教師はどのような教育力が求められているのでしょうか
全校の子どもたちが集合して朝礼するとき、いろいろな教師が朝礼台に立って子どもたちに話をするが、教師によって子どもの態度がかわる。
A教師が立つと、子どもたちはおしゃべりをやめ、ニコニコした笑顔になって集中する。B教師が立って話をはじめると、子どもたちのおしゃべりはますます激しくなる。C教師が立つと、子どもたちはおしゃべりをやめ、顔をこわばらせて緊張し、水をうったように静まり返る。
教師によって子どもたちの態度がかわるのは「この学校の子どもの質が悪いからだ」という教師もいるが、私はそうは思わない。もし、そうだとすれば、どんな教師が立って話をしてもおしゃべりはやまないはずだ。
しかし、ある教師が話すと、おしゃべりがやみ集中するのだから「子どもの質」ではなく、話す教師の力量に差異があるということだ。そういう力量を「教育力」という。
教師の仕事は「教育」だから「教育する力」を必要とするが、どういう力なのだろうか。私は教師であるから、現場感覚で簡単にいえば、教育力とは「感化する力」と「影響力」である。
もっとも「影響力」には、B教師のように、マイナスの作用もあるが、A教師のような「プラスに作用する影響力」をいう。
では、「プラスに作用する影響力」とは、具体的にどういう力をいうのだろうか。人によっていろいろな定義があるようだが、私は「指導力」「人格力」「管理力」だと考えている。
1指導力
たとえば「あの先生が担任になったら、子どもがよく勉強するようになった」のであれば、「指導力」があるということである。指導力とは「すすんで、やろうという気持ちにさせること」で、そのはたらきかけを指導という。教師がはたらきかけたにもかかわらず、子どもが勉強しなくなったら「指導につまずいた」ということになる。
指導はきわめて多様である。あらゆることが指導として成立する。「暗示する、愛する、育成する、演示する、援助する、挑発する、忠告する、説得する、指示する、命令する、泣く」といったことがすべて指導の方法である。
指導にはいろいろあるが、そのなかでもっとも中心をなすのは「説得」である。子どもが「なるほど」と心から納得して「やろう」とする、これが指導だからである。
説得は指示や命令とは違う。指示や命令は有無をいわさず、したがわせるという強い意思がこめられている。しかし、説得は、説得される子どもから「なぜ、いけないの」といった質問・意見・反論がゆるされる。
説得するとき、質問されたら答えなくてはならない。指導は説得だけではないが、子どもにどう納得させるのか、そのことが強く問われている。
2 人格力
人格力とは「子どもが、今度の先生が大好きで、学校に行くのを楽しみにしている」というような場合である。子どもに慕われるのは「人格力」による。人格力とは、子どもに好かれ、信頼され、尊敬される力である。
ていねいに親切に指導していても指導が成立しない教師がいる。子どもたちにきらわれているからだ。指導は教師の人格をとおして発動されるから、人格の力がないと、指導は成立しないのである。
子どもに好かれていると指導が入る。好きな先生がいうのだから、子どもはしたがいたくなるのである。子どもにとって教師は、発達をうながし、育ててくれる人だから、もともとは子どもは先生がすきなのである。
にもかかわらず、好かれない教師がふえてきたのは、子どもの発達の可能性の芽を摘んでいるからである。教師のつごうのよいほうへとむりやりに引っ張って型にはめこもうとするからである。子どもにきらわれたら、どんな正しい指導も入らない。
人格力を考えるとは、子どもはどんな教師が好きかを問うことである。子どもに好かれ信頼され尊敬される教師に共通しているのは「ほめる力」がある。「ほめる」ことは、子どものなかに眠っている、よいものを発見し評価することである。
ほめることは発達の可能性をとりだし、認めてくれることである。子どもの誇りを美点として認めてほめてくれるわけである。だから、好意をいだくようになる。
子どもたちは集団のなかで生活している。だから、ほかの子どもと比較し、自分の劣性に目がいき、劣等感にさいなまれている。そういうとき「きみには、こんないいところがあるんだよ」と、ほめてくれると、自信がわいてきて、先生が好きになる。
このほめる力は、教師にとって重要な力である。つねに、子どものなかの、汚れているもの、悪いもの、正しくないものしか発見できない教師は、教師失格といえよう。
3 管理力
最後は「子どもの生命を守る強い力」、これが「管理力」である。教師の力のおよぶかぎり、子どもの生命を守らなくてはならない。その力が管理力である。
管理力の基本は、やめさせる力である。たとえば、大げんかしていて、これ以上させると大けがをするという場合、「やめろ」といってやめさせる力をもたなければならない。
教師の「やめろ」のことばに、子どもがすなおに従うのは、「やめろ」のことばに力があったときである。教師の言葉に切迫感があって、容易ならざる事態だと直感的に、ハッと我にかえってやめる。教師の言葉が子どもの心に通るように表現できなくてはならない。
教師ほど言語表現の力が必要な職業はない。マイクなしで千人ぐらいの子どもを動かせなくてはならないし、また、お話しすることで、子どもたちが涙するほど感動を与えることができなくてはならない。
だから、話し方について、教師が自覚して自らを育てようとしないと、いつまでたっても、身につかない。話し方の弱い、声の小さい、おどおどした声の教師は、子どもたちにまっ先にバカにされる。学級や授業が成立しない教師に、この弱さをもつものが多い。
よく「やめろ」は十三通りの表現ができる技量がほしいといわれる。多様な場に応じた表現という意味だろう。
そのほかに、教師の「やめろ」のことばに、子どもがすなおに従うのは、子どもにとって正しいこと。やめたあと、先生はかならず正しく指導をしてくれることがわかっていること。「やめろ」といった教師が好きな信頼している教師の場合である。だから、教師の管理力は、指導力、人格力を背景にして、はじめて成立するのである。
教師は、だいたいこの三つの力を駆使して子どもたちを教育している。教師の教育力という場合、この指導力、人格力、管理力の三つをもたないといけないということである。どのひとつを欠いても教育は成立しないことがわかる。
(家本芳郎:1930-2006年、東京都生まれ。神奈川の小・中学校で約30年、教師生活を送る。退職後、研究、評論、著述、講演活動に入る。長年、全国生活指導研究協議会、日本生活指導研究所の活動に参加。全国教育文化研究所、日本群読教育の会を主宰した)
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