一流の教師と二流、三流の教師とは、なにが違うのか
最近の教師は、保護者からもやられるので、横着な人は少ないと聞いている。でも、校長にたずねると「いますよ」と必ずいう。
若い教師の勉強会に招かれ、授業をし講演をした。子どもたちも楽しく授業にのってくれた。すべてが終わり、主催者のA先生の挨拶を聞いて驚いた。私は発言を求めてつぎのように言った。
「今、A先生は『学ぶべきものは何もありませんでした』と言いました。私の勉強不足は認めます。だから学ぶべきものはなかったのかもしれません」
「しかし、授業は『見る人の実力ほどにしか見えない』のです。実力があれば、新採の先生の授業からでも学べます。見る人、聞く人の実力によって、見え方・聞こえ方が違うものです。このことを考えてほしいのです」
「私の授業のよくなかったことのいいわけではありません。本当のことをいっているのです。今日は、大変申し訳ありませんでした」
A先生の年齢は36~39歳の間であった。この年齢の教師は、どうしてこんなに不遜になるのだろうか。36~39歳以外にも、不遜な教師はいくらでもいる。ただ割合からいって多いので、すぐに年齢がわかるのである。
思いだすのは大村はま先生が書いていた「おしゃか様の指」(『教えるということ』共文社)という話である。おしゃか様が天から人間の世界を見ていると、一人の男が荷車を引いて歩いていて、ぬかるみにはまってしまったのが見えた。困った男は一生懸命、引いたり、押したりするが荷車はびくともしない。
誰か人が通りかかるのを待つことにしたが、いくら待っても誰一人通らない。おしゃか様は、男が人にたよらず、自分の力で何とかぬかるみから荷車を引き出そうと決心したのを知ると、見えない指で、荷車をちょっと押してあげた。
もし、おしゃか様が「わたしが押してあげたのですよ」といえば、男は、次にこういう困ったことが起きたとき「おしゃか様が助けてくれるのではないか」と、他人にたよる心が起きるだろう。だからこそ、おしゃか様はだまって、見えない指で押してあげたのである。
私たちは「見えない指」で押されて生きているのである。それに気づくかどうかである。
一流の教師は、子どもに「自分一人の力で育ったのだ」と思わせることのできる教師である。二流、三流の教師は「先生が教えてあげたから合格できたのだ、成長できたのだ」と恩をきせる教師である。「学ぶべきものはなにもない」という教師も、一流とは言えないだろう。
子どもが困っているとき、ぐっとがまんして、手を出さないことが本当に子どものためになるのである。野球の選手でも「さよならホームラン」を打ったのに「チームのみんなが打たせてくれたのです」とか、○○賞をもらったとき「ぼく一人がもらったのではなく、チームがもらったのです」などという人がいる。
これを聞いて「これが一流選手なのだなあ」と思う。二流、三流選手は「ぼくが打ったから勝ちました」「ぼくが投げたから勝ちました」などという。
一流のお母さんは、子どもに「自分一人で育ったのだ」と自信を持たせることのできる人である。「私がいう通りにしたから成長したのだ」などとはいわない。
教師でも、お母さんでも、一流になると、すべてわかっているのに「どうしたらよいだろうね」と、子どもに考えさせたり、気づかれないように目に見えない手で支援しているのである。
「そんなこともわからないの」と、教えてしまうのは、二流か三流である。
私たちは、子どもが困っていると、すぐ手を出して助けたくなる。そこをぐっとがまんして、子どもに困難を乗り越えさせることが大切なのだ。
あるお母さんから「うちの子は、先生に出会ったから今があるのです。ありがたいことです」といわれたことがある。
「それは、私の方がいいたいことです。子どもは、このようにして困難を乗り越えるのだ、ということを教えてくれたのはお宅のお子さんですよ」
「お宅のお子さんと出会って本当に幸せだったと感謝しています」と申し上げたことがある。今も全く同じ気持ちである。
(有田和正:1935-2014年、筑波大学付属小学校,愛知教育大学教授、東北福祉大学教授、同特任教授を歴任した。教材づくりを中心とした授業づくりを研究し、数百の教材を開発、授業の名人といわれた)
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