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聴ける子どもを育てるには教師自身が聴ける教師になる必要がある

 聴き方は教えてできるものではない。「聴く」ということは、内面的な心のはたらきと、そこに存在する他者関係によって微妙に変化するものだからである。子どもの心のはたらきに頓着せず、子どもの他者関係を築くための人間的なはたらきかけもしないで、聴ける子どもを育てることなどできはしない。
 教師は一斉指導が染みつき、「発信型」であり、「受信」がへたであると私は思っている。教えたい、話したいということに必死になっていれば、子どもの言葉は心に入ってこない。
 問題は、教師自身に子どもの声が聴けているかということである。聴ける子どもを育てるには、何よりも先に、教師自身が「聴ける教師」になる必要がある。
 授業で子どもたちの内に生まれた、気づきや疑問を、胸をわくわくさせながら「聴こう」とすることが何をおいても大切なのだ。
 ある公開研究会で、子どもと子どもがつながり合う素晴らしい授業があった。授業が始まり、子どもと子どものつながりがまたたく間に生まれ、授業者がそんな子どものやりとりに、ゆったりと聴き入っている様子を目にしたとき、私は本当に感動した。
 授業の後、その教師は「こう分からせたい、こう言わせたいという思いを捨て、とにかく子どもの発言することをたのしもうと思って授業しました」と語ってくれたのだが、そのことばを聴いて、教師が「聴く」ということはどういうことなのかを教えてもらった気持ちになった。
 教師が本当に耳を傾けることができるときとは、子どもを信頼し、子どもの内に生まれるものを尊重し、その子どもの気づきや疑問から豊かな学びがつくれることを確信し、子どもとともに学びに挑戦する気持ちを固めたときではないか。それが、子どもの発言を「たのしむ」という彼のことばになったのではないか。そう思ったのだった。
 教師に「聴く」心が生まれたとき、子どもが言っていることの重みが初めて見えるようになる。聴こうとしなかったときにはまったく感じとれていなかった、一つひとつの発言の重みが分かるようになる。
 そうなったとき、初めて、子どものことばのつながりが少しずつ見えるようになり、そのつながりの合間に挟む教師のことばが生きるようになる。
 一心不乱に子どものことばを聴ける教師になることで、子どもと子どものつながりは見える。この授業で、もっとも私が学んだことである。
(石井 順治;1943年生まれ 「国語教育を学ぶ会」の事務局長、会長を歴任 三重県の小中学校の校長を努め、退職後は各地の学校を訪問し佐藤学氏と授業の共同研究を行う)


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