若い教師が「ほどほど」に教師をやっていたら、ベテランになったとき、自信を失って周りに迷惑をかけるようになるかもしれない
私は20歳代の頃は、勢いがあって口が悪くて、世界が自分を中心にまわっていて、すぐに人を責めて、ばかにしていました。
しかし、実践研究だけは、まったく手を抜かずに資料だけは百枚も二百枚もつくって、研究会で三枚くらいの資料で発表する人を見て「まじめにやっていない」と断罪して、まったくいけすかない人間でした。
もしも、当時の私が、いまいたら「こいつは見込みのある教師だ」と可愛がるでしょう。
若い教師で有望な人というのは、いけすかない人であることが多いように感じています。
教師という職業は、若いうちから一国一城の主になれる稀な職業です。その分、一人で突っ走りやすい職業ですし、若いうちから「自分はいっぱしの者だ」と勘違いしやすい職業でもあるわけです。
しかも、能力が高くて将来、大物になる可能性を秘めている教師ほど、そういう勘違いに陥りやすい。
長年、若い教師を観察していて感じるのは、教師の成長には
「自分をいっぱしの者だ」と思う、
(1)その勘違いを謙虚に戒めて成長する
人間関係を重視しながら、ストレスに見舞われる日常を過ごす。
(2)その勘違いに実質を伴わせて、勘違いではなくしてしまう
血のにじむような努力して、だれも文句を言えないほどの実績をあげる
場合と、二つの道があるということです。
私の教師人生は自分で言うのも何なのですが、(2)の道を20歳代、30歳代で、(1)の道を40歳前後から意識し始めたという感じです。
いまは、50歳代を目前にして「バランス感覚をもってほどほどに」を信条に生きています。
でも、よく思うのは、若い頃にがむしゃらにやった「溜め(たくわえ)があるから、いまがあるのだな」ということです。
若い頃から「ほどほど感覚」で教師をやっていたら、いまごろは自信を失って毎日が地獄だったかもしれない。周りに迷惑ばかりかけていたかもしれない。そんなことを感じるのです。
おそらくいま、若い教師が多いと思います。どうぞ、自分なりの「茨の道」を突き進んでほしいと思います。
(堀 裕嗣:1966年北海道生まれ、札幌市立中学の国語科教師。92年、国語教育研究サークル「研究集団ことのは」代表、「教師力BRUSH-UPセミナー」代表。文学教育と言語技術教育との融合を旗印に長く国語科授業の研究を続けている)
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