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私はこうして学級崩壊をなくした

(1)全く授業にならない
 学級崩壊して誰も持ち手のない6年生のクラスを私は引き継ぎました。担任してみると、全く授業にならないのです。授業中おしゃべりが多くて、ほとんどの子が聞いていないのです。
 授業中に平気で立ち歩く子、教室の廊下側の壁の下にある通気口の戸から出入りする子までいます。口笛を吹いたり、紙飛行機を飛ばす子、わざと机を鉛筆でカタカタたたく子もいるのです。
 なかには、机に両足を上げ、ふんぞり返っている子もいます。「授業中だから、普通に座りなさい」といっても「うるせー」と言って、いっこうにやめようとしません。黒板に「死ね」「バカ」と大きく書いてあることもありました。

 このように授業がまともにできず、いじめや暴力などで指導困難に陥っている崩壊した学級ですが、1年間でなんとかしなければならないのです。
 まったく自信はありませんでした。誰も持ち手がなかったので、仕方なく担任せざるをえなかったのです。
 ところが幸いに、子どもたちは、数カ月の取り組みで、ぐんぐん変わっていったのです。それは、専科の先生方との一致した取り組みや、保護者のみなさんの全面的な協力があったからです。
 私が「文化としての教育」の重要さを体験したのは、そのときでした。いじめや暴力をなくしていく取り組みとともに、毎日の授業の中で「文化としての学び」がなかったら、あのようには変わっていかなかったのではないかと思います。
(2)静かに穏やかに話す
 夜、苦労して作成した学級通信を、私の目の前で、一瞬にしてビリビリ破られる場面を見ることは、耐えがたいことでした。

 体育のときは、ほんとうに大変でした。体育着を持っていても、上だけ着替えて、ズボンを取り替えない子がいるのです。その子たちが着替えて、並ぶまでに10分もかかるような状態でした。子どもたちの様子を見ていると、イライラするが、やさしく冷静に対応していきました。
「授業中、人が話しているときに、おしゃべりをしたり、音をたてたりするのは、いけないんじゃない? 相手の話を聞いてあげるということは、その人を大事にするということだよ。人をお互いに大事にし合おうね!」

「机にわざと傷をつけるのはよくないよ。これは、工場で働くおじさんたちが作ってくださったんだよ。ほら、机の角を見て、全部まるみを帯びているでしょ。ここには、けがをしないようにという、働く人たちのやさしさがこめられているんだ。ものを大事にしようね」

「今日のこの学級通信は、先生が昨夜、眠いのをがまんして作ったものなんです。それをビリビリ破られるというのは、とても悲しいです」

 新学期が始まってから1週間は、できるだけ穏やかに話していました。なぜなら、指導には、強弱が必要だからです。
 静かに語ることが続くことによって、必要なときの強調(強い指導)が意味を持つからです。いつもどなったりしていては、必要なときの指導が、子どもたちの心にしみ込んでいきにくいからです。
(3)見て見ぬふりの生活
 学級の中では友だちを蹴る、殴るといったことが、日常的に行われていました。子どもたちは心の中では、ひどいなあと思いながらも、表面では強い子に同調せざるを得ないほど、荒れの状況が進んでいました。

 仲間はずれにされたり、これ以上痛い目にあわないように、自分のほんとうの気持ちを圧し殺して、びくびくしながら生活しているのが、男の子たちの正直な実態でした。ボス的な子どもたちに対して、批判するなどということは、まったくできませんでした。
 見て見ぬふりをしながら、生活していく以外に方法が見い出せなかったのだと思います。正義など、通るようなクラスではなくなっていたのです。問題を話し合うことさえ、不可能な状態だったのです。
 毎日なにかが起こり、一日が終わると、心身の疲労がとっとでてくる感じでした。
 これで、ほんとうに1年間、担任としてやっていけるのだろうか。そんな思いと不安がつのる毎日でした。なんとか授業ができる状態にしなくてはいけないと強く思うものの、具体的にどうすればよいのか、展望がなかなかつかめないのです。
(4)教室中に響きわたる叱責の声
 私は、本格的な指導をする具体的な場面を持ちました。指導には、具体的な場面が必要だからです。
 新学期が始まって1週間ほどした4月13日のことです。給食当番の子が、給食をくばっている最中でした。まだ「いただきます」もしていないのに、ボス的な存在だった子が、急に食べ始めたのです。
 私も「これは許せない」という思いから、教室中に響きわたるような、かなり厳しい口調で「ちょっと、待てー。一体こういうことが許されていいのか」と言って、語り始めました。
 子どもたちも、私の声と真剣な表情に驚いたようでした。それまでは、勝手にしゃべっていたり、手いじりたり、後ろを向いたりしている子たちもいましたが、さすがに全員の子が、微動だにしないで、黙って真剣な表情で聞いていました。もちろん、ふてくされた態度も全くみられませんでした。
「いただきますもしないうちに、勝手に食べ始める。何もしていないのに、いじめたり、蹴ったりする。『死ね、バカ』などと、人を傷つける言葉を平気でいう。大事なものをどんどん破壊する。授業中でも立ち歩く」
「これでどうして学級といえるだろうか。人間は、単なる群れではないぞ。集団だぞ。一定の規律があるだろう」
「そこが、他の動物とちがうところだ。しかし、このメチャクチャな状態は、群れとあまり変わらないじゃないか」
「まわりの人だって、全く責任がないわけじゃないぞ。いじめられている人がいても、注意する人がいない」
「それだけでなく、こわいからといって、ほんとうは嫌なんだけど、ペコペコしながら『強いもの』についていく。それでほんとうの友だちと言えるだろうか」
「今日の、今の、この瞬間から、先生は、一切の『暴力』『いじめ』『人を傷つける悪口』『自分自身をダメにする自分勝手』を絶対に許さない」
「このようなことが完全になくなり、誰もが安心して楽しく生活・学習できる学級にするため、あらゆる努力をする。・・・・・」
 私の語りが、いくらか子どもたちの子どもの中に浸透した様子でした。

(5)実践には度胸が必要-うまくいかなかった経験は必ず生きる
 私はこれまで、何度か荒れた子どもたちを担任する機会がありましたが、その中で得たことの一つは、度胸がついたということです。実践においては重要な意味をもつものです。
 私の場合も、荒れた学級を担当した経験がなければ、おそらく途中でどうにもならなくなってしまったのではないかと思っています。
 子どもに同じことを言ったとしても、教師の眼差しや顔の表情などの微妙な違いによって彼らの受け取り方はかなり違ってくるものです。
 度胸は実践が困難なときであっても、なんとかなるさという思いにさせてくれます。余裕を生むのです。焦りを緩和し、必要以上のストレスを防いでもくれます。
 冷静に判断することが可能になり、管理主義的な対応を避けることができるのです。このような姿勢は子どもとの信頼関係をつくっていくうえで不可欠です。
 学級が荒れた場合は「なんとかなるさ」という思いになれるかどうかは、かなり重要なことです。荒れをくぐり抜けることで、度胸はつくられていきます。
 一回や二回「荒れ」て、どうしようもなくなったとしても、長い教師生活から見れば、決して無駄なことではないのです。必ず生きて働くものです。
 人間の心理は複雑です。教育という仕事が毎回毎回うまくいくなどと考えること自体が、そもそも無理なことです。できないからと言って、落胆ばかりする必要はないように思います。
(今泉 博:1949年生まれ、東京都公立小学校教師を経て北海道教育大副学長(釧路校担当)、「学びをつくる会」などの活動を通して創造的な授業の研究・実践を広く行う)


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