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中学校の教師として楽しいと思えるようになった、そのわけはなにか

 私が中学校の教師となったのは「第三の非行のピーク」といわれた頃でした。校内暴力の嵐が吹き「今日は入院か」という思いで、文字通り体を張って子どもたちに立ちむかう毎日でした。
 
「一生懸命に関われば、いつか子どもたちに思いは通じる」と信じて「厳しく」あたってきました。私自身、「熱心=よい教師」の姿を夢中で追究してきた。他の価値観が生まれにくいほど学校現場は忙しかったからです。
 最近、思うことがあります。本当にそうなんだろうかと。子どもはもちろん、教師や親までもが追いつめられる状況になってしまっているからです。
 私は、子どもが好きで、子どもたちの未来をいっしょに開く教育という心弾む仕事に携わりたくて教師になりました。それなのに、一生懸命になればなるほど教師であることが苦しくなり、子どもを追いつめるような現実があるからです。
 かつて私には、なめられてはいけないと、生徒の前では緊張していた時期がありました。しかし今は、以前のように肩に力の入った自分と違う、自然な笑顔で子どもたちと接している自分を感じます。けっこう楽しんでいるのです。
 自分の中で何が変化したのか。振り返ってみます。
 私が新任教師の頃、学年が進むにつれて手に負えない子が増え、教師がほんろうされるという状況がありました。一年生のときに厳しくしつけ、「だめなものはダメ」と教師集団として一致して示しながら「この先生たちにはかなわない」という大きな壁を強く印象づける取り組みを重視してすすめました。
 脅しによって指導した形をつくることができる状態、それは教師から見れば、子どもに対して優位性をもって指導にあたることができているという「正常」な状態に見えるかもしれません。
 しかし、子ども側から見れば、自分の思いを表現できず、問題を蓄積させている状態であるともいえます。そして、その段階をこえて脅しが通じなくなったとき、子どもたちの前には全く無力であることを大人たちは知ることになるのです。
 でも、子どもを教師の言うとおりに従わせようとするとき、力や脅しを用いないやり方はむずかしい。あるとき、上履きのままグランドに出ている子どもたちを私は見かけました。反発していた三年生たちです。「いけないよ」と注意をしましたが、中にはいろうとしません。無視された状態です。
 そのままその場を離れるわけにもいかないし、かといって直そうという雰囲気も見られません。そのうち始業のチャイムが鳴りました。誰かが「入ろうぜ」と一言いうと、みんなスッと中に入っていきました。「私の必死の説得よりも、あの子の一言の方がよっぽど指導力があるよ。子どもを動かす力っていったいなんだろうか」と、思わず笑っていました。
 でも「子どもを指示通りに従わせるのが教師の力量」という、ずっとこびりついていた思いから解放され、楽に構えていられる自分も感じていました。以前は「ここで引いたら示しがつかない」と一歩も引かず、ぶつかったものです。
 
「いけないと知っていながら、やるには何かワケがあるんだろう。今度話せるときに聞いてみよう」という、ゆったりとした気持ちで受けとめられるようになったのは、よかったと思います。
 私たちがめざす指導のすすめ方、それは子どもがその気になるようにうながし、変化を待つ関わりなのではないかと思うのです。
 厳しい教師になろうとしていた私は「今は○○するとき。△△してはいけない」と子どもの思いを規制しようとします。そして、自分の思いの範囲で素直に動いてくれる子をいい子、そうでない子を問題のある子と感じるようになっていることに気がつきました。
 こうした問題のある子を思いどおりに動かそうとするとき、ついつい注意する場面が増えてしまいます。私はこうして「だめ、だめ」と子どもから「取り上げる」ことを日常しているけど、その代わりに何を与えているのかと、ふと思うようになりました。
 
「だめ」をいうのが教師の仕事じゃない。もっとその子の意思を尊重してもいいんじゃないかと。問題行動を繰り返す子であっても「○○させない」と、子ども生活を矯正する役割でなく、その子が中学生時代という人生のひとこまを歩くときの伴走者として、とんでもない失敗をしないよう見守りながら、ゆったりとかかわりたいと思うのです。
 問題のある子が問題を起こさないようにと考えるのはムリで、あえてやろうとすればひずみができてしまいます。「これだけ言っても分からない」「素直じゃない」と、子ども側だけを責めてきたような気がします。
 子どものためによかれと思ってやっていることが、まったく違った受けとめ方をされていることがよくあります。「子どもにどう受けとめられているか」を点検し「分かるように伝え方を工夫する」ことで一歩近づけると思うのです。
 学校では「教える」活動が強調されますが「どう受けとめたか」を尊重することで、子ども自身が「学ぶ」チャンスを多くつくることができます。
 子どもがホンネを語り、教師もホンネで返すという対話ができる関係、これは子どもを思いどおりに動かすことにはならず、まどろっこしいやり方に見えますが、実はそれは教師にとっても子どもにとっても心地よく、結果的にはもっとも近道となるやり方だと思うのです。
 子どもが「自分で決め、自分の体験から学ぶ」ということは、大人の立場からすれば、それを「待つ」ということを意味します。子どもが体験し、そこから学ぶように支援する。しかし、いのちや人権にかかわるものなら、きっぱりノーと言う。そういった活動が求められているのだと思います。
 その子の中で今どんな変化が起きているかに心を配り、その子が人生体験を重ねられるようにサポーターとして関わっていけばいいんだと考えるとき、子どもと関わることがとっても楽しくなるのです。
(
宮下 聡:元東京都公立中学校教師。都留文科大学教職相談システム相談員)

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