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授業名人といわれた芦田恵之助先生の飛び入り授業とはどのようなものであったか

 私は芦田恵之助()先生の飛び入り授業を秋田市の小学校で一度見学している。先生は教室に立たれる前に、子どもについて指導に必要な条件はじゅうぶんにのみ込んでおられた。
 子どもの綴り方を読み、担任の説明を聞いている。芦田先生が秋田駅に着くと子どもたちはお出迎えをし、途中、先生と歓談しながら旅館までお送りする機会をとらえて、子ども一人ひとりを知る機会にされていた。だから、教室で子どもたちに文章を読ませたり、話し合いをさせたりしていると「なにを知りたいか、ちゃんとめいめいの顔に出ているではありませんか」とまでいわれている。
 芦田先生の授業は、学習者である子ども一人ひとりの認識と理解を前提とした指導であった。このことは深く注目されなくてはならない点であると思う。
 また、飛び入りであっても、子どもたちに親しみをもたせる方法も体得しておられた。それは、先生のことばであり、語調であった。先生は子どもたちの答えを聞いて「そうなのね」とゆっくりいわれる。
 まるで親身なおじいさんのような言いっぷりである。「そうです」ともちがい、「よろしい」ともちがって、いかにも「いたわりの深い、底の底まで抱擁しつくしている心もちのあらわれ」というような感銘が、あらゆる子どもの心を解きほぐして、親しみを感じさせ、安心をおぼえさせたことは、見学している私にもはっきり受けとられた。
 のみならず、先生の教室における輝かしいあの顔、絶えずにこにこしていられるが、そのにこにこ顔の輝かしいこと。先生は、教室に立たれたときに、いちばん先生らしい、輝かしい顔をしていられたという感銘を二十年後の今日まで私に残している。
 秋田の小学校における先生は、教室でなされたのは、板書ぐらいなもので、その他のすべては、教室のいたるところに立って、子どもたちに話しかけもし、聞きとりもされた。いつでも子どもと同じ立場に立って指導されていた。
 芦田先生は、1916年『読み方教授』の総説で、教授法にあけくれた二十年の非をさとって、教材研究が根本であると主張されたことは、近代の国語教育史の画期的な宣言であった。先生はそれ以来、教材研究に集中し、そこからすべてはくると考えられている。飛び入り授業をされるようになってからも、先生は教室に出られるまで、教材の前に正座され、読み、かつ考えられた。教材研究が前提になっていることを見落としてはならない。
 
しかも、芦田先生から聞いた教室での指導案の展開は「子どもの前に立った瞬間、丹念に行ってきた教材研究はから考え出した指導案はふところの中に入れてしまって、子どもたちの顔にあらわれている学習しようとしている意向を一歩一歩推し進めてゆけばよい。子どもたちの動きについていくと、自分が予定して立ててあった指導案が自然に指導できる」ということであった。
 芦田先生が何度も指導してきた教材でも、何度も読み返しして先生の意識の中に生き生きと生かされた教材研究を土台として、学習者の言語生活に触れ、学習者の学習しようとしている意向をあるがままに鏡に映しとって、子どもたちの学習の進展を助けるのである。
 この一時間で私が教えられたことは、いかに深いものであったか。いまにいたるまで、いわゆる「汲めども尽きず」という感が深い。
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) 芦田恵之助:1873年-1951年、東京高師附属小学校教師を経て全国各地で授業をして授業の名人と呼ばれた。国語教授法や随意選題の綴り方教授法を考え実践した。
(
西尾 実:1889年-1979年長野県生まれ、国語教育学者。長野県小学校教師、その後東京帝国大学を修了、東京女子大学教授、法政大学教授、国立国語研究所所長。専門は日本中世文学、師範学校出身ということもあり国語教育も重視した)

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