一流の教師の指導は、すぐれた感性に論理が裏打ちされている
斎藤喜博(注1)は授業実践をノートに克明に記録した。朝も授業中も休み時間も放課後も書き込み、毎日ノートが真っ黒になったという。
これを実践力の向上を目指す雑誌「教育論叢」に投稿した。若くして独自学習とか相互学習をつくり出した斎藤の授業には参観者が多かった。
群馬師範の教師も、教生を引率して斎藤の学習法の授業を参観したが「奈良(注2)でもあれだけの深い学習はなかった」と語ったと斎藤の日誌にしるされている。
斎藤は表現力を重視した。その理由は、「子どもたちが身体全体で自分の内部にあるものを表現することで、自分の内部に新しいものをつくり出すことができ、自分の可能性への自信と喜びを持てる」からである。
斎藤は身体全体を使って歌う合唱、跳び箱や舞踊や行進、詩の朗読、これらをひっくるめて「表現力」の教育と言っている。これらは、教師が適切な指導をすれば短時間で子どもを上達させ、自信と喜びを持たせることができる教材である。
「教師は表現力がないと、どうにもならないんです。話での表現力、身体での表現、 朗読の問題にしても、教師っていう商売は表現によって相手に働きかけていくということがあるわけですからね」と斎藤は言っている。
私はNHKで放映された「教える-斎藤喜博の教育行脚」をみた。5年生の跳び箱台上前回りで、回れない子どもを斎藤が補助して試行3回目で、人指し指が腰に触れるかどうかという程度の補助で子どもは回ってしまった。今でもこの時の斎藤の「指」の映像が私の脳裏に鮮やかに残っている。もちろん、私たちがマネをしてもできない。名人芸だということになる。
ここでの指導の前に地ならしがていねいに行われていた。まず、床の上のマットで前まわりの練習。つぎに台上前まわりに移るが、踏み切って体を跳び箱の高さまで跳び上がらせれば、後はマット上での前まわりと同じだから、子どもの動きに弾みをつけてやる程度の補助で、じきに子どもは自力で回れるようになるという論理である。
だから、ここでの指導のポイントは踏み切りのタイミングをつかませること。私が同行したときは、斎藤は助走する子どもと一緒に走り、踏み切りに入る直前に「はい!」と声をかけていっていた。それこそ汗だくの指導である。
向山洋一が「跳び箱を跳ばせる技術を隠し財産にした」という斎藤批判が出る前、私は斎藤から「跳び箱の跳ばせ方をカード式にできないでしょうか」と相談を受けたことがあった。このことから、斎藤も跳ばせ方の技術を広めることに関心をもっていたことがわかる。私は「そうですねえ」と生返事をしただけで話は立ち消えになった。斎藤には申し訳なかったと悔やまれる。
斎藤はすぐれた感性の持ち主であったと同時に、すぐれた理論家でもあった。すぐれた感覚には、論理が裏打ちされている。斎藤の指導に論理(原理)があったから子どもたちはそれを発見することができたわけで、論理も何もない指導では、いくら子どもたちに考えさせても何も発見できないということが肝心な点である。
斎藤は「体育は自分を調節し、自分を守れるようにすることに一つの目的がある。そのためには、自分の体を自分の意志によって自由にできるようにしなければならないはずである」と書いている。
そのようなことのできる身体の動きには、リズム・合理・内容があり、この3つの要素を満たす身体の動きには流れがあり美しいと斎藤は言う。だから斎藤は「きれいだ、美しい」というほめ言葉をよく使う。内容とは学習に真剣に打ち込む姿を指すと考えられている。
斎藤の詩や短い散文を教材にした国語の授業では、斎藤は終始、子どもたちに問いかけている。まず子どもたち各自に音読させ「どんなことが書いてあった?」と問う。
反応がない時は、複数の選択肢を板書して「どれだと思う?」と問い、それぞれの人数を数え「なぜそう思うか」を問うた。
まだ他にあるかを問い、思いがけない答えや意見に対しても斎藤は共感した。
子どもたちの間で意見が対立しても、それに決着をつけずに保留にしてそのまま授業を進め、
「さあ、この詩では、どちらをとったらいいかね。意見が2つ出たということを頭において、皆さんがさまざまに想像して決めてください。そのことも考えながら、もう一回読んで見ましょう」
授業をこのように展開するのは、おそらく斎藤が、文学作品を教材にした授業では多様な思いや考えを一つに収れんさせるではなく、子どもたち一人ひとりの文学を味わう感性を養うことが目的だという考えに立っているからであろう。
ある教育学者は斎藤のこのような国語の授業を「カウンセリング・マインドの授業」と呼んだ。
(小林 篤:1935年長野県生まれ、名古屋大学、奈良女子大学等を経て兵庫大学名誉教授)
(注1:斎藤喜博:1911年~1981年 元小学校校長。島小学校などに優れた実践を残した昭和の代表的な実践者)
(注2:当時、人気のあった木下竹次がいた奈良の女高師附属小学校)
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