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不良少年は不自由な存在である

 高校を退学になった不良少年だったころの私は、何一つ選べなかった。16歳だから一人でアパートも借りられない。保証人もいない。親からは縁を切られて、里親の家に行くのがイヤだと言ったら、住むところも食べるものもない。「自分ほど不自由な人間はない」と、心から思った。
 「自由」という言葉ほど、責任を持って教えなければいけない言葉はない。
 歌手だった尾崎豊は「自由を求めて、自分を縛っているものすべてと闘った」と、今も中高生のカリスマであり続ける。しかし、彼の歌のように、校則という規則に、夜の校舎の窓のガラスを壊してまわることで抵抗しても、それが自由への戦いなどにはならない。人に迷惑をかける自由などあっていいはずがないのだ。
 メディアの中で、彼の不良性は魅力的な輝きを放つけれども、路地裏系の、私たちのような本物の底辺の不良は、暴れる自由に身を任せて、何もかも失った。身をもって体験したからこそ、「自由」とは「選べること」なのだと私は心を込めて伝えたい。
 高校を中退した不良少年の選択肢は極端に少ない。選べる仕事が少ないのだ。まず現場での労働である。建設業、製造業からサービス業まで、体を使って働く。そこで頭角を現す人間もいるけれども、長続きしないで、末端底辺をさまよう連中も多い。
 まれに起業して成功する人間がいる。学校の勉強は苦手だったり、続かなくてダメだったけれども、社会での勉強を命がけでやって成功する。ただこうした気合いの入った不良はほんの一部で、大半が社会の底辺にうごめくことになる。
 つまり、選択肢は底辺労働者か起業して成功かの二つしかない。これではとても自由とは言えない。選べても二者択一では、人生を選んでいるとは言えないだろう。より自由に人生を選び取れる、その力を付けるのが教育なのである。
(義家弘介:1971年生まれ 中学生で不良と呼ばれ高校中退し家から絶縁される 里親の元で大学を卒業し、塾講師、高校教師になり、ドラマ化され評判となる横浜市教育委員を経て国会議員)


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