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教えるということは、問うて問いぬいて、子どもに新たな力をつけること

 授業は創造のいとなみだと私は思う。だが創造とは、一時間のなかで、未知の発見や葛藤を通して、子どもの精神や頭脳をあらたな高みへ引きあげることなのであって、ただ一片の常識的な知識や概念を子どもに覚えこませたといった程度のことなら、私はそれをあえて創造などということばを使おうとは思わない。
 授業は子どもの精神や思考の対立や葛藤をぬきにして成立しない作業なのだと私は思う。たとえば授業における教師の子どもへの問いかけひとつをとっても、それが教室に鋭い緊張を生み、思いがけない動揺をまきおこすような性格をもっていなければ、問いを媒介として子どもが教師にせまり、教師の常識をうち破ろうとする瞬間など生みようはないのである。
 教えるということは問うことなのだと私は思う。問うて問うて問いぬいていく行為のなかで、問われる子どもが、みずから新たな問いを創造していくのだと私は思う。その問いと答えに横たわる重みと、はねのけるエネルギーが授業の質を決定していくのだと私は思っている。
 斎藤喜博()の仕事が私にひしひしと教えてくれたものは、いつもその場でのるかそるかの勝負をするということであり、そして、その格闘に必ず勝利するという厳然たる事実なのであった。
 授業での真の創造とは、子どもと対決し、格闘し、そして、確実に子どもを組みふせ、明らかな高みへ子どもをおしあげていく明白な事実をつくりあげていくことなのだ、と私は思ったのである。一時間が終わったとき、子どもがいままでの自分にはなかった力を確認しうる行為である。授業とはそうしたあきらかな結果を生みだす仕事なのだと私は思ったのである。
 私が斎藤喜博の指導から学びとったのは、斎藤先生が、その場で子どもたちをあきらかに変えてしまわれる、という事実と、それを実現するためのさまざまな方法や技術を、対象との葛藤のなかで絶えず自らつくり出しておられるという事実なのであった。そして、そうした緊張した葛藤のなかで、対象と、そして自らをも変革せしめてしまう斎藤先生の強烈な意志と実践力とが、私にとってもっとも不足する力なのだとも思ったのである。
 教育の創造は、教師がどれだけ、子ども・教材・自分自身に対して、ゆたかな・切実なねがい・イメージをはばたかせているかによって決定する。
 授業には教師の人間の実質が鋭くかかわる。人間の実質を支えるものが教師の解釈力なのであり、このことをぬきにして人間の実質などありえないと私には思われる。斎藤先生は卓越した解釈力があった。斎藤先生の子どもへの要求は強烈である。それによって子どもたちが燃焼していく。そのとき私は、子どもたちに要求するものも持たない自分の力の貧しさを思い知るのである。教師のイメージや創造力は、子どもに対して無限に具体的な要求を生みだせる教師の力なのだと私は思う。
 授業は待ったのきかない勝負である。たえず変化し、流動する子どもの現実へはたらきかけ、現実をゆり動かしていく鋭敏な力量こそ、なによりも切実に必要としつづけなければならないものなのである。
 そうした教育技術の根底を支える解釈力とは、何によって形成されているのか。おそらく、人間・自然・文学や歴史についてどれほど豊かな経験や把握をなしえてきたか、そのトータルな実質をぬきにしてはありえないように思われる。斎藤先生が授業を通して子どもをゆるがし、子どもの思考や感情や肉体を無限に開放し変革せしめていくプロセスの根底に流れているものは、そうした圧倒的な人間の力量なのである。
 私は斎藤先生とすごした境小学校の三年間で、子どものおそろしさというものを骨身に徹して知った。どれほどおそれてもおそれ足りることのない相手が、子どもという存在なのであり、教えるということは、まさにそうしたおそろしい存在へ立ち向かう息のつまるような行為なのだと思ったのである。それを知りぬいたうえで、あえて子どもに立ち向かうことが教師の任務だとすれば、教師の仕事とは、おのれの貧困さへの凝視と挑戦とをぬきにしては本来成立しえない、いとなみなのではないかと私は思ったのである。
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)斎藤喜博:1911年-1981年、1952年に島小学校校長となり11年間島小教育を実践し、全国から一万人近い人々が参観した。子どもの可能性を引き出す学校づくりを教師集団とともに実践した。昭和を代表する教育実践者。
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武田常夫:19291986年、群馬県公立小学校教師、指導主事、小中学校長)

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