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多くの教師に影響を与えた斎藤喜博の仕事とはどのようなものであったか

 子どもたちは学校で自分たちの可能性が引き出され、さまざまな文化に接することを通じて人間の生き方をつくる糧を求めている。それに応えるだけの力を持っていることを示したのが斎藤喜博であった。
 師範学校を卒業して1930年に群馬県の玉村小学校に勤務した。早くから実践記録や教育随想を書き、今読んでも魅力を感じる「教室愛」を30歳のときに刊行した。41歳のとき島小学校の校長となり、名が広く知られるようになった。島小11年間に公開研究会を開催し一万人をこえる参加者に感動を与え続けた。
 斎藤は授業を芸術と同じような創造的行為と考えていた。そのために必要なのは教師が「自分の教材解釈」をもち、「子どもが見える」ことと斎藤はととらえていた。常識的な教材解釈では子どもたちに緊張や対立を生まない。多様な教材解釈が可能になるためには、特別な感性が必要になるが斎藤にはそれが具わっていた。教師にとって「子どもが見える」ことがすべてであると斎藤は言う。その教師の経験や知識とか願いが基にあって、すぐれた勘が出て、子どもが見え、子どもが呼びかけてくるのです。斎藤は見える人であった。
 斎藤の教師教育の中心になっていたのは、見える眼を鍛えるということにあった。例えば付属小学校でのダンスの指導を私が見学していると、斎藤は「この子どもたちの中でいちぱんよい動きをしているのはどの子ですか」と私に即答を求められ、斎藤の講評を聞くことで、私は鍛えられていった。
 斎藤は短歌をつくり、教育の仕事をした。選歌をするとき、斎藤はいちばんその人らしい短歌を選んだ。そうすると選ばれた人は、ああこれが私のものだったと意識する。そうするとその方向に進む。
 教育も同じで、子どもは社会の影響を受けて通俗的なもと、その子どもでなければならないものを持っている。教師がその子の持っているほんものを引き出したとき、子どもの人間性も拡大していくと考えた。斎藤は「子どもの無限の可能性を引き出すことが教育である」と言った。このことは斎藤が教育の実践の中でつかんだ事実である。したがって、授業をするからには、必ず子どもの力を引き出したという結果が生まれてこなければならないと斎藤は述べている。
 斎藤が校長であった島小学校ではたくさんの実践記録が書かれた。共通した内容は、教師が子どもたちにどう話しかけ、何を引き出していくかということである。一番の問題はどう発問したらよいかである。発問が明確におこなわれるということは、教材の解釈が的確にされているからだ。教師の説明、子どもや教室全体の描写、授業の展開における教師の心理状態についての自己解釈、子どもの発言についての解釈、授業の中での新しい発見、授業の結果についての評価、反省などである。
 斎藤は教師たちに自分の記憶によって授業記録をまとめることを求めた。授業が終わったとき、どの子がどんな思考をし、どんな表情をし、どんな発言をし、教師がどんなことをいって授業が展開していったか、そのまま再現できなければならない。描写力が弱いということは、子ども一人ひとりを豊かにつかまえていない、授業を的確につかまえていないということができる。このことができれば、もっと授業はダイナミックになり、教師の人間全体の大きな力が、子どもをゆさぶっていくような授業ができるようになる。
 斎藤のいう教育の創造的な仕事は、つねに目の前にある事実と対決しながら、事実のなかから、つぎつぎと新しいものをつくりだしていくことである。つくり出されたとき、子どもは明るく美しくなり、しなやかで清潔な姿になるのである。授業のなかで、瞬間瞬間に美しいものをつくり出すことができないのは、その仕事のどこかに問題があると考えられる。新しいものをつくり出されないとき、暗くなったり、閉ざされたものになる。
 教師の仕事は、担任がかわり、子どもがかわるたびに、その子どもに即した新しい出発をしなければならない。考え方でも、方法でも、出発点からはじめ、新しくやりなおしをしなければならないものである。絶えざる創造を仕事の上にしていかなければならない。
 教育は創造を重ねていけば、そのときどきに質の高い授業が生まれ、目をみはるような新鮮な子どもが生まれてくる。光のようなものとして人々の心のなかに残る。それが消えていくものであっても、次の新しい創造が生まれてくることに教師としての希望と喜びがある。
 もともと教師の仕事は、仕事をすればするほどあやまちをおかすようなものである。そのあやまちのなかから、次の新しいものを創り出していくのが教育である。そういうあやまちや苦悶と、自分の仕事との衝突のなかからだけ教育という仕事は生まれるのである。
 教師は精根かたむけた子どもたちから批判され、裏切られるようなことが数多くある。そういう痛手を受けながら、それに堪えぬき、いっそうの思いをこめて、いま自分の前にいる子どもに、全力を傾けたとき、初めて教育という仕事は出発する。深く思いをたたえた仕事をしたとき、そこに新しい自分が生まれ、仕事が生まれ、また子どもが生まれてくる。
 斎藤はこういう意味での孤独さを教師が体験し、それに徹したとき、はじめて教師は弱さに徹した強さを持ち、きびしい強い仕事も生まれてくるのだと思うと述べている。
 斎藤は一回性の授業に打ち込み、授業の原理を解明する教授学を構築しようとした。しかし、授業のもつ人間的課題と研究的課題の二律背反が成立を難しいものにした。教育学は変わらなければいけないと斎藤は考えていたが、現実はそうはならなかった。これからも立て難い。教師の授業を創造する斎藤の理論は実践的指針となるべきもので「斎藤喜博システム」として考えればよいのではないか。
(横須賀 薫 1937年生まれ、元宮城教育大学学長を経て十文字学園女子大学学長。教員養成や授業に関する研究を主に行った)

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