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学級経営の急所とは何か、すぐれた教師と、ひどい教師とはどう違うのか

 すぐれた教師は子どもの力を伸ばす方法を知っている。欠点を直すのではなく、良いところを伸ばそうとする。
 人間とは不思議なもので「良いところ」を認められ、ほめられると、さらに努力する。心地よいものだから努力してしまう。良いところは、ほめられるとどんどん伸びていくのである。そして「良いところが伸びた結果」として、それまでの「欠点」も、少しずつなくなっていく。
 ところが、反対に「欠点を直すように言われる」と、気力が減じてしまう。欠点を言われるのは、いやなものである。努力をしてみたところで、せいぜい人並みになるだけである。欠点を言う教師を憎みさえする。せっかく「子どものため」と思って、教師が努力しているのに、逆の結果になってしまうことが多い。
 教師自身のことにしたって同じである。自分のクラスをすばらしいクラスにするのに一番いいのは、自分の得意な分野をまずやっていくことである。「良いもの」をとりあげると「良い結果」が出てくるようになる。また、他人がやってよかったことを試してみて、自分にとってよかったら、どんどんやっていくことである。
 私は将棋が好きだ。だから、クラスに将棋をとり入れてきたし、クラブも作ってきた。好きなことは苦にならない。また、私は小学生の時から百人一首をやってきた。したがって、百人一首もとり入れてきた。子どもに覚えさせ、競技もやってきた。
 「五色百人一首」は、一試合が三分でできる。すき間時間にできる。「テープ」に「読み方」を入れておけば、子どもだけで熱中する。しかも、百人一首を覚え、親・子どもからも感謝される。「みんながやってよかった」ものは、とりあげていくことが大切なのである。
 すぐれた教師と、ひどい教師の差とはなんだろうか。
 すぐれた教師は、教育の結果が悪い場合は、自分自身にほこ先を向ける。自分がいたらなかったからだと思い、自分の技量が未熟だったからだと思う。有田・野口両先生がそうである。そして、すぐれた結果に対しては、それを子どもの功にするか、だまって笑っている。
 ひどい教師はまるで逆である。子どものひどい姿に接すると、それを子どものせいにする。あるいは家庭のせいにする。ひどい教師に習えば、子どもは三日で反発し、ひねくれていく。それを前の担任のせいにする。
 荒れている中学校、そこに勤める多くの教師に共通するのは、その責任を家庭のせいにして、小学校の責任にする。駄目な中学の教師は、自分のひどい授業を棚にあげて「非行の芽は小学校にあった」などという。中学生から信望のある中学校の教師はいくらもいるが、そういう教師は決して責任を他に転嫁しない。
 学級経営の急所は「人間である教師が人間である子どもと、どのような絆をつくっていくか」ということなのである。
 人間と人間との絆をつくるのだから、相手を人間として認めるということが出発点となる。
 教師は「ぼくは先生なんか大嫌いだ」と憎らしく言う子どもをも、受け入れ包み込まなければならない。教師はいかなる状態のいかなる考え方の子も、丸ごとすべて暖かく包み込める心構えが必要である。内心嫌だと思っていることは相手にも伝わるのである。簡単ではないが、心の革命を必要とする。
 相手の人格を認めるなら、子どもを「君、さん」とつけ、よびすてにしないことである。人間の絆はこうしたところからつくられていく。
 絆をつくるのだから「会話」が必要になる。ニッコリ笑って「面白いマンガ教えて」ぐらいの会話ができればいい。むろん全員の子とするのである。ニッコリ笑って、子どもに話しかける。これだけで教室は明るくなっていく。
 子ども同士の関係も目配りが大切である。休み時間に誰と遊んでいたかを聞いていくと、一人ぼっちで残る子が出てくる。一人ぼっちの子は、教師が何とかしなければいけないのである。
 子ども同士の間にある「差別」を許さないことも大切だ。弱い子どもを陰険にいじめる子どもがいるものである。断じて許してはならない。教師が見のがしてはならないのである。見のがしていたら、学級づくりは失敗する。
 学級は、いっぱい人間が集まった集団である。人間と人間のつきあいの場、生きていく場なのである。だから、教師は「あたたかく」「公平」「誠実」「明るく」なければならない。あたたかく、公平で、誠実で、明るい人が中心になっている集団なら、うまくいくに決まっている。
 逆に、つめたかったり、不公平であったり、ごまかしたり、暗かったりする人が、集団の中心になっていたら「学校に行くのもいや」ということになるのである。学級の性格は、実は教師の個性の照り返しである。
 成功体験を子どもたちに与えることが大切である。
 子どもたちが授業で「成功体験」を実感することによって「勉強への意欲」をもつばかりではない「生きていく力」も獲得するのである。「どの子にも成功体験を与える」こと、「どの子もできるようにさせる」ことをぬきに、人権を語ることはできない。
 自分のクラスの一人ひとりの子どもに「成功体験を味わわせる授業」を「意図的・計画的」に組み立ててきただろうか? この責任は教師が負うべきなのだ。
 教師は子ども集団を統率できる統率力がなければならない。統率者は情熱と責任観を持ち、学ぶ者でなければ人のうえに立つことはできない。教師が謙虚に学ぶとき、子どもも、ついてくるのである。
 統率のためには、クラス全員が共有できる目標をつくらなければならない。まず教師がはっきりと心に描くことだ。それを、クラス全員のものにしなくてはならない。目標を映像としてとらえられるまで具体化する。
 目標を達成するための仕組みをつくらなければならない。楽しいクラスを目標とするクラスでは「集会係」「イベント係」などが大活躍することになるだろう。授業も、むろん楽しいものにする必要がある。
 そして、実際に子どもを動かすことが必要になる。教師はガキ大将のごとき能力が必要なのである。子どもを動かす原理はいくつかあるが、最も大切なことは「ほめる」ことである。ほめて、ほめて、ほめまくるのである。「努力」を認められ、ほめられるとき、人は動くのである。
(
向山洋一:1943年生まれ、元東京都公立小学校教師、教育技術法則化運動代表を務めてきた。教師を退職後、TOSSインターネットランドの運営に力を注いでいる)

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