明治後期の教師の実態とは
初等教育就学率は明治35年(1902)には90%を突破した。教員数もこの15年間で倍増し15万2千人になった。
教室では多人数の子どもを教えるという事態が生じ、授業の実力をつける必要が痛感されるようになった。明治30年代に教師向けの教育雑誌が次々に登場し88誌に及んだ。教育雑誌は各教科の授業実践記録の紹介と批評する記事が多く掲載された。
すべての小学校に校長がおかれたのは1900年以降である。教員も師範学校卒の本科正教員のほか、準教員、代用教員とよばれる教師たちがふえてきた。教員の出身階層が士族から平民とくに農民出身者への移動が進んだ。教員待遇の劣悪化と地域間格差が広がった。生活難による教員の社会的地位の下落が顕著になった。
他面、教職の専門性は教則の統制的整備とヘルバルト主義教授法の実践による定型化で教職の専門性が確立した。しかし、教育実践の創造的な余地が縮小され、教員の教育の自由が制約された。
明治30年代の教師論は、
(1)教育という仕事の目的を教師たちに再確認させ蘇生させる。
(2)戦勝国の大国意識を強調し、教育目的の国家性を高唱する。
(3)教師の技術水準を向上させる。
教師の出世や待遇の要因をとりこんで、向上させようとした。
(寺崎昌男:1932年福岡県生まれ、東京大学名誉教授)
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