遊びを指導できない教師は一人前とはいえない、「集団遊び」はどのように指導すればよいか
遊びは単に遊びではない。人間と人間との関係を学ぶ場である。子どもにとって遊ぶことが生きることで、遊ぶこともまた勉強なのである。教師は、子どもを相手に生きる職業である。そういう意味で、子どもの遊びを理解しない、関心をもたない教師は教師ではないし、教師になれない。
子どもの人格形成を助け、生きることを教えようとする教師は、遊びを指導できないならば、一人前の教師とはいえない。
遊びの中で子どもを発見し、子どもを見ることができない教師は、自分の指導力を高めることはできない。私は子どもの遊びの指導を通じて、教師としての指導力を身につけてきたし、子どもを見ることができるようになったのである。
授業もまた、この遊びの指導の中で、その指導方法を覚えたのである。ある意味、授業もまた、遊びと同じ性格をもっている。
みんなで遊ぶ「集団あそび」のときに、教師はより多く、より広く子どもの遊びにかかわれる。だから教師は、みんなで遊ぶことを中心にかかわっていく必要がある。
学校では、まず教師が子どもたちに遊びを教える役割を果さなければならない。学校の遊びとしてふさわしいものは「手軽である。全体でやれる。技術のじょうずへたがあまりない。グループ間の交流とグループ内の協力がつくれるもの」である。
子どもたちを遊びにひきこんでいくうえで、特に導入の部分で教師の説明・指示・評価は重要である。子どもたちの反応をとらえながら、どのような手順でそれをおこなうかである。
私は遊びずきな人間ではない。私は暗い性格のまじめなタイプの教師である。遊びとはおよそ縁のうすい人間である。
はじめて私が全生研大会(注)でやった「集団遊び」は、単純なものであった。それは「グループづくり遊び」であった。遊ぶことのへたな教師が、遊びをどう指導するか、という指導なのである。200名の教師たちといっしょに旅館の大広間で歓声をあげ、熱狂したのである。これには指導した私の方が驚いてしまった。私の指導の手順はこうであった。
「今から私のやろうとしているのは、小学校三年生程度の子どもができる遊びです」
「ではやってみます。まず私が手を打ちます。そして打ちやめると同時に、その数をみんなで大きな声でいってください」
最初、私はゆっくりと、一つ一つ間かくをあけて手を打つ。気の早い人は、私の間かくが長いので、つい「一つ」と叫んでしまい、笑いをよぶ。
「いい声です。失敗をおそれない勇気をもった人ですね。私はすぐのってくる生徒が好きです」
つづいて私は、三つ手を打ってやめる。「三つ」声はやや多くなっている。そして、すこしテンポをあげて、手を打ち、数を増やす。みんなは私の手を見つめ始める。なかには声を出して数える人も出てくる。「声を出して数えないでね。指示を心でききとる練習ですからね」
手を大きく開いて、手を打とうとしてやめる。目で見ていた人は遅れて数を言う。「今、遅れて数を言った人は目で数えていた人ね。心できいてね」というと、笑いが起こる。のってきている。
「さて、こんどは数はいわないで、そのかわりに、手で打った数だけの員数でグループをつくります」「まずみんな立って下さい」「グループをつくるときには手をにぎりあって円陣をつくり、できれば座ります」
私は、最初は三人くらい、ゆっくりと手を打つ。そして五人、テンポを速めて15人。こうなると、人の動きが激しくなり、どのグループに入れない人が、ぼんやり立っている。
ぼんやり立っている人を集め、そのそばで「立っている人は17人です。もう一つグループがつくれたですね。なぜ、できなかったのでしょう」
「リーダーがいないからです。誰か一人、中心になって人を集め、遠くの人へ『あと三人たりません! 誰かきてくれっ』と叫ぶ人がいればグループになったですね」と評価する。
「次は、少し課題をつけ加えます」「ここに立っている17人の中で二人だけ、グループに入れることができます」「この17人は、自分から動いてはいけませんよ。だれかにつれていってもらいます」
私が手を打つと、ワッとみんな17人の方へなだれをうって駆けつけ、手をひいたりして自分のグループにつれていこうとする。
次には、もっと複雑な条件を。偶数のときは、男女同数であること、奇数のときは、男女を別グループにすること、などである。
学級で実際にグループをつくりたいときは、例えば九人で男女できるだけ同数、などの条件をつけ、できあがったところで、やめればよい。
このゲームは単純なものだから、やさしいものから、順次、新しい条件をつけて、むずかしさ加え、集団をのせていき、教師自身の指導力を高めていく訓練となるのである。そして、子どもたちにとっては
(1)集団の中へ入っていくことに抵抗感をもっている生徒をいつの間にか集団へひきいれる。
(2)教師の評価をききながら、リーダーが必要なこと、リーダーの指導の仕方を学んでいく。
(3)集団の中にいるおもしろさを実感させる。
などの教育的効果もある。
(注)全生研大会:全国生活指導研究協議会第六回全国大会
(大西忠治:1930-1992年、香川県の中学校教師。茨城県茗渓学園中学校長をへて、昭和60年都留文科大教授。生活綴方運動、生徒の学級集団「班・核・討議」づくりの実践にとりくんだ)
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