大村はま(おおむら はま)(中学校) 「子どもが学ぼうとする本能的な尊さに胸がふるえた」
1906~2005年、横浜生まれ、長野県公立高等女学校、戦後は東京都公立中学校で73歳まで教鞭を取り、新聞・雑誌の記事を元にした授業や生徒の実力と課題に応じた「単元学習法」を確立した。ペスタロッチー賞、日本教育連合会賞を受賞。退職後も「大村はま国語教室の会」を結成し、日本の国語科教育の向上に勤めた。
戦後、戦争で物資が何もないときに教材づくりに新聞紙をかき集めて、一つひとつの教材を作り学習の手引きを書いて用意しました。学習の手引は子どもの学習活動を掘りほこすエネルギーのもとになるもので、子どもたちがどこから手をつけていいかわからないというような状態になっているときに、ちょうどよいヒントが学習の手引に書いてあり、それが一挙に学習意欲を燃えあがらせ、活発な学習状態に入らせるものです。
戦争によって、机も椅子も教科書も黒板も失われた教室に私が入ると生徒たちはみんなわんわん騒いで走り回っています。とても授業ができる状況ではありません。呆然として、私は教室のすみに立ちすくみました。
私は生徒たちを捕まえようと追いかけます。何とかつかまえた生徒に、「これをやりなさい」と教材をにぎらせました。十人くらい生徒を捕まえて教材を渡しました。
ふと、教室の後ろの一角が静かになった気配がしました。一人の生徒が窓枠の平らなところで、教材の紙をあてて、一生懸命に書いています。その隣でも紙のしわを伸ばして読んでいます。生徒の真剣な目が鋭く光っていました。
私はそのとき、本当に感動しました。生徒は自分がやれることがあって、その方法が授けられたとき、走り回って犬の子ではないかと思っていた生徒がこんな顔になるのだということを身にしみとおるほど知りました。
おもわず隣の小さな職員室にはいり泣いてしまいました。人間の子どもの尊さ、学ぶということの本能的な尊さに胸がふるえるのを感じました。
教師は、本当に適切な教材を与えているのか、やらせ方に問題がないのか、子どもが駄目というのは、子どもに何かわけがあったとしても、教師の不始末によるものだということを、本当に知ることができました。
一人ひとりに合った授業や子どもの扱いは自然に生まれた工夫なのです。そのとき何より深く肝に命じたのは、いかなることがあっても、子どもの不始末は、教師は決して何かのせいにしてはいけない、言い訳してはならないということです。
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