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人の授業を見聞きしただけで授業がよくなるものではない、自分があって始めて学びとることができる

 教育は、この道の先人から多くのものを盗み取り、自分のものにしていく姿勢が必要だと思う。しかし、他から学ぶということは「自分」というものがあってできることで、人のものを見たり聞いたり盗んだりしただけで授業がよくなるものではない。
 私は長岡文雄先生のまねし、いくら努力しても近づかない、能力がないのだなと考えた。そのうち授業の形だけを追い求めていてはダメだ。本質があらわれるようにしなければ、と考え、授業の背景を考えるようになった。
 「いい授業には哲学がある」と誰かがいっている。授業とは何か、授業をどう組織すべきかなど、方法や指導法ばかりでなく、教育原理をしっかりと持つことだと私は思った。そこで教育原理や教育内容に関する本を読むようになった。
 見たり聞いたり盗んだりしたことをもとにして、苦心を重ねて、まねでない本物の「自分の実践」を創り出していかなければならない。いいかえると、「自分」があり「自分の実践」があってはじめて、他人のものから豊かに学びとることができ、それを自分のものにすることができるのである。原則的なものは他人から学ぶことはできても、具体的な方法は、自分で苦心に苦心を重ねて創造していかなければならない。
 教育は「目習い」だけではうまくいかない。見ただけではダメだということである。他人の授業を見てとやかくいう人がいる。ところが、やらせてみるとまったくできない。つまり「手習い」的な要素の強いのが授業である。自分で工夫し、努力してやってみなければ授業はうまくならない。実践することが大切である。
 授業は、自動車の運転と同じである。教習所の教官の運転を見て「こうすればいい」ということはわかる。これは「見習い」の段階である。しかし、実際に車に乗ったら、まったく思っていたようにはいかない。そんなはずじゃない、と思っても、手足がいうことをきかない。そこで「目習い」したことをもとに、自分で工夫しながら「手習い」することが必要になる。実際に、何度も何度もやってみることによってはじめて車が動かせるようになる。
 スキーだって同じである。本を読んで「こうすればすべれる」と思う。コーチがすべるのを見て「わかった」と思う。自分ですべってみる。まったくすべれない。
 「手習い」は時間がかかる。工夫や努力が必要である。「目習い」は知識の段階であり「手習い」は体験の段階で、その得たものは「体得」となる。ここまでこないといけない。
 「目習い」は必要である。いいものを見ることは必要である。そして、よいイメージを、目標をもつことである。これをもとに手習いをこつこつとすべきである。私は人知れずこつこつと授業の工夫を続けてきた。今も続けている。
(
有田和正:19352014年、筑波大学付属小学校,愛知教育大学教授、東北福祉大学教授、同特任教授を歴任した。教材づくりを中心とした授業づくりを研究し、数百の教材を開発、授業の名人といわれた)


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