国語科:人を育てるものとは何か
この前、昭和27年ごろ教えていた東京下町の紅葉川中学校の卒業生が久しぶりに集まって学年会をしました。みんな五十三歳ぐらいになっています。
「大村先生と一緒に勉強したとき、何が役立っていると思う」という話をしていました。
一番役に立っているのは、学習記録で、記録をまとめることを大切にしたことで、今でも調べたりまとめたりすることが、実にスムーズにさっさと気軽にできることが、人にびっくりされる、ありがたい、と話しあってあっていました。
当時は、単元学習が海のものとも山のものとも分からないときで、まだ能力表もありませんでしたから、非常に危険といいましょうか、どんな力がつくのか、はっきり分からないまま進めていました。私も若かったこともあって、実に大胆な単元を思い切ってやっていました。
教材は自分が作るのが本当で、それこそが適切な教材であるはずです。危険だけれども、教師が、謙虚に子どもをじっと見つめながら、心配で一杯になりながら、一番よいと思うことをやっているという、そんな状態でした。
その当時の卒業生たち自身が今、自分たちには一種違った何かがあるというのです。卒業生は今、五十幾つになっていますが、教師が冒険しながら謙虚に一所懸命になって、できるだけのことを尽くして育てられるのと、そうでないのと、どっちが人を育てるのだろうかという話になることがあるのです。
私はあるひとつのものを育てたな、という気がします。ぜんぜん誤りのない安穏な世界よりも、多少の失敗を含む方が、人を育てるのではないか。ことに、ことばを育てるのではないかと思います。本気で語りたいことがたくさん語られて、そういうときにことばの成長というものがあるのでしょう。
真実のことばの語られない教室、どこからか借りたようなことばを使ったり、思ってもいないことを口にのせたり、そういうことばがある教室というのは、国語の授業ではないのです。
切実になったとき、言いたいことが胸一杯にあって、しかし、つまってなかなか言えないとき、そういうときにことばというものは伸びるのではないでしょうか。何か言おうと思って、全力をあげてことばを探す。そういうときにことばの神経がよく磨かれると思うのです。
ただ、問いに対して答える、合っている、合っていないという単純な世界にいますと、切実なことばが必要とされません。安全なことばが出てきますし、ことに教師の方は全く安全な自分の持ち合わせの力で、ちゃんと間に合います。ですから、苦労して苦悩してことばを探すということがなくなるわけです。そういうことが国語の授業を眠らせる気がします。
(大村はま:1906-2005年、長野県で高等女学校、戦後は東京都公立中学校で73歳まで教え、新聞・雑誌の記事を元にした授業や生徒の実力と課題に応じた「単元学習法」を確立した。ペスタロッチー賞、日本教育連合会賞を受賞。退職後も「大村はま国語教室の会」を結成し、日本の国語科教育の向上に勤めた)
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