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悲しみの力で私たちは自分のやるべきことを知り、生きる力を得ることができる

 私の仕事はホスピスとして病棟で患者さんの看取りに立ち合い、家族を含めた心のケアにあたってきました。これまで500人を看取りました。
 そのなかで感じたのは、悲しみから目をそらさずに正面から受け止めることができた方ほど、おだやかな気持ちになれる、安らかな最期を迎えられるということです。悲しみから目を背け、他人を攻撃したり責め立てたりする患者さんは、最期まで苦しんでいたように見えました。
 自分の中にある悲しみをじっと見つめ、静かに向き合う。そこから真の力が生まれてきます。
 私は多くの方の死に関わるなかで「自分は後どれくらい生きられるのか」と考えるようになりました。その短さを知ったとき、おのずとやるべきことは見えてきます。いつ死ぬことになっても、自分はやることはやったと言えるようになりたいと思っています。
 悲しむとは見つめることであり、悲しみの力を借りることで、私たちは自分のやるべきことを知り、生きる力を得ることができると信じています。
 僧侶としてホスピス病棟に赴任したときは「末期ガンの患者さんの苦しみを少しでも癒してあげよう」と希望に燃えていました。
 しかし、僧衣を身につけ病室を訪ねると「お坊さんなんて縁起でもない」と入れてもらえない現実に耐えがたい苦痛をおぼえました。僧侶としての仕事といえば、病棟に安置された仏像の前で患者さんが亡くなったときに、希望されれば短いお経をあげるくらいしかありませんでした。私はふてくされながら仕事をしていました。
 そんな私を変えてくれたのはある患者さんでした。その患者さんは身寄りのない高齢の女性で、介助をしながら、当たり障りのない言葉をかわす程度でした。
 次第に衰弱していったある夜、すぐに来てくださいと連絡があったので病室に駆けつけると、「人の痛みのわかる人になってね」とそう言い残すとカクンと息を引き取ったのです。私がいやいや仕事をしていることがお見通しだったのです。
 僧侶でありながらいつも自信がなく、オドオドしていました。自分の仕事に誇りが持てず、必要とされていると感じたことはありませんでした。
 しかし、「人の痛みをわかる人になってね」と言われたとき、私は生まれてはじめて自分の存在を肯定されたような気持ちがしました。私は今までの人生で人から必要とされたり、願われたと感じたことは一度もありませんでした。
 私は願われている存在なんだ。そう感じられたとき、私ははじめて自分の弱さを正面から見つめることができました。そして、「私は生きていていいんだ」「大丈夫、私は生きていける」そう確信したのです。
 その患者さんはいつも見守ってくれている、だからその願いにかなう人間でありたいという思いが私にはあります。あの世で再会したとき「あなたの死を無駄にしないような生き方をしてきました」と報告できればと思っています。それが私の生きる力につながっているのです。
(
中下大樹:1975年生まれ、住職資格を取得し、新潟県で仏教系ホスピスにて末期ガン数百人を看取る。退職後は東京で寺院ネットワーク「寺ネット・サンガ」を設立し代表に、駆け込み寺としての役割を担う)

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