« 国語科:読む指導「夕鶴」   | トップページ | 我慢できなくなった子どもたちに対して、指導方法を多様にして学習ばなれを防いでいる »

知識注入型授業から全身的で共同的な学びへ

 海外帰国生徒が全体の三分の二を占める国際基督教(ICU)高校に私が着任して早々に生徒が「どうして先生は、授業にもっと生徒を参加させないんですか」という短いコメントをテストの解答用紙に書いていた。
 このとき私は、黒板とチョークに象徴される教師が主人公の授業の他に、世界にはもっと多様な授業形態があるらしいと気づいた。「目の前にいる帰国生たちが、どういう内容をどういう方法で学んできたのかということについて、知らないまま授業を進めてよいのだろうか」という自問が生じた。
 やがて10年間の模索の時期を経て、1990年代の初めから、私は日本の授業を従来の「教え」中心の知識注入型授業から、生徒の自主的な「学び」を重視する獲得型授業にむけてシフトしていくべきと考えた。
私が考えた獲得型授業とはつぎのようなものである。
(1)
学びを「全身的な学び」に作りかえることである。
 頭を働かせるだけでなく、身体も動かすこと。座学だけでなく行動しながら考えること。
 必要な知識を自分で探し出すこと。それを使いこなし、感性につなげること。想像力を喚起すること。
 見たり聞いたり感じたりしながら感性をフルに回転させること。五感だけでなく第六感(共通感覚)をも働かせること。
 情報を自分の考えにまとめあげ、それを表現すること。言葉を通して表現するだけでなく、身体表現をもふくむさまざまな表現にねりあげること。討論や発表を楽しむこと、などである。
(2)
学びを「共同的な学び」に作りかえることである。
 生徒同士が親和的で、協力して学ぶなかで、それぞれが成長し豊かになり、自己発見していけること。
 学習集団への貢献を通じて、自分の役割の大切さを実感できること。
 共同作業を通じて、互いにたいする共感能力が育まれること。
 生徒が発する自由で多様な発言を聞き取りながら、一人ひとりの生徒が視野を広げていけること、などである。
 このような学習を通じて若者たちが、知識を獲得するのはもちろん、自己表現や討論にかかわるさまざまなスキル(技能)、そして学び方そのものをも身につけていくことになる。
(渡部 淳:1951年秋田県生まれ、国際基督教大学(ICU)高校教師を経て日本大学教授。専門は教育内容・方法論、国際理解教育論)

|

« 国語科:読む指導「夕鶴」   | トップページ | 我慢できなくなった子どもたちに対して、指導方法を多様にして学習ばなれを防いでいる »

学習指導・学力」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 知識注入型授業から全身的で共同的な学びへ:

« 国語科:読む指導「夕鶴」   | トップページ | 我慢できなくなった子どもたちに対して、指導方法を多様にして学習ばなれを防いでいる »