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「学び合う学び」が生まれるためには、子どもの気づきや疑問から学びを始めようとする必要がある

 私は毎日のように各地の学校の授業を見ている。そうした経験を重ねるうち、授業が始まって10分もしないうちに、その授業がどのような授業になるか想像がつくようになった。
 意欲的な学びが展開される授業になるか、重苦しい授業になるか、騒々しい散漫な授業になるか、どういう方向で学びが進められそうか、そういったことが見えるようになったのだ。
 それは、その日のテキストとの出会いが授業を始める数分間でなされるからである。それを見ることで、子どもたちの学びのすがたが予想できるのである。
 私は、「学び合う学び」が生まれるためには、「子どもの気づきや疑問から学びを始める」「子どもの考えから出発する学び」にすることが必要だと思っています。
 そのためには、一人ひとりがテキストと出会わなければならない。その子どもなりにテキストと対話をしなければならない。その場と時間が不可欠なのである。つぎに二つの例をあげる。
 A教師の「春のうた」では、詩が印刷されたプリントが配られると、教師から何も言われなくても子どもたちは音読を始めた。一回だけではない。何度も何度もくり返し音読した。
 これが子どもとテキストとの出会いである。音読した後、教師が「どうやった?」と問うと、子どもたちは「ケルルン、クック」や「いぬのふぐり」が分からないという反応がすぐ出ている。子どもたちは音読をしながら、詩と対話をしているのである。
 B教師の「ゆずり葉」においては、授業の冒頭、書き込む時間をとっている。鉛筆の音だけが響く静寂な時間であった。それはまさに一人ひとりが詩と出会う時間だった。
 その間、教師は余分なことは一切言わない。ただ、子どもたちの机のあいだを回りながら、見ているだけである。そして「はい、そしたら、だれからでもいいから・・・」と言って授業が進行していった。
 これらは、教師が教えることを決めて、それを一つひとつ尋ねて答えさせていく授業とは根本的に違う。テキストとの出会いと対話から生まれた子どもの気づきや疑問を、学びの素材として位置づけようというのだ。
 先生は何を言わせようとしているのだろうか、と受け身で考えなければならない授業と、自分たちの思ったことが自由に言え、そこから学びがつくられていく授業と、子どもたちはどちらがたのしいと思うだろうか。どちらに魅力を感じるだろうか。
 それでは、なぜ授業でAやB教師の子どもたちは、あのような集中力を発揮したか、ということである。音読も書き込みもポピュラーな方法である。そこにはどういう違いがあるのだろうか。
 それは、教師の対応の違いなのである。
 つまり、本気で子ども一人ひとりに生まれるものを大切にしようとしているか、本当に子どもの気づきや疑問から学びを始めようとしているか、その教師の対応の違いが子どものすがたに確実に影響しているのだ。
 四月から毎日毎日、くり返し授業を行っている。そのくり返しの中で、子どもは感じ取っていく。自分たちの先生はどんな先生なのか、どんな魅力があるのか、本気で自分たちのことを見てくれているのか、そういったことを理屈でなく肌で感じ取っていく。子どもは敏感なのである。
(石井順治:1943年生まれ、「国語教育を学ぶ会」の事務局長・会長を歴任、三重県の小中学校の校長を努め、退職後は、各地の学校を訪問し佐藤学氏と授業の共同研究を行うとともに、「東海国語教育を学ぶ会」の顧問を務めている)


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