清掃中ほうき遊びで子どもが視力障害を負ったときの教師の責任は?

 清掃時間中に、中学生が友だちとほうきでホッケー遊びをしていて、友だちの持っていたほうきの先が飛んで左眼に当たり、視力障害を負ったとき、責任はあるのか?
 この事案はつぎのようである。
 ほうきの安全性を判断するにあたっては、ほうきが振り回されるなどして、そこに相当の衝撃が加えられることがあることも考慮に入れたうえで、そのように使用されたとしても安全性が具備されているか否かを判断すべきである。
 ほうきの先端部分と柄の部分を結ぶネジが相当緩んでいるなどして、衝撃により外れやすい状態になっていた。
 衝撃の加え方によっては柄から先端部分が飛び、周囲の人にぶつかって損傷を与える危険性があったものと推認される。
 本件のほうきは通常有すべき安全性を欠いていたといわざるを得ず、本件のほうきの設置又は管理には瑕疵(過失)があったと言うべきである。
(関口 博・菊池幸夫:弁護士)

 

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軽度発達障害児童とは、どうすればよいか

 軽度発達障害は、脳など中枢神経の微細な損傷による障害といわれている。
 学習障害(LD)とは「聞く・話す」「読む・書く」あるいは「計算・推論」が困難な症状だ。
 多動性障害(ADHD)は「注意を維持できない」「会話に集中できない」「我慢ができない」「考える前に行動してしまう」「順番が待てない」など行動に障害があって、集団行動が極端に苦手だったりする。
 高機能自閉症は「場の空気を読めない」「言葉どおりにしか受け取れない」「変更や変化を嫌がる」など他人との関係を結ぶのが困難な症状である。
 本人に悪気はないし、簡単に治療もできない。
 これら軽度発達障害の子どもの割合は、約6%といわれており、一クラスに1~3人はいることになります。一定の年齢にならないと表面化しないこともある。
 また、発達障害の子どもは、事件が起きると、何かと被害者になることが多いのが特徴だ。
 学級崩壊の原因、イジメの対象になるなど、教師に意味もなく嫌われることもある。
 ADHDなど行動に障害がみられる子どもは、教室のなかでも落ち着かない。
 教師の話を無視して遊んだり、我慢できずに暴れだしたりする。
 教室を飛び出すこともある。教師が追いかけていると、授業が中断されて、支障が出てしまう。
 予算のある市町村では、特別予算をくんで、小学校に常時2人の補助員を置いている。しかし、予算が乏しいところでは、それもままならない。
 実際に軽度発達障害の子どもに適切に対応できずに、不登校や学級崩壊などの問題を引き起こすケースが後を絶たない。
 親も軽度発達障害のことを知らないため、
「なんでこの子は他の子のようにうまくできないの」
「なんで何度も叱ってもわからないの」
 と、ついキツく叱ったり、体罰や虐待にいたってしまう場合もある。
 ADHDの子どもの日々のサポートでは、お子さんがどのような場面が苦手かをよく理解し、人とのかかわり方や社会のルールを教えながら、
1 スモールステップの目標を作り、できたら褒める
2 少しでも指示を聞けたら褒める
3 少しでも我慢できたら褒める
 などの工夫で、行動や情緒を自分でコントロールする力を養うように支援してあげましょう。
 その際は、本人が興味をもってワクワクした気持ちで取り組める状況をつくると、効果が高まりやすくなります。
 何か達成できたときにシールや代用貨幣(貯まったら何かと交換できるようなもの)などを用い、本人ができたことを分かりやすくすることも有効です。
 逆に、失敗したり聞き逃したりしたときに怒ると、急速に取り組みへの興味が薄れてしまいますので注意してください。
 また、危険なことをする場合などは禁止の指示が必要ですし、興奮が収まらないときは静かな場所でクールダウンをしましょう。
 本人の努力を褒めるとともに、得意なことを見出して自信を育てることも大切です。
 そうすることで、成人後にADHDの特徴が残っても、それが個性として生かされ、伸び伸びと生きる支えになります。
 ADHDの子どもは興味のあることに熱中することがあります。
 ある教師は1年生の担任の時ADHDのM君と出会った。
 知恵の輪を与えると、けっこう気にいって熱中してくれた。それをきっかけに少しずつ授業に参加するようになった。
 ADHDは小学校高学年くらいになれば減少するという。
(「ザ・小学校教師 別冊宝島」)
(石﨑 朝世:発達協会 王子クリニック院長)

 

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なぜ児童虐待が増えるのか

 親の子どもへの虐待が増えているのは間違いない。
 過保護の家庭が増えていると同時に、子育てに無関心な親、子どもが嫌いな親というのも多くいる。
 たとえば、朝食を食べてこない子どもというのは、年々増え続けています。
 この食べない子というのは、食べさせてもらえないのです。
 親が育児に関心を失ってしまっているんです。
 これがいわゆる虐待、暴力への出発点だと思います。
 育児に関心をなくしてしまう理由はゴロゴロあるという。
 出来ちゃった婚で両親が共に若い場合には、まだまだ遊びたい盛り。
 子どもが小学校に入れたころには、もう育児に飽き飽きしている。
 するとろくに面倒を見なくなる。朝早く起きるのは面倒くさい。
 離婚も増えて、低学年の子どもはクラスで4、5人いますからね。
 離婚すれば、たいてい母親が引き取ることになり、忙しく子どもにあまり時間がかけられない。
 いまどきの親は「がんばればなんでもできる」なんて夢のある子どもの育て方をしていませんからね。
 子どもに学歴を期待しない家庭も少なくない。
「親に、お前はバカで勉強ができないといわれたことがあるか?」とアンケートすると、半分くらいはそんな経験があると答えた。
 子どもは傷つきます。精神的な暴力。
 こういう子が素直にまっすぐ育つなんてかんがえられますか?
 こういう子どもが、やがて口答えをする反抗的な子どもになり、親は暴力で応じる。
 今の子どもたちには閉塞感が漂っているのを教室で教師は実感できるという。
(「ザ・小学校教師 別冊宝島」)

 

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こうすれば小学校の管理職になれる? 穏便に定年まで勤めればという教師がほとんど?

1 こうすれば小学校の管理職になれる?
 担任した学級の成績を上げたり、作文や絵で大きな成果を出した子がいると評価も上がる。
 部活動で地区大会を突破するくらいの結果を残す。
 30歳代後半までに、いい教師という評価を得ておく。
 クラス内で騒動が起きた場合、とりあえずはクラス内で穏便にまとめ、上への報告は回避したい。
 高学年の担任は嫌な顔ひとつせず引き受け、問題児などを立派に卒業させ、勉強のできる子どもは適度に有名私学中学などに進学させると、ポイントアップにつながる。
 転勤はいらぬ我を出さず、あくまで流れに従うのがいい。
 転勤先の選択肢はあるが、問題の多いエリアは避ける。
 教師の世界はまだまだ保守的な考えが根強い。結婚が遅いとヘンな噂が立つことが往々にしてある。仲人は将来頼れそうな管理職に頼むのがよい。
 私生活では特定の宗教やイデオロギーに熱をあげるのはご法度で、頻繁な海外旅行や外車を乗り回さず、目立たないように振る舞うのがよい。
 職場で読む新聞は読売か産経が無難か。
 管理職や出世をあきらめた教師から、ともに好印象を得るのが大切。
 PTAにはマイナスイメージを持たれないようにする。
 管理職試験は筆記試験と面接。ただし試験を受けるには校長の推薦が必要だ。
 よって、校長へのお歳暮や接待などのゴマスリもときには必要。教育委員会に好印象を与えておけば、のちの試験でプラス評価を得やすい。
2 穏便に定年まで勤めればという教師がほとんど?
 教師の世界では、ことさら出世コースを歩まず、教室で定年まで勤められればという教師が多いという。
「実力がある、結果があるからといって必ず出世できるわけではないというのが先生という職業です」
「運悪く問題児の多いクラスを引き受けてしまったら、ただでさえ忙しいものがさらに忙しくなる。とても管理職試験の勉強なんてしている暇はない」
「コネ、ゴマスリ、タイミング、ラッキーなどいろんな条件がなけりゃ出世できるもんじゃない」と、怒りぎみで語るのは45歳の男性教師。
 彼はこれまで数々の問題児と対峙してきた。問題児のエキスパートとして高学年の問題児の担任ばかりをまかされ続けることに。気がつけば、出世コースからは逸脱していた。
 同期で教頭になっているのが3人いるという。
「はっきりいって、私は彼らと比べれば、3倍は子どものことを考えている」
「彼らは問題児だって『いずれ中学に進むんだから』と、穏便に済ませてきた」
「教室が荒れたってしらぬ顔して黒板に向かっていたようなものばかり」と。
 まあ、こんな“現場派”の教師はいまとなっては少ないのかもしれない。
 たいていの教師はといえば、無理に出世をねらうより、穏便にやって定年まで勤められればいいという人がほとんどのようだ。
「校長、教頭になっても給料はそんなに変わらないし、子どもたちと楽しくやっていたほうが楽ですよ」と、すこし力の抜けた教師のほうが、いまはしっかりと勤まるのかもしれない。
(ザ・小学校教師 別冊宝島)

 

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社会科:大仏造営の学習のねらいと、学習の流れ

1 学習のねらい
 大仏造営について調べ、天皇を中心にして作られた新しい国家の政治が、都だけでなく、全国にも及んだことがわかるようにする。
2 学習の流れ(4時間)
 奈良の大仏(高さ15.8m)と学校の校舎を比べ、奈良の大仏の大きさを感じ取らせる。
 カメラで校舎の写真を撮り大仏の写真や絵を重ねて見せるようにする。
 聖武天皇は、どうしてこんな大きな大仏をつくったのだろうか?
 また、どのようにつくったのだろうか?
 8世紀の歴史書「続日本紀」(しょくにほんき)には、天平12年(740年)2月に聖武天皇が難波宮へ行幸の途中、智識寺の盧舎那仏(るしゃなぶつ)を拝まれ、このことが東大寺大仏の造立の発起となったことが記されている。
 聖武天皇が智識寺(庶民がお金を出し合い造営したお寺。大阪府柏原市にあったが今は廃寺。)の本尊を拝んで感動し、大仏をつくる決心をした。
 子どもたちは、
(1)大仏造営の理由
 全ての人を救う大仏を人々が力を合わせて造る。
(2)行基の協力
(3)天皇の力の広がり
 国分寺が九州から東北、物資や人(延べ260万人)が全国から集められた。
 について調べ、発表する。
 大仏開眼供養のときの聖武天皇の気持ちと、亡くなってあの世から行基、聖徳太子がどのような気持ちで大仏開眼供養を見ているのかを、まんがの絵の中のフキダシに書かせる。
 聖武天皇が大陸から何を学ぼうとしたのか調べ発表する。
 鑑真や遣唐使は、命がけで日本へ仏教や漢字、紙、囲碁・将棋、豆腐、みそ、まんじゅう、お茶などを伝え今日の豊かな生活をつくりだした。
 もたらされた宝物は正倉院で1250年間保管されている姿を見せ、伝統や文化を大切にする気持ちを育てる。
 平城京跡と東大寺、唐招提寺などの位置関係を理解することや、寺の現在の姿にふれること、聖武天皇が遷都した地域を調べることなどで、歴史的事象への関心が高まることを期待したい。
(長谷川裕晃:埼玉県公立小学校教師を経て越谷市教育委員会指導主事)

 

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問題行動を起こす生徒に「知らないふり」や「ものわかりの良い態度」はしない方がよい

 生徒は、心に何かが起きると問題行動を起こす。
 熱がでると薬を飲んで治すが、問題行動に対しても「知らないふり」や、なまじ「ものわかりの良い態度」や「理解のあるふり」はしない方がよい。
 授業中のドアを蹴る。教師にふてくされた態度をとる。
 わざと、「オレはこんな悪さをしているのだ。さあ、先公たちどうする」と試しているようなものだ。
 そんなとき、知らないふりをしたり、不問にするなどということをしてはいけない。
 私なら「ばか者! 何やってるんだ!」と、思いきり叱るだろう。
 もちろん、叱ったからといって反省するわけではない。
 暴言が返ってくるかも知れない。
 いったん、生徒との人間関係は悪化するだろうが、叱ることは生徒への「先生たちは見捨てていないぞ」という強力なメッセージなのだ。
 叱ったら反抗してくるが、叱らなければさらに見捨てられたと思って、問題行動は拡大するだろう。
 問題行動は「思春期のつまずき」のようなものである。
 大人になったら犯罪者になるわけではない。
 多くは一過性で終わる。
 問題行動をくり返す生徒は、心からの反省などは、簡単にできないから、問題行動をくり返しているのだ。
 叱るたびに、心からの反省という見返りを期待しない。
 今、目の前にいる生徒の「オレを見捨てないでくれ」という無言のサインに応えてやることだ。
(吉田 順:1950年北海道生まれ、元横浜市公立小中学校教師(37年間)。生徒指導部長、学年主任を歴任。「生徒指導ネットワーク」を主宰。生徒指導コンサルタントとして全国の「荒れる学校」を訪問し指導方針づくりに参画。講演、著述、相談などの活動をしている)

 

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「かさこじぞう」の読みの教材研究はどうすればよいか

「かさこじぞう」は、たいそう貧しいじいさまとばあさまが、よいお正月を向かえるまでの物語である。
 子どもたちも大好きな話である。
 読むにあたり、まず留意したいのは、じいさまとばあさまを話者がどのように語っているかということである。
 話者は温かいまなざしでその貧しさや行動の意味づけをしている。
 また、じいさまとばあさまの気持ちの中には、絶望感や悲しさは強く表現されてはいないことがわかる。
 どんなに貧しくとも他者に対して善い行いをする気概が、じぞうさまに届くのである。
 決して「哀れなじいさまとばあさま」ではないのである。
 授業づくりのポイントは、クライマックスをはじめに押さえてから形象の読みとりに入る。
 クライマックスが明確になると、物語全体の形象の仕掛けや意味が鮮やかに浮かび上がるからである。
 また、重要な読みとりの箇所を教師が一方的に示すのではなく、子どもたち自身が発見できるように配慮したい。
「二人が貧乏だとわかるところは、どこかな?」
「じいさまとばあさまの気持ちがわかるところは、どこかな?」
 などという発問・助言によって発見させていくのである。
 さらには、二人の貧しさに負けない明るさや強さにも着目させていく。
 話者の目と人物の心情を赤青二色で区別しながら、重要な読みとり箇所を発見させていく。
(臺野芳孝:千葉県公立小学校教師)

 

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他の一般生徒を代弁した内容の叱り方をするとよい

 授業中に廊下を通ったある生徒が、ドアを思い切り蹴ったとする。
 当然、授業中の教師は「おい、何でけったりするんだ!」と注意する。
 たったこの一言で、その生徒は逆ギレして暴言の限りをつくすなどという例はめずらしくない。
 もし、無視したり、曖昧な態度に教師が終始すれば、一般的にはさらに問題行動はエスカレートするのがふつうだ。
 叱るのは蹴った生徒を反省させるためだ、などと勘違いしてはいけない。
 生徒が興奮しているときには、一般的には何を言ってもだめである。
 叱るのは、教室の中でことの成り行きを見ている生徒たちのためである。
「君の行為で授業が中断されてしまった」
「塾に行かずに必死に頑張っている生徒がたくさんいるんだよ」
「説明の真っ最中でやり直しだよ」
「君はそれで気が済むかも知れんが、今、せっかく○○君の発言中だよ」
「真剣に聞いていたら、いきなりだろう」
「みんなびっくりしたよ」
「今日が初めてならみんなも我慢できるけど、今までに何度もあるじゃないか」
「みんな迷惑しているよ」
 こういうふうに言うと、蹴った生徒は、
「そんなことはオレには関係ねーよ」
 などと言っても、一般生徒から浮くようなことはしたくないだろう。
 だからできるだけ、他の一般生徒を代弁した内容の叱り方がよい。
 すると、一般生徒は怖くて口に出せないが、心の中で「そうだ、そうだ」と応援するだろう。
 そして、子どもたちの中に不正を憎む気持ちが芽生えてくる。これが目的なのである。
(吉田 順:1950年北海道生まれ、37年間横浜市立小・中学校教師。生徒指導部長16年、学年主任13年。生徒指導コンサルタントとして全国の荒れる学校と関わる。「生徒指導」ネットワーク主宰)

 

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小さな器物破損が見つかったとき、どう指導すればよいか

 小さな器物破損は、たとえば、教室の掃除道具の破損、トイレットペーパーのいたずら、机や壁などへの落書き、ガラスの破損、スイッチの破損などいろいろあるものだ。
 いずれも、一つひとつはそれほど悪意がなかったり、イタズラという場合もある。
 しかし、こういうことが積み重なると、間違いなく退廃的雰囲気が蔓延し、やがて堂々と不正が通るようになってしまう。
 気付いたときには手遅れということも少なくない。続いてきたなと判断したら、即刻手を打とう。
 ついうっかりは、誰にでもあるので、いっさい叱らないし、弁償も必要ない。
 例えば、遊んでいてボールが蛍光灯に当たって割れたとき、正直に名乗り出てきたら、
「えらい! よく言ってくれた」
「ボール遊びの場所を今後からは考えるのだよ」
「弁償しなくても良い。以上、終了」
 これを学級全員の前で一度やればよい。
 だから、名乗り出ないのは、意図的な破損行為と考えればよいのだ。
 誰がやったかわからない破損行為は、学級全員に隠す必要はない。
 誰かが見ていて、生徒間には誰がやったか知れわたっていることが多い。
 犯人捜しは適当に打ち切って、「修理隊」を大募集するとよい。
 こういうことは大好きという男子はどこのクラスにもいる。
 ときには壊した本人が何食わぬ顔をして修理隊に入っていたこともあった。
 修理隊は結構、楽しそうに修理する。
 多分、やった子は複雑な心境で見ているはずだ。
「誰だよ、壊したりするのは」などという批判の声も聞こえてくるだろう。
 破損現場を生徒に見せたくない教師の心境は、理解できなくもない。
 しかし、ひそかに直して何事もなかったようにしてしまったら、生徒全体を育てることはできない。
 寝た子を起こしてでも全体に訴えることだ。
 放課後、修理隊が生徒のいる中で直すのが得策だ。
 その間は、そこを通りかかった教師が、わざと生徒たちに聞こえるように、
「とんでもないなあ。迷惑だよ。許せないなあ」などと嘆くことだ。
(吉田 順:1950年北海道生まれ、37年間橫浜市公立小・中学校で勤務した。生徒指導部長16年、学年主任13年などを兼任。「生徒指導」ネットワークを主宰。生徒指導コンサルタント、全国各地で講演、著述などの活動をしている)

 

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校内で金品が盗まれたとき、どう指導すればよいのでしょうか

 あるとき、空いていた教室で、2千円の入ったサイフが盗まれた。
 このことを全体に指導する目的はあくまで予防のためだ。
 盗んだ生徒を捜してサイフを取り戻そうということではない。
 よほどの証拠がなければ無理な話だ。実際、ただの一度も盗んだ生徒が名乗り出た例は聞いたことがない。
 そこで、全体に次のような話をした。
「今回の事件は状況から、おそらく外部から入ってきた人が盗んだように思う」
「警察にも届けておき、今後は付近もパトロールしてもらうことにしました」
「先生たちも空き教室のパトロールをします」
「侵入者はこれで味をしめて、また来るに違いない」
「今度はとられる物がないように、お金は持ってきたら先生に預けなさい」
「盗みは病気になると、くり返すらしい」
「だから、テレビで窃盗歴が十数回というニュースを見たことがあるね」
「ところが、不思議なことに、一度だけやっても、反省して二度目はしないと、この病気は完治するらしい」
 こういった話は、もっともらしい話だ。これを聞いた盗んだ生徒は、大いに迷うだろう。
 盗みが多発する学校は、全体が荒れているか、同じ生徒が何度もやっているという盗癖のある生徒がいる場合かのどちらかである。
 それ以外の数ヶ月に一度くらいしか起きない盗みというのは、全体への指導でかなり防止はできる。
 学校全体が荒れている場合は、起きるのは盗みだけではないのだから、それだけなくそうとしても無理なことだ。
 盗癖のある生徒には。全体への指導では効果はまったくない。
 盗癖のある生徒を証拠もなしに指導してはいけない。
 身構えて真実は語らないだろう。
 盗みが起きていないときに、盗みとは関係のない話をして、家庭や、親、進学、趣味のことなどから、盗みのメッセージを読みとり、それを指導の対象にすることしか方法はない。
(吉田 順:1950年北海道生まれ、37年間橫浜市公立小・中学校で勤務した。生徒指導部長16年、学年主任13年などを兼任。「生徒指導」ネットワークを主宰。生徒指導コンサルタント、全国各地で講演、著述などの活動をしている)

 

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「おにたのぼうし」の読みの教材研究はどうすればよいか

「おにたのぼうし」のあらすじは次のようです。
 節分の夜、黒おにの子ども‘おにた’は、住んでいた小屋を飛び出しました。「おには-そと」と豆をまかれたからです。
 ‘おにた’は気のいい鬼でした。にわか雨のときには、洗たく物を取り込んであげたりしました。
 でも、恥ずかしがり屋だったので、いつもこっそりと働いていました。
 雪の降る中、「いい家がないかなぁ」と探していると、女の子が雪をすくって、せんめんきに入れています。
 お母さんが病気で寝ているのです。
 おなかをすかせた女の子のために、‘おにた’は人間の男の子のかっこうをして、赤飯と煮豆を持ってきました。
 よろこんだ女の子は、ふと「豆まきしたいな」とつぶやきます。
 すると氷がとけたように、‘おにた’が急にいなくなってしまいました。
 あとには麦わらぼうしと黒い豆が残っていました。
 私は次のような4段階(1~4)で教材研究を進めています。
 教材研究は作品の構造を把握(1)した上で、2つの方向から行っていく。
 一つは導入部(2)であり、もう一つはクライマックス(3)である。
 そして、導入部で設定された人物像・仕掛けと、クライマックスの「性格」の、2つの視点から、展開部(4)の事件と人物相互の関係の変化をたどることによって作品の構造が浮き彫りになっていく。
1 全体の構造の把握
 作品の導入部、展開部、山場、終結部を押さえ、およその筋の流れをつかむ。
2 導入部(「節分の夜のことです」~「物おき小屋を出て行きました」)の読みとり
 主人公の人物像、仕掛けを読む。
(1)主人公
‘おにた’は鬼の子どもで一人ぼっち。
(2)人物像
 孤独なので人間に執着し、親切にして愛を求めている。
 しかし、節分の度に追い出されながら「人間っておかしいな」と人間に疑問を抱いている。
 麦わら帽子で角を被い鬼であることを隠している。
(3)仕掛け
 この人間に対する切実さと矛盾が‘おにた’の人物像に仕掛けられた重要な仕掛けである。
 この人物像が物語の進展やテーマにどのように関わっていくのか、そこを重点的に読むことによって教材研究を速く正確に行うことができる。
3 クライマックスの読みとり
 物語のクライマックスの大まかな性質・性格、つまり、破局・悲劇か和解・解決かというようなことを押さえる。
「おにたのぼうし」のクライマックスは、‘おにた’が女の子の前から姿を消し、黒い豆になるところである。
 貧しい家のお母さん思いの女の子のために、食べ物を持っていく。
 女の子は喜び、‘おにた’は幸せの絶頂を感じる。
 しかし、帽子で角が隠れ、鬼であることを知らない女の子は母の病気を治すため「豆まき」をしたいと言う。
 この瞬間、つかの間の至福の時は終わり、‘おにた’の愛は破綻する。
 これまで節分に何度も追い出されても人間界に執着し続けていたが、絶望し、麦わら帽子を残して消え、自らが「黒い豆」になる。
‘おにた’も女の子もやさしく健気に生きているのに、接点がなくすれ違っている。
 このすれ違いの悲劇がこの作品のクライマックスの「性格」である。
 これを読み取ることで、「出会い」と「関係の変化」と「破綻」が教材研究の急所であることが分かる。
 この箇所での事件、人物、相互の関係を読めばいいことが分かる。
4 展開部以降の事件と人物相互の関係の変化をたどり、作品の急所を明らかにする
 展開部の分析を行う。
 すると、つぎの箇所が丁寧に読まなければならないところとして浮かび上がってくる。
(1)「こりゃあ、豆のにおいがしないぞ、しめた。ひいらぎもかざっていない」の部分
 鬼である‘おにた’を受け入れてくれるのではないかと期待を抱いてこの家に入っていく。
(2)「女の子が出て来ました」の部分
‘おにた’の対役の女の子の登場である。
 したがって女の子の生活や人物の性格が分かるところを探して読まなければならない。
(3)「‘おにた’はなぜか、せなかがむずむずするようで、じっとしていられなくなりました」の部分
 おにたは本能的に何かを感じとった。
 おなかがすいているのに、うそをついて我慢をしている女の子、その悲しみと苦労に‘おにた’は自分の境遇が重なり、共感を感じとったに違いない。
(4)「おにたは、もうむちゅうで、台所のまどのやぶれた所から、寒い外へとび出していきました」の部分
 女の子のためにどんなことでもしてあげたい、という気持ちになったのだ。
‘おにた’の女の子への思いが決定的に変化したところである。
 このように、教材研究は、
1 導入部の人物像・仕掛けを読み
2 クライマックスの性格を押さえ
3 その両方から、事件、人物相互の関係に視点を当てて読むことによって、作品の急所が押さえられ効果的に行うことができる。
 この方法は、多くの物語・小説に応用することができる。
(小倉泰子:東京都公立中学校教師)

 

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子どもたちの願いからできた「グー・チョキ・パー」の授業とは

 篠崎純子(神奈川県公立小学校教師)の実践を紹介します。
 篠原は目の前の子どもたちの現状を見すえながら、子どもたちの願いや要求にかなった授業のしくみを提案し、それを子どもたち自身のものにしていっている。
 そして、こうした取り組みを通して、子どもたちは意見を堂々と表明することができるようになる。
 さらには子どもたち自身が、参加と意見表明を保障するための授業のしくみについて考え、自ら提案するようにまでなっている。
 その篠原の実践はつぎのようなものである。
 篠原は前年度からすでに「授業不成立」状態の学級の6年生の担任になった。
 四月当初から、授業中に紙飛行機が飛び、手紙が大っぴらにやりとりされ、大声で私語が交わされ「やめなさい」と注意するとさらに声が大きくなる。
 「アンタの授業は、つまらねェ。ヤメロ」
 授業中に飛んできた紙飛行機にそう書いてあったという。
 そんな中に、玉田という男の子がいた。しばしば授業の準備を手伝ったりしていた。
 ある日、彼のつぶやきをきっかけに、授業参観での「発言運動」に取り組むことになる。
玉田「先生、俺、卒業前に一度だけお母さんの前で、正しい答えを言ってみたい」
 と玉田が言った。
私「ああ、いいよ。だっていつも2,3人しか手を挙げないんだから」
私「玉田、玉田って、いっぱい指してあげるよ」
 と、私はいつものお礼を兼ねて言った。
 それを聞いていた荒木が、
荒木「ずるいよ。玉田ばっかし。俺も指してよ」
 と言った。
 そこで女子も数人集まり、作戦を立てた。
 サインを決めよう。
 答えに自信のある人はパァーと明るい未来の「パー」。
 チョキっと自信のない人は「チョキ」。
 グーの音も出ない人は「グー」と決めた。
 私は「パー」を出した人だけ指していくという作戦だ。
 ふと、まわりを見ると、女子グループの6人がガンとばしのような目で見ていることに気づいた。
 私は「もし、よかったらいっしょにやんない」と誘ってみた。
 もちろん「ちえっ」という反応しかなかった。
 そして、この作戦は大成功を収める。
 問いが難しすぎて「パー」の手が挙がらないときは、発問を変えてみる。
 本読みや語句の意味調べなども入れたので、気がつくと全員が発言していたという。
 「グー・チョキ・パー」を選ぶという方法は、誰もが必ず何らかの意思表示をすることができるため、子どもたちも自然に入っていきやすい。
 また、授業内容についての理解度が教師に伝わるという点も、授業づくりのうえでプラスになると考えられる。
 この方法は、授業参観という要因に後押しされたものだ。
 しかし、子どもの声に耳を傾け、子どもと対話することで、子どもたちの「発言したい」「正しい答えを言いたい」という共通の要求が出たのである。
 教師がその機会を逃さず、要求を実現するための授業のしくみを子どもたちと一緒になってつくったのである。
(松田己統美:1965年生まれ 大阪教育大学准教授)

 

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子どもたちの「算数のつまずき」に、教師はどう支援すればよいか

1 「ひき算」のつまずきの支援
 ひき算のつまずきへの支援では、次の6つに留意して行うことが大切である。
(1)32-15のようなひき算の定着
 32-15では、(20-10)+(12-5)=17のようなプロセスで計算する。
 したがって、1年生のときの既習事項に習熟させておくことが必要になる。
 だからといって、12-5のような計算のドリル漬け、時間レースのようなことは好ましくない。
「簡単な問題、立式、計算、答え」という一連の意味ある練習の中で計算力を維持するようにすると効果的である。
(2)ひき算の筆算の基本
 まず、48-13のような繰り下がりのない計算を通して、8-3、40-10の計算の原理を理解させる。
 次に、筆算の形式を確実に理解させる。
 このことを十分にできるようにしておき、次の段階では、繰り下がりだけに学習が集中できるようにする。
(3)繰り下がりの意味と処理
 繰り下がりの意味が分かり、処理ができるようにならなければ、同じようなつまずきがくり返される。
 そこで、32-15のような計算を、おはじきなど具体物を用いた活動を通して結果を求めさせる。
 その際、32-5の作業をして、その結果から10を取り去るという順にさせると分かりやすい。
 一の位の2-5ができないから、十の位から繰り下げて処理することを、作業的な活動を通して体験的に理解させ、できるようにすることが重要である。
 最終的には、作業的な活動の上で
(30-10)+(2-5)=(20-10)+(12-5)=10+7=17
 を一連の流れとして見せ、処理ができるようにする。
(4)筆算形式の理解と習熟
 作業的な活動で分かり、できるようになったことを、筆算形式の計算の仕方に移していく段階を丁寧に行う。
 教師が工夫した教具を用いたり、パソコンのパワーポイントを効果的に活用したりすることが大切である。
(5)計算練習をさせて習熟させる
 繰り下がりのある計算の仕方が理解できたら、「少しずつ、毎日、即点検、即個別指導」の要領で練習させるようにする。
 一度に大量にさせるのは考えものである。
(6)文章題にふれさせる
 ときどき文章題にふれる機会をつくり、計算を使えるようにする指導が大切である。
2 「わり算」のつまずきの支援
 。たとえば、42÷6といったわり算でつまずく原因は、かけ算九九1回適用のあまりのないわり算の仕方が分からないこと。
 かけ算九九の暗唱の曖昧さからのつまずきがめだちます。
 このようなわり算のつまずきへの支援は、新しい計算として「わり算」が導入される授業の中で、たし算の場面を作業的な活動を通して事実としてとらえる。
 次に、それを文章「12このアメがあります。1人に3こずつくばったら4人にくばれました」と表現させる。
 そして、これを12÷3=4と式に書く。
 いくつかの例を扱ったのち、わり算の答えは、九九を使えば求められると気づかせていく。
 以上の一連の学習を丁寧に扱うことが、わり算の学習のつまずき対策の基本である。
3 「分数」のつまずきの支援
 分数は難しいと教師と子どもも思い込んでいる。
 初めてのこの単元で、作業的な活動や図、数直線に表す活動などを通して、体験的に理解させるとつまずきの大部分は解消できる。
 分数はどのようなときに使われるか、どのように表すかを算数的活動を通して具体的に理解させる。
 つまずいた場合は、作業的な活動をさせながら再学習させる。
 また分数の仕組みが単位分数のいくつ分で表しているかを再学習させることが必要である。今後の分数学習の基礎となる。
 分数の学習の困難さは、大きさについてのイメージが浮かびにくいことがあるのかもしれない。
 数直線上で観察させるなどして誤りに気づかせることが重要である。
4 「文章題」のつまずきへの支援
 計算はできるが、文章題は苦手とする子どもがいる。
 これは、計算力は算数の基礎だということで、計算ドリル優先、文章題の解決体験を積極的にしてこなかったための人為的に作られた実態である。そこで、
(1)問題を理解する
 問題場面を理解できないためにつまずくことが多い。
 問題文をゆっくり、じっくり読んでどのような場面かを理解し、聞かれていること、求めることは何か、分かっていることは何かの順に読み取らせる。
(2)解決の計画
 問題を理解してはっきりしてきたら、さてどのように考えたら問題を解くことができるかと考えさせるようにする。
 どのようにしたらうまく行きそうか方法の見積もり・見通しを考えるようにする。
 規則性を問う文章題では、何と何が関連するのか、図を書いたり、表を作ったりして、どのような規則性があるかを調べる。
 きまりがわかったら、そのきまりを使って問題を解決するということを練習させるとよい。
(3)計画に沿った解決及び振り返りによる解決方法の修正
 問題をどのような計算で解決するか考える前に、数量の関係を式に表現してみることが大切である。
 演算の決定の体験を積み重ねるとつまずきを克服させることができる。
(4)結果を問題場面に照らした吟味
 答えを書く前に、問題場面に照らしたり、求答事項に合っているかを確かめさせたりすることが重要です。
(5)答え
 の順に進めるとよいことを、問題解決活動に即して体験させる。
(小島 宏:1942年生まれ 東京都国公立小学校教師、指導主事、小学校長を経て教育調査研究所評議員)

 

 

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授業で子どもが発表してくれないとき、簡単に発表するようになるにはどうすればよいか

 授業で子どもが発表してくれないことがある。
 教材研究もバッチリやったはずなのになぜか発言が低調である。
 出てくる発言は紋切り型でおもしろくない。
 こうした場合を打開する方法を東井義雄は「村を育てる学力」で次のように書いている。
 子どもが発表をしない原因には、いろいろな場合があるが、発表する事柄が用意されておらず、整理されていないという場合がずい分多い。
 そういう子どもには、発表のための考えを書いた学習帳(ノート)を使用されねばならない。
 例えば、指名し・発表したときに考えを書いたノートを見て
(1)ノートを朗読する
(2)ノートに書いてある文章を話すように読む
(3)ノートに書いてある事柄の要点を話す
等の段階にわけて、ノートを活用していけば、話す力も、目に見えて育ってくるものである。
 私は、はじめてこの文章を読んだとき「目からうろこ」であった。
 それまで教室での発言・発表といえば、教師の発問に挙手させ、その中から当てていく以外に考えられなかったからである。
 この挙手・指名方式では、子どもの発表前の発言指導が全くできなかった。
 ところが、東井氏の方法では、発問と発言・発表の間に「考えをノート書く」というステップを加えている。
 そうすることで、それまでは指導・援助がむずかしかった子どもの考えを「準備したり、整理をしたり」ということができるようになったのである。
 その書かれたノートの文に対して教師である私が指導を加えることができる。
 こうして一度「自分の考えをノートに書く」作業さえしてしまえば、指名・発表することは、ごく簡単なことになったのである。
(上條晴夫:1957年山梨県生まれ、小学校教師、児童ノンフィクション作家、教育ライターを経て東北福祉大学教授。「授業づくりネットワーク」理事長(2000~2013年) 、学習ゲーム研究会代表、お笑い教師同盟代表)

 

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授業で「疑問発見型学習」(社会科)をおこなうようになった理由とその方法とは

 私は、「疑問発見型学習」に取り組んでいる。
 生徒が主体的に学びに参加するため、生徒の疑問からスタートする授業を行ってみようと思ったことが原点である。
 授業時間の前の休憩時に、生徒に次の授業で行う教科書のページの中で「不思議だなあ」「わからないなあ?」「なぜだろう?」と感じたものを、5つアンダーラインを引かせるように指示を与える。
 授業時間になり教室に入ると、生徒は、仲間と相談しながら、ラインマーカーで教科書に線を引いている。
 ここが、学びの構えづくりの第一歩である。
 次に、私はそれぞれのラインが引いてある箇所を確認しながら、班(5~6人)で、さらに5つ程度に絞らせる。
 このディスカッションによって、生徒自身の手で解決できる疑問は、話し合いの中で淘汰されていく。
 そして、各班から出された疑問を、黒板に書きながら、その疑問を中心に授業を展開していくのだ。
 たとえば、社会科の黒船来航の授業では
「ペリーは、何日滞在したのか?」
「日本人は、臆病で逃げ惑う人だけだったのか?」
「逃げるとしたらどこに逃げだしたのか」
「ペリーは日本語を話せたのか?」
 などの疑問が出された。
「疑問発見型学習」は、生徒の疑問が発見されなければ、授業は進まない。
 だが、毎回毎回、全ての授業でこの指導法を取り入れることではない。
 生徒がマンネリ化していく時期や、生徒にとって関心をもたせにくい題材のときに、この手法を取り入れていくのである。
「学びの構え」をつくるポイントは、教室環境と同様、教師が黙っていても自然と生徒が「せざるを得ない」という状況をつくることである。
(高橋晋也:山形県公立中学校教頭)

 

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授業で、子どもはなぜつまずくのか、どうすれば防げるか

 子どもは教室で毎日、これまでに出会ったこともない難しい問題に直面します。
 だからつまずいてしまうのは当然のことなのです。
 教室を「間違えるところ」にするのではなく、一生懸命に工夫して、もし間違えたらその「間違いを乗り越えるところにする」ことであると思います。
 子どもがつまずくのは、つぎのような原因があります。
(1)「自力解決」の機会を与えられない
 子どもにつまずきを起こさせまいとして、お膳立てをしてこと細かに授業を展開することがあります。
 そうした授業をすると、問題を解き始めたときには、多くの子どもはどのようにしたらよいか分かっていて、答えを書くのみとなっている。
 このような授業では、自分で考える、工夫するという機会が奪われるので、考えることが苦手、理解が曖昧という傾向が強くなる。
(2)難しいからと「冒険」をさせない
 これでは、既習事項を活用して、新しい問題を解決する能力はいつまでたっても身につかない。
(3)難しいことをさせ過ぎる
(4)「書き方が乱暴」、「不正確」な処理
 数字の書き方が乱暴なために見間違えによる計算ミス。
 作業活動がいい加減なために結果を間違える。
 手順にしたがって、ていねいに、正確に処理するという技能や態度を育てることが、つまずきを防ぐことになる。
(5)「うっかり」
 注意力が散漫で、「うっかりミス」というつまずきである。
 教師が注意を喚起し、自覚させない限りなくならない。
(6)「既習事項」の理解と定着が不足
 つまずきの多くは既習事項、つまりすでに学習した知識、技能、考え方の理解、習熟、活用が不十分なために、うまく進められないつまずきである。
 知識は、意味の理解をしたうえで、実際に活用しながら覚え、理解を深めていくことが重要である。
 技能は、原理が分かり、処理するやり方を理解したうえで習熟させる。
 そして、問題解決をすることに技能を活用させることによって維持し、いっそう向上させるようにしていくようにする。
(7)「既有経験」の不足
 子どもの数える、比べる、分解するといった実体験の不足が納得につながらないために、つまずきとなって表れてくることがある。
 豊かな生活体験は算数学習の基礎になっている。
 算数活動を通して、事実をもとにして考え、考えたことを事実によって証明することの不足。
 問題解決学習の体験等の不足によるものである。
(8)心理的圧迫感
 みんなの前で失敗した恥ずかしい体験が、取り組みや発表をしないといった「閉じこもり」というつまずきの形をとらせることがある。
 つまずきを恐れない、温かい学級づくりの援助をする。
(小島 宏:1942年生まれ 東京都国公立小学校教師、指導主事、小学校長を経て教育調査研究所評議員)

 

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授業中の「脱線話」が学びのきっかけになる

 溝邊和成教授は小学校時代から、理科の授業中の「脱線話」が好きでした。
 担任の先生が当時話題になっているサイエンスを熱く語ってくれたからです。
 今思えば、好きだった理由は、自分で何となくしか理解できていないサイエンスのホットな話題について、わかりやすく解説してもらっていたからでしょう。
 お話を聞いた後も、友だちと続きを話をしたり、家に帰って調べてみたりしたことがあります。
 話を聞いていたとき、頭の中で想像がどんどん膨らみ、明るい未来が予見されるようで、とてもハッピーな気持ちになっていたことが思い出されます。
 例えば、人類が月に到着した話を聞いたとき、とても刺激を受けました。深く心に刻み込まれています。
 こうした経験は、その知識を単に受け入れるだけでなく、他の事象を見ても、そのちがいを探そうとしたり、新しく学んだ内容をその話に関連付けようとしたりすることにつながるようです。
「学びは、知識の組み替えである」とよく言われるように、教室での「お話」が契機となって、子どもの頭の中では、どんどん知識の組み替え作業が起きているのです。
 さらに、新たな事物・現象を受け入れる準備もなされているようです。物を引っ掛けるフックのようなものが、いくつもできていく感じです。
 科学に関する知識の理解や能力向上において「お話」をしたり「お話」を聞いたりする学びのきっかけがあってもいいのではないでしょうか。
 たとえば、天気の話で「冬は西高東低って?」どういうことでしょうか。
 冬の典型的な気圧配置は「西高東低」です。
 どういう意味かというと、冬はシベリアに高気圧が発生し、太平洋に低気圧が発生するという意味です。なぜ、こうなるのでしょうか?
 さて、皆さんは夏のプールで次のような経験はありませんか。
 裸足でプールサイドを歩いたら、足の裏がやけどしそうになった。
 そこであわててプールに飛び込んだら、水はヒンヤリしていて冷たかった。
 まさにこの水とコンクリートのちがいが「西高東低」を生んでいるのです。
 つまり、陸は暖まりやすく冷めやすい、海は暖まりにくく冷めにくいのです。
 冬は海に比べて陸はどんどん冷えていきます。
 陸の上の空気まで冷やされ、シベリアには凝縮した(=重たい)冷たい空気のかたまり(高気圧)ができます。
 それに比べ、太平洋は海水があまり冷えず、海上の空気も温かいまま(低気圧)になっています。
 暖かい空気は膨張し、軽いので、上昇気流になります。
 シベリアから冷たい空気が日本に向かって流れ込んでくることになります。これが冬なのです。
 テレビの天気予報などを見ていると、意味がわからないこともあると思います。
 どういう意味だろうと考えることが、楽しさを増やすことにつながります。
「ほお、そうなんだ」と気づくことが楽しいのです。
 レアメタルの話をします。
 レアメタルは最近のニュースなどでよく耳にします。
 レア=まれな、メタル=金属ということから、レアメタルは希少金属のことです。
 たくさん使われている鉄や銅、アルミニュウムなどの金属はベースメタルあるいはコモンメタルと呼ばれています。
 レアメタルは、ノートパソコンなどのIT関連や自動車部品など、私たちの身の回りにある電化製品には、これがよく使われています。
 種類は、リチウム、チタン、クロム、コバルト、セシウム、ネオジムなど60種類以上になると言われています。
 例えば、ノートパソコンの液晶ディスプレイには「透明電極」が使われています。
 これには、酸化インジウムスズが使われていますが、インジウムはレアメタルです。
 また、電源にリチウムを使った電池がよく使われています。それにハードディスクにネオジムが使用されたりします。
 自動車の表面のコーティングにチタンが使われたり、排気ガスの浄化装置に白金、パラジウムなどが使われたりします。
 その他、ニッケル(ステンレス鋼、メッキなど)、ゲルマニウム(光ファイバーなど)、ガリウム(発光ダイオードなど)、タングステン(超硬合金など)、セシウム(原子時計など)もよく使われています。
 日本のレアメタル製造技術は世界トップといえますが、問題点は、これらの金属は存在量が少なく、採掘、精錬コストが高いことです。
 さらに、産地が偏在しています。
 例えば、タングステンは、中国だけで90%の埋蔵量があり、パラジウムは、南アフリカ、中国、ロシアで100%近くになります。
 このような点から入手困難で、定供給やリサイクル技術の確保が課題だと言えます。
(溝邊和成:1957年生まれ 西宮市公立小学校教師、神戸大学附属明石小学校教師、広島大学講師、甲南女子大学教授を経て兵庫教育大学教授。専門は小学校理科・生活科・総合学習の実践論・カリキュラム論)
(内山裕之:1952年兵庫県生まれ、西宮市立中学校教師、神戸大学附属中学校教師などを経て近大姫路大学教授)

 

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教師が子どもたちに、上手に話をするようになるには、どのようにすればよいか

 私が新任の教師だったころ同じ学校に青木という生物の先生がおられた。
 子どもたちに慕われている人気ナンバーワンの教師であった。
 生物室の前を通ると、青木先生の声が聞こえてくる。
 その話し方がすばらしいのである。
 説明するときはゆっくりとわかりやすく、発問もわかりやすく、そして何より子どもに本気で語りかけている。
 子どもの発言にもきちんと対応して、子どものことばを深く受け止めている。
 誠実に子どもと向き合い、子どもをくるみこむような優しい話し方である。
 この話し方に接していたら、子どもたちは聞かざるを得ないし、好きになるのは当然だと思われた。
 むろん、学習の成果も上がるはずである。
 のちに私は、教師の話し方について研究するようになったが、その出発点はここである。
 また、みんなに話しかけているのに、
「子どもは自分一人に話されているように感じる話し方」
 を教師の話し方の究極の姿として、私は思い描いた。
 それはこの青木先生の話のイメージをことばで表したものである。
 そこには、ていねいさ、優しさ、そして何より子どもに対する誠実さがあふれていた。
 学習を進めるのは教師の声である。
 教師の声がきちんと届かないと学習が成立しにくい。
 教師の声は最重要な教具であるといえる。
 子どもは明るく元気な教師が好きである。
 教師の声が明るく弾んだ感じかどうかは、学習に大きな影響を与える。
 野地潤家さんは、教師の話し方のベースは真心のこもった話法であると述べている。
 子どもたちの心が清められ、その苦悩が救われてくものがある。
 野地さんは教師の話し方の本質は「救いの話法」であると示された。
 この本質が根底にあってこそ、教師の話し言葉が子どもの言葉の育ちに機能するのだということが了解される。
 教師の話し方を分析する視点は
(1)態度
 明るい、にこやかである、落ち着いている、誠実である。
(2)発音・発声
 口がきちんと開いている、楽に発声している、声が高すぎない、小さすぎない、大きすぎない。
(3)速さ・間
 速すぎない、遅すぎない。
(4)発問・指示・説明
 明晰さは、学習そのものの成否に影響する。
(5)助言・対応
 助言や子どもへの対応の的確さは、人間関係を形成する。
(三浦和尚:1952年広島市生まれ、広島大学附属中学校・高校教師を経て愛媛大学教授・附属小学校 校長(併任)、愛媛大学教育学部長・大学院教育学研究科長)

 

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怒った顔では人は話を聞いてくれない

 私の知人(宗教家で大学講師)が、ある人から、
 「あんたは、あまりにも話が下手やから、話し方教室へ行ったら」
 と言われて、話し方教室へ勉強しに行かれました。

 大学で講義をしている時に、なかなか学生が聞いてくれなかったことがきっかけです。
 そこで得た結論が「笑顔」だというのです。
 話し方教室で勉強しているとき、自分では素晴らしい話ができたと思ったのに、講師の先生から「0点」と言われたそうです。
 なぜかと聞くと、
 「怒ったような顔で話していましたよ。そんな顔で話して相手は聞いてくれますか。まず顔から変えなさい」
 と言われたのです。
 それで、知人はトイレに行った時に、手洗いの所にある鏡を見ながら、笑顔を作る練習を続けられました。
 それによって、感情のコントロールもうまくできるようになったと言われるのです。
 トイレに行ったときに、怒っていたり、悲しんでいたり、落ち込んでいたりすると、なかなか笑顔がつくれません。笑顔が引きつってしまいます。
 そのとき、その知人は気づかれたそうです。
 笑顔をつくるためには、気持ちを切り替えなければならないんだ、と。
 そこで、今度は気持ちを切り替える練習をするようになったそうです。
 その結果、どんな嫌なことがあっても、誰かが来られたら気分を切り替えて、自然と笑顔をつくることができるようになったというのです。
 これは、子育てにもあてはまる大切な教えだと思います。
 子どもが家に帰ってきた時、お母さんは怒っていたり、落ち込んでいる日もあるかもしれません。
 しかし、ぜひ気持ちを切り替えて、笑顔をつくって接していただきたい。
 子どもにとって、お母さんの笑顔は最高なのではないかと思います。
 話し方教室の講師の方は、人間は話している内容の3割くらいしか聞いていないものだ、と言われました。
 あとの7割は話している人の笑顔や雰囲気で感じたりしているものだというのです。
 説得力も理論も大切ですが、笑顔や人間性、雰囲気が大事ですね。
(門川大作:1950年京都市生まれ、京都市教育委員会に就職し、働きながら大学を卒業し、教育次長、京都市教育長に就任し、中央教育審議会委員、教育再生会議委員を務めた。2007年教育長を辞任し、京都市長に当選した)

 

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授業中の子どもたちのおしゃべりのなくし方

 授業中、おしゃべりをする子がどの学級にもいる。
 このおしゃべりにつられて学級全体がざわざわして落ち着きがなくなっていく。
 こんなとき「おしゃべりをやめなさい」と注意しても、一瞬は静かになるものの、しばらくするとまたおしゃべりが始まる。
 そこで、さらに声を荒げて「おしゃべりをやめなさい! 何回言ったらわかるんですか」と怒鳴ってしまうことになる。
 しかし、あまり効果がない。威圧的な力によって静かにさせているだけである。
 学級の子どもたちに静かにする努力を励ましたり、支援したりするようにすることが大切である。
 例えば、学級全体がざわざわしているときは、その中でも、ましな状態はどこかを捜して、教師は班やグループや列を単位にほめる。
「3班は、誰もおしゃべりをしていません。さすがです」と言う。
 このほめ言葉を聞いて、おしゃべりが減ってくると教師はすかさず「2班と5班もおしゃべりがなくなりました」とほめる。
 このように次々とほめていくと、おしゃべりがなくなっていく。
 おしゃべりをなくそうとするとき、その原因を見つけることである。
(1)勉強がわからないため
 勉強がわかるような手だてを講じれば、おしゃべりはなくなっていく。
(2)友だちとの低い友情関係のため
 近くの席にいる子どもたちの力を借りて、注意し合うようにすれば、おしゃべりはなくなっていく。
 あるいは、生活班や学習班を使う。
 おしゃべりする子のとなりに班長がすわって、おしゃべりが始まったら、すはやく肩や腕を軽くつついたり、小さな声をかけたりして注意する。
 班のみんなで注意し合うようにすると、もっと効果的である。
(3)教師への反抗から
 その子が持っている不満や思いをさらけ出させ、その子の側に立って共感的に理解してやるような努力を続ければ、おしゃべりはなくなっていく。
(加藤辰雄:1951年愛知県生まれ、名古屋市立小学校教師退職後は、愛知県立大学非常勤講師。「読み」の授業研究会運営委員)

 

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求められる優れた英語教師とは、教材準備など、どのように工夫すればよいか

 英語の教師は、他の教科と比べて、自分の教科の専門性に対する自信が低いと言われている。
 特に、英語の資格試験の成績などを具体的にあげて、望ましい教師像について語られることも多い。
 もちろん、そのような資質が備わっていることが望ましいが、誰もが皆、最初からその備えができているわけではない。
 まだ英語力に自信が持てないままの教師も多いであろう。
 大事なことは、現在、自分の資質向上に向けて努力をしているかどうかである。
 ラジオの英会話番組を聞いたり、英字新聞を読んだり、インターネットで英語にふれるという意識的な努力を継続しているなら、積極的にその英語を教室で使えばよい。
 遠からず、自分の英語力が伸びていることを実感するであろう。
 また、どんなに自信がなくとも、授業の前の日までに、教科書付属のCDを何回も聞いて声を出し、スムーズにまたCDに似た音声が出せるように努力する姿勢があれば、十分授業に臨むことができるであろうし、このような取り組みの姿勢こそが一番大きな資質と言える。
 指導する単元にあわせて、その文化的背景を調べたり、言語材料を学習者に説明するために自分自身がより深い次元で理解しようとする試みを続けることは不可欠である。
 例えばpleaseを使った表現は日本人が最も間違いを犯しやすいものである。
「聞き手の利益になることを提示する場合にはpleaseは用いない」ということを理解し、道を聞いてきた相手に対して、「Turn right at the next signal」と答えるのはよいが、これにpleaseをつけると不自然になる、と説明できればよいのである。
 このように教師の深い理解こそが、学習者への説明をより簡潔でわかりやすいものにする。
 また言語習得理論など日々の授業に直接関連しないようなものも、長期休業等を利用して学んでいくことが望まれる。
 教師は「授業者」としてよりも、むしろ「促進者」(facilitator)あるいは「媒介者」(mediator)としての役割が重視されてきている。
 これは、教師が知識を学習者に一方的に伝達するということからの変化を示している。
 教師が与える英語のインプットは別として、教室では学習者の方が教師よりも発話量が多いことが望ましい。
 そのためには、教師が授業の前に入念に準備をし、指示が明確で、学習者が実際に動きやすいようなタスク(課せられた仕事)を豊富に取り入れることである。
 そのうえで、教師は教室内をまわりながら側面から手助けをすることで可能になる。
 教師の役割としてはさらに、学習の良き「パートナー」(partner)であり、また学習を導く「指導者」(coach/trainer)であり、実際に英語を用いて見せるという点ではときに「演技者」(actor/performer)ともなる。
 よい英語教師とは、上記の役割をときと場に応じて柔軟に使いわけることのできる教師といえる。そして具体的には
(1)生徒に常に共感的態度で接し、誰をも受け入れることのできる「懐の深さ」
(2)生徒の実態や要求に常に耳を傾ける「反省的態度」
(3)授業改善を怠らず、的確な指導・助言をめざす「プロとしての自覚」
(4)言語を教える者として、積極的に人とコミュニケーションをとったり、英語があふれ出てくる「コミュニケーターとしての適性」
 を兼ね備えていることが求められる。
 しかし、この要件をすべて持ち合わせていなくても、これをめざし努力している教師はすべてよい教師と言える。
 また、誰もが同じ紋切り型の「よい英語教師」となる必要はなく、一人ひとり、人間としての魅力を生かすことができればよいのである。
 授業では「やさしいことを英語で、難しいことを日本語で」話せばよいのであるから、教師が自分自身の英語力を過度に心配する必要はない。
 しかしながら、この「やさしいことを、簡単な英語で説明する」ということほど難しいことはない。
 まずは、授業の冒頭に英語の挨拶と、今日の出来事などを英語で話し、本文の前にはオーラル・イントロダクションを入れる。
 そして、プリントを列ごとに提出させる際は、“Pass the papers forward”、ペア活動のためにお互い向き合って起立させる際は“Stand face to face with your partner(s)”などの教室英語を積極的にとりいれたい。
 このような表現は身振りとともに用いれば十分に推測ができ、活動のたびに用いれば次第に慣れてくる。
 そして、このような表現を英語で散りばめるだけで、予想以上に授業の大部分が英語で行われることになる。
 また、これらの決まり文句から、いつでも新たな英語が飛び出せる雰囲気が生じるのである。
 相手に話しかけるときには、常に伝わりやすいように工夫する配慮が必要である。
 これは、教師にとっても学習者にとっても外国語である英語を用いるとなれば、なおさらである。
 まだ十分に目標言語を使うことのできない学習者を対象とする場合は、次のような工夫が必要である。
(1)複文よりも単文でつなげるなど、できるだけ負担の少ない文構造を用いる。
例えば、What do you think of the watch he bought yesterday? を He bought a watch yesterday. What do you think of it? にするなど。
(2)未知語が入らないようにするなど、学習者の語彙量も考慮する。
(3)ときおり、身振りや手振り、あるいはYes、Noなどで答えさせ、学習者の反応をみる。
(4)学習者の表情をみながら、理解に合わせてゆったりとした速度で話す。
(5)口を大きくあけ、はっきりと話し、大事な情報が入っている部分などは強くゆっくり発音したり、イントネーションを変える。
(6)一度話しただけで学習者が理解したと考えず、パラフレーズするなど、落ちこぼれないような工夫をこらす。
 例えば、She didn’t allow him to buy the toy. She didn’t let him buy the toy.など。
(7)学習者が母語で既に知っているようなことがらも話の中に織り込み、背景知識を活用する。
 英語のような積み重ねが必要な教科においては、前の時間までに指導した内容を学習者が把握しているかどうかが問題となる。
 教師はえてして、学習者の能力が直線的に伸びることを期待するが、もちろん実態はそうではない。
 我々は学習した内容を時間の経過とともに、徐々に忘れていくのである。
 忘却曲線によれば、学習した直後の記憶量が最も大きく、その後短時間の間に記憶量は急降下し、その後は徐々にゆるやかに降下線を描いていく。
 したがって教師は、学習者が内容を完全に忘れる前に、常に復習の機会をもうけ、短時間の学習で高い記憶を維持できるように努めなければならない。
 さらに、グループにまとめて学習する体制化(organization)や、イメージとともに覚える精緻化(elaboration)など、学習内容を長く記憶にとどめるような方策を常に考えることが肝心である。
 また、学習の結果を生徒に知らせることは有効であり、常に励ましとともにティードバックを与えることが大切である。
 特に英語の指導においては、意思伝達をより重視し、細かい誤りに目をつぶる場合があるが、一通り会話が終わった後で、その指導の機会を逸しないことが大事である。
 教室での指導は、一対一で接する場合とは異なる配慮が必要となる。
 子ども一人とやりとりする場合、まだ指導に慣れない教師の場合、机の前まで近づいていって話をしているのをみかけることがある。自信がなく声を出せない子どもに対するときは、有効な場合もあろう。
 しかし、残りの多くの子どもたちはどうであろうか。自分と関係のない活動と気がゆるんでしまわないだろうか。
 常に子どもたち一人ひとりに適度な緊張感を持たせるためには、次のような工夫が求められる。
(1)発問のあと、指名するまで質問をくり返すなどして、全員に考えさせる。
(2)一人が発した質問や意見を教師が自分の言葉でまとめ、教室全体に投げかける。
(3)英語のやりとりの際は、一人が答えた正解や英文をクラス全体で復唱する。
(4)ペアワークやグループワークを活用して、個々の発話量を多くする。
(5)人数が多いことを利用して、条件に当てはまる人を捜すなどのタスクを用いる。
(6)座席表をコピーしたものを用意して指名した子どもをチェックするなど、発言する子どもが偏らないように心がける。
 授業前の準備として教科書の言語材料をチェックし、分からないところがなくなっても、それで教材研究が終わったことにはならない。
 教える側の準備はそこから始まる。どのような例文を用い、どんな言葉で説明をしたら分かりやすいのか、また、どこで生徒がつまずきやすいのかなどを事前に予測し、その解決策なども考えることが求められる。
 また、研究会や公開授業には積極的に参加し、英語教育雑誌やインターネットの関連ウェブサイトにも目を通す日々の研鑽が求められる。
 しかしながら一番望ましいのは、同じ学年を指導している教師集団がいる場合は、お互いに授業を見せ合ったり、共同で教材を作成したり、指導法について意見を交わすことである。
 さらに、最低でも学期毎に一度は、自分の授業に対する評価を生徒に求める必要がある。その際、それが単なる教師へのお世辞や中傷にならないように、
(1)評価する項目を細かく分け
(2)必ず「よい面を3つ、改善して欲しい面を3つ」あげるようにする
(3)授業の共同作成者として、生徒に具体的な改善方法を書かせる
(4)率直な感想を書けるように無記名にする
(5)その評価をただ自分の机にしまわずに、それに対する自分のフィードバックなども率直に交えてプリントして生徒に返す
(卯城祐司:1958年北海道旭川市出身、北海道公立高校教師、北海道教育大学助教授を経て筑波大学教授。全国英語教育学会会長,小学校英語教育学会会長)

 

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授業で学級をつくるには、どうすればよいか

 授業で学級をつくるとは、授業を通して子どもたちとの信頼関係を築くということです。
 たとえば、授業の中で「間違った発言」があった時に担任がどのような姿勢を示すかが、その子どもとの信頼関係をつくるうえで、大きく影響します。
 肯定的なまなざしや、発言が必要であり、その発言を授業の深化につなげることのできる「授業力」を身につけることも求められます。
 そして、「間違い」発言に“笑い”や“やゆ”が生じた場合、素早く反応し、その問題点を指摘しなければなりません。
 また「課題をかかえる子どもを中心にした学級づくり」にとっても、授業は学級づくりと密接につながってきます。
 彼ら念頭において「子どもの興味を引き出す」教材を準備し、授業への参加を可能にする授業スタイルを考えます。
 彼らに発問し、その発言を授業の深化につなげていくようにすることが大切なのです。
 その一方で、彼らとの話し込みなどで、自分の学習に対する姿勢を見つめさせていきます。
 彼らの将来への希望とも合わせて学習にとりくむ気持ちを引き出し、その“決意”を学級に明らかにする取り組みが必要です。
 次に、仲間づくりでは授業においても、
「お互いの違いを認め合える」
「ありのままの自分でいられる居場所がある」
 という視点が必要です。
 授業において、子どもたちがさまざまな意見を出し合います。
 そのことがお互いに響き合い「そうかァ」、「なるほど」といったように理解が深まります。
 新しい発見があるような教材や授業スタイルが工夫されることが、
「お互いの違いを認め合う」
 という学級づくりにつながっていくのです。
(磯野雅治:1947年京都市生まれ、大阪府公立中学校社会科教師。2008年定年退職。学級づくり交流センターるるる塾を主宰)

 

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教師が「話せばわかる子ども」なら、子どもは問題を起こさない

 これまでの教師は、子どもに対して淡々とつきあうことができなかったんでしょうね。
 「なんとかしてやろう」「話せばわかる」で、やってきたんじゃないかな。
 だけど「話せばわかる子」なら、問題は起こさんと思うわけ。
 脅してもダメなことも多いし、口でいくらいってもダメなら、現実にやっていかなきゃいけないこともあるんです。
 そういう子どもたちをいままで受け持ってきて思うのは「毎日いっしょに暮らしていれば、お互いにわかってくる」ということですね。
 「こいつは、こういう子だ」、「この先生は、こういう先生だ」と慣れてくる。
 生活の慣れって、大きいですよ。
 生活していると、時間が解決してくれることもあるんです。
 しばらく我慢してバトルしていると、子どもは変わっていくことがある。
 「この子は忘れものが多いけど、どうしたらいいか」
 と、叱ったり悩んだりしているうちに、いつのまにか忘れものをしなくなったりね。
 根本的な解決にはならないし、即効性もないけど、しんどい時間を共有することで、物事が進むことはある。
 子どもって、確実に育っていくものだから。
 もちろん、万事、それで解決できるわけじゃないですよ。
 子どもの育ってきた歴史や気質の違いもあるからね。
 「こうすれば必ずうまくいく」なんてノウハウはない。
 教師にはマニュアルに頼るな」といいたいですね。
(岡崎 勝:1952年生まれ 名古屋市で40年以上小学校教師。定年後は非常勤講師。フリースクール「アーレの樹」理事、「お・は(ジャパンマシニスト社)」編集人、「おそい・はやい・ひくい・たかい」編集人)

 

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親が楽しいことは、子どもも楽しいと感じる、子どもに本を読み聞かせるコツとは

 親が楽しいことは子どもも楽しいと感じるものです。
 楽しみは気分の持ちよう、発想の転換でいくらでも広げられるのです。
 家事が楽しければ主婦業は苦痛なはずはない。
 料理することが楽しければ、自然に子どもにおいしいものを食べさせようとするでしょう。
 それを、子どものためと難行苦行で料理をすれば、その「努力」の分だけ、子どもは楽しみを離れて悲しむことになってしまいます。
 楽しい顔をして作業をしていると「楽しそうなことなら自分もしてみたい」と子どもも思うようになります。
 料理の好きな母親は手づくりのお菓子を食べさせたりします。
 親が、子どもを散歩に連れて行ったり、歌を歌ってやったり、絵本を読んでやったりと、さまざまな可愛がり方があります。
 私は、
 「何をするときでも苦しそうな顔をせず、楽しそうに笑っていなさい」
 と母親にアドバイスしています。
 苦痛に満ちた顔で接する親を見て育った子どもは、親が楽しみながら育てた子どもの幸せにとうてい追いつけないことになります。
 親が子どもにじょうずに読み聞かせるコツはなんでしょうか。
 語彙が豊富な子どもはみな本好きです。
 本好きな子どもの親は、決まって朗読がじょうずです。
 朗読がじょうずな親に本を読んでもらって育った子どもは、そうでない親に読んでもらった子どもより、理解力も高く、想像力も豊かです。
 どうしてでしょう。それはもちろん、じょうずな朗読は意味がわかりやすいからです。
 では、どういう読み方が子どもにとって、わかりやすいのでしょうか。
 まずはスピードです。早すぎても、遅すぎてもいけません。
 子どもに話しかけるとき、あるいは外国語で話すとき、人はスピードを上げるでしょうか。決して上げません。
 ゆっくり話してくれれば英語もよくわかるのに・・・・・という経験のある人は多いでしょう。
 子どもは日本語を学び始めて、ごく日の浅い外国人と同じです。
 知らない単語もたくさんあります。
 大人が推理小説を黙読するようなスピードで子どもが理解できるわけがありません。
 次に、朗読には表情もなければなりません。
 白雪姫と魔法使いのお婆さんが、同じ声ではへんでしょう。声の高さも、話し方も違ったものでなければなりません。
 そして発音は正確でなければなりません。
 「ハウ・ドゥ・ユウ・ライク・・・・・?」と明瞭な発音で聞かれたら理解できる質問も、
 「ハル・ユ・ライ・・・・・?」といわれたらお手上げという英語検定二級保持者だっているのですから。
 幼児に読み聞かせをするときは、一語一語をはっきりと読まなければなりません。
 子どもというのは、読んでいる途中でどんどん口をはさみます。
 うるさがって「読んでいるところでしょ!」などと叱らないことです。
 ときには、質問してくるときもあります。
 そういうときに、言葉をきつくして、
 「だから、お爺さんとお婆さんが、いたでしょう!」などと言ってはなりません。
 噛んで含めるように納得させてから、また初めから読んでやるのです。
 むずかしい言い回しだと思うときには、その意味を教えたあとで、その4,5行前の切れのいいところから、再び読み直してやります。
 また、感想を途中で話し出す子どももいます。
 そういう場合はしゃべりたいだけしゃべらせて次に進むのです。
 感想をつっこんでしゃべらせるのもいい方法です。
(三石由起子:1954年長野県生まれ、作家。英才教育「三石メソード」を主宰。河合塾の漢文教師の他、ラジオ番組「テレフォン人生相談」の回答者)

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若い教師は、若いというだけで許されることもある、どうすればよいか

 ベテランになっても尊敬されない教師とは「自分のことしか考えていない教師」です。
 自分さえよければ、自分のクラスさえよければ・・・・・と、周りがみえないベテラン教師は尊敬されません。
 しかし、若手教師はそうではありません。
 自分のクラスのことしか目にはいらなくても、それは許されることが多いようです。
 学校内の校務分掌もたいした役目はないし、まだまだみんなの役に立つことはないでしょう。
 だからこそ、この時期に思いきり「自分のクラスだけ」のことをすればいいのです。
 自分のクラスの「学級づくり」に専念します。それが若手教師の役目です。
 私もこの時期には、思いきり「自分勝手」をさせてもらいました。
 思う存分クラスづくりをしました。
 自分のやりたいこと、自分が勉強したいこと、全部やらせてもらいました。
 私はそのとき、みえないところで先輩がフォローをしてくださっていることは全く知りませんでした。保護者の方々にも声をかけていただいたようです。
 新任3年目を過ぎたころから、ようやく周りがみえるようになってきました。
 そのときにやっと先輩のすごさを実感しました。
 ベテラン教師とはこうやって若手を育てるのだ、こうやって学年をまとめていくのだということがわかりました。
 先輩の心の大きさ、視野の広さに敬服しました。
 そしてそのころから、私は自分のクラスだけでなく、学年も、学校も考えるようになっていきました。
 教師の役割にも順番があります。
 新任教師は、まず自分だけの学級づくりを思う存分すればいいでしょう。
 そしてだんだんと経験を積みながら、学年全体や学校全体をみられる力量をつけていき、新任教師をフォローし、その力を伸ばしてやります。
 それが年代別の役割と言えます。
 若手教師は「失敗してもいいから、もっと思いきってやってほしい」ということです。
「冒険するより地道にいこう」というようなことが、何かもの足りなさを感じさせてしまします。
 ならば、遠慮せずに思いきりいきましょう。
「失敗を恐れたらダメ、一番恐れなければならないことは、失敗を恐れて何もしないことです」と、私は思います。
 いくらいい考えでも、思っているだけでは何も変わりません。
 とにかく一歩踏み出して、やってみなければ変わらないのです。その一歩を踏み出す教師にぜひなってほしいものですね。
 いっぱいチャレンジして、いっぱい失敗して、いっぱい泣いて笑ってこそ、いい先生になっていくのですから。
 子どもはそんな前向きな先生を「すてきだな、かっこいいな」とみているのですよ。
「子どもとうまくいかない」「子どもが言うことを聞いてくれない」「授業がうまくいかない」「教師としての自信を失った」・・・・・などと悩むことは誰でもあります。
 そんなとき、どうするか?
 私は先輩から「悩んだときは、とにかく遊べ!」と教わりました。「悩んだら遊ぶ」。
 これは実践した者にしかわからないことですが、遊んでみると不思議に子どもとの距離が縮まり、通い合わせることができなかった心も、なんとなく通じ始めます。
 人間は動くと変わります。汗をかきながら走り回ると、心がスカッとします。
 これを気分転換とか発散と言ったりしますが、特に子どもはこの機能が発達していますから、すぐに元気を出してくれますし、こちらにも心を寄せてくれます。
 さあ、やってみてください。悩んでいるときは「まず遊ぶ!」そこからです。
 初めは、その最初の一歩がなかなか出ませんが「おい、一緒に遊びに行こう!」と大きな声で誘ってやってください。
 つぎのようなとき、子どもと一緒に遊びます。
・子ども同士がけんかをしたとき
・子どもが落ち込んでいるとき
・教師が落ち込んでいるとき
・子どもを叱ったあと
・授業がうまくいかなかったとき
・学校が楽しくないと感じ始めたとき
 こんなとき、子どもと一緒に思いきり遊びます。
 汗をかきます。息がハァーハァー言うまで遊びます。
 きっと変わります。いえ必ず変わります。
 だまされたと思って、一度やってみてください。「悩んだときは、とにかく遊べ!」です。
(仲島正教 1956年生まれ 兵庫県公立小学校教師21年間、指導主事5年間勤務後48歳で退職。2005年より、教育サポーターとして、若手教師対象に「授業づくり」や「学級づくり」等のセミナーや講演活動は全国各地に年間150回。若手教師応援セミナー「元気塾PLUS」代表、尼崎市教育委員会教育委員)

 

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私はどうして子どもを天才児に育てることができたか

 私は兄弟2人を現役で東大理科Ⅲ類(医学部)に現役で入学させて、初めて分かったことがあります。
「自信」(ほめる)・「体力・根性」(スキーを3歳から特訓)を合わせた「勉強体力」を6歳までに身につけさせれば、勉強能力は自分で伸びていくことです。
 そして、この「勉強体力」は母親が一生懸命に子育てれば、自ずと強くすることができます。
 親の学歴は関係ありません。なぜなら今の時代は「塾」に頼るしかないからです。
 ただし、塾や学校選び、環境づくりも母親のつとめです。
 子育てには、流行があってこれという絶対的なものがないと思います。
 親が子どもを「どこまでも信じ」、子どもへの「深い愛情」が必要です。
私がやってきたことの例を示しますと、
1 「音楽」
 赤ちゃんのころから、音楽はクラッシックにこだわらず童謡からポップスまで、穏やかでかわいらしい「ブラームスの子守歌」「迷子の子猫ちゃん」「四季」などをいつも聴かせていました。
 3歳のころは童謡をいっしょに歌いました。
2 「本」
 赤ちゃんがわかっていても、わからなくても絵を見せながら読みました。
「ゼロ歳からの絵本、いないばあ、あーんあーん」等です。
 寝る前は「1~2歳のための幼児の雑誌、おとぎ話(浦島太郎、白雪姫、三匹の子豚等)」の本を必ず読み聞かせました。
 塾が送ってくる1ページに10文字しかない本で本読みを始めました。
 3歳向けの本と音楽を通信教育で「ゲーム感覚」で楽しみました。
 幼稚園の頃は「14ひきのシリーズ、世界名作アニメ絵本」など。
3 「遊び・体力づくり」
 1歳から公園は体を鍛える場所として、ボール蹴り、砂遊び、滑り台等一日のほとんどを過ごしました。
 動物園もよくいきました。
 家で遊べるように滑り台やジャングルジムなど遊び道具を置いてあり夢中で遊んでいました。
 家で2歳前後から鉛筆で「迷路」に線を引いたり、クレオンで塗り絵、いろはカルタで字を覚えました。
 児童館(3~10歳)で日曜大工を、家でのりやハサミをつかって物を作ったりしていました。
 ゲームやテレビは時間を決めてやらせました。
4 「習いごと」
 2歳頃は週2回、体操と水泳、折り紙、お絵かきを習っていました。
 2歳からプレ幼稚園に通わせました。
 3歳でヤマハ教室(1年間)、4歳・5歳で小学校受験塾、小学校4年~高校3年まで塾
5 「食べ物」
 体や知能の発達のために牛乳はたくさん飲みました。
 100%ジュースを飲ませました。
 子どもが挫折する機会は幼稚園から大学まで何回もあります。
 そのとき、親が家にいるときは、絶対にそばにいてあげなければならないと私は思います。
 別に何も言う必要はありません。ただ、そばにいて、小さいころなら抱いてあげたり、黙って見守っている。
 子どもは落ち込んで誰とも話したくないのですから、そのときには何を言っても受け付けませんし、逆効果です。
 子どものほうから話し始めたら、そのときに、一気に励ましてあげました。
 いろんな例をあげて、子どもが元気になるようにし向けるのです。
 私のおすすめは子どもの好きな偉人、あこがれているスポーツマン、芸能人、何でもいいのです。
 彼らの苦労話、ピンチからの逆転話、貧困からのサクセスストーリーなどです。
 その中で、どんな具体的な努力をしたかを話して、子どもにも「自分にもできる」と話すことでした。
 そのために、私は子どもの好きな人物について、本や雑誌、テレビで情報を集めて、感動的なエピソードをいつもチェックしていました。
 子どもにとって、あこがれている人の話はすごくいいですよ。話に耳を傾けてきます。
 そこですかさず頭をフル回転させて、
「○○さんは自分を信じて、ゼロからまたトライしたんだよ」
 などと、自分で自分を取り戻す方向に持っていく力がありそうなエピソードを話してやるのです。
 それは日常でも共通の話題で、大いに盛り上がりましたし、コミュニケーションをとるのに役だったなと思います。
(大友理佐子:1957年神奈川県生まれ、主婦。夫とともに甥の兄弟(姉の息子)を育てる。2007年兄弟を東大理3に現役入学させた)

 

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子育てには間違いはつきものです、間違っても大丈夫、それを認めて直していけばいいのです

 子育てには間違いはつきものです。
 間違ったときは、子どもの発するサインで教えてくれます。
 親がどんなに一生懸命やったところで、親と子は違った人間ですから、親がよかれと思ってやってきたことが、子どもの現実とは、ずれていたということはあるものです。
 そんなとき、子どもたちは、SOSを出すはずです。
 食欲不振、不登校など、子どもが「問題行動」を出すとき、何かがうまくいっていないということを示しています。
 もちろん、問題はすべて発達上のつまずきとは限りません。
 環境に問題がある場合もあるでしょう。
 こんな時には、立ち止まって考えてみましょう。いつもより、気にかけながら、しばらく様子を見るのです。
 親が間違いに気づいたら、それを認めて直していけばいいのです。
 親が自分の欠点を認めて受け入れることが、子どもの欠点を認めて受け入れてあげることにつながるのではないでしょうか。
 家庭で、ぶつかりあい、傷つけ合うことが全くない関係なんてあるでしょうか。
 ないなら、それは表面上の偽りの関係ではないでしょうか。
 子どもを傷つけてしまったら「ごめんね、私が悪かった」と謝りましょう。
 謝ったら親の権威は失墜するでしょうか。そんなことはありません。
 大人が間違えたとき、子どもに謝れば、子どもは自分が間違えたとき、間違いを認め、謝ることを学ぶことができます。
 誰かを傷つけてしまっても、関係を修復することができることを学ぶことができます。
 乳幼児期は人間の人格の土台を作る非常に大切な時です。
 乳幼児期を過ぎてしまったから、もう取り返しがつかないということではありません。
 人間はしなやかで、可能性に満ちた存在です。
 乳幼児期に作るよりも、時間もエネルギーも余分にかかるかも知れませんが、気づいたその時点から作り始めることは可能です。
 今からでも遅くはありません。子ども個性を受け入れましょう。
 どんなささいなことでも、子どもをたくさんほめてあげましょう。
 自己コントロールの弱い子どもなら、子どもの気持ちに共感を寄せましょう。
 行動の限界を伝え、気持ちの表現の仕方を伝えましょう。
 自発性でつまずいたなら、まずは子どもが好きなこと、やりたいことを見つけることを手助けすることが必要かも知れません。
 そして、少しずつ子どもに選ばせてあげましょう。
 子どもに厳しく接しすぎていたとか、逆に、子どもに甘すぎて、限界をきちんと示すことを怠ってきたなど、気づいたならば、さかのぼって、ていねいにやり直ししましょう。
 そんなとき「自分の子育てが失敗だった」「子どもの人生を台無しにした」と自分を責める必要はありません。
 子どもの問題をすべて自分のせいだと思うこともありません。
 間違えたと思えば、いつだってそこからやり直せばよいのです。
 今日からやり方を変えればよいのです。
 そうやって、大人自身も成長してゆけるのです。
(村本 邦子:1961年札幌生まれの鹿児島育ち、教育心理学者、立命館大学教授。新石切りこころのクリニック・心理カウンセラー、女性ライフサイクル研究所所長、花園大学学生相談カウンセラーを経て立命館大学応用人間科学研究科教授。研究分野は臨床心理学、トラウマ心理学、女性学、コミュニティ心理学、平和学、法と心理など)

 

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子どもが「我慢する」ことや「あいさつ」ができません、どうすればよいのでしょうか

 買い物などに行く前に「約束する」のは、我慢の覚悟づくりをすることです。
 そして、叱りつけて我慢させるのではなく、理由をきちんと話して我慢させます。
 頭ごなしに「だめ」ではなく、ほしい気持ちをまずはわかってあげましょう。
 例えば、
 「そうか、これもほしいんだね。ほしい気持ちはよーくわかったよ」
 「いいよって言ってあげたいけど、いいよって言ったらママも約束破りになってしまうから、ママも我慢しよう!」
 「○○ちゃんにも約束破りになってほしくないよ! 我慢できるかな?」
 というように・・・・・。
 子どもとってさまざまな感情を体験することは、子どもの成長に必要なことなのです。
 楽しい体験、寂しい体験、悲しい体験、悔しい体験などが、強い心、優しい心を育てます。
 「子どもの言うがまま」になっているほうが、親は楽なのかもしれません。
 しかし、「子どもの言うがまま」になっていては、大切な経験ができません。
 子どもに我慢させるには、親も強くならないと。
 我慢できる気持ちは急には育たないのです。
 あいさつで大切なことは、気持ちの伝え合いができることです。
 形式的な言葉や態度を求めず、まずは家庭内で気楽に、楽しくあいさつをできるようにしてみましょう。
 子どもに言う前に、まず、お父さんお母さん、保護者の方同士が毎朝あいさつをしているところを見せるところからですね。
 子どもへのよい手本になります。
 また、自分の気持ちや思いが相手に通じ、反応が返ってくると大人も子どもも満足し、積極的になれるものです。
 子どもからの呼びかけには応えるようにしましょう。
 思いのキャッチボールの中から子どものあいさつ心が育っていくと思います。
 家庭内でのあいさつが楽しくできるようになると、除々にご近所の人や親せきの人の声かけにも応じられようになります。
(田邊光子:名古屋市立の中学校・小学校教諭及び幼稚園長 愛知県・名古屋市教育委員会指導主事、名古屋芸術大学を経て名古屋芸術大学名誉教授)

 

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私の教材集めの方法とは

 教師が日常生活で情報を集めるのに2つの型がある。
 一つは、指導の目標や内容のはっきりしている教材あるいは資料の収集である。
 たとえば、詩や俳句を集めるとか、同テーマの文章や新聞の切り抜きを集めるなどである。
 もう一つは、発想のヒントを得るために集めるというものである。
 新聞のコラムに盛られた内容を読み、そこから考えられる要素を自分の生活、体験、知識、教養と関係づけて問題を明確にし、思考の方向性を導きだそうとするものである。
 授業を構想し内容をきめていく元になる素材というべきものである。
 発想をうむための源で、そこから発想しようというのである。
 教師個々の生活のパターンによるが、一般的にはマスコミ(新聞、テレビ、ラジオ)から得るものは多いと思う。
 気になったら集め、切り抜き取っておく。
 あとでひらめいたりすることが出てくるのである。
 保存するとき箱に入れておいて、学期に一度取り出して分類するという方法もある。
 全国各地、いろいろな行事がある。ニュースで取りあげられることもある。参加できることもあろう。
 その地域でしか知らないこと、人々の思いや願いがこめられている。
 それを子どもたちに共有させたいということも出てくる。
 旅は新たな発見があり、出会いがありで、視野が広がる。
 異なる視点のあることを知り、ことばをおぼえ、文化を知る。
 ずれを発見することの大切さを知り、教室に生きてはたらく。
 人の生き方に対しての好奇心である。
 その人の生きてきた道、出合ったいろいろなこと、そこから出ることば(思想のあらわれ)に興味を持つことだ。
 日ごろから人への興味、好奇心を持っていると、授業づくりのヒントになってくる。
 インタビューや教室にきていただいてお話をということも。
 仕事の達人、外国人、身近な先輩など「人」は有力な教材である。
 集めるにしろ、心にとまったものをメモするにしろ、教師の思いや意志がなければ、外界の何かに触れたところで動き出しはしない。
 集めたメモや切り抜きは、それを広げたり、学習者である子どもたちを思いおこしたりしたときに予期せぬ動きを起こす。
 その動きが授業構想につながるのである。
 蓄積されて、それがエネルギーになるのである。
(安居総子:1933年生まれ、35年間中学校国語教師を勤めたあと岐阜大学教授、大正大学教授を歴任した。学習者側に立つ国語教室の運営を通して、国語教育実践理論の研究を進めた)

 

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小学生の保護者が学校に期待することは何か

 保護者が学校に期待は、学習指導よりも生活指導にあるということです。
 子どもが安心して生活できる場であること。
 当たり前のことだが、学校現場はここからスタートしなければならない。
 小学生の保護者が、学校の取り組みや指導で、とくに大切だと思うものは次の通りです。
・いじめ問題や友だち同士のトラブルへの対応
・子どもが人間的に成長するのを助けること
・教科の基礎的な学力をつけること
・学習進度や興味・関心にあった教え方をすること
・保護者が気軽に質問・相談ができること
・教育方針や教育活動の様子を保護者に伝えること
・授業中に騒いだり、立ち歩いたりしない指導
(小泉和義:ベネッセ教育総合研究所・副所長。全国の小学校、中学校、高等学校などの現場を取材し、子どもたちの実態や学校での指導課題を踏まえ、「今」と「これから」の教育に必要なことは何かを発信し続けている)

 

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教師という仕事に失敗は許されませんが、教師に十割バッターはいません、どうすればよいか

 教師に十割バッターはいません。
 教師は完ぺきでなくていいのだと思います。
 プロ野球のバッターは三割打てば一流といわれます。
 逆に考えれば七割は失敗しているということです。
 もっと楽観的にとらえれば、十回のうち七回失敗してもほめてもらえるのです。
 小さな子どもたちを育てていく教師という仕事に失敗は許されません。
 けれど、教師に完ぺきな十割バッターは絶対にいません。
 40年ちかく教師をしてきたものとして、あえて断言しておきます。
 数多くの凡打(失敗)のなかからタイムリー安打をときどき放ち、子どもたちとの向き合い方が自分なりに確立されてくるのだと私は思っています。
 もちろん、凡打のわけを分析し、次の打席に生かす反省はプロである以上求められます。
 そんなときは素直に認め、子どもたちとともに軌道修正していきましょう。
 子どもたちが教師に求める大事なことのひとつが、その柔軟性です。
 「自分らしさ=個性」を素直に出して、子どもたちとともに歩めば、子どもたちのなかにあなたの存在感がきっと広がっていくことでしょう。
(白須富夫:1950年生まれ、元小学校教師。白梅学園大学非常勤講師、児童言語研究会会員)

 

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子どもに寄り添う授業で心と学力を育てるには、どのようにすればよいか

 子どもたちの自己肯定感を高め、悩みを減らすには、優しさがある人間関係をつくり、居心地のよい学級を築き上げることが必要です。
 優しい人間関係を基盤にすると、自己肯定感は向上してきます。
 子どもの言動が優しくなり、豊かな心の芽が出てきなと感じたら、すぐステップアップします。
 授業で「できた」「わかった」という体験を多く積ませるようにします。
 毎日の授業を通して、子どもの成長を見守り、見届けたい。
 そんな思いを持ちながら私は、今日も子どもたちと授業をつくっています。
 子どもたちの悩みを解決しながら、豊かな心、学力を向上させるのも、その大半は授業を通して行うべきだと考えています。
 悩みを抱かえたり、憂うつな気分で一日を過ごしている子がいたとき、私たちは一人ひとりの子どもの思いに真摯に向き合い、考えを十分に認めるような温かい授業をする必要があります。
 そのためには、授業中に子どもの不安を取り除き、安心して学習できる雰囲気づくりをしなくてはいけません。
 安心して学習できる雰囲気は、子どもを学習に集中させていきます。それも自然に。
 授業中に間違いやできなかったことを指摘された子どもの大多数が、その教科を嫌いなる恐れがあります。
 そうならないために「子どもに寄り添う授業」をしなくてはいけないのです。
 できない子の気持ちに学級全員が寄り添うのと同時に、共感的で温かい授業づくりを心掛けなければなりません。
 すると、授業は劇的に変化します。
 まず、間違いを恐れる子どもが激減し、意見がたくさん出されるようになります。
 その後、学習に対する苦手意識をもつ子どもが減り始め、授業中に多様な考えが出されるようになります。
 そして、それぞれについて深く考えていくうちに自然と学力が向上します。
「子どもに寄り添う授業」をすることで「豊かな心と」共に「確かな学力」も育まれていくのです。
 教師の誰でもすぐにできて、授業で一番大切なことは「明るい表情」と「笑顔」です。
「明るい表情」は子どもを元気にします。「笑顔」は子どもを安心させます。これが重要なポイントです。
 教師にこの態度があれば、子どもが間違っても、子どもはリラックスして授業を受けるようになります。
「この先生は間違った意見を言っても笑顔で認めてくれたぞ」とか「先生はいつも明るい表情なので、意見が言いやすいな」と感じさせるだけでよいのです。
 子どもが感じた気持ちは、知らず知らずのうちに教室中に広がっていき、やがて子どもたちは、間違いを恐れずに意見を言い始めるようになります。
 自分の意見が認められることは、子どもたちの達成感や成就感につながり、次の学習が楽しみになるのです。
 これはまさに、プラスの連鎖です。教師の笑顔や明るい表情でプラスの連鎖ができあがる。
 そして、この連鎖は、一旦できあがるとなかなか崩れない。
 話した意見が認められることで自信がつき、また意見を言いたくて仕方なくなるという連鎖が生まれ続けるのです。
 いつのまにか、学習を進める際の大きな障害(間違えることで学習が嫌いになる)も消えてしまいます。
 教師が明るい雰囲気づくりを心がけると、子どもは授業を楽しむようになり、自己肯定感も高くなるということです。
 そして、プラスの連鎖は、子どもたちを知らず知らずのうちに高め、真の力を引き出すようになるのです。
 子どもたちを「間違う」ことの恐怖で委縮させる原因の一つは、教師としての使命感です。
 私たちは教師として「子どもたちを正しい方向へ導かなくてはいけない」という使命感を持っています。
 これは教師として絶対になくしてはいけない使命感です。
 しかし、ときにこの使命感が、子どもを傷つけてしまいます。
「正しい方向へ・・・・・」という使命感が強ければ強いほど、子どもの間違いに対して厳しい態度をとってしまいがちになるからです。
 算数の授業で「7+4=10」と答えた子に対して「それは違うよ」と言わざるを得ません。
 しかし、使命感から間違いを強い口調で指摘してはいませんか。
 悪気があっての言葉ではないはずです。しかし、結果として、子どもの心を傷つける可能性があることを、あなたは知っているはずです。
 間違いを指摘する際の言葉や態度には十分な配慮を心がけたいものです。
 私たち教師の使命感が強ければ強いほど、子どもが学習を進める際のハードル(乗りこえなければ大きな困難)になるかもしれないということを、忘れてはいけません。
 それでは、子どもたちが間違いを恐れずに、自分の意見を自由に言い合える授業をつくるには、どうしたらよいのでしょうか。
 答えは簡単です。子どもの「間違うかもしれない」という緊張感を緩和し、安心して授業に望めるようにすればよいのです。
 そのためには、私たち教師が「きっと、ここがよく理解できていないんだな」「これは難しいだろうな」と、子どもの気持ちをくみ取る態度になることが必要なのです。
 つまり、子どもたちを正しい方向へ導かなければいけないという使命感よりも「子どもに寄り添うことを第一義的な使命」と方向転換すればよいのです。
(熊谷 純:1967年青森県生まれ 青森県公立北小学校教師。基幹学力研究会幹事、算数授業ICT研究会幹事、全国算数授業研究会幹事)

 

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子どもが授業中に立ち歩きし、改善しないときどうすればよいか

 ブリーフセラピー(注)を学んだ教師が問題解決に取り組む例をパロディ風に示します。
 日頃の事例のエッセンスを凝縮したものです。
事例「A君(小学校2年生)は毎日授業中歩き回り、座ったかと思えば隣の子にちょっかいをだしています」
 中堅のB女教師は最初は根気強くA君を叱り諭していました。
 しかし、根気が持続したのは一学期まで。なにしろ毎日毎日、くり返し、くり返しで、もううんざり。
 他の教師に「親との連携を心がけよ」と言われました。
 毎日「親と連携」するため、一日のA君の悪事をすべて母親に電話で「報告」しました。
 しかしA君は、報告を受けた母親から毎日叱られ、ますます落ち着きが無くなっていくのです・・・・・・。
 学校現場において問題への対処がなかなか改善しないケースに対して、うまくいってない問題のパターンが定着することがあります。
 うまくいかないのにどうして、パターンとして定着するのでしょうか?
 それはその方法がほとんどの場合「常識的」で「無難」であり「誰からも責められることはない」ことが多いからです。
 A君が、自分の気持ちをコントロールしたり、友だちとのトラブルを少なくしていくために、どのようにそのパターンを崩していったらよいでしょうか。
 ブリーフセラピーを学んだC教師に相談してみました。
 すると、「連絡帳でよかったことだけ報告してみたらどうですか」とのこと。
 電話ではなく、連絡ノートにして「見ちゃダメだよ」といってA君のランドセルのポケットに入れるのです。
 A君がこっそり見るのは想定内。これなら電話より簡単。
 連絡帳をランドセルに入れ始めて3日目。
 なんだか不思議。A君の表情が心なしか変わってきたような。
 これまでは、いつも私をさけているような様子だったのが、近づいてきてにっこり笑いかけてくるように。
 そういえば、良いところを探すと結構あったのです。
 朝、隣の席の子が落とした筆箱を拾ってあげたとか。
 それに、いつのまにか授業中にうろうろすることも少なくなってきたような気がします。
 もぞもぞし始めたときに、目を合わせてにっこりすれば大丈夫。
 まだまだA君、ガタガタうるさいのですが、大きく変わったのはB教師の気持ち。前のようにうんざりすることはなくなりました。
 このブリーフセラピーの「理論と技法」とは
 くり返し起こっている問題には、必ず「悪循環パターン」が存在します。
 それはその方法がほとんどの場合「常識的」で「無難」であり「誰からもせめられることはない」ことが多いのです。
 これを「偽解決」と呼びます。
 この事例では「連絡の方法」を変え、「?」という対応であってもそれでうまくいっているのなら、続ける。
 常識的で無難な方法であっても、フィットしないなら止めるということなのです。
 この事例で使った技法は「悪循環の切断」でした。
 一言で言うと、ブリーフセラピーを発達障害の対応に用いるポイントとは、問題を「マクロ」にとらえ、その上で「柔軟な対応」をすることなのかもしれません。
(注)ブリーフセラピーは,アメリカの精神科医ミルトン・H・エリクソンが行った治療に関する考え方や技法から発展した心理療法です。「ブリーフ」とは,「短期の」「簡潔な」という意味で,効率的・効果的な援助の在り方を探求するカウンセリングと言えます。
 いくつかのモデルがあります。「解決志向アプローチ」という面接法の主な考え方は,
(1)原因や背景を追及しない
(2)どうすれば解決するかに焦点を当てる
(3)行動(変化)を起こすことで解決につなげる
(若島孔文 :1972年生まれ、東北大学教授。ブリーフセラピー、家族療法、行動療法の専門的トレーニングを受ており、臨床ではそれらを専門として行う)

 

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国語(小学校)「ちいちゃんのかげおくり」の授業

 この作品は、これまで何度も3年生を相手に授業をしていますが、いつもうまくいきます。
 これは悲しい暗く重たいといった印象を受ける作品です。
 この話は、ちいちゃんが亡くなる寸前までは暗く沈んでいます。
 ちいちゃんが最後、昇天してしまうのですが、上に上がったら、きれいなお花畑でお父さん、お母さん、お兄さんが待っている。
 そして笑いながら駆け寄ってくるというラストになっています。
 私は、これは作者・あまんきみこさんの、幼いものへのやさしさだと思うのです。
 あまりにも悲惨な話だから、最後の場面を用意して、子どもたちにホッとさせたかったんじゃないかと。
教師「ちいちゃんとお父さんやお母さん、お兄さんたちはみんな、生きて会えたんですか?」
 という質問をしたらいいと思います。
 そうしたら子どもたちはもう一回考えます。
 いくら明るく描かれていても死後の世界のことです。
 だから本来の意味での明るさ・楽しさではないんですよということが言外にわかると思います。
 お父さんが出征していくことが決まって、みんなでお墓参りに行って、その帰りに家族四人で「かげおくり」というあそびをする場面があります。
 自分たちの影をじっと見つめて、サッと空を見上げるとその影に残像が空に映って見えるのです。(第一章)
 この第一章で
教師「この場面で皆さんが、ちいちゃんかわいそうとか悲しいと思うところに線を引きなさい」
 と言ったら、圧倒的多数の子どもが線を引くのは、お父さんが出征していく場面の、
子どもたち「おとうさんは白いたすきをかたからななめにかけて・・・」というところと、
「“からだのよわいおとうさんまでいくさにいかなければならないなんて”おかあさんがぽつんといったのが、ちいちゃんの耳にはきこえました」というところです。私が、
教師「ここを読んでどうして悲しいと思いましたか」と聞きました。すると、
子どもたち「お父さんは戦争に行ったら死ぬと思う」
 と言います。
子ども「“からだがよわい”と書いてあるから、そんな人が戦争に行くなんて負けてる」
 というわけです。
 重ねて私が、
教師「お父さんは戦争に行くと自分はどうなると思っていますか」と聞くと
子ども「生きて帰りたいけれども帰れない、死ぬことを覚悟している」
 という答えが返ってきました。
教師「じゃ、お父さんが死ぬことを覚悟しているのがわかることば・ことがらが二つあるんです。考えてごらん」と問いました。
子どもたち「先祖の墓参り、ふつうそんなんお盆かお正月にしか行かない」と言います。
 もうひとつは、
子どもたち「お父さんが、“かげおくり”をして影が空に映ったときに、きょうの記念写真だなあと言ったのは、これで四人そろって写真をとることなんてないと思ったから、そう言ったんじゃないか」と。
 それはそうかもしれません。
 このように、子どもが言ったことを教師がうまくすくいあげて、それをもう一回子どもに返して、集中するところはいっしょに考える。
 そういう授業をしていったら子どもたちは楽しいんじゃないでしょうか。
 教科書教材というのは、あくまでも資料のひとつです。
 漢字だけはちゃんと教えておかないといけないでしょうが、教科書の作品ばかりをしなくていいと思います。
 そして、浮いた時間で、やっぱりいろいろな名作を読ませてあげてほしいのです。
 そのことは実は、読書指導につながる国語の授業だと思います。
 あまんきみこさんの「ちいちゃんのかげおくり」をするなら、あまんさんの他のいろんな作品を用意しておかなければなりません。
 勉強したあとに、
教師「いいお話でしたね。あまんさんの作品、他にもこんなのがあるよ」
 と言ったら飛びついて読みます。
 このことの積み上げが、自然に子どもたちを本好きにするのではないかと思います。
 私は読み方の授業の延長線上に読書指導があるんだと考えています。
 教科書にある、いい作品一つで勝負しようなんてことはダメだと思います。
 一つの作品だけにシャカリキになる人に限って、長時間やる傾向があるようです。
 一つの教材を9時間も10時間もかけるのです。私はせいぜい5、6時間でいいと思います。
「くまのこウーフ」などの作者・神沢利子さんは、以前、講演でこんなことを言われていました。
「私たちの書いた作品は、作者の手をいったん離れたら、読み手がどう読んでもいいんです」
「だけど、私たちが書き上げた作品というのは、子どもたちの手に届くときには新鮮なはずです。おすしにたとえたら新鮮なネタです」
「ところが料理人の先生が、ああしたりこうしたりしているうちに、だんだんネタが古くなってしまって、子どもが興味を失ってしまう。そんな授業はしてほしくない」
 私は、これを一つの作品は長い時間かけず、短時間でしてほしいということだと受け取りました。
 私の娘が4年生のときです。2学期のある日、「今、国語で何勉強してるの」と聞いたことがあります。
 そのとき彼女は「今日から『ひとつの花』やねん」と実にうれしそうな顔で答えました。
 それからずいぶんたってから、また同じように「今、国語で何勉強しているるの」と聞いたら、今度はイヤそうな顔をして「まだ『ひとつの花』やねん」と言うのです。
 私はこのことばをいまだに忘れることができません。
 これは神沢さんが講演で言われていたこととピタリと重なります。それ以来、私はいよいよ、そう思うようになりました。
(持田俊介:元大阪府交野市立小学校校長)

 

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今までの教師としての自分を一度、壊してみる

 私は、戦後教育がそのうちに持ってきた、権力者にとって都合のいい「あるべき子ども」論を批判してきたと思っていました。
 しかし、実は私自身がもうひとつの「あるべき子ども・学校・教師」に固執してきたのではないか、と思い当たりました。
 子どもたちの前で、教師である自分の権威性をどこまで否定して生徒と共に生きていけるのか、というのがそれまでの私の命題でした。
 生徒のやりたい放題を目の前にして、私は自分の中の「あるべき子ども像」が打ち砕かれたのです。
 答えの出ない迷路にはまりこむよりも、目の前にいる生徒の現実から始めよう。
 単純かもしれませんが、これが結論でした。
 そのためには今までの自分のアタマとからだを一度こわしてみることが必要なんじゃないか。
 それが私の学校でのサバイバルへの第一歩でした。とても大きな転換でした。
 私の具体的な「自分こわし」の方法を示します。
 その方法は教師の個性によって違いますし、勝手な思い込みもあり、どれが正しいという問題ではないのです。
 大切なのは選んだ方法を地道に続けることと、必要に応じて大胆に変更できるようにしておくことかな、と思います。
 まず、私がやったことは、校内をゆっくり歩くことでした。
 これまでいつ何か起きるんじゃないかと、目が血走り余裕のない動きをしていた私にとってこれが必要だと思いました。
 私はからだが大きいせいか、外見は落ち着いて見られることが多いので、それを利用させてもらおうと思いました。
 もうひとつ。荒れた中学校では教師は運動靴を履くのが常識ですが、ぼくはサンダルを履き続けることにしました。
 ひとつの自己表現ですし、逃げる生徒を追いかけるのには、サンダルが自然のような気がしたのです。
 あとは、ひたすら生徒たちの中に身を置くことをこころがけました。
 同僚と普通に話をするのと同じようにごく普通のトーンで生徒と話をすることでした。
 うまくいったとは思えませんが、荒れている生徒でも、ものを食べている時は穏やかな表情をするという発見がありました。
 ですから一緒に食事をする関係ができれば、こちらの思いをある程度は伝えることができると思いました。
 周りの教師に「弱音を思いっきり吐く」ということを始めました。
「いやなことはみんなでやろう」というのもありました。
 こんなささやかな「自分こわし」を少しずつ始めていきました。
 こんなふうにして、からだの動かし方を変えていきました。
 これまでは、アタマで考えることの多かった私には、とても新鮮なことでした。
 日々教師をしていると「こうあるべきだ」という安易な経験主義に陥ってしまうことがあります。
 学校現場にいるということは、常にリアルタイムの判断が必要とされます。生徒はある状態にずっととどまっているわけではありません。
 日々、刻々移ろいながら、その時々の姿を教師の眼前に現すのです。
 眼前で起きる事態に対して心も身体もリラックスさせ、有効性のある動きをいかに紡ぎ出していくか、そのことをまず考えるのです。たやすいことではありません。
 たとえば、生徒指導について言えば、教師の日々の身体の動かし方、生徒への対応の仕方などのマニュアルの有効期限がとても短くなっています。
 極端に言えば、昨日使えたマニュアルが今日は使えなくなってしまったりします。
 ある教師にとってのマニュアルがほかの教師には使えなかったりします。
 マニュアルといっても、機械を操作する時のマニュアルのようにはいかないのです。
「明日の身体の動かし方」のマニュアルとは、結局、自分を教師という枠の中に閉じ込めない、ということだと私は思っています。
 閉じていく自分を開いていくには、日々自分のありようを腑分けしていくことが大切です。
 そのことが実は「明日の身体の動かし方」のマニュアルとなるのではないでしょうか。
(赤田佳亮:1953年生まれ、元横浜市立中学校教師・組合執行委員)

 

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国語教師に必要とされる能力とは何か

 国語という教科は、ことばでことばを教える教科だから、国語教師に求められるのは、話す力や聞き分けられる力、文章表現力や理解力といったことばに対する感性としての言語感覚、国語力である。
 国語教師に必要とされる能力は
1 ことばを理解し表現する力や豊かな言語感覚を持っている。
2 ことばを仲立ちとして自己開示できる力や、他者を受容できる力がある。
3 教材を媒介に絶えず状況をとらえ、新たな状況を創り出す創造者でなければならない。
4 考えや思いを筋道立てて話したり、人の話や文章を豊かに類推・想像したりできる力がある。
5 聞き手や読み手の理解を深めるような話し方や書き方、子どもたちの心に伝わるような表現力をもっている。
6 授業の質を高める指導者としてのつぎのような能力を備えなければならない。
(1)「気力」:やる気・気配り・根気・勇気といったエネルギー
(2)「知識力」:言葉を理解し表現する力や豊かな言語感覚
(3)「識見」:ものごとの道理をわきまえ、筋道をたてて考え、判断し処理していく力
(4)「度量」:正邪を判断し、美醜を見分け、どこまで言うべきかを見きわめる広い度量
(5)「技術」:子どもたちを動かしていく技術
(6)「品格」:子どもたちを暗黙のうちに感化させ、納得させる人間的魅力
 人間としての教師の姿が学習者である子どもたちの目に映り、言語環境を作りあげ、学習全体に作用して子どもたちを育てあげる。
 それがプラスにもマイナスにも作用する。
 国語科の読むことを指導する教材研究に求められる基本的な態度は、次の3点であると私は考える。
1 文章(作品)の精緻な教材分析
 多くの文章は、国語教材として書かれていない。
 したがって、文章それ自体の価値とそれに内在する教育的な価値(国語科の教育目標・内容の具現化に資する)とを見いだすことが求められる。
 教育的な価値を見いだしたときにはじめて、文章は教材として位置づけられる。
 これまでは、「何」が書かれているかという内容に重きをおく傾向がみられたが、これからは「どのように」書かれているかという文章表現や表現方法、叙述のあり方を明らかにすることが重視される。
 つまり、作品を読み味わうだけでなく、作品の読み解き方や文章中の表現・語句の働きに着目させることが求められるからである。
2 文章(作品)と学習者とのかかわりの確認
 取り上げたい文章(作品)が生徒にとって、どのような意味をもつか、生徒がそれらの文章をどのように受けとめるかを予測し、必要に応じて対策を考える必要がある。
3 言語活動の可能性の発見
 それぞれの文章(作品)を教材として取り上げることによって、どのような言語活動(話す・聞く・書く・読むなど)が展開できるかを見通すことが大切である。
 一つの文章でも、その活用次第によっては、討論の学習や作文・小論文の発想指導に活用できたり、文章の読み方の学習が展開できたりすることがあるからである。
 個々の文章(作品)がもたらす言語活動の可能性を見いだすことは1時間の授業展開を構想することにつながる。
「読むこと」の指導における重要な目的の一つは、とりわけ美しい、優れた日本語表現に気づかせ、生徒たちの言語表現に生かせるようにすることである。
「言語そのものの韻律的な美」「人物描写や情景描写等の優れた表現」などに気づかせるのである。
(相澤秀夫:1949年宮城県生まれ、国公立中学校教諭・指導主事、文部科学集教科調査官及び海外子女教育専門官、宮城教育大学教授を経て宮城教育大学名誉教授。専門は国語科教育)

 

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優れた授業(国語科)を参観し、学んだこと

 出会いが人を作る。それも存在感のある人との出会いが人生に新たな眼を開いてくれる。
相澤秀夫先生はその一人である。
 宮城教育大学教授の相澤秀夫先生は全国の中学校で国語・道徳の師範授業をされている。
 また様々な教員研修の講師を務めておられる。
 2014年に兵庫県のある中学校で師範授業をされたので参観に行かせていただいた。
 その相澤先生からの学びである。
 さっそうと風のように教室に入られた。
「今日は立つ必要は無いからきちっとつけなさい」
 と机をつけさせる。
 みるみる教室内に参観者のスペースができてくる。
 気持ちよく場所が空いていく。
「机の上には教科書とノート、鉛筆二、三本、赤ペンと消しゴム、そのほかの物はしまいなさい」
 シンプルな指示、柔らかい声であるが、全員やらせる。やらせきる。
 今日の学習の目当てを板書される。
「すぐに写しなさい。素早く書きなさい。鉛筆から煙が出るくらいに早く書きなさい」
 という指示が出る。
 おそらくもう二度と出会うことのない子ども達との1時間の授業、1分1秒もおろそかにはできない。
 そして黒板の左端に「すばやく」と書かれる。
 それから呼名をしていく。
 返事は「かしこい声」で返事をしなさい。「かしこい声」と黄色で左端に記す。
 手に持った座席表(B4版)を見ながらひとり一人の名前を呼ぶ。
 声を聞いてほめる。全員をほめる。表情もほめる。そして握手をしていく。
 全員呼名握手を終える頃にはすっかり相澤先生の世界になっているのである。
 5分かかっていない。旧友に再会したような柔らかい空気になっている。
 中学校2年生の定番教材「走れメロス」の学習である。
 今日の学習はメロスが体力を使い果たし、半ば諦めるところから、刑場に到着する場面までである。
 最初に範読、抑揚と歯切れの良さ、けして大きな声ではないが聞きやすい。
 リズムがある。テンポが良い。聞き入ってしまう。
「今の速さで一斉に読みなさい。全員で読みなさい」
 そして範読。
 次は焦点化して短い段落になる。
 そして文になる。
 更に読ませる。
「もう一度」「もう一度」「念のためにもう一度」繰り返す、繰り返す。
 この音読がすごい。すごいとしか言いようがない。ここまで読ませるんやと思う。
 そして焦点化された文を板書され、
「この部分はどのような様子を説明しているのか、三行から五行で書きなさい」
 机間指導に入られる。
 参観者に呼びかける。
「先生方も赤ペンを持ってノートを見ていきなさい」
 この机間指導こそが「相澤メソッド」の真骨頂である。
 赤ペンでマークされ、手に持っている座席表の余白に何事かメモされる。その生徒にしか聞こえない言葉かけをする。
 ペア席になっている。お互いにあいさつをさせる。最後にはお礼を言わせる。
 隣の人の考えを披露し合う。
 自分のノートに書かせる。そしてその下にその人の名前を付記させる。
 何のために話し合うのか。話し合いは「考え合い」である。
 先ほどの座席表を見ながら生徒の言葉や考えをつないでいく。
 まるで織物を織るように子どもたちの発表が新たな発見や言葉の意味を広げていく。
 机間指導時に瞬時に子どもの意見を読み取り、意図的に指名を行って、子どもの学び合いをマネジメントする。
 この手法、深い教材研究と授業経験がなければできるものではない。
 子どもに学び合いをさせるには、「学びをつなぐ」ための意図的指名が重要である。
そして、そのためには深い教材研究が必要だ。
 重要な表現は板書される。その字が大きく、美しい。
 あっという間の50分間であった。
 授業を終えた生徒の顔は風呂上がりのように晴れ晴れとしていた。
 知的なまなざしに変わっていた。50分間で賢くなった。
 いわゆる「教室の奇跡」を見せていただいた。
 授業参観を終え、言葉に対する挑み方、生徒の意見の取り上げ方、全体の流れのコーディネートのあり方、数々の貴重な学びがあった。
(大阪府寝屋川市公立中学校長大原武史)
(相澤秀夫:1949年宮城県生まれ、国公立中学校教諭・指導主事、文部科学集教科調査官及び海外子女教育専門官、宮城教育大学教授を経て宮城教育大学名誉教授。専門は国語科教育)

 

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子どもが算数・数学好きになる秘訣とは

 算数や数学の学習において、少なくとも同一の単元では「やっていくうちに理解する」という気持ちをもってもかまわないでしょう。
 小学校での分数のかけ算や割算、中学校での因数分解、高校での微分や積分などもそうです。
 トランプや将棋などを始めるときも、初めからルールをすべて覚えてから行う人はまれでしょう。
 むしろほとんどの人たちは「やって行くうちに理解する」という気持ちでゲームを始めるのです。
 数学でも、意味を完全に頭の中に叩き込まなくても、指導されるままにまねをして計算問題、そして応用問題を解いていくうちに根本的な意味も理解していくことが少なくないのです。
 そもそも「3/4で割るということが、何で4/3を掛けることになるのか」などを真剣に考えて、その理由が分かってから初めて分数の割り算を行う子どもはまれでしょう。
 実は「やっていくうちに理解する」どころか「正確には理解しないで使っている」ものも少なくないのです。
 たとえば、2のx乗というものです。
 2の2乗は4、2の3乗は8、2の4乗は16です。
 それでは、2のπ(円周率)乗とはどのような数なのでしょうか。それに関しては、高校の数学では少しごまかしているのです。
「理解しないで使っている」ものも少なからずあることを知れば「やっていくうちに理解する」ことはむしろ立派であって、恥ずかしがることでも何でもないことがわかるでしょう。
 算数や数学の学習では、覚えなくてはいけない内容や重要な公式など数えるほどしかありません。
 たとえば、四則演算で×や÷を優先することを忘れる。
 方程式で右辺にあるものを左辺にもって行くときにマイナスを付けるのを忘れてしまうことがある、等々。
 そのように、算数や数学の学習では、覚えるべき内容や注意すべき点は少ないものの、どれもいろいろなところで幅広く適用されるものです。
 したがって、それらのうちのたった一つに関して誤って覚えていたり誤って適用する癖を身につけたりしていると、英語の単語を一つ忘れるのとちがってダメージは大きいものになります。
 それゆえ算数や数学の学習においては、重要な内容の覚え間違いをしないように心がけることが大切で、間違いに対するこだわりを大きく持った方が良いのです。
 問題の解答を間違えた場合、どこで間違えたのかを覚えていれば、悔しさが残り、次回に生かすことができます。
 これまで数多くの生徒の算数や数学の勉強をみた経験から、そのあたりが伸びるか否かの大きな分岐点だと考えます。
 どうすればよいのでしょうか。
 一つは、ノートに答えを書いていて解答が間違っていれば、間違った箇所を消しゴムで消さないということです。
 間違いを繰り返す生徒に限って、書いた部分を消しゴムで消し、最初から解こうとする悪い癖をもっているのです。
 もう一つは、テストで間違った場合は、間違った問題を正解に直すようにする習慣をつけることです。
(芳沢光雄 1953年東京都生まれ、慶應義塾大学助教授、城西大学教授、東京理科大学理学部教授、桜美林大学教授を経て桜美林大学学長特別補佐。数学の学力低下を危惧し、数学教育の重要性と充実を訴え、全国各地の小・中・高校への出前授業や教員研修会で講師を行った)

 

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斎藤喜博の授業は実際どのようであったか、授業の再生はどのようにすればできるか

 小学校国語科の斎藤喜博先生の「あとかくしの雪」は次のように展開している。
 斎藤先生が子どもたちに読みをさせながら作品の中心に迫る問答が楽しく続く。
 二年生ということもあるが、本当に「やさしく強く」展開しているのがわかる。
斎藤:「ものすごく上手に読めたねえ、たまげたこれは、それから、きいている人が上手だったね、きき方が。ものすごく上手でよーく読んだね」
(この朗読をした子は、後ろのほうにいた子だったが、はじめに全員が自由に読んだとき、口の動きなどから目をつけておいた)
斎藤:「今度はなかに書いてあることがわかった?」
子ども:「うん」
斎藤:「どんなことが書いてあった」
子ども:「大きな家」
斎藤:「大きな家が出てきたね。それから、あなたは」
子ども:「うん、大根」
子ども:「同じ。大きな家」
斎藤:「同じね」
子ども:「大根をぬすんできた」
斎藤:「どろぼうが出てきた。ぬすみにはいった。どろぼうしちゃったんだね。だれがどろぼうしちゃった?」
子ども:「百姓」(口々にいう)
斎藤:「百姓がなんでしちゃったの」
子ども:「旅人にやるものがないから」
斎藤:「どろぼうなんかすれば、・・・・おまわりさんにしばられてしまうのに、どうしてどろぼうしちゃったの」
子ども:「旅人に何もやるものがないから」
斎藤:「ああー、旅人に何もやるものがないから。どこかのうちからぬすんできちゃったの」
子ども:「えーと、大きな家」
斎藤:「おおきな(ゆっくりと言う)家ね、大きな家からぬすんじっゃたね」
途中略
斎藤:「そうだ、どろぼうを考えちゃった。ね。悪いやつだね。(板書していた『しかたがない』のとなりに『どろぼう』と板書)どろぼうを考えちっゃたね・・・・お百姓さん、うんと悪いやつだから、みんなたたいてやる。どう?」
子ども:「うーん」(否定的に)
子ども:「心のやさしい、いい人」
斎藤:「あれ、心のやさしい・・・・なるほどね。ほかの人はどう」
子ども:「やさしい人」
斎藤:「同じ、そう思う。やさしい人だと思っている人いるいる?」
-全員「ハーイ」と手をあげる
斎藤:「なるほど、みなさんやさしいんだね、心が。皆さんがやさしいだな、これは」
 一問一答のようなかけ合いだが、大変に集中し、よく考えている。
「あとかくしの雪」の授業を後藤清春も何度かしたが、斎藤喜博のようにはいかない。
 なぜだろうと今更思う。
「教材」「教材の解釈」「展開の核」「発問、指示、説明」と、その一つひとつが深い奥行きを持っている。
 授業記録が出版されているので、ことあるごとに読み直していかねばならないのだと思う。
 次に斎藤先生のチェーホフの「カシタンカ」の授業について次に示す。
 国土社の「授業」(斎藤喜博著)に次のような記述がある。
 六年生が、チェーホフの「カシタンカ」という小説を勉強した。
 この作品は原稿用紙にして70枚ばかりのものであるが、教材がくばられると子どもたちは、久しぶりに良い食物にありついたというように、2時間ぶっ続けで読みひたった。
 その読み方は一行一行しっかりと読んでいって、一回読むのに2時間かかるという読みで方であった。
 だが、子どもたちは、その一回のていねいな読みで、作品の全体をほとんど頭の中に入れてしまった。
 また、その作品の本質も直観的にとらえてしまった。
 それからさらに深く作品を追究していくために問題を作り、その問題に対する自分の考えや、友だちの考えや、先生の考えをぶっつけ合わせ、考えを変えていったり、新しい考えや解釈やイメージを作り出していったりするのである。
 だからそのときどきの子どもや学級には強じんな論理の軌道がある。
 教師は、そういう強じんな子どもの軌道を打ち壊し、子どもをさらに高い世界へとあげていかなければならない。
 そうしなければ、子どもはほんとうに満足し学習の喜びにひたることができないのだ。
 しかし、その作業が大変である。
 単なる一般的な知識や教材解釈だけでは、子どもたちの強じんな論理の軌道を打ち破ることはできない。
 私の学校へは、一週間以上続けて学校に入り込み、授業を見たりして勉強していく先生が各県から来ている。
 そういう先生たちが一様に言うことは「今までの自分の授業は、授業などといえたものではなかった」ということである。
 その中のある先生は、
「子どもたちはみな、複雑な論理を自分のものとして明確にもっているのだ。一人ひとりの子どもも、学級全体も、学習の進展につれて、その論理の糸や結節点をくり出したり、作りかえたり、発展させたり、ふくらませたりしているのだ。そういうことが身にしみてわかった」
 ということを言っていた。
 今までの一般の授業は、自分の持っている一般的な解釈だけを、ただ常識的に子どもに教えこみ、記憶させるだけのものだった。
 子どもがそれを覚えなかったりした場合は、テストとか通信簿とかで無理やり納得させるだけのものだった。
 だがそれだけでは教育とはいえない。
 そういう授業では、子どもの論理や思考や感情を明確に引き出し育て、子どもや学級に網の目のような論理の組織をつくらせ、それを否定したり拡大したり、変革させたりして子どもをゆるがすようなダイナミックな授業はできない。
 子どもの持つ論理の軌道と、教師の指導意欲とが、火花の散るような対決をし、その結果として無限に新しい論理の軌道を教師や子どものなかにつくり出していくような授業はできない。
「授業の再生」ということは、難しいと言えばこれほど難しいことはないのかもしれない。
 学校や教師たちの「姿勢の転換」が要求されているわけである。
 私がよく言ってきたのは「どこで苦労するか、させるか」ということをしっかり決めて、やはり「真摯に苦労するしかない」からである。
「いかにして楽をして効率よく授業をするか」という考え方から脱却しなければならないから「姿勢の転換」と言っても簡単ではないということである。
 この「苦労のしがいのある教材と展開で」授業を創っていかねばならないと思う。
「子どもに論理も持たせ、その論理ときり結ぶ苦労」のある授業こそ、新しい授業だと思う。
(後藤清春:1948年生まれ、大分県公立小学校の教頭、校長を歴任し、斎藤喜博が求めたものを求め続けた)

 

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担任と保護者との関係をよくするには、どのようにすればよいか

 気がかりなことがあれば直ちに親に連絡するような誠実さが親との関係をよくし連携をつよめます。
 学級通信で子どもたちの学級の生活のさまざまな姿を紹介することも大事な連携なのです。発行しても読まない親がいると言う教師がいます。
 しかし、これでもかと小石を積み重ねていくと、親の意識を変え、それが子どもにもよい影響を与えていきます。
 担任が最も話を聞いてもらいたいと思う親は保護者会をよく欠席します。どうしても、この親と話をしなければと思ったら個別に面談するしかありません。
 そのとき最初から断定したような話し方は避けることです。
 勇み足になってしまっては、まとまる話もまとまらなくなります。相互に事情を確かめながら、情理を尽くして話し合ってみるのです。
 一回でわかりあうことはまれです。回を重ねて足を運ぶ必要があります。
 子どものことで親と教師の間にトラブルが発生すると、「教師が言った・言わない」という状況が生まれることがあります。
 それだけに、教師の発言は言葉を選ばなければなりません。誤解されないよう、率直に話せる話し方ができるようになってほしい。
 子どもが教師に話すことと、親に話すことは微妙に違っていることが多い。
 だから親の話に耳を傾けることで、総合して判断するという姿勢が教師に必要とされています。
 親からの相談を、「心配いりませんよ、そのうちに直るでしょう」と軽く受け流さないで、重く受けとるようにしましょう。
 親にとっては軽い問題ではないはずです。相談を受けたら、自分だけで抱え込まないことです。
 生徒指導・教育相談などの学校組織で情報と知恵を出し合い、話し合うようにします。
 どう手を打つかとなれば、さらに親や子どもと相談を重ねなければならない。これも連携の一つの姿なのです。
 学級が荒れてきたと、まず感じるのは担任です。
 親も子どもの話を聞いたり、素振りで、学級の荒れを案じます。
 学校は機を失しないで親に協力・支援をしてもらうとよいでしょう。
 臨時保護者会を開いて、可能なかぎり事実を伝えて、家庭で何をすればいいか、話し合ったり相談したりしてもらうのです。
 事の重大さを理解してもらえば、父親が子どもを諭したり、学校内外のパトロールに親が立ち上がった校区もあります。
 今日、子どもの背景にある家庭の状況も複雑です。家庭崩壊、生活困窮、子ども虐待などさまざまな状況があります。
 こうした場合、教師が家庭訪問するだけでは問題は解決しません。
 地域の民生委員・児童委員と連絡を取ったり、福祉事務所や児童相談所に通報したりと、保護・援助の手を打ち、子どもの生活環境の改善を図らないと、子どもを立ち直らせることはできません。
 子どもが悪いのは家庭が悪いからだと嘆くだけでなく、子どもを救う連携策も学校の大事な役割になっています。
 学校で事件(事故)が発生した際は、被害者、加害者の保護者にきちんと連絡し、対処を的確に進めなければなりません。
 教職は公的な職業です。言いにくいことも遅滞なく告げる役割を担っています。
 加害者には明確な事実を伝えます。
 加害を認めないようであるなら、回を重ねて話をしなければならないし、「学校が悪い」と言い立てるなら事情を説明して得心してもらう努力も必要です。
 誤解を避けるためにも管理職が立ち会うようにします。
 日頃から家庭と連携ができているかどうかで、対応はずいぶんと違ってきます。
 判明した状況は親に一つひとつ連絡し、確かめ合いながら、問題解決を続けます。
 的確に行わないと後日に問題を残します。
 学級の保護者にも機をとらえて説明する必要があります。
 被害者には手厚い態度で対応することをまず考えなければなりません。
 学校の不行届(ふいきとどき)についてきちんと侘び、見舞いの言葉はかけても、かけ足りないぐらいに考えていいでしょう。
 今後のことについて相談を重ねなければなりません。
 事故再発は、どうしても防ぎたいものです。それだけに事情の究明は、どれほど大変であろうとも、きちんと行うようにしたいものです。
 学校や教師の立場をかばうことばかり考えると、解決は厄介となり関係修復に長い時間がかかるようにもなります。
 授業参観日で、日ごろと違って「いい子」なってしまう子がいます。
 また、いつも通り授業にあきて授業不参加の子どももいるでしょう。
 こうした姿を見て親は「学校はどうなっているのか」と不安を抱きます。学校を批判する親もでてきます。
 ちょっとしたことでも不満に耐えられない子、それに引かれて規律を無視する子どもの増加に教師が教室で叱ったり威圧したりするだけでは事態は好転するものでしょうか。
 これには、学校と家庭が手を携えないと問題の解決が図れないはずです。
 だから、保護者会で教室の状況を率直に話さなければならないと思います。それも、参観日で目にした状況とは異なる、毎日の子どもの姿を語らねばなりません。
 保護者に話さずにおくと、対処しきれなくなることがあります。
 後手に回ってしまっては手遅れなのです。
 それには、きちんとメモを作って、状況がわかるように説明することです。
 そして、どんなことに協力を求めるか明確に話します。
 こうした会では、担任の指導について批判もでるでしょう。
 紋切型の話し方や答弁はしないようにします。
 それと、不確かなことや思いつき、実現できそうもないことは語らないことです。
 現在の教室の実態を率直に語るようにします。
 子どもの様子を具体的に語らなければ保護者の理解は得にくいでしょう。
 授業中、立ち歩かないことや、私語をしないことなどは、学校に子どもを送り出す家庭としては当然のこととして注意しなければならないことです。
 保護者が気づいて実行してもらわなければならない時なのです。
 率直な語りかけこそ、説得力をもつでしょう。
 保護者からの、子どもたちの「いさかい」の苦情は管理職にも報告します。
 こうした際の子どもへの対応は「そのうちやろう」などと構えるのではなく、直ちに開始することなのです。
 初動の遅れが問題を後日複雑にすることもある。
 子ども同士のちょっとした「いさかい」は、子ども同士で解決することのできる力を少しずつ、つけていくことが大事だろうと思います。
 譲ることは譲ったり、認め合ったりすることを諭したり、そうした体験のできる活動や遊びを組織することで解決の方向はみえてきます。
 保護者からの苦情のなかには、教師の言動や指導法に関することがあります。
 うるさいなどと考えないことです。このときは、事実を慎重に確かめ、不行届があったときは、認め、詫びるようにします。
 保護者に誤解があるなら、事実をもとにして、それを解くよう策を立てます。
 いずれにせよ、保護者の理解を得ながら、善後策をきちんとたてていくようにします。
 学校は良質の教育サービスを提供する場です。
 授業が崩れ、学級が荒れると、批判の矢が学校に向かってしまうのは当然のことだと思わなければなりません。
 担任の交代を多くの保護者が要望してきたら、学校としてはまことに厄介な問題です。
 学校としていかに学級の建て直しに努力を重ねているか十分に説明しなければなりません。
 これからどうするか策を具体的に示さなければなりません。
 専科教員の導入やティームティーチングを利用するなどの策を示すのです。
 そうした策をとっても、事態が変化しないならば校長は担任の変更を決定せざるを得ません。
(飯田 稔:1933年東京都生まれ、千葉大学附属小学校に28年勤務、同校副校長、千葉県公立小学校校長、千葉経済大学短期大学部名誉教授。学校現場の実践に根ざしたアドバイスには説得力がある)

 

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授業のハウツウ

 授業も含めてあらゆる教育活動についての「ハウツウもの」「マニュアル本」が出回り「授業や教育活動での苦労」を回避する教師たちの出現が今日の崩壊的な現状を作った要因のひとつと思うのである。
「楽をしていいことをしよう」という安直な発想が「ハウツウもの」の大量の流行を招いたとも言えるし「授業の手軽な方法のみの追究」になって、子どもや教科と直に向き合うことがなくなり、そのことが「授業の衰退」へとつながったと考えられる。
 しかもそのために、教師は自分の思想、自分の方法を持つ必要がなくなってしまった。
 それまでもあった指導書に頼った授業をしていた教師たちの群れへ、若い将来のある教師たちが、雪崩を打って「ハウツウ」に走ってしまっている。
 一握りの良心的な部分を除いて、学校には「指導書とハウツウ」に頼るだけの教師しかいなくなり「自分の教育方法を考える教師」いなくなったとも言えるほどである。
「自分の考えを持たない教師に教えられる子どもたちの不幸」と、ということまで考えざるを得ない。
 牧野桂一も、ハウツーものを批判する後藤清春について、つぎのように述べている。
 後藤は、ハウツーものの持つその罪の深さを批判している。
 お茶や生け花のような体系的・総合的な指導体系を持たぬまま、一部分を取り上げて、その教え方だけをマニュアル化しても、その指導は大変浅いものになってしまう。
 教育の営みとはかけ離れたものになってしまうと私も思うのである。
 私のやっている俳句の世界でも「やさしい俳句の作り方」などというような本を何冊読んでも俳句はうまくならないのである。
 それどころか、下手になって俳句が嫌になり、結局止めていってしまうのである。
 しかし、この「やさしい俳句の作り方」なる本がよく売れるのも事実のようである。
 そのような怠け者に迎合した「ハウツーもの」は俳句を大衆化することには役立つかもしれないが、感動させるような質の高い作品を生み出していることには繋がらず、かえって害になっているのが事実である。
 俳句の基本は、芭蕉の言うところの「ものの見えたるひかりいまだ消えざるうちに言い止むべし」であり、徹底して「もののいのちを見る」ということに尽きるのである。
 どうしてもマニュアルの欲しい者に対して芭蕉は「俳諧は三尺の童にさせよ」と言い放つ。
 個性ある子どもたちに対して、形式的な授業をすることは、その根本が間違っているのである。
 一人ひとりの子どもたちに自由自在に対応し、自由自在な方法で導いていくことが授業の中では求められているのである。
 宗教家にしても、職人にしても、芸人にしても、武道家にしても、一流をめざす者はおおかた小手先の技術ではなく、そのものの本質を踏まえた基礎・基本を徹底的に教えこまれる。
 それは技術にくっついた思想をきっちりと学ぶことにもなる。
 どうしても忘れてはならないのが、後藤が何度も強調している「斎藤喜博という人を求めるのではなく、斎藤喜博の求めたものを求める」という教えである。
(後藤清春:1948年生まれ、大分県公立小学校の教頭、校長を歴任し、斎藤喜博が求めたものを求め続けた)

 

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学習するとき「なぜ」と問い、なるほどと納得できると、学習がおもしろくなる

 ある物理学者は、
「数式どおりに実験で物質が硫酸の中から出てくる」
「しかもこれによって、水素分子からなっているんだって実感できるわけです」
「これはもう感動ものですよね」
 と、分子の存在を実感したときのわくわくする気持ちを表現している。
 自ら発した問いや、ずっと考えて追究している問いが、説明された瞬間や、納得した瞬間との出会いは、理数科にひかれていく一つの大きなきっかけとなっている。
 またそうした問いを追究する過程そのものもまた楽しい体験として認識されている。
 実は「わくわくする気持ち」「がんばり続けること」こそ、才能を開花させる大切なヒントなのである。
 わくわくするようなおもしろさにふれることは、ただ単に驚いたり珍しがったりする楽しさではない。
 日常生活の自然現象に対して自分がもつ「なぜ」という問いを、原理原則によって説明できた喜び、納得できた快感である。
 わくわくするおもしろさは「なぜ」を問うところにその本質を見いだすことができる。
 そうした体験は、日頃から「なぜ」を問う習慣ができていることが一つの要因としてあげられる。
 この「なぜ」を問い、なるほどと納得できる快感は、年齢に関係なく得られるものである。
 ある工学者が、
「小学校の先生は原理を教えてくれました。なんで宇宙ができたかって」
「なるほどなって思うんですよ。小学生でも」
 と述べている。
 このようにおもしろさを体験することで、より深い学びにつながっていく。
 ある物理学者は、
「なんとなくそんなものだっていう知識で覚えると、身についたものになりませんね」
「深くやってみようとか、勉強してみようかっていうことになってきませんよね」
 とも述べている。
「なぜ」と問う習慣ができ、自分で追究して達成する機会を得る。
 そして、おもしろさを体験することが、理数科の学びを挑戦し続けていくことになる。
「知識をうのみに単純に暗記する」のではなく「考える過程に関心が向く」ことが、がんばり続ける活動につながっていくのである。
(無藤 隆:1946年東京都生まれ、お茶の水女子大学教授、白梅学園大学学長を経て白梅学園大学名誉教授。保育関連や心理学が専門。保育・幼児教育に関する政府審議会・調査研究会等の座長等を多く務めた)

 

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教師が身のうえ話や自慢話をするとき、気をつけるべきこととは

 教室で、自分のことや家族のことを、子どもに話す教師がいます。
 年に2,3回ならともかく、連日のように話すとどうでしょう。
 子どものなかには「またか」と思う子もいるし、身のうえ話や自慢話は聞きあきたと言いだす子どももいます。
 こうした話の好きな教師は、こうした話題が教師と子どもの心の距離を縮めるだろうと思い込んでいるのです。
 でも、そうでしょうか。
 毎日のように、個人的な話をすることで、それが縮まるはずもありません。
 それに、子どもの口を通して保護者にも伝わってしまうでしょう。
 自分で語るより、子どもの話の聞き手になったらどうでしょう。
 教師が気をつけなければならないことは、日頃話す相手が子どもであることです。
 子どもは、その種の話は聞きたくないなどと、言い出すことはまずありません。
 だから、ついつい自分のペースで、話を進めてしまうのかとも思います。
 子どもが喜んで聞いてくれるからなどと、一人で思い込んでしまったら、ちょっと困るだろうなと思います。
 職員室で「私は、○○委員会のPさんを知っているから」「僕の叔父はQ校の校長なので」などと話す教師がいます。家族自慢や趣味自慢の教師もいます。
 そうかといえば、他人のことにはあれこれと探りを入れるものの、自分のことは語らない教師がいます。
 こうした教師を見るたびに、言わないで済むことは口にしないことだなと思うし、無邪気で世間知らずの人の集まりかなとも考えます。まずさに気づくことが、必要なのに・・・・・・。
 人の縁は大事にしなければなりませんが、人の縁を自慢する必要などないのです。
 話題が相手の感情に与える影響を、推測、計算できたらとも思うのです。
 率直に申し述べて、自慢ばかりしている人は、いつか敬遠されるでしょう。
 人の心には、反発、不愉快さ、ねたみなどの感情の潜むことに、お互いに気を配る必要があるでしょう。
 それに気づかずにいるから、無邪気だと言いたいのです。
 そして、気づいたら直し改めることです。
 多くの人が周りに集まっている人の話題には、自慢めいたことがありません。なるほどなと思うではありませんか。
(飯田 稔:1933年東京都生まれ、千葉大学附属小学校に28年勤務、同校副校長、千葉県公立小学校校長、千葉経済大学短期大学部名誉教授。学校現場の実践に根ざしたアドバイスには説得力がある)

 

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ハッキリと指示し、生徒に信頼感を与え、全員を巻き込んで授業をするには、どうすればよいか

 授業で生徒に指示を細かく出していますか。
 授業の上手な教師は生徒に「空白の時間」を与えません。
 簡単に言えば生徒に細かく指示を出しているのです。しかも、その指示がハッキリとしています。
 あなたは、生徒に「鉛筆を置いたら、前を向いて、姿勢を正して、話を聞くこと」と、一気に指示をしていませんか?
 生徒の立場で考えると、いくつもの指示を一度にされると、非常に行動が取りにくい。
 ですから、指示は一度に一つだけにします。
 細かく指示を出していった方が結果として分かり易くなりますし、スキも与えにくくなるのです。例えば、
「鉛筆を置いて」....「前を向いて」....「姿勢を正して」....「それでは話を聞いて下さい」
 その一言、一言の間に、「間」を作ります。
 行動をしっかり確認してから指示を行った方が、結果として正しく指示が通ります。
 さらに、各場面で生徒が何をしていればよいか、を明確に指示するようにしてください。
 例えば教師が黒板を書くのであれば、その間、生徒は何をしていれば良いのか、など。
 つい夢中になって、教師が自分のことで手一杯になってしまい、生徒への指示を忘れてしまいがちです。
 それでは生徒管理がしっかりできているとは言えません。
「話を聞いている時間」、「黒板を写す時間」、「問題を解く時間」など、生徒に対して1秒の空白の時間も作らないように指示をしっかり出していきましょう。
 教師が信頼感を生徒に与えるようにしていますか。
 教師がつくり出す信頼感は授業のとき、非常に重要な要素になります。
 生徒に与える信頼感が無ければ授業への信頼感も薄れてしまい、授業を受けることの価値が感じられなくなってしまうでしょう。
 まず、必要なことはしっかり自信を持った言葉づかいで授業を行うことです。
 授業で話をするさいには物事を断定的に話す事はとても大切なのです。
 仮に教師が理科の授業で「ヤモリは爬虫類だったと思います」などと言われたら、それだけで生徒は不安になってしまいますよね。「それ、覚えて大丈夫なのかな・・・・」と。
 授業を通じて、教師に自信のない雰囲気が生徒に伝わってしまったなら、そのような教師への信頼感に欠けます。
 ですから「~だと思います」「~かもしれません」という言葉は使わないようにすべきです。
 話し方も自信を持って授業に臨める様に授業の準備は万全でなければいけません。
 自信がなかったとしても、それを決して見せることのない、ある程度ハッタリは必要なのではないでしょうか。
 生徒が安心してあなたの授業を受けるためには、あなたが生徒に自信のある姿を見せることは大切なことなのです。
 私は進学塾の講師でしたので「この先生についていけば志望校に合格する」と思わせるように全ての言動、準備を整えていきました。
 ですから私は、受験情報はもちろんのこと、中学生を担当したなら生徒の学校でのノートを見たり、過去の試験の傾向から定期試験の予想をしたり、さらには生徒が将来なりたい職業を知ったなら、それを叶えるために必要な知識や活かせるようなエピソードなどを熱心に集めて授業へと活かすようにしてきました。
 教科書だけでは学ぶことができない内容も、面白く展開される授業なら受ける価値が生じてくることでしょう。
 教えたから満足ではなく「生徒が学んだことによって何を得たのか」、例えば、発見する喜びや、できるようになった達成感を実感させることを重視していきましょう。
 あなたは、教室全体を巻き込む授業作りができていますか。
 授業をするとき、夢中になって前の方に座っている生徒とばかり発問ややり取りが行われてしまうと、当然、教室の後ろに座る生徒は「単なるお客さん」になってしまい、参加意識が薄れていってしまいます。
 教室全体を巻き込んで授業をするために全ての生徒と授業を作り上げる意識を持ちたいものです。
 まず、生徒一人ひとりをしっかり見ることが重要であることは言うでもありません。
 舞台で演じる一流の役者になると、多くの観客が「自分を見ていた」と感じるそうです。
 目線の配り方が上手なのでしょう。
 教師が授業をする場合も、一人を凝視するというよりは生徒の目から目を移動するように目線を移動していくようなイメージで教室全体を見渡しましょう。
 生徒一人ひとりをしっかり見ていることをアピールします。
 見られているという感覚は生徒の手遊びや私語などの防止効果が格段に向上します。
 そして、発問するときの立ち位置にも気をつかいます。
 例えば教室の左奥にいる生徒に発問をするなら、右の方へ移動しながら発問します。
 要するになるべく対角線になるように、生徒を当てるイメージを持ち、できるだけ多くの生徒の頭を飛び越えるように生徒と会話をすることです。
 教室全体の生徒を巻き込む雰囲気作りを行うのです。
 そのように心掛けていると、発問をしながら左右へ移動することになりますから、教師にも動きが生まれて授業に躍動感を生み出すこともできるようになります。
(諸葛正弥:1974年生まれ、諸葛正弥教育総合研究所株式会社代表。建築家として建築設計の仕事をしながら、都内大手進学塾で長年指導を行ない、講師研修のインストラクターも担当。それまで実践してきた授業ノウハウを心理学や人間行動学の側面から理論的に体系化し、学校教育コンサルタント「T’s skill教師塾」(現:諸葛正弥教育総合研究所株式会社)を立ち上げ、学校の教師を対象にした研修講座を主催)

 

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どのような板書がよい板書なのでしょうか

 子どもを伸ばすのに有益だった板書がよい板書である。
 私は新任教師のころ、
「美しい、構造的な、授業の流れがわかる板書にしなさい」
 と指導を受けました。
 それから数年後、板書がよくなったと同僚教師から言われました。
 しかし、発達障がいをもつ子どもが、
「先生の板書は、本当にわかりにくい」
 と訴えました。
 その理由は「黒板にたくさんの字や色、矢印があると、ごちゃごちゃして混乱する」ということでした。
 私はショックを受けました。
 私に足りなかったのは、シンプルな板書という視点だったのです。
 そのことに気づいてから、私は板書するさいに、つぎのような問いを自分にするようになった。
「できない子や発達障がいをもつ子にとっても、わかる板書だろうか?」
「子どもの学力を伸ばす板書になっているだろうか?」
「子どもの思考を促す板書になっているだろうか?」
「子どものノートに生かされるような板書になっているだろうか?」
 私は、板書に、
「子どもにこのような力をつけたい」
 という願いが表れると考えている。
 よい板書だったかどうかは、授業する教師の意図が達成できたかどうかで判断できる。
 すなわち、子どもを伸ばすのに有益だった板書がよい板書である。
(大前暁政:1977年生まれ、岡山市立小学校教師を経て、京都文教大学の准教授(理科教育)。理科の授業研究が認められ「ソニー子ども科学教育プログラム」入賞)

 

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優れた理科授業にするには、どのようにすればよいか

 優れた理科の授業は「ネタ」「授業の組み立て」「授業技術」が優れている。
 授業を料理にたとえると、おいしい料理には新鮮なネタが必要だ。
 ネタをどう料理するかレシピ(組み立て)がいる。
 レシピを実行できるだけの腕(技術)がいる。
 授業の技術には、発問・指示・板書などがある。料理の腕がなければ、ネタをだいなしにすることもある。
 理科授業の基本的な進め方は、疑問を持たせ、仮説を立てさせる。実験・観察で確かめ、結果をまとめさせる。
 子どもたちは、自分で問題を解決することで、科学的な知識や技能を身につけていくことになる。
 授業の導入で問題意識をもたせるために、疑問を生じさせることが大切だ。
 例えば6月の三日月の形を描かせると、右左どちらに曲がっているか意見が分かれ、疑問が生じ調べてみたいという思いがわいてくる。
「月はどの順番で満ちていきますか」と、左右の三日月から満月までと新月の絵から並べさせる。一番正しいと思える順を自分で決めさせることが仮説となる。
 実際に月の満ちる順番を2日おきぐらいに観察させる。その観察結果を発表させる。結果から言えることが結論である。
 このように子どもたちは疑問から問題意識をもち、仮説を立て、実験・観察で検証し、結果を結論としてまとめるという活動が理科授業の基本的な進め方になる。
 授業づくりの手順は、まず、教えたい知識と技能をはっきりさせる。学習指導要領に載っている内容の部分を抜き出せばよいのでたやすい。
 次に単元の計画を次の手順で考える。
 各社の教科書を読んで、どう教えることになっているか展開をだいたいつかむ。読んではっきりさせたいところが出てくれば、参考書や専門書で調べる。
 資料はインターネットでキーワード検索する。たくさんの本が掲載されているのでリストアップしておく。
 大きな書店でそれらの本を斜め読みする。特に重要だと思える本を購入する。インターネット情報でよいと思われるものは印刷する。
 購入した本や集めた資料を読んで、子どもが驚くだろうなという情報をメモしていく。
 それら情報の内から骨格になるものは何かを考える。教えたい内容をすべて列挙していく。
 子どもの実態を知るために、子どもに聞いたり、アンケートをとる。
 この段階で、実践例を調べる。すこしでも実践例を超える実践をしていくためである。
 次に大ざっぱでよいが、だいたいの展開を考える。展開が決まったら教材を考える。できるだけインパクトのあるネタがよいし、実物を用意することが大切である。
 つぎに、1時間ごとの授業案を考えていく。発問・指示・説明を考えることが大切である。
 授業の組み立てを考えるとき、授業は二転三転させて変化をつけたほうが、子どもたちが熱中し盛り上がるので、相矛盾する情報を紹介する。
 矛盾した情報を示すと子どもたちは、なぜだろうと考え授業が知的に展開するようになる。
 そして教師が授業で実際に発問しようとする発問言葉をノートにメモしていく。
 書いたら口に出して言ってみる。くどいと感じたらできるだけ言葉を短くしていく。
 発問・指示・説明を何度も修正していくと、よい授業になっていく。
 最後に授業に使えそうな映像資料や実験をインターネットで探す。実験は大切なので、実験ができない場合は実物を見せて観察させてもよい。
 読み直してダメなところは修正すればよい。
 授業が終わったら必ず授業の記録をとるようにするとよい。理由は、今後の授業改善に生かせるからである。
 教師の発問・指示・説明と子どもの反応を必ず記録するようにしている。教師が言った通りの言葉を思い出して書いていく。
 言い方が異なると子どもの反応が違ってくるので、できるだけ正確に記録するため、録音することが多い。
 子どものつぶやき・表情・発言内容も記録しておく。
 子どものノートをみることで、子どもの理解の程度・疑問・思考内容を知ることができるので写真をとっておく。
 板書も写真に収めておく。写真に収めておけば記録するのに時間がかからない。
 テストが終わったら、子どもの理解度を調べるようにする。
 一人でも勘違いしていたら、その勘違いはなぜ起きたのか、それを防ぐためにどんな授業展開がありえたか、などを考えるようにしている。
 授業の記録は、再び同じ内容の授業を今後するとき、授業記録と反省の記録が生かされることになる。
(大前暁政:1977年岡山県生まれ、岡山県公立小学校教師を経て京都文教大学准教授。理科の授業研究が認められ「ソニー子ども科学教育プログラム」に入賞)

 

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そうじは子どもたちにどう指導すればよいのでしょうか

 そうじの指導をしているつもりでも「そこをきれいにしておいてね」などの言葉だけで、あとのフォローを怠っていませんか。
 子どもたちは言葉だけでは理解できない点も多いものです。
 教師が具体的な手本を示しながら指導することが大切です。
 例えば、
(1)そうじの具体的な手順を教えよう(窓開け、ほうき、雑巾、・・・)
(2)先生が実際に手本を示そう
 道具(ほうき、雑巾の絞り方など)の使い方を具体的な方法や姿勢を示していますか。
 そして、子どもたちの取り組みをきちんと評価してあげましょう。
 上手にそうじできている子を手本としてほめていますか。
「ここが汚い」という所は目に付きやすく、どうしてもそちらにばかり気をとられがちです。
 しかし、きれいにしてくれたことへの感謝の気持ちを表したり、「きれいになったね」のひと言を伝えることがそうじへの意欲につながるのです。
 鉛筆1本でも大切にするなど、個人の物や公共物の大切さを伝えていますか。
 教室のごみを増やさない工夫に気付かせていますか。
 みんなで協力するよさを感じさせましょう。
(相原貴史:公立及び国立大学附属小学校教師(30年勤務)を経て相模女子大学教授。専門は国語科教育学)

 

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子どもが授業で忘れ物をしたとき、どのように対応すればよいでしょうか

 子どもが授業で忘れ物をしたとき、どのように対応すればよいでしょうか。
 子どもが劣等感を抱いたり、学習意欲が低下する対応は避けねばなりません。
 教師が忘れ物をした子どもに「また忘れたのか」と感情的な言葉がつい出てしまうことがあります。
 しかし、プロの教師として、常に子どもの人権を尊重して対応することを心がけましょう。
 よく起こりうる小さな出来事の対応一つ一つにも、教師としての資質が問われているのです。
 学習規律にもとづいて忘れ物を少しでも減らすためのものでなければなりません。
 したがって、誰に対しても同様の手立てをとります。
 学びの場である教室において、授業を確実に進めることができるようにする必要があるのです。
 毎日の学校生活で忘れ物をゼロにするのは難しいものです。
 教科書、ノート、文具類、体育着など、授業を進めていくうえで支障をきたすような忘れ物をすることもあるでしょう。
 教師の日頃からの取り組みで重要な点は、
1 忘れ物をしたら、少なくとも授業が始まる前など、なるべく早く担任に報告させる。
2 授業中は、学習規律としてつぎのことを徹底する。
(1)教科書を忘れたときは、隣の友だちに了解をとって見せてもらう。
(2)ノートを忘れたときは、教師の机に置いてある用紙を使用する。
(3)筆記用具は、落し物などで集めてある用具から借りる。
(4)宿題を忘れたときは、朝の時間などを使って一問でも取り組む。
(5)物を借りたら、マナーを守って使い、感謝の気持ちを伝える。
 以上のように、忘れ物をした子どもが何をすればよいかを決めておきます。
 周りの子どもたちに迷惑をかけずに全員が授業に集中できるよう、担任が意識的に取り組まねばなりません。
(釼持 勉:公立高校・小学校教師、東京都教育庁・東京都立教育研究所・東京都教職員研修センター指導主事、小学校長、東京学芸大学特任教授、帝京大学教授などを歴任した)

 

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教師が教えたいことは、子どもたちにあえて教えずに、子どもたちに考えさせるとよい

 教材研究をしていて教師が面白いと思った部分を、授業中、子どもたちに熱く語っても、子どもたちは引いてしまいます。
 面白い部分に子どもたちをうまく引き込むためにはどうすればよいのでしょうか。
 教師が面白いと思ったことや教師が意欲的に調べたことは、子どもたちに全部教えたくります。
 しかし、教師が一方的に説明しようとすると、子どもたちは受け身になってしまうので、考えなかったり、気づきが起こらなかったりします。
 したがって、子どもたち自身で面白い部分をじっくりと味わえるよう、自分たちで気づかせるような工夫をしてみてはいかがでしょうか。
 教師が、子どもたちに教えたいと思ったりした面白い部分の指導のポイントは、あえて、直接、子どもたちに教えないというのがコツです。
 子どもたち自身で考えてみるプロセスを経由させてみればよいのです。
 まずは、発問を授業に取り入れることから始めてみましょう。成功しても失敗してもまずはやってみることが大切です。
 一番簡単なことは、ふだんの授業での問いで、問いを子どもたちに投げかけた後「どう思う?」と言って、少し間を取る。
 そして、クラス全体を見渡す。指名はしなくても構いません。その間の取り方に教師自身が慣れることです。
 成功した場合は、どのようにすれば良いのか実感でき、自身の力になっていきます。
 また、うまくいかない場合は、次にどうすればよいのか、何を工夫することができるのか、きっかけをつかむことができます。
 それができるようになってきたら、何か言いたそうなそぶりを見せている子どもに「どう思う?」と振ってみましょう。
 もし、その子どもが答えられたら、しっかりと教師は反応し、授業の流れに戻ります。
 たとえ答えてくれなくても、次第に発言できる雰囲気ができれば良しと考えましょう。
 このように、授業で「発問する」→「間を取る」ということに慣れてくれば「この先生は、何か尋ねてくるな」と、子どもたちは教師の話にしっかりと集中するようになり、子どもたちも考えるコツのようなものがつかめてきます。
 そして、教師の方も、話し方のコツのようなものがつかめてくるはずです。
 発問は子どもたちを主体的にさせる働きがあり、次のような効果が期待できます。
(1)教材との主体的な関わりをもたせる
 教師の発問によって「いったい何?」「どういうこと?」と子どもたちは教材に引き込まれます。
 教師が一方的に教えこむのではなく、教材の本質を子どもたちに気づかせるように工夫すれば、自ずと教材に集中するようになります。
(2)授業内で共同的な学びを作り出す
 1つの発問が、クラスの中のコミュニケーションを作り出します。
 例えば、英語の授業で子どもたちに写真(黒色の背景に白い煙のようなものが写っている)を見せて
「What is something white in the picture?」
 という問いに対して、様々な意見が出る中で、焼き畑ではないかという意見に、クラスの子どもたちが感心します。
 他の子どもたちがどのように考えたかを共有することで、クラス全員の理解が深まり何度も教材に向き合うことになります。
(3)教師と子どもたちとのコミュニケーションを作り出す
 英語による発問をきっかけに、子どもたちが英語で答えることがあります。
 それをうまく拾って子どもたちと英語でコミュニケーションすることができます。
 ふだん発言の少ない子どもたちが思いもよらず授業に貢献することがあるかもしれません。
 教師は、その子どもの発言を通して子どもをほめることができます。
(4)教材が扱う多様なトピックについて子どもに考えさせる
 子どもたちの生活や経験は狭く、日頃考える内容も限られているものです。
 しかし、英文を通して、ふだんは考えることのないような環境問題や平和問題などを考えさせるきっかけを作り出します。
(5)自分自身の考え・意見・感情に気づかせる
 問いに対する答えを探すなかで、子どもは「自分はどのように感じ、どう考えるか?」と、自分自身のことを考えることになります。
 例えば、夜の地球の写真を見せここから何を感じるかと問えば、資源を大量消費している日本に住む、自分の問題として環境問題を考え始めることになります。
 このように教師の発問は、子どもたちをとりまくものとの関わりを生み出すものとなり、豊かな授業づくりをする上で、大きな教育的な役割を持っていることがわかります。
(田中 武夫:山梨大学教授、田中 知聡:公立中学・高校教師)

 

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どんなときにも子どもたちが行儀よくする学級つくりとは

 信頼できる教師がいるときは、子どもたちは品行方正にふるまい、一生懸命勉強する。
 ところが、その教師が病気や出張で休むと、教室が喧噪のるつぼに一変するというのは、よくある光景だ。
 子どもたちがどんなときにも行儀良くふるまう教室を育もうと、私はさまざまな方法を試した。
 ある晩、大好きな本「アラバマ物語」(注)よりヒントを得て、子どもたちが人間として成長する六段階(倫理的発達の六段階説)は、行儀よくふるまうことを生徒に教えるのに適用できるとひらめいた。
 私は授業がはじまる最初の日に、次の六段階を子どもたちに教える。
(1)レベル1「怒られるという面倒を避けたい」
 教師が生徒を怒り、罰する。子どもたちは怒られたくないから行儀良くふるまう。
 表面的には子どもたちは効くが、私の怒りを恐れること以外、子どもたちは何も学ばない。
(2)レベル2「報酬がほしい」
 行儀よくふるまうことで、報酬を与えられれば、子どもたちは繰り返すようになる。
 脅かすよりはましであるが、危険なのは、正しいふるまいをしたから子どもに贈り物やお金をやることである。
 正しい行動は望まれるものであって、報われるものではない。
(3) レベル3「誰かを喜ばせたい」
 子どもは成長すると、人を喜ばせるために、何かをするようになる。「見て、お母さん、これ、すごいでしょう?」
 多くの子どもたちは、親や教師を喜ばせることに日々を費やす。
 そうした子どもたちは、成長して欲求不満の大人になり、仕事を嫌い、なぜ自分の人生が満たされないのか理解できない。
 たしかに、少なくともかれらは誰かを喜ばせようとした。しかし、もっと上をめざせると思うのだ。
(4)レベル4「ルールに従う」
 この考えは近ごろたいへん人気がある。
 多くの生徒が行儀の悪いふるまいをするため、たいていの教師は、クラスがはじまる最初の日にルール決める。
 いい教師は、ルールがなぜ必要か、その説明に時間をかける。
 多くの創造的な教師はクラスの基本的なルールづくりに生徒を参加させる。
 ルールづくりに関われば子どもたちは従う努力をする、という考えだからだ。
 しかし、ルールがすべてではないことを教える必要がある。
 歴史上の偉人のように、ルールを踏み越えて前進しなければならないときもあるということを。
(5)レベル5「他人を思いやる」
 かなり高度で大人にとっても達成するのは容易ではない。
 身につけさせたかったら、周囲の人たちに共感できる能力を養う必要がある。
 このレベルは例えば、バスのなかで携帯電話に向かって大声で話す人はいないだろう。映画館の切符売り場の列に割り込む者もいないはずだ。
 どうすれば、この考えを生徒たちに伝えられるだろうと悩んだ末に「アラバマ物語」のアティカス(父親で弁護士)が娘(スカウト)にアドバイスするときの説明がよいと気づいた。
「人を理解しようとしても、その人の立場に立って物事を考えてみるまでは、本当には理解できないんだよ・・・・・その人の皮膚の内側に入り込んで歩き回ってみるまではね」
 私の子どもたちの多くはこのアドバイスを真摯に受け止め、やがてその考えは急速に広がった。
 じきに、ほぼすべての子どもたちが他人のことを非常によく考えるようになった。親切は本当に伝染するのだ。
(6)レベル6「個人的な行動規範をもち、それに従う」
 達成するのがもっとも難しいものであり、教えるのも難しい。
 個人の行動規範はその人間の魂の内部にあるからだ。
 私は、子どもたちが他人のなかにそれを見出すのを助けてやる。
 例えば、毎年、私が受け持つ五年生の生徒に、ジョン・ノールズの「友だち」というすばらしい本を読む。
 この本の主人公のフィニアスは並外れた運動能力の持ち主で、レベル6の考え方をもっている。
(注)アラバマ物語は、弁護士である父・アティカスが黒人差別に真っ向から立ち向かうことを通じた娘スカウトの心の成長をえがいた。
(レイフ・エスキス:UCLA大学院卒、米国の教育を根本から変える力を秘めた小学校教師。ロサンゼルスの犯罪の多発するロサンゼルスの貧困地区の移民家庭の子どもたちが多く通う小学校のクラスを30年以上受け持ち、学力を飛躍的に伸ばし、品格のある子どもを育て、教師として初めて、アメリカ国民芸術勲章を受章。
 英語が第二言語である子どもたちが自発的に朝6時半から放課後5時過ぎまで学校に滞在、教科の勉強のほか、ビバルディを演奏し、ロックバンドを組み、シェークスピア劇の練習をし、週末には名画を鑑賞する。教え子は続々と名門大学に進学し、医師や科学者を輩出。毎年上演するシェークスピア劇が高く評価された)

 

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子どもたちは最も厳しい教師の批評家である

 休憩時間に教室でくよくよ考えながらギターのレッスンの準備をしていた。
 私はかなり不幸そうにみえたのだと思う。
 最初にクラスに戻ってきた、おとなしい少女シーラが私のそばに歩みより、
「大丈夫ですか、エスキス先生?」と言った。
 私は大丈夫だと答えたが、どんな教師でも知っていることだが、5年生にウソをつくことは不可能である。
 つねに真相を見抜く。
 能力の高い子どもたち数人に非難されて、私がギブアップ寸前だということはわかっていた。
 シーラは、
「先生は、そばにいるときの子どもたちのことしか知らないんです。先生はあの子たちをとても愛しているから、ほんとうの姿が見えていないんです」と言った。
 この発言は私を深く考えさせた。
 私に対してもっとも頭にきている子どもたちこそが最良の子どもだったことに私は気づいた。
 私を非難攻撃した潜在能力の高い彼らを見て、私はその能力を生かし、高めるためにプレッシャーを強めた。
 だが、興奮した私は、これらの子どもたちに、さまざまな可能性のある道を示すのではなく、特定の道を無理強いし、ほかの可能性を考えるチャンスさえ与えなかった。
 そのことに私は気づいていなかった。
 私は子どもたちの目を通して、自分のクラスを振りかえってみる必要があった。
 そこで、以前に担任していた子どもの何人かと幾晩か一緒に夕食を食べた。
 私はほとんど語らず、聞き役にまわった。
 彼らから多くを学んだ。それが本当の教育だった。
 彼らは、勉強ができることと性格とを混同してはならないことを教えてくれた。
 この学校に赴任してきたとき、最初に私は子どもたちの学力の低さにショックを受けた。
 そのため、始めの数年間、子どもたちの学力を上げることに専念していたので、出来のよい子どもと最良の人間とを混同していたのだ。
 ある子どもが特別かどうかを決める前に、同級生がその子についてどんなことを言っているか聞いたほうがいい、ということを私は学んだ。
 子どもたちは私はより、子どもの価値や潜在能力を判断する力にたけている。
 教師や親は、きわめて限られた視点しかもっていない。
 たしかに、私たちは言いたいことがたくさんあるが、子どもたちだってそうなのだ。
 子どもたちをいろいろな角度からみられるようになれば、どんなときに教師が子どもたちに犠牲を払えばいいかもわかるようになる。
 子どもの魂を救うのは教師の仕事ではない。
 子どもが自分自身の魂を救う機会を提供するのが教師の仕事である。
 私が犯した最大の過ちの一つは、子どもたちのために「何がベストか」を知っていると思ったことだ。
 算数を学ぶために朝早く登校し、そして、シェークスピアを学ぶために遅くまで学校に残っているように子どもたちに要求したのはそのためだ。
 子どもたちは、そのようにしないと私に認められないとプレッシヤーを感じたようだ。
 子どもたちがそうするのはよいことだが、そんなことをしなくても罪悪感を感じずにいられる選択肢がある、と子どもたちが感ずる必要があったのだ。
 私は子どもたちに多くの機会を提供することによって、教え方を改善する必要があった。
 と同時に、子どもたちがどんな道を選ぼうと、その道がたとえ間違っていることを私が知っていたとしても、支えてやる必要があった。
 道が間違っているとしたら、子どもたちが自らそのことを見出さなければならないのだ。
 以前、私が担任した子どもたちの言うことに耳を傾けることで、私は驚くほど多くのことを学んだ。
 彼らはもっとも厳しい私の批評家であると同時に、この世で最高の友人だった。
(レイフ・エスキス:UCLA大学院卒、米国の教育を根本から変える力を秘めた小学校教師。ロサンゼルスの犯罪の多発するロサンゼルスの貧困地区の移民家庭の子どもたちが多く通う小学校のクラスを30年以上受け持ち、学力を飛躍的に伸ばし、品格のある子どもを育て、教師として初めて、アメリカ国民芸術勲章を受章。
 英語が第二言語である子どもたちが自発的に朝6時半から放課後5時過ぎまで学校に滞在、教科の勉強のほか、ビバルディを演奏し、ロックバンドを組み、シェークスピア劇の練習をし、週末には名画を鑑賞する。教え子は続々と名門大学に進学し、医師や科学者を輩出。毎年上演するシェークスピア劇が高く評価された)

 

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子どもたちが安心できる学級づくりは、どうすればよいか

 子どもたちがもっと恐れていることは、叱られること、恥をかかされること、級友たちの前でバカみたいに見えること、悪い成績をとること、親の怒りを買うこと。
 教師が恐れていることは、かっこ悪いこと、子どもたちに好かれないこと、言っても聞いてもらえないこと、子どもが自分の手に負えなくなることを。
 私が新任のころ、学校がはじまる最初の日に子どもたちを威嚇する計画を立てた。
 私がボスであることをはっきりわからせたかったのだ。同僚の何人かも同じことをした。私たちは、子どもたちに秩序を守らせることに成功したと思い込んでいた。
 だが、正直になろう。いくら効果的であっても、手段を選ばないやり方は、教育的に見て正しい方法だとはいえない。もっとじょうずなやり方があるはずだ。
 ある日、優れた教師が語っているビデオを見た。彼は、教えるときやしつけをするときには、つねに子どもの立場に立って物事を見、教育手段の近道として恐怖を用いてはいけないと言っていた。
 私たちは、子どもたちがよりよい人間になるのを助けてやるべきなのだ。
 実際、その後の教員生活を通して、教室の雰囲気を改善すれば子どもたちをいろいろなことに挑戦させやすくなることを知った。
 恐怖のない教室をつくりあげるのは簡単ではない。何年もかかるかもしれない。しかし、やってみる価値はある。
 今の私の学級には、恐怖はない。私の教室を訪れた人がいちばん感心するのは、子どもたちの学力でも、私の授業の仕方でも、手際よく飾られた教室の壁でもない。
 クラスの雰囲気に感嘆するのだ。静かで、信じられないぐらい礼儀正しい。安らぎの場所であることを。私は、つぎのように努力している。
1 信頼感を持たせる
 新年度、学級がスタートする日、私は子どもたちと、話し合う。
「大抵の学級は怖さがもとになっているけれど、この学級は信頼がもとになっているんだよ」と私は言う。
 私が本気であることを子どもたちが知るのは、私の行動を通してである。
 私は信頼のエクササイズと呼ばれるものを例にとって、生徒たちに信頼の大切さを説明する。
 そのエクササイズはごく単純で、一人が後ろに倒れ、それを仲間が抱きとめるてやるというものだ。
 そのエクササイズで、もし、友だちが冗談半分であなたを落としてしまったらどうだろう。
 その友だちへの信頼は永遠に損なわれるにちがいない。たとえ彼が謝り、二度と落とさないと誓ったとしても、あなたは安心して倒れかかることはできなくなるだろう。
 つまり一度失われた信頼は、簡単には修復できないのだ。そのことを私は子どもたちの心に深く刻み込む。
 もちろん、子どもたちは信頼をこわすことがある。そのときは信頼を取り戻す機会をあたえられるべきだ。
 しかし、それには長い時間がかかる。子どもたちは私からの信頼を誇りにしており、それを失いたくはない。実際、失うことはめったにない。
 私は、子どもたちに求める信頼に自分が値するかどうか、日々、確かめるようにしている。
 私はあらゆる質問に答える。以前に尋ねられた質問でもかまわない。
 自分が疲れていてもかまわない。私が心から子どもたちに理解してもらいたがっている、ということが、子どもたちに見えなければならない。
 理解してもらえなくても、がっかりせず、私は何度でも挑戦する。
 アランという子は、かつてこう言っていました。
「去年、ある先生に一つ質問をしようとしました。そしたら、その先生は怒って言いました。『それは前にも教えたでしょう。あなた、聞いていなかったのね!』って、でも、ぼくは聞いていました! ただ、理解できなかったんです」
「レイフは、ぼくが理解するまで、500回でも答えてくれます」
 親や教師は、たいていしかるべき理由があってだが、いつも、子どもに腹を立てる。
 でも子どもが何かを理解しないからといって、いらつくべきではない。
 子どもたちの質問に対する私たちの忍耐強い肯定的な態度が、ゆるぎない信頼感をつちかってくれるのだ。
2 約束は守る
 大人は子どもに約束し、きちんとできたらご褒美をあげる。
 安易に約束し、大人が約束を破ることが問題なのだ。
 信頼を損なうことは何が何でも避けなければならない。
 親や教師は約束を守る必要があるのだ。
 もし金曜日に図工の特別な課題学習をはじめると子どもたちに言ったら、木材や絵筆を手に入れるため、早朝四時に24時間営業のホームセンターに買い物にいかなければならないとしても、約束どおり図工の課題学習をやらなければならない。
 いつもあてにできることが、信頼感を築く最良の方法なのだ。ありきたりな言い方だが、言葉よりも行動が多くを語るのである。
3 しつけは合理的に
 しつけについて、けっして忘れてはならないことがある。
 子どもたちは、厳しい先生は受け入れても、不公平な先生は毛嫌いする。
 罰は犯した罪に見合ったものでなければならないのに、往々にしてそうではないのだ。
 いったん子どもたちがあなたを不公平とみなせば、あなたは子どもたちの信頼を失う。
 不公平な罰や、筋の通らない結末について、私は子ども達からさんざん不満を聞かされてきた。
 一人の子どもが教室内で勝手なふるまいをする。
 すると教師が、その午後、クラス全員でやることになっていた野球をやらせないことに決める。
 子どもたちはしぶしぶ従うが、内心、猛烈に腹を立てている。
 もう一つよくある例はこうだ。
 ジョンは算数の宿題をしてこなかった。罰として、休み時間にベンチに座っているように言われた。そこには何の関連性もない。
 私たちのクラスでは、何らかの活動の最中に行儀悪くしたら、その活動への参加を禁じられる。それが最高の罰である。
 たとえば、子どもが理科の実験中に不作法なことをしたら、私はただこう言う。
「ジェイソン、きみは器具を正しく扱えないようだ。グループの外に立っていてくれないか。実験を見ててもいいが、参加はできない。明日、チャンスをあげるよ」
 野球の試合中、文句ばかり言ってきちんとプレーできない子は、ベンチに座っているよう命じられる。
 それは論理的である。そして子どもが正しくプレーできるようになったら、かならずもどれるようにするのだ。
4 教師が子どものお手本になる
 子どもたちはあなたをお手本にする。
 教師はたえず子どもたちに見られていることを忘れないでもらいたい。
 だから、あなたは子どもたちになってもらいたい人物にならなければいけない。
 私は子どもたちに行儀のいい努力家になってもらいたい。
 ということは、私もとびきり行儀のいい努力家になったほうがいいということだ。
 子どもたちを騙そうなんて考えてはならない。そんなことをしたら、すぐに見破られてしまうだろう。
 子どもたちに信頼してもらいたいなら、いつも気をつけて、努力する必要がある。
 ある教師は学校に遅刻していた。その教師は子どもたちの信頼を失った。
 遅れるということは、自分にとって子どもは大切でないと告げたも同然なのだ。
 それなのに、どうして授業をまじめに聞く気になるだろう。
 その教師が授業をしている間、子どもたちはうなずいているが、心のなかでは「ふざけんじゃないよ」と思っているのだ。
 私は若い頃、よく怒って、いらついたものだ。それは間違いだった。
 ささいなことで怒っていたら大きな問題など扱えない。
 子どもを脅しつければ、言うことを聞くだろう。
 しかし、それがあなたの望みだろうか?
 生徒たちは、専制君主ではなく、擁護者を必要とする。
 私は若いとき、さんざん独裁者を演じたので、専制君主の無益さをを知っている。
 近ごろわかってきたのだが、堅牢でなごやかな避難所を教室につくってやれば、子どもたちは自信をもった幸せな人間へと成長する機会をもてる。
 何とか努力して、教室から恐怖を取り除いてほしい。
 そして、公平で、合理的であってほしい。
 そうすれば、あなたは教師として成長するだろう。
 子どもたちは、あなたが築いた安全な避難所でみごとな進歩をみせて、あなたを驚かせ、そして自分自身にも驚くだろう。
どうか私を信じてもらいたい。
(レイフ・エスキス:UCLA大学院卒、米国の教育を根本から変える力を秘めた小学校教師。ロサンゼルスの犯罪の多発するロサンゼルスの貧困地区の移民家庭の子どもたちが多く通う小学校のクラスを30年以上受け持ち、学力を飛躍的に伸ばし、品格のある子どもを育て、教師として初めて、アメリカ国民芸術勲章を受章。
 英語が第二言語である子どもたちが自発的に朝6時半から放課後5時過ぎまで学校に滞在、教科の勉強のほか、ビバルディを演奏し、ロックバンドを組み、シェークスピア劇の練習をし、週末には名画を鑑賞する。教え子は続々と名門大学に進学し、医師や科学者を輩出。毎年上演するシェークスピア劇が高く評価された)

 

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大人が本気を出したら子どもが変わり、こちらを向く

 教育というのは、火を点けることです。
 みなさんは、教師が子どもに火を点けることと、思っているでしょう。
 そうではなく、子どもが教師に教育の火を点けることなのです。
 子どもたちからの、メッセージを本当に教師が受けとめて、教師が「これまでの自分たちの実践を見直す」という実践の火を点ける、というのが私の持論であります。
 私の尊敬する山口良治先生は「子どもたちの問題行動は愛を求めるシグナルだ」と、おっしゃっている。
 そのとおりですね。私はこれをたくさんの事例で見てまいりました。ある事例を話してみましょう。
 ある不登校の子どもを母親がなんとか登校させたいと、子どもが欲しいと要求したものをみんな買ってやった。
「マンション買ってくれたら、学校へ行く」と子どもが言ったときも、何と本当に親がマンションを買ったのです。それでも、また学校に来なくなりました。
 それで、親ともめた時、子どもがマッチに火をつけて親に「おれの言うことを聞かなんだら、家に火を点けてやる」「こんな育て方しやがって!」と、子どもが言った。
 母親はそこで本気になった。
 その母親は素晴らしかった。
「あんたは私が腹を痛めて生んだ子や!。あんたと死ねるなら本望や!。さあさっさと火を点けなさい!」と母親が叫んだ。
 子どもは手をぶるぶる震わせながら、初めて本当の親の愛を知った。
 そして、火を消して、ワァと泣き出した。
 それから三日後、子どもは学校に来だした。
 このようにね、子どもがどう進んでいいか分からない、曖昧模糊としているところに、バチッと切り込んでやったりすると、パッと方向性が見えてくる。
 ここで子どもの姿勢が変わるんです。
 親の姿勢というものは、ものすごく大事です。教師も一緒なのです。
 われわれ大人が本気を出したらどれくらい子どもが変わるか。
 大人が子どもたちに全力を懸けていった時、こちらを向くのです。私は絶対いけると確信しています。
 熱血教師はいらない?。私は違うと思うね。
 教師が体を張って子どもたちの世界に飛び込んだ時には、子どもたちから「勇気をもらう」という大変なお土産をくれます。
 私は子どもたちの世界に飛び込む時に、子どもたちに、「見どころがある。素晴らしい。きっと伸びる」と、確信を持って愛と敬愛を放り込みます。
 イエローハット相談役の鍵山秀三郎さんもつぎのように言われています。
「心温かいきは万能である。感謝に勝る能力なし。感謝の心がまことの働きを生み出す」
 見事な切り口です。
「不利なものを切り捨てるなら、知恵も才覚もいらない。冷酷な気持ちさえあればよい」
 とも言っておられる。
 私はどこの学校へ行っても子どもたちに「おはようございます。おはようございます」と声を掛けています。
 十分躾けられていない子どもに対して、学校の先生が特にそうですけど、「おはよう」と子どもたちに言っている限り、ずっと子どもたちから「おはようございます」とは返って来ませんからね。
「おはようございます」と、常に言い続けるのはとても大事なことです。
 子どもたちに「おはよう。おはよう。お前、ちゃんとおはようございますと言わんか」なんて言っていると、絶対あいさつしませんよ。
 あいさつというのは、こちらから丁寧にかつ、さわやかに「おはようございます」と言って、やり続けることです。
 さわやかにというところがミソです。
 うちの今の学校も、行った時には、ほとんどの子はまったくあいさつしませんでした。
 けれども、それが変わってくるのです。
 とにかくずっと言い続けますと、変わってくる。
「心温かきは万能」なのです。
 万能なのですね。万能。
 すごいことだと思います。絶対間違いない。私は確信をしています。
(中村 諭:1948年-2003年、兵庫県生まれ、大阪府・兵庫県公立小中学校教師、野球部監督、兵庫県指導主事、兵庫県公立中学校校長を歴任した。ドラマ金八先生のシナリオ一部として採用・放映される。読売教育賞児童生徒指導部門優秀賞受賞)

 

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子どもが自分で答えを見つけたときのほうが、感じる喜びも大きく、記憶も強く刻まれるので、あえて答を教えない

 高校教師で高校サッカーの名監督として知られる大瀧雅良さんは、あえて“答えを教えない”というスタイルだ。
 練習中に生徒にぶつけられる「考えろ」という言葉は、大瀧さんの口癖であると同時に、指導の信念でもある。
「教えてもらったものは身につかない。教えて育てていると、いざ勝負というときに、『何か教えて』と頼ってくる」
「生徒が自分で考えて、自分で見つけた答えだけが、自分のものになるのです」
 番組放送時に中学英語教師であった、田尻悟郎さんの授業も、あえて答えを教えないスタイルだった。
 田尻さんはパーマー賞(英語教育界最高の栄誉)を受賞し、生徒たちにやる気を起こさせるマジシャンと呼ばれる。
 田尻さんは、これから習う英語の構文を生徒に問いかけ、意味を自分で調べさせていた。
 悩む生徒がいても正解を教えない。
 わからなければ、生徒たちは必死に答えを探そうとする。
 そうやって見つけた答えなら、簡単には忘れない。
 だから、答えがわからないときでも「ほったらかしでいい」と、田尻さんは言う。
「自分の手で調べた結果、間違った答えに行き着くこともあるでしょう」
「それでも、何かを調べるという過程で彼らはすごく頭を使うわけです。そこが重要なんです」
 学校の授業などでも、問題に対する答えを見つけると、子どもの脳の中ではドーパミンが放出される。
 ドーパミンは喜びや快感を生み出します。
 最近の研究では、人に答えを教えられたときよりも、自分で答えを見つけたときのほうが、より多くのドーパミンが放出されることがわかってきている。
 子どもの自発性に任せたほうが、感じる喜びも大きく、記憶へも強く刻まれる。
(茂木健一郎:1962年生まれ、脳科学者。ソニーコンピュータサイエンス研究所上級研究員)

 

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授業例:理科(中学校・物理):弾性ってゴムにしかないの?

 授業は学習課題方式で行います。
課題提示「物体に力が働くこと」
1 授業の目標
 物体は、力を受ければ、速さや向きを変えるなど運動を変えるか、変形します。このことを「ゴムやバネにだけでなく、すべての固体に弾性がある」ことを獲得させます。
 そして、後半には、分厚い実験机さえも変形することから、力と変形の視点を獲得させます。
2 導入の説明
教師:「それではワークシートを配ります」(列ごとに配布します)
教師:「今日は、力と変形について学習します。物体に力が働くと、物体にはどのような変化が起こるでしょうか」。教師が、実験机の上でバレーボールを転がしたり、押したりしてみせます。
生徒:「転がったり、へこんだりする」「物体が動く」「形が変わる」・・・・・
教師:運動の状態が変わる、変形、弾性、弾性限界など、力が加わることの結果と弾性について説明し、共通の認識を生徒に持たせます。
教師:「弾性を示すものを挙げてください」
生徒:「スポンジ、飛び箱の踏切板、空気入れ・・・・」
教師:「弾性を示さないものを挙げてください」
生徒:「ガラス、石、鉄、銅、アルミ缶、木、金属・・・・・」
教師:「いろいろ弾性を示さないものが挙げられましたね。それでは課題をだします」
(ワークシートに次の課題がある)
課題「鉄やガラスの棒は弾性を示すでしょうか?」
3 予想:
ア-鉄の棒は示すがガラスの棒は示さない 
イ-ガラスの棒は示すが鉄の棒は示さない 
ウ-両方とも示す 
エ-両方示さない 
オ-見当がつかない
4 予想と討論
教師:「課題を考えるにあたって質問のある人」
生徒:「ガラス棒はどのくらいの太さですか?。・・・・・」
 質問を受けて、疑問をはっきりさせ全員に課題に取り組ませます。
教師:「予想を決めた人は理由を書いてください。前に勉強、実験、経験したこと。見たり聞いたりしたことなどを根拠の材料としてください」
 3か月ほど続ければ、4分ほどで予想と理由を全員が書けるようになります。
 予想を板書したあとに、それぞれ理由を発表させます。
ア-鉄の棒は示すがガラスの棒は示さない 5人
イ-ガラスの棒は示すが鉄の棒は示さない 2人
ウ-両方とも示す            6人
エ-両方示さない           13人
オ-見当がつかない           0人
 討論が終わったら、予想の変更を認め、もう一度自分の考えを書かせます。そして、予想分布をもう一度板書します。
5 実験-課題解決
 実験台の上に、生徒用のイスが2つ置かれ、そこに鉄棒が2本橋渡しされています。
 1本には100gの重りがぶら下げられています。
教師:「もう少し重い、フックを使って1kgの力学台車をぶら下げてみましょう」
 さらに、台車を1,2,3台とぶらさげ、鉄棒をしならせます。
 重りを取り去ると、またまっすぐになっています。
 今度は1m以上の長さのガラス棒2本を、先ほどの生徒用のイスにのせます。1本に100gの重りを1つずつ下げていきます。
 600gほどで大きくしなります。重りを取り去ると、元に戻ることを見せます。
6 発展
 生徒の思考を揺さぶるために、レーザー光線を用いた光てこで、実験用机が変形するかを問います。
 分厚い実験机の上にレーザー装置をセットして、鏡を貼り付けた黒板に向けます。
 レーザー光が天井に反射して見えます。
 教師が机の上に乗ると、レーザー光が移動します。
 実験机も弾性を持ち、力を受けて変形しているのがわかります。
「すべての物体は弾性を持つ」と納得してくれます。
(松本浩幸:1963年生まれ 北海道公立中学校教師)

 

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教師が授業するうえで知っておくべきこととは

 たとえば、理科の授業を受けた後、自然(物質)の姿(自然像)がとらえられているようになっていることがベストです。
 あれもこれもの内容を教えるよりは、内容をしぼり、その内容を豊かに扱ったほうが、授業後、頭に残りやすいのです。
 自然科学の基礎的で本質的な内容(より適用範囲が広く一般性があり、具体的な事実や現象にぶつかったときに生きて働く知識になるもの)を、1時間1時間の授業で扱いたい。
 授業の導入はよく考えたいものです。
「この時間はこの課題を全員で考えよう」と、その授業の要になる課題を出してもいいし、はっとするような事実を見せてもいい。前時の復習から始める人が多いのですが、一番よい方法か考えものです。
 導入で子どもを引き込んだら、できるだけ早くその時間の「中心」に迫っていきます。
 子どもが「この時間は、こんなことを学習するんだ」ということが鮮明にわかるようにもっていくことです。
 子どもに考えさせるときは、子どもが「考えるもとの基礎的知識を持ち、考える方法を知っている」ときです。
 その場合にも、教えてしまうと考える機会を奪うことになります。
 考えさせるときには「発問」が行われます。
 前提は「発問」の意味が全員のものになっていることです。
「発問」は、「電波とは何か?」といった漠然としたものよりも、
「電波はどこにあるか?」「電波がきていることをどうやって知ることができるか?」など具体的なものがよいです。
 漠然としたものになりやすいときには、選択肢を3つ、4つつけると考えやすくなります。
 教師は一般に発問すると、瞬間的に答えを要求しがちです。
 しかし、その発問が、その時間の核となる主発問であれば、考えるゆとりを与えたいものです。
 ノートに「自分の考え」を書かせると、そのゆとりを取りやすくなります。
 全員が、それぞれに精一杯考えて、それらの考えの交流から授業を進めたいのです。
 ノートに自分の考えを書かせたり、作業させたり、問題を解かせたりしているとき、机間巡視を行い
ます。
 取り組みの弱い子どもには援助・激励したりすることができます。
 予想や考えが分かれたときには、少数意見から発表させるとよいようです。
「経験」「常識」などからくる間違いは、実験などで正すことです。
 科学的認識へ至るためには、くぐりぬける必要がある間違いも多いものです。
 一言で否定しないで、その間違いの根拠(科学史の知識が参考になる)をみることにしましょう。
 子どもが学習の主体者なのだという立場で、子どもの発想、意見を大切にしながらも、教師は授業の主役として、子どもの認識にゆさぶりをかけて科学的認識をどうつくっていくかを考えて授業づくりをする必要があります。
 子どもたちは多様です。みんなと意見を言い合うことにおもしろさを感じる子もいれば、自分たちで実験することにおもしろさを感じる子もいます。
 子どもたちの多様な要求がどこかで満たされるような授業をこころがけましょう。
 授業のねらいを達成するには、内容によっては討論に、あるいは実験に時間をかけたりします。
 内容にふさわしい形態を考える必要があります。
 お話や読みものを取り入れたりすることが効果的になることもあります。
 理科の授業で、実験・観察は特に大切です。
 子どもたちは一般的に実験が好きです。ただし、“実験をやらせさえすれば楽しい、おもしろい”ということにはならないでしょう。
 実験の意味がわかり、その実験そのものにおもしろい要素があり、実験から何かがわかる、あるいはその実験から認識がさらに深まるという条件をそなえた実験をやりたいものです。
 理科の授業には、理科ならではの知的なおもしろさ、実験のおもしろさがあります。
 楽しくわかる理科の授業を構想、実施すれば、子どもたちが嬉々として学ぶ姿に教師としての快感を感じるはずです。
 そういう授業を経験すれば、教師としてのやりがいを感じ、
「好奇心にかられておもしろい教材探しをするようになる」し、
「ちょっと大変でもやりがいがある(子どもからの評判もいい)ので、授業の準備も苦にならない」ようになります。
 恐ろしいことは、マンネリズムになることです。
 教師自身がいつも新しいことを学習しようとする姿勢を持ち続ける必要があります。
 時には、これまでの授業内容、方法を否定して新しい内容、方法へと向かうことにチャレンジしましょう。
 それは、多くの経験を積んできた人であっても必要なことです。
(左巻健男:1949年栃木県生まれ、埼玉県さいたま市立中学校と東京大学教育学部附属高校教師を26年間務めた後、京都工芸繊維大学教授、同志社女子大学教授を経て法政大学教授。雑誌『理科の探検』編集長を務めた)

 

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授業で、子どもの「やる気が出ない」のは子どもの責任ではなく、教師の責任である

 授業後の子どもの感想で、非常に私が注意をひかれたのは、授業や学習というのは自分がやるものだという考えが子どもにあることです。
 授業の主人公は自分たちなんだという考えがあるように思えます。
「カンガルーの足は何本あるか、かわうその足は何本あるか」と問題を出す。これは教師の仕事です。
 そして子どもといっしょに考えるのですが、自分たち子どもが考えるために、考える材料として問題なり事実なりを先生が出してくれる。
 そして、わからないところや、自分が十分でないところを気づかせたり、新しい視点を教師が用意する。
 そして、子どもたちが主体的に、授業の主人になってしまえば、時間ははやく経過する。40分の授業が10分くらいに思える。
 子どもに自分で考えさせ、気づかせる。そのきっかけをつくってやることが、授業の中核になるわけです。
 授業というものは、根本的には、子どもの内に何事かを起こさせる仕事なのです。
 子どもの内にひとつの事件がおきる。そして子どもの内に変化が生まれる。授業は、そういう仕事ではないかと思います。
 ですから、子どもの内に何事かが起きて、それがどういうふうに進行していくかということが授業の中では、非常に大きな問題であるのではないかと思うのです。
 授業で教師が、子どもの発言を○×式にとらえてしまっていることが多い。
 子どもの言葉の根にあるもの、そういうものこそが学習の中で、実は、非常に大きな意味をもっている。
 私は、それが「ほとんど問われていないのではないか」という気がします。
 だから教師本来の仕事は、授業を組織することで、一定のことを教えるということよりも、はるかに高度の教師の力量を必要とする仕事なのです。
 教師に主題について、ある程度組織だった知識があり、そして、その事について自分なりの問題意識がないと、授業を組織するという仕事はできない。
 教師が授業を組織することによって、子どもははじめて授業の主人公になれるのです。
 ですから、子どもの「やる気がない」のは子どもの責任だ、ということは言えないんです。
 子どもが授業の主体になれないのは、やっぱり教師の責任なんです。
 教師が授業を組織する力が弱いから、子どもは授業の主人公になれないんです。
 子どもたちは、めいめいが、バラバラにチグハグな気持ちで授業に参加している。
 それでは、ほんとうの授業への集中は出てこないわけです。
 子どもへの教師のはたらきかけがなければ、子どもの中に動いているものは見えない。
 子どもたちの学習というものが敏感に、かつ明確にとらえられていないと、子どもの学習活動を組織して、質の高い授業をつくり出すことはできないのです。
 教師からの質問に、子どもから、とっさに出てきたものは、けっして知識などといえるものではないんです。
 それを吟味にかけて、根拠が明らかになったときに、はじめて知識になる。
 子どもはそういうものを持っていない。ただ参考書からうつしてきたものを知識扱いにするのは、とんでもないことです。
 子どもの知識の体系のなかに正しく位置づけられるまでは、ほんとうの知識などといえるものではないことを明らかにすることが、実は教師の仕事の核心なのです。
(林 竹二:1906年-1985年、教育哲学者。元宮城教育大学学長。斎藤喜博の影響を受け、全国各地の小学校を回って、対話的な授業実践を試みるなど、教育の現実にかかわる姿勢が関係者の共感を呼んだ。小学生を対象に行った授業で野生児アマラとカマラの絵を教材として提示し、人間とは何かを問うた)

 

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学級経営が優れていると言われている、先生のやり方とは

 学級経営が優れていると言われているT先生が、こんなことを話してくました。
「以前私は、学級全体が一つの目標をもち、いつも、その目標に向かって一生懸命に努力していく目標づくりをめざしていました。しかし、それは統制であり、競争であったようです」
「いまは、個人の目標を大切にして、一人ひとりの違いを認め合い、助け合い、励まし合う学級づくりをめざしています」
「それは、学習や生活という面より、心の奥まで知ろうとする立体的なものといえるかもしれません」
「私は、子どもたち全員と、連絡ノートを毎日のように交換しあっています」
「グループごとのグループ日誌も書かせていますが、書くことによって、考えを深めることができてきたようです」
「日記は、親にも読んでもらって書いてもらってもよいことになっていますから、ときどき親の考えも分かることがあり、非常に参考になっています」
「私は、いつでもプラス思考でいます」
「いまの子どもたちは多くの問題点をかかえ、要注意の子もかなりいます」
「しかし、私は、どの子に対しても、将来に希望を持っています」
「30人の子どもたちが、一人ひとりが違った生き方をし、それぞれにうまくいくのだと確信をもって子どもたちにも話しています」
「だって、私のようなものでも先生という仕事をさせていただいているんですから」
 いつまでも助け合う友だちであれというT先生の期待が、一人ひとりの個性を伸ばしているようです。
 また、A先生は、30センチの近くから子どもを見るようにしています。
 30センチの近くから子どもの目を見たり、口元を見たりしていると、ああ、この子の言いたいのは、こういうことなのだ。
 この子は、うまく言葉に言い出せないけれど、いま一生懸命に考えて、よい言葉の湧き出るのを待っているんだな、ということが分かると言います。
 A先生は、一時間の授業の中で、4~5人、一日では全員に、必ずこういう向き合うやり方をとっています。
 このやり方をとっていますと、子どもたちは、ウソを言わなくなり、A先生と素直に顔を合わせて、私の言うことをなんとか理解しようとつとめたり、自分の言葉で考えて、表情をつくっていくのです。真剣になっていきますね。
 A先生も、心をこめて子どもと向き合いますから、子どものことがよく分かってくるようです。
 この近さですと、怒ったり、バカにしたり、相手を無視したりということは絶対にできません。そして、いつの間にか、子どもとの一体感がうまれるのです。
 A先生は、休み時間になると、運動場に出て、子どもたちと遊んでいます。
(下村 哲夫:1935年-2004年、高知県生まれ、香川大学助教授、東京教育大学助教授、筑波大学教授、名誉教授、早稲田大学教授在職中に死去。専門は教育法制学)

 

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子どもに嫌われる教師と好かれる教師は、ここが違う

1 子どもに嫌われる教師
(1)子どもが言う、嫌いな先生は、教師の性格面と、不用意な言動がある。
 どんな先生を嫌うのか、子どもの声は率直である。
・声が小さく、ボソボソ言うので、よくわからない。
・大声ですぐにどなりつける。
・ネチネチといつまでも小言を言い続ける。
・笑い顔を少しも見せない。いつも暗い感じ。
・公平ではなく、えこひきが多い。
・すぐに怒る。
・先生の言うとおりにやれと強制して、少しでも違っていると、やり直しをさせる。
・気分屋で、態度がしょっちゅう変わる。
・私たち子どもの気持ちを少しも聞こうとしない。
・いじめや悪いことがあっても、見ぬふりをして、かくれてしまう。
・悪いことがあると、全体責任だとして、班全員に罰を与える。
(2)自分をかくす
 嫌いな先生の一つに、先生が自分のことをかくすことがあげられる。自分のことをまったく語らない教師は嫌われる。
 子どもたちは好きな先生のことについては、家族や生い立ち、趣味や長所などをよく知っている。
「先生は、みんなと同じ三年生のとき、いたずらっ子でね、木に登ったりしてよく叱られたよ」こんな話を聞いているときの子どもたちの目は輝いている。
(3)不快感を与える容姿や言葉づかい
 容姿とは、ただの外見だけではない。子どもたちに嫌われる先生のなかにつぎのようなことがある。
・いつもゴテゴテ化粧している。
・服のセンスが悪い。
・授業中、ツンとすまして、お高くとまっている。
・乱暴な言葉を平気で使う、女の先生が男みたいな言い方で押さえようとしている。
・口からいやなニオイがする。
 心のもちようが風貌にあらわれたり、体にみなぎる活力が魅力につながったりする。暗い感じや青成りびょうたんでは、子どもは教師を敬遠する。
 明るくさわやかな笑顔、さっぱりした服装、背筋を伸ばした姿勢、快い言葉づかい、心のこもった聞き方、身軽な行動などをつねに心がけていくことである。
(4)完全主義者
 すべてにきびしく、完全でないと満足しない教師がいる。
 授業の研究も、生徒指導もすきをみせない。子どもたちへの要求も厳しい。
 保護者のなかにも良い先生にあたったと喜んでいる者が多い。
 しかし、子どもたちは、決してそうは思っていない。こういう教師は、どうしても好きになれないのである。
 毎日、息がつまってくる。教師から欠点を見いだせないだけに、うっぷんがたまっていく。
 あるとき、爆発する。完全主義者の欠点は、ゆとり、すなわち遊び心がなく、他人からの批判や忠告を受けつけないことである。
 教師自身が、遊び心をもつことの意味を理解したり、自らを省みることがない限り、嫌いな先生のレッテルを張りつづけられるのである。
2 好かれる教師
(1)教え方がうまい
 教え方がうまい教師は、よく分かる授業をする。
「先生、もう終わりなの」と、子どもの心を燃やし、時間がまたたく間にすぎてしまったと感じる体験を子どもに味わせることが大切なのである。
 子どもの心理をつかみ対応することがポイントになる。
・分からない原因を探る・・・・意欲不足か、新しい体験のためか、抵抗が大きい、なぜつまずくのか。
・分かりたい気持ちを大切にする・・・・探求心、求知心を刺激する、内発的動機付けを図る。
・わかる喜びを体験させる・・・・喜びを共感し認める、満足感・成就感・充実感を味わわせる。
(2)明るくて、ユーモアがある
 いつも、にこにこしている先生、面白い先生、愉快な先生が小学生に慕われる。
 ほがらかな先生、明朗な先生、親しみやすい先生が中学生に人気がある。
 教室内の笑いは、教師のユーモアや、しゃれによって生まれる。
 ユーモアは、ほのぼのとした雰囲気を生み出し、子どもと教師の関係を和らげる潤滑剤の役割を果たす。授業に活力を与える。
 教師の性格が明るく快活でユーモアに富んでいると、その人格が、授業や学級の雰囲気ににじみでるのである。
 授業や教室での教師の明るい表情、はつらつとした態度は、子どもの目にはカッコよく映り、さわやかさを与え、好感をもって受け入れられる。
 笑いは授業の緊張をほぐし、気分を変える。「あの先生の授業は面白い」と人気があるのは、先生の話術、ユーモアのセンスにある。
(3)やる気をおこす
 子どもがやる気をおこす授業の条件は、
・子どもの人間関係を育てる・・・・学級で友だちに受け入れられ存在感を得られ、自己表現・成長欲求を満たせるようにする。
・興味・関心を大切にする・・・・教材が子どもの興味・関心を誘発するものを。
・やりぬく力を育てる・・・・基本的には、努力への承認をくり返し味わわせ、子どもに、努力すれば達成できるという成就感をもたせることが大切である。
・学び方を身につける
 子どもが自ら進んで学ぶためには、授業における課題意識を大切にする、学習の仕方を身につけさせる授業を工夫する。
・自己評価の力を高める
(4)よさを認めて励ます
 子どもに好かれる先生は、叱るときは厳しい。だが、ひとあじ違うところは、ほめ言葉、認める言葉が必ずあることだ。
「なぜ」「どうして?」という知的好奇心をつくり出し、育てる授業を工夫している。
 一緒に遊び、学び、働くなどして、よさの発見する場を広げる努力をすることである。
 一人ひとりの顔が違うように、それぞれの性格のよさを認めることが大切である。
(5)真剣に教え、導く
 教師の日々の生き方が子どもに大きな影響を及ぼす。
 教育は、教師と子どもとの人間的なふれあいを通して行われるものである。
 毎日の授業における教師の言動から、子どもは人生観や生き方を学んでいる。
(下村 哲夫:1935年-2004年、高知県生まれ、香川大学助教授、東京教育大学助教授、筑波大学教授、名誉教授、早稲田大学教授在職中に死去。専門は教育法制学)

 

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不登校の基本的な問題とは何か、不登校児と家族の生きざまとは

 不登校の基本的な問題は、外界(社会)に積極的に働きかけたり、環境に柔軟に適応したり、環境を変えていく子どもの自我が抑圧され衰弱する点にある。
 本来、能動的な活動はほとんどの子どもたちに備わっているのだが、この能力が消衰するのである。
 学校でよい評価を得ることが、子どもたちの最大の課題として押しつけられる現実がある。
 まじめに、親や学校の求めるものを先取りした子どもたちが、不登校へと陥っていく。
 おそらく、その子どもの生活史で、内的欲求や本音に基づいて能動的に外界に働きかけたときに、心に精神的な傷を受ける経験を蓄積していったのであろう。
 それは、子どもにとって、人への不信と猜疑心をつのらせていくものとなる。子どもの魂や本来の関心、感動や喜びを圧殺することになるからである。
 したがって不登校は子どもの立場からみれば、合理に従おうとする理性と、自分らしくありたいという魂が求めること、との激しい矛盾の過程である。
 多くの人々は、この合理に従い、再び登校できるようになることを治療と呼んだ。
 しかし私は、子どもたちの魂の再生に力を注いだ。
 その結果、不登校児であった子どもたちが、いきいきと活動するようになったとき、その親たちは「この子のおかげで私たちは本当の夫婦になれた。この子と共に本当の家族を生きられる」と必ず言う。
 子どもの不登校は、子どもにとっても、その家族にとっても痛ましいものだ。
 しかし、よくよく考えてみれば、その子にとって初めて家族と本音がぶつかり合い、本当の関係づくりのきっかけとなる。
 閉じこもり、時には死を思う。その過程に親たちが正面から向き合うとき、初めてその家族にとって、いきいきとした生活が始まる。
 当初は苦しみを共にし、そして後には、本当に明るくすがすがしい家族へと成長する。
 私に言わせれば、我が子の不登校と対峙し、これと格闘する過程は、その家族が真に生きることそのものだ。
 願わくば、健常と呼ばれる子を持つ家族も、不登校の子を持つ家族の生きざまを先取りして、共に死を覚悟して共生できる、真の家族へと成長していただきたい。
 心の底から安心し、信じることのできる家族があってはじめて、子どもはどこまでも自立への旅へと向かえるものなのだ。
(森下 一:1941年生まれ、精神科医。不登校児のためのフリースクール「京口スコラ」、生野学園高等学校(不登校児の全寮制中・高等学校)を開設。その活動と功績により吉川英治文化賞を受賞)

 

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授業を見せ合い力量を高めるなど、向上心に裏づけられた経験でないと何年たっても意味がない

 教師として長年やってきた人というのは、多くはプライドが高い。
 大学を出てすぐ教師になり、先生、先生と子どもからも親からも呼ばれる。本も読まず、研究発表しなくても、である。
 そんな生活を長い間続けていると、自分は本当に「先生」で、偉いのだと思ってしまうようだ。
「このやり方で長年やってきた。今まで何も問題も起きなかった。子どもたちは言うことをきいてくれた」
「今、こんなふうになったのは、私の指導力が不足しているのではない。子どもが悪くなったのだ。親の考え方も変化しているからだ」
 と、学級崩壊のクラスを抱かえている担任が話したとマスコミが伝えていた。
 その担任の同僚が「その教え方では、子どもが授業中に立ち歩くのは無理もない。ここをこう変えてみたらどうか」と、アドバイスしても、
「私は今までずっとこのやり方できた。このやり方は私の一番大切にしているやり方なので、変えるつもりはない」
 と、反論の言葉が返ってきたそうである。
 さらに「この状態を変えるため、外部の研修会に参加して勉強してみてはどうか」とすすめると、
「私は今でさえ大変な子どもたちを抱かえていて忙しいのに、外部の研修会に行く暇なんかない」
 という答えが返ってきたと、その報道は伝えていた。
 人のアドバイスが耳に入らないのである。
 今や、昨日のやり方が今日も通用する時代ではない。世の中の多くのことが昨日のやり方で、今日はギブアップしているのである。
 銀行も、大企業も、行政もである。まさに変化の時代なのである。
 教師は子どもと接する職業である。子どもは日々変わっている。親も日々変わっている。だから、教師も日々研鑽し、変わっていく必要がある。
 どんな職業でも経験はもちろん大切である。しかし、その経験は向上心に裏付けられた経験でなければ意味がない。
 ものをつくる仕事にしても、ものを売る仕事にしても、昨日よりもっと良いものをつくろうとか、もっとたくさん売ろうとか考えて、他の人のやり方を見たり、研究したりして努力するからこそ、十年経験した人と五年経験した人では違いが出る。
 人のアドバイスに耳を傾けないような経験なら、ない方が良い。
 授業を見せ合うということが、どんなに教師に力をつけることになるか、はかり知れない。
 教師は授業で勝負をする。
 授業を見れば、その教師がどれだけの力を持っているか、怖いほどよくわかる。
 教師は仲間の教師に授業を見せることによって力をつけていくものである。
 授業をやる教師はもちろん、参観する教師も、言葉に表せないほど多くの力を身につける。
 人に見てもらい批評を受けることは、人を成長させる大きな原動力になる。
 だから、教師全員がかわりばんこに授業をすることが大切である。
 全員が一年間に一回は授業を見せている学校がある。こういう学校の教師のやる気はすさまじい。
 全員が授業をして力をつけよう、子どものために頑張ろうとしている。
 自分も授業を見てもらおうと思うから、他の人の授業も真剣に見る。
 何かを得ようと力か入る。同じ授業を見ても、その解釈は教師によって違う。
 授業後の協議会でそれらが話し合われ、一人ひとりが力量を高められる。
 その視点は、
(1)子どもに意欲はあったか
(2)子どもに能力がついたか
(3)その子の良さ(個性)は出ていたか
(4)学び方を学べたか
(5)自分で評価できたか
 等である。
 よい授業とは、
(1)授業のねらいが明確で子どもにもわかる
(2)多様な学習方法が工夫され、子どもが意欲をもってとり組める
(3)身近なことを題材にして子どもに臨場感がある
 等である。
 このような授業にむけて教師は努力している。
 こうした努力こそが、学級崩壊を防ぐ有効なきめてであると、私は信じる。
(飛田貞子:元東京都公立小学校の校長)

 

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教育は修養を楽しめる子どもにつくりあげること、そのためには教師はどのようにすればよいか

 教育は修養(知識を高め、品性を磨き、自己の人格形成につとめること)を楽しむ子どもにつくりあげることが最も重要である。
 修養の味を知れば、子どもは生涯、向上発展して止まぬ。自分自身に満足を求めるから、他と比較して、羨望し、煩悶し、憤慨することはない。
 修養を楽しめる子どもにするためには、私はただ一つの方法しかないように思う。その方法とは教師がひたすら修養を楽しむということである。
 修養の味を知らない者が修養の味を知らせようということは、無から有を生じさせようと計画するのと同じで、不可能である。
 教師が修養の味をしめてさえいれば、説かなくても、その一挙一動が有力な説明である。
 教師が修養の味をしめるには、どのようにすればよいか。
 私は人間を育成する教育は、名画家や名俳優以上に、日々教壇に立って行う授業に、入神の技が必要と主張する。
 これを求めるには知識のみではだめである。方法のみでも得られない。本性に帰ることに努めねばならない。
 修養の本性は人間の本性にたち帰るという意味である。
 私は、人間の本性を定義することはできない。
 ただ明鏡の如き止水、七色の配合した太陽の光線、七情の調和した人間の本性、これらを思いあわせて、万物一如の真理を認めないわけにはいかない。
 人間の本性を悟ったものは、利害得失の思いを超越してしまう。この本性を得るには修養しかない。
 本性に帰る最も早い道は、端座瞑目して自己の内観につとめるのがよいと思う。
 私の内観の方法は、自然にまかせて、意識にあらわれるものを静かにながめて、去るものは追わず、来るものはとがめないのである。
 お金もあらわれる、美人もあらわれる、名声・利達・嫉妬・怨恨、あらゆる悪徳の行列が通る。
 あさましいが、それが七情の仮装であるからしかたがない。過ぎ行くままにまかせていおく。
 これら百鬼は次第に影を潜める。
 かつて夜も眠らぬほど苦悶したことも、児戯に等しい(たわいもない)ように感じて来る。
 こうなると一面には広々とした世界が、次第に展開して来るようになって、本性の閃きかと思われるものが見える。
 内観により、お金よりも、美人よりも名声・利達よりも、嫉妬・怨恨よりも、世相を超越した心の安住の場所が感じられ、人間の「性」とか「道」とかいうものはこれだろうかと思う。
 物があるのではない、規範があるのでもない。世の中の百事をこれに映して、即断即決してもあやまりではないように思われる。これは私一人の経験である。
 私は読書をしたり、他人の説を聞いたりして、人間の「性」とか「道」を会得しようとつとめた。
 いつのまにか自己に「性」が宿り、「道」が行われていることに気づかなかった。
 瞑目は内観を行うために最良に工夫されたものである。端座は身心を平静させる唯一の方法である。
 心身の気分に注意をすると、百鬼の往来する間は、形は端座していても、心は平静ではない。百鬼が次第にその影を潜めてくると、自ら心がひろく体がゆたかになる。
 端座瞑目して内観につとめ実行することを、一日でも怠ってはならない。
 ひたすら心がひろく、体がゆたかなる気分を得ようと端座瞑目するがよい。
 これが即ち修養である。
 内観によって得たものは、強い信念が伴っている。
 信念の伴うものは、事に当たっては融通自在である。
 茶道の達人は茶を点てる技から悟入して、天地を開拓している。
 およそ一道に名を得たる人の動作には、いずことなく典雅の趣がある。
 修養に志す者の身体的工夫の一つとして、丹田に力をこめることを説かないものはない。
 忙しいときや事件に遭遇しても、丹田に力が抜けないように修養すれば、非常時でも普通の事となり、忙中に閑を発見することができるだろう。
 私は、修養の方法として、内観につとめ継続すること、丹田に力をこめること、読書することを勧める。
 常に丹田に力をこめて、自ら内観につとめ、本性のひらめきを認めてここに心を安住し、七情の調和をたのしめば、心はおのづからひろく体はゆたかになる。
 これを何十年も実行すれば、そのうち人生の真意義が、釈然として氷解するときがくるであろう。
 修養の道場として、教室の教壇上と運動場を特にあげたいと思う。
 子どもが事件をおこしたときは丹田の力が抜け、七情の調和がやぶれ腹をたててしまう。
 後で心が平静になったとき、なぜこの事に腹をたてたのか、即ち怒る要のないときに怒ったということが多い。
 教師は太陽が年中その光を閉ざさないように、雲が光を覆うことがあっても、雲が去ると共に輝きだす態度が望ましい。
 万物は太陽の光により成長し、子どもはこれがために育つのである。
(芦田恵之助:1873(明治6)-1951(昭和26)年、兵庫県生まれ、東京高師付小学校教師、全国各地で授業をする。国語教授法や随意選題の綴り方教授法を考え実践した。小学校国語教育に多大な影響を与えた)

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どの子も「話を聞き・考え・説明」できるようにするには、どうすればよいか

1 どの子も友だちの話を聞けるようにするには、どうすればよいか
 クラスで子どもが発表しているとき、話を聞いていない子どもがいる。
 そのとき「聞きなさい!」と教師が言うのではなく、自然と話を聞こうという気持ちにさせることが大切である。どうすればよいか。
(1)「どいうこと?」と聞き返す
 一人の子どもが発表し終わったあとに、「どいうこと?」と、ときどき言うだけで、周りの子どもたちは、友だちの話をよく聞こうとするようになる。
 また、永田美奈子先生は、子どもが話したことがなかなか理解できないことが多いので、真剣に、子どもたちに、「どいうこと?」とよく聞く。
 すると、他の子どもたちが、パッと手を挙げて、もう一度教えてくれる。
(2)途中で止める
 周りの子どもたちが聞いていないなと感じたら、話をしている子どもをちょっと止める。
 その瞬間、下を向いていた子どもたちが、はっとして前を見る。
 そして、もしそれまでのことを聞いていないようだったら、申し訳ないけれど、また初めから話をさせる。
 また、途中で止めたあと、「友だちは、このあとどのように話を続けるかな?」と、子どもに投げかけることも有効である。
 このようなことを続けると、だんだんと子どもたちは、友だちの話を聞こうとするようになる。 その時に、教師が「よく聞いていたね」と、子どもたちに言葉をかけることを忘れてはいけない。
2 どの子も考えられるようにするにはどうすればよいか
 自分だけの力で解決することができない子どもがクラスには必ずいる。
 せっかく学級で学習しているのだから、友だちの力を借りればいい。どうすればよいか。
(1)となりの友だちと相談させる
「ちょっと隣と相談してごらん」と、この言葉を言ってあげるだけで、教室は、ほっとした雰囲気になる。
 一人では、考えられない子どもが「ほっ」とする瞬間だ。
 また、これは、わかったようなわからないような不安な気持ちでいる子どもにとっても、自分の考えがよさそうか確かめられる時間にもなる。
 授業は、一人で考え、その考えを発表するだけの時間ではない。もっと、自由にしゃべり、自分の考えを確かなものとしていく時間ととらえたい。
(2)ヒントを言わせる
「他の友だちが考えられるように、ちょっとヒントを言ってくれるかな?」
 子どもというのは、教師の話よりも友だちの話の方がしっかり聞くものである。
 ちょっと考えがつまっている子どもがいるなと感じたら、解決できた子どもからちょっとだけヒントを言ってもらうといい。
3 どの子も説明できるようにするには、どうすればよいか
 発表したくても勇気の出ない子どももいる。
 どのように説明したらよいのかわからなくて手が挙がらない子どももいる。そんな子どもたちには、発表の仕方に慣れさせることも必要である。
(1)友だちの説明をまねて復唱する
 一人の子が説明したとする。
「友だちが説明したことを一人1回まねして言ってみましょう」と、それを他の子どもたちに復唱させるのである。
 これを繰り返して行うと、だんだんと説明の仕方が身に付いてくる。
 また、復唱するためには、子どもたちは、よく聞いていないといけないので、聞くことも身に付けさせることができる。
(2)隣の人に説明してみる
 全員の前でいきなり説明するのは勇気のいることである。自分なりの考えができたら、
「自分の考えを隣の人に説明してみましょう」
 と、隣の人に説明してみるということを取り入れるとよい。
(永田美奈子:青森県公立小学校教師を経て、2007年度より私立雙葉小学校勤務。NHK教育番組「わかる算数」出演。全国算数授業研究会常任理事、ICT算数授業研究会理事、基幹学力研究会幹事等)

 

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保護者を巻き込む保護者参観の授業で保護者に安心感を

 保護者を巻き込む授業で保護者に安心感を、と細水保宏先生はつぎのように述べています。
 保護者がいる前で授業をするというのは担任がナーバスになることが多く、つい無難な授業を選択しがちです。
 細水先生も昔は算数で簡単な問題を出して全員が解けるようにしていました。
 でも、問題が易しいと、子どもたちはすぐ飽きてあとは遊んでしまいます。
 保護者は「うちの子にはこんな易しい問題は合わないわ!」と担任批判が始まってしまいます。
 そういった傾向を見て細水先生は、保護者会ではまず担任の教育観を見せるべきだと思うようになりました。
 例えば、今の教育で足りないのは、授業で子どもが間違える経験が少ないこと。
 間違える経験をする授業を考えました。
「間違えさせる」教材を用意すれば、保護者も巻き込むことができます。
 細水先生が行った五年生「円と正多角形」の授業では、折り紙とハサミを使いました。
 折り紙は教材開発に適していて、ノートに貼らせると子どもも喜びます。
 100円ショップで大量に買い教室に置いてあります。
 では、折り紙を対角線に合わせ(2分の1)て半分に折ります(4分の1)。さらにもう半分に折ります(8分の1)。
 すると8分の1の三角形ができるはずです。あとはハサミで切るだけ。
 授業では、まず細水先生が手本を見せます。
 折り紙を折って、最後に「いい? 一本の直線で切るんだよ」と言って切る。広げてみると、きれな正八角形。
 細水先生はこの作業を、クラス全員の子どもたちと保護者にも折り紙を配って切ってもらいます。
「では、折り紙を開いてみましょう」と細水先生が言うと、机の上に一斉に開かれた折り紙は、正八角形と思いきや、正方形、手裏剣・・・・。「え~、なんで」ざわめきが教室中に広がります。
 実は、三角形の切る箇所によって、できあがる形が変わってしまうのです。保護者も間違えているわけですから、わが子が間違えても腹が立ちません。
「みんな、間違えて当たり前。ここで成功すると算数的素質がありすぎ。先生の立つ瀬がない」と言いながら、切った折り紙を黒板に貼っていくと、正八角形とそれ以外の図形との違いが見えてきます。
 正八角形の勉強をするとき、そうでない図形をもってきて比べたほうがやかりやすいこともあります。
 ですから、あえて間違いの図形を貼って違いを見ます。
 算数的活動とは、実はこういうことを言っているのではないでしょうか。
 細水先生が「どこが違うかな?」と尋ねると、賢い子は切ったときの折り目の長さが違うことに気付き始めるでしょう。
 どう切ると、正八角形になるか皆で考えた後、今度は正方形や手裏剣にするにはどうすればいいかも考えました。
 最後に、子どもたちに、つくった図形をノートに貼らせます。
 ノートには間違えた原因を書かせてもいいし、図形に目玉をつけさせたりしてアート風にまとめさせてもいいでしょう。
 この教材で、私は親の授業観を変えたいと思っていました。
 こういう子に育ってほしいという細水先生の教育観を見せたかったのです。そうすることで親を巻き込むことができます。
 多くの保護者はわが子しか見ていません。
 わが子をしっかりと見てくれている担任に対してはあまり文句を言いません。
 担任は「あなたのお子さんをちゃんと見てますよ」とアピールすればいいのです。
「急に背が伸びましたね」と、全員に同じ一言ではなく、その子に応じた一言を伝えれば、保護者は安心してくれるでしょう。
(細水保宏:1954年生まれ、横浜市立小学校教師、筑波大学附属小学校教師、同副校長を経て、明星大学客員教授兼明星学苑教育支援室長、明星小学校長。全国算数授業研究会元会長、ガウスの会会長。全国各地の小学校で授業や講演)

 

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授業に必要なのは子どもたちに「やってよかったな」「新しいものが見えた」という想いをもたせること

 授業に必要なのは、子どもたちに「やってよかったな」「新しいものが見えた」という想いをもたせることと細水保宏先生はつぎのように述べています。
 授業づくりでは、まず「ねらい」をどうするかを考えなくてはいけません。
 ねらいは簡潔で構いません。たとえば「今日は、三角形の面積の出し方を考えさせたい」とかで十分です。
 そして、次は授業の「起・承・転・結」をどう組み立てるかを考えるのです。
 私は「結」から考えます。つまり、子どもたちが「なるほど!」と思う場面です。
 「なるほど!」がないと、子どもたちは授業を楽しめません。
 おもしろいと思ったところをどう広げるかで「なるほど」は変わります。
 「なるほど」を際立たせれば、授業に感動がうまれます。
 授業で必要なのは、子どもたちに「やってよかったな」「新しいものが見えた」という想いをもたせること。ですから、最初に「結」を考えるのです。
 次は「起」を考えます。「なるほど!」を引き出すための「起」を考えます。
 子どもたちが「あれ?」と思う場面です。子どもたちがやりたくなる、考えたくなる「あれ?」をどう引き出すのかを考えるのです。
 「はてな?」を出すタイミングのパターンが増えれば、授業の幅が広がります。
 次に「転」を考えます。授業に感動やおもしろさを演出するための「ふりかけ」を考えるのです。
 「ふりかけ」は「転」の扱いで、大きく変わります。「転」をよく練ることができれば、感動やおもしろさは倍増するはずです。
 授業づくりの参考になるのは、やはりほかの教師の授業を見ることです。
 ほかの教師の授業を見るよさは、授業者が考えた「はてな?」と「なるほど!」を「自分だったらもっとおもしろくできる」「おもしろくするには、どうすべきか?」と考えることができることです。
 よい授業を見れば見るほど、その上をめざすことができる。その結果、自分の授業レベルも上がります。
 授業をつくる視点と見る視点は、「学習のねらい」「ねらいに迫るための子どもの動き」「子どもの動きを引き出すための手だて」です。
 多くの授業は、やりたいことが多いせいか、「ふぅん」や「へぇ」でまとまりがちです。
 でも、「はてな?」が明白で、「なるほど」でストンと落とすことができれば、教室は「おぉ」となります。
 私もそういう授業にするのは難しいと実感していますが、でも、子どもたちにはできるだけ「なるほど!」と言わせたいなあ、と思いながら励んでいます。
(細水保宏:1954年生まれ、横浜市立小学校教師、筑波大学附属小学校教師、同副校長を経て、明星大学客員教授兼明星学苑教育支援室長、明星小学校長。全国算数授業研究会元会長、ガウスの会会長。全国各地の小学校で授業や講演)

 

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いじめられても親に言わない理由とは、不登校の子どもはどう働きかければよいか

 いじめられていることを、子どもが親にも相談しないのはなぜでしょうか。
 さまざまな理由が考えられます。
1 いじめ加害者に「親に言ったら殺す」などと脅され、その恐怖心から言えずにいる場合があります。
2 親に対する信頼感がなく、いじめられていると言っても取り合ってくれないと感じている。
3 立派な親であるがゆえに言えない子どももいるのです。
(1)プライドが許さないからです。友だちにいじめられているのはみじめなことなので、かっこう悪くて親にも言えないのです。
(2)自分のことを誰よりも大事に思ってくれている親であるからこそ申しわけなくて言えないのです。
(3)家の外の世界は地獄だから、せめて家の中だけはいじめに関係しない本来の自分でいられるようにしたいがために言わないのです。
 不登校の子どもはどう働きかければよいのでしょうか
 不登校の子どもが電話も家庭訪問も嫌がっている場合どうすればよいでしょうか。
 できることはあります。一つは手紙を出してみることです。
 この方法は、子どもにとっては侵入され感じが少ない。
 手紙を読むも読まないも自由だからです。
 手紙はあれこれとたくさん書かないことです。
 例えば、美術展に行った時にはがきを買って「寒い日が続きますね。その後お元気ですか。先日、美術展に行ったらこの絵が気に入ったので絵はがきを送ります。風邪を引かないように気をつけてください。ではまた」のような簡潔な内容にしておきます。
 本人と直接に関わることが難しければ、保護者との関わりを密にするという方法もあります。
 保護者が安心感を取り戻し、心に余裕が生まれれば、子どもの心にも余裕ができ、家庭の中によい循環が生まれるからです。
 待つことが大事です。教師が心を動かしながら待つのです。
 相手を動かそうとするのではなく、自分の心を動かすのです。
 どんなことで苦しんでいるのかな、今の自分をどんなふうに感じているのかな、など。教師が自らの心を動かしながら教育をおこなうことが大事なのです。
(竹内健児 1962年生まれ、奈良産業大学、京都光華女子大学、徳島大学准教授を経て、立命館大学大学院人間科学研究科教授。臨床心理士、公認心理師)

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子どもの情緒を安定させるには自律訓練法が有効である、どのようにすればよいか

 自律訓練法とは、リラックスした体勢で、決まった言葉を用いて自己暗示を行い、気持ちや体調の安定を目指す方法です。
 ドイツの精神医学者であるJ・H・シュルツが創始しました。
 自律訓練法は瞑想にヒントを得ているとされており、神経症や心身症の治療方法として考え出されたものです。
 現在では一般にも広く普及しており、気軽に実践できるセルフケア的なもの、スポーツ選手がパフォーマンスを上げるために使うもの、企業が仕事の生産性向上のために研修として取り入れるものなど、さまざまな形が生まれています。
 自律訓練法は、心身を眠りと目覚めの中間の状態に持っていきます。
 リラックスしてボーッとしているときや、うつらうつらしているときに近い心身状態を作り出すのです。
 このような、自律訓練法で作り出す、睡眠と覚醒の間にある心身の状態を「自己催眠状態」といいます。
 自己催眠状態には、心の疲れやストレスを取り去る効果があるとされていて、以下のような効用を生み出すとされています。
(1)蓄積された疲労を回復することができる
(2)イライラせず、おだやかな気持ちでいられる
(3)自己統制力が増し、衝動的行動が少なくなる
(4)仕事や勉強に対する集中力がつき、能率があがる
(5)身体的な痛みや精神的な苦痛がやわらぐ
(6)内省力がつき、自己向上性が増す
 今日、学校における自律訓練法の役割は急激に増大しています。
 小学校・中学校・高校を通じて、情緒不安定、あがり、自信喪失、対人関係の不調、学業不振、場面恐怖など、子どもが抱かえる解決すべき教育上の課題が多く出現しています。
 これらの不安や緊張に伴う問題行動の克服、心身の健康維持、ストレス緩和、さらなる教育効果の促進に、自律訓練法は有効です。
 自律訓練法により、腕や脚に重たさや暖かさを感じることによって、α・β波が出て感情の沈静化が得られます。
 訓練は、まずリラックスした身体の姿勢をとることから始まります。
 その姿勢で次の言葉を順番に頭の中で反復暗唱し、1日2回~4回、1回3~10分、毎日練習します。
 段階的に「心身の調節」を得ていくのです。
 まずは姿勢と呼吸を整えましょう。自分が楽だと感じられる姿勢をとります。椅子の背もたれにゆったりと身を任せた状態が良いでしょう。
 それから、ゆったりとした腹式呼吸を行います。口をすぼめてゆっくりと息を吐き切り、お腹に空気を入れる感覚で鼻から深く息を吸います。
 これを5~10回、気持ちが落ち着くまで続けます。
 呼吸が整い気持ちが落ち着いたら、リラックス状態を心の中でつぎのような言語公式を唱えながら、身体の感覚をイメージしていきます。
 例えば、第一公式は「手足が重たい」です。この言葉を心の中で唱えながら、手足が重たくなっている感覚をイメージします。
 第一公式:「手足が重たい」
「右腕が重たい」「左腕が重たい」「右脚が重たい」「左脚が重たい」/「両腕が重たい」「両脚が重たい」/「両手両脚が重たい」
 第二公式:「手足が温かい」
「右腕が温かい」「左腕が温かい」「右脚が温かい」「左脚が温かい」/「両腕が温かい」「両脚が温かい」/「両手両脚が温かい」
 第三公式:「心臓が静かに脈打っている」
 第四公式:「楽に呼吸ができる」
 第五公式:「お腹のあたりが温かい」
 第六公式:「額(ひたい)が涼しい」
 自律訓練法の最後には、かならず「消去動作(終了動作)」を行います。
 リラックスした姿勢から身を起こし、手足の屈伸・背伸び・深呼吸を数回ずつ行います。
 自律訓練法の効果を最大限に得るためにも、この過程を欠かさないようにしてください。
 心身がリラックスしたからといって、消去動作を怠ると、かえって脱力感や不快感に襲われることがあるのです。
 自律訓練法の教育的効果は
(1)知的側面:注意力・記憶力の改善
(2)社会的側面:学習態度の積極化、人間関係の緊密化、他者意見受容の増大
(3)情動的側面:情動の安定、忍耐力の増大、攻撃的態度の減少
 学級への適応は、担任が自律訓練法を事前に体験し、学級の日課として実施します。
 そして、子どもに記録させると、子どもの状態の確認や、技術的な誤りへの修正や助言に役立ちます。正しく理解し、実践することが肝要です。
 自律訓練法では、緊張がとれることによって、血流が増えたり、筋肉がゆるんだり、内臓の働きが活発になったりするなど、心身にさまざまな変化が起こります。この変化が、人によっては副作用につながる場合があります。
 心臓に異常のある人、糖尿病のある人、頭痛の持病がある人、脳波に異常がある人などは、一部のステップで副作用が起こる可能性があります。
 また、妄想の出る精神疾患のある人は、もともとの精神症状が悪化する場合があります。
 何かの病気や障害などですでに医療機関にかかっている人は、自律訓練法を実践する前に必ず医師に相談しましょう。
 医療機関にかかっていない人も、念のため上記に当てはまるような持病がないことを確認してから自律訓練法に取り組むのがベストです。
 自律訓練法は、心身の不調のケアだけでなく、日常の気軽なセルフケアや、仕事や勉強の能率アップのために活用することができます。
 正しい知識のもと、生活に取り入れていってみましょう。
(山崎洋史:昭和女子大学大学教授、総務省消防庁消防大学校客員教授、臨床心理士)
(「学校教育とカウンセリング力」山崎洋史著 学文社 2009年)
(井上雅彦:1965年生まれ、鳥取大学教授。公認心理師、臨床心理士、専門行動療法士、専門は応用行動分析学、自閉症と発達障害への支援、臨床心理学、特別支援教育)

 

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生活指導はどのように変遷してきたか

1 生活綴方(1930年代~)
 生活指導というのは、生活綴方の実践(峰地光重:1890~1968、小学校教諭)から始まった。
 生活綴方とは、子どもたちが日々の暮らしのなかで見聞きしたこと、遭遇した問題などをありのままに綴った文や詩を作り、それを学級のなかで読み合い批評しあう。
 その過程で「ものの見方・感じ方・考え方」の意識化をはかり、より人間らしい生活の仕方を考え合っていく。
 そのことを通じ、子どもたちは貧困や抑圧にくじけぬ意欲と知性を育み、抱かえこんだ困難な問題への共感とケアの能力を獲得していく。
2 北方性(ほっぽうせい)教育(1930年代~)
 東北地方の青年教師たちが、生活綴方の実践を発展させ、日々の暮らしから出発して、子どもに内在する意欲や要求を引き出し、高め、社会や文化をつくり変えていく主体を形成するように構想されたもの。
 戦後初期の「山びこ学校」の実践へと継承された。
3 仲間づくり(1950年代~)
 小西健二郎の「学級革命」などが代表的な実践で、学級内の力関係をみつめ直し、理不尽な支配には、みんなが連携して立ち向かっていく、そんな力を子どもたちのなかに育てようとした。
 子どもたちの生活世界のなかに民主主義を追究していく生活指導が展開された。
4 学級集団づくり(1960年代~)
 全国生活指導研究協議会(全生研)による「学級集団づくり」の実践である。
 そこでは、「集団の力」が強調され、クラス作りや行事でのクラス発表に向けた組織的な行動力と自治的な集団の統治能力の獲得が目標とされた。
 その活動の母体となる「班づくり」、学級の民主的な諸問題の解決のために主導していく「核づくり」、質を深め、その実現方法を考え合う「討議づくり」が、「班・核・討議」として学級集団づくりに定式化され実践された。
 この実践は、主として教科以外の特別活動において働きかけるものである。自治的な組織と運営の担いてになる行動能力を育てるという目的を意識して展開されていったものである。
5 異質共同型集団づくり(1980年代後半~)
 豊かな社会のなかでの、子どもの荒れ(校内暴力・不登校・いじめ・学級崩壊)の背景にある、能力主義的な競争を強いる学校や家庭での抑圧感からさまざまな問題を生みだしている。
 普通の子どものなかにも鬱屈とした感情がためこまれ「ムカツク、ウザイ」という言葉が蔓延する時代である。
 子どもを支配する学校から、コミュニティとしての学校へと子どもたちの内面と対人関係を組みかえていくような指導が求められる。
 異質共同型の集団づくりは、従来の規律重視の集団主義に代わり、子ども同士の関係性に重点をおきます。
「みんな一緒に」という力が働く学校の一元的価値の息苦しさから脱出し、子ども同士を出会い直させ、絆を編み直させる、関係性を変革に視点をおく実践である。
6 心の居場所づくり(1990年代~)
 学級が子どもの心の居場所として、安心して自分を表現でき、自尊感情を取り戻す場となるような学級をつくりだしていく実践である。
(船橋一男:1959年横浜市生まれ、埼玉大学教育学部教授。生活教育、生活綴り方、生活指導の研究を主に手がける)

 

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学校の職場で教師が心得ておくべきことは何でしょうか

 教師たちを見わたせばすぐに、すべてのことについて教師の意見が一致するということは不可能だと気づくでしょう。
 それは期待すべきことでもありません。学校の日常は矛盾や葛藤だらけで、決まった答えなどはありません。
 よい職場環境というのは、教師が協働し、なおかつ個人のよさが維持されたときに初めて築くことができます。
 あなたは、チームにおける多様性こそがよいアイデアをつくるのだ、という認識を持っていますか?。それはよい出発点となります。
 例えば、一人の教師がアイデアマンで、別の教師が子どものグループ学習を支えることに長けているというチームは、とても強いのです。
 職場では、さまざまなタイプの教師がいるチームで働くことになるという心づもりをしておく必要があります。
 多様性こそが強みであると実感できるようになるまでが大変だと思います。
 多様性に可能性を見いだし、挑戦しようとする気になれば、自分自身の姿勢を見つめ直せねばなりません。
 子どもたちは、一貫性のある成熟した大人であることを教師に期待します。つまり、子どもはよい大人のモデルを必要としているのです。
 教師の多くは、教師が子どもの時には学校にうまく順応していた人たちです。
 教師になってからもルールが大好きで、マニュアルをつくってしまうわけです。
 多くは批判的な質問をしませんし、新しく違うことを考える教師には理解を示してくません。
 学校のカリキュラムや計画を簡単には変えられないと思っているのです。
 しかし、今日の学校では教師に柔軟さが要求されています。
 予想もしなかった子どもや大人の反応や事態に対処し、乗り越えていかなければならないのです。
 この過程で、誤解や矛盾が生じるのは避けられないことです。
 もしあなたが、学校では人間的な間違いが多々生じるもので、まさに、それがゆえに活力が生まれるのだと感じることができれば、教師としてよい出発点に立っていると言えます。
 新任教師のあなたはスタートラインに立ちました。出発の準備もできました。楽しみと不安の両方があるでしょう。それでいいのです。
 教師という職業はエキサイティングで挑戦しがいのある職業です。
 どのような道を進むのかが、いつも未知数なのです。でも、よいサポートがあればたくさんのことができます。
 そして、成功するために一番大切なのは、十分な訓練と心の準備です。
 これからの人生には二つの状況があると考えてください。
 一つは、あなたから力を吸い取っていく事態、そしてもう一つは、あなたにエネギーを与えてくれるという事態です。
 あなたが向かい風のなかにいるときは、楽しくない人や足を引っ張る人といっしょにいるのではなく、あなたが前に進んでいけるようサポートしてくれる人を見つけましょう。
 幸いにも、教師という仕事はさまざまなことを自分で決められます。
 あなたに、仕事への意欲と喜びを生み出してくれるような教材や活動を見つけてください。
 マーティン先生は、古いオルガンが教室にあったので、毎日、子どもたちにオルガンを弾いて、子どもたちは声を張り上げて歌っていました。
 教師と子どもが、歌と音楽の喜びを共有していたのです。学校での一日を歌で始めることが、彼らによいサイクルをもたらしました。
 オルガンと音楽がマーティン先生にとって、一番強さが得られる源泉だったのです。そこから得たエネルギーをもとに、彼は子どものための実践に力を注ぐことができたのです。
さあ、あなたにとっての力の源泉は何ですか?
 新しい考えを学校に持ち込みたいと思ったら、新任教師であるあなた自身が周りの教師にどのようにみられているか、ということについて考えをめぐらせる必要が出てきます。
 残念な例を紹介します。
 新任教師であるフィンは学校に革命を起こし、おばさん先生たちに決して指図されまいと意気込んでいました。
 まるで自宅の居間にいるように職員室のソファにどっかりと座り込み、新聞を広げて読み始めます。彼が顔を上げるのは、直接話しかけられたときだけです。
 一週間たったある日「隣の学校の協働のほうがここよりも成功している」と、彼は声高に主張しました。ところが、どの教師たちも彼の主張にコメントしなかったのです。
 彼のこれまでの態度が原因だということはわかりますよね。あなたが同僚にどのようにおもわれているかの大部分は、あなた自身の行動によって決まるのです。
 あなたは、常に仕事の終わりの時間を気にしたり、やらなければならないことだけをやろうとしていませんか?
 もし、少しでもそれ以上のことをやる意欲を見せることができれば、あなたはすぐにさまざまな実りの多い活動に参加できるようになりますよ。
 それらは、あなたにさらなる意欲と喜びを与えてくれるでしょう。
 では、フィンはどうしたらよかったのでしょうか。
 もし、彼が職員室での日常に興味を持ち、もう少し謙虚さを示していたならば、彼はもっと好意的に受け入れられていたでしょう。
 経験を積み重ねてきた人を尊重することが、目的を達成する秘訣です。
 また、きちんと規則をわきまえていることも重要となります。
 もし、フィンがクラスを遠足に連れて行くときのルールを知らなかったら、彼だけでなく学校全体が問題を抱えることになります。
 そう、フィンには、まだまだ学ぶことがたくさんあります。子どもが全員無事に帰ってこられたら、その幸運に感謝しなければなりませんね。
 教師という仕事には成熟さが求められます。あなたに与えられている責任を認識してください。
 もちろん、それは経験によってわかってくる面もあります。
 もし、生徒にどこまで許してよいのかがわからなくなったときは、自分の子どもだったらどうなのかということを考えてみてください。これは、とてもよい行動方針となります。
(アストリ・ハウクランド・アンドレセン:1952年生まれ ノルウェーの小学校副校長)

 

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授業の多くが体験学習にあてられる「きのくに子どもの村学園」とは、どのような学校でしょうか

 和歌山県の小さな村に、子どもたちの歓声が響き渡る小さな学校がある。「きのくに子どもの村学園」です。
「きのくに」では生きる喜びがあり、互いに尊敬し信頼し合っていて、徹底した自治のもと、生活する一人ひとりの子どもにエネルギーがあふれています。
 元来、学校というのは、何をどのように学ぶのかは教師によって決められ(教師中心主義)。
 同じ年齢の子どもが同じ教材を使い同じペースで、同じ方法で学習する(画一主義)。
 書物に書かれた知識の記憶量によって子どもの能力を測ろうとする(書物中心主義)。
 これでは、子どもたちは知識を教師や書物から伝達されるだけの受動的な存在となってしまいかねない。
 そしてそれは、自分の感情を押し殺すことや、自ら考えることが苦手な子ども、互いに意見を言って他の子どもと合意を図る、という経験に乏しい子どもが育ってしまう。
 すなわち「感情」「知性」「人間関係」のすべての面で「不自由」な子どもの育成につながってしまう危険性がある。
 こうした状況から子どもを解放し「ホンモノ」の学習をするために、「きのくに」では、「自己決定」「個性化」「体験学習」を三原則として学校づくりを進めてきた。
 この三原則を反映させた学習活動が「プロジェクト」である。年度初めにプロジェクトのテーマごとにクラスがつくられる。人数も年齢構成も男女比もさまざまとなる。例えば別荘づくりプロジェクトでは、どのような別荘をつくるのか、誰が何をするのか、活動の進め方は話し合いを通して決められていく。
 このようなプロジェクトを学習の核として、各教科はプロジェクトと関連づけながら実践されていく。プロジェクトの体験をくぐることで、自分たちにとっての意味を感じながら学習が進められる。
「きのくに」が現代の学校教育に投げかけているものは何だろうか。
 増え続けている不登校やいじめ、他者との関係の希薄化・・・。
 そうした現代社会にあって「きのくに」の子どもたちは自他への信頼にあふれ、生き生きと目を輝かせ真剣に学習に取り組み、仲間とともに自分たちの生活を創造している。
 こうした実践は公立学校で行うことは無理だという声があるかもしれないが、「きのくに」は正規の私立学校として認可をうけているという事実により、実現できる可能性がある。
 教育改革が叫ばれている今日、「子どものため」になる学校づくりとは何かを問い続けているといえる。
「きのくに子どもの村学園」は1992年に和歌山県の山中でスタートしました。
 元大阪市立大学教授の堀真一郎が、イギリスのサマーヒルスクールなどを範として創立しました。
 教育思想や実践は、ニールやデューイの流れを汲んでいます。
 子どもたちの多くが寮生活を送りながら学んでいます。
 1学年20名の小さな学校で宿題がなく、テストもありません。
 「先生」と呼ばないで、大人は「○○さん」とか、ニックネームで「ゴンちゃん」などとよばれます。
 子どもは自分のしたい活動(プロジェクト)をよく考えて、その年のクラスを選びます。授業の多くが体験学習にあてられ、どのクラスも異年齢学級です。
 普通の学校の授業に相当する時間「基礎学習」もあります。
 活動(プロジェクト)は「人が生きる」ことを「衣」「食」「住」「表現」の4つの視点から追求していきます。
 小学校では「工務店」「劇団きのくに」「よくばり菜園」など、中学校では「動植物研究所」「劇団バッカス」「くらしの歴史館」などのクラスがあります。
 国内外の教育関係者やマスコミからも注目され、学校の数も増え、福井県勝山市、山梨県南アルプス市、福岡県北九州市、長崎県、英国スコットランドにあります。
 入学の選考は、体験入学によっておこないます。募集時期は学年によって異なります。
 体験入学は学校および寮で過ごします。また保護者と面談し、総合的に合否判定をします。筆記試験はありません。子どもの意思をもっとも尊重します。
(堀真一郎:1943年生まれ、元大阪市立大学教授教授。「二イル研究会」を設立、その代表を務める。大学の教授職を辞めて、ニールのサマーヒル・スクールを範とした新しい学校を目指して、1992年和歌山県橋本市に、きのくに子どもの村小学校を開校。きのくに子どもの村学園理事長。)

 

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「デモシカ先生」だったときに仮説実験授業に出合い、子どもも教師も変わった

「デモシカ先生」という言葉がありますが、西川浩司先生は本当にデモシカ先生だったなあと思った。
 4時半に帰って、繁華街をブラブラしていました。
 転勤した学校で「おまえも年だから、少し研究したらどうや」と言われて、生活指導の研究会に参加した。
 行けども行けども頂上がない。うまくいかない。
「それほどうまくいかないのなら、教科でやってみたら」と言ってくれました。
 それで理科をかなり本や雑誌を読んで必死にやったが、今までいいかげんにやってきた授業とあまり違わなかった。
 そして、仮説実験授業に出合うわけです。
 仮説実験授業では、原則として「問題」-「予想」-「討論」-「実験」の4段階からなっています。
 問題の答は実験がきめるので、教師がきめるのではないという思想がこめられているのです。
 普通だったら、授業の終わりに「この実験からこういうことがわかりました」と、教師が言って、子どもはそれを聞いて覚える、という感じになるわけです。
 ところが仮説実験授業では、実験の結果から何がわかったかを長々としゃべってはいけません。
 だから、今まで私が一生懸命やってきたことは全部ペケなんです。
 実験の結果からいろいろしゃべるのは「押しつけ」だと意識するようになった。
 予想をたてて、しっかり討論しておけば、実験の結果、何がわかったかということは、ほとんど言わなくても明らかなのです。
 予想や討論をろくにせずに実験をやって、そのあとで、この実験から何がわかったか、ということばかりに力をいれるのは解釈主義であり、教師の権威でもって結論をおしつけることにほかなりません。
 板倉先生の講演で、「ものとその重さ」の授業書をいただきました。
 これならできそうだと思い5年生にその授業を始めたのです。
 全然勉強しない子どもがいました。やっと教室に入れても本もださないんです。
 ところが「ものとその重さ」を始めたら、「ぼくするで」と言うんです。
「ものとその重さ」の授業が終わって、子どもたちに感想文を書いてもらったら「ものすごくよかった」ということを書いてくれました。
 窓ぎわで遊んでいた子も、すごく勉強するようになりましたし、意見も言うようになりました。
 一つのことができれば、子どもはすごく変わってくるものなんですね。
 子どもはもちろん、教師も本当に変わるんです。それを発見してビックリしました。
(西川浩司:公立小学校で最初に仮説実験授業を実践。「授業書の内容、ねらいをどのように子どもたちに伝えるか」ということを追求し、実践的に示した)

 

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授業で「学習集団づくり」をするには、どのようにすればよいか

 学習集団づくりの道すじは、次の二つあると教育学者の吉本 均は次のように述べている。
1 学習規律の組織化
 まず、吉本は、教師は個々の子どもたちではなく、全員参加できるように、班を指名すべきだと提案する。
 吉本は班の質、とりわけ班長が班内にわからないものがいるかどうか把握する。
 次のステップに進むとき、班員がお互いに確認し合う。
 班員がお互いに確認し合うといった点を教師が評価してみせることによって、子どもたち自身が点検し合う学習体制をつくることにより、自覚的な学習規律を確立しようとした。
 これには「全員の参加・発言を保障する」ことと「自主・共同の学習体制をつくる」ことが含まれる。
2 「問い」による思考の組織化
 吉本は豊かに思考するために「集団思考=討議」を重視していた。
 仲間との緊張をはらんだ「問い-答え」の過程で「認識する学力」がつくりだされ、内面に定着していくと述べている。
 集団思考を発展させる方法の一つとして
「○○さんに賛成です。そのわけは・・・・」
「ぼくは、いまの○○君につけ加えます」
「私は○○さんの意見に反対です。そのわけは・・・だから」
 といった「発言形式の訓練」を提唱していた。
 これは、子どもたちの聞き方の訓練にもなっていた。
3 教師による発問
 決定的に重要なのが教師による発問である。
 吉本は、次の三種類の発問を示している。
(1) しぼる(限定する)発問
 子どもの思考を焦点化させ、思考を引き出す具体的で明瞭な発問。
(2) ひろげる(関連させる)発問
 既知の内容と未知の内容を明確にして、関連を組み立てさせるような発問。
 それと、具体的事実、資料、生活経験などに関連づける発問。
(3) ゆさぶる(否定する)発問
 子どもたちが現在、習得している思考に対して、あたらしい次元の対立や矛盾などをつくりだす発問。
 授業の中心的な場面において発問すべき最も重要なものである。
 その典型として吉本があげているのが斎藤喜博の森の出口はどこかを問う「森の出口」の授業である。
「ゆさぶり」の典型的にあらわれた授業として斎藤喜博の「森の出口」の授業がある。
 斎藤喜博(1911-1981年)は、1960年代に島小学校で教育実践を行ったことがよく知られている。
 この斎藤の「森の出口」の授業を具体的に見ていく。
 小学3年の国語の教科書に、次のような文章が記載されていた。
「あきおさんとみよ子さんはやっと森の出口に来ました」
「つかれきって速く歩くことができません」
 授業で、この「森の出口」という言葉が問題になり、子どもたちからさまざまな意見が出された。
 話し合いの結果、「森の出口」は森とそうでないところの境だという解釈をして、子どもたちは喜んでいた。
 ところが、うしろで見ていた斎藤は立ち上がって黒板に森の絵を描き、森の中から森の外が見えたところを「森の出口」と書いた。
 黒板の絵を見て、子どもたちは思ってもみなかった解釈に、ハッとした。
 子どもたちは驚き、緊張がクラスにひろがった。
 斎藤は子どもたちの読みとりに対して、別の読みとりがあることを気づかせた。
 森に迷い込んだ二人の子どもにとって、森から出られると実感できた場所で、「やった。森から出られた。家に帰れる」と叫んだであろう。
 あきおさんとみよ子さんにとっては、その地点が「森の出口」なのである。
 作品の中の人物の立場から考えることが要求され、そのことが子どもたちの知的なめざめを誘発していったのである。「ゆさぶり」が、そこにあらわれている。
(吉本 均:1924-1996年広島県生まれ、広島大学名誉教授 日本における教育方法学の確立に貢献したといわれる)
(鳴瀬彰夫:神奈川大学)

 

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父親や母親はどのように子育てすればよいのでしょうか

 父親は育児は新米の母親以上に知識がない。
 どうして良いか分からないから、妻に教えを仰ぎ、たいていは妻に怒られながら妻の指図に従うだけになってしまう。
 こうなると、家庭の中で父親と母親の力関係は、当然母親が強くなる。
 また、母親が子どもに対する接し方まで父親に口出しするようになると要注意である。
 こうなると父親と母親の役割が同化してしまい、父親の母親化という現象をもたらすことになるのである。
 男性と女性の特性が違うように、本来、子育てにおける父親の役割と母親の役割は異なっている。
 母親は子どもに細やかな愛情を注ぎ、父親は厳しさや責任感を子どもに伝える。
 そして、両親が互いに尊敬し合う姿を子どもに見せることによって、子どもに人を尊敬すること、愛情をもって接することを教えていくのが、家族のあるべき姿である。
 幕末、高杉晋作や木戸孝允らを育てた吉田松陰は25歳のころ、一児の母である妹・千代に子どもの育て方について次のような手紙を送っている。
「人の子が賢くなるのも愚かになるのも、良くも悪しくも父母の教えによるものだ」
「特に男子は父の教えにより、女子は母の教えから影響を受けることが多い」
「しかし、男子・女子ともに8歳以下は母の教えからの影響の方が大きい」
「父はおごそかに厳しく子どもと接し、母は親しく細やかに接すること」
「8歳以下の小児に対しては言葉でさとすべきではない。ただ親が正しい姿を示して子どもに感じさせることが大事だ」
 そして、この松蔭の手紙で注意したいのは、最後の一文だ。
「親が正しい姿を示して子どもに感じさせること」
 この「感じさせる」育て方、「感じ取る力」を育てるのが、心の教育(EQ教育)なのである。
(萩原吉博:1950年兵庫県生まれ、(株)学栄 社長。昭和63年に乳幼児教育研究所として(株)学栄をスタートさせる。平成2年に保育所の「ちびっこランド」を開設し全国に展開)

 

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どうすれば子どもたちが「動く」社会科の歴史授業になるのでしょうか

 子どもが発言し、歴史事実を自分の問題として考えるようになることを、安井俊夫先生は「子どもが動く」と表現する。
 「動く」ことによって、子どもは自分の発言や行動から「何かをつかむ=わかる」ことになる。
 そこで私たち教師が知りたいのは、どうすれば子どもたちが「動く」のか、ということである。
 子どもたちが「動く」ためには、
(1)子どもの発言を引き出す
 安井先生は子どもが感じたままの発言を重視する。そうすれば、子どもが発言しやすい。
 子どもが歴史の事実を自分の問題として考えるようになる。
 子どもたちが感じたまま発言をすることで、授業が活性化する。
 安井先生は「発言を引き出す授業」を「ヤマ場のある授業」とも言う。
 毎時間の授業で展開する必要はなく、4~5時間の内の一度でよい。
 「ヤマ場」をつくるためには、それまでの授業で事実をとらえさせることが必要である。
 そのために、子どもが自分で調べ、探し、発表できる教材プリントを用意しておく。
 そのときに重要なのは「わからせていくのではなく、子どもが自分の力で何かをつかんでいくことでなければならない」と安井先生は言う。
(2)社会科通信
 子どもたちの授業中の発言や感想をB5判に編集したものである。
 「ヤマ場のある授業」のあとに出される。
 授業中に発言できなかった子どもも、自分の考えを主張する機会が保障される。
 子どもたちは社会科通信をみることで、自分の考えを再考することができる。
(安井俊夫:1935年東京都生まれ、千葉県公立中学校教師、愛知大学教授を歴任した。教育学者。専門は社会科教育法。社会科授業づくりには定評がある)

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英語は幼児のうちから習わすのがよいのでしょうか

 小学校に英語が導入され、幼児のうちから英語を習わせようという風潮が高まっています。
 幼いうちから英語を学ばせれば、バイリンガル(2か国語を母語として話すこと)になると期待する親も多いようです。
 国際社会で活躍する日本人が増え、多くのお母さんが「英語ぐらいできなくちゃ」と考える気持ちもよくわかります。
 しかし、現在、国際的に活躍している人たちの多くは、幼児期に英語を習っていたわけではありません。
 使える英語は、大人になってから集中して覚えれば身につくことができるのです。
 ただし、ネイティブ(英語を母国語として話す人)にするならば5歳ぐらいまでに学習しなければなりません。
 私たちは、外国語の学習について相談を受けた場合、まず「使える英語でもよいのか?」「ネイティブにしたいのか?」を確認します。
 子どもは家庭内で話されている言葉を母国語として覚えます。
 そして母国語は思考の基礎となるものですから、これをしっかり身につけることが、生きていくためには不可欠です。
 もちろん、勉強も母国語で考えなければできません。
 そして、5歳ぐらいまでが言葉を覚える最適な時期であり、この時期をのがすと習得が難しくなるため、言葉の臨界期と呼ばれています。
 しかし、長年の臨床経験によると、子ども一人ひとりの言葉のキャパシティは決まっているようです。
 複数言語を押し込むことには無理があります。
 臨界期には、思考の基となる母国語をしっかり身につけることが重要なのです。
 しかしながら、幼児にまでドリル形式の英語教材を与える風潮があります。
 幼児期に先取りして答えの正否がはっきりしたドリルをたくさんやらせることは、じっくり考え、思考力を発達させる機会を奪うことになります。
 4年生くらいになって文章題が出てくると歯がたたなくなります。
 母国語は思考の基本を作る、人間にとってなくてはならないものです。
 一方英語は、コミュニケーション・ツールです。幼児の英語学習に悩む親は、まずは、この違いを考えてみてください。
(徳田克己:1958年生まれ、筑波大学教授。教育学博士、臨床心理士。専門は子育て支援学。筑波大学発ベンチャー 子ども支援研究所長として、幼稚園や保育園の悩める先生たちのコンサルタントとしても活躍。年間100件以上の講演を各地でおこない、育児に悩む親からの相談は年間に1200件以上にもおよぶ)

 

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今の子どもたちは、どのような問題を抱える子どもが多いのでしょうか、どうすればよいか

 子どもが思春期に入るというのは、人のこころの影の部分に気がつくということでもあります。
 鬱屈した葛藤を抱かえるようになることは、子どもが思春期に入ったということです。
 無邪気だった子が、親に否定的な目を向けるようになったりするのは、親にとってもきついことです。
 でもそれは、子どもが自分について考えるようになるために必要な道のりなのです。
 「本当は思い切り本人に向かって言ってやりたいことがあるけど、我慢しよう」というように、自分の衝動をどこかで自覚しつつ、それを止める自分もいるという両極の気持ちを抱かえることができるのが、葛藤の基本である。
 それがあるがゆえに、未来に起きるであろう自分と他者の不利益を予想して、自分の行動を社会化させていくことができるようになります。
 もちろん、ついつい言い過ぎたり、行動に出てしまって、トラブルになることもある。
 そういうことをした後で、自己嫌悪にさいなまれたりする。
 これが今までの「ふつうの」思春期のありようだったのです。
 ところが、他人のことをまったく考えられず、自分の衝動や欲望だけに忠実で、罪悪感もない中学生や高校生が増えてきたという話が学校の先生方と話しているとよく出てくるようになりました。
 カウンセラーとして学校現場にいても、悩みがあって相談をする子どもが以前よりも減ってきている。
 カウンセラーのところに話しに行こうとする子は、自分のことや人間関係で葛藤や悩みをもっている。なので、治療もできて、変化していくという経過をとることができるのである。
 ところが、人間関係でトラブルや問題行動の多い子が先生に勧められて面接室にやってきても、何度面接しても表層的な「フツー」の話しかしないか、周囲の人たちへの悪口で終始するというようなことも珍しくない。
 そして、以前ならば中学生の相談で私が聞いていたような人間関係の悩みに、二十歳を過ぎてから、どうかすると、30~40歳代になってから初めてぶつかる人の話を聴く機会も増えてきた。
 さまざまなことで悩み、葛藤するのが思春期だったが、目の前の「フツー」の子の思春期には、当てはまらないケースが増えてきています。
 どのような問題を抱える子どもが多いでしょうか
 学齢期の子どもに関しては、最近は発達障がいではないかと心配して、親に連れて来られる子どもが増えています。
 またネットの問題、特にLINEやtwitterのトラブルで心の問題を抱えることになった思春期の子どもや、子どものスマホ使用が長すぎることで不安になった親御さんの相談も増えています。
 LINEやTwitterなどの短文でやり取りをするコミュニケーションは、まだ書き文字での交流が訓練途上の子どもたちにとって、実は難易度が高いツールです。
 どう読み取っていいのかわからないような表現のやりとりは、疑心暗鬼を呼びやすいのです。
 顔を合わせて話していれば誤解が生じることなどないことでも、言葉のニュアンスがうまく伝わらず人が怖くなったり、その不安を払拭しようとして逆に攻撃的になったりしてしまうこともあり、それが深刻なトラブルの原因の一つになっていると感じます。
 それらを解決するための糸口は、とにかく実際に顔を見て会うというオフラインの付き合いを増やすことが大事だと思います。
 コミュニケーションというのは、言葉が占める割合よりも、その時のその人の表情や、声のトーンによって伝わる部分が圧倒的に多いものです。
 LINEやメールだと、何か怒りを向けられているように感じていたけど、会ってみたらそんなニュアンスは全然なかったということは大人でもあるように思います。
 実際に会ったときの感覚を大事にすることが重要だと思います。
 また親や学校の先生だけでなく、それ以外の大人と話す機会を敢えて作っていくことも大事かなと思います。
 そうすると、世界が少し広く見えて、息がしやすくなる子もいると思います。
 そのような安心して会える大人として、この相談センターのスタッフや大学院生を求めている子もなかにはいます。
 また今は「スマホ子守」と言って、子どもが泣いたりぐずったりするとスマホやタブレットを持たせることも一般的になってきました。
 手伝ってくれる人がいないなかでの子育てはほんとうに大変なので、これも仕方がない部分があります。
 しかしいつでもスマホに任せてしまって二次元の刺激に興味がいく環境に慣れてしまうと、二次元の中で気持ちを抑える癖がついてしまいます。
 そうすると本当に困った時に生身の人にどうSOSを出したらいいかがわからなくなるという危険性もありますね。
 プレイセラピー(※)で、今までいろんな理由で表現できなかったことを表現する機会を与えると、子どもはそれだけで変わる可能性があります。
 もちろん、そういうことが起こるためには一緒に遊ぶセラピストには専門的な知識が必要になってきます。
※プレイセラピー(子どもの心理療法)
 子どもは、大人のように自分の行為や気持を言葉にしてうまく伝えることはできません。そのため、言葉に頼らない遊び、描画、ゲームの方法で、子どもの困っている問題、症状にアプローチしていきます。
 治療者との遊びや会話の中での、相互交流を通して、子どもが安心感をもって自分の気持ちを表現できるように手助けをします。
 遊びの表現の中に、子どもが困っていることが表現されていきますので、治療者がそのことを理解し、子どもとの相互交流の中で、問題が解決していくことが促進されます。
(岩宮恵子:1960年鳥取県生まれ、臨床心理士、臨床心理相談室を個人開業 、島根大学教授)

 

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教師がオリジナルな授業づくりをするにはどのようにすればよいのでしょうか

 安野 功先生がかけだし教師のころ、チャンスを見つけては、社会科の研究会に参加しました。
 自分がモデルとする授業に出会うためです。
 当時は、優れた授業をモデルとして、自分でもそのプランどおりに授業を行う「追試」が流行していました。
 安野先生もその影響を受け「追試」を試みようと考え、そのモデルとなる授業を探していたのです。
 しかし、「追試」を何度こころみても、納得のいく授業がつくれませんでした。
 それもそのはずです。指導案というものは、本来、子どもの顔を思い浮かべながらつくるものだからです。
 他人が考えたプランどおりに授業を展開できるはずがありません。学習の主役となる子どもの実態が違うからです。
 そんな悩みを抱いていたときに、安野先生は先輩の教師から、マイナーチェンジとフルモデルチェンジのお話を伺いました。
 安野先生流の解釈ですが、フルモデルチェンジは前例のない授業を創り出すことです。
 これに対して、マイナーチェンジは「追試」のように、その指導案どおりに授業を行うのではなく、自分のクラスの子どもたちに合うように、プランの一部を変えるのです。
 こうしたマイナーチェンジの第一歩は、社会科の研究会に参加したり、実践書を読んで参考にしたりして、自分がモデルとしたい先行事例を見つけることです。
 次は、フルモデルチェンジです。
 安野先生の30歳代は、フルモデルチェンジの毎日と言っても過言ではありませんでした。
 様々な授業づくりにチャレンジしました。
 しかし、その結果は、3割バッター止まりです。失敗が成功をはるかに上回っているのです。でも、規定打席には達しているというのが、当時の私の自慢でした。
 安野先生がさいたま市立教育研究所の指導主事時代に、安野先生のアドバイス(例:社会科というものは“見えることから、見えないものを発見できるようにする”教科です)によって、数多くの教師が、社会科授業のフルモデルチェンジに挑戦しました。
(安野 功 1956年埼玉県生まれ、埼玉県浦和市立小学校教師、埼玉県浦和市(現さいたま市)立教育研究所指導主事、文部科学省教科調査官、国立教育政策研究所教育課程調査官などを経て國學院大學人間開発学部初等教育学科教授)

 

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活動と学びをつなぐ「板書」や、学力を高める「ノート指導」はどうすればよいか

 小学校の社会科は、子どもが自ら社会的事象に問いかけ、働きかけながら、自分の体と頭を使って学ぶ教科です。
 近ごろ流行している「活動あって学びなし」という現状が一部に見られます。それはなぜか。
 私は「活動」から価値ある「学び」へと導く教師のかかわりや指導があいまいになっているからではないか、と考えています。
 「活動」によって体得した知識の多くは、断片的で未整理の状態にあります。
 それを、「比べる」「つなげる」「まとめる」などの思考操作を経て再構成し、そこに社会的な意味を吹き込んでいくことによって、価値ある「学び」が生まれてくるのです。
 そのための、その手軽で身近な方法が「板書」の構造化です。
 教師が個々の子どもの発言内容をキーワード化し、黒板に「板書」し記録・再現します。
 それら「板書」したものを「類似したもの」と「相対するもの」とに分類・整理し、それぞれの意見の根拠や見方の違いを明らかにしたり、関連する他の事象との関係を見いだしたりする。
 そうした集団思考によって互いの見方や考え方を再構成していく思考の舞台が「板書」なのです。
「板書」による集団思考を展開していくには、子どもの反応を予測し、それらの発言内容を黒板のどこに、どのように位置付けたらよいのかを事前に考えておくのが「板書計画」です。
「板書計画」を立てるには、「板書」の基礎・基本と基本パターンを理解しておく必要があります。そのポイントは
1「板書」の基礎・基本
(1)本時の「学習のめあて」を必ず書く。
(2)中心資料を、必ず板書に位置付ける。
(3)色チョークの使い方を決めて、子どもに知らせておく。例えば、
 赤色:重要な用語。
 黄色:集約した意見や考え、まとめ。
 白色:資料から読みとった事実や解釈、子どもから出された考えや意見の要約など。
(4)線や矢印の使い方・方向などに留意する
2「板書」の基本パターン
(1)中心資料の比較を中心に、板書を構成するパターン。
(2)資料や取り上げた事実などを関連付けながら板書を構成するパターン。
(3)共通の観点を設けて個々の事実を整理したり、全体から何がいえるのかを集団思考したりしながら板書を構成するパターン。
 学力を高めるノート指導はどうすればよいでしょうか。
 私は、必ず教室の横に立って、社会科の授業を拝見します。
 それは、なぜか。一つは、子どもの表情を読みとるためであり、一つは、子どものノートを見るためです。
 子どもが何を考え、どこまで理解しているかを、とらえるうえで手がかりになるのが、子どものノートです。
 子どもの関心や意欲、思考や理解の状況を自分なりに読みとり判断に努めているからです。
 ノートについては、教師の指導によって、大きな違いが見られます。
 きめ細かな指導がいきとどいたノートもあれば、板書をそのまま書き写すだけのノート、せっかく子どもの考えや感想、意見などを書いているのに、目を通した形跡が見られないノートなど、じつに様々です。
 社会科ノートの充実に視点をあてた研究に取り組んでいる研究会(香川県小学校教育研究会社会科部会)の研究内容を紹介します。
「ノートの使い方」について
 例えば、次のようなノートに使い方についての約束を決め、それが身につくまで、繰り返し指導するようにします。
1 授業の始めに、その日の日付を教師が黒板に書き、子どもがノートにメモする。
2 教師は三色のチョークを使い分けて板書する。
 赤色チョーク(重要な用語)と黄色チョーク(集約した意見や考え、まとめなど)は、全員が必ずノートにメモする。
 白色チョーク(資料から読みとった事実やその解釈、子どもから出された考えや意見などの要約)は、子どもの判断で、必要に応じてノートにメモする。
3 授業中に、よい考えが浮かんだときには、必ずそれをノートにメモする。そして、発言するときには、そのメモを活用する。
4 授業が終了する直前の3分間程度をノートのまとめの時間とすし、板書を手掛かりにして、その日の学習で
「初めて知ったこと」
「驚いたこと」
「わかったことや考えたこと」
「疑問に残ったこと」
「もっと詳しく調べたいこと」
 などを自分の言葉でノートにまとめる。
(安野 功 1956年埼玉県生まれ、埼玉県浦和市立小学校教師、埼玉県浦和市(現さいたま市)立教育研究所指導主事、文部科学省教科調査官、国立教育政策研究所教育課程調査官などを経て國學院大學人間開発学部初等教育学科教授)

 

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どの授業がよいかは生徒が決める、一つの授業方式に固執しないで子どもの反応を見てダメなら方針を変える

 自分の経験を振り返ってみると、ある特定の授業方式に徹底的にこだわることは必要なことである。
 特に、自分自身の経験がない若い時期は、大いに真似をすべきである。
 ただ、注意しなくてはならないことは、世の中には今、実践しているものと違う方法もあるということを認めることである。
 ときには、他の方法を試してみたり、本や雑誌を読んで勉強してみるべきである。
 そして、自分の前にいる子どもたちの実態、学校の自然環境や物的環境をよく把握し、どのような展開が最も適しているかを判断し、独自の方法をつくりあげていくべきである。
 授業を柔軟なものにするには、教師の価値観がガチガチではダメである。
「授業は整然としているべきである」という価値観をもった教師には、課題選択学習などで一人ひとりの生徒が違った取り組みをワイワイやっている授業には耐えられないだろう。
 生徒がどんどん発言するような活発な討論の授業もできないだろう。
 また、ときには教師がよしとする授業と生徒たちが求めている授業との食い違いもあるだろう。そんなときに「今までやったことなかったけど、ちょっと違う方法でやってみようか」という気になれる教師でありたい。
 子どものための授業であるべきだ。子どもの反応を見てダメなら、とっさに方針を変更していかねばならない。瞬時に違う対応を選択しなくてはならないのである。
 教師は授業において、常に瞬間的な判断を生徒に求められているようなものである。
 そこで、いつでもうまく対応できれば「授業の達人」といわれるようになる。
 対応に失敗すると、ギクシャクした授業になり、へたをすると「教師のひとり芝居」になりかねない。
 瞬間的な判断を的確に行うためには、当然ながら複数の対応を知っていなくてはならない。
 しかも「これが絶対」というものはない。ここでファジーな選択が必要となってくる。
「ある程度よさそうな対応」の中から、一番マシそうなのを瞬時に選ぶのである。
 それでダメだったら、その次にマシなものをと。何しろ、本を取り出して調べるヒマはないのだから。
 いろいろな授業方式、指示や発問の中で、どれがよいかは生徒が決めることである。
 教師が「○○式でいい授業ができた」と自己満足していても、生徒が授業に満足できていなくてはダメである。
 教師が生徒の反応を丹念に記録し、いくつかの方式のどちらの方が生徒がよい反応をしたかで、改善・選択を加えていくのである。
 このことは、教師が授業について論じるときにもあてはまる。
 教師がある授業方式の是非を主張するときには、常に生徒の反応や変容、アンケートや感想を基礎データとして明示すべきである。
 それなしに「この方式はよかった」といくら教師が強調しても、説得力はない。
 小森栄治先生は「理科は感動だ!」を合い言葉に理科に対する興味関心を高める授業や理科室経営に力を入れてきた。
 やり方しだいで、中学生はどんどん理科好きになるし、好きになれば学力も高くなるということを実感している。
 生徒が熱中する授業を求めるとき、忘れてはならないことがある。それは、教えている教師自身が、その授業に熱中できるかという点である。
 教師自身が熱中し、納得した教材には、子どもたちも熱中するということである。
 小森先生の授業の感想に「先生自身が楽しそうにやっていた」「先生が、楽しそうですね」と書いてあることが多い。
 理科の実験で、試験管の中に集めた水素の中で、ろうそくは燃えるかという定番の実験をやっているとき、いつもわくわくする。
 なぜかというと、いつも逆転現象が起こり、「えっー」という歓声があがるからだ。その歓声が、うれしくてしょうがない。
 変化ある繰り返しの中で、ぼそりと「酸素がないからだ」というつぶやきが出てくる。小森先生が言葉で教えるのではなく、実験の結果から、生徒自身が納得した瞬間である。
 そういう生徒の変容に喜びを感じられる授業を追究していきたい。
(小森栄治:1956年埼玉県生まれ、埼玉県公立中学校教師を経て日本理科教育支援センター 代表。
89年および03年に、ソニー賞(ソニー子ども科学教育プログラム)最優秀賞を受賞。埼玉県優秀教員表彰,文部科学大臣表彰,辰野千壽教育賞(上越教育大学)を受ける)

 

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教師が保護者と良い関係を築くにはどうすればよいか

 言うまでもなく、保護者が教師を信頼する決めては人間性です。
 人間として素晴らしい教師は、年齢に関係なく保護者の信頼を得ます。
 保護者と良い関係を築くために、次のようにしている教師がいます。
(1)ねぎらい
 何も苦労せずに子育てをしている保護者はいません。
 保護者が長年、子育てで経験している苦労をねぎらいます。
(2)子どもを好きであること
 自分の子どものことを好きな人がいれば、保護者はうれしいものです。
 優しいとか教え方がうまいといった部分ではなく、そもそもその保護者の子どもが好きなんですという気持ちが伝わると、うちとけることができます。
(3)完璧に好かれようとしない
 教師を志望する多くの人はいわゆる「よい子」であった人が多いようです。
 相性の合わない保護者もいます。
 教師は保護者にきらわれることもあります。
 全員の保護者から好かれようと思うことはむつかしいと思います。ほどほどの関係でよしとする気持ちが必要です。
(4)保護者と向かい合うのではなく横に並んで
 子どもを挟んで保護者と向かい合うと、互いに子どもの別の面を見ますし、対立にもなります。
 保護者の横に並んで共に育てるといった気持ちで子どもを見る感覚を持ちましょう。
(丸山広人:1972年石川県生まれ、茨城大学准教授。専門は学校臨床心理学。大学生のころから不登校の子ども、発達障害の子ども、精神障害の子どもへのカウンセリングを学び、公立小学校・中学校でのフィールドワークおよびスクールカウンセリングを開始。子どもだけではなく教師や保護者の相談に応じ、現在もこれらの活動を継続している)

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読み・書き・計算の基礎学習は脳を活性化する

 川島隆太教授は「脳とこころの関係をつきとめる」という研究をずっとやってきました。
 そして、読み・書き・計算の脳活動は特異的に脳が活性化するという事実を見つけました。
 また、私たちが運動するとき、最大の筋力を発揮するには、準備運動をすべきだということが、運動生理学からわかっています。 
 脳をたくさん働かせるには、脳をウォーミングアップさせたあとだと、より多く働くのではないかと考えたのです。
 実験の結果、2分間の計算や音読で、記憶力や認知力が10%から25%も増加したのです。
 計算は速く行わせることが脳をより活性化することがわかっているので、計算を速く行わせることが重要です。
 つまり、単純計算の反復練習と、それの復習が脳を活性化するということになりますが、これは陰山英男先生が兵庫県山口小学校で行われた実践の結果と一致します。
 音読で脳は活性化します。声を出して文字を読むことが、われわれの脳によいということです。
 その際、何を読ませるかは問題ではありません。
 やさしすぎるところよりも少しだけ難しいところ、テストでいうと80点ぐらいしかとれないような場合に、一番チャレンジしたいという気持ちをもつことができます。
 脳はそれぐらいのほうが活性化が強まり、集中力も増します。ですから、そこをねらってやるのがすごくよいやり方だと思います。
 読むスピードと脳の関係を調べてみました。
 黙読のスピードが速いほど「ものを見る」後頭葉が活性化し、音読のスピードが速くなると、後頭葉のほかに両側の前頭前野の活性度も増加することがわかりました。
 難しい文章をじっくりと読むよりも、やさしい文章をすらすらとよどみなく読むほうがよいのです。
(川島隆太:1959年生まれ、東北大学教授を経て東北大学加齢医学研究所 所長)

 

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国語の授業の課題とは、発問はどのようにすればよいでしょうか

 国語科の授業は、悲壮な顔ではなくにこやかに授業したいものです。
 言葉を学んでいくことは楽しいことなのだということを子どもたちに伝えてほしいですね。
 そのためには教師も言葉を楽しまなくてはなりません。
 国語の授業の最大の課題は、一人ひとりの子どもに言葉の力がついていく活動です。
 こんな活動を行わせたいという授業構想のなかに発問づくりは位置づきます。
 発問づくりは、最初からうまくいくわけはありません。
 子どもって、そんなに単純に思い通りに動きません。
 仮に子どもが思い通りに動いたとしたら、逆に疑うくらいでよいのです。
 表面的な活動ほど画一的になるのですから。
 多様な子どもたちに対応するためにこちらも多様性・柔軟性を持たなくてはなりません。
 逆説的になりますが、発問という授業の狭い一部分を充実させるためには、広い知見が求められるということです。
 教材をどれだけ深く読み込めるか、発問の対象たる子どもをどれだけとらえられるか。
 たいへんなことかもしれませんが、それが楽しくなってほしいものです。
 子どもと同じで、何かをつくりだすというのは、やっぱり楽しいことです。
1 小学校低学年の発問
 小学校低学年では、言葉のキャッチボールによって、自分の思いを聞いてもらえた満足感を十分感じられる体験が何よりも大切である。
 発問は、問いが誰にどこまで届いているのか、その反応を受け止めながら発するものなのだ。
 何も言わずにうなずいている子やためらいがちな動作で表現した子の反応に教師は敏感に反応し、それをほかの子どもたちに伝えながら評価していくようにする。
 幼稚園などで、絵本の読み聞かせを多く経験している低学年の子どもにとって、物語の世界にひたることは何よりも楽しい活動である。
 豊かなイメージを身体表現に結びつけることができる。
 作品を順序正しく読み、自分の考えと比べたり、体験したことのある事実と結びつけたり、別の言葉で説明したりする学習が求められる。
 以上のことから、低学年における発問は、自分自身のイメージを十分表現することと、作品や言葉を内面化し、対象として解釈していくことができるものにしていく必要がある。
 そして発問する際にはつぎのことに留意することが望ましい。
(1)短く、単純であること
(2)別の言葉で言いかえなくても分かる言葉を使うこと
(3)一つの発問に、問うことは一つであること
(4)主発問は、音声だけでなく文字でも示すこと
(5)発問に対する答えがはっきりしていること
2 小学校低学年や中学年の発問
 小学校中学年の子どもたちは、知的な好奇心が旺盛になり、実際に国語の授業でも、漢字の習得力が増えたり読書の幅が広がっていったりする時期である。
 一方で、周囲の目を気にする時期でもある。
 低学年までの具体的な生活場面に支えられた言葉の学習から、抽象的で要素的な言葉の学習が求められるようになる。
 個人差が大きく、国語の学習に抵抗を感じる子どもも出始める時期でもある。
 したがって安心して発言できる発問、多様な意見を出し合える発問など、工夫していかなければならない。
 ポイントは、学習指導の過程に合わせて、幾種類もの発問を組み合わせて授業を構成することである。
 例えば、誰でも答えられる発問である。
「それは誰のことですか」というように、答えが一つであるような問いを用意しておく。
 誰にでも考えやすく、自信を持たせることにつながる。
 簡単な発問の場合はすぐ挙手をさせるのではなく、まずノートに自分の考えをしっかり書かせ、その後に挙手させる工夫も必要である。
 また「心に残った表現は何ですか、それはどうしてですか」といった、それぞれの子どもの考えが出し合えるような発問を用意する。
 学級の考えが広がっていくような発問である。
 そのためには「こういった発問だったら、Aさんはこう答えるだろう」「Bくんだったらこんなことを言い出すのではなかろうか」とあれこれシミュレーションしてみることも必要なことである。
「ゆさぶり発問」も、中学年の子どもたちから有効になる。たとえば、
「なるほど、みんなの意見から、この場面の様子がはっきりしてきたね」
「けれども、先生はその文章から全く別の様子を思い浮かべたんだけれど」
 というように、異なる意見を提示する。
 子どもたちはそれまで気がつかなかったところに目を向けたり、より自分の意見を明確にしていく。
 授業のどの場面でどんな発問を投げかけ、組み合わせていくか検討していきたい。
 ある小学校の教師が木下ひさし先生の授業を見せていただけることになった。ブログにつぎのように述べている。
 教室へ入ると暖かい雰囲気。なんだかほっとした。
 授業は2年生の「かさこじぞう」だった。
 前時の最後に子どもたちが書いたノートを先生が読み上げるところから授業がスタートした。
 そして少しずつ音読しながら「どうだった?」「何か気がついたことある人?」と先生が子どもたちに問いかけていった。
 子どもたちは思ったことや感じたことを自分の言葉で話していた。そして先生がどの意見もやさしく受け止めていき授業が進んでいったのが印象的だった。
「しかたなく」「とんぼりとんぼり」「じぞうさまが六人」「かきおとす」という一つ一つの表現に焦点を絞って丁寧に読んでいた。
 流して読んでしまいがちなんだけど、子どもたちは一つの言葉からどんどん読みを豊かに広げていった。
 先生と子どもたちのやり取りはとっても自由というか自然で、そのすがたがとても印象的な授業だった。
 授業を通して、もっと素朴に読むこと、話すことそのものを大切にしていかなければならないのだと思った。
 うまくいえないのだけど、物語を豊かに読むために、色んな仕掛けをしたり、活動をしたりする方法がある。だけどそんな活動や方法の前に読むことそのもの、読み合うことそのものを大切にしていかなければと思った。
 授業を見ていると、一見子どもたちが自由に意見を出し合っているだけのようなんだけど、実は大きな川の流れのようになっていって確実に物語りに迫っていた。
 自然と子どもたちは主人公に同化していき物語の中に入り込んでいっていた。本当に自然と。
 それは、先生が子どもたちの言葉を全力で受け止め、認めていたからだと思う。
 それに先生は挙手している子どもたちだけではなく、それ以外の子どもたちのつぶやきをすっと捕らえて返したり、声を掛けたりしながら子どもたち一人ひとりを大切にしていた。
 木下先生は一つ一つの対応が細かく、とってもあたたかいし確実に受け止めてくれる。
 そのことが安心できる雰囲気を作り上げていたんだと思う。
 授業を通して「もっと物語を読み合うことを楽しむんだよ」と教えてもらったようで心があたたかくなった。
 長く小学校で教育に携わってきた木下先生は、次のように述べています。
 子どもを取り巻く環境は変わっても、子どもたち自身は決して変わってはいない。
 遊びたい、学びたいという気持ちは、どの時代の子どもたちも同じです。
 子どもたちを教える面白さは、成長する人とかかわり合うことにあります。
 さまざまな個性がありますし、そのそれぞれの成長の場面に立ち合うことができる楽しさや、人間対人間として向き合えることが、小学校教師の魅力であり、かつ難しいところでしょう。
 パソコンや通信機器が発達した現在だからこそ、言葉を読んで、あるいは聞いて、考える、想像するということを大切にしなければいけない。
 現場の若い先生と私が見せる授業の大きな違いは『あそび』だと思っています。
 教育の現場そのものが忙しくなって、授業計画や目標に縛られて、授業が機械的形式的に進められていくことも多い。
 子どもたちに問いを投げかけても、すぐに、ハイハイ! と手を挙げさせて答えさせる。これでは、考える時間がありません。
 考える時間があってこそ、思考力が高められるのです。
 目の前にいる子どもたちに合わせた授業の進め方、またそのための教材作りなどを提案しています。
 国語の授業をする時にさまざまな文学作品を扱いますが、そうした作品を分析するのもひとつの研究だと思っています。
 子どもが30人いたら30通りの読み方ができる。教師が30人いたら、やはり30通りの読み方があっていいのです。
 教室で、みんなで読み合うことでその面白さに気付き、その作品の良さを見出していくことができるのです。
 授業をしていくためには、まず先生方がしっかりと文章を読むこと。視野を広げるために多くの本や新聞を読み、思考の柔軟性と思考する力を養ってほしい。
(木下ひさし:成蹊小学校教師(26年間) 中学校(4年間)、宮城教育大学を経て聖心女子大学教授。講演や模擬授業など、全国の教育現場へ出向くこともある)

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学級のいじめの予防といじめが起きたときの対処法とは

 いじめられやすい子は、毎日子どもたちと生活しているとだいたいわかるものである。
 私の経験で言うと、クラスの平均的な雰囲気からはみ出している子どもだ。
 私はまずそういう子どもとなかよくなろうとした。
 なかよくなってその子の持ち味を知りたいと思ったのである。
 そういう持ち味を授業中にさり気なく発揮できる機会をつくることが必要だ。
 つまり、その子はちょっと変わっているけれども(ここを担任が肯定しておくことが大事)、人間としていい味を出していることを認めていくのである。
 ゆっくり時間をかけてそう認めるまで続ける。
 もちろん他の子どもたちの持ち味も見つけていく。
 こうして、まずは担任対一人の子どもという親密な関係を人数分作っていくのである。
 いじめが起きたら、その経過を全員の前で明らかにしていく。
 事実関係を明らかにしたら、どこがいけないのかその都度確認していく。
 ここで私の善悪の判断をはっきり言う。躊躇してはいけない。
 謝らせるべきことがあれば、しっかり謝罪させる。
 終わればいつものように声をかけ一対一の関係を築いていくのである。
 いじめられた子どもに、いきさつから全部聞いていく。
 そしていじめはすぐになくならないことをはっきり伝える。
 いじめと闘い、はねつけられるようになるまでは、私が体を張っても守ってあげると、はっきり言う。
 そして同じような事件が起こる度にどう闘えばよかったか、二人で話していく。
 子どもの弱さや勇気のなさも話題に上がってくる。
 また、親が心配するようなことが起きればすぐに家庭訪問し、子どもに言ったことと同じことを話して帰ってくる。
 いじめられた子どもだけにかかわっているように見せてはいけない。更にいじめられることがあるからだ。
 いじめっ子ともなかよくなり、一対一の親密な関係を作っていかなければならない。
(尾崎光弘:元東京都公立小学校教師)

 

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教師が子どもが見えないのは、子どもに願いを持ち過ぎるからである

 相変わらずクラスの子どもたちは思うようにならない。私は自分の力不足を感じていた。
 そんなとき、学年主任に、
「子どもが見えないんです(理解できない)」
 と相談すると、
「おまえは、子どもに願いをもちすぎる」
「子どもに、こうなってほしい。ああなってほしいと」
「そういう願いを先にもつから、子どもたちの『いたらないところ』ばかりが目につく」
「だから子どもの本当の姿が目に入ってこない」
「願いを持つ前に、子どもをよく見て、子どもを理解しようよ。難しいことだけど」
「そこから、その子にふさわしい願いが生まれてくるんじゃないか」
 と、つぶやくように諭してくれた。
 それまでは、気づかぬうちに自分が描いていた子ども像に近づけるよう願っていた私。
 子どものためと言いつつ、自分の理想や想いだけを子どもに押しつけていた。
 私は「願い」「かかわる」という一方向で授業や子どもを見ていた。
 これでは子ども主体といいながら、やはり教師の立てた構想に都合よく子どもを操っているだけのことだった。
 私はこれまで、教育の技術とか心構えとかいうマニュアル化できそうなスキルを吸収することばかりにとらわれていた。
 学年主任の口から出てくる哲学のような言葉に最初は戸惑ってしまった。
 それでも、学年主任を中心に毎日のようにだれかの教室に集まっては、子どもや授業について語り合ううちに、先生方の子どもを見つめる力量の奥深さに魅了されるようになっていった。
 その日の授業での子どもの発言やノートから、その子のものの考え方や生活背景を推し量ってみたり、子どものささいな言動に成長を見つけたりするこの時間が、教師としての基盤づくりになった。
 毎日のように繰り返された語らいの中で、
(1)「子どもをとらえ」・・・
(2)「願い」・・・
(3)「かかわり」・・・
(4)「子どものとらえ直し」・・・
(5)「願いの見直し」・・・
(6)「かかわり」・・・・・
 というように螺旋的に連続していく教育の営みをイメージできるようになってきた。
 その子の生活や経験をも含んだ背景を理解することの大切さを知る楽しさと難しさを実感する場として授業に挑んだとき、授業の本当のおもしろさや怖さにふれることができたような気がする。
(山崎準二:1953年山梨県生まれ、静岡大学教授、東京学芸大学教授、東洋大学教授を経て学習院大学教授。専攻分野は教育方法論・教師教育論)

 

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問題解決的な学習の基本形とは

 教師による知識の伝達ではなく、子ども自身が知識を獲得する授業を行うとき、その基本形は問題解決的な学習です。
 通常は「問題をつかむ・調べる・まとめる」などと言われています。
 問題解決的な学習とは、おおよそ次のような学習の展開過程を基本にしています。
1 学習問題を設定する場合
(1)学習問題(はてな)に気づく。
(2)学習問題(はてな)に対して予想する。
(3)予想を確かめる方法を考える。
2 学習問題を追究し解決する場面
(1)必要な資料を収集し、分析する。
(2)実験や観察、調査などに取り組む
(3)明らかになったことを整理する。
3 学習問題の結論を吟味する場面
(1)各自まとめたことを発表し合う
(2)学習問題に対する考えをまとめる。
(3)残された課題を明確にする。
 これらの活動をすべて45分間で行うと、大変慌ただしい授業になります。
 そのため、まず単元や小単元の学習の流れをおおまかに計画し、そこから45分間の計画を作成するという手順です。
 この場合、45分間丸ごと、学習問題づくりに使ったり、調べ学習に充てたりすることになります。
 しかし、このような場合にも、授業には導入、展開、終末の場面があります。
(北 俊夫:福井県生まれ、東京都公立小学校教師、東京都教育委員会指導主事、初等中等教育局教科調査官、岐阜大学教授、国士舘大学教授を経て、総合初等教育研究所参与及び学校教育アドバイザーとして講演や執筆活動)

 

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教職員が一体となって危機管理に取り組むには、どうすればよいか

 危機管理においては、教職員の共通理解と行動が重要な条件となる。
(1)事前にしておくこと
 何が問題になるかを教職員に知らせておくことから始めたい。
 他で発生した危機を報道などを通して情報収集し、自分の学校にあてはめて十分検討しておく。
 また、そこでの結果を知らせ、危機状態にならないための工夫をしておく。
(2)起きてしまったときの対応
 最初の一手を即座に打つこと。
 特に連携系統の確保が欠かせない。
 また、説明責任が伴う。この対応は子ども中心である。
 保身に走らないほうが傷は少ないと考えるべきである。
 全教職員がそういった意識で動くよう理念の共有がポイントである。
(3)日常的な配慮も重要
 教師としてのルーチンワークを再確認しておきたい。
 日常の人間関係はどうか、互いに信頼し合える職場かどうかも重要な視点なのである。
 危機状況で動ける学校の基本はここにある。
(阪根健二:1954年神戸市生まれ、香川県公立中学校教頭、指導主事、鳴門教育大学教授を経て特命教授。 研究内容は学校教育学(危機管理、教職論、生徒指導))

 

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子どもたちの学習態度を育てるにはどうすればよいか、また机間指導中に行うべきことなんでしょうか

「白井さん、あれは授業ではありませんね。」
 新任の時、初めての授業研究が終わっての帰り道、歩道橋の上で当時の校長であったH先生からいただいた言葉です。
 自分なりにがんばったつもりであり、授業後の研究協議会でも厳しい意見をいただかなかっただけにショックでした。
「模造紙何枚もの資料を作ったのに…」
「睡眠時間を削って指導案を書いたのに…」
 今考えれば、H校長先生の言葉がよくわかります。
 せっかく作ったからといってすべての資料を広げれば、子どもたちは混乱するばかりです。
 授業は私の努力を見せる場ではありません。
 また、睡眠不足は私の準備不足から来たもので、子どものせいではありません。
 むしろ、そんな状態で授業をしたことを子どもたちに謝らなければならないところです。
 つまり主語がすべて自分であって、子どもたちが主語になっていないのです。
 当時はそのことに気付きませんでしたが、この厳しい言葉が、授業について考える出発点になったのは確かです。
 幸いにして、私はたくさんの授業を見せていただく機会に恵まれました。今までに見せていただいた授業の数は、二千本近くになるのではないでしょうか。
 これまでたくさんの授業を見てきて、とても残念に思うのは、学習態度は小学校の低学年の方がしっかりしている場合が少なくないことです。
 学習態度を向上させるのに一番効果的なのは、新年度早々に「○年生らしい姿とは何か」について十分に話し合わせ、めざしたい○年生像を一人ひとりの子どもにしっかりとイメージさせることだと思います。
 その際、具体的な行動の仕方や態度だけでなく、それがなぜ求められるのかということについても十分に話し合わせておくことが大切です。
 また、話し合いの基本的なルールやマナーについて集中的に指導しておくことも有効です。
 年度当初、学級で話し合っておいた方がいいことはたくさんあるはずですから、それらを話し合わせる中でルールやマナーを身につけさせていくのです。
 高学年であれば、下級生の存在を意識させるというのも、自らの行動への自覚を高めていくうえで有効な方法です。
 機会あるごとに、下級生が君たちから何を学んでいるかということを、特にプラス面を中心に伝えていくのです。
 子どもたちの学習態度を高めるために、他の先生方の力を借りるということも大切です。
 なるべくいろいろな教師に教室に来てもらって、授業の仕方だけでなく、子どもたちの様子についても見てもらい、批評してもらうようにするのです。
 なぜこのようなことが大切かと言いますと、知らず知らずのうちに学級の雰囲気やスタイルのようなものができてしまい、教師も子どもたちもそれに慣れてしまって、その中の改善すべき点が気づきにくくなってしまうからです。
 反対に、見てもらって教師からほめてもらった場合は、子どもたちにそれを伝え、共に喜び合うようにします。
 子どもたちにとってほめてもらうということは大きな自信になり、さらにがんばっていこうとする意欲につながっていきます。
 机間指導中に行うべきことはなんでしょうか。
 机間指導は、
(1)子どものつまずきを早期に発見し、適切な手だてを講じるようにします。
(2)よい点を認め、励ますということです。
「この考え、すばらしいよ」と声をかけたり、ノートにその場で花まるを書いたりすると、ふだん発言をためらいがちな子でも発言するようです。
 先生に認められ自信が生まれるからでしょう。
(3)授業の組み立てに役立てるということです。
 たとえば、
「Aさんがノートに書いている疑問は目標と関連が深いから、全員の学習課題にしていこう」
「Bさん、Cさんの順に指名してそれぞれの解き方を説明させ、共通点と相違点を考えさせよう」
「Dさんが個性的な考え方をしているから、紹介しみんなの見方を広げていこう」
 と、その後の授業展開をイメージしていくのです。
 机間指導の際に座席表を活用すると、授業の組み立てや、記録や資料としても役立つでしょう。
 各自が自分の考えをまとめているときに、座席表に簡単にメモしていきます。
 そのメモした座席表の情報をもとに授業を組み立てていくと、授業はふくらみのあるものになります。
 また、このメモした座席表を保存していくと、子どもたちの学習状況をとらえるための資料となりますし、通知票の所見を書く際に活用すれば記述が具体的なものになります。
 机間指導中に子どもと会話する場合には、しゃがみこんで子どもと目の高さを合わせて話すことが大切です。
 また、個別指導しているときも、常に全体に目配りしている必要があります。
(白井達夫:川崎市立小学校教師、横浜国立大学附属横浜小学校副校長、川崎市総合教育センター教科教育研究室長、川崎市立小学校校長を経て横浜国立大学教育デザインセンター主任研究員)

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小学生の子育てのコツとは

1 小学校1,2年生の子育てのコツ
 小学校に入学するまでは、さまざまな準備をはじめます。
 努力のわりには成果が得られないと親は感じる時期です。親があせると子どもの不安は強くなります。
 親は子どもが本来持っている学習能力を信じて長い目で見守ってあげることが必要です。
「この“あ”の字、難しいのにじょうずに書けているね!この調子で今度は“み”も練習してみよう!」
 というように、まずはほめてから、次の目標を示すような、ていねいで温かい励ましの姿勢を示すとよいでしょう。
 入学したばかりのころは、宿題も、次の日のしたくも、「いっしょにやろうね」という並び合いの関係でみてはげてください。
 この時期に、もっとも大切なのは、「知っていること」よりも「つくってみる、やってみる」生活体験を積み重ねることです。
 ものづくりで失敗の経験をしている子どもは、再チャレンジに意欲的な子どもになります。
 生活体験は「学びのタネ」の宝庫です。買い物に行って食材を探すとき、子どもが質問すれば「よく気がついたね」と子どもに気づきを受けとめます。
 共感してくれると、子どもはまた何かをやりたがり、学びたがります。
 もうひとつは、たくさん遊んでください。仲間とたわむれる体験がないと、人間の成長に偏りができることにもなります。
 文字を覚えるとき、大切なのは、文字が示す「ものや状態」とのつながりを考えることです。
「あ」のつくことばなら「あさ」、「あるく」といった生活に密着したものとつなげることで、文字への興味や関心が広がります。
 親も児童書に親しんで、交代で声に出して呼んであそぶうちに、文章をひとまとまりとして読めるようになります。
 算数のたし算、ひき算は、紙に包まれたキャンディーなど、数が意識できるようにするのがコツです。
 位取りは、一円玉が10個集まって、十円玉1個と両替、という生活体験があると分かりやすくなります。
 九九は、親子で唱えてゲーム感覚で楽しく覚えください。買い物に行ったときに「5個入りチョコを3個買ったら、チョコは何個?」と、かけ算見つけをしてみましょう。
2 小学校3,4年生の子育てのコツ
 3,4年生は「冒険の時代」といわれ、知的な好奇心に満ちていて、何にでもチャレンジすることをいとわない時代です。
 この時期におすすめしたいのは、科学読み物です。興味をもった分野を深めたり、視野を広めたりして、新たな発見が続くようになります。
 集団行動もとるようになり、数や時間、地理などの概念も備わってきて、子どもなりの考えをもてるようになります。
 親も「ずいぶん楽になったなあ」という実感がもてる時期です。
 とはいえ、怖いもの知らずものこっています。ところどころで手綱を締めつつも、子どもたちのエネルギーをどんどん発揮させることが大事な時期です。
 最近では、苦手意識が低学年から見かけることが多くなりました。「必死で頑張っている姿がとても素敵だった。感動した」と子どもに伝えてあげてください。
 もうひとつの変化は、親よりも友だちと過ごす時間を優先する時代に入ってくることです。
 親から離れていく時期ですが、旅行などちょっと特別な場所に「いっしょに行こう」と誘えば、喜んでついてきてくれます。
 4年生になると言葉による思考が完成し、大人の会話も理解できるようになります。
「○○ちゃんて、むかつくの?」と、話の語尾に「の」を使うと「だって、○○ちゃんて・・・」と子どもは次をつなげていきます。
 相づちをうちながら、一通り子どもの言い分を聞いてあげましょう。何かあったときは、親に話せば聞いてくれる、という信頼感を得ておくことは、何よりも大切なことです。
 その後で「あなたの気持ち、分かるよ。でも、お母さんは、こういう考え方もできると思うんだよね」と、共感を示しながら対等な立場で話をしてあげてください。
 今の時代は小さい集団での人間関係がすべてになってしまい、閉塞感に苦しめられています。
 人と出合って、人と関わって学び、子どもたちの心に人間への愛情、生きていることの尊さをもたらすようにしてあげましょう。
 人間への信頼をもっている子どもは「明るさ」があります。この「明るさ」が、これからの人生で、試練を乗り越えていく力になります。
 夕食のしたくをしている台所のテーブルで、宿題をする子どもに話しかける。それだけでも、子どもは安心できるのです。
 わり算も登場します。おやつを食べるときに、おやつを分けて自分の分はどれぐらいか遊んでみてください。
3 小学校5,6年生の子育てのコツ(1)
 小学校高学年になると、思春期に向かい、親から離れて自分の人生を歩み始めます。
 この時期の子育ての指針は、自分の考えで行動でき、目標を自分で選択し、仲間のなかで自分を表現していける、子どもを育てるという3つがあります。
 だから、これからは一方的に知識を詰め込むのではなく、どうしてそうなるのか、リサーチする学習が大切になります。
 この時期に伝えたいのは、人間のすごさです。
 職人さんのワザを見せたり、仕事への思いを聞いたりして、人間にとって仕事とは何なのかを考えさせたいのです。
 その人の素敵さを感じることで、自分はどう生きるべきかと、そこに自分の身を置いて考えるようになります。
 これまで外の世界に向いていた目が、自分の内側に向くようになると、なりたい自分と今の自分とのギャップに気づき、コンプレックスを抱くようになります。
 そのなかで自分を支えてくれるのは「今のままのあなたでいい」と言ってくれる人の存在です。
「ゆっくりでいいからやっていこう」と応援し、「できた」実感を積み重ねていくことが、自己肯定感を育てます。
4 小学校5,6年生の子育てのコツ(2)
 からだが変化するこの時期に、人間のからだを知ることです。
 早く成長する子は早いことに、遅い子は遅いことに悩みます。
 この時期に、どうやって人間は命をつないできたのかを知ることで、子どもたちは、人間の神秘やすごさを知り、自分のからだに起こる変化を、肯定的にとらえることができるようになります。
 思春期に入り、まわりの大人の生き方に共感や反発を感じ始めます。
 子どもは大人を客観的に観察し、大人の権威を押しつけられることを嫌います。
 この時期の子どもは、純粋なほんもの志向です。ほんものに出合ったときの子どもの受けとめ方の深さには、すばらしいものがあります。
 自分のなかに起こっている、からだや心の変化をもてあまし、イライラして、暴言や暴力などの行動を起こしてしまうこともあります。
 このとき、親が理路整然と言い聞かせようとするよりも、自分の感情で、正面から子どもにぶつかっていいと思います。
 たとえば「今、こういう状態になっているあなたが悲しい、親として手を差し伸べられないことが悲しい・・・」と、本音でぶつかりながら、分かり合っていくほかありません。
 性教育は、きちんと説明するより、おおらかに接するのが正解です。
 親から子どもにきちんと説明する、というのはなかなか難しいですし、子どももそれを望んでいないことも多いもの。
 人間の成長や生命につながっていくしくみをきちんと扱った本を、子どもの目に触れるところに置いておく、テレビをみているときなどにさりげなく話題にする、というようにおおらかに接していきましょう。
 子どもたちには、「読書」を強くおすすめします。
 この時期の子どもには、人間の奥深さを学んでほしいと思っています。
 ずるさや弱さ、情けなさをも含んだ、人間の“味”が読みとれる作品にめぐりあってほしい時期でもあります。
(黒笹慈幾 編集:1950年東京生まれ、元小学館 家庭教育雑誌『エデュー』の編集長。南国生活技術研究所代表、高知大学特任教授)

 

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子どもたち全員と対話するために、ミニ作文を利用するとよい、また叱るときに大切なこととは

 40人の学級の子どもたち全員と一対一で対話することは難しい。
 目立つ子は、教師に注目され、対話するチャンスができる。
 逆に目立たない子どもたちとは、いつまでたっても対話するチャンスができない。
 そのとき、小学校教師の原田真知子先生がクラスの子どもたちと全員と対話するために取り組んだのが「ミニ作文」である。
 四月当初からB6サイズの用紙に「みんなに伝えたいこと」と題した作文を書かせ、それに教師がコメントを付ける。
 そして、学級通信に次々と掲載していく。
 この取り組みについて原田先生は、
「ミニ作文は、抵抗なく子どもたちに受け入れられ、家族のこと、友だちのこと、ゲームやテレビのことなど、かいを重ねるにつれ、詳しく書かれるようになりました」
「その作文一つひとつにコメントを書く作業は時間的にも大変でしたが、子どもたち一人ひとりと対話をしているつもりで、毎日コメントを書き続けました」
 と、述べている。
 このような作文を通した対話は、中学校において特に有効である。
 口では表現できないことも書くことができるからである。
 日記や班ノートを教師と子どもたちとの間で交換することで、新しい関係がつくり出される。
 さらに、授業においてもみんなの前で発言したがらない中学生に対して、各自の感想や意見を紙に書く。
 それを読ませたり「教科通信」上などで発表し、紙上討論すると、子どもたちの本音が表出され、学び合いが深まる。
 住野好久中国学園大学副学長は講演で、教育的に叱るときに大切なことは、
(1)止めさせた理由を共有する
(2)してはいけない「行為」をせざるを得なかった「思い・願い」を叱る側が受け止める。(3)よりよい方法で「思い・願い」を実現するにはどうしたらいいかを共に考える。
 ことが大切であると述べました。
(住野好久:1964年生まれ、岡山大学教授を経て中国学園大学副学長。指導者の指導性と学習者の自主性が相互に発揮されるような授業指導や生活指導のあり方を研究)

 

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授業中に行う説明の技法にはどのようなものがあるか

 授業中に、教師が子どもに説明することがたいへん多くあります。言葉や知識について説明したりします。
 教科書は、子どもに知らないことを提供することを目標にして編集されています。
 それでいきおい授業は、知らないことを知っている言葉を使って説明するということになりがちです。
 それが単に言葉の置き換えだけにとどまってしまうと、深い授業にはならないのです。
 説明の技法には次のようなものがあります。
(1)言葉の置き換えによる説明
 一番あたりまえの技法です。知らないことを知っている言葉を使って説明することです。
 手軽で便利なものですが、単純な方法ですから効果はそれほど大きくはありません。
(2)イメージによる説明
 言葉によって描写することで、子どもたちの頭の中に「絵・音・匂いとか」をつくりだす方法です。たとえば、有名な実践家の斎藤喜博先生は
「こんどは『すすき』を考えてください」
「この俳句の場合、どちらかというと、すすきは一本とか二十本とかでなく、広い野原がすすきでいっぱいになっているのではないかな」
「一本一本のすすきなどは見えない。見渡すかぎり、すすきが綿をひろげたようになっている」
このように、言葉による描写力を教師が獲得し、その力を高めることは、そんなに簡単なことではありません。
 ふだんから意識的に訓練し、実際に試してみるなどの努力が必要となるでしょう。
(3)例をあげる説明
 子どもの生活経験にありそうな具体的な例と結びつけて説明することがよくあります。
 その効果も大きいものがあります。たとえば、斎藤先生は
「自分の可愛い子が『おててが冷たい』と言っているんだからね」
「みんなの家のお母さんはどうなんだ?」
「『母ちゃん、足がきれちゃった』なんて言ったときに、お母さんは、空のほうをみて涼しい顔しているかな」
「『あら大変、どうしたの』(動作してみせる)こうやるでしょう」
 このように具体例が授業中にとっさに生まれてくるようになると、授業の力は非常に高くなってくるのだと思います。
(4)比喩を使う説明
 それを引き合いに出すことによって、あることの本質がはっきりしたり、うまく説明ができるというものです。たとえば、斎藤先生は
「息を吸うとき、お腹出なけりゃだめでしょう」
「だって、お菓子か何かもらうときに、袋を小さくしたら入らないでしょう」
「うーんとふくらませなければ空気が入らないでしょう」
「それを、息を吸うときに引っ込むんじゃ、入らないでしょう」
(横須賀 薫:1937年生まれ 宮城教育大学学長、十文字学園女子大学学長を務めた。教員養成や授業に関する研究を主に行った)

 

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授業中じっとしていない子どもを「学ぼうとする身体にする」にはどうすればよいか

 子どもたちの身体を支える背筋力の低下は著しく、学べない身体になってきている。
 子どもたちは長時間、身体を支えられなくなってきているのである。
 また、すぐに疲れ、授業中じっとしていない子どもが増えてきた。
 生活リズムが遅寝・遅起き・疲れの蓄積という状態になっているのである。
 子どもたちの身体は、
(1)身体が緊張する
 精神的な緊張が身体の緊張となって現れる。
 緊張する子どもたちは授業中、周りの気配に気を配り、息をひそめ、身体を硬くし、過度の緊張の中で耐えているのである。
(2)学習すること拒否する身体
 緊張して身体が学習を拒否する場合や、学習に意味を見出さず、学ぶことが自分とは関係のないものになっている。
(3)他者と学ぶことを拒否する身体
 他者とつながることのできない身体になっている。
 他者とのかかわることに価値をみいだせない、他者とかかわることに恐怖感を持つ。
 これは、他者を必要としないあそびを多く経験し、また自分に近い同質の子どもたちとしかあそばない子どもたちにとっては、他者とかかわる楽しさもわからないので、他者とかかわることには、否定的な感情しかもたらさないのかもしれない。
(4)一元的価値観の身体化
 学習することが人格に対する評価と直結していると意識し、身体が緊張し、閉じていくのである。
 子どもは評価基準を敏感に感じとり、失敗や「できない」ことが許されないという価値観を身体にまとってしまっているのである。
 子どものからだが硬く、緊張した状態が、学びを硬直した、自分のものでないものにしている。
 必要なことは、人がつくった価値観、評価からいったんからだをひきはなし、内から涌いてくるエネルギーに身にまかせて生きるしかない。
 子どもたちが、学ぶ身体をつくるために必要なこととは何か。
 身体ごと交わる実践をするとよいのではないか。
 子どものからだが硬く、緊張した状態が、学びを硬直した、自分のものでないものにしている。
 必要なことは、人がつくった価値観、評価からいったんからだをひきはなし、内から涌いてくるエネルギーに身にまかせて生きるしかない。
 近年、身体ごと交わることから実践を開始する事例が増加しているといわれる。
 それは「閉じこもった身体」をもった子どもが多くなっているからである。
 そのような子どもの身体が必要としているのは「応答を楽しむ場」である。
 学ぶ身体をつくるには、学級や授業が「応答を楽しむ場」であることを十分に知らせ、「応答を楽しむ身体へと育てる」ことが必要になってくる。
 そのためには、たとえば小学校低学年の場合には、子ども同士の応答・掛け合いによって成立するあそびを経験させることが有効だと考えられる。
 誘い合ってあそべない子どもたちなので、先生が一緒にあそんで楽しむことを一学期のモットーとし「鬼ごっこ」「氷おに」「花いちもんめ」「かごめかごめ」などを宮平恵子は行っている。
 中野譲も「めだまやき」をしながら抑圧されたエネルギーの発散を図り、週一回のレクリエーションで、「指まわし」「お互いの背中さすり、たたく、もむ」などをしている。
 集中した状態でのあそびは、やりとり自体を楽しむものであるといってよいであろう。
 こうしたやりとりの心地よさを経験し、それが許され、つくられていく場所が学級であるということを、子どもたちにまさに身体で実感させていくことが求められているのである。
 このことは、緊張し、拒否するからだを解放し、学ぶことや他者を拒否しない身体をつくることでもある。
 応答を楽しむことの重要性は、他者との感情の共有、一体感をつくり出すだけでなく、やりとりという共同活動によって変わるという授業の本質にかかわることだからである。
 飯塚麻子は、中学校一年生の国語の授業で、群読から始めている。
 生徒たちは、声を出すこと、他者の声と溶け合うことで心地よい経験をし、これから始まる国語の授業に向けて身体がほぐされ、開かれているのである。
 中野が身体の問題にこだわった実践を展開しているのは、学級に間違っていいよというベースがないという意識がある。そのため、授業方針として
(1)授業のどこかに多様な表現活動を取り入れる
 例として、身体表現、劇化・発表、テレビ番組つくり。
(2)子どもにどんな授業がよいか問う
 子どもたちの「手作業を伴う学習がしたい、身体を動かす学習がしたい、わかりたい」という要求をうけて、図工で木工、社会でリサーチ、算数でつくる・折るといいった活動をする。
 これは、子どもが求めている授業、すなわち現在の授業が抱える問題点や課題を明確化した上での授業構想だといえる。
(長瀬美子:1963年生まれ、大阪大谷大学教授。専門は、あそび研究(あそびの発展と人間関係の発達)、幼児の認識の研究(科学的認識と物語的認識))

 

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チームで取り組む学校は、トラブルをさけるためにも「報告・連絡・相談」は最も必要なことです

 報告・連絡・相談を「ホウレンソウ」といいますが、これはチームとして取り組む学校において最も必要なことです。
 これが不十分なため、予期せぬトラブルを招くことが少なくないのです。
 相談は遠慮しないで早めにしてください。
 困ったときは、先輩や上司をつかまえて、どんどん聞いてほしいと思います。恥ずかしいことではありません。
 問題が小さいうちに、早めに相談することが大切です。自分一人で解決しようとしても、問題を余計に複雑にしてしまいます。
 そして、相談したら、その後、かならずその経過や結果を報告するようにしましょう。
 そのために、それらの経過を日記やメモに残し、情報を整理しておく習慣をつけたいものです。
 そうすることが、自分なりの考えをもって相談することになり、相手を振り回さないことにもつながります。
 次のような点に留意してください。
(1)上司・管理職への報告を怠らない
 組織やチームで教育活動を行っていることを常に忘れず、主任、教頭、校長への報告を忘れないようにします。
 連絡や相談がなければ上司や管理職は判断のしようがありませんし、あなたへの評価は高くなりません。
 信頼を得て自分を成長させるためには、日常の「ホウレンソウ」は欠かせません。
 学校から発行する文書は、校長名のあるなしに関わらず管理職に事前に報告し許可を取る必要があります。
(2)学年・分掌内での「ホウレンソウ」
 学校行事や生徒指導では、学年での取り組みが多いので、学年内の「ホウレンソウ」を重視する必要があります。
 生徒指導などは常にノートに記録する習慣をつけるようにしましょう。何かあった場合には指導記録が非常に役立ちます。
(3)保護者への事前・事後・経過報告をきちんと行う
 学校は保護者から子どもの教育を委託されているともいえます。
 したがって、発生した事故やけが、トラブルなどについては、何よりも保護者へ速やかな、きちんとした「ホウレンソウ」が必要です。
 さしたる事件やけがでないと勝手に判断し、連絡をしなかったり、遅れたりして、後日、保護者の不信を招くことがあります。
 また、教師が指導した結果や状況についても、保護者の気持ちを考えず、報告や相談がなされないなど「ホウレンソウ」がなかったための行き違いや苦情で学校に混乱がもたらされる場合もあります。
 保護者との連絡ミスや事前・事後報告の不足により、不信や苦情が膨れあがり、直接教育委員会や議員等に問題が持ち込まれることもあります。
 保護者には特に「ホウレンソウ」を十分に心がけるようにしたいものです。
(4)地域や市民への「ホウレンソウ」
 学校の説明責任が問われる時代です。
 開かれた学校づくりとして、学校の課題や取り組みの方向性など、十分に報告・連絡することが求められています。
(有村久春:1948年生まれ 東京都公立学校教師、小学校長等を経て岐阜大学教授。専門は生徒指導論、カウンセリング、特別活動論)

 

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子どもの心を動かす話しかたをするには、どのようにすればよいのでしょうか

 私は、言葉に障害がありましたから、声が出ない人、うまく話せない人を敏感に気づいて、そのありようを考えてきました。
 ある会合で若い女の教師から質問されました。
「小学校三年の担任ですが、子どもたちの姿勢がひどく悪くて困っています。どうしたらいいのでしょう」と言うのです。
 この教師の声が実にか細く、おまけにカン高い。
 これはもう原因はこの教師本人にあるのは明白です。
 あんなか細い、聞き取りにくい声でしゃべられては、子どもたちはじきにくたびれます。
 もうどうでもいいやという気になって、ぐたっと机につっぷしてしまうのが当たり前です。
 子どもたちの姿勢をよくする方法はただ一つ、まず彼女自身が楽々と子どもに届く、生き生きした声を取りもどすことでしょう。
 これは決して珍しい例ではない。子どもたちにたっぷりした声で話しかけられる教師は数少ないようです。
 強引なばかでかい声や、細いカン高い声、冷たく固いしゃべりっぷりなどがみられます。
 私が行う基本訓練に「話しかけ」があります。
 5、6人椅子に座っている人の後ろ3~4mから話しかけるというレッスンです。
 このレッスンでみんな驚くのは、話しかけられた声があらかた相手に届かない、ふれないことです。
 話しかけた声が座っている人のはるか手前だったり、もっと先のほうに話しているとしか聞こえなかったりします。
「話しかけ、声で相手にふれる」という、この基本的な能力が、今私たちから奪われつつあるのではと私は恐れているのです。
 学ぼうとする子どもたちに向かって語りかけ、相手とふれ、対話し、相手のこころの内になにごとかを起こすこと、これが本来教えるということだろうと思うのです。
 言葉が相手の体にふれ、相手のからだと心を動かす、変える、これが話すということでしょう。
 体の内側の感じを探ることに集中すれば、自然と呼吸が深くなり、胸をつり上げて固めてはいられなくなる。
 声は深い、腹に響く声になる。こうなると自分の体の感覚にも気がつく。不思議なことにこうなると、言葉が相手にふれ、染みこむ。腑に落ちる。
 からだ全体に響く自分の声を持たねばなりません。
 話している人のことばが、声としてちゃんと相手に届いていないのに、全く気づかずに過ごしている人がいる。
 たとえば、ガンガンと怒鳴りまくって、壁に声がはね返っている。
 声がほんとうに相手のからだにふれているかどうかは、だれでも感じることができます。
 声というものは、ほんとに、一つの「もの」のように、相手のからだにぶつかったり、はずれたり、散らばったり、落っこちたりするもので、目にみえるのです。
 私が有名な実践家の斎藤喜博先生の合唱指導をビデオで見たとき、声を「もの」としてつかまえ、それをふくらませたり、引き寄せたり、汗みどろになっている姿でした。
 声が「もの」として、相手のからだにふれ、相手を打つようになるためには、
 第一に、発することばが、相手に対する働きかけ、行動でなくてはならない。
 第二の条件は、自分の声をとりもどすことだといえるでしょう。
 自分の声という言い方は漠然としていますが、多くの人はいわゆる「口先だけの声でしか語っていない」ということを言いたいのです。
 話そうとすると、とたんに胸を吊り上げのどを締めつけようとする。
 胸をつりあげて、胸と頭だけに声を響かせている。
 声の幅がきわめて狭く、息が浅く、ハイスピードで一気にしゃべる。
 聞いていて安心できないし、じきに疲れてきます。
 やわらかく、こちらのからだに沁みてくるとか腹に響くということがない。
 それをなくすために、力をぬき、息を深くすることから始めて「からだがゆるんで来たな」と思えたころ、やや遠くにいる相手に、たとえば「バカ!」と怒鳴りつける訓練をやった。
 ある女性の場合、からだがおどり上がるように動いて、みごとに腹からの豊かな声がでました。
 ズシンと相手のからだを打ち、相手がふっとびそうな力強さだった。
 息が深々と彼女のからだから流れ出て相手へ向かっていく。
 自分の声に出合ったと言いましょうか。そのとき彼女は、相手が見えた、と言いました。
 胸の力を抜く訓練をして「とても楽ですという声」を見つけ、出してみると、深い豊かな声になり、話すことばが、からだ全体に響いてきます。
 驚くことには、相手にまともに向かえる感じになることです。
 自分と相手との間に、たしかな、ある関係が成り立ったという、新しい感覚がうまれます。
 自分でも気づかなかった自分があらわれます。
 人が「変わる」というのは、こういうことだと私は思うのです。
 あらわれてから後で「ああこれが私なんだ」とわかる。
 自分に出合うということは、自分を捨てることでもあるわけです。
 その人の感覚なり、行動のパターンが変わるというときには、顔つきも変わるし、声も変わる。
 つまりその人の存在の仕方全体が変わってしまう。何かどっかだけが変わるということはない。
 教師が「子どもがわかる」とは、どうゆうことなのでしょうか。
「みえる」とか「わかる」というのは、子どもたちのからだが語っていることを、教師は自分の目で見て、自分のからだに共振して感じる体験なのです。
 教師は、子どもが「みえる」とか「わかる」ようになるには、教師はからだの力を抜き、ときほぐすことが出発点になります。
 からだをときほぐすとは、肉体の緊張だけでなく、内なる身がまえをとき、からだの深いレベルまで入っていくことです。
 この中で「感じるままに動く」という訓練はとくに教師たちには全く経験がないことに驚かされます。
 もし教師が「からだをときほぐし、感じるままに動く」ことを試みれば、内的な調和を得ることができます。
 この試みは、自分を否定し、こわし、おちこぼれることを覚悟してください。
私の行っているレッスンの内容は次のとおりです。
・人に触れられないからだに気づく
・自分のからだのこわばりに気づく
・からだをときほぐす
・からだの内に動くものを感じる
・感じるままに動く
・ものにふれる
・他者に向かって働きかける
・声で働きかける
・ことばで働きかける
・からだ全体が深くいきいきと動く
 レッスンで、からだがほどけて来て、ホッとして体調もよくなり、仲よくやっていけます。
 だが、その先、日常生活によって枠づけられた範囲をからだが越えはじめ、抑圧されていた見知らぬ自分が顔を出し始めると、人は怖くなる。
 教養として、健康法としてレッスンを受けているときは、まだからだがおびやかされない。
 それが根底から変わらなければならぬと感じ始めたとき、教師の多くが逃げ出すのです。
 自分を追いつめることがなく、深い集中に身を投げる勇気が教師にはない。
「深く集中した状態でからだが動き、思いがけずに自分がいきいきと動き、それを仲間と共有しあう」という怖れと、喜びに満ちた自由な状態を教師は味わったことがない。
 しかし、生徒たちはその状態を求め無意識に体験している。
 子どもたちのからだと魂に教師が自らをなげ入れる。
 その激しいエネルギーの消耗から教師のいのちが蘇ってくるものは、子どもたちのひたむきな眼であり、湧き上がるような笑顔であり、魂をのぞかせることばである。
(竹内俊晴:1925-2009年、演出家(竹内演劇研究所主宰)・宮城教育大学教授。独自のからだとことばのレッスンを行った)
(「からだが語ることば」竹内敏晴著 評論社 1982年)

 

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教師が授業で、初心者から抜け出す10項目とは

 法則化サークルWISHで合澤菜穂子先生が模擬授業を通して学んだことです。
 初心者の合澤先生でも,意識するだけで変化をすぐに感じることができました。
 授業に悩んでいる先生方,ぜひトライしてみてください。
1 笑顔
 ふだんから口角を上げることを意識する。
 鏡を見たらにっこり笑う。
 意識することで,自然に笑顔が出るようになる。
2 目線
 子どもを見るとき、一人一人の子どもに目線を一瞬合わせることで,先生が自分を見てくれていると感じさせる。
3 体の向き
 指示・発問を出す時は,必ず子どもの方に体を向ける。
 子どもの発言は,最後まで子どもの方を向いて聞く。
 そして,板書をする。
4 指示
「教科書○ページを開けなさい」
「○○を指で押さえなさい」
「お隣同士確認」
 など、指示は,一つずつ出し,できているか確認する。
 この時,指で教科書の○○を押さえ子ども達に見せながら,目線は子ども達へ向ける。
5 発問
「△△は,分かるかな?」と,とりあえず発問はしない。
「△△は,何ですか?」とはっきりと発問する。
6 言葉を削る
 発問や指示をノートに書いてみる。
 できるだけ1行になるように,余分な言葉を削っていく。
 もちろん,「昨日□□したように・・・・・」など,無駄なことは言わない。
 大切なことが,何か分からなくなる。
7 動き
 無意味にうろうろしない。
 全体の状況を把握したり,個別に教えたりするという目的をもって動く。
 そのとき,子どもと目が合ったら「にこっ」と笑う。
 そして,子どもの方を向いたままバックしながら帰る。
8 足音
 運動靴など、足音のでない靴を履く。
 足音を立てず,静かに動く
 この音が気になり,集中できない子どもがいる。
9 声
 明るく,元気よく言う。
 女性の特性である包み込むような優しさ,しとやかさを出す。
10 リズムとテンポ
 始まって1分以内に作業を入れる。
「かせる」「言わせる」「立って考えさせる」など。
(合澤菜穂子:法則化サークルWISH)

 

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教師は借り物の技術で年を重ねても経験が蓄積しない、どうすればよいのでしょうか

 教師が「借り物」の技術で間に合わせる、その場しのぎの教育技術や実践知識を求める風潮は問題である。
 教師が授業に役立つ直接的な情報を求める視点それ自体は肯定できる。
 しかし、付け焼き刃の知識・技術だけでは、
(1)教師としての体験が意味をもって蓄積されない。
(2)実践的知識として技術や知識を体制化・内面化できない。
 ため、同じような失敗を繰り返す危険がある。
 米国スタンフォード大学のリー・シュルマン教授は、
「たとえ30年間教師をしていても、自らの授業をふり返り、見直ししなければ、1年目のことを30回繰り返しているにすぎない」
 と述べています。
 そして、神戸大学の浅田匡助教授は、これを事例研究で確認した。
 教師が自分の指導法を自己モニターして、深くかえりみて検討し、その問題点に気づき、授業方法を修正しなければ、年数を重ねても「意味ある経験」として蓄積されることがないであろう。
 そのため、生きた実践的知識を形成できず、子どもの学びを支える力が身につかないのではないかと思われる。
 教師が専門家としての力を身につけるためには、
(1)自分が授業で、実際に何をしているのかを自分自身の視点からだけでなく、子どもや他の教師などの視点を借りて検討する。
(2)自分の長所と弱点を自覚した上で、長所を生かし、弱点をカバーする手法を開発しなければならない。
 これは一種の専門家としての自己意識の問題といえる。
 それには、授業を進めるための実践的知識を蓄積し、教師としての見識を養う必要がある。
 私はその方法として、自分の授業をふり返り研究する「授業リフレクション」を紹介します。
 授業リフレクション研究では「教師も子どもも学習者」と捉えます。もちろん、お互いに学ぶ対象は違います。
 例えば、子どもはひらがなを学びながら「学ぶことの知」を育みますが、教師はひらがなを学ぶ子どもや教師として教える自分をモニターします。
 そこから子どもの発達特性や学習方法、学習過程、教材特性などの「教えることの知」と「学ぶことの知」の両方を学ぶ、と考えます。
 リフレクションとは、自分で自分を振り返ることを意味します。授業を振り返ることによって、自分の指導、子どもとの関係、教材との関係を見直し、子どもの理解を深めるための改善点を見いだす手法です。
 授業リフレクション研究の手順は、
1 自己の授業実践へのこだわりの意識化
2 1についてのふり返り→問題らしきものの意識化
3 原因の検討
4 仮説的問題発見
5 問題の課題化-仮説設定
6 仮説に基づく研究計画の立案、設計
7 6に基づく実験授業のための教材研究、再設計
8 7の実験授業実施
9 8の記録作成、自省記録作成
10 9の分析・考察
11 第三者との協同的・批判的検討と対話的考察
12 析出した課題による5~11のスパイラルな展開・発展
(番号は必ずしも順序どおりに進むとは限らない)
(澤本和子:東京都出身、お茶の水大学付属小学校教師、山梨大学教授を経て日本女子大学教授)

 

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説明文の一部をいたずらをして消す国語の授業とは

 説明文をいたずらする方法というのは、国語の教材の文章が、一部が消されたり、段落が入れ替えられたりといういたずらをする。
 その文章を元に戻していく過程で、子どもたちに深く考えさせる仕掛けだ。
 この説明文は小学校3年生の教科書から拝借した。福田秀貴先生は授業の狙いにあう教材をいつも探している。
 この日は説明文「めだか」のプリント教材を使っての勉強。
 冒頭に「めだかの学校は 川の中」というおなじみの歌詞があり、それに続く本文で、メダカは危険の多い川の中で身を守るためにどんな行動をとるか、体の仕組みはどうなっているかを解説している。
 子どもたちは本文から、メダカが身を守る方法を抜き出していく。すぐに、
(1)水面近くでくらす
(2)素早く泳ぐ
(3)集まって泳ぐ
 の三つが挙がった。
 ここで先生が、挿絵のコピーを取り出した。
「この文にはこんな挿絵が付いていたんだよ」
 身を守る方法が一つひとつ絵になっているのだが、あれれ……本文には三つしか書いていないのに、絵は4枚ある。
 「あーっ、いたずらだ」「ジョニーが文を消したんだ」
 どうやら元の文にあった、身を守る「第4の方法」を、ジョニーが消してしまったようだ。
 残った絵には、ゲンゴロウに襲われそうなメダカが、濁った川底近くにいる様子が描かれている。
 子どもたちはこの絵から、どんな文が消されたのか考えていった。
 ジョニーは筑波大付属小(東京)の白石範孝先生のニックネーム。
 白石先生は7月末、この6年1組で模範授業を行った。
 そこで使った教材の文章は、一部が消されたり、段落が入れ替えられたりといういたずらがしてあった。
 文章を元に戻していく過程で、子どもたちに深く考えさせる仕掛けだ。
 本家ジョニーは東京に戻ったが、ジョニーのいたずらは福田先生が引き継いだ。
 福田先生は多くの研修会に参加し、そこで学んだ先輩教師たちの「技」を、積極的に授業に採り入れている。
 ジョニーもその一つだが、自分なりの工夫を加えることも多い。
 例えば朝の会・帰りの会。朝の会の学習活動は〈月〉詩の音読、〈火〉暗唱、〈水〉ペア音読……とメニューを日替わりにした。
 帰りの会のスピーチも、曜日ごとに違うテーマで行う。マンネリ化するのを防ぐ狙いだ。
「じゃあ身を守る第4の方法、自分だったら何て書く?」
 半分くらいの手が挙がった。でも先生はなかなか指名しない。
 そのうちに、一人、二人とさらに手が挙がってゆく。
「ぱっと反応できる子は一部だけです。多くの子に挙手のチャンスを与えるため、時間をかけて待つようにしています」
 いったん手を下ろさせ、近い席同士で話し合わせることもある。
 こうすると、全員が誰かに自分の考えを伝える機会を得るという。
 実は、元の文章から先生が消した部分はほかにもあった。
 筆者はそこに何を書いたのだろう? 接続詞や、冒頭の「めだかの学校」の歌詞をヒントに考えていく。
「川の中は危険だから、みんなでおゆうぎしているヒマはない、みたいなことが書いてあると思う」「歌と現実の差を表しているんじゃない?」
 活発に発言は続く。
 筆者の意図を見据えながら、「自分だったらどう書くか」まで考えていく。それが先生の最終目標だ。
(福田秀貴:青森県八戸市立小学校教師を経て指導主事)

 

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教師は人間好きであることが肝要、自分に不都合なものをも包みこみ愛せよ

 教師は子どもが好きでなければという論が多いようだが、わたくしはそれよりも人間というものが好きであることこそ肝要であると思う。
 好きという表現が情緒的だというなら、人間について発見することに張り合いをもっているといってもよい。
 人間理解はそのことによって自然に深まる。
 教師は毎日のように子どもを見ているのであるから、人間に対する関心、理解力があれば、奥深いとらえかたができるのが当然である。
 子ども一人ひとりについて深い理解が生じれば、その親に対する姿勢もおのずから違ってくるにちがいない。
 性急で自己中心的な親に対しても、じっくりやわらかく包んでいくことができるであろう。
 いわばそれは教師の懐が深くなるということである。
 懐が深いというのは、ただ度量があるということではない。
 淡々として多様性に対することができるということである。
 教育が生きた仕事であるかぎり、教師の都合によって好きに動かせるものではない。
 教師は絶対に自分の教師としての都合を優先させてはいけない。
 その心がまえがしっかりできていないから、人間としての子どもをちゃんと育てることができないである。
 自分に不都合なものを愛せよと、強くすすめるゆえんである。
(上田 薫:1920-2019年大阪府生まれ、教育学者。東京教育大学教授、立教大学教授、都留文科大学学長を務めた。長く信濃教育会教育研究所所長を兼任。教育哲学、教育方法学を研究、一貫して教育現場の研究実践にかかわり続けた)

 

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読書マラソンでクラスが学びの共同体になった

 掛川克義先生の読書マラソンは、教師が選んだ30冊の本を、クラス全員で回し読みします。
 読んだら「感想ノート」に、自分の感想を10行、友だちの感想に対する意見を5行を書き、本と感想ノートを一緒に回し読みしていくという方式である。
 あたかも駅伝のようにリレーして、最終的に全員が同じ本を30冊読み、本の感想を30回書き、友だちの感想を読み、それに対する意見を必ず書くという活動である。
 この活動で掛川先生がねらっていることは、
(1)学級全体で読書の楽しさを共有すること
(2)読書の世界を広げること
(3)読書の習慣をつけること
である。
 この読書マラソンを体験した子どもたちは、読んだ本について互いに話し合うようになり、読書の楽しさを共有することによって本を読む習慣や感想を書く力もついてきたという。
 学級を学びの共同体にしていくことによって、本を読んだり、文章を書いたり、自分の意見を発表する力を確実に、全員につけていこうとしていることである。
 個人学習から協同学習へと学びの形を変えることによって、基礎・基本の学力を確実に身につけていこうとする試みである。
 具体的な実践を次に示します。
1 読書マラソンという言葉どうしてうまれたか
 6学年が始まり「みんなで読書を楽しむための手立てはないか」と考えているときに,女子マラソンの高橋尚子選手の報道があった。
 それを眺めていて掛川先生に「読書マラソン」という言葉がひらめいた。
「読書にマラソンがあってもいいじゃないか。みんなで楽しみながら読書の習慣を身に付けることができる」そんな思いが掛川先生に湧いた。
「読書マラソン」という言葉が生まれ,取り組みの構想が次々とできあがった。
2 読書マラソンの方法
(1)1週間に1冊,1年間に30冊の本を読む。
(2)ノートにかんたんな感想を書く。
(3)毎週月曜日に,本とノートを交換する。
(4)学級の図書係が運営する。
(5)「読書マラソン」が終了したら,感想ノートの自分のページを集めて,一冊のノートにする。
(6)30冊の本は,先生が責任を持って選ぶ。
(7)本の購入は,先生と親に任せる。
(8)本を交換するときは,どの本を読むか,期待を持たせるために,計画表を作り,月曜日の朝に読書係が発表するようにした。
3 読書マラソンの本を選ぶ
「この本に出会えてよかった」といってもらえる本を選びたいという思いで子ども向けの本を掛川先生は探したが,なかなか納得のいくものがなかった。
 その中で,子ども向けの本30冊を紹介した「ザ・リバティ」の特集記事を見つけた。
 特集では,本を3つのポイントで選び紹介している。その選び方は,読書の世界を広げたいという掛川先生の思いにぴたりと重なるものであった。
 本選びの3つのポイントは、
(1)愛と感動を与えるもの。愛,夢,努力を伝える本
(2)21世紀に向けて大きな視野を持つための本。社会,科学,歴史の本。
(3)歴史上の偉人の伝記,子どもたちの心を耕す詩集。
4 読書マラソン30冊のリスト
(1) 愛と感動を与えるもの。愛,夢,努力を伝える本10冊
「タイムマシン」H・Gウェルズ
「ぼくの一輪車は雲の上」山口 理
「チルチルの青春」メーテルリンク
「マリヴロンと少女」天沢退二朗監修
「みどりのゆび」モーリス・ドリュオン
「最後の一葉」オー・ヘンリー
「星のひとみ」サカリアス・トペリウス
「ノンちゃん雲に乗る」石井桃子集1
「一ふさのぶどう」有島武郎
「アンデルセン童話集」
(2)大きな視野を持つための本,社会,科学,歴史の本10冊
「ともしびをかかげて」ローザマリ・サトクリフ
「経済とお金のしくみ」PHP研究所
「ひとしずくの水」ウオルター・クイック
「21世紀こども百科科学館」
「数と図形の発明発見物語」板倉聖宣編
「大きな大きな世界」かこ・さとし
「野鳥記」平野伸明
「海のなぞをさぐった人々」松江吉行
「大仏建立物語」神戸淳吉
「人物でわかる日本の歴史」
(3)歴史上の偉人の伝記・子ども達の心を耕す本10冊
「世界を変えた6人の企業家4」 フォード
「児童伝記シリーズ19」 コロンブス
「世界童謡集」 西条八十,水谷まさる
「おもしろくてやくにたつ子供の伝記4」 ライト兄弟
「少年少女のための日本名詩選集14」 八木重吉
「世界のお母さんマザー・テレサ」
「子供の伝記全集1」 湯川秀樹
「坂本龍馬」 小宮宏
「夢をつなぐ」 澤井希代治
「伝記世界の音楽家バッハ」 シャーロット・グレイ
5 保護者に呼びかける
 学級通信で呼びかけた。読書マラソンの取り組みと,図書の購入計画の提案に,保護者から多数の意見が寄せられた。
 読書マラソンの構想については,多くの期待と支持が寄せられた。図書の購入については,負担が大きくならないようにという要望が上がった。保護者の意見をよく聞いて,同意を得ておくことが大事である。
6 学校,学年の理解を得る
 大分市立荷場町小学校は,1学年1学級で,学年内の話し合いは必要ないが,複数学級の場合は取り組みについての,同学年の理解を得る必要がある。
 また,図書の費用で購入をした本については,学級で1年間独占する事について職員会議等での説明が必要である。校長・図書主任の快い了解を得ることができた。
7 図書の購入
 図書費で購入できるか検討し,金額の高いものから10冊分を学校で買ってもらうことにした。一人あたり600円で購入する事ができた。
8 感想ノート
 感想ノートは,B5版のノートを用意した。自分の感想を10行。友だちの感想に対する意見を5行。コメントを1行ずつ書くようにした。
 表紙には,本の題名と番号,表紙の裏には図書のリスト,一番最後の頁に読書マラソン計画表をつけた。
9 感想ノートの留意点
(1)進み具合を把握する。
(2)記述が人を中傷する事がないようにする。
(3)続かない子に個別の指導をする。
(4)感想を読みあう時間を取ってあげる。
10 子どもの作文
 子どもたちには,時々読書についての思いなどを,作文に書かせた。
 作文は,5分刻みで回し読みをする。読んだら必ずコメントを書いて次に回す。
 結構疲れるが,友だちの作文を読んだり,自分の作文を読まれたり,コメントを入れあったりすることは,楽しいらしい。どの子も,ニコニコしながら読んでコメントを入れている。
 2学期の中ごろ書いた子どもたちの作文と友だちのコメントを読むと,読書マラソンが読書の習慣作りとして学級に位置づいてきた様子が分かった。
 読書の楽しみや読書から学ぶ知識だけでなく,読書マラソンを通して味わえる友だちとの交流の楽しさや新しい本に出逢える期待などが作文にうまく表現されている。
 子どもたちが読書マラソンの魅力を体で感じ,読書が習慣になっていく様子を見るのは,担任の大きな悦びであった。
11 好きな本のアンケート結果
 2月に好きな本のアンケートをとりベストテンを選んだ。
 自然科学の本が上位に入り古典といわれる名作も人気を得た。本選びの3つのポイントから,それぞれ選ばれていて,子どもたちが幅広い本に興味を持てたと思う。
 みんなが選んだ読書マラソンベスト10
第1位 ひとしずくの水     19票
第2位 タイムマシン      10票
第2位 野鳥記         10票
第4位 子ども百科科学館    9票
第4位 最後の一葉       9票
第6位 みどりのゆび      8票
第7位 坂本竜馬        7票
第7位 一ふさのぶどう     7票
第7位 アンデルセン物語    7票
第7位 人物がわかる日本の歴史 7票
 読書マラソンは子どもだけでなく,親も巻き込んで,読書の輪が家庭にも広がっていった。親の期待にもこたえられる取り組みであったと喜んでいる。
12 「読書マラソン」5つの成果
 読書の本当の成果は,子どもたちが,手にした読書の習慣の力を十分に生かして,将来にそれぞれの夢を実現しようとしたときに,大きな力となって現れるのであろう。
 成果をまとめてみると、
(1)幅広い本に触れ,読書の世界を広げることができた。
(2)共通の本を読むことで,共感したり,感じ方の違いに気づいたり認め合ったりすることができた。
(3)感想ノートは,感じ方をまとめたり,発表したりする良い機会となった。
(4)教師が「読書マラソン」に参加することで,子どもの感覚に直にふれることができた。
(5)読書を通じて,親子が同じ話題で話し合うなど,家庭にも読書の波が広がった。
 さまざまな読書の習慣作りの取り組みの中で,この「読書マラソン」は,学級全員で読書の習慣作りに取り組むとてもよい方法である。
 多くの方に「読書マラソン」を実践して,子ども達に「読書の習慣」という最高のプレゼントを手渡して欲しいと願っている。
 読書の旅を共にしてくれた29人の子どもたちと,物心共に支援をしてくださった保護者の皆さんに,心からの感謝をおくりたい。
(掛川克義:大分県大分市立小学校教師。2002年、国語:読書マラソンのすすめ-読書の習慣作りの実践で第17回東書教育賞最優秀賞受賞)

 

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書籍「教育は死なず―どこまでも子どもを信じて」がベストセラーとなり映画化された

 長野市の私立篠ノ井旭高校(現:長野俊英高等学校)が1960年に開校し、さまざまな問題を抱える生徒たちを全国から受け入れ、その更生に力を注ぎました。
 篠ノ井旭高校の教育は、大きな評価を得て「教育は死なず」として1981年に映画化されました。
 非行などで全国の高校を退学になった生徒を積極的に受け入れ、当時、全国に例をみない取り組みだっただけに、教師たちの苦労は、なみたいていではなかった。
 若林繁太校長は何度、途中で投げ出そうと思ったかもしれない。それに耐えることが教育なのだと教師たちとともに励まし、いたわり合いながら進めてきた。
 だまされても、だまされても生徒を信じ抜くことは口では容易にいえるが、実践は大へんである。
 また、だまされることを知りつつ、信ずることも大へんなことである。しかし、これは教育の基本的な部分なのである。
 この大へんな取り組みも、教師仲間の励ましで負担が軽くなるものだ。教師集団の意識統一が大切なのもこのためである。
 この取り組みで若林校長が得た最も大きな収穫は「駄目な子はいない」ということであった。
 よほどの生徒であっても、個人的に会うと、淋しがり屋で、心はほんとうに純真であった。
 そんな生徒が、立ち直れないはずがない。誰かが、どこかで、指導していかねばならないと思う。その誰かは、自分だと思ってほしい。
 日本中の教育者が、そんな気持ちになってくれたらと若林校長は念じていた。
 どうか、皆で、この教育荒廃を乗り越えよう。理論よりまず実践が大事である。
 やれば、何とかなるものだ。自分の一生に悔いの残らぬよう始めよう。
 このような仕事に生きがいを感ずる若林校長は幸福だと思っていた。
 それは、精一杯、生徒と取り組んだ後には、とくに、そう感ずるのである。
 学校再建は、どこから手をつけるべきだろうか。若林校長も教師たちも必死になって実践し、かつ悩み、再建の途を探した。
 やがて、再建の第一歩を生活指導からふみ出した。非行をなくそう、それには、非行の原因をつかみ、この原因を除去していくことだ。
 非行は子どもたちが大人、とくに教師にたいする、なんらかのストレスの表現なのだ。
 そして、そのストレスのうちの最大のものは、いわゆる「落ちこぼれ」だ。
 それなら非行をなくすには取りしまりや厳罰主義でのぞむのでなく、授業をわかるようにしよう。
 それが教育の原点である。教育の原点に立って指導を進めることに決した。
 しかし、理論的にはそれが正しいとしても実践することになると簡単にはいかない。
 教師は一人ひとりが自分なりの教育信念を持っている。
 それを調整しながら全教師の歩みを一致させなければ効果があがらない。
 教師の中には相互に真反対の理念を持つ場合も少なくない。
 それを一人ひとり説得し、調整していく。このために膨大な時間と労力が投入された。
 数ヶ月かかって、やっと全教師の意識が統一できた。
 もちろん、内部の細かな部面には未調整のものもあるが、それは今後、気長に調整することにして、大局としては一致することに成功した。
 教職員の意識統一が成立すれば、半ば成功したと思って良い。
 最初、この教育を若林校長が手かけたときの目標でもあった。
 確かに容易な仕事ではなかったが、これは重要なことなのである。
 この教育に取り組むための条件整備として、
(1) 一クラスの定員を30名を標準とする。
(2) 教師の週持時間数をできる限り減少させ、教育研究、教科研修の機会を与える。
 など教師の負担軽減し、全教師合意の上で次のように実施にふみきったのである。
(1)授業公開の原則
 公開授業の目標は、
「一人ひとりの生徒を大切にし、楽しくてわかる授業の実践をめざし、教職員相互間の反省、向上を目的とする」
 授業を大切にするとともに、常に指導技術を向上させるため授業は公開制とした。
 誰でもいつでも、どこの授業を参観してもよい。
 参観した人びとは、必ず参観した授業について批評カードに記入し、提出してもらう。
 授業者は、このカードを参考にいっそう自分の授業を工夫し、完全なものにしてゆく。
 参観者は、地域の小・中・高校の教師たち、保護者、地域の人びとである。
(2)自主的な教科研究
 各教科で独創的な研究を行い、生徒の能力に合致した指導と個々の生徒の到達目標に適応する教育内容を目標に教科活動を進める。
(3)到達目標の作成
 従来の一律的到達目標の設定を避け、生徒の能力に応じた個別的到達目標を設定する。
 各教科は生徒個々に応じた指導に重点をおき、落ちこぼれを出さない工夫を考える。
 やがて、生徒は喜んで宿題をやってくるようになった。
 その理由は、個別的達成目標を勘案して、生徒の能力に応じた宿題が個別的に出される。だから、誰もが同一な努力量ででき、問題を解く喜びを知ることになった。
(4)学力別編成
 学力別編成により生徒の劣等感を起させないよう配慮する。
 生徒の学力格差がおおきいため、A(高校標準以上)~E(小学校程度)クラスまでとなっている。
 クラス選択は生徒の自主性にまかせ移動可能とした。実力が向上すれば下位のクラスは消えていく仕組みになっている。
(5)困難な事象にも真正面から取り組む
 教育の世界は常に新しい事例に対処しなければならない。
 生徒個々の性格がちがうように、いつも同じ指導法では目的が達成できない。
 したがって、その生徒に適応する教育方法を工夫し、実践しなければ効果はあがらないものである。
 しかし、事例に適する類似の指導方法は実践記録の中に必ずあるものである。その類似の指導法を参考にしながら生徒個々の指導方法を確定し実践する。
 ところが、実践記録にもない新しいケースが頻繁に出現した。
 教師たちを悩ませたが、回避することなく、敢然とそれらの事象に対決し、幾多の困難を乗り越え、成功や失敗を繰りかえしながら取り組んだ。
 学校の再建にどう取り組むかを考えていたときに、ある宗教団体の会長が校長室を訪ねてこられた。
 その会長と話しをしていたなかで、鮮明に残っている言葉があった。
「学校が変わるには生徒が変わらなければなりませんよ」
「生徒が変わるには教師が自ら変革しなければならないし、教師を変えるには、校長自らが変わらなければ成功しませんよ」
 なるほどと、と若林校長は思った。
 今まで若林校長は、
「教師たちにどのようにやってもらえば、生徒が良くなるか」と、自分のことを棚にあげて、人にやってもらうことばかりを考えていた。
 自分の変革を枠外において、他の人たちを中心に再建構想をねっていた。
 それでは駄目なんだ。まず「自分の姿勢をどう変えていくか」を中心に構想を組み立てなくては人は感応するものではない。
 若林校長は校長である前に一人の教師なのだ。それを、いままで忘れていた。
 教師を変えるには、教師の一人である自分自身を変えていかねばならない。
 そうすれば、人は必ずついてくる。まず自分が苦しむことだ。
 それでなくては、教師の苦しみがわかるはずがない。
 これはよいことを教えていただいたと若林校長は感謝した。以後、若林校長には迷いは無かった。
「自ら実践することに徹する」ことが若林校長の教育方針に組み入れられたのである。
 それからは、若林校長は生徒とともに掃除をし、クラブ活動に汗を流す日々が続いた。そして、生徒とともに生活することになった。
 若林校長はそれまで、自分の威厳をつくるためにダブルの背広を着ていた。
 そうした外形をつくることに心をくだいた。それをぬいで、もっとも活動しやすく、生徒と同じスタイルのトレパンに着がえた。
 ダブルの背広からトレパンへの移行は「子どもよりの校長」への私の変革だった。いつの間にか生徒たちは、若林校長のことを「トレパン校長」と呼ぶようになったのである。
(若林繁太:1925-2007年、私立篠ノ井旭高校(現・長野俊英高)教諭・校長。読売教育賞受賞。「落ちこぼれを出さない教育」をめざし非行歴のある生徒や中退者を積極的に受け入れる。著書『教育は死なず―どこまでも子どもを信じて (1978年)』がベストセラーとなり、映画化もされた)

 

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«大正自由主義教育運動で中心的な役割を果たした澤柳政太郎とはどのような人物であったか