学校に授業の専門家がいない
学校教育の核心は、授業である。したがって、教師は、一人ひとりが授業の専門家でなければならない。ところが、すこし立ち入って学校教育の実態にふれて見ると、いわゆるベテラン教師はいても、授業の専門家はいないというのがいつわらざる実情である。
だが、これは極めて当然の事態で、だいいち、大学におる教員養成教育は、ほとんどその実質をそなえていない。このことにたいしては、教育学者の怠慢が声を大にして責められるべきだろう。
そのうえ、致命的なのは、教師の専門家としての訓練は、現場に出てからでなければ与えられえない性質のものであるのに、学校という現場は、若い教師を授業の専門家として訓練し、育てる「場」では、およそないのである。これは、とりも直さずいま学校では、専門家としての訓練を受けない教師の手で教育が担われているということを意味している。
ある小学校の四年で授業をしたとき、こんな感想を書いた子どもがいた。
「林先生の授業の教え方はうまい。それは、大きくわけて、よく考える時間をくれるし、こまかくきりきざむ所まで心をいれ、よくわかりやすく説明し、よけいな所のはぶき方もうまいからです。この差がプロフェッショナルとふつうの先生がたのちがいです」
私は五年ほど前から各地の小学校や中学校で授業を試みている。190回ばかりになるが、この経験を通じて私が痛感するのは、子どもが実にすばらしい力を持っているということと同時に、今の学校教育ではその力のごく一部分、しかも上っつらの部分しか引き出されていないのではないか、ということである。授業の貧しさがこの結果を生んでいる。これは単に子どもの不幸であるばかりではない。それは民族の将来を閉ざしてしまう結果をもたらしかねない。
学校教育は、いま出直しをせまられている。この事態を直視して、根底からのとりくみがはじめられないかぎり、学校教育の起死回生はない。出直しの第一歩は、教師が授業の専門家としての力量をそなえる努力でなければならない。
(林 竹二:1906年-1985年、 教育哲学者。宮城教育大学学長。 斎藤喜博の影響を受け、全国各地の小学校を回って、対話的な授業実践を試みるなど、教育の現実にかかわる姿勢が関係者の共感を呼んだ。小学生を対象に行った授業で野生児アマラとカマラの絵を教材として提示し、「人間とは何か」と子どもに問うた)
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