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世阿弥の能役者としての人生の過ごし方とは

 世阿弥が生きた時代は14世紀の中ごろから15世紀の初めまでである。しかし、世阿弥の人生の過ごし方は、現在でも充分に通ずる。世阿弥は日常をしっかりと見つめていることに気づく。
 世阿弥は能役者の人生の過ごし方を語っている。
 7歳ころは、子どもにまかせて、心のままにさせること。「よい」、「悪い」とは教えてはいけない。あまり強く諌めると、子どもはやる気を失って、能物くさく成り、やがて能の成長は止まる。子どもの心理の洞察をし、子どもを飽きさせないように配慮している。
 12,3歳のころに稚児としての美しさがはっきりとあらわれる。しかし、年齢からくる美しさであって、まことの花ではない。この年代では、あまり細かい演技はさせないで、その年頃の花が生きるような単純なことをやるようにして、声も舞も基礎をしっかりとかためなければならない。
 17,8歳の頃になると声変わりし、美しい童形の稚児的な魅力が衰え、あまりぱっとしなくなる。この頃が芸の転機で、この時こそ能を生涯の仕事と覚悟するときである。けっして能を捨ててはいけない。自然そのものから意志によって生きる人生への転機である。
 24,5歳になって、いよいよ能役者として本当の天分が試される時となる。この頃に声も体つきの良さも決まってしまう。この年代では芸もしっかりしてくるので人々がほめそやすこともあるが、それはあくまでも若さがもたらす華やかさとめずらしさからであって、本当のものではない。まことの花と思いこんでしまうととんでもないことになる。
 世阿弥はその花が一時のものであって、歳を重ねれば失われてしまうものであることを誰よりもよく知っていたのである。この時こそ、ここを初心とこころえて稽古に身をいれ、名人と言われる人の話を謙虚に聞かねばならない。若さゆえの花が失せた時のための準備をしなければならない。能という身体芸術を、身体の衰えをこえて一生のものとする人間の覚悟である。
 34,5歳は能の絶頂期であると世阿弥はいう。この年代に名声を得ることがなければ、以降は衰える一方であるから、まことの花を得ることはむずかしいと世阿弥は言いきる。
 44,5歳になれば、観客から見ても身体的に花が失せてくるのがはっきりしてくる。はげしい動きのものや肉体の衰えがわかるものはしてはいけない。
 世阿弥の父、観阿弥が52歳ときの能は、そこに花を見る思いがするような美しさがあった。観阿弥は老いて軽やかに能を自由の境地で舞ったのである。世阿弥は老いることに自由をさえ見ようとしている。「老いる」ことは自由そのものである。あらゆる能の段階を成就してから、大衆受けのするくらいの低い曲を軽やかに舞った父を見て、のびやかな喜びへの憧憬があったのかもしれない。
 こうして、世阿弥の芸術家の人生を追っていくと、その修行は三つの段階をのぼっていくことであることがわかる。「自然の身体」、「意志の身体」「自由の身体」の段階である。
 この三段階の間にあるのは、日常の試練と、年齢という試練である。これをこえていくのは、稽古による鍛錬と、人生の不可抗力をすりぬけていく戦略である。
 子どものあるがままの美しさから、自分でつくりあげていく芸への段階に進み、究極に芸術の領域を自由に移動する場に立つことになる。
 老いることは、衰えることである。しかし、衰えることを知る者は、その衰えをひょいと飛びこすことができる。世阿弥はそう生きよ、と言う。そこに、人間だけが知る自由の境地がある。
(
土屋恵一郎:1946年東京生まれ、明治大学教授。法学者・能研究家)

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