子どもが学ぶということは、覚え込むこととは全くちがったことだ
私が授業をして衝撃を受けた一つは、子どもの学びたいきもちの切なさと、ふかく学ぶ能力である。
宮城県北にある小規模校の六年生は私に授業を受けた感想をこう記している。
「ぼくは、林先生に、勉強を教えられていて、はじめて、人間はいったいなんなのかという疑問を感じた。この一年間、人間のことを教わりたかった」
「私は、きのう林先生におそわって、とてもたのしいと思った。こんなにたのしいと思ったことは、はじめてです」
子どもたちの感想を読んでいると、いまの学校教育は、小学校においてさえ、楽しさを欠いたものになっていて、ひいては学ぶことの喜びを、育てるよりも奪う結果をまねいているのではないかと気になる。
学ぶということは、覚え込むこととは全くちがったことだ。学ぶとは、いつでも、何かがはじまることで、終わることのない過程に一歩ふみこむことである。一片の知識が学習の成果であるならば、それは何も学ばないでしまったことではないのか。学んだことの証はただ一つで、何かが変わることである。
私が宮城教育大学の附属小学校で、はじめて人間についての授業をしたときの子どもの感想は、子どもにとって学ぶということが何であるのかを明らかに示していた。子どもたちは、一時間の授業の経過のなかで、はじめに自分が立っていた立場がゆらいでいるのを感じ、しかもそこから学ぶことがはじまりつつあると感じとっている。
はじめ、ある事をわかりきっていると思っていた子は、それが実はすこしもわかっていなかったことを、また逆にその問題を到底近づきがたいと思っていた子は、一つひとつ考えてゆくと、次第にそれが解けてゆくことを発見して「これからも、こんな授業をうけたいなあ」(五年)と書いている。
子どもの可能性は無限なのだから、子どもの身にも心にも形をとって外に出ることを求めてひしめきあっている。おとなが勝手にそれを限ることは許されていない。
これらの多様な可能性を確かに、深く、豊かに受けとめて、それを引き出すことが、教師の仕事である。それには学問と共に方法と技術が要る。
私が、三年たらずの授業の経験から、子どもたちが書いてくれた感想のおくりものが私に教えてくれたものは無限であった。その最大のものの一つは、本当に授業が成立していれば子どもはいわゆる成績などと関係なく、その個性に応じてまともに深い追究をするということであった。しかも子どもはそこに純粋な喜びを感じとっている。
このような授業に通ずる大道が学校教育のなかにひらけるとき教育は豊かになり、学校はすべての子どもが喜んで学ぶ場所になるのではなかろうか。
(林 竹二:1906年-1985年、教育哲学者、元宮城教育大学学長。斎藤喜博の影響を受け、全国各地の小学校を回って、対話的な授業実践を試みるなど、教育の現実にかかわる姿勢が関係者の共感を呼んだ。小学生を対象に行った授業で野生児アマラとカマラの絵を教材として提示し、「人間とは何か」と子どもに問うた)
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