと学級を支える子どもたちに成長していく。
 子どもを通して、保護者もまた学級担任を信頼するようになっていく。
(
成瀬 仁:新潟県公立小学校教師。国立大学教育学部非常勤講師、オーストラリア公立小学校での勤務経験がある。また、幼稚園の経験もあり、多彩な教職経験を生かし、子どもと環境、教師の雰囲気を考えている
)

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仕事が趣味なら人生は天国だ、私は教師としての仕事を趣味にするように努力してきた

 私は教師になりたくてなったわけではない。母親が私を田舎に引き止めるために「教師になってくれ」と言われてなったのである。
 大学に入って教育の勉強を始めてみると、なかなか面白い。それに、小原国芳学長の人柄と講義の面白さにとりつかれた。これで完全に「教師になる」ことに決心がついた。
 教育実習でお世話になった先生が、これまた人格者で私は深く尊敬の念を持った。その感化を受けて、社会科へのめり込んでいった。
 教育実習に行って初めて専門性に目覚めたのである。それに、子どもと遊ぶこと、触れ合うことの面白さ、楽しさを実習で味わった。
 教育実習で、すばらしい先生とかわいい子どもに出会い、教師になることに喜びを感じるようになった。
 教師になって担任として出発してみると、教育実習のときに感じたような楽しさはなかった。思うように子どもは動いてくれず、悩みばかりつのる日々であった。
 尿の色が変わり、体調が悪くなった。食欲もなくなり食べ物を胃がうけつけなくなった。翌日は、体中が黄色くなり学校を休んだ。
 この時「教師という職業は、私の体に合わないのではないか」と思い、学校をやめたくなった。教師になって3か月目のことである。
 気分転換と趣味と子どもと仲よしになるという実益を兼ねて、月2回くらい、日曜日に子どもたちとあちこちへ出かけるようになった。これで気持ちが変わり、体調もよくなってきた。
 社会科の研究が面白くなってきた。少し勉強して授業を行うと、子どもたちの反応が違った。子どもたちのためにも勉強しなくては、と考えるようになった。
 バイクや車を購入して取材に出かけるようになった。これが楽しくてしかたがなかった。取材したところをスライドにしたり、資料にしたりして、授業の改善に取り組んだ。
 社会科の教科書にでている事例地へは、ほとんどでかけて取材した。自分で歩き、調べ、体験したことの中から「これは面白い」と思うものを教材化して、授業に提示した。今考えるとこれが教材開発だったのである。
 取材して面白い事実を見つけて提示すると、子どもたちが喜んでくれる。これがうれしくて、また取材に出かけるということを繰り返した。これが、私の「生き方」になっていることに気づいた。
 教材を開発しては授業を行い、授業をしてはその実践の事実を書くようになった。
 人間は、その時その時「楽しい、面白い」と思うことしか、しないものである。「楽しい、面白い」と思うことが、教師のするべきことと結びついたのがよかったし、幸運であった。
 教師として活動することは「子どものためになる」「子どもとかかわる」ことにならなければ意味がないし、価値もない。
 私は、常に「子どもを喜ばせたい」という願いをもっていた。このために「自分は今、何をすべきか」というように考えてきた。
 今すべきことが、自分にとって「楽しいこと、面白いこと」になるように努力してきた。これを切り離さないように気をつけてきた。
 つまり、趣味と実益を切り離さず、一緒のものとしてやるように努力してきたのである。
 私は、教師という仕事を「趣味」にするように努力してきた。子どもを教育することは、楽しいことだ、と考えるようにしてきた。
「考えるようにしてきた」ということは、楽しいばかりではなかったということである。それどころか、苦しいことや困難なことのほうが多かった。
 しかし、この困難なことや苦しいことを乗り越えたときのうれしさは、たとえようがなかった。困難なことに出会うと「うれしいことが待っている」というように考えてきた。
 こういう努力をしていると、誰かが、どこかで見ていてくれることを知った。
 わずか2ページの小文を一生懸命に書いた。知られるような雑誌ではなかったのに、明治図書の編集長から連載してくれと言われた時は、本当にびっくりした。
 公立小学校に9年勤めた後、2つの附属小学校へ25年勤めさせていただいた。誰かが、どこかで見ていて、入れてくださったのである。
 人を育てることほど楽しいことはない。物はつくってもなくなるが、人はどんどん成長していく。特に、子どもは大きく成長する。将来、どんな人になるか楽しみである。
 私は「仕事を趣味にする」ようになった。
仕事が趣味なら人生は天国だ。仕事が義務なら人生は地獄だ」という言葉がある。
 私は「仕事が趣味だから仕事をすることが一番楽しい。いくら遊んでも、私の仕事をする楽しさには及ばない」といった、心境である。
(
有田和正:19352014年、筑波大学付属小学校,愛知教育大学教授、東北福祉大学教授、同特任教授を歴任した。教材づくりを中心とした授業づくりを研究し、数百の教材を開発、授業の名人といわれた)


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教師が子どもを叱ることの神髄とは、何か

 私たち教師は、ほめるのが上手でない。生徒のころから、コツコツ勉強するタイプの教師が多いからではないか。
 だから「なまけて、いたずらをする」子どもに対する、教師自身の実感がないので、そういう子どもの理解が乏しい。
 いたずらをする子どもをほめても、心の中でそう思っていない顔をしている。子どもは敏感で、そういうことはすぐわかってしまう。
 ほめるとか叱るとかは、相手の心、子どもの気持ちに訴えて、相手が変わることを期待してのことで、その根底には相手への愛がある。
 わざとらしくなく、自然のうちに出てくるような、そんな愛情に裏うちされたものが望ましい。例えば、叱るとき
「きみが、そんなことやったとは、いまだに信じられない」
「失敗をどうしたら生かすことになるのか、一緒に考えて行こう。自分の失敗を考えるのは、つらいことだろうが、失敗を薬にするために、じっくり考えてほしい」
 こういう言い方の中に、教師のあたたかい愛情がにじみ出ていく、そんな気づかい、心くばりが大事だと思う。
 ほめた自分、叱った自分が、相手によく思われたいとか、感謝されたいとかいう気持ちがひとかけらでもあったら、そのイヤラシサが見透かされてしまう。
 叱った教師が自己満足に過ぎない場合などは、なおさらである。そういう場合は、効果がないどころか逆効果になる。
 ある行為を直させようとして叱ったつもりが逆効果になる。そういうことは、よくあることだ。
 そのときの叱り方がいけないとか、もっと厳しく叱らなければならないとか、叱り方が問題になるが、もっと大事なことは、叱った自分の気持ちなのではないか。
 どんな気持ちで自分は叱ったのか、どんな気持ちで、その生徒にそんな話をして聞かせたのか、そういうことではないだろうか。
 親が自分の性格で自分の嫌いなところを、わが子に見いだして不機嫌になる。そういうわがままが人間にあるものだ。
 そして「自分がこんなに一生懸命にやっているのに、お前には、わからないのかァ!」などと相手のせいにする。
 教師とても同じことだ。自分と同じ立場の同僚が
「そうだそうだ、もっと厳しくやったほうがいい!」
「〇〇先生、あなたが怒るのもムリはない」
などと言うから、教師は、つい、叱る自分の気持ちをつきつめずに終わる。
「どんな気持ちで、自分は叱ったのか」
「どんなことを期待して、自分は〇〇しようとしているのか」
 そして、それは「子どものため」なのか「子どものためだけなのか」それとも・・・・と、つきつめて考えることが、非常に重要である。
「人に物をあげるのに、一番よいあげかたは、相手に物をもらったという気持ちを起こさせないことである」
これは、ある先哲の言葉である。
 教師がだれをも叱っていない。しかし、学級の生徒一人ひとりの心に、自分を叱る自分を感じさせる。こういう実践こそ、叱ることの神髄といっていいと私は考えている。
(
関根正明:1931年生まれ、小・中学校教師、指導主事、東京都公立中学校校長、大学助教授を経て、元山形大学講師
)

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教師は、自分を変え、元気をつくり出そう

 私の率直な感想では、一人ぼっちの教師や他の人とあまり交流のない教師は、どうしても暗さがただよっている感じがしてなりません。
 これは教師にとって決してよいこととは思えないのです。なぜなら、子どもは暗い教師をきらいますし、保護者も忌避しがちです。また教師同士でも、前向きなはずんだ関係をつくりにくくなるからです。
 子どもたちは、とりわけ先生の明るい元気な顔を求めているのです。
 教師の中には、生まれつきなのだから、しかたがないとあきらめたり、一人で悩んでいる人が少なくありません。
 私はそういう人たちに「子どもたちのために、自己改造の努力を。努力すれば明るさを身につけられるのですから」と強く言いたい。
 例えば、つぎのようなことを工夫すると、相手に明るさが伝わるのです。
(1)
子ども、保護者、同僚教師と対話するときは、必ず相手の顔(目)を見ながら話すといい。
(2)
相手の話に共感したときは「ふんふん。なるほど」というように、うなずきながら聞くといい。
(3)
自分が話すときは「語尾」を上げて話すとよい。感激が大きく伝わります。
 語尾を上げて話せば誰がやっても相手に明るい雰囲気を伝えます。
 この話を講演でしていたら、20歳代の女性教師が講演を聞いた後、
「鏡を見ながら、一生懸命にやってみたんですよ」
「お風呂の中で、ひとりごとのように言いながら練習してみました」
と、明るい声で話してくれました。努力したことが、自己改造に結びついたというわけです。
 さらに暗さの克服には、相手の心にひびく話になるように内容のくふうをすることも必要です。
 相手に内容がよりよく伝えられるようになれば、人と人との交わりに抵抗がなくなり、孤独感や対人ぎらいも克服できるようになるからです。
 それには、他の人の話を注意深くみつめることが大切だと思います。
 他の人の話を聞いて、どのような内容を選び、どんな組み立てをし、話すときのメリハリをどうつけているかなどを、注意深くみつめるとよい。
 その意味では、先輩や同僚教師は「生きた教科書」としての存在価値をもっていると思います。
 私も、先輩や同僚教師からたくさん学びました。「すばらしい」「心を引かれた」と感じさせられた教師には、話す内容に次のようなポイントがありました。
(1)
感動的なエピソードや子どもの心を引きつける身近な題材を選んでいる。
(2)
結論を先に話し、だらだらと話さないで「短い」話をつなげ、よぶんな部分は省略して、中心となることをもりあげている。
 ということです。これは、教師の日常の授業や生活指導にも必要なことだと思いました。
 例えば、教師が教室に入って、黒板が汚れていたとき、どう話せばよいのでしょうか。
(1)
よくない例
「ほら、黒板が拭いてないけど、黒板係は誰なの」
「早くきれいにしなさいよ。黒板係になったら、責任をもってやるように、いつも言っているでしょ」
(2)
よい例
「あれ、黒板の係は忙しかったのかな。いつもより汚れているね」
「みんなそう思わないか?」
「先生が拭こうかね。それとも黒板の係の人にやってもらう方がいいかな?」
 両者を比べてみると大差はないようですが、受けとる側の子どもたちに聞いてみると、ずいぶん違うようです。
 子どもたちは、(2)の方が「聞きやすい」「やさしい」「明るい感じ」だと言うのです。
 子どもの意識を引きたてるようにくふうされ、結論をさきに、歯切れよく、よぶんなことを省く話し方になっているからです。
 教師と子どもとの結びつきをつくるには、教師の説明などをエピソード(魅力的な小話)風に伝える工夫をするもの大事なことです。
(
坂本光男:19292010年、埼玉県生まれ、元小学校・中学校・高校の教師。教育評論家。日本生活指導研究所所長・全国生活指導研究協議会会員)

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「まちがい」を笑う子どもを教室からなくすには、どのように説得すればよいか

 教師になりたてのころ、授業中、子どもの「まちがい」については、特に意識しなかった。
 子ども同士、まちがう子を笑っていたし、私も思わず笑ったりした。
 あるとき、まちがいを笑われた子がうつむいて涙をこぼした。私はハッと胸を打たれ、目を開かされた。
 他の教室をいくつか授業参観していると「まちがいを笑う教室」と「笑わない教室」があった。よく注目して見ると、その原因は教師の姿勢、構えにあるのだと気づくようになった。
 私が担任したクラスでも、友だちの「まちがい」を嘲笑する教室の雰囲気があった。「これではいけない」と痛感した。
 保護者会で、ある母親が「わが子が、わかっていても手をあげないのは、友だちに笑われてからです」と言った。
「まちがいを笑う教室」「まちがいを気にしすぎる子ども」という二つの現実があり、子どもも、教師も「まちがい」の考え方や気持ちを変えていかなくてはならない大事な問題なのだと思った。
 そこで、教育や授業の在り方を問い直し、子どもへの働きかけ、話(説得)を次のようにしていった。
1 子どもと共に「考え方」を変えていく
(1)
子どもたちに、学習すること実体を考えさせ、「わからない」とか「まちがい」を気にしないようにさせる
教師の子どもたちへの話(説得)
「勉強は『わからないからする』のです。だから、まちがいや失敗をします」
「恥ずかしいと気にしないことです」
「先生だって、わからないことが一杯あって、まちがいも失敗もします」
「勉強で大切なことは、まちがいを気にするよりも『わからないことを質問する』、そして、『自分の思ったことを発表する』ことです」
「それが自分の力になっていくのです」 
(2)
「まちがい」は「注意しなさい」と、教えてくれる「先生のようなもの」だと、気づかせる
教師の子どもたちへの話(説得)
「小学校1年生が『3』の数字を書くときに、黒板に『ε』と逆に書いた子どもがいました」
「すると、みんなが笑ったり、バカにしたりしました」
「しかし、そのまちがいのおかけで、クラスのみんなが『3』という数字の書き方をしっかり覚えたのです」
「このことから『まちがい』や『失敗』についてよく考えましょう」
「あるとき、前を歩いていた人が、急にころびそうになりました。『どうしたのかな』と思ってよく見ると、その場所だけ道がへこんでいたのです」
「その人のおかげで、注意してそこを歩いたので、私はころばずにすみました」
「このように『まちがい』や『失敗』をした人は、私たちにとって、ありがたい人ではありませんか」
「つまり『まちがえた人』は私たちに『注意しなさいよ』と教えてくれる人、『先生のような人』だと思います」
「そう思うと、その人を笑うことはできないはすです」
2 この出会いから学んだこと
 こうして「まちがいを笑わない教室」に変わった。この出会いでのポイントは
(1)
子どもの気持ちを理解しようと常に意識し、努力していなければ「笑われた子」見つけることはできない。
(2)
「笑わない教室」へ変えるために必要な工夫は常日頃の情報収集や学ぶ姿勢が不可欠である。
(
香川英雄:教育評論家)


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あなたに子どもの心が聞こえますか?

 日頃から、言葉にはしないけれど、自分の頭の中に自分の声が流れていますよね。その時「自分の心」を聞いているわけです。
 この「心」の本質は、子どもの頃に形成され、常にその「子どもの心」が皆さんの中で、いろいろな「心」を発しています。
 本物のコミュニケーションとは、自分の中の「子どもの心」と、他の人の中の「子どもの心」との対話です。年齢も、性別も何も関係ありません。
 コミュニケーションは、心と心が通い合い、そこに「笑顔」をもたらす瞬間に「かたち」になります。
 このコミュニケーションを置き去りにすると、他者から受け入れられず、傷つき、また自分も他者を受け入れることができなくて、傷ついたりします。
 そう、生まれてからずっと息づいている「子ども心」を聞きましょう。人が人らしく生きる、それを可能にするのが「子どもの心」なのですから。
 大人になっても心に残っている小学校の頃の「子どもの心」に耳を傾けてみましょう。
 小学校時代の子どもの心は幼児期に次いで重要です。なぜならば、小学校入学以前の幼児期は、相手を通して自分を知ろう、形成しようとする時期である。
 一方、小学校の6年間は社会の縮図と言える小学校を中心に、自分の世界観を確立するために、懸命に遊び、何かを頑張り、人とは異なる自分の記録を作ろうとする自己形成の大切な時期である。
 さらに、自分の味方となる人、敵となる人、信頼できる人、心を許す人、本当に自分を真剣に理解しようとする人を懸命に見極めようとする時期でもある。
 生まれて初めて自分の心と五感を駆使して、自分と関係性を作っていく人の選別をする時期であるとも言える。
 つまり、小学校時代とは、自分の個性を発揮しつつ、大人との向き合い方もいろいろと考えながら模索している。
 ある意味で一番大人に対して厳しい、妥協のない目を向ける時期なのではないか。
 そして、自分のテリトリーの手応えを身体全体で受け止め、形成しようともがく。純粋で曲がったことが嫌いな、妥協を知らない貴重な時期であると私は考えます。
 大人としてやさしく、寛容な気持ちで、自分の中の「子どもの心」とも、他人の中にある「子どもの心」とも向き合ってほしいと切に願います。
 私たちが、今まさに「子ども時代にある子ども」と向き合う時には、大人の心の奥底にある「子どもの心」が、一番の相談役になるわけです。
 私たちがどのような生き方を提示してきたのかは、私たちが自分の内面に生息する、自分自身の「子どもの心」とどのように向き合ってきたかによって、その価値が決まります。
(
長谷部葉子:東京都出身、慶應義塾大学准教授。不登校、高校・大学受験失敗などの経験から、20歳代半ばで寺子屋を立ち上げ、教育支援に携わる。教育とコミュニケーションを研究)

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