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いつも勉強ばかりだと学級や教師のイメージが暗くなる、遊びもまた勉強だ

 教師は子どもに身を添えて生きる職業である。子どもは本来遊ぶものである。子どもにとって遊ぶことが生きること、人格形成の場なのである。遊びもまた勉強なのである。そういう意味で子どもの遊びに関心をもたず、理解しないものは教師ではない。
 遊びの中で子どもを発見できない教師は指導力を高めることはできない。私は子どもの遊びの指導を通して、教師としての指導力や授業の指導方法を身につけてきた。ある意味、授業も遊びと同じ性格を持っている。
 私が教師になった頃から、子どもはみんなで遊ぶ機会を失いはじめていた。だから私は年上の子どもとなって子どもたちに遊びを教える役割を果さずにはおれなかった。
 遊びは子どもたち集団で発生する問題をのりこえるチャンスにもなりうる。教師はそこを生かす技をもちたい。
 いつも勉強やテストばかりをしていると、学級も教師のイメージも暗くなる。そこで私は「席とり」ゲームを子どもたちに教えてみた。子どもたちは中心を向いて円陣の席に座る。一人が「5(自分の出席番号)15(誰かの出席番号)」と言って、全員がパッパッとひざを打つ。こんどは15番の子が例えば「15、8」ということをくり返すのである。その間に誰かがミスをする。そのときは一番ビリの席へ移動し、順次上位の席へと上っていくゲームである。
 たったこれだけのゲームだが、私は教えながら、いろいろなことに気がついた。リズムにのれない子がいる。声がききとれない子がいる。これを克服するために、まず全員声をそろえて「イチ・ニ、ホイホイ」と声を出させる。そして、つぎにリズムにのるために、声を出さずにひざを打つ練習をみんながそろうまでするのである。
 意外にもさまざまな教育上のおもしろい試みが可能なのである。例えば、みんなからか存在感のない「Aさん」をみんなの注目のまとにしてしまうために私は「あっ、Aさんすごい、一ケタの席まで上がっているよ!」と、ほめる。するとみんなは「オヤッ」とAさんに注目し、みんなの中に存在しはじめるのである。
 遊びは単に遊びではない。人間と人間との関係を学ぶ場である。最も重要なことは、ゲームではなく、ゲーム中に、だれがどのような思いがけない姿を見せ、どのような行動をとるかをよく見きわめ、子どもの理解と、今後の指導に役立たせることである。
 私は三月の「学級じまい」などで「四つの拍手」というのをよくやる。ルールは簡単で四回、だれかに拍手するだけである。「四つの拍手」で拍手する対象者は、「班長」「学級で一番みんなのためにつくした子ども」「学級を閉じたあとも、見守りたい子ども」「全員」といった具合である。
 重要なのは、三番目の拍手である。私は、「いくらか問題のある子、遅れてしまった子、弱い子」を、はげますようにした。私の気持ちの中に、はげましたいという気持ちがあるなら、それを語るこそが教育だと私は考えたのである。
 だから、なぜこの子どもに拍手を送りたいのかという理由を述べ、呼びかける言葉(口上)に実感と訴えが子どもたちに響かなければ、「四つの拍手」もしらけてしまう。そこで口上はあらかじめ文章にして書いておくことが重要である。そのための原稿は、教師がどのように学級の子どもたちをよく見て、語りたいことを多様にもっているかによってきまります。事実を描写的に述べるようにします。
 この「四つの拍手」を演ずるときは、始める前に次のような説明をします。「この人たちに私が長い拍手を、と言うと拍手して、私が手をあげるとぜひやめてください。私が拍手してください、といったところ以外は絶対拍手しないようにお願いします」と、言って、音楽がはじまり、ゆっくりと私は語りをはじめます。
 「四つの拍手」は、総括・評価・賞賛がこめられています。そこに教育があるのです。
(大西忠治:19301992年、香川県の中学校教師。茨城県茗渓学園中学校長をへて、都留文科大教授。生活綴方運動、生徒の学級集団「班・核・討議」づくりの実践にとりくんだ)

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