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人間としてのあり方が「ほめる、叱る」ときのことばに映し出される

 ほめるべきときにしっかりほめる、叱るべきときにしっかり叱る、ということをしなくなった大人が最近目立つようになった。ほめるも叱るも、態度がしゃんとしたものでなくてはなりません。
 「もうォ、それはダメじゃないのォ。やめなさいよ。やめて。ねェ、お願い」と懇願口調で、あれでわが子を叱っているつもりなのか。幼児期からあれでは、この先どうなるのかしらと、ぞっとしてしまいます。
 子どもの自主性を尊重しているつもりで、実際には親としての主導権をしっかり示していく自信がない。逆に親が子どもを完全に管理して、やむなく従うのを従順だと思い誤ることも多いのです。
 息をうんと吸って吐く勢いで「はーい、それはダメ」と、きっぱりと言い切って、あとの様子をしっとりとした態度で見守っていると、子どもは、じっとこちらの気配を感じて、してはいけないことをしている手元が止まるということになったりするのですね。「強く注意を喚起して、あとじっくり共感」という流れがそこにあります。
 自分の日常の生きていく姿勢が、子どもをほめたり叱ったりする態度にもろにあらわれます。どう「ほめ・叱る」かでなく、充実した生き方ができているかどうかの、親のあり方、教師一人ひとりの生き方の質が、問われているのだという気がするのです。
 親や教師は子どものために、「ほめる・叱る」の意図が、子どもの心に届かないことが多くあります。こちらの思い違いもあると覚悟しておく。子どものこれまでの習慣や育てられ方というものも、考慮し直してみる。
 まあ、「ほめる・叱る」は試行錯誤して反省を積み上げていくしかない。子どものあり方にいかに敏感に反応して、前向きの関係をつくるか、ですからね。人間関係は、一種の格闘技。相手がどう出てくるか機敏に対応しながら、こちらの出方は、心と体の瞬間の動きに任せる。「ほめる・叱る」は、人間関係のひとつのかなめなのですね。
 叱ったあとに、反発が返ってきたりしても、おそれず、生き物の生きる勢いに任せたいさぎよさで子どもに対すること。子どものしくじりに気づいたら、気づいた自分の確かさに誇りを抱く。子どもに対しても謝るときには謝る。訂正すべきときは訂正すること。
 「ほめる・叱る」には、その時、その呼吸(いき)でという、コツがあるのだと思います。コツをはずしていなければ、形がいろいろ違っていても子どもの成長に役だっていく。
 結局は、「ほめる・叱る」ということは、それが必要な急場の、子どもに対するしゃんとした大人の姿勢のあり方のことだと気づくのですね。
 「人間」としての、しっかりしたあり方が、時々のほめことばや叱りことばに、微妙に、そして、はっきりと映し出されてしまう。要するに、大人がどれほど元気に生きているか、ということになるのではないでしょうか。
(
伊藤友宣:1934年神戸生まれ、大学で教育心理学を学び、卒業後は、教育問題、特に親子の関係、いじめ問題などを中心にカウンセリングに取り組んでいる。神戸心療親子研究室主宰)

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