集会で前に立つと子どもたちが静かになるような威厳を教師が身につけるには、どうすればよいのでしょうか
集会で、子どもたちの前に立つと、子どもたちがすぐに静かになるような威厳を身にまとっている教師がいる。
集会で、前に立って話をするとき、若い教師がよく優れたベテラン教師の指導を真似て、子どもたちが静かになるまで待つことがあります。
しかし、ざわついた子どもたちはなかなか静まってくれません。業をにやした若い教師がざわつきの中心の子をにらみつけ、指したりします。
優れたベテラン教師は笑顔で子どもたちの前に立ったとしても、子どもたちが自然に静かになるのです。若い教師のやり方は威圧であって、まったく質が異なっています。
威厳もなく畏敬を感じさせることもない力量の低い教師が、優れたベテラン教師の真似をすることは滑稽でさえあります。
子どもたちに、その余裕のなさを見抜かれているということも少なくありません。長い目で見ると、そうした行いは子どもたち軽視されていく大きな要因にもなります。
実は、教師が子どもたちにどう評価されているのか、その「教師の在り方」が子どもたちに、どう受けとめられているのか、それが一番よくわかるのが、集会で前に立ったときなのです。
集会で全校生徒の前に立つということは、日常的に深いかかわりをもっていない子どもたちにも、こちらを向かせることを意味します。
要するに、心が通い合っていない子どもたちに、どれだけの影響力を与えられるか、それも一瞬で与えられるか、ということなのです。自分の学級の子どもたちに、こちらを向かせるのとはわけが違います。
その意味で、自分の学級にさえ静かに話を聞かせることができない教師というのは、ほんとうに力量がないのだと自覚すべきなのです。
こうした「分」を知ることは、若い時期、教師の力量形成にとってとても大切なことです。それを測ることができるのが集会なのです。
優れたベテラン教師は、間違いなく威厳を身にまとい、話を聞く人に畏敬を抱かせます。その威厳は、だれもが真似できないような独自の芸にあることは、話を生で聴いたことのある人なら、だれでもが理解できるはずです。
私は、若いうちに一芸を身につけることが、威厳をまとい畏敬を抱かせるような「立ち姿」や「所作」を身につける基盤となっていくと思います。
「芸は身を助く」と言いますが、一芸を身につけたならば、どのような学校に転勤しても、職員室で軽く見られることは決してなくなります。それなりの地位をもって仕事に取り組むことができるわけです。
それは、実は教師にとって仕事がしやすくなることを意味するのです。
(堀 裕嗣:1966年北海道生まれ、札幌市立中学の国語科教師。92年、国語教育研究サークル「研究集団ことのは」代表、「教師力BRUSH-UPセミナー」代表。文学教育と言語技術教育との融合を旗印に長く国語科授業の研究を続けている)
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