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この世に才能だけで食える飯など一粒もない、私はどのようにして小説家になったのか

 私は子どもの時分から、突出した能力が何もなかった。ただし、劣っている部分もこれといってなかった。
 今しにして思えば、これはお役人か大企業のビジネスマンの才能であったろう。この資質についぞ気付かなかった私は愚かであった。
 趣味といえば読書で、これだけは並みはずれていた。
 だが当時は、勉強もせず野原で遊びもせずに本を読む子どもなど、けっしてほめたものではなかった。
「一日一冊」の習慣は、実にこのころから今日まで続いているのである。
 学校の図書室の蔵書を読みつくすと貸本屋に通い、小遣いのあらかたは本代に消えた。
 面白い小説は声に出して読んだ。それだけでは飽き足らず、原稿用紙に書き写した。さらには「こうしたほうがもっと面白い」と原作をかいざんするようになった。
 かくして、ついに小説を書き始めたのである。
 ちなみに、三つ子の魂百までとはよくぞ言ったもので、今も読書をしている最中にいい文章に出会うと、思わず声に出して読む。何枚かを書写することもしばしばである。
 私はおよそ小説家らしからぬ時間割を持っている。
 夏には午前五時に目覚める。しかるのちコーヒーをいれて書斎にこもり、仕事を始める。朝食と昼食のために執筆を中断するのはせいぜい十分間で、いわゆる昼休みというのはない。
 午後二時ないし三時には、どれほど興が乗っていても筆をおく。過ぎたる情熱はともすると文章を乱すからである。常に一定の熱量を維持していなければ良い文章は書けず、面白い物語を思いつくこともできない。
 それから夕刻までの四時間は読書にいそしむ。かくして午後十時には床に就く。
 この世に才能だけで食える飯など、一粒もあるまいと思う。
 たしかに天賦の才というものは存在し、しかも神様はあんがい公平に、何かしらの才能をそれぞれに与えている。
 己には才能がないと嘆く者は、才能に気付かざるか、あるいは磨かざるかのいずれかであろう。
 才能とは、さほどに厄介な代物なのである。まず自分自身でも発見しづらい。発見すればしたで、磨かざれば珠にならぬ。その努力がまた、なまなかではない。
 歴史的に考えればごくたまに、珠玉の才能を持って生れついた人間がいないわけではないが、いわゆる天才と称すべき彼らは、必ずと言っていいほどその天才の代償として早死にしてしまう。こうした気の毒な公平さも、神が定めたことであろう。
 初めて原稿が売れたのは35歳、単行本を上程したのは39歳のおわりであった。
 幸か不幸か、私は五十を過ぎてこうした原稿を書いており、天才ではない。
 だとすると生きとし生ける者のすべては、すみやかに才能を発見し、それを磨かなければならない。
 この世に才能だけで食える飯など一粒もない、とはそういう意味である。
 才能とは一種の資格証明であろうか。「これで飯を食ってもよい」と、神様がお墨付きを持たせてくれたのだが、ごく稀なる天才のゴールドカード以外は、全能のパスポート以外は、全能のパスポートではない。
 相当な努力を払わなければ、紙切れ同然という程度の資格である。
 では努力とはいかなるものかというと、個人的には一文の金にもならぬ読み書きの、不断の継続であった。
 実は何も好き好んで、いまだに修行僧のような生活をしているわけではない。
 そうした努力の継続をしなければ神様から貰った資格を行使することができず、このさきも資格の維持が困難だと思うからである。
(
浅田次郎:1951年生まれ、小説家。本名、岩戸 康次郎、日本ペンクラブ元会長。 陸上自衛隊に入隊、除隊後はアパレル業界など様々な職につきながら投稿生活を続け、1991年、『とられてたまるか!』でデビュー。悪漢小説作品を経て、『地下鉄に乗って』で吉川英治文学新人賞、『鉄道員』で直木賞を受賞。時代小説の他に『蒼穹の昴』、『中原の虹』などの清朝末期の歴史小説も含め、映画化、テレビ化された作品も多い)

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