よい授業は集中・明るさ・解放感がある、授業の深さをつくるものとは何か
よい授業のよしあしを見分けることはそんなに難しいことではないのです。私は、かつて斎藤喜博氏と共に学校の全学級の授業を何度も見ていくうちに、少しずつみえるようになってきた。
最初のうちは、授業している先生を見たり、その言葉に耳を傾けてしまいがちですが、次第に子どもたちに目がいくようになり、授業を学級の全体としてみることができるようになったと思っています。授業を教室の前の方から子どもたちの表情が見える位置からみるのが良いと思います。
そうしますと、子どもは整然と授業に参加しているようにみえるのに、子どもたちはちっとも楽しそうでないとか、逆に先生はぼんやりしているようにみえるのに、なぜか子どもたちは楽しそうに授業に参加しているとか、見掛けではないものもみえるようになってきたと思います。
私は授業というもののこういう感覚的なとらえ方というのは、とても大事だと思っています。それから 斎藤喜博氏は「よい授業には集中と解放感がある」とつぎのように言っています。
「よい授業をみていると、教室全体が一つになって集中している。ところが、悪い授業は、くいいるように中へ集中しないで、ふわふわと外へ向かって気持ちが流れている」
「また、よい授業は、教室へ入った瞬間、花が開いたような明るさとか解放感とかがある。先生と子どもが明確に一つの問題に集中し、一人ひとりが自分を解放して生き生きと学習に立ち向かっている」
授業の進行は、教師と子ども、子どもと子どものやりとりによってつくられます。不安定なものです。最初ははっきりしていることでも、やりとりが進めば進むうちにあいまいになることがあります。授業の集中が崩れるのは、ほとんどこのためです。
それを支え、持続させていくのが教師の力であり、授業の組織化と呼ばれることなのです。
「子どもというのは、集中する力を持っている。ただし集中する力というものは、教師がきびしく授業を組織する時だけ、その集中する力は引き出されてくるのです。集中すべき対象があると、ものすごく集中するのですけれど、対象がないと、とめどなく散乱するわけです」と林竹二氏は言っておられました。
追究の対象は、子どもたちの討議の間に消化され、姿を変えます。ですから、表面的なものにとらわれていたのでは、子どもたちの集中を維持し、学習を発展させることは困難です。
「子どもが集中するのは、授業の中に異なる視点からの異なる意見がたえずあって、それが子どもたちの考えをゆさぶるときである」と、すぐれた授業の実践者であった武田常夫は言っています。
このような集中した授業の状態は、放っておいては持続されませんし、深まることはありません。教師が授業を組織する時に実現するものなのです。
子どもへの発問は、まっすぐ尋ねたのでは、子どもの思考を刺激しない。また、子どもの答えをそのまま受け取ってはだめなことがしばしばあります。切り返したり、ひっくり返したりして、念をおしていかなければいけないのです。
たとえば、小学校一年生の理科の授業で、アサガオの種の発芽の条件を考えさせるとき。
種と土との関係はあたりまえだと思われることを裏返しにして
「このアサガオの種を、机の上にまいたら花が咲くかな?」となげかけてみると、はじめ子どもたちは笑いこけて、「種は、土にまくのにきまっている」と、とりあわない。
「この机の上よ、みんなの机よ。そこにこのアサガオの種をおいていたら花が咲くだろうか?」と、かさねてたずねてみた。「咲かないよ。咲くはずないよ」
「だけどー。お水かけたら、もしかしたら芽がでるかもしれないよ」こうして、発芽についての討論が進みます。
「アサガオの芽がでるのにはどうしたらよいでしょう?」と発問するよりも、はるかに刺激的です。
授業を見ていますと、教師によっては読ませっぱなしで、何ら評価を加えないということがよくあります。これではせっかくの子どもたちの活動も、次の展開へさっぱり生きていかないのではないかと思ってしまいます。そういう意味で、教師が評価する価値は大きいと思います。
教師はどちからというと叱責、注意など、子どもたちのよくない点、不十分な面の指摘が、得意と言っては変ですが、慣れているようなところがあります。
しかし、評価が大切なのは、賞賛のようによい点をとりあげて激励してやることです。それが子どもの気持ちを引き立て、授業の世界に引き込む力となります。
この点では、幼児教育の先生は実によく気を配っていると思います。だれでもほめられればやる気が出るものです。
選択肢を使った発問は問題を整理するのによい。思考の対象が明確になるということです。何を考えればよいかがはっきりするということです。これは授業において大切なことです。
しかし、それだけに、あまりそれに頼りすぎると危険なことにもなります。授業が底の浅いものになりがちだからです。そういう意味では、選択肢による発問は、中心になる課題を追究する前提として問題を整理する場合などに有効なのだと思います。
授業中に、教師が子どもに説明することがたいへん多くあります。教科書は、子どもに知らないことを提供することを目標にして編集されています。それでいきおい授業は、知らないことを知っている言葉を使って説明するということになりがちです。それが単に言葉の置き換えだけにとどまってしまうと、深い授業にはならないのです。
イメージを使って描写することで、子どもたちの頭の中に「絵・音・匂いとか」をつくりだし、説明することがあります。
たとえば「俳句『すすき』を考えてください。この俳句の場合、どちらかというと、すすきは一本とか二十本とかでなく、広い野原がすすきでいっぱいになっているのではないかな。一本一本のすすきなどは見えない。見渡すかぎり、すすきが綿をひろげたようになっている」(斎藤喜博)
このように、言葉による描写力を教師が獲得し、その力を高めることは、そんなに簡単なことではありません。ふだんから意識的に訓練し、実際に試してみるなどの努力が必要となるでしょう。
子どもの生活経験にありそうな具体的な例と結びつけて説明することがよくあります。その効果も大きいものがあります。
たとえば「自分の可愛い子が『母ちゃん、足がきれちゃった』なんて言ったときに、・・・みんなの家のお母さんはどうなんだ? お母さんは、空のほうをみて涼しい顔しているかな。・・・『あら大変、どうしたの』(動作してみせる)こうやるでしょう」(斎藤喜博)
このように具体例が授業中にとっさに生まれてくるようになると、授業の力は非常に高くなってくるのだと思います。
比喩を使って説明する場合があります。それを引き合いに出すことによって、あることの本質がはっきりしたり、うまく説明ができるというものです。
たとえば腹式呼吸の説明で「息を吸うとき、お腹が出なけりゃだめでしょう。だって、お菓子か何かもらうときに、袋を小さくしたら入らないでしょう。うーんとふくらませなければ空気が入らないでしょう。それを、息を吸うときに引っ込むんじゃ、入らないでしょう」(斎藤喜博)
授業中、子どもに行動・活動・作業など、さまざまな指示が言葉でなされています。
指示において大事なことは、授業展開の局面に応じて、その指示の意味や要求の内容や程度が子どもに明確に、納得のいくように伝わることです。
子どもたちは教師の指示の意味がよくのみこめないで、うろうろしていることがあります。こういうとき、教師の方は、自分の指示が不明確だったことを棚に上げて、子どもを叱ったりしていることがけっこうあるものです。叱る前に自分の指示の出し方を反省してみることが必要なことでしょう。
(横須賀 薫 1937年生まれ、元宮城教育大学学長を経て十文字学園女子大学学長。教員養成や授業に関する研究を主に行った)
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