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河上亮一(中学校) 教師になって見えてきた教育の中身      

 私が教師になったのは、1966年のことである。私は、個の尊重と自由・平等という理念を実現しよう頑張っていた。しかし、生徒の自由を第一に考えると、クラスは混乱し授業もうるさくなることがすぐハッキリしてきた。そうじもやらなくなるという日が続き、私はそこで立往生してしまった。私の理念と生徒の現実との落差にはとても耐えられなかった。私は自分の理念がまちがっているとは露ほども思わなかった。私は自分の能力がないのだと思うようになった。そして、これまで自分の持っていた理念をとりあえず抑えて、自分の教師としての技術を身につけて生き始める決心をしたのである。同じ学校で自分を変えるキッカケをつかむことがむつかしいので、自分を根本的に変えるべく転任した。
 転任して、自分の動きや他の教師、生徒の動きを必死にメモすることから始めた。生徒が私の動きでどのような反応をするのか、顔つき、目つきなどを一所懸命に見ることから始めたのである。そして生意気な自分を抑え、まず他の教師と同じことをきちんとやろうとした。「教師」の仕事をしっかりやってみようとしたのである。
 このような理念派であった私が現実派への変身は、精神的にも肉体的にも相当苦しいことであった。ほとんどの動きは、これまでの私の理念からすると逆のものになっていたからである。最初の1,2年は、はげしい下痢、頭痛、発疹などの肉体的変調に悩まされることになる。4,5年たってなんとかそれを克服した時、私は理念派から現実派に変身していた。
 理念を抑え込んで真正面から学校や生徒を見始めると、これまで頭で否定してきた「古い学校」が、じつはきわめて大きな教育力を持っていることもわかってきた。私はやっと教育というものが少し見えるようになってきたのである。
 そのときわかったことは、教師間の人間関係の和が、学校をつくる大きな力となっていることであった。つまり、集団で動くためには人間関係の和が有効な方法だったのだ。
 さらに、教育のやり方も、日本では明治以降いっかんして、集団のなかで個がどう生きるかということを大切にしてきたということ。そして、教育は基本的に強制がともない、学校生活の仕方や基本的な知識はおしつけても教えるべきだという考えをとってきたことであった。
 このようなやり方は、日本の学校の伝統的な方法であり、それは生徒に日本の文化を身につけさせる方法として、非常に有効であったと言っていい。明治の急速な近代化と、戦後の急速な経済成長が、この日本的な学校の教育力に支えられていたことは確かであろう。

(「プロ教師の仕事術 学校という戦場を生き抜く技術と知恵」河上亮一著 洋泉社 1997年)
(河上亮一:元埼玉県公立中学校教諭、日本教育大学院教授、プロ教師の会主宰)


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