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杉渕鉄良(すぎぶち てつよし)(小学校)2「どの子も伸ばし、できるようにする」

 小学校教育の優れた実践家であった斎藤喜博は「創造と発見をともなう授業は、徹底的に事実につき、リズム感やドラマ的なものとかが、みごとに結合してはじめて実現するものである」と述べている。この言葉をまさに体現する授業を創り出す小学校教師が、「教育の鉄人」こと、杉渕鐵良である。
 杉渕は高校3年生のとき産休補助に来た先生がきっかけで、少林寺拳法に出会った。道場に週三回通い、初段まで取得した。自分が強くなりつつ後輩を教えた。この頃から、教えるのは好きだった。担任の先生に「君は小学校教師の方がいいよ」と言われ小学校教師になることにした。
 東京都公立小学校に就任し、朝と休み時間、放課後、子どもとずっと遊んで好かれていたため、授業が下手でも、自分が言うことをまじめに聴いてくれた。岸本裕史の本を参考に、百マス計算や漢字練習など、基礎学力の訓練を毎日行っていた。全員が百マス計算で2分を切るようになり、学級が元気になってきた。毎日やると力がつくということを実感した。
 さらに実践と並行して、東井義雄(『村を育てる学力』など)や、なかでも斎藤喜博の本を愛読し、とくに『全集1 教室愛・教室記』を読んで、こういう子どもたちを育てたい、斎藤喜博を超えたい!と思った。
 先輩教師が「文学教育連盟」の講座に誘ってくれた。そこで国語の授業を見て、ショックを受けた。子どもがいきなり立ち、教師が指名しないのにどんどん発言していく。すぐに授業者を教えてもらい、次の日から実践した。子どもが各自、教材文について考えたことを何でも書き、学級全体に発表し、教師はそれにコメントするという方法である。こんな発想もあるのだと視野が広がった。
 向山洋一の本を読み講演会を聴きに行くと向山氏に声をかけられ「東京青年塾」という若手教師のサークルに誘われた。毎月実践レポートを書いていき、向山氏に検討してもらい、全国の熱心な教師たちと、実践について思いっきり語り合った。
 このサークルで教わったのが「教科書見開き1 頁で問題を100問作れ」である。5年間毎日やり通した。この修行は、後の「一文解釈」の基礎になった。また「映像で自分の授業を記録しろ」とも言われた。毎日、授業をテープで録音して聞いた。怒ってばっかりなど、授業中には気づけなかった自分の行動に愕然とした。
 学芸会の指導にも力を入れた。親友の阿部肇が劇団の演出家でもあり毎日家に行って教えてもらった。
 3年目に研究主任になり認められたうれしさから、力量を高めるべく、「学校体育同志会」というサークルの研究会に参加し実践レポートを持っていった。学校では信頼を得、器械運動教育の研究を学校全体ですることになった。校内研では教師全員が授業を公開し記録を書いた。学校づくりの取り組みである。
 この頃から「子どもを全員できるようにする」という信念のもと、実践に突き進んでいた。鈴木鎮一『愛に生きる 才能は生まれつきではない』(講談社)を読んで衝撃を受けたことにある。日本人は誰でも何の苦なしに日本語をしゃべっている。それは、生まれてから今まで教育を受けてきたからであり、正しい訓練を続ければ、すべての子どもが育つと述べられていた。自分はどの子も伸ばすと決意した。
 5年目に実践論文を4カ月で100本書き、東京青年塾の法則化夏合宿に持って行った。その合宿でサークルをやめた。子どもを伸ばすためではなく、名声や運動のために本・論文を書く方向にサークルが傾いていることに、賛同できなくなったためである。
 教師7年目に転勤になる。1年生担任で自閉症の子を受け持った。どうしたらいいかわからなかった。その子は集中力が長く続かず、授業中ふらっと教室を出てしまう。そこで、この子も他の子と一緒に学習できるシステムとして創り上げたのが「ユニット授業」である。
 授業を細かい単位に分け、組み合わせた。国語なら、漢字まじりの文章の復唱と高速読みを1分ずつ、漢字100問テストを5分、教科書音読を3分、「表現読み」を3分、「ごんぎつね」についての話し合いを20分、まとめを書く活動を10分というように、である。100マス計算も、10マス計算に変えた。
 このように学習内容を短時間で交換すると、自閉症の子も少しずつ学習するようになっていった。ただこの子には、これまで学んできた授業技術が通用しない。そこで、子ども全員の記録を毎日細かく取り、その子にどんな手を打ったらよいか考えるようになった。この作業を通して、子どもは一人ひとり違うこと、障害があってもその違いに応じた工夫をすれば、どの子も伸びることに気づいた。
 ある晩、ひらめきがあって「どの子も伸ばす」という問題意識やこれまでバラバラだった個々の実践を「基礎の時間」「追究学習」「表現」の三つを柱として、教科という枠を取り外し、この三つで一週間の時間割を構成するようにした。以下、三つの柱を紹介する。
(1)
「基礎の時間」では、毎朝30 分、計算と漢字、音読の習熟のための練習を行う。
(2)
「追究学習」では、まず、子どもが「見たこと」(興味あることを考え調べた)作文を家で毎日書いてくる。学校で「発表会」を毎日30分程行う。一人1 週間に1 回発表する。さらに、週5日の「追究学習」の時間には、全員が同じ題材について学習する。「発表会」で出た?で、「これはもっと時間をかけて話し合いたい」「みんなで追究したい」と決まったものが題材になる。
(3)
「表現」では、子どもたちが色々な形で自己表現する。描く、歌う、身体表現などである。子どもたちの歌声をもっときれいな声にしたいと鎌田典三郎の本やビデオに学びながら、「歌う声」の指導を始めた。学習発表会で声がきれいになったのを目の当たりにして、保護者の中には感動で泣く方もいた。
 こうして無我夢中に修行した7年間から、今の実践に受け継がれている、基礎と追究、表現という柱が生まれた。そこには、当時流行していた他の教師の実践を追試をするのではなく、優れた教師の精神を取り入れ、自分独自の実践を創り上げた。
 結婚し、子どもが生まれ、子育てに関わるようになると、子どもの見方が変わった。どの子どもも親にとって大事でかけがえのない子ということが、実感として理解できるようになった。子育てで時間がなくなり、仕事優先順位をつけて仕事するようになった。寝る前に頭の中で授業を映像として思い出すことを始めた。
 1993年には、サークルの合宿で、学級経営のプロである小学校教師の堰八正隆(芦田恵之助の弟子、斎藤喜博と全国を行脚)と出会い生涯の師匠となった。
 1994年からは「子どもが創る授業」を実践し始めた。日直と教科係のシステムを作った。日直は「これから○○を始めます」など号令を出したり、次の日の学習計画を立てたりする。教科係は授業を進める。ただし、子どもに完全に任せると大変な事態になる。そこで、まず子どもに授業を進めさせ、そのよい点を認め、不足している点についてはお手本を見せてイメージを持たせたり、ポイントやコツをアドバイスしたりして、またやらせる。その上で、個別支援もした。
 
「感化の教育」にも取り組んだ。鍵山秀三郎の『凡事徹底』を読み掃除を一層徹底した。全校児童の靴を揃えたり、ゴミを拾ったりを黙って毎日行う。「子どもたちが手伝うようにならないかな」という思いを押さえて続けていると、掃除自体が楽しくなってきた。靴が揃った時の空気、教室がきれいになった感じがたまらない。
 
「子どもをこうしてやろう」という意識がなくなった時、子どもたちのほとんどが進んで掃除するようになってきた。教師がひたむきに行動すれば、教師の楽しい、気持ちいいという思いが伝わり、子どもは活動したくなるのだと気づいた。
 ただこのようにずっと順風満帆であったわけではなく、失敗もした。5年生の女の子を叱ると、母親が「うちの子は傷ついています。学校に行かせません」という手紙が来た。その子は1週間程不登校になった。家に行ってみると、その子の写真が、壁一面、天井全部に貼ってある。この子の家庭状況を知っていれば、もっと優しく対処できたのに、と反省した。自分の強気な性格で、子どものことをわかっていないのにわかっているつもりになっていた。
 この頃、学校での人間関係もうまくいかず、学校づくりをするために、自分が徹底的に変わろうと決意する。正義感が強すぎて人に厳しくなりがちであり、他人の落ち度を指摘してその場の雰囲気が壊れてしまう。そこで、自分の人格を変えるべく、姿勢を正して瞑想する岡田虎二郎の静坐をしたり、一流と言われる人の話を聞いたりして、優しくなろうとした。しかしながら、性格を変えるのは難事業であった。原点に戻って学級づくりをするべく、転勤することを決める。性格改造にはこの後15年ほどかかることになる。
 1997年に神津島の小学校に赴任した。小学校は荒れており、机がいたずら書きで黒く、消してもまた書く。今までの教育技術が通用しなかった。まずは島を知り、地域の人に味方になってもらうことが肝心だと思った。男親の多くは漁師である。
 島で震度6の地震が起きた。自分以外の教師はみな、夏休みには本土に避難した。島の子がまだ50人くらい残っている。そこで、自分は家族とともに残り、復興の手伝いをした。こうして、地域の人が信頼してくれるようになった。
 2000年に阿部氏の支援を受けながら、ソーラン節の踊りの指導を始めた。地域で評判になった。三つの柱に「歌う声」やソーラン節、掃除が加わり、子どもたちは学力面だけではなく、海岸のごみを毎朝自主的に拾うなど、行動面でも伸びてきた。全校児童が週に1 回集って音読と歌を発表し合い、互いに刺激を受ける、全校授業というシステムも創ることができた。
 2002年に新河岸小学校に転勤する。そこでは基礎学力づくりの時間を学校全体で導入しようと提案し、校長先生が賛成してくれた。「子どもを伸ばす」という理念を教師全体で共有し、新河岸小の次の三つのシステムを構築することができた。
(1)
チャレンジタイム:毎朝15分、基礎学力づくりをする。
(2)
全校チャレンジ:月に1回15分間、全校児童の前で、各学級が音読や歌の発表をする。上級生の発表を聴いてあこがれを持ち、また下級生の発表を聴いて負けていられないと奮い立てるためのしかけである。
(3)
基礎・基本、振り返かえり時間:45分の授業の中に510分基礎・基本の時間を入れ、授業末には2~5分、授業の「振り返り」を書かせることである。基礎・基本の時間には、国語なら新出漢字や文法事項、ことわざ、慣用句などを、テンポよく学習する。
 このように基礎・基本を重視したのは、考えるためには前提として知識が必要であり、知識は何回も反復して初めて定着すると捉えていたためである。
 新河岸小のシステムは公立小学校の挑戦として注目を集め、2003年テレビ番組「ガイアの夜明け」で自分の実践が紹介された。2004年には、模擬授業を岸本氏が見てくれ「10マス計算は自分の100マスを発展させてすごい」と認めてくれ、うれしかった。
 このような基礎・基本の徹底、追究に向けた子ども主体の話し合い、歌や踊り、絵などの表現といった教育のスタイルはこの後も引き継がれる。しかしながら、2006 年頃から、ある変化が現れる。書かせてから発表させるのではなく、まず発表させてそれを書いてまとめさせるというスタイルに変容していく。
 指導の一手は、教科学習だけではなく、給食指導や健康診断などあらゆる場面で打ちこまれ続けている。例えば服を素早くエレガントに着替えさせることで、リズムを壊さないスピードの気持ちよさを体感させる。こうして身につけた瞬発力が、10マス計算や「指名なし発言」などでの思考の速さに波及するのである。
 班ごとに学び合うことにも取り組んでいる。漢字の復唱や書き取り、教科書の表現読み、発表する題材についての話し合い、音読と歌の練習などの様々な学習内容を、リズムよく班ごとに子どもたちが進めるというものである。班を導入したのは、全員できないと次に進めないので、自然と「学び合い」や「教え合い」ができるからである。
 
「どの子も伸ばす」という信念のもと、一人ひとりを見て、その子を伸ばすためにあらゆる一手を打ち、そのからみあいである日、子どもがふっと伸びる。これが子ども全員の成長に向けて教師が自己改革していく一つの道であると、杉渕先生は示してくれている。
 
「教師をやっていると、色んな発見があって、挫折もある。でもそういうのが一個一個刻み込まれていく中で、教師自身が成長していくみたいなところがありますよね。だから、教師って色んなことが楽しいんじゃないかと思うのですよ」と述べている。
(
細尾萌子:近畿大学教職教育部講師。日仏の授業や教育評価が専門。思考力や表現力を育むパフォーマンス評価について現場の教師とともに研究)

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