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素人のような教師が多いが、プロの教師となるにはどうすればよいか

 技量のある教師は子どもの表情をのがしはしない。力のある教師はやはり見るところは見ている。「あれども見えず」の状態は、教師の世界の中に充満している。
 いかなるプロにとっても、対象を細かく分析して見ることができるのは、プロの基本的条件なのである。野菜の葉の色だけを見て農民は、素人より多くの分析を加えるであろう。相撲で土俵上のあっという間の勝負でさえ、解説者は細かい分析を加えることができる。
 だが、教師は素人のような、ぼやっとした見方をしている人が多い。誰でも言えるような一般論を言っている人が多い。対象を細かく分析できるということは、それなりの修業の日々が必要なのである。のんべんだらりとした教師生活を送っていては、決して身につけることはできない。
 子どもを動かすには、子どもに対する深い理解を必要とする。子どもを理解する方法は、習得するのに年数がかかる高級な技術なのである。医師が専門的に患者を理解するには、習得に一定の時間がかかる。あたりまえのことである。
 ところが、子どもを理解しようという意欲さえあれば、すぐにでも理解できると思っている教師がほとんどなのである。これでは、子どもを理解できるわけがない。子どもを動かすことができない。
 かつて、斎藤喜博氏が「授業中に意見がいいたい子がわかる」といったことがある。これは本当なのである。私も見つけられる。そのような時、指がかすかに動くのである。だから、授業をしながら、かすかに動く指を見つけられる教師であれば、意見がいいたくなった子どもをのがすことはない。
 私は跳び箱が跳べない子を15分以内で跳ばせられる。跳べるまでにかかった時間は一人およそ一分である。多くの教師が跳ばせられなかった子を私は一分ぐらいで跳ばせられたのである。
 ただそのためには、教師修業を自分に課さなくてはだめだと思う。私は新任教師のころ、毎日、子どもが帰った教室で机を順番に見ながら、その日の授業中の発言や子どもとおしゃべりした会話を思い出す作業を続けた。最初は印象的なことはすぐ思い浮かんだが、日常的なあれこれの言葉は出てこなかった。はっきりさせようとすると霧の中に逃げてしまうのだった。必死でとらえようとするこの作業は孤独なものだった。やがて、少しずつ思い出せるようになった。修業せず45分間の授業の場面を頭の中に映像として残せるようなことは無理である。
 教師の仕事の中心は授業である。魅力ある子どもを引きつける知的な授業をするのがプロである。もちろん、すぐにはうまくならない。研究の場が必要である。その一つが研究授業である。それを年に一回もやらないというのであればアマと考える他はない。「授業は他人に見せるものではない。研究は自分でやるものだ」と言って、研究授業をしない人がいる。このように言う人は必ず、授業はへたでめちゃめちゃである。そうでないという人がいたら、ぜひ私に見せていただきたい。
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向山洋一:1943年生まれ、元東京都公立小学校教師、教育技術法則化運動代表を務めてきた。教師を退職後、TOSSインターネットランドの運営に力を注いでいる)

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