教師は世間や人生の解説者ではない
よくあることだが、教師は子どもを指導するとき「世の中はそんなに甘くはないんだ。世の中はきびしいんだ」と、強い口調で人生や世間について教えることが多い。
教師の説教には、人生や世間のきびしさがよく強調される。それは、「世間とはこういうものだ」と解説していることになる。好ましい態度にみえるが、子どもは世間がどんなに厳しいのか、教師の姿にじゃまされて、実際の「世間」をみることができないのである。
これでは子どもの世間をみる目は育たない。それはあくまでも教師のみた「世間」であり「人生」であり「世界」である。
そこでどうするか。教師の立ち位置を変えるのである。「世間」と「子ども」の間に立っていた位置から、子どもの横に並んで、いっしょに世間をみる位置にかえるのである。
そうすれば、子どもは、これまで教師にじゃまされてみえなかった「人生」や「世間」や「世界」を、直接、その目でみることができる。
子どもは子どもなりに、感じ、学んでいるのである。だから、その問題を学級でとりあげ、子どもたちみんなで話し合うことである。
とくに子どもとの話し合いでは、教師は自分の考えを一つの参考意見として述べ、子どもたちの意見とからめ、足らざるところを補いつつ、話題を深めるのである。
そうしないのは、どうも教師は「教えよう、教えよう」とする意識が強いからである。
教育は教えるだけではない。いっしょに考えることもある。人生や世間については、いっしょに考える教材である。子どもたちとともに考えれば、ときに、大人の及ばない考えを示すものである。
教師は、とくに世間や人生の解説者から、また、「かく生きよ」と教える人生の導師から自らを解放し、子どもと横並びになって、いっしょに見、いっしょに考えるようにすべきだろう。それが共に生きるということである。
(家本芳郎:1930~2006年、東京都生まれ。神奈川の小・中学校で約30年、教師生活を送る。退職後、研究、評論、著述、講演活動に入る。長年、全国生活指導研究協議会、日本生活指導研究所の活動に参加。全国教育文化研究所、日本群読教育の会を主宰した)
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