学級通信は多角的に子どもを見、子どもや保護者の意識を変革し、教師を成長させることができる
私が教師になったその日から学級通信を始めた動機は「共育」にありました。共育とは、共に育て合い、育ち合おうとする精神です。この精神をしっかり持っておけば、一方的に子どもを怒ったり、乱暴な言葉は出てくることはないし、はみ出しっ子にも苛立たず、ちょっと待って、つきあってみようかという心も自然とわいてきます。
教師の意識をいつのまにかむしばむ恐ろしいビールスがあります。それは常に教えるとか指導する立場に立たされているために、相手から謙虚に学びとろうとする意識がなくなってしまうビールスです。自分は教える人、子どもは教わる人、おまけに親まで教わる人という意識を持ってしまうのです。ベテラン教師ほどそういう人が多く、気をつけねばと自戒しています。若い教師にもいます。
そういう人は「生徒のくせに文句を言うな」と、子どもの意見に耳を傾けようとしません。保護者に向けても似たような姿勢をもっています。「保護者会なんていやだなあ。親は注文ばかりつけてうるさい」と、親の言葉にまで耳をふさごうとしてしまうのです。
私が学級通信などを出し続けたのも、常に共育という意識をなくさないようにするためだったと言えます。通信を出す作業の中で、子どもをよく観るという姿勢を求められました。保護者とよく話し、親はわが子の何を伸ばしたいと考えているのか、それを助ける担任に何を求めているのか、願っているのかを知らなければなりませんでした。
学級通信を何回出したかは、たいした問題ではないのです。しかし、それだけのものを出せたということは、子どもに近づいて多角的に子どもを見ようとしたからです。学級通信にそれを取りあげ、まな板の上に置くことによって、子どもは子どもなりに、保護者は保護者なりに、作った担任は担任なりに、まな板の上の鯉を料理し自分の栄養にしていこうとします。これは大変意義深い教育活動だと言えるでしょう。
私は「やまびこ会」を主幹している関係で、手元に全国で実践している教師たちの学級通信が多数送られてきます。よい通信とは読み手にとって「読みやすい。考えさせられる。子どもたちの様子や教師の考えがよくわかる。未来への展望がある。親や子どもがそれぞれの立場から関心の持てる話題が豊富である」ことです。
学級通信はたんに情報伝達の手段に終わらず、子どもや保護者の意識の変革までおよぶ機能を果たす機能があります。それだけではありせん。発信者の教師が、いろんな面で成長できるのです。毎日、子どもの現実を見つめ、それを分析してリポートします。そのとき、「おまえはそれをどう受けとめ、これからの指導にどう生かそうとしているのか」と、自問を迫られ、自答していかねばなりません。そして、それを次の実践に移らねばならない状態にいつも身を置くのです。この実践の訓練を子どもや保護者にさせてもらっているということになるのです。それが教師としての成長となって実を結ぶのではないでしょうか。
学級通信に書いて、記事を残すことは、考えてみればこわいことです。自分をそこにさらけ出し、誰にでもいつでも知られる形で自分を残すのですから。子どもたちや保護者のおかげで、学級通信によって私の教師としての足跡を残してきました。この足跡が私の軌道を正す大きな力になっています。学級通信づくりは自分のためだったんだと、今になってわかってきたのです。
(山田暁生:1936-2008年、東京学芸大学卒、元町田市立中学校教師。やまびこ会創始者)
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