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真面目すぎる教師は教育力と人間的な幅が狭い?

 教師というのはおおむね真面目である。真面目であるがゆえに、人間としての幅が狭いように思う。
 だから、学級崩壊というようなことになると、真面目だからこそ、おたおたしてしまう。真面目に今までやってきて、何でもなくやってこれたのに、どうしてこうなってしまったのだろうと、そればかりが頭の中をぐるぐるまわる。そして、たどりつくのは子どもが変わったから、親の育て方が変わったから、となる。
 いつでも、時が移れば生きている人間、社会を構成する人間が変わるのだから、当然考え方も変わる。いつの時代でも教師は社会の変化を見つめ、子どもの変化をとらえ、明日に生きる子どもを育てるのが使命である。
 変化をとらえる力は教師として重要な力なのに、真面目すぎる教師の中には、視野が狭く、社会の変化、子どもの変化は目に入らない人もいる。ただ教えるのみである。
 真面目であるがゆえに、真面目でない子どもの気持ちがわからない。真面目でない子どもをどうコントロールしたらいいかわからない。これでは学級に何人か元気すぎる子がいたら、対応しきれずに学級崩壊へと向かいかねない。
 いろいろなことを経験するという意味の遊び心が、教師としての人間の幅を広く魅力的にする。遊ぶことによって多くの人とのかかわりかたを学ぶことができる。
 遊ぶことで本当に気分がすっきりし、ストレスも解消できる。仕事への意欲も出る。遊ぶことで大事なのは「遊ぼうとする意欲」である。何か自分の好きなことに向けて、心底ひたりきって遊びまくることである。
 教師の中には「よく学びよく遊んで」いる教師もいる。そういう教師はエネルギッシュで、意欲がある。遊ぶとともに、学ぼうとする意欲がある。教育書や他の本を読み、教育や他の情報を集めたり、研究会に出るという主体的活動をして、いろいろチャレンジしている。私が指導すれば、サッと頭に入れるし、素直さを持っている。
(飛田貞子:東京都の公立小学校教師を経て小学校校長)

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