自然の本質にふれ合うと、子どもの本質とふれ合うことができ、子どもの事実を動かし、子どもをよくしていくことができる
私は、私が歌人であったことが、教育の仕事のなかでどんなに役に立ったかわからないと思っている。
自然をよくみることは、子どもをよく見つめることと同じだからだ。
自然と心をふれ合わせることは、子どもとか、同僚の教師とかと、心をふれ合わせることと同じだからだ。
「自然の本質」とじかにふれ合うことができるということは「子どもや同僚の教師の本質」と、じかにふれ合うことができるということだからだ。
正岡子規が明治33年につくった歌
「真砂なす数なき星のそのなかに吾に向かいて光星あり」
という歌がある。
私はこの歌がすきで、よくそれを口ずさみながら、星をみたり、草や木をみたりするが、真砂のようにたくさんある星のなかから、自分と心を通い合わせている星を持つことのできる人間に私は感動する。
こういう自然との心の通い合いのできる人間であってはじめて、子どもとも心を通い合わせることができるのだ。
教師はもっと自然をよく見、自然から学び、自然と心を通い合わせ、自然や人間の本質と、じかに交流できるようになる必要がある。
自然や人間から豊かに、ものを学びとり、自分を豊かに変革していけるような謙虚な人間になる必要がある。
教育という仕事は、具体的な子どもの事実についていき、具体的に子どもの事実を動かし、子どもをよくしていかなければならない仕事である。
事実をつくりだしたり、事実を動かしたりするためには、それまでに自分が持っている、知識とか経験とか技術とかを総動員して、立ち向かわねばならない。
それとともに、事実にしたがって、あたらしく創造もしていかなければならないものである。事実はいつも同じだとはかぎらないからである。子どもの事実にしたがって考え、創造的な仕事をしていかなければならないものである。
教育の仕事は、教師の精神の飢えを感じることによってつくり出されていくものである。
絶えず自分自身や子どもたちの現実に対して飢えを感じ、そこから抜け出そうとして、何かを求め続けることによって、はじめて創造は生まれるからである。
飢えを感じないということは、現状に満足し、停滞し固着していることであり、自分自身や子どもたちの現実に鈍感になっているということである。
これでは、創造的な教育の仕事などとおよそ関係のないところにいるわけであり、子どもを固着させ、停滞させてしまうだけである。
そう考えると、自分自身や子どもの事実に対して飢えを感じるということは、教師としての一つの重要な資質となると考えてもよい。
飢えを感じることがあってはじめて、きびしく仕事をしていくことができるからである。また、一つの地点に到達したときも、その地点での新しい飢えをつくり出し、さらに別の世界を追い求めていくようになるからである。
(斎藤喜博:1911年-1981年、群馬県生まれ。1952年に島小学校校長となり11年間子どもの可能性を引き出す学校づくりを教師集団とともに実践し、全国から一万人近い人々が参観した。退職後全国各地の学校を教育行脚、「教授学研究の会」を主宰した。多くの教師に影響を与えた昭和を代表する教育実践者)
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