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2018年8月に作成された記事

授業中に落ち着かず立ち歩く、友だちと頻繁にトラブルを起こすなどいくら指導しても好転しないとき、どうすればよいか

 授業中に落ち着かず立ち歩く、友だちと頻繁にトラブルを起こす、こだわりが強く集団行動ができない。いくら指導しても、状況が一向に好転しない子どもがいます。
 通常の指導では対応が難しい場合は、発達障害も視野に入れた対応が必要です。
 発達障害が疑われる子どもに対しては、他の子と同じやり方で指導しても、効果が少ないばかりか、かえって事態が悪化するおそれがあります。
 自分がその子のことを一番わかっているからと、担任が一人で抱かえ込み、いつまでも同じ方法で指導を続けても、何の効果も得られないことになります。
 保護者や他の教師の協力を得ることで、効果的な対応が進められることに。
 前担任からの引継ぎや、学校の特別支援体制などを参考に、発達障害が疑われたら、学年主任や特別支援の教師に相談しましょう。
 できる限り大勢の目で、その子の様子を見て、対応策を検討することが大切です。
 特別支援教育の専門知識を学んで、その子に直接話かけて指示を出したり、スケジュール表をその子に渡して、先の行動が見通せるようにしたり、授業を10分単位のユニットで組み立てたり、その子に応じた指導の工夫に努めましょう。
 そのためにも、特別支援の教師との連携を密にしながら、適宜、必要な指導を行うことが大切です。
 サポーターを付けたり、個別指導をしたりする必要が出てきた場合、保護者の理解や、他の教師の協力が必要になります。
 家庭訪問や連絡帳などで、保護者との連絡を密にしておくとともに、機会あるごとに、その子の様子や指導方法について、他の教師と話し合うようにしておきましょう。
 日頃の保護者や他の教師との関係づくりや連携が、いざというときのスムーズかつ的確な対応につながります。
(
中嶋郁雄:1965年鳥取県生まれ、奈良県公立小学校教頭。子どもを伸ばすためには、叱り方が大切と「叱り方研究会」を立ち上げる。教育関係者主宰の講演会や専門誌での発表が主な活動だったが、最近では、一般向けのセミナーでの講演や、新聞や経済誌にも意見を求められるようになる
)

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「ペア学習」で、子どもたちのコミュニケーション力の土台をつくる

 子どもたちの希薄な人間関係をそのままにしておいて、よい学級集団をつくることはできません。
 子どもが適切な友だちとの関わり方を知らないのであれば、きちんと教師が教えるべきです。
 そのために、私はまずは一対一のペア学習から始めるのがよいのではないかと考えます。
ペア学習は
(1)
進んで友だちとかかわり合おうという気持ちを育てる
(2)
話し合いをするための土台となるような、よりよい話し方、聞き方を身につける
といった「ねらい」をもって繰り返し行うことで、子ども同士の関わり方が変わってきます。
 ペア学習をするときには、最初に「お願いします」、最後に「ありがとうございました」を必ず伝えるようにします。一緒に頑張ってくれる友だちへの礼儀です。
 ペア学習の途中に中断し、私は次のようなことを伝えました。
「きちんと友だちと向かい合っているペア、『うん、うん』『なるほど』『へー』などのあいづちをうっているペアは、盛り上がっていますね」
「向かい合う」「あいづちをうつ」と黒板に書き、再開しました。
 ペア学習の最初の段階では、内容面よりも、よりよい人間関係をつくるための、かかわり方を大切にしていった方がよいと感じます。
 ペア学習を続けることで、特定の友だちとしか話をしなかった子どもがいろんな子と楽しそうに話をするようになってきました。
 授業中、多くの子どもが発表者に体を向けて聞くようになってきました。
 斎藤孝さんは
「コミュニケーション力とは、意味を的確につかみ、感情を理解し合う力のことである」と言っています。
 意味を伝え合うためには、きちんと話を聞いたり、感情を伝え合うためには、非言語でのコミュニケーションも大切になってきます。
 このようなことは、放っておいてできるようになるというものではありません。はじめの段階では、ペア学習できちんと教師が指導していくとよいと思います。
 ペアという最小単位のコミュニケーションだからこそ、できたか、できていないかがわかりやすいはずです。
 最初のうちは、非言語を重視します。つぎのことをルール化して全員が行うようにします。
「お互いに向き合う、うなずく、あいづちをうつ、笑顔で話し聞く、身振り手振りをつけて話す」
 次第に子どもたちが慣れてきたら、
「友だちの発言に、ひとこと、感想を返す」
「質問をする」
「発言をつなげる」
などを徐々に教師が教え、子どもたちにさせてみましょう。
(
田中聖吾:福岡県北九州市立小学校教師)

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授業中に勝手にしゃべってはいけない理由とは何か、どうすれば私語を慎むようになるか

 場をわきまえた、ふるまいは社会生活の第一歩です。子どもたちが自然に習得できるものではありません。
「静かにしなさい」と何度繰り返しても、子どもにはその必要性や理由がわかりませんから、すぐに元に戻ってしまいます。
 では、なぜ授業中に勝手にしゃべってはいけないのでしょうか。
 それは教室が、学ぶという目的を持った人が集まる「公的な場所」だからです。
 私は子どもたちに「授業中の教室」が、自宅や休み時間とは異なる場であることを伝え「別な場所なのだから、別の人になりなさい」と指導してきました。
 子どもたちは「公的な場」という概念がありません。そこで、劇を演じるように、その場面を改めて考えさせ、そこでの登場人物のふるまいを意識させるのです。
 遊び半分でもかまいません。肝心なのは、子どもたちが、これまでの自分の生活空間以外の場所があることを発見し、その場所に応じたふるまいがあることを知り、これを実践することで、新しい自分の姿を育てていくことです。
 このように意識づけをしてやることで、やんちゃくんも私語を慎むようになります。
 おとなしい子どもも、大きな声で発言する、といった具合に、子どもたち自身は楽しみながら、自分から意識的に、自分自身の言動をコントロールしようと努力するようになります。
 公的な場所でのふるまいを身につけ、公私を分けられるようになるのです。
 最初は少し難しいかもしれません。しかし、これは子どもたちの社会性を広げていく「価値ある無理」なのですから、根気よく続けて身につけていくようにします。
(
野口芳宏:1936年生まれ、元千葉県公立小学校長・北海道教育大学教授。植草学園大学名誉教授、千葉県教育委員会委員長職務代理者、日本教育技術学会理事・名誉会長、授業道場野口塾等主宰
)

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私の学級づくりの核になるのは「読み聞かせ」による学級づくりである

 私の学級づくりの核は「読み聞かせ」である。名づけて「読み聞かせる学級づくり」である。その主な内容は、三つからなる。
(1)
絵本の読み聞かせ
(2)
物語の読み聞かせ
(3)
学級通信の読み聞かせ
1 絵本の読み聞かせ
 私が中学校の教室に「読み聞かせ」の手法を持ちこむきっかけになったのは、初任者の時の経験である。
 初めて授業を持った中学校三年生の教室は、授業にならなかった。
 立ち歩き、授業妨害、トランプをする生徒。私になどお構いなく「談笑」しつづける生徒。激しく反抗し、時には机を投げつける。
 担任の教師が、何度も家庭訪問をしてくださるが、状況は好転しない。くやしさとみじめさに身の置き場もない。
 私が最後に教室に持ち込んだもの、それが「絵本」だった。半ばやけくそであった、と思う。
 私がこの時、教室に持ち込んだ絵本、それはC.V.オールズバーグ(村上春樹訳)「急行「北極号」」(河出書房新社)である。ゆっくり読むと15分以上かかる作品だ。
 教室の前の席に座り、絵本のカヴァーをはずし、おもむろに読み始める。生徒はいつものように立ち歩きしているが、もうお構いなし。ひたすらただ読む。
 するとナント、立ち歩きの男子たちがいつのまにか、読んでいるぼくの前に座って聞いているではないか。最初の5分で、騒然とした学級が静かになった。
 ふだんは大騒ぎをする男子生徒が、かぶりつきで読み聞かせを受けた。読み終わると拍手が…。
「石川、こういうんならまたやってもいいぞ」とかぶりつきの生徒が言った。その場面まで、今でもはっきりと覚えている。「急行「北極号」」の物語のストーリーとは、
 主人公の少年は、急行「北極号」に乗り、北極点へと向かう。北極点でプレゼントをサンタクロースからもらった少年は、喜びいさんで再び機関車に乗りこむが、もらった鈴を落としてしまう。
 その鈴は首尾よく戻ってくるが、鈴の音を父も母も聞くことが出来ない。最初は聞こえていた妹でも、大人になるにつれて聞こえなくなる。
 しかし、主人公の少年の耳には、今も聞こえる。少年は言う。「本当に信じていれば、ちゃんと聞こえるのだ」と。
 教師には、学級づくり授業づくりの中で折々に伝えたいメッセージがある。でもそれが生徒の中になかなか通っていかないという現実がある。
 しかし、絵本や物語をはさみこめば、柔らかく教師からのメッセージを伝えることができる。しかも、生徒も教師も気持がいい。本当に読み聞かせはすぐれた手法なのだ。
2 物語の読み聞かせ
 以来、私は担任として、国語教師として、たくさんの絵本を教室に持ちこんできた。市内の大規模校に異動してからは、加えて、「物語」の読み聞かせも行った。
「物語」の読み聞かせをしようと考えたきっかけは、大西忠治氏の文章との出会いである。
 大西氏が、読み聞かせの効用を説いておられる一文がある。本誌1989年5月号。「読み聞かせ-読み聞かせの継続が教師を鍛える-」というその文章に大変引きつけられた。
 大西氏は、『ジャンバルジャン』(岩波少年文庫版)を毎年のように読み聞かせしてきたという。大西氏は言う。
「方法そのものは単純である。私は給食の時間(学級担任をしている時)、あるいは授業の終りの五分間を、『ジャンバルジャン』を読みつづけた」
というだけである。
 私の「物語」の読み聞かせも、この『ジャンバルジャン』から始まったが、どうもおもしろくない。楽しくない。『ジャンバルジャン』に責任があるわけではない。私自身の内発的な動機を欠いたものを読んでしまった…。読み手が共感を持って読めない作品は、聞き手の心に届かない。基本をはずしていた。
 今まで読んだ物語の中で、圧倒的な支持を得たのは、森絵都『宇宙のみなしご』(講談社)である。出会った時、『あ、これだ』と思った。読みながら、夜ごと屋根に登る少年たちの姿が目に浮かんでくる。
 毎日五分間ずつ国語の授業の最後に読み聞かせた。生徒には大好評。先が待ちきれなくて、買いに行った生徒も数名。
3 学級通信の読み聞かせ
 ところで、私は学級通信も必ず読み聞かせる。授業記録を載せた通信や、親向けのメッセージを含んだものでも構わず読む。
 実は、学級通信を読むという教師は少数派らしい。誰もが読んでいると思いこんでいた私は、その事実に、少なからずショックを受けた。
 私は毎日学級通信を書く。年間200号前後になる。生徒へのメッセージ・願い、学級についての基本的な考え方が書かれていく。
 今日も帰りの会で、学級通信を読む。日によっては、学級通信の「読み聞かせ」で始まる。
学級通信は、読むに限る。その理由は、次の2点だ。
(1)
内容が生徒に正確に伝わる。
(2)
通信に込められた教師の思い・願いも伝わる。
 内容がきちんと伝わるというその一点だけでも、読み聞かせることの意義は明らかだ。しかも、良さはそれだけではない。
 学級通信を「読み聞かせる」ことにしてから、通信の文体自体が、担任の身体感覚に近くなっていくのを実感する。担任の思い・メッセージが伝わりやすい文体に変わっていくから、どんどん伝わるのだ。学級通信は是非、自分の言葉で読み聞かせたい。
4 読み聞かせ合う学級づくりへ
「読み聞かせ」は、伝えたい内容が伝えたい相手に届くまでに、「緩衝物」が入る。緩衝物は、絵本であったりプリントであったり様々だが、いずれにしても、メッセージが直接でなく伝わるところに、強圧的な指導に従わない生徒の心に届く理由があるようだ。
 生徒の誕生日には、仲の良い友達からの手紙を学級通信に載せることにした。本人から朝の会で直接読んでもらう。読む方も聞く方も照れくさい。だが、本人の肉声によって初めて伝わるものがある。ことばが輝いている。
「絵本」の読み聞かせも、生徒同士でさせたい。「読み聞かせ合う」ことで、「聞き手」への関心が広がる。聞き手への関心の広がりが関わり合いの心を育てていく。
「読み聞かせ」は人生を豊かにし、人と人とをつなぐアイテムにもなるのだ。好きな絵本を読んで聞かせることの素晴らしさを体験した生徒は、大人になった時、きっと絵本を自分の子供達にも読んであげたいと願うはずだ。
(
石川 晋:1967年北海道生まれ、北海道公立中学校教師。NPO法人授業づくりネットワーク理事長。教科指導と学級経営の連動を意識した読み聞かせ活動を展開中。また、教師の学びの場づくりを精力的に展開中である)

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一部のグループの非協力な雰囲気が学級全体に広がり、学級の士気に影響を与えている、どうすればよいのでしょうか

 中学校の保健体育の教師です。女子の扱い方が難しくなってきたように思います。
 あるクラスの女子たちは、私の指示に反応が鈍く、動作がゆっくりしていて、係の仕事もすぐに手を抜きます。
 指示がないとすぐに座り込んでおしゃべりをします。注意すると、おしゃべりは続けながら指示したことはやります。無言の反抗をされているようです。
 よく見ると、一部のグループに非協力的な態度があって、それが全体的なムードになっているようでした。
 担任が個人面談でそれとなく不満の有無を聞いたところ、自覚がなく、楽しくやっているとのことでした。その子たちは体育の能力は高く、私としては授業をリードしてほしい子どもたちなのです。
 どのように対処したらよいでしょうか。
 一部のグループがもつ非協力的な雰囲気が学級全体のムードになってしまっている点が問題なのだろうと思います。
 日本人の傾向として、自分の所属している集団の規範に合わせようとします。
 グループ内で通用する規範を大切にしますから、外の規範と外れても、身内が理解してくれればそれでかまわないということになります。
 グループの子どもたちが学級全体の雰囲気に影響を与えていることを自覚できない場合があり、学級がまとまらない状況を物語っているように思うのです。
 具体的には、まず、このグループを問題の源と考えないようにします。
 このグループを問題の原因であるかのように考えると、知らず知らずのうちに、かかわり方に「あなたたちが問題である」というメッセージが含まれます。
 すると、それに対抗するために、このグループ内の結びつきがより強まってしまうでしょう。結局、このグループには変化は生じません。
 学級全体の雰囲気に影響を与えるほどの影響力があるグループです。ほかの子どもたちにとって、魅力的な面があると考えられます。
 グループを人格のある人間のようにあたたかい目で見ることが大切です。何が魅力的なのかを探ります。
 グループとして得意なことは何か、意欲的に取り組むことは何か、という目でみるとよいと思います。
 そして、グループ内で互いが協力し合っている点に注目します。
 体育の仕事の分担や授業の展開には協力的ではないが、グループ内では助け合っていることに注目します。「仲がよいから協力できるんだよね」と伝えます。
 私語などを注意するのは当然でしょうが「きみたち仲がよいから話したいんだよね。でも・・・・・・」と、枕をふってから注意します。
 体育の能力が高いから、示範演技などで個別に認められる場を作ることもできるでしょう。
 要は、彼女たちの帰属意識のある集団の範囲を広げるために、彼女たちのグループの文化の内側に入り込んでいく方法が効果的であるように思います。
(
小林正幸:1957年群馬県生まれ、東京都港区教育センター教育相談員、東京都立教育研究所相談部研究主事等を経て東京学芸大学教授。不登校を始め学校不適応、ソーシャルスキル教育、教育相談、教育技術を研究)

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子どもが変われば、それに合わせて自分を変えなければ時代にとり残される、成長を止めないのが本当の教師である

 今では、塾にきても全く勉強しない子もいるそうだ。まして、学校は、どんな子どもがいても何の不思議もない。
 何でもきちんとできる「しつけ」がなされている子は、とんでもないことをしない。
 例えば「あいさつ」が笑顔できちんとできる子どもは、授業中あばれたりすることはめったにない。
 基本は「しつけができていない」ことである。これがすべての根源のようである。
 私が飛び込み授業をするときは、いきなり教室に入って、あいさつをする。この「あいさつ」でほぼそのクラスの実力がわかる。
 明るく、にこやかにあいさつのできるクラスは、学習にゆとりがある。もちろん緊張なんかしていない。
 私は、小学校一年の担任が最も重要だと、以前から主張している。一年生の時、きちんとした「しつけ」をしないと、それ以後の担任は大変である。
 初めての学校に伺ったとき、よく昼の清掃を見て回る。教師が子どもと一緒になって、一生懸命やっている学校は、授業もいい。
 子どもまかせにして、教師の姿が全く見えない学校では、授業は絶望的ということが多い。子どもがまともに掃除をしていないのに、注意する教師がいないのだから、遊ぶのは当然である。
 子どもの態度のみだれている学校は、子どもや教師の服装もみだれている。
 一つできないと、それに連動してすべてのことがみだれるものだ。このことに気づき、例えば「あいさつをきちんとするように」とか「清掃をきちんとさせる」など指導のポイントを決めて、きちんと行うことだ。
 これは生活の基礎的技能の不足している子どもの指導といえる。
 私は授業を参観するとき、発言を二つ三つ聞く。そして、子どものノートを5,6人さっと見る。板書や教師の表情は、もちろん見える。
 これで、そのクラスの実力が大体わかる。
 基礎的技能が不足している子どもがたくさんいるということは、
(1)
このことに教師が気づいていない
 教師に力のないことすら見えていない。最も問題だろう。結構いる。指摘すると驚いて、いいわけをする。
(2)
気づいてはいるが、どのように授業したらよいかわからない
 しっかり指導してもらいたい。そうすれば必ず力はつく。
(3)
気づいているが、教師にやる気がない
といったことが考えられる。
 基礎的技能の不足している子どもが多いということは「授業をする教師に、基礎的技能が不足している」ということである。
 地図が読めない子がたくさんいるということは、その教師は地図が読めないので指導できないのである。
 イラストの読み取り技能のない教師に読み取り指導はできない。
 理科などは、教師の技能不足がものすごくはっきりと見える。教師がビーカーや試験管の基礎的な使い方を知らなければ、当然指導はできない。
 教師の力量によって、子どもの基礎的技能が全く違ったものになることは間違いのないことである。
 子どもが大きく変化してきている。塾に行っても遊んでばかりいる子どもが出てくるくらいである。
 とても一筋縄ではいかない子が増えている。
 これに対応した指導技術を身につけなければ、これから教師として指導することはできなくなる。
 指導力不足のため、教師をやめなければならない人が増えてきている。これは、勉強不足か、自信過剰である。
 子どもに基礎的な技能をつけるためには、教師が基礎的技能を体得しなければならない、ということが結論である。これは、子どもをどう指導するか以前の問題である。
 私が「自分を変えなければ」と最初に思ったのは、教師になって初めて卒業生を送り出すときであった。子どもから「先生は暗い。もっと明るく面白い先生になってほしい」と言われた。
 私は、シッョクを受けるとともに「絶対に明るく面白い教師になろう」と思った。
 それから、ネアカ修業を始めた。
 明るく面白い先輩教師を見習い、ユーモアや笑いの本を読みあさった。落語や漫才を聞くことを楽しむようになった。
 ユーモアの最大の先生は子どもであることに気づくまでには、時間がかかった。子どもはもともとネアカで面白いことが大好きである。子どもに学べるかどうかが、成長できるかどうかのポイントである。
 附属小学校に転勤したとき、一年間で11回、研究授業を行った。研究授業を行うたびに、かんぷなきまでたたきのめされ、自分を変えるしかなかった。30歳まで何をしていたのだろうと思った。
 大したものをもっていないのに、自分ではかなりのものを体得したと思っていたのだ。今までのものは捨てさり、新しい自分と自分らしい社会科を創りださねば、これから先、生きていけないと考えた。
 私は「子どもが追及する社会科」をつくり出そうとした。
 子どもたちが追及の鬼になるには、面白い教材が必要であることに気づき「教材開発」に力を入れるようになり、「一寸法師」「バスの運転手」など800くらいネタ開発を行った。
 やればやるほど面白いネタが見つかり、ネタが見つかれば授業をやってみたくなる。
 他人に批判してもらうことが、成長のカテになることに気づき、思いきり批判してもらった。
 私に多少の資質・能力があるとしたら、それは「努力と挑戦」ができることだろうと思う。
 全く変わらない教師もいる。こういう人は「今の自分でいい。今の実力で十分だ」と考えているのだろう。
 子どもが変われば、それに合わせて自分を変えなければ、時代にとり残されることになる。「成長という時計」を止めないのが本当の教師である。
(
有田和正:19352014年、福岡教育大学附属小倉小学校、筑波大学付属小学校,愛知教育大学教授、東北福祉大学教授、同特任教授を歴任した。教材づくりを中心とした授業づくりを研究し、数百の教材を開発、授業の名人といわれた
)

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私の教師生活は 子どもの光り輝くところに目を向け、そこを出発点にしてやってきた

 私たち教師は、子どもをどう見ていくべきかを考えてみたい。
 今、以前よりも子どもの実像がなかなか見えにくくなっている。
 私の学校でも、荒れ、授業が成り立たないといった状態に近い問題が出てきた。
 職員会議で「現在の子どもたちの様子を語り合おう」というテーマで何回か考え合ってきた。その中で、今の子どもについての見方や問題点がいくつかでてきた。
(1)
管理的に指示すれば言うことを聞くけれども、柔らかな指示は通りにくい。
(2)
子どもとの会話で人間同士の温かさを感じるといった心地よい喜びを、なかなかあじわえなくなってきている。
(3)
人間としての大切なルールが育ちきっていない。
(4)
何か言うと「うっとうしい」「むかつく」「死ね」という言葉が飛び交うようになっている。
(5)
すぐにプッツリ切れてしまう。切れてしまったら抑えがきかなくなってコントロールできなくなる。
(6)
授業に集中できない子、私語、立ち歩きなどが増えている。
(7)
まじめにしていることがだめだという風潮を感じる。
(8)
みんなの雰囲気にのっていかないと自分が取り残されていくような不安を感じている。
 今、子どもの問題点のとらえ方がずいぶん変わってきている。以前(1980年頃)の子どもの問題点を、私のメモから拾い出してみると、
(1)
忘れ物が多い
(2)
行動が鈍い
(3)
根気がない
(4)
ものを大切にしない
(5)
集中力にかける
(6)
思いやりがない
(7)
考えようとしない
 などと書いてある。今の子どもの問題点とはずいぶん変わってきているように思う。
 共通しているのは、子どもを語るときに「子どもによい面があるのではないか」という視点がなかなか出にくいということだ。
 そこを教師はしっかりと考える必要がある。
 子どもはこんなこともできない、あんなこともできない、こんなに大変なんだ、ということだけでは教育は前に進まない。
 子どものよい面にしっかりと目を向けていかないと教師自身がしんどくなっていく。
 宗像誠也氏は「子どもの虚像にふりまわされていてはだめだ。そのもっと奥に子どもの実像がある。そこに教師は目をむけなければならない」と。
 私は、今もこの考えが頭から離れない。
 子どもの実像を今、見極めていかなければならないと思う。それはなかなか見えにくいものであるけれども、ちょっとしたきらめきに目を向けるべきだ。
 私は、基本的には、子どもはすばらしいものを持っているものだと信じている。
 今起こっている、さまざまな問題点は偽りの像であると思う。
 子どもはそんな存在なんだと、子どもを信じることだと思う。
 光り輝くところがたとえ小さなことであっても、私はそれをみつけるように努力してきた。
 子どもの光り輝くところに教師が目を向け、そこを出発点にしてやっていくことが大切ではないか。
 私は、そこから子どもと同じレベルで歩んでいった。それが教育の基本だと思う。
 私は、ここを基本にして教師生活を歩んできたつもりだ。
 私は、教師生活40年間、子どもを受け入れ、受けとめ、作文を書かせ、ゆっくりと一人ひとりの表現を楽しんできた。
 そして、言いたいこと、考えていること、感じていること、悩みや苦しみを聞くということだけは、やってきたのではないかと思っている。
 子どもの光り輝くところを見つけていきたいと思っている。
 映画監督の新藤兼人氏は「私の映画人生は試行錯誤の連続だった」とインタビューに答えた。私の教師生活もまた、試行錯誤の連続だったと思う。
(
青山佳嗣:1936年大阪府生まれ、元大阪府公立小学校教師。退職後も小学校に勤務し、小学校経験は通算45年間。元大阪綴方の会代表、大阪国語教育連盟委員
)

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この世に才能だけで食える飯など一粒もない、私はどのようにして小説家になったのか

 私は子どもの時分から、突出した能力が何もなかった。ただし、劣っている部分もこれといってなかった。
 今しにして思えば、これはお役人か大企業のビジネスマンの才能であったろう。この資質についぞ気付かなかった私は愚かであった。
 趣味といえば読書で、これだけは並みはずれていた。
 だが当時は、勉強もせず野原で遊びもせずに本を読む子どもなど、けっしてほめたものではなかった。
「一日一冊」の習慣は、実にこのころから今日まで続いているのである。
 学校の図書室の蔵書を読みつくすと貸本屋に通い、小遣いのあらかたは本代に消えた。
 面白い小説は声に出して読んだ。それだけでは飽き足らず、原稿用紙に書き写した。さらには「こうしたほうがもっと面白い」と原作をかいざんするようになった。
 かくして、ついに小説を書き始めたのである。
 ちなみに、三つ子の魂百までとはよくぞ言ったもので、今も読書をしている最中にいい文章に出会うと、思わず声に出して読む。何枚かを書写することもしばしばである。
 私はおよそ小説家らしからぬ時間割を持っている。
 夏には午前五時に目覚める。しかるのちコーヒーをいれて書斎にこもり、仕事を始める。朝食と昼食のために執筆を中断するのはせいぜい十分間で、いわゆる昼休みというのはない。
 午後二時ないし三時には、どれほど興が乗っていても筆をおく。過ぎたる情熱はともすると文章を乱すからである。常に一定の熱量を維持していなければ良い文章は書けず、面白い物語を思いつくこともできない。
 それから夕刻までの四時間は読書にいそしむ。かくして午後十時には床に就く。
 この世に才能だけで食える飯など、一粒もあるまいと思う。
 たしかに天賦の才というものは存在し、しかも神様はあんがい公平に、何かしらの才能をそれぞれに与えている。
 己には才能がないと嘆く者は、才能に気付かざるか、あるいは磨かざるかのいずれかであろう。
 才能とは、さほどに厄介な代物なのである。まず自分自身でも発見しづらい。発見すればしたで、磨かざれば珠にならぬ。その努力がまた、なまなかではない。
 歴史的に考えればごくたまに、珠玉の才能を持って生れついた人間がいないわけではないが、いわゆる天才と称すべき彼らは、必ずと言っていいほどその天才の代償として早死にしてしまう。こうした気の毒な公平さも、神が定めたことであろう。
 初めて原稿が売れたのは35歳、単行本を上程したのは39歳のおわりであった。
 幸か不幸か、私は五十を過ぎてこうした原稿を書いており、天才ではない。
 だとすると生きとし生ける者のすべては、すみやかに才能を発見し、それを磨かなければならない。
 この世に才能だけで食える飯など一粒もない、とはそういう意味である。
 才能とは一種の資格証明であろうか。「これで飯を食ってもよい」と、神様がお墨付きを持たせてくれたのだが、ごく稀なる天才のゴールドカード以外は、全能のパスポート以外は、全能のパスポートではない。
 相当な努力を払わなければ、紙切れ同然という程度の資格である。
 では努力とはいかなるものかというと、個人的には一文の金にもならぬ読み書きの、不断の継続であった。
 実は何も好き好んで、いまだに修行僧のような生活をしているわけではない。
 そうした努力の継続をしなければ神様から貰った資格を行使することができず、このさきも資格の維持が困難だと思うからである。
(
浅田次郎:1951年生まれ、小説家。本名、岩戸 康次郎、日本ペンクラブ元会長。 陸上自衛隊に入隊、除隊後はアパレル業界など様々な職につきながら投稿生活を続け、1991年、『とられてたまるか!』でデビュー。悪漢小説作品を経て、『地下鉄に乗って』で吉川英治文学新人賞、『鉄道員』で直木賞を受賞。時代小説の他に『蒼穹の昴』、『中原の虹』などの清朝末期の歴史小説も含め、映画化、テレビ化された作品も多い)

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小学校高学年の保護者の思いに応えるには、どのようにすればよいか

 小学校高学年の保護者対応を考える時には、高学年の子どもの状況と家庭で起こり得る問題を考えなくてはならないでしょう。どのように対応すればよいのでしょうか。
1 思春期の対応の仕方を保護者に話しましょう
 思春期の子どもたちは親になんでも話さないものです。
 保護者は、子どもたちのことが分からなくなっていきます。
 学校での話は、正確に親に伝わりません。たずねようとしても、反発して反抗する子どもたちも多いものです。
「子どもが反抗して困ります」
「話しかけても、何も返事しません」
「親が言っても、聞く耳を持たないみたいです」
 保護者の中には、こうした子どもたちの実態に戸惑い、悩んでいる人も多いのです。
 教師が保護者に思春期について次のように話をするとよい。保護者は専門家としての教師の言葉を待っているのです。
「思春期になると、自覚していないのに、体は変化していくので、体がざわめくような感じになります」
「したがって、落ち着かないし、自分であって自分でないような感覚も出てきます」
「自分でも、どうしようもない状態になります。大人が理解してあげましょう。少し、距離をおいて見てあげることも大切です」
と、これからのポイントとなることを話します。
 さらに、こういう時期だからこそ、学校と連携していかないと、子どもたちの様子がつかめないということを、話します。
 学校と保護者が一緒に子どもたちのことを考えていきましょうという話は、通じることはないでしようか。
 個別の保護者に対するアドバイスとしては、ともかく、子どもを否定しないことです。
 否定からは信頼は生まれません。教師は子どもを肯定する事実を見つけ出して、保護者と話をするのです。
「確かに反抗的な態度をとる時もありますが、低学年の子どもの面倒みは、とてもいいんですよ」
「友だちが困った時に、そうっと側にいてあげているようですよ」
 子どもの今の状態について不安に思っている保護者には、そんな言葉が必ず響きます。
2 問題が深刻化する
 高学年になると、低学年の時から積み上がってきたことが、大きく表面化してくるのです。傷が深く重くなるのです。
 そういう中で、高学年の保護者の悩みも深刻化し、多くの人が悩んでいると思った方がよいと思います。
 私は、事実の記録を積み重ねて、正直に全部話すのがよいと思います。
「こういう事実があって、こんなふうに経過しています。子どものために、一緒に考えていきましょう」
と、話します。
 魔法のように解決できる教師など、いません。一緒に悩んで、知恵を出し合うしかないのです。
 ただし、いじめだと考えられる案件については、常に教師一人で対応せず学年で取り組んでいることを示すだけで、少し安心されることがあります。
3 将来への不安を取り除く
 高学年の保護者は、わが子が
「この子が将来どんな子どもになるのだろうか」とか
「こんな態度をとっていて、うちの子のことが、心配です」
と、不安を持ちがちです。
 みんなそういう時期を経て、それなりにちゃんと育っていくものだということを、実例を用いて話してあげましょう。
 結局、高学年の保護者への対応というものは、子どもの後ろに立って、子どもを見つめながら、保護者とどう話し合っていくのかだと思います。
(
多賀一郎:1955年生まれ、神戸大学附属小学校を経て私立小学校教師。退職後は追手門学院小学校講師、専門は国語教育。在職中に日本私立小学校連盟国語部全国委員長歴任。親塾・教師塾等で保護者・教師教育の手助けをし、全国で講演)

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授業中に悪のりする生徒を、どのように指導すればよいのでしょうか

 明るさとけじめということで悩んでいます。二学期になるとだじゃれや関係のない発言がとび出して授業がとどこおります。
 先輩の教師に聞いたら「先生が若いから、甘えているんだよ」と言われ、生徒からは「先生はなめられているから」と言われました。
 私はなめられる教師とは思っていないのですが、どうすればよいのでしょうか。
1 教師がけじめをつけよ
 生徒あっての教師といわれ、生徒を大切にと言われます。どうも、この言葉をはき違えている教師が多いようです。
 教師は生徒に「うける」のは必要ですが、何でうけるのかを考えたいものです。
「こび」や「軽さ」で「うける」のは、本物でうけているのとは違います。時期が来たらメッキがはがれます。
「がみがみ」「ばしばし」やっている教師が、実は生徒から「うけ」て、好かれているという例は多いものです。
(1)
宣言せよ
 もともと教室の雰囲気は、教師がつちかったものです。宣言するのは、テレくさく、気まずさも出ますが、これからの長い道のりを考えたら問題ではありません。
 生徒に宣言するのですが、自分にも宣言するのです。
「先生は授業でチャランポランして、きみたちに合わせすぎたようだ。先生はじっくりと考えて、きっちりとしまってやろうと考えた」
「発言おおいにけっこう。しかし、ひっかき回しの発言、横道にそれた発言など、そういった発言は、今後一切まかりならん」
「もし、それを破ったら、注意どころか、どなりあげる」
「先生はネアカだから、きちっとできるところもないといかんと思った」と。
(2)
知らんぷりをせよ
 生徒の声に迎合することがなかったか、猛反省してみることです。その迎合を自らいましめることです。
 のりすぎのヤジもあります。知らんぷりし、無視するには勇気がいります。今まで許してきたのですから。
 生徒の乱れにも、整然とした静かさにも、一種の慣れとして自分のものにします。
 要は「教科の本質を確実に、計画通りに定着させ、授業をすすめるのだ」という信念を持つことです。
 今まで受けていた教師が、知らんぷりをするのですから、根拠がいります。教室全体に、または、気心の知れた生徒に教師の胸中を話すと、きっと伝わっていくことでしょう。
 ある社会科の教師は「12月までに、ここまで終わっていないと来年になって困るなあ」という、つぶやきを声高にすることで、のりすぎ、脱線の生徒にけん制玉を投げました。
 私は日頃と違った物いいで話を始めました。すると、いつもはガヤガヤの生徒が静かに聞いてくれました。教師も強さだけをひけらかさないで(ツッパラないで)、弱さを見せるのも手です。
 生徒も人間の弱さ、いつくしみは本来持っているはずですから、そこを発揮させるのです。
 それからは、ときどき教室に入るときから、一種独特の雰囲気を持つことも心がけました。それが数回、そして間隔を短くしていくと、静かさに慣れます。そうすると、平静な授業になります。
(3)
世の中の厳しさを話せ
「昨日ね、先生は大学の同期の人と会ったんだが、社会は厳しいね」
「会社につくだろう。そうしたら、お茶の一杯でも飲んでがんばろう、と思うじゃないか。その会社にはお茶、コーヒーは一切おかないそうだ」
「会社では、9時に来たら、すぐに仕事だ、というわけだ。時間をムダに過ごすな、ということらしい」
「そんな中に、きみたちが入っていったらどうだろう」
「先生は、そういう社会はだめだが、教えられることが多かったので、ぜひ、きみたちにも話しておきたかったと思ったわけだ」
 こういう話は、世の中にはザラにあります。そういう話を大いにしたいものです。
 甘やかしているのも教師なら、厳しさを教えるのも教師であるはずです。
2 のりすぎを生かせ
(1)
のった子に、それ以上のことをさせよ
 のりすぎ損を体得させるのである。クラスの生徒がいる中での発言ですから、あとへは引けないはずです。言質をとるのです。
 例えば、社会科の授業で「狂歌」を扱ったとき「そんなん、だれでもできる」と言った生徒がいました。それをとらえて「じゃ、きみもつくってみろ!」と言った。
 のりすぎ損を感じさせようとしたところ、その生徒は、ほんとうにのってしまい、十数首の狂歌をつくって持ってきたといいます。
 それからは、社会科に力が入り出して、雰囲気が好転したといいます。
(2)
のった子の内容を、みんなでさせよ
 関係のない発言をした生徒に、教師ものったふりをして、その発言を取り上げて、みんなのものにしてみることも方法の一つです。
 中学生ですから、自浄作用もあるはずです。そこに期待するのです。同調者に思い知らせるのですから、その内容は、よく選んですることです。
3 のりすぎを分析せよ
 のりすぎる生徒は、それなりの原因があります。性格とだけはいいきれません。
 もし性格だったら、厳しくストップをかける指導でなおります。私もその一人でした。
 職員室に呼ばれて、私は事の重大さに気づかされました。
 しかし、家庭や友人間、生育歴、環境など、十分に原因分析もやりたいものです。
(
陣川桂三:1939年生まれ、福岡市立中学校教師、福岡教育大学附属中学校教師、福岡市教育委員会指導主事、中学校長、福岡市教育委員会部長、福岡大学教授を経て退職
)

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授業中、どうしても子どもたちをうまく「ひきつけ」られないとき、どうすればよいのでしょうか

 興味のもてない授業は、徐々に子どもたちは授業にあきてきて、気持ちが集中できなくなります。
 子どもたちが授業に集中できなくなるのは、同じことを長時間繰り返す、教師の一方的な説話が続く、抽象的な思考だけの時間、教師対子どもの一対一の問答式の授業などを展開していくからです。
 授業の中に、好奇心をそそること、子どもたちが自分で活動する学習、授業の過程に変化のあるステップなどが組み込まれていると、どの子どもも夢中で授業に取り組むようになります。
 授業中、子どもたちを「ひきつけ」るには、どうすればよいのでしょうか
 子どもが授業中、集中するには
(1)
授業の導入時に子どもたちの心情をゆさぶる
 まず、導入で「これはおもしろい!」「おかしいぞ?」「へんだ!」など、子どもに素朴な疑問や意外性、驚きを与えると、好奇心から問題解決の意欲が触発されて授業に熱中します。
 感動場面を盛り込むことも効果が大きい。
(2)
授業の展開時
 説明・思考・討論など授業のいろいろな形態を組み合わせて意欲的に活動させるようにします。
 学習形態は、一斉授業、ペア学習、グループ学習など学習内容の特質によって工夫できます。
(3)
授業の終結時
 単元の半ばであれば、技能的なものをさらに磨くドリルや、終結段階であれば、まとめの表現活動などで、子どもの満足感が味わえるよう計画します。
(4)
時間配分を工夫する
 学年に応じて、10分から15分程度ごとに山場をつくることも一つの方法である。
 同じように、教師の指導場面と、子どもが活動する場面の割り振りをしておくと、場面の変化によって新鮮な気分で活動できる。
(5)
子どもの活動場面の設定
 子どもは自ら活動する学習には意欲が高まる。見る、調べる、つくるなどの体験的な学習によって、実感できることや自主的判断の機会を得られる場合は、学習活動に熱中します。
 ただし「させっぱなし」では効果も薄れてくる。結果の評価とともに、子どもの努力をタイミングをとらえて、ほめることを忘れてはならない。
(6)
個別指導を念頭に入れながら一斉授業をする
 基礎・基本にかかわることは一斉指導し、そのうえで、子どもを生かす場面を工夫して、個別に学ばせる、ペア学習・グループ学習・教え合い学習・個別学習などのような授業形態を工夫してみる。
(7)
一人ひとりの子どもに、自分の考えに自信を持たせ、発表できる環境づくりをする
 教師の発問に一人の子どもが回答するという一対一の展開では、他の子は授業に参加しない状態におかれる。
 子どもが気軽に発表できる環境をつくるようにする。能力に応じてイエスかノーかを表明しただけでも、発表と認めてもかまわない。
 まちがった答えを笑ったり、常に正しいことが優先されると、子どもたちの発言や発表は活発にならない。
 簡単な思いつきのようなものも率直に言える学級にしておくと生き生きしてくる。
 発表しない子どもの原因に応じて、教師が発問の工夫をして、その子なりの発表できる場面を設定してあげる。
 子どもの心をつかむ方法
(1)
教科書の教材とともに、社会・理科・生活科など教科によって自分たちで集めた資料を使わせると関心も高く理解も深まる。
(2)
嫌いな教科は「分からない」「できない」ことが原因である。
 嫌いにさせる指導をしていないか、まず教師が反省する。そのうえで、嫌いと言う子の原因を探り出し、個人指導を徹底する。
(3)
ユーモアがある授業は関心が高まる。
(4)
経験の浅い若い教師でも、子どもとの触れ合いを密にしていると、子どもが教師の一挙一動に関心をもってくれる。
 子どもの関心を増す
(1)
新しいこと、実物に触れると関心が増大する
(2)
小さな進歩も認め、タイミングよくほめる
(3)
体験を通した活動は意欲が高まり、理解も早い
(4)
得意なことをさせてもらうと、やる気が増す
 子どもの関心が減る
(1)
話がくどく、説明の要点がはっきりしない
(2)
授業がまじめすぎて、冗談を言ったりしない
(3)
声が小さく、話が聞きとりにくい
(4)
黒板の文字がきたない
(5)
子どもたちの意見や質問をよく聞いてくれない
(6)
えこひきをする
(
関口 寛:1931年生まれ、宮城県教育研修センター指導主事を経て元仙台市立小学校長)

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中学3年の三者面談で子どもと親の希望が異なるとき、担任がうまくまとめるコツとは

 中学3年の担任でいつも悩まされるのは進路指導のことです。
 受験する高校を決める三者面談で、保護者と子どもの希望が一致しないこともよくあります。
 最終的には、子どもの意思を尊重するという保護者がほとんどですが、なかには親子の意見が一致せず、子どもが「いやだ」と、投げやりになることもあります。
 親子の意見が一致せず、不安でいっぱいになった子どもは、学習意欲を失い成績が下がり、いらいらして学級を乱す行動をとるようになります。
 受験手続はタイムリミットがあります。いつまでも親子でごたごたさせたままにしておくわけにもいきません。
 同僚教師からは「必要な情報を渡したら、後は家庭の問題。巻き込まれるな」と言われたりします。
 混乱する子どもと、その後ろにいる保護者に担任はどうかかわっていったらよいのでしょうか。
 一方的に押しつける親を問題として感じ、親を変化させたいなら、親の態度を問題にしないことが大切です。
 子どもの味方になりたいときほど、三者面談では意識的に保護者を支えるように動くほうがよいのです。
 このことは、保護者の意見を受け入れることを意味しているのではありません。
 保護者の意見の裏側には、子どもに対する願いがあるはずです。その、わが子への願いを聞き出すことに意識を集中します。
 おそらく、親子で十分な話し合いがなされず、面談に臨んでいるはずです。
 保護者にその進路先を希望する理由を丁寧に尋ねることは、子どもの前で、保護者の考えを丁寧に説明させるという意義があります。
 わが子の幸せを願うという親心がその背景にあるという気持ちで担任は拝聴します。
 そのうえで、
「お子さんは、どのような希望をもっていらっしゃると思いますか?」
と保護者に尋ねます。そして、
「なぜ、お子さんは別の高校を希望するのですか?」
と保護者に尋ねます。
 ここで、保護者がわが子の気持ちを正確に把握しているなら、子どもはふてくさるようなことは起きないでしょう。
 多くの場合、保護者はわが子の気持ちとは見当違いのことを言います。
 そこで「君自身はどうなの?」と、子どもに水を向けます。
 子どもが、ふてくされてしまったら
「不満なようですが、お子さんは今どのように考えていると思いますか?」
と保護者にたずねます。
 この答えが見当違いのようでしたら、子どもの表情を読みとりながら、教師がその気持ちを代弁してみます。
 そして「先生の想像は当たっているかな?」と確認します。そして、
「きみが、そういう気持ちだとわかって、親御さんはどう思っていると思う?」
と子どもにたずねます。
「相手がどのように考えているのか」を想像させ、交互に語ってもらうのです。さらに
「ここにこられていないお父さんと同じ意見だと思いますか?」
とたずねます。そして、
「家族それぞれが、本人の進路についてどのように考えていると思うのか」をめぐっても、親子双方から順番に話をしてもらいます。
 家族に巻き込まれず、家族のそれぞれと同じ距離をとりながら、家族関係にかかわるのです。
 これを少しの時間続けると、不思議なことに関係そのものが望ましい方向に変化していくはずです。
 だれの味方にもならずに、丁寧に会話が進むような公平な司会役をすると、親子関係全体がよいほうに自然に向かっていくのです。これが三者面談のコツなのです。
(
小林正幸:1957年群馬県生まれ、東京都港区教育センター教育相談員、東京都立教育研究所相談部研究主事等を経て東京学芸大学教授。不登校を始め学校不適応、ソーシャルスキル教育、教育相談、教育技術を研究)

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魅力的な教師になるには、どのようにすればよいのでしようか

 多くの先生方と話をしていると、もともと自己表現が下手だから、致し方がないと開き直っている人がいる。
 たいへん嘆かわしい。教師自身が性格なり自己表現なりを変え、その変化を子どもたちに見せることによって、子どもたちが変わっていくのだから、まず、自分を変える勇気を持たなければどうしようもない。
 自己表現のトレーニングで言葉の使い方も良くなり、大きな声が出せるようになり、明瞭な発音ができるようになる。
 笑顔も増え、アイコンタクトは強く長くなり、身体表現がきびきびと自分の意思に従った行動が取れるようになる。相手との距離の取り方も適切になる。
 トレーニングにより、自己表現を向上させることができる。
 こんなふうに自分が変わったらどんなに楽しいだろうか、と実際に自分をイメージしてみる。
 例えば、明るくてみんなに好かれる教師というイメージならば、朝、家を出るときから、授業を終えて家に帰ってくるまでの一日をイメージする。
 明るくて、頼られる教師が、どのように行動して、何を着て、どんな顔でしゃべり、どのような歩き方をするかイメージして、その通りにできるように、鏡を見たり、友人に点検してもらったりしてトレーニングをしていく。
 私が考える、授業で、魅力的な教師は
1 表現力
(1)
伝える内容が明瞭である
(2)
変化に富んだ教え方ができる
(3)
伝えようとする熱意がある
(4)
言葉だけでなく、表情や動作などの表現がきちんとできる
2 教材についての知識があり系統化されている
3 子どもとの関係の適切さ
4 授業の計画と準備や手続きの適切さ
5 子どものやる気、自己動機づけへの助力
 こうした自分のなりたい教師像を頭の中で理解した上で、感情的にそれを十分に受け止め、かつ行動のレベルまで高められるようになれば、この変化は本物だと言える。
 こんなふうに、頭の中が切り替わるばかりでなく、気持ちも行動もテキパキと変わった教師を見て、子どもたちは喜び、その真似をしたがるものである。
 教師自身がいつも何か新しいことを創り出して、それを実行しているような教師だと、子どもたちは喜んで先生についてくる。
 そのような創造性豊かな人格に教師がなれたらどんなに素晴らしいだろうか。
 もともと教師は、子どもたちの創造性を伸ばし、いきいきした子どもを育てていくことなのだから、教師自身が創造性豊かな人格になることが、まず何よりも肝心だと思われる。
 向上心があって、自分から進んで様々な工夫をしながら、多少の困難にめげることなく粘り強く指導していける、明るくて積極的な教師であれば、教師自身が毎日、楽しくてしかたがないであろう。
 明るくて、元気で、素直は、子どもも教師も必要ではないだろうか。
 毎日を明るく、元気。踏まれれば踏まれるほど強くなる、そんな教師を子どもは尊敬してやまないのである。
(
佐藤綾子:1947年長野県生まれ、1980年日本初の「日常生活における自己表現」の「パフォーマンス学」を開始。日本大学教授、一般社団法人パフォーマンス教育協会理事長)

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授業で子どもたちが積極的に動くようにするにはどのようにすればよいか

 これまでの授業は、教え、わからせ、理解させる授業で、知識伝達型である。未知を既知にして終わるものであった。「なあんだ、そんなことだったのか」で終わり、明日の授業へ続かない。子どもにとっては受け身で、積極的な参加がない。
 授業で教師がやさしく、ていねいに、かみくだいて教えてくれると、子どもたちは考えなくてよい。言われたことを覚えればよい。
 こういうことに慣らされた子どもは、いわゆる「指示待ち人間」に育っていく。
 そこで、新しい授業が必要になる。
 今まで「わかっている」と思っていることを、おもしろいネタでゆさぶりをかけ「あれ、わからないや?」という状態にして終わるのである。
「未知→既知」で終わらないで、もう一つつっこんで「未知→既知→未知」にして終わるのである。
 これは疑問・問題「はてな?」を引き出す授業であり、追及しようという意欲を引き出す授業である。
 子どもたちに「あれ!」といわせ「調べてみたい」→「どこで、どのように調べたらよいだろうか」と考えるように指導する授業である。
 つまり「問題追及型」の授業に変えるのである。
 子どもが自分の本当の問い(「はてな?」)を、その子らしく、追究するようにしようというのである。
 授業で子どもたちが積極的に動くようになる原動力が、面白い「はてな?」なのである。面白い「はてな?」がみつかれば、病気でもない限り、必ず動き出す。動かずにはおられなくなる。
 子どもたちが本当に調べたい「はてな?」を発見すると、一人でも調べる。もちろん、グループでも調べる。つまり、個人研究が進展するのである。
 個人で研究をしたことは、必ず書くように指導する。これが「はてな?」帳である。「はてな?」帳に、調べたり、考えたりしたことを、どんどん書かせる。
 決められたことを決められた通りやるだけでは「学ぶ習慣」はつきにくい。自分から工夫して学ぶとき、そこに「面白さ」を発見する。
 だから、授業で子どもたちが積極的に動くようにするには、何としても面白い「はてな?」をもたせなければならない。
 授業は、子どもたちに「はてな?」を発見させる時間であるべきだ。それなのに、たくさん教えれば子どもは偉くなると勘違いしている大人が多い。
 子どもたちに「どうしても調べたい」という「はてな?」を持たせなければならない。そうすれば、調べるようになるのである。
 一度や二度、調べるだけでなく、繰り返しているうちに、追究力が育ってくるのである。
 真の問題解決は、次々と「はてな?」が見つかるということである。問題を解決するということは、新しい「はてな?」を発見できるということである。
 新しい「はてな?」が発見できないときは、問題が解決したとはいえないのである。
「はてな?」なしには、授業は成立しないし「はてな?」なしには追及力も育たないのである。
追究力を育てるには
(1)
子どもたちが「調べて調べまくりたい」という「はてな?」を発見させること。
(2)
「はてな?」を発見させるには、よいネタが必要だということである。
(3)
「はてな?」帳に、追究したことを書かせる。書かなければ身につかない。
 よく書く子どもが伸びている具体例を示すのが一番よい。
(
有田和正:19352014年、福岡教育大学附属小倉小学校、筑波大学付属小学校,愛知教育大学教授、東北福祉大学教授、同特任教授を歴任した。教材づくりを中心とした授業づくりを研究し、数百の教材を開発、授業の名人といわれた
)

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切れたりする子どもの特徴とその指導について教師の声とは

 切れたりする子どもについて、どのように起こるのか、またその子どもの特徴や指導について、小学校・中学校の教師に自由に書いてもらった結果がつぎの通りです。
 自分の思い通りにならないとき、がまんできない子どもが切れる。自己中心的に物事をとらえがちな子どもに多いと思う。
 友だちに自分の欠点を言われたり、みんなの前で注意されると切れる。
 子どもの気持ちを読めない教師が多い。つきあう子どもは日々変化している。合わせてあげてほしい。
 家庭での愛情不足があるように思う。親がわが子のことをわかっていない。小さな信号を見すごして、大きくなってから気づいているのだと思う。
 本当に病的で、精神的な鑑定が必要と思う子どももいる。
 ある程度、障害が原因となって切れる子もいます。話をゆっくり聞いてやり、ダメな点は叱り、程度の軽い怒りのときは、気分をそらします。けんかの後は必要ならばクラス全体の中でその子の話をします。
 自分の気持ちをうまく相手に伝える術が順序よく身についていないからだ。小さい頃から自己表現力をつけていく学級運営や家庭のあり方が大事なのではないか。
 切れる子どもに、教師が落ち着いて聞く余裕があると、子どもも和らいでくることがある。
 日頃のうっ積された気分のときに、注意されることが引き金になって爆発するのではないかと思う。自分の悩みを相談できる人がいないので、ゆっくりと話を聞いてやることが大切だと思う。
 何度も話しあったり、みんなで一緒に遊ぶと楽しいということを体験させたりした。
 帰りの会で、その日「すまないな、悪いな」と思った言動を友だちにした場合、友だちに謝り「すっきりして帰る」言葉がけをしています。
 追い込まれた状況で、切れているわけだから,教師が逃げ道をふさぐような叱り方をするのは適切ではない。
 教師が腹をたてずに、ゆっくりと話を聞き、不満を吐き出させるように心がけている。
 話を聞いてばかりいると、甘やかしになることがあるので、その辺のかねあいが難しい。
 子どもを追いつめる状態にしないように注意したいと思っている。
(
授業研究所: 主に阪神間の学校の先生を対象に、授業や学級づくり、そしてもっと大きな視点で、子育て・子ども論・教育論も含めて、教育講座を開催)


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子どもに厳しく叱った後で、保護者からクレームがあったとき、どうすればよいか

 教師が子どもに対して「これは絶対に許せない。厳しい指導が必要」と思えば、子どもを厳しく叱ります。
 教師が子どもを厳しく叱って、子どもが下校した後で、
「ちょっと厳しすぎるじゃないですか!」
 と、保護者から苦情言われたり、事情を求められたりすることがあります。
 そのようなときは、保護者は、わが子が叱られた内容はさておき、わが子に対する教師の厳しい姿勢に気分を害しています。
 教師が保護者に
「すみません。厳しくやりすぎました」
と謝るだけでは、保護者にとって「教師の、やりすぎ」という印象を与えるだけです。 
 では、どのように対応すればよいのでしょうか。
 教師には、子どもを厳しく叱らなくてはならなかった、事情と理由があります。保護者にそのことを、しっかり伝える良い機会とも言えます。
 そのとき「子どものためを考えて」という気持ちが伝わるようにしましよう。
「確かに、厳しくしました」
「ここで、厳しくすることが、〇〇くんのためとは思いませんか?」と、保護者を引き入れる説明が大切です。
 教師が子どもを厳しく叱ったら、事の詳細を連絡帳に書いたり、放課後、保護者に電話を入れたりするようにします。いわば「先手必勝」です。
 子どもから伝え聞くのと異なり、教師から直接に事情を聞くことで、保護者は納得し、教師の指導を受け入れてくれます。
 そもそも、保護者から教師に苦情が来るということは、子どもが「教師に叱られたことを納得していなかった」ということです。
 それは、教師にとって反省すべき点として謙虚に受け入れましょう。
 そして「子ども自身に考えさせ、納得させる叱り方」ができるように、自らの指導を振り返りながら、日々努力を重ねることが必要です。
(
中嶋郁雄:1965年鳥取県生まれ、奈良県公立小学校教頭。子どもを伸ばすためには、叱り方が大切と「叱り方&学校法律」研究会を立ち上げる。教育関係者主宰の講演会や専門誌での発表が主な活動だったが、最近では、一般向けのセミナーでの講演や、新聞や経済誌にも意見を求められるようになる)

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授業の腕を高めていくポイントとは、また発問で子どもの思考を活性化するにはどうすればよいか

 国語科「ごんぎつね」の授業で考えてみる。
「ごんぎつね」の授業における「眼目」は、要するに「ごんの、哀れさ」をとらえさせる一点にある。その一点に子どもを迫らせるための「骨格」はつぎの通りである。
(1)
「ごん」の善意の読みとりとそれへの共感
(2)
善をなすことにさえ、人目を常に、はばからねばならぬ、立場の理解とそれへの共感
(3)
「ひきあわぬ」と思いつつも、毎日続けていく「ごん」のつぐないのいじらしさの理解とそれへの共感
 このように、すっきりと授業の大筋をとらえていれば、指導案などは見なくてもよい。この骨格をはずしさえしなければ、授業が失敗することにはならない。
 要するに、この授業でなすべきこと、めざすべきことは、ぎりぎりのとこで何なのか。そのことを、自らに問いつめていくことが、授業の腕を高めていく要諦である。
 発問で子どもの思考を活性化するにはどうすればよいのでしょうか。
 発問は簡単なものから徐々に発展性のある問いへと導いていけば、子どもの思考も活性化され、考えやすくなります。たとえば、
問1「ごんは、何を盗みましたか」の答えは「いわしです」と答えれば終わりです。
問2「ごんは、どうやって盗んだのですか」の問ではさまざまな答が考えられます。
 例えば「すばやく盗んだと思います」「びくびくしながら盗んだと思います」・・・。
問3「ごんは、なぜ盗んだのですか」になると、子どもの読み取りの深さの差が明瞭になってきます。
 そうやって教師が導くことで、子どもの思考力は鍛えられていくのです。
 授業にドラマ性を生みだすには、まず子どもたち自身で検討評価させることが大切です。
 教師が一言の下に正誤を判定してしまっては、盛り上がりは生まれません。
 子どもたち相互の対立や差異、これを顕在化させるのが教師の総合的な力量です。
 例えば、ノートに評価・判定を書かせる。グループ学習で気軽に話し合える場をつくる。教師が机間巡視して対立や差異を発見し、討論に導く。
 これらの方法を使って、監督やシナリオライターのように導いていくのが教師の役割です。
 私たちは、いろいろなものを見、聞き、考えているようでありながら、実はあまりそれらを確かには認識していないものである。だから、私はしばしば「問われることによって見えてくる」のだと思っている。
 問われてみて、あらためて「はっ」とするのである。問われるということは、改めて見直すということであり、新しい自覚を生むということであり、新しいものを発見させられることなのである。
 さればこそ「何を、問うか」ということが大切にされなければならないのである。つまらぬ問いは、つまらぬものしか見せはしない。
 すぐれた問いは価値あるものを発見させる。授業における問いの大切さは実にこの一点にあると言ってよい。私は、授業の案を立てるとき「何をこそ問うべきか」ということに、いつでも腐心する。
 このようにしても、会心の問いはなかなか生まれるものではない。
「はだかの王様」における「最も愚かな者は誰か」という問いの見事さは、倉沢栄吉先生の名著「読解指導」(朝倉書店刊)で初めて知ったのだが、さしずめこれが「問い」への私のこだわりを生むきっかけとなった原点と言えるであろう。
 問われることによって、それまで見ることのできなかった作品の深奥の光が見えてくるような、そういう問いこそが子どもを変えていくのである。
(
野口芳宏:1936年生まれ、元千葉県公立小学校校長、植草学園大学名誉教授。千葉県教育委員会委員長職務代理者、日本教育技術学会理事・名誉会長、授業道場野口塾等主宰)   

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子どもたちを「上手に叱ることができる5つの基準」は、すばらしい叱り方と思います

 私にとって、子どもたちを「上手に叱れる」ようになるというのは長年の課題です。
 私は子どもたちから「授業が分かりやすくて楽しい。やさしくて笑顔が絶えない先生」と、毎年、書いてもらっています。
 でも、子どもたちがリラックスしすぎて、うるさくなる。勝手なことを始める子を上手に止められないという悩みも同時にもっていました。
 新学期が始まる直前の春休みに私は「たのしい授業・学級開き直前ゼミナール」に参加し、叱るということについて学びました。
 山路敏英(東京都中学校)先生が次のような話をされました。
「私は、危ない、迷惑、失礼、ずるい、下品なことは嫌いです。だから叱ります」
「1危ない、2迷惑、3失礼、4ずるい、5下品の順で叱りますと、子どもたちに宣言します」
「こういう優先順位を決めておかないと、子どもたちを叱っても、うまく逃げられることがあるんだよね」
「例えば、授業中におしゃべりをしているAがいるとする」
「『A、おしゃべりをやめなさい』と注意すると、Aは『どうしてオレばかり注意するんですか。Bは寝ているのに注意しないんですか』」
「こういうときに、自分の中に基準や優先順位をしっかり持っていないとグラついてしまう」
「そして、そうだな、Bも注意しなくてはとなって、Aにごまかされたりする」
「だけど、この優先順位を持っていると『Bの寝ているのは3の失礼、Aのやっていることは2の迷惑。Aの方が叱られる順位は上だ』とビシッと言える」
 私は、この話を聞いて「なるほど」と思いました。私も叱ったはずの生徒にごまかされてしまうという、くやしい思いをよくしたからです。
 さっそく新学期からマネをしてみようと決めました。
 4月、中学1年生の担任になった私は、さっそく新学期2日目に、5つの基準について紙に書いたのを生徒に見せながら
「私は、こういうことが嫌いです。こういうことをすると叱ります」
と話をしました。生徒は「へぇ」という顔で聞いていました。5つの基準を書いた紙を黒板に貼っておきました。
 何日かたつと、子どもたちの緊張もとけて、叱らなければならない場面が出てくる。
 そしたら、なんと、私が子どもたちに注意したいことのほぼすべてが、この5つの基準に見事にあてはまりました。
 例えば、私が大事なことを伝えているとき、子どもたちの「おしゃべり」に、すかさず私は話を止める。
「今のは何番?」と子どもたちに問いかける。
 するとすぐに「2番の迷惑」「3番の先生に失礼になる」と子どもたちが応える。
 私は「そうだよねー。エライ」なんていう感じ。
 何かで叱られて「オレだけじゃない」って言い訳をする子どもがいたりすれば、他の子どもたちが、すかさず「4番のずるいだ!」と声をそろえてくれる。
 うわぁ、こりゃ助かる。子どもたちが自分たちで、ちゃんと自分たちの行動を律してくれる。お互いにしつけあってくれる。
 しかも、イヤな感じがちっともしない。叱ることにあんまり自信がない私なのに、今年は上手に秩序を作っていけている。
 私も、基準があるから自信をもってビシッとでっかい声でみんなの前でも叱れる。だから、クラスの雰囲気も「いいことはいい」「ダメなものはダメ」っていう、いい感じに自然になっている。
 山路先生の5つの叱る基準のおかげで、間髪をいれずに、核心をついて的確に短く、ビシッと叱ることができるというのは、子どもたちにとっても理想的な叱られ方に近いのではないかと思いますが、いかがでしょうか。
(
滝本 恵:埼玉県公立中学校教師
)

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小学生は学習にとりかからせるのが難しいし学習が続かない、どうすればよいのでしょうか

 公立の小学校で1年生から6年生まで受け持ってきた経験から言うと、小学生は「学習にとりかからせる」ところが一番難しいんです。
 子どもたちにエンジンがかかって、気分が乗り出せば、あとは自分でどんどんやり始めます。そういう意味では導入は非常に大事です。
 私の授業では、6年生であっても「右手をあげてごらん」→「人差指を出して」→「1を押さえよう!」→「さぁ、そこをみんなで読もう!」みたいな感じで、ショートステップをくり返して目標に到達させることを心がけていました。
 子どもは一回にひとつのことしかできないし、これからやることが明確になると、ノッてくるんですね。
 さて、子どもが勉強を始めたとして、途中でイヤになるのは「わからないとき」「面倒くさいとき」です。
 パッと教科書やテキストを開いて、いろんな情報がページの中に入っていると、どう読み取っていいかわからないという子どもはどの学年にも多いんですね。
 書き取りや計算も、ただただ紙に鉛筆で延々と書いてやるのは、やっぱり苦痛なんですよ。しかも、やったわりにあまり覚えられないし…。
 すると「わかんねー」「めんどくせー」となって、学習が続かなくなってしまう。
 だから、ゲーム感覚でシンプルにくり返し漢字や計算の学習ができるのは大事だと思います。
 漢字や計算が得意な子どもでも、忘れている漢字やまちがえる問題もあるし、そこだけ再確認もできる。楽しみながら定着ができて、完全マスターを目指せる。
 私も授業では、油ねん土で漢字をつくったり、ノート1ページに大きく書かせたりとか、いろいろと工夫をして変化をつけて飽きさせないようにしていました。
 ゲーム感覚で取り組める、というのも同じような工夫だと思います。子どもたちはこういうのは飽きずにやると思います。
 タッチペンで漢字の勉強なんて…という意見もあるかも知れないけれど、大昔は毛筆で書くのが正しくて「鉛筆なんてけしからん! 文化の衰退だ!」と言われた時代もありました。
 でも、今は誰も日常的に毛筆で文字を書いてないですから。時代と共に変わるのが歴史の必然でしょう。
(
親野智可等(あやのちから)1958年生まれ。本名 杉山 桂一。公立小学校で23年間教師を務め2006年に退職。現在は教育評論家として講演、執筆活動、長年の教師経験をもとにメールマガジン「親力で決まる子供の将来」を発行。具体的ですぐできるアイデアが多いと評判を呼び、新聞、雑誌、テレビ、ラジオなど各メディアで絶賛される。また、子育て中の親たちの圧倒的な支持を得てメルマガ大賞の教育・研究部門で5年連続第1位に輝いた。読者数も4万5千人を越え、教育系メルマガとして最大規模を誇る
)

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ストレスが生じにくくするための工夫とストレスの解消法とは

 私たちは生きている限り、常に何らかのストレスを受けていて、それから完全に逃げられることはない。
 ストレスが生じにくくするための工夫は
1 ゆとりの大切さ
 心にゆとりがないと相手に合わす適応能力は発揮できない。
 本当に自分に心のゆとりがなくなってしまったときは、相手を無視し、相手の身になって物事を考えないことが自分をストレスから守ることになる。
2 ストレスに圧倒されない
 子どもや保護者が求める教師像はさまざまである。学校現場でストレスに負けないで生き生きと指導ができるためには
(1)
子どもや保護者がどのような理不尽なことを言ってこようとも、大人として現実原則にのっとった毅然とした一貫性のある強い姿勢で臨む力が必要である。
(2)
あくまで対等の立場で、わかろうとする姿勢を堅持する共感的な態度が必要である。
(3)
現実的に話が進むように、対立構造のまま膠着状態にならないような受容的態度(品性、優しさ)が求められる。
 以上三つは教師の中でも管理職にあたる人に求められ、それによって教師は身体を張って子どもの指導に当たることができる。
 ストレスとどう仲よくつきあっていくのかを考えることが現実的なストレス解消法につながる。
 仕事の中で生じたストレスは仕事を通じて、人間関係の中で生じたストレスは人間関係を通して解決していくのが理想である。
 ストレスが生じると、不快感、いら立ちなどを感じるようになる。ストレスの解消は、そのようなことを軽減させることが目標となる。
 心身の疲労が解消されたときに感じる、気持ちよさ、すっきり感、心が清められるような感じ、安心感がでてくることが目標となる。
1 具体的なストレス解消法
(1)
最大のストレス解消法は眠ること
 最も効果のあるストレス解消法は睡眠である。眠ることにつきる。
(2)
一人でできるもの
 身近なものでは、酒、買い物、スポーツなどが多いといわれている。しかし、このようなものは、一時しのぎでしかない。
 一人でできる趣味には心を楽しくさせ、心を元気にさせる作用がある。ストレス解消法に趣味がよいと考える理由はここにある。
 しかし、趣味はあくまで気ばらし、気分転換と考えるべきで、趣味をすることによってストレスの原因が完全に解決されてストレスが解消される訳ではない。
(3)
相手が必要なもの
 気の合う人とおしゃべりをして話を聞いてもらう。動物を飼うなどである。気を使わなくてすむ人に、自分のもやもやした思いをきいてもらうことは、とっても心が楽になる。
 言葉を使わず自分の好きな動物と一緒にいることも心をなごませる結果となる。
2 原因別のストレス解消法
(1)
人間関係が原因の場合
 人間には、元来生理的に好き嫌いがはっきりとしているところがあるので、生理的に合わない人との人間関係は割り切るしかない。
 言葉づかいなどに気をつけ、その人との距離をとるしかない。
 そして、自分と価値観が合って、気をつかわずに話ができ、感性の合う人が身近にいたら、その人を大切にすべきである。
 その人とは性格が似ているため、いつかどこかで同じような挫折経験をし、のりこえていることが考えられる。自分に合った適切なアドバイスをしてもらえる可能性がある。
(2)
過労からくるもの
 たとえば、旅の好きな人ならば目的をもたないブラブラした旅をしてみること。
(3)
自分を縛っている固定の習慣がストレスの原因となっている場合
 十分に時間をとって内省し、他人が決めたことに従わされている不自由な生活、疲れ果てている感覚、心の窮屈感、心の底から求めている解放感に気づくことである。
 人間の本能は自由、わがままに生きることにあるのだから。
3 感性を鍛え磨き、大切にする
(1)
身体の健康を大切にする
 心を守ってくれているのは身体なので身体を大切にする。
 十分な睡眠と楽しくおいしく食べることができる生活が大事である。
 健康な感情を維持できていれば、もう精一杯なのかがわかる。この感覚が機能しなくなると過労死するのである。
(2)
自然と向き合う
 大自然に触れることによって自然のもたらす絶対的な感触と、自分のそれまでの考え方とを相対的に考えることで、物事の本質、限界、可能性、希望が見えてくる。
(3)
本物に出会う
 世の中にはお金で置き換えることのできないものが存在することに気づくことができるかどうかが人間としての分岐点である。
 そのためには、一流といわれるもの、本物といわれるものを創作した人、一流のスポーツ選手、芸術家の生きざまに何を感じるかにかかっている。
(
岡田 謙:医師(精神保健医)。教師と児童の精神疾患治療で有名な関東中央病院の部長を務め、東京都医師会学校精神保健検討委員会委員。平成18年から「くじらホスピタル」の初代院長に就任
)

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新任のとき自分の指導力のなさを痛感させられ、先輩教師の実践の中から価値あるものを見つけ自分を鍛えていった

 新採教師となり、夢に見た教師の仕事ができる喜びをかみしめながら赴任校に向かった。学校に着くと「ようっし、やるぞ」と感激が体中を走った。
 教師の仕事が本当に楽しかった。休みの日にもよく学校に行って仕事をしていた。学校で子どもたちと遊ぶ約束をして一緒に遊んだ。
 当時、私の赴任した学校では、郡内の絵画展に力を入れる教師が多かった。授業が進み作品が次々仕上ってきたころ、前担任のM教師が私のクラスの子の絵を見るなり
「高本先生、絵の具の塗り方を指導しましたか」とたずねられた。M教師が担任していたときは特選が数人いたらしい。
 私は、塗りたい色で塗ることしか言ってなかった。私の指導力不足を感じられたのだろう。私はその場で、M教師に絵の具の塗り方を教えていただいた。
 しかし、時すでに遅し、私の学級からは、入選に入ったのが数人いただけであった。
 このように、新採用の私は、自分の指導力のなさを日々痛感させられた。とにかく悔しかった。
 私にもっと力があれば、子どもたちをたくさん伸ばし、自信をつけてやれたのに。そういう悔しい思いでいっぱいだった。
 ただ、このように悔しい思いがあったからこそ、教師としての勉強がしたいと強く思うようになり、次のステップがあったのだと思う。
 悔しさをかみしめた分だけ、得るものも大きい。私の修業の始まりは、この悔しさを味わったところから始まった。
 私の性格上、悔しくて落ち込むことはあっても、ずっと沈み込んでいるということはない。むしろ、必ず相手を見返すぐらいに大きくなってやるという意欲が湧く。
 力のなさを痛感させられていた私は、先輩方の授業に興味を持った。先輩教師がどんな授業をして子どもたちに力をつけているのかを知りたいと思っていた。
 幸いなことに、そのときの学校では、年に数回は必ず授業公開があった。私は食い入るように先輩方の授業を見つめた。発問やちょっとした声かけも聞き漏らさず、いいと思うことはどんどんメモをとった。もちろん録画できるときは録画させてもらった。
 先輩教師の授業には驚かされた。授業が指導案通りに流れていく。教師の発問に子どもたちがどんどん食いついていく。
 教師の指示も的確で、その通りにやれば必ずできるような気がした。授業のリズムもよく、流れるようだった。
 こんな授業をすれば子どもは伸びていくに違いないと思った。私もあんな風に力をつけたいと感じざるをえなかった。
 M教師の道徳の授業では環境問題を取り上げて、その教材を読むことで、子どもたちの討論が生まれた。
 子どもらしい意見がどんどん出された。その授業では「教材づくりの大切さ」や「討論を仕組むコツ」などを学んだ。
 校内だけでなく、郡内の研究会で他校の教師の授業を見せていただいた。
 サークルでは、他府県まで出かけ、向山、野口、有田、酒井、根本先生など、著名な方々の授業にも出会えた。
 こうしたすばらしい授業を見ることは、自分の力量を高める糧となった。生の授業を見ることで、声の大きさや話すスピード、ちょっとした仕草、授業のリズム、間の取り方など、教師としての技術をつかむことができた。
 鍛えられた子どもとはどんなものか、を目にすることは自分が指導するときの達成度をイメージすることができる。
 良い実践をたくさん見る。見た中で価値あるものを自分のものにする。そうすることは、自分の力量を高める近道である。
 授業を見るときには、私流の見方がある。
(1)
授業を肯定的に観察し、良い点を盗む。
(2)
子どもたちが、どれくらい反応するかで、その指導効果をはかる。
(3)
その授業で提案されていることが何であるかを判断する。
(4)
子どもたちを向上的変容に導く技術を見つけだす。
 だが、いつもすばらしい実践が見られるわけではない。だから、本を読むのである。できればたくさん読むといい。
 たくさん本を読んでいる人は、たくさんの知識をためている。そのときに役に立たないと思っても、将来役に立つことが必ず出てくる。また、たくさん本を読むと読むスピードも速くなるので、気楽に読むことができる。
 すばらしい授業を見たり、本を読んで勉強したり、研修に行って教わったりしたことは、そのままにしないで、必ず実践してみるべきである。
 使えるものは、すぐ使ってみる方がよい。つかんだ技術や授業のネタも、まだ自分の中で十分再現できるときに使ってみるのである。そうしないと身に付いていかない。
 また、実践したら必ず評価することが大切である。本当に子どもができるようになったか。子どもたちが喜んで授業に取り組んだか。子どもたちにとって、どうであったか、だけを見つめるのである。
 うまくいかなければ、何が違うのか考えてみる。もう一度、本や研修記録を読み返したり、授業を見せていただいた先生に聞いてみたりしてみる。
 それからもう一度やってみる。それでもダメなときがある。そのときは、もう一度確認してみる場合と、切り捨てる場合がある。
 価値あるものだけを選び身につけていけばよい。見抜く力を同時に鍛えていなければならない。これも実践の中で磨かれる。だから実践を通すのである。
 実践の中から価値あるものを見つけ、実践の中で自分を鍛えていくのである
 たまには、自分の実践を誰かに見てもらって評価してもらうとよい。自分では気づかないことを教えてもらえることがある。
 H教師は私にこんな話をしてくださった。
「自分が若い頃は、とにかく一流の授業がしたくてしょうがなかった。だから体育の授業を見てもらいたいと思ったら、教育委員会に電話して、体育で有名な教師を教えてもらって見ていただいた。それぐらいこだわってやっていたよ」
私はすごいと思った。
 すごい実践家の人に自分の授業を評価してもらうのは、とても勇気のいるものである。しかし、これも修業である。
 心ある教師ならば、このプレッシャーにひるむことなく立ち向かっていくだけの勇気は必要である。
 確かに厳しいことを言われるかもしれないが、その分、得るものは大きい。
(
高本英樹:岡山県公立小学校教師。学級崩壊で苦しんでいる教師の支援を行っている。初等教育研究会岡山支部理事長。サークル「GROWUP」代表
)

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学級崩壊を防ぐには、努力と機転と忍耐が求められる

 小学校の20歳代の女性教師です。以前担任した4年生の学級が、いわゆる学級崩壊だったのかもしれません。
 三年生のとき、泣いて暴れて我を通していたAちゃんが四年生になり、ようやく授業に少し集中できるようになったころでした。
 四年生になってから、Bちゃんにいろいろ配慮が必要となってきました。
 Bちゃんを気にしながら学級経営していると、三年生のとき、我を通していたAちゃんが「先生はBちゃんばかり」と、再び大荒れするようになりました。
 それを見て今度は「授業に集中できない」と正義感が強い子どもたちが不安定になりました。
 そのまま坂を転げ落ちるようになり、事態は好転しないまま学年末をむかえました。
 私自身が通勤拒否になったり、体をこわしたりしなかったので、周りの同僚に迷惑をかけずにすんだことは救いだった。
 学級には、不登校の子や、学習に遅れのある子、家庭が不安定で荒れやすい子など、手のかかる子どもはいろいろいますが、
「問題のある子も、ない子も、みんな同じように大切にしているんだ」
ということが子どもたちに伝わるように学級運営すること。それが、あのときに得た教訓のひとつです。
 不登校の子など、どうしても家庭訪問の回数も増え、全校体制でフォローしてもらい、手をかけることになるのですが、気持ちは常に学級全員の子どもたちに平等であること、それを伝える表現力が求められる。
 そして、いいことはいい、悪いことがはびこらない、温かいなど、まともな子どもたちの民意を形成していけば、担任一人がそんなにしゃかりきにならなくても、前向きに進んでいくことがわかりました。
 それ以降、担任した学級は崩壊していないのですが、だからと言ってこれからも大丈夫とはいえないと思えます。
 子ども同士の人間関係が何年にもわたってこじれている場合もある。
 極端に暴力的な子どもと極端に傷つきやすい子どもがいて、バランスが難しいなど、担任一人では対応できない場合がたくさんあるからです。
 担任は自分の学級の子どもはかわいいわけで、その気持ちを忘れてしまうほど問題行動の対応に追われているときには要注意です。
(
島根県公立小学校教師・女性
)

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教師は教材を「北風」から「太陽」に変える教材研究を

 熱心で、まじめな教師ほど、子どもたちの「勉強したくない」というマントを、何とかぬがせようとして、一生懸命「北風」を送っている。
「北風」とは、おもしろくない授業であり、教科書通りの授業であり、教え・わからせ・理解させる授業であり、子どもが「受け身」の授業である。
 この北風では、マントをぬがないことは、イソップ童話が証明している。
 そこで、教師は「北風」を何とか「太陽」にかえて、太陽光線を子どもに注がなければならない。
「太陽」とは、おもしろい教材のことである。
 教師の教材研究は「北風」を「太陽」に変えることである。
 この教材の条件として、私は三つのことを考えている。
(1)
おもしろい
 どんな立派な内容であっても、おもしろくなければ、子どもたちは見向きもしない。
 子どもたちの、おもしろいかどうかを見分ける能力はみごとというほかはない。
(2)
基礎的・基本的内容がある
 やはり、基礎的・基本的内容が、ちょっぴり入っているということであ。おもしろさだけではマンガになってしまう。
(3)
学習方法がよくわかる
 よい教材は、提示しただけで、どう調べたらよいかわかる。
 つまり、子どもに、目あて、見通しの立つ教材がよいということである。
 おもしろい教材(太陽)を子どもに提示しただけで、食いつくものがある。
 例えば「さとうきび」である。
「さとうきび」は、提示しただけで、
「これは一体何だろう?」
「パンダのエサではないか?」
「竹ではないか?」
「すすきの大きいのだろう」
といった反応を示す。
 まさに「太陽」といえる。
 しかし、提示しただけでは食いつかない教材が圧倒的に多い。それで太陽光線、つまり、教材の威力を強めるために「凸レンズ」が必要になる。
 この「凸レンズ」を、私は「教育技術」とよんでいる。
 この教育技術には
(1)
発問・指示
(2)
資料の活用
(3)
板書
(4)
話術・表情・ゼスチャーなど
(5)
人間性
などを挙げることができる。
 これらの「教育技術」を活用することによって「太陽」である教材を生かすことができる。教育技術がなければ、いい教材も生きない。
 材料である教材を、いかに開発するか、いかにおもしろくするか、いかに新鮮なものをもってくるかが大事である。しかし、いい教材も、腕がなくては真に生かすことができない。
 「太陽」のような教材と、よい教育技術を身につけたい。
(
有田和正:19352014年、福岡教育大学附属小倉小学校、筑波大学付属小学校,愛知教育大学教授、東北福祉大学教授、同特任教授を歴任した。教材づくりを中心とした授業づくりを研究し、数百の教材を開発、授業の名人といわれた
)

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生徒が騒ぎ、授業が成立しないとき、私が解決するために取った方法とは

 教えてもらうべき生徒が上を向いていなければ、いくら名教師でも授業の実効はあがりません。
 しかし、生徒は勉強嫌いなもの、いたずらし、怠情なものです。そう発想すると生徒が悪いということは授業が成立しない原因にはなりませんね。
 授業が成立しないのは、教師の指導方法が悪いのか、教師の性格が子ども集団と合わないか、になります。
 授業が成立しないのは、学級経営や学級集団の問題点の表れとして出てくるようです。
 その他に授業を成立させない原因はいろいろありますが「悪いものはしかたがない」と開き直り、次のような手立てを講じてみてください。
 わからない子をわからせるのがプロの教師です。
 どんな生徒でも「わかりたい」のです。「わからせてやらなかった」ツケが、授業を成立させない原因をつくる生徒を生むのです。
 騒いでいる生徒は、学習についていけない、わからないから、自分のしたいようにしているだけなのです。彼らは、そうすることが、今、彼らにできることなのです。
 まず、彼らが、どこで、どの時期にわからなくなってきたのかを調べてみることです。
 私は、小学校の先生、同級生(どんな生徒でも理解者がいます)等から情報収集しました。こうした情報がキッカケで、彼自身から聞きとることもできます。
 小学校の学習内容を小学校の先生や教育センターを訪ねて話を聞きました。
 その中から、漢字の力、算数の力、理科や社会科の中学校との系統を、私なりに理解して、彼らに夜、こっそりと家庭で勉強させました。
 その他に例えば、私は次のような「しかけ」をしました。
 彼らが、静かにする準備をしたり、活躍する場をつくります。その時間の内容をそのまま大量にテストに出します。
 そうすると、その時間の成果が明確に出ます。彼らは喜びます。クラスのみんなも自覚します。
 準備には時間がかかりますし、手間もかかりますが、かならず実効があがります。
 テストでしばることには気が引けますが、これも一つの手としては有効なのです。
 教師が一人でできないときは、他の教師と連携して指導するとよい。
 私が教師三年目のとき、やはり、養護学校から普通学校の荒れた学校に移りました。
 学年主任の先生から、夜、飲みながら、よく叱られました。生徒への接し方、保護者への言葉遣いかい等。私は普通教育の一つ一つについて尋ねました。
 その学年の教師が、私のむづかしい学級を陰に陽に支えてくれました。
 教育活動は一人ではできないものです。荒れた、乱れの中に入った学級の指導は、とくに一人ではだめです。
 父親役、母親役、陰と陽、厳しさとやさしさ、といったものが調和することが大切です。
 気の合った教師、しかも、そういう生徒とつながりのある教師との連携をとり合って、援助してもらうことです。
 やせがまんは、あなたの名誉は守れるかもしれませんが、受け持っている生徒のためにはなりません。
 授業が成立している教師は、まず、指導力があります。生徒の呼吸を飲み込むのが早いものです。
 テクニックもうまく、キャリアがあります。生徒との接し方、生徒との人間的触れ合いがみごとです。強さもありますが、けじめもあります。
 そういう教師を先輩として仰ぐことです。交わりを持つことです。そして、その「技」を盗むことです。盗むことは、まねることからです。
(
陣川桂三:1939年生まれ、福岡市立中学校教師、福岡教育大学附属中学校教師、福岡市教育委員会指導主事、中学校長、福岡市教育委員会部長、福岡大学教授を経て退職
)

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保護者に対して私が心がけている三つのこと

 私が教師になったとき、大ベテランの先生が
「保護者全員に理解してもらおうと思わないこと。3割の保護者で十分」
 とおっしゃった言葉は忘れることが出来ません。
 私は30歳で教師になりました。学校現場に入り思ったことは、教師の個性が際立つ仕事であるということ。
 また、保護者の方も様々な考えを持ち、実に個性いっぱいです。保護者全員に理解していただくことなど不可能なことです。
 そうは言っても、できだけ多くの保護者に理解していただきたいと思い、動いていくことは大切なことです。
 そこで、私がいつも心がけていることを次に紹介したいと思います。
1 最初の保護者懇談会で宣言
 最初の保護者懇談会で私は、次のように宣言します。
「私の指導について理解できないことがあるかもしれません。どうかその際は、子どもさんにだけは、私のことを悪く言うことはいただきたいのです」
「親の言葉は、子どもにとって『絶対』です。担任のことを悪く言った瞬間、信頼関係は崩れます」
「私が学校で子どもたちとの信頼関係を築こうと思っても無理なことになってしまいます」
2 保護者に事前に言うと「報告」、後で言うと「言い訳」
 これは、何か子どもに対して、トラブルが起こったときの対処法です。
 トラブルには、できるだけ先手を打ちます。
 保護者から連絡が来て「何で言ってくれなかったんですか?」となると、その後に言う言葉は保護者からすれば、すべて「言い訳」に聞こえます。
 ところが、こちらが先に連絡すると「報告」になるので、保護者の気持ちが全く変わります。
 教師が些細な事だと思うことでも、子どもにとってそうでないことがよくあります。子どもの表情や様子を放課後もう一度じっくりと振り返り、電話しておくべきことは、その日のうちに必ずしておきます。
 特に、友だち関係のトラブルには配慮が必要です。保護者にとって大きな関心事は友だち関係です。
 教師が知らないところでも日々何かが起こっています。そこで大事なのは「納得しているか」ということです。
 納得していないときに、保護者に伝わり心配をかけることになります。たとえ納得したことでも、その経緯を保護者に説明しておいた方がよい場合もあります。
 どうすればよいか分からない時は、学年の先生にすぐに相談し、必ずその日のうちの対処が必要です。
 連絡帳に書くのも一つの方法です。しかし、文章で伝わりにくいことや、ややこしい友だち関係のことなどは電話か家庭訪問する方がよい。
 特に小学校高学年は連絡帳に書かれることを嫌う場合もあります。親に見せないことも考えられます。
 連絡帳にほめることを書くのは本当におすすめです。
 もし、保護者からお叱りの電話があれば、子どもをお預かりしている立場として、とにかく「謝り」「聞く」の2つを心がけることが大切です。
 保護者の話を誠意を持って聞いているうちに必ず落ち着いていかれます。
3 学級通信は保護者との架け橋
 教師になった私は、わが子の学校に行くことが減り、ありがたかったのは、わが子が持ち帰る学級通信でした。
 私は新任のころから、週に2~3回は学級通信を発行しています。
「私が親だったら、こんな学級通信がほしい」というのが発行の一つの基準です。
 例えば、授業参観日の学級通信は必ず発行し、来られない保護者にも授業内容を見ていただけるようにします。
 他にも、白熱した授業のワンシーン、クラスで笑ったこと、クラスのブームなど、短時間に手書きで書くことにより、新任の頃から楽しく継続しています。
(
桜田恵美子:大阪府公立小学校教師
)

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内容のない授業の技術は無力である、いい授業をする教師は、いい教材・内容と技術をミックスして持っている

 ある温泉に行った。帰りのバスの中で、ガイドが言った。
「この温泉は、若返りの効果があります」
「まず、1回入った方は手を挙げてください。その方は10歳若返っています。周りの方は、手を挙げている人をよく見てください」
 バスの中は大にぎわいになった。うれしそうにしている人、うらやましそうにしている人、みんなしゃべっている。
「では、2回入った方は手を挙げてください。ハイ、20人くらいですね。この方は20歳若返っています。さっきの方より輝いています」と言った。
 ワッと大笑いし、もう子どものように大さわぎである。
 そこで、私が言った「ハイ! 私は3回入りました」と。
 すると、ガイドは言った「ハイ、3回入ると、もとにもどります」
 バスの中は大にぎわいになり、みんな大笑いで、温泉より笑いの効果の方が大きいと思った。これぞプロの技術である。
 このガイドこそ「対応の技術」の保持者である。こういう人を「プロのバスガイド」というのである。
 客の心理をたくみにつかみ、大いに喜ばせておいて、それをみごとにひっくり返す。この技術があるからこそ「内容」が生きるのである。
 授業の技術も全く同じである。
 子どもに教えるべき基礎的な内容をきっちり把握している。そして、子どもに学力をつけてやりたいという「愛情」をたっぷりと持っている。
 いくら内容を持ち、子どもに対する愛情があっても、それを、子どもにおもしろく伝える「技術」、有効に伝える「技術」を持っていなければ、伝わらない。
 となれば、内容や愛情がないのと同じである。
 板書にしても、美しく、おもしろく、子どもが理解しやすい板書をすれば、子どもは板書を見ただけで理解する。「見るな」と言っても見て理解してしまう。
 これが「板書の技術」である。ただ、黒板に書けばよいというものではないのである。子どもを引き付けなければ意味がない。
「発問や指示」にしても、的確に子どもに伝えられるものを「発問や指示の技術」という。
 資料の活用にしても、資料をどう収集し、子どもが飛びつくような資料に加工し、子どもが「あっ!」と驚くような提示をすれば、資料のねらいが確実に子どもに伝わる。
 これが「資料の作成技術」であり「資料の活用技術」である。
 話術・表情・ゼスチャーなども、すべて確かな内容とマッチしたときに生きる技術である。
 技術だけが独り歩きすることはあり得ない。いい授業をする教師は、いい教材・内容と技術をミックスして持っているのである。
(
有田和正:19352014年、福岡教育大学附属小倉小学校、筑波大学付属小学校,愛知教育大学教授、東北福祉大学教授、同特任教授を歴任した。教材づくりを中心とした授業づくりを研究し、数百の教材を開発、授業の名人といわれた
)

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