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2018年10月に作成された記事

教師にできることは、荒れている生徒の精神的な自立をサポートすること

 東京での中学教師歴はすでに20数年。若々しい表情の割に髪の毛は全体が白くなりつつある。
 子どもの抱かえているストレスを憂いている。中学生の荒れもまた、ストレスが生み出しているのではないかと。
 そのために教師ができることは、生徒の自己決定権を認めること、思春期における精神的な自立をサポートすることではないかと、次のように述べている。
「子どもが、あるべき姿からはみ出したら、直させる」という取り組みをやったが、うまくいかなかった。
 子どもたちに直させると一度はきちんとするんだけど、また戻ってしまう。モグラ叩きみたいなものです。
 表面的に柔順にしているから許してしまうんだけど、それは子どもの本音ではないんですね。子どもは「謝らないと帰してくれないじゃん」と言う。
 よく言うんですけど、教師の側の「指導したつもり」、子ども側は「聞いたふり」ってね。
 そのうえ問題だったのは、教師と子どもとの関係が悪くなっていったことです。
 怒ったり、説教したりを繰り返すたびに、開き直るようになっていく。次から次へと問題が起きて指導すればするほど子どもたちは悪くなっていった。
 これじゃ、ダメだと思いました。教師が考えている「あるべき姿」がズレている、と考えた。
 で、発想を転換して、子どもたちの現在のあるがままの姿を受け入れていこうと。
 それと、子どもが問題を起こしたときにこそ、子どもとの対話が成り立つということ。
 ふだん、子どもの考えていることを聞こうとして「ちょっと話そうよ」と言っても「え、何もやっていないですよ」で終わり。
 それが、事件があると「どうして?」と尋ねられる。そこから子どもが何を考えているのかが聞けるわけです。
 子どもと話すときに、とくに注意したことは、問題を起こした生徒に、なぜダメなのかをこんこんと説明したり、指示したりはしないようにしよう、と。
 あくまでその子が自分で結論を出させるようにサポートしていくことです。その子の問題解決力を引き出す。
 例えば、誰かが友だちを殴った。まず、その子に
「どうして殴ったの。きっとわけがあったんじゃない」と聞きますよね。
 すると「ムカついてた」と答える。
「どうしてムカついてたの?」
「関係ねえよ」
「いいだろ、教えてよ」
 そのようなやり取りをするうち
「朝、家を出るとき、うちのババアがムカつくことを言ったから、むしゃくしゃしてた」
 従来なら、ここで「何言ってんだ!」となったところですが、そこからさらに聞いていくわけです。
「じゃあ、あの子は何も関係なかったんだね。きみがそんなことされたら、どう思う?」
「ムカつくよ」
「今度、彼はきみが近づいたら逃げるよ。それでもいいの?」
「もうしねえよ」
 形だけで謝るより、まずは「やらない」と結論を出したことが大事だと思うんです。
 またやることもある。それは仕方ない。でも、繰り返していくうちに、最後は、こんなことしたら友だちなくしちゃうなって気づきますよ。
 中学校の教師なら誰でも経験しているでしょうけど、どんなにグレてた子でも30歳を超えて大人になると、たいていは分別のある青年になっていくんですよ。
 全員とは言わないけど。中学校のときに問題児だったから先の人生が決まるなんてことは絶対にない。
 それを僕ら教師は知っていながら、それでも鋳型にはめようとするんです。
 僕は、あまり怒鳴らなくなりました。昔は怒鳴ってましたよ。
 でも、長い目で見ると、怒鳴ることで良いことなんて何もないと思ったからなんです。
 最近で怒鳴ったのは、去年2回、今年1回。
 ドアを蹴って、別のクラスの授業に入りこんだ子とやり取りしている最中、つい怒鳴っちゃった。
 すると、僕の話がその子には入っていかないのね。そのときは、別の先生が仲介してくれて、やっと話してくれた。
 あとで反省しましたよ。怒鳴っても、こっちの声が届かないと意味がないんです。
 相手が心の受信機のスイッチを入れないと。
 教師が子どもに、スイッチを入れてもらうような作業をしないといけない。
 怒鳴ることで行為が改まるのは、単にびっくりしてやめるだけですよ。
「怒鳴るにしても、真剣に怒鳴れば通ずる」と言う人もいるけど、僕はそうではないと思っています。
 きつく叱るとすぐ結果が出るために、怒鳴る側の自己満足になっていることのほうが多いんじゃないですかね。
(
宮下 聡:元東京都公立中学校教師。都留文科大学教職相談システム相談員
)

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子どものとらえ方はしなやかに、そうしないと子どもに寄り添うことも、子どもを受け入れることもできない

 心理学でかつて学んだ知識だけで、子どもをとらえることは出来にくくなりました。さりとて、教師の経験だけを頼りに子どもをとらえることにも無理があります。
 こうなるとどうでしょう。あるがままの子どもを、あるがままにとらえるしかない。
 もちろん、あるがままの子どもをとらえたとしても、そのすべてを教師は肯定することもできない。何を伸ばし、どこを改めるかが教育であり、生徒指導であるはずです。
 ところが、それを性急に行おうとすると、もろい子どもは崩れます。子どもの中には、反発、反抗する子どももいるのが現実です。
 ですから、どこから手をつけ、何から手を打つかが、学級経営や生徒指導なのです。
 しなやかで柔軟に子どもをとらえ、しなやかに経営を進める。それは、子どもにおもねることとは違います。
「こんなことをする子どもなんて」と、子どものことで戸惑ったり悩んだりする教師が、急増していることも事実です。
 そして、教師のめがねにかなわない子がいると「これは問題児だ」などと、レッテルをはりかねません。
 しかし、はってどうなるのか。はられた子どもや保護者はどうなるかを考えなければなりません。
 職業的な慣れほど恐いことはないし、子ども理解の際に、それを慎まなければと思います。 
 困った子どもだなどと思わず、その子に寄り添うことが必要です。あるがままに子どもを受け入れて、寄り添うようにするのです。
 そうしなければ、子ども理解もできないし、子どもと関わることもできない。教師の仕事の大事な部分は、こうしたところにあります。
 教師は、子どもを注意したり、指導的な言葉を発したりすることに、ずっと慣れてきたでしょう。
 でも、その慣れが通じなくなっていると考えるしかなさそうです。
 教師の仕事はつらいと、思う日があるかもしれません。
 でも、つらいのは教師だけではありません。
 教師の目からみれば、困った、荒れていると思えるような子どもも、鬱積したさまざまな感情を抱いて教室に集まってきているのです。
 そうしたことへの理解や思いが教師にないと、子どもに寄り添うことはできかねます。
 子どもを受け入れることも、できない
でしょう。土台は、教師の人間観かと思うのです。
(
飯田 稔:1933年生まれ。千葉大学附属小学校に28年勤務、同校副校長、千葉県浦安市立小学校校長を経て、千葉経済大学短期大学部名誉教授。学校現場の実践に根ざしたアドバイスには説得力がある)

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保護者とのトラブルが長期化するのは「初期対応のまずさ」と「感情的なもつれ」がほとんどである、どうすればよいか

 向山洋一先生が、理不尽な要求を繰り返す親たちを怪物にたとえて「モンスターペアレント」と命名された。
「モンスター」という言葉がこれほど広がったのは、もはや社会的に見過ごせない深刻な問題になっているからだろう。
 最近は保護者から、常識はずれとしか言いようのない抗議や要求で、学校運営をめちゃくちゃにしてしまう事例を耳にするようになった。
 そこで私は次の4つの項目に当てはまる親をモンスターペアレントと定義した。
(1)
学校や教師にささいなことで文句を言う
(2)
延々と抗議し、攻撃的な要求をする
(3)
学校の教育計画が滞り、子どもに悪影響が及ぶ
(4)
教師が病気や休職に追い込まれる
 彼らは、要求が通らないと、どんどん過激になっていくので厄介だ。
 たとえば、毎日のように学校に来て、校長や担任に「土下座しろ」「教師を辞めろ」と何時間も迫る。「子どもを登校させない」「裁判に訴える」と脅す。
 教師の中には、対応に悩んで病気になったり、辞めたりした人もいる。
 トラブルが深刻化、長期化するとき一番犠牲になるのは、子どもというケースが非常に多い。
 例えば、要求を聞き入れないと子どもを学校にいかさないというようなことや、教師が保護者対応に多くの時間を取られ、疲れ果て、他の子どもと向き合う時間が減ってしまうこともある。
 学校が安易にモンスターペアレントをつくり上げてしまうケースもある。
 教師が保護者をいったんモンスターペアレントと思い込んでしまうと、教師は自ら保護者を理解しようとする姿勢がなくなり、学校と保護者は敵対関係になってしまい、解決の糸口さえ見つからなくなることも多々ある。
 学校と保護者とのトラブルが長期化する多くのケースは「初期対応のまずさ」と「感情的なもつれ」がほとんどである。
 迅速な初期対応をするために必要なことは「少しの勇気」と「豊富な知識」と「コミュニケーション能力」だと、私は考えている。
 苦情対応の専門家の関根眞一は
「クレームにうまく対応できない教師が多い。これまで先生と呼ばれてきたわけですから、苦情を言われる側に立たされてしまうと、どうしていいか分かりません」
「頭を下げる経験も少なかったでしょうから、お詫びの仕方からして、うまくないのです」
「多くの教師が苦情で病んでいるのは分かります。しかし、苦情に対して不勉強であることも事実で、苦情の対応をもっと学んでほしいと、痛感せざるを得ません」
「教師といえども、苦情社会の中で生きていくためには、苦情対応能力を自分自身でスキルアップすべきです」
「解決の道は、経験とともに、対応に必要な知識を知ることです」
と述べています。
 苦情の初期対応で大切なことは、かまえないで自然に対応することである。
 とにかく、保護者の主張に対して一定の理解をしようとする気持ちが必要だと思う。
 理不尽な要求と思っても、そのような要求が起こる背景を考える必要があるのだ。
 そして、謝罪の必要性や寄り添う必要性、説明の必要性を考える。
 人間は誰しも怒ったり泣いたりするときは、それなりの負担が心にかかっているはずだ。
 私が対応した様々な事例の経験から考えると、なぜ、目の前の人は怒っているのか、泣いているのか、何となく気の毒に思えてくる。
 たぶん、そのとき私自身が相手の気持ちを受け入れようとする作用が働いているのだと思う。それが微妙に相手に伝わるのか、相手の感情も少し落ち着いていくことが多いようだ。
 学校が苦情に対応しようとするときに、苦情の内容が正当なのかどうかの判断をする必要がある。
 その判断の根拠になるものに対する知識がなければ判断のしようがない。私は判例を参考にすることがよくある。
 苦情の初期対応に必要なものはまさしく「豊富な知識」ではないだろうか。
 つまり、教育に関する専門的な知識はもとより、法令もこれからの教師にとって大切なツールになると思われる。
 教師はとかく法規法令にはうとい。一通り教育法規を心得たうえで、教育活動に根拠をしっかりもって取り組む必要があるのではないだろうか。
 子どもへの教育方針の違いや教育に対する価値観の違いをぶつけてくる保護者が増えている。
 それに対して、どのような根拠で、どのような方針でということを明確に答えられるようにしたいものである。
 単に教師自身の教育理念や価値観を押しつけるだけでは、もともと理念の違いから苦情を言っている保護者にとっては、違和感とともに隔たりを感じるばかりで、これではお互いの考え方が違うということを確認しただけのことになってしまう。
 教師は感情管理をしなければならない感情労働職である。
 特に、保護者との初期対応のときは、どのような言葉を浴びせかけられても、その場に必要な感情表出を必死で感情管理をしなければならない。
 このような感情管理は、これからの教師に求められるスキルのひとつではないだろうか。
 問題がこじれてから対応しても対症療法的なものになってしまう。保護者の無理難題を封じ込めるということではなく、学校と家庭が信頼し合うための対応策が必要なのではないかと思う。
(
西尾隆司:豊中市教育委員理事
)

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教師の言うことを、子どもが心から従うようになるには、どうすればよいか

 子どもがバラバラになり。教室が騒然となる原因は教師にある。
 子どもの責任にする教師は、いつまでも、技量が伸びない、伸びようがないのである。
 自分の責任として考えるから、何とかしようと思うから研究するのである。
 教師が「子どもを動かす法則」を知らないからいけないのである。
 では「子どもを動かす法則」は何か。それは、ただ一つである。
「最後の行動まで示してから、子どもを動かせ」
 子どもを動かす秘訣は、これに尽きる。
「最後まで、どうやっていくか」ということが、わからないから、子どもは場当たり的に行動するのである。
 この法則を支える補則は
(1)
何をするのか端的に説明せよ。
(2)
どれだけやるのか具体的に示せ。
(3)
終わったら何をするのか指示せよ。
(4)
質問は一通り説明してから受けよ。
(5)
個別の場面をとりあげ、ほめよ。
 これを、子どもたちに「校庭の石拾いをさせる」ことを例に説明します。
 教師はやることを、子どもたちに端的に示さなくてはいけない。よけいなことは言わない方がいいのだ。
「これから校庭の石を拾います。石はこのバケツに入れます」
 次にどれだけやるかも、端的に示す。
「五分間だけ拾います。五分たったら笛をふきます」
 これだけでも、子どもはやることがはっきりする。
 終わったら、どうするかも、前もって指示しなくてはならない。終わった時にどうするかという指示がないと、活動した後、崩れてしまう。
「終わったら、今の場所に集まって、すわって待ちます」
 さて、ここまで言ってから質問を受ける。途中で質問を受けてはならない。途中で質問を受けると、子どもたちの頭の中が混乱する。
 まず、最後まで一通り説明するのである。すると、はっきりとしたイメージが描ける。それから質問を受ける。
 一度、説明したことを二度言わなくて良い。「前に説明しました」と、きっぱり言えばよい。
 例えば「木の枝も拾うのですか」というような質問が出る。答えは端的に言う。「拾います」これだけでいい。
 質問はスピーディーにやっていくのである。長々と聞く子には「短く聞きなさい」と言う。動作の指示に対する質問は短くさせた方が良い。授業の場なら長々と聞く時もある。
 以上のことをすべて2,3分で終える。
 こうしてから子どもに石拾いをさせる。
 終わったら、子どもたちが集まってくる。やらせっぱなしはいけない。
 こういう活動の時に、光っている子どももいる。それをとりあげてほめる。
「〇〇さんと、△△さんは、こんなにいっぱい拾ってましたよ。先生は、すごいなあと思いました」
 これくらいでいい。まじめに仕事をした、そして授業では目立たない子をほめる。
 時には、仕事をしない子もいる。仕事をしない子を叱りたくなる。叱るのは、後になってからでもいい。
 まずは、ほめることだ。子どものいいところをさがしてやることだ。
 こうすると、学級全体の子どもが変わってくる。さぼっていた子も、さぼらなくなる。
 そうなってきて、なお、さぼる子なら叱ればいい。
 ところが、教師は、しばしばこれを逆にする。悪い子を叱るだけで、良い子をほめないのだ。教師は悪いところたけを見ているのである。
 子どもを評価するとは、まず、良いところを見てあげることだ。それをほめてやることだ。
 ほめてほめて、ほめまくるくらい、良いところを見てやることだ。
 それから、悪いところを叱ればいい。
 自分の良いところを見つけてくれる教師の言うことなら、子どもは心から従うのである。
(
向山洋一:1943年生まれ、元東京都公立小学校教師、教育技術法則化運動代表を務めてきた。教師を退職後、TOSSインターネットランドの運営に力を注いでいる)

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子どもを見ていて、やばいゾって場面があったとき、修羅場の経験が役立つ

 ある地方都市の小学校のベテラン教師。子どもの頃は相当なワルだったとは本人の弁。
 港町で育ったから、荒っぽい港湾労働者や海上生活者がいっぱいいて、カツアゲや刃物事件は日常茶飯事。
 そうした修羅場を生きてきた経験が教師の仕事に大いに役立っているという。
 学校での事件や、不祥事の対応に「そうした教師の経験・資質の差がでるんです」と具体的な事例をまじえて話してくれた。
 学校のなかで、なにか事件とか事故が起こったときに、教師が最初になにを考えるかというと、いかにして学校のなかでうまく決着をつけられるかを考える。
 表向きの理由は「子どもたちを傷つけたくない」「子どもたちに配慮して」ということなんですけどね。でも本音は「内々で済ませたい」と。
 学校でできることは何かというと、再発を防ぐ努力をするしかないわけ。
 学校の不祥事というのは、いじめなど内部で処理できなかった問題を指すんです。
 外部に漏れて問題になるのは、一つには内部告発があるから。対応に親が満足できなくて、教育委員会やマスコミ、警察に通報するとか。
 どんな小さな問題でも教育委員会から調査が入る、そうなったときは大変な騒ぎになります。
 なにか事件や事故があった時、それをどう対処するかは、教師それぞれが持っている経験や資質に左右される
 いまは教師自身が比較的いい子ちゃんで育ってきているから、いざ何かあっても自分の判断で対応できないんですね。
 例えば、殴り合いのケンカで脳震盪を起こして倒れている子どもを、どうしたらいいかなんて経験している教師は、なかなかいないわけです。
 僕のように経験があって、落ち着いて対応できれば不祥事にまでならないで済むことが多いんですけど。
 親が学校に怒鳴り込んできた時、教師の対応がだいたい三種類くらいに分かれる。
 いたたまれなくてその場からスッといなくなる教師。ただオロオロしている教師。とにかく売り言葉に買い言葉ですぐケンカしてしまう教師。
 僕なら、そこで「どうしました」と、まずお茶でも出して、ワンクッション置いて、とりあえず落ち着いて話を聞こうよってことが、どうしてもできないんだよね。そういう初歩的な対応が。
 僕にも、ここはちょっと緊張して頑張らないと、やばいゾって場面が一週間に一度はありますよ。
 子どもを見ていて、こいつ、ちょっとキレそうだからしっかり見ておかなきゃとか。あの子はちょっと元気がないから家まで送ろうかとか。あの親に一本電話しておこうとか。
 そういうのは、本当に勘だけど、それが結構、当たっちゃうから嫌だよね。
 例えば、子どもが頭を打ったら、すぐに病院に連れていく。そのときに痛いとか意識あるとか、担任と養護教諭がいろいろ様子を見ますよね。
 そういった経過も含めて、親にきちんと言うのと言わないのでは、もう全然違うんですよ。
 それをせずに、子どもが家へ帰って夜に、もどしたなんてことになったら大変ですよ。ところがその一言、一本の電話ができない教師がいる。
 それができないのは、経験のない若い教師ばかりといえば、そうじゃない。年配の教師でも「うるさい親だから」ってやらない教師がいるんだよね。
 リスクに対して、どう対応するかってことは大事。
 あんまり、こういう言い方は良くないかもしれないけど、やっぱり教師って、修羅場を経験していない人が多いんだよね。
(
地方都市の小学校教師
)

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子どもの心を引きつける教師に共通していることは何か

 子どもの心を引きつける教師に共通しているのは、明るく元気でよく働き、気持ちが安定していて、子どもの言動にアンテナを高くして敏感であり、「あとでね」を絶対に言わない。
 忙しい合間をぬって、運動場で一緒に遊んだり、始業前や放課後などに、子どもと何気ない会話に興じている教師は、子どもからの信頼度が高い。
 一言で言えば「授業がうまくて、明るくて、元気で、人間味にあふれる先生」である。
 日々の学校教育は、情熱的で前向きで元気な先生によるところが大きい。
 教師に求められることは
(1)
子どもに対する愛情と温かいまなざしと励まし
(2)
仕事への情熱と誠実さ
(3)
厳しさとやさしさ
こうした指導が、子どもの心にしみこむのである。
 子どもは、笑顔、励まし、まなざしの中で「元気」と「勇気」が湧いてくる。
「自信」と「達成感」と「居場所」が子どもにあることだ。そのためには、授業、友だちが必要条件になる。
 なかでも、わかる授業を日々、子どもに提供しているかどうかが要になる。
 教師の的確な発問に子どもたちが元気よく答える。子ども同士のうなずきや問い返し、共感や支持など、学び合い、支え合う学習集団があるかどうかである。
 真剣に学ぶ規律ある教室の空気が子どもたちの落ち着きをつくりだし、学びを深める。
 子どもたちは、意見を発表することで学級に居場所を感じ、授業に達成感や自信をもつ。
 そのためには、子どもたちへの深い愛情と専門的な指導技術が伴ってこそ、日々の実践が成り立つ。
 また、教師は人間の先輩として
(1)
よく学ぶ先生がよく教えることができる
(2)
人間的な温かさと協調性をもつ(ユーモア、気配り)
(3)
社会的な常識と責任感をもつ(あいさつ、返事、身のこなし)
などが求められている。
 学校で授業をしているときだけが教師の仕事ではない。
 教師の人間性や人格そのものが、子どもにとって「教科書」「お手本」である。
 その意味で教育は奥が深いし、教師の責任は非常に重い。
 子どもは、日々成長し「毎日が旬」である。教育は、子どもたちが元気に生きていくことへの限りない励ましである。
「実は、先生に出会ったおかげで、今の自分がある」と、教え子に言ってもらえたら教師冥利に尽きる。
(
明石一郎 大阪府公立小学校教師、全国同和教育研究協議会事務局長 大阪府教育委員会指導主事、貝塚市立小学校校長を経て関西外国語大学教授
)

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どのような教師が生徒になめられるのか、なめられないようにするにはどうすればよいか

 思春期の中学生は、教師が生徒に影響を与えるものは「教師の人間的魅力」「教師役割の魅力(授業の教え方がうまい)」「罰・強制性」の三つとみています。
 中学生になると「教師の人間的魅力」と「授業の教え方がうまい」と感じているときは、その教師の指導に従おうとします。
 しかし、どちらか一方の場合であってもよい。たとえば友人関係の相談はA先生、勉強の相談はB先生と教師を選択するようになるでしょう。
 中学生は、教師の理想的な姿として「授業の教え方がうまく」かつ「熱心」というイメージを持っています。
 理想を求める思春期の中学生は、自分たちの言い分を何でも認めてくれ、ものわかりのいい教師であっても、授業の教え方がうまくない教師を心から信頼しないようです。
 熱血一本槍の一面的な教師も、生徒はどこか冷めて見てしまい、心から信頼感がわかないのです。
 罰・強制性は、中学生と教師の心理的なつながりを少しずつ引き離す影響力があります。
 高圧的なものの言い方や叱責による指導をすると、中学生は強い反発を覚えます。
 最も中学生がきらう教師の対応があります。それは、生徒との対決を避け、生徒の批判の矛先をかわそうとする教師です。生徒はそういう先生を「なめる」のです。
 生徒になめられる教師は、「叱るべきときに、厳しく叱れない」「人間的な魅力がない」「教え方がへたで、熱心さ、指導力がない」と、生徒に感じられている教師ということができます。
 ただ、強く叱るだけで、生徒からなめられないようにしているとしたら、いつか手痛いしっぺ返しを受けることがあるでしょう。
 逆に、強く叱らない教師のなかにも、全く生徒からなめられない教師もいます。
 それは、ふだんから「教師の人間的魅力」と「教師役割の魅力(教え方がうまくかつ熱心で指導力がある)」と、生徒に強く感じさせている教師です。
 したがって、中学校の教師は、「教師の人間的魅力」と「教師役割の魅力」を、ふだんから、生徒に強く感じさせるような対応を積み重ねておくことが求められています。
(河村茂雄:1959年生まれ、早稲田大学教育学部教授。15年間公立学校教諭を経験した。学級崩壊,学級経営など教育実践に生かせる研究成果を多数提供している)

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「わからない」と言った子どもを「すばらしい」とほめていますか

 あなたの学級に「わからない」と言える雰囲気がありますか。
「わからない」と言った子どもに、あなたはどのように対応していますか。
「わからない」と言った子どもを「すばらしい」とほめていますか。
 教師に、正直に「わからない」と言ってくれる子どもは、教師を成長させてくれる大切な存在です。
 それなのに「できない子」というレッテルをつけて、見放していませんか。
「わからない」と言った子どもをそのまま放置して、それが一人、二人と増えていくと、学級全体の子どもたちが、学習意欲を失っていき、学級の雰囲気も悪くなっていきます。
 保護者からも「先生は、わからない子どもを放っておいている」という評判を立てられることにもつながる。
 子どもたちのちょっとした「つぶやき」にも、教師は聞き逃さないで
「〇〇さん、どこがわからないのか、言えるかな?」
などとたずねて、わからないところを具体的にその子が言えたなら、ほめてあげる。
 そして「わからない」と言った子どもに合わせて授業を組み立てたりして、その子に対して何らかの対策を講じていく。
 そうすることで、その子は教師を信頼し、好きになっていく。
 子どもたちも、安心して「わからない」が言える学級の雰囲気ができてくる。
「わからない」と言える子どもを学級の中で支えていく教師の姿を、他の子どもたちは見ているのだ。
「わからない」ところをとらえて「教え合い」や「協同的な解決」の場をつくることで、子ども同士の絆がより深まったり、教師への信頼感が増したりしていく。
 これが学級の力ともなり、後にしっかりと学級を支える子どもたちに成長していく。
 子どもを通して、保護者もまた学級担任を信頼するようになっていく。
(
成瀬 仁:新潟県公立小学校教師。国立大学教育学部非常勤講師、オーストラリア公立小学校での勤務経験がある。また、幼稚園の経験もあり、多彩な教職経験を生かし、子どもと環境、教師の雰囲気を考えている
)

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仕事が趣味なら人生は天国だ、私は教師としての仕事を趣味にするように努力してきた

 私は教師になりたくてなったわけではない。母親が私を田舎に引き止めるために「教師になってくれ」と言われてなったのである。
 大学に入って教育の勉強を始めてみると、なかなか面白い。それに、小原国芳学長の人柄と講義の面白さにとりつかれた。これで完全に「教師になる」ことに決心がついた。
 教育実習でお世話になった先生が、これまた人格者で私は深く尊敬の念を持った。その感化を受けて、社会科へのめり込んでいった。
 教育実習に行って初めて専門性に目覚めたのである。それに、子どもと遊ぶこと、触れ合うことの面白さ、楽しさを実習で味わった。
 教育実習で、すばらしい先生とかわいい子どもに出会い、教師になることに喜びを感じるようになった。
 教師になって担任として出発してみると、教育実習のときに感じたような楽しさはなかった。思うように子どもは動いてくれず、悩みばかりつのる日々であった。
 尿の色が変わり、体調が悪くなった。食欲もなくなり食べ物を胃がうけつけなくなった。翌日は、体中が黄色くなり学校を休んだ。
 この時「教師という職業は、私の体に合わないのではないか」と思い、学校をやめたくなった。教師になって3か月目のことである。
 気分転換と趣味と子どもと仲よしになるという実益を兼ねて、月2回くらい、日曜日に子どもたちとあちこちへ出かけるようになった。これで気持ちが変わり、体調もよくなってきた。
 社会科の研究が面白くなってきた。少し勉強して授業を行うと、子どもたちの反応が違った。子どもたちのためにも勉強しなくては、と考えるようになった。
 バイクや車を購入して取材に出かけるようになった。これが楽しくてしかたがなかった。取材したところをスライドにしたり、資料にしたりして、授業の改善に取り組んだ。
 社会科の教科書にでている事例地へは、ほとんどでかけて取材した。自分で歩き、調べ、体験したことの中から「これは面白い」と思うものを教材化して、授業に提示した。今考えるとこれが教材開発だったのである。
 取材して面白い事実を見つけて提示すると、子どもたちが喜んでくれる。これがうれしくて、また取材に出かけるということを繰り返した。これが、私の「生き方」になっていることに気づいた。
 教材を開発しては授業を行い、授業をしてはその実践の事実を書くようになった。
 人間は、その時その時「楽しい、面白い」と思うことしか、しないものである。「楽しい、面白い」と思うことが、教師のするべきことと結びついたのがよかったし、幸運であった。
 教師として活動することは「子どものためになる」「子どもとかかわる」ことにならなければ意味がないし、価値もない。
 私は、常に「子どもを喜ばせたい」という願いをもっていた。このために「自分は今、何をすべきか」というように考えてきた。
 今すべきことが、自分にとって「楽しいこと、面白いこと」になるように努力してきた。これを切り離さないように気をつけてきた。
 つまり、趣味と実益を切り離さず、一緒のものとしてやるように努力してきたのである。
 私は、教師という仕事を「趣味」にするように努力してきた。子どもを教育することは、楽しいことだ、と考えるようにしてきた。
「考えるようにしてきた」ということは、楽しいばかりではなかったということである。それどころか、苦しいことや困難なことのほうが多かった。
 しかし、この困難なことや苦しいことを乗り越えたときのうれしさは、たとえようがなかった。困難なことに出会うと「うれしいことが待っている」というように考えてきた。
 こういう努力をしていると、誰かが、どこかで見ていてくれることを知った。
 わずか2ページの小文を一生懸命に書いた。知られるような雑誌ではなかったのに、明治図書の編集長から連載してくれと言われた時は、本当にびっくりした。
 公立小学校に9年勤めた後、2つの附属小学校へ25年勤めさせていただいた。誰かが、どこかで見ていて、入れてくださったのである。
 人を育てることほど楽しいことはない。物はつくってもなくなるが、人はどんどん成長していく。特に、子どもは大きく成長する。将来、どんな人になるか楽しみである。
 私は「仕事を趣味にする」ようになった。
仕事が趣味なら人生は天国だ。仕事が義務なら人生は地獄だ」という言葉がある。
 私は「仕事が趣味だから仕事をすることが一番楽しい。いくら遊んでも、私の仕事をする楽しさには及ばない」といった、心境である。
(
有田和正:19352014年、筑波大学付属小学校,愛知教育大学教授、東北福祉大学教授、同特任教授を歴任した。教材づくりを中心とした授業づくりを研究し、数百の教材を開発、授業の名人といわれた)


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教師が子どもを叱ることの神髄とは、何か

 私たち教師は、ほめるのが上手でない。生徒のころから、コツコツ勉強するタイプの教師が多いからではないか。
 だから「なまけて、いたずらをする」子どもに対する、教師自身の実感がないので、そういう子どもの理解が乏しい。
 いたずらをする子どもをほめても、心の中でそう思っていない顔をしている。子どもは敏感で、そういうことはすぐわかってしまう。
 ほめるとか叱るとかは、相手の心、子どもの気持ちに訴えて、相手が変わることを期待してのことで、その根底には相手への愛がある。
 わざとらしくなく、自然のうちに出てくるような、そんな愛情に裏うちされたものが望ましい。例えば、叱るとき
「きみが、そんなことやったとは、いまだに信じられない」
「失敗をどうしたら生かすことになるのか、一緒に考えて行こう。自分の失敗を考えるのは、つらいことだろうが、失敗を薬にするために、じっくり考えてほしい」
 こういう言い方の中に、教師のあたたかい愛情がにじみ出ていく、そんな気づかい、心くばりが大事だと思う。
 ほめた自分、叱った自分が、相手によく思われたいとか、感謝されたいとかいう気持ちがひとかけらでもあったら、そのイヤラシサが見透かされてしまう。
 叱った教師が自己満足に過ぎない場合などは、なおさらである。そういう場合は、効果がないどころか逆効果になる。
 ある行為を直させようとして叱ったつもりが逆効果になる。そういうことは、よくあることだ。
 そのときの叱り方がいけないとか、もっと厳しく叱らなければならないとか、叱り方が問題になるが、もっと大事なことは、叱った自分の気持ちなのではないか。
 どんな気持ちで自分は叱ったのか、どんな気持ちで、その生徒にそんな話をして聞かせたのか、そういうことではないだろうか。
 親が自分の性格で自分の嫌いなところを、わが子に見いだして不機嫌になる。そういうわがままが人間にあるものだ。
 そして「自分がこんなに一生懸命にやっているのに、お前には、わからないのかァ!」などと相手のせいにする。
 教師とても同じことだ。自分と同じ立場の同僚が
「そうだそうだ、もっと厳しくやったほうがいい!」
「〇〇先生、あなたが怒るのもムリはない」
などと言うから、教師は、つい、叱る自分の気持ちをつきつめずに終わる。
「どんな気持ちで、自分は叱ったのか」
「どんなことを期待して、自分は〇〇しようとしているのか」
 そして、それは「子どものため」なのか「子どものためだけなのか」それとも・・・・と、つきつめて考えることが、非常に重要である。
「人に物をあげるのに、一番よいあげかたは、相手に物をもらったという気持ちを起こさせないことである」
これは、ある先哲の言葉である。
 教師がだれをも叱っていない。しかし、学級の生徒一人ひとりの心に、自分を叱る自分を感じさせる。こういう実践こそ、叱ることの神髄といっていいと私は考えている。
(
関根正明:1931年生まれ、小・中学校教師、指導主事、東京都公立中学校校長、大学助教授を経て、元山形大学講師
)

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教師は、自分を変え、元気をつくり出そう

 私の率直な感想では、一人ぼっちの教師や他の人とあまり交流のない教師は、どうしても暗さがただよっている感じがしてなりません。
 これは教師にとって決してよいこととは思えないのです。なぜなら、子どもは暗い教師をきらいますし、保護者も忌避しがちです。また教師同士でも、前向きなはずんだ関係をつくりにくくなるからです。
 子どもたちは、とりわけ先生の明るい元気な顔を求めているのです。
 教師の中には、生まれつきなのだから、しかたがないとあきらめたり、一人で悩んでいる人が少なくありません。
 私はそういう人たちに「子どもたちのために、自己改造の努力を。努力すれば明るさを身につけられるのですから」と強く言いたい。
 例えば、つぎのようなことを工夫すると、相手に明るさが伝わるのです。
(1)
子ども、保護者、同僚教師と対話するときは、必ず相手の顔(目)を見ながら話すといい。
(2)
相手の話に共感したときは「ふんふん。なるほど」というように、うなずきながら聞くといい。
(3)
自分が話すときは「語尾」を上げて話すとよい。感激が大きく伝わります。
 語尾を上げて話せば誰がやっても相手に明るい雰囲気を伝えます。
 この話を講演でしていたら、20歳代の女性教師が講演を聞いた後、
「鏡を見ながら、一生懸命にやってみたんですよ」
「お風呂の中で、ひとりごとのように言いながら練習してみました」
と、明るい声で話してくれました。努力したことが、自己改造に結びついたというわけです。
 さらに暗さの克服には、相手の心にひびく話になるように内容のくふうをすることも必要です。
 相手に内容がよりよく伝えられるようになれば、人と人との交わりに抵抗がなくなり、孤独感や対人ぎらいも克服できるようになるからです。
 それには、他の人の話を注意深くみつめることが大切だと思います。
 他の人の話を聞いて、どのような内容を選び、どんな組み立てをし、話すときのメリハリをどうつけているかなどを、注意深くみつめるとよい。
 その意味では、先輩や同僚教師は「生きた教科書」としての存在価値をもっていると思います。
 私も、先輩や同僚教師からたくさん学びました。「すばらしい」「心を引かれた」と感じさせられた教師には、話す内容に次のようなポイントがありました。
(1)
感動的なエピソードや子どもの心を引きつける身近な題材を選んでいる。
(2)
結論を先に話し、だらだらと話さないで「短い」話をつなげ、よぶんな部分は省略して、中心となることをもりあげている。
 ということです。これは、教師の日常の授業や生活指導にも必要なことだと思いました。
 例えば、教師が教室に入って、黒板が汚れていたとき、どう話せばよいのでしょうか。
(1)
よくない例
「ほら、黒板が拭いてないけど、黒板係は誰なの」
「早くきれいにしなさいよ。黒板係になったら、責任をもってやるように、いつも言っているでしょ」
(2)
よい例
「あれ、黒板の係は忙しかったのかな。いつもより汚れているね」
「みんなそう思わないか?」
「先生が拭こうかね。それとも黒板の係の人にやってもらう方がいいかな?」
 両者を比べてみると大差はないようですが、受けとる側の子どもたちに聞いてみると、ずいぶん違うようです。
 子どもたちは、(2)の方が「聞きやすい」「やさしい」「明るい感じ」だと言うのです。
 子どもの意識を引きたてるようにくふうされ、結論をさきに、歯切れよく、よぶんなことを省く話し方になっているからです。
 教師と子どもとの結びつきをつくるには、教師の説明などをエピソード(魅力的な小話)風に伝える工夫をするもの大事なことです。
(
坂本光男:19292010年、埼玉県生まれ、元小学校・中学校・高校の教師。教育評論家。日本生活指導研究所所長・全国生活指導研究協議会会員)

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「まちがい」を笑う子どもを教室からなくすには、どのように説得すればよいか

 教師になりたてのころ、授業中、子どもの「まちがい」については、特に意識しなかった。
 子ども同士、まちがう子を笑っていたし、私も思わず笑ったりした。
 あるとき、まちがいを笑われた子がうつむいて涙をこぼした。私はハッと胸を打たれ、目を開かされた。
 他の教室をいくつか授業参観していると「まちがいを笑う教室」と「笑わない教室」があった。よく注目して見ると、その原因は教師の姿勢、構えにあるのだと気づくようになった。
 私が担任したクラスでも、友だちの「まちがい」を嘲笑する教室の雰囲気があった。「これではいけない」と痛感した。
 保護者会で、ある母親が「わが子が、わかっていても手をあげないのは、友だちに笑われてからです」と言った。
「まちがいを笑う教室」「まちがいを気にしすぎる子ども」という二つの現実があり、子どもも、教師も「まちがい」の考え方や気持ちを変えていかなくてはならない大事な問題なのだと思った。
 そこで、教育や授業の在り方を問い直し、子どもへの働きかけ、話(説得)を次のようにしていった。
1 子どもと共に「考え方」を変えていく
(1)
子どもたちに、学習すること実体を考えさせ、「わからない」とか「まちがい」を気にしないようにさせる
教師の子どもたちへの話(説得)
「勉強は『わからないからする』のです。だから、まちがいや失敗をします」
「恥ずかしいと気にしないことです」
「先生だって、わからないことが一杯あって、まちがいも失敗もします」
「勉強で大切なことは、まちがいを気にするよりも『わからないことを質問する』、そして、『自分の思ったことを発表する』ことです」
「それが自分の力になっていくのです」 
(2)
「まちがい」は「注意しなさい」と、教えてくれる「先生のようなもの」だと、気づかせる
教師の子どもたちへの話(説得)
「小学校1年生が『3』の数字を書くときに、黒板に『ε』と逆に書いた子どもがいました」
「すると、みんなが笑ったり、バカにしたりしました」
「しかし、そのまちがいのおかけで、クラスのみんなが『3』という数字の書き方をしっかり覚えたのです」
「このことから『まちがい』や『失敗』についてよく考えましょう」
「あるとき、前を歩いていた人が、急にころびそうになりました。『どうしたのかな』と思ってよく見ると、その場所だけ道がへこんでいたのです」
「その人のおかげで、注意してそこを歩いたので、私はころばずにすみました」
「このように『まちがい』や『失敗』をした人は、私たちにとって、ありがたい人ではありませんか」
「つまり『まちがえた人』は私たちに『注意しなさいよ』と教えてくれる人、『先生のような人』だと思います」
「そう思うと、その人を笑うことはできないはすです」
2 この出会いから学んだこと
 こうして「まちがいを笑わない教室」に変わった。この出会いでのポイントは
(1)
子どもの気持ちを理解しようと常に意識し、努力していなければ「笑われた子」見つけることはできない。
(2)
「笑わない教室」へ変えるために必要な工夫は常日頃の情報収集や学ぶ姿勢が不可欠である。
(
香川英雄:教育評論家)


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あなたに子どもの心が聞こえますか?

 日頃から、言葉にはしないけれど、自分の頭の中に自分の声が流れていますよね。その時「自分の心」を聞いているわけです。
 この「心」の本質は、子どもの頃に形成され、常にその「子どもの心」が皆さんの中で、いろいろな「心」を発しています。
 本物のコミュニケーションとは、自分の中の「子どもの心」と、他の人の中の「子どもの心」との対話です。年齢も、性別も何も関係ありません。
 コミュニケーションは、心と心が通い合い、そこに「笑顔」をもたらす瞬間に「かたち」になります。
 このコミュニケーションを置き去りにすると、他者から受け入れられず、傷つき、また自分も他者を受け入れることができなくて、傷ついたりします。
 そう、生まれてからずっと息づいている「子ども心」を聞きましょう。人が人らしく生きる、それを可能にするのが「子どもの心」なのですから。
 大人になっても心に残っている小学校の頃の「子どもの心」に耳を傾けてみましょう。
 小学校時代の子どもの心は幼児期に次いで重要です。なぜならば、小学校入学以前の幼児期は、相手を通して自分を知ろう、形成しようとする時期である。
 一方、小学校の6年間は社会の縮図と言える小学校を中心に、自分の世界観を確立するために、懸命に遊び、何かを頑張り、人とは異なる自分の記録を作ろうとする自己形成の大切な時期である。
 さらに、自分の味方となる人、敵となる人、信頼できる人、心を許す人、本当に自分を真剣に理解しようとする人を懸命に見極めようとする時期でもある。
 生まれて初めて自分の心と五感を駆使して、自分と関係性を作っていく人の選別をする時期であるとも言える。
 つまり、小学校時代とは、自分の個性を発揮しつつ、大人との向き合い方もいろいろと考えながら模索している。
 ある意味で一番大人に対して厳しい、妥協のない目を向ける時期なのではないか。
 そして、自分のテリトリーの手応えを身体全体で受け止め、形成しようともがく。純粋で曲がったことが嫌いな、妥協を知らない貴重な時期であると私は考えます。
 大人としてやさしく、寛容な気持ちで、自分の中の「子どもの心」とも、他人の中にある「子どもの心」とも向き合ってほしいと切に願います。
 私たちが、今まさに「子ども時代にある子ども」と向き合う時には、大人の心の奥底にある「子どもの心」が、一番の相談役になるわけです。
 私たちがどのような生き方を提示してきたのかは、私たちが自分の内面に生息する、自分自身の「子どもの心」とどのように向き合ってきたかによって、その価値が決まります。
(
長谷部葉子:東京都出身、慶應義塾大学准教授。不登校、高校・大学受験失敗などの経験から、20歳代半ばで寺子屋を立ち上げ、教育支援に携わる。教育とコミュニケーションを研究)

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保護者の信頼を勝ちとるには「ほめてますよ」「よいところを見つけようとしていますよ」ということが伝わればよい

 学習が極端に遅れがちな子どもには、授業で使うプリントなどを、前の日に子どもに渡しておいて、連絡帳で保護者に「申し訳ありませんが、予習をよろしくお願い申し上げます」とお願いしておく。
 当然、その子は授業で答えることができる。これをやっていくと、その子は本当にできるようになっていくのである。
 このように「教師が先に謝る」ということが、保護者の信頼を得るには大切なのである。教師が誠実にお願いすれば、ほとんどの保護者の方が協力してくださるはずである。
 そして、大切なのは、その後の保護者への連絡である。
 保護者に協力していただいたら、その日のうちに「〇〇がかなり、できるようになりました。ありがとうございました」とお知らせするのである。
 お願いするばかりで、後の連絡をやらない教師がかなりいるようである。長い目で見ると、こういうことが後で効いてくるのである。
 また、こういう「お願い」をしやすくするためには、保護者会の席での、教師の話が大切である。例えば
「最初は、ひらがなも書けないので心配をかけていた子が、長文を書けるようになった」
「自分の子もそうだったが、急にできるようになる時期がある」
など、子どもの「未来像」を具体的に語っておくことが必要である。
 保護者の方に、今かけるご苦労は、後の小学校卒業するまでのことを考えると、必要な先行投資であることを分かっていただくのである。
 今、担任している1年生の学級では4月から「連絡帳に目を通していただくこと」と「学年・学級たよりを綴じておいていただくこと」を強くお願いしてきた。
 1年生から一貫した学習に対する構え(例えば、筆箱の中の赤鉛筆やミニ定規、ノートの日付や行の空け方)を作らせていくことが大事だと、懇談や通信で強調してきた。
「学習内容の定着は、準備が大きく影響しますのでお願いします」等、繰り返し連絡してきた。その結果、保護者に変化が生じてきて、忘れ物は1日1人いるかいないかである。
 子どもが家庭で教師のことをほめてくれれば、保護者は必ず教師を信頼してくれる。
 教師がどうすれば、子どもが教師のことをほめてくれるかといえば、まずは「授業が楽しい」とか「けんかの時、ちゃんと話を聞いてくれた」とかいうことである。
 だが、これだけでは不十分。次のことに注意・努力をはらっていくことが必要なのである。
(1)
どの子とも、1日1回は必ず話をする。こちらから声をかける。
(2)
どの子も、1日1回は努めてほめる。無理にこじつけてでもほめる。
 子どもは教師にほめられれば、必ず家庭で、そのことを保護者に話す。だから、無理にこじつけてでも、ほめてあげることが大切なのである。
 例えば、上手じゃなくても「本を上手に読めたね」とほめる。その時に思いついたことを片っ端からほめていけばよいのである。ほめていれば、そのうち本物になっていくということではないだろうか。
 保護者から「音読が上手にできるようになりました」などというお便りがくる。学校で練習した時に「上手になってきたね。お家でも聞いてもらいなさい」とほめるので、家庭でも、頑張ってやっているのである。そうすると、保護者の信頼は増す。
 子どもたちは、家庭で本を何回も読もうとしたりする。教師にほめられたからである。こういうわが子の姿を見ると、保護者はその教師を信頼するようになる。
「子どもをほめればほめるほど、まるで鏡のように子どもも教師のことをほめてくれる」
 私の場合は、いつもそんな感じである。学校に来られた教え子の保護者が「妹()を絶対に担任してくださいね」と言ってくださることがある。
 教え子が、いかに私をほめてくれていたかということである。
 保護者の信頼は、子どもたち全員に「ちゃんと自分の子を見ている」ということを認識していただくことで得られる。
 保護者に「お子さんのことをほめてますよ」「よいところを見つけようとしていますよ」ということが伝わればよいのである。
(
伴 佳代:長崎県公立小学校教師
)

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私は新任の頃から、どのように研修し、コミュニケーション力の指導に力を入れるようになったのか

 若い教師にとって、尊敬できる先輩教師との出会いは何よりも貴重な財産になります。
 私の場合、初任校の研修担当である教務主任でした。「ふだん、どんな授業をしているか見せなさい」と、教室の後ろに立たれました。
「ごんぎつね」を学習していたところでした。私の授業を引き継いだ教務主任が発問しても、子どもたちは何も答えられない。
「今まで、こういう勉強をしていないから仕方がないね」と言われて、私はショックを受けました。
 それまでの私の授業といえば、ただ教材を教えるだけで、指導書さえも見ていないような、お粗末なものだった。
「これではいかん」と思い、同期の教師3人と一緒に毎週勉強会を始めました。教務主任にアドバイスをいただきながら、必要な場面ではじっくり子どもたちに考えさせるなど、授業にメリハリをもたせる大切さを学びました。
 それまで、全く指導方法を知らなかったので、アドバイスがスポンジに浸み込むように入っていきました。
 自分の成長と、学び合う楽しさを実感した私は、その後も教務主任に誘われて特別活動の研究会に参加したり、国語科の教材研究を考えたり、積極的に学ぶようになりました。
 そんな時、桑田泰助先生に声をかけていただきました。当時、全国紙に執筆されるほどの力量のある地元の高名な大先輩。
 恐る恐る勉強会にうかがうと、私の実践はボロクソと言っていいほど厳しく問題点を指摘されました。
「知恵がない者が、いくら頭を絞っても知恵は出てこないよ。人と出会い、本を読んで知恵をつけなさい」と言われました。
 それからというもの、先生の話はひと言も漏らさない意気込みでノートをとり、話に出てきた本を購入し、片っ端から読むようにしました。
 ある日、私は桑田先生に「なぜいつも楽しそうに国語の授業をされるのですか?」と尋ねると、桑田先生は「道楽だから」と笑顔で答えました。
 若い頃の私は、自分の足もとしか見えず、1日をこなすことに精一杯で、授業を楽しむなんて考えもしませんでした。そんな私に、もっとずっと先まで見ることの大切さを教えてくださったのです。
 学ぶことの大切さを知った私は、全国の優れた実践に目を向け、研究会に参加するようになりました。自分の実践にも少しずつ自信をもち始めていました。
 そんな矢先、自分の根本を見つめ直さざるを得ない子どもたちと出会いました。
 教師9年目に受け持った6年生に簡単な自己紹介をしてもらったところ、何人かが涙ぐんでしまったのです。
 他の子どもたちも、話す際の声が、か細かったり、落ち着かない様子で体をずっと動かし続けたりしていて、まともに自己紹介ができる子どもは誰一人もいませんでした。
 クラスで静かな学級崩壊が起こっていたのです。崩壊した学級の冷ややかな子どもたちの現実を見た私は、愕然としました。
 自分に自信をもてず、安心感のない学級をどのように立て直せばいいのか。ゼロどころかマイナスからのスタートです。
 教育書からビジネス書まで手当たり次第に読み、研究会でお世話になっている先生方にアドバイスを求めても、納得できる答えは得られませんでした。
 そんな時、桑田先生から「話すこと」を指導してみたらどうかと助言され、やってみることにしました。
 とはいえ、当時はコミュニケーション力を育てる指導の教材や指導法などありません。私は独自に指導方法を考え、無我夢中で「話す」指導に取り組みました。
 すると、三学期の頃には子どもたちに変化が見られました。仲間とのふれあいを通して、温かい雰囲気の学級になっていったのです。
 これを機に、私は「言葉」の力を豊かにするコミュニケーション力の指導に一層、力を入れるようになりました。
 さまざまな問題を抱かえた子どもたちに自己肯定感をもたせ、教室を安心できる場にしたいと取り組みはじめたのが「ほめ言葉のシャワー」です。
「ほめ言葉のシャワー」は、その日に対象になった子のよいところをみんなで見つけ、帰りの会で発表し合います。
 さらに、朝の会で対象になった子について全員が質問する「ミニライフヒストリー」にも取り組んでいます。
 こうした取り組みの中で、子どもたちは相手を認め、自分自身も認められるようになっていきました。
 教育書やセミナー等を通じて、さまざまな教育実践を学ぶことはもちろん大切です。
 しかし、いくら優れた教育実践に取り組んでも、目の前の子どもたちの実態に合っていなければ、何の意味もありません。
 本当の学びは目の前の教室の中にこそあるのです。
 子どもたちの成長は、教師にとって、自分の取り組みが間違っていない何よりの証です。
 指導には「これは絶対」という正解がありません。だから、今でも日々気づかされることがあります。
 それがとても楽しい。桑田先生がおっしゃっていた「授業は道楽」の意味が、最近少しわかってきたような気がしています。
(
菊池省三:1959年生まれ 福岡県北九州市公立小学校教師、2015年に退職。コミュニケーション教育を長年実践した。「プロフェッショナル-仕事の流儀(NHK)」などに出演、「 菊池道場」(主宰)を中心に全国で講演活動をしている。 北九州市すぐれた教育実践教員表彰、福岡県市民教育賞受賞
)

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2学期半ばころから、子どもたちに反発されるようになった、どうすればよいのでしょうか

 子どもたちに学習習慣の定着が大事だと考え、授業や学級活動に毅然と取り組んできました。
 学級の係活動や清掃活動にも妥協せず、責任感を持たせるように厳しく取り組ませています。
 授業も粛然と展開し、宿題も一人ひとり確認しています。5年生の子どもたちには少し怖い存在かもしれませんが、教師としてやるべきことはやっていると自負しています。
 しかし、2学期半ばころから私の方針に反発する子どもが出始め、その保護者たちも私に対して批判的です。
 校長にも訴えているようで、少し厳しすぎるのではとたしなめられました。
 教師生活もあと7年、このまま定年までやっていけるのかな、という不安があります。このような場合どうすればよいのでしょうか。
 まず、子どもに受け入れられない理由を次のように考えてみてください。
(1)
子どもたちの学習が教師からの知識の注入だけになっていませんか。子どもたちが自由に創意工夫する時間と場を設定していますか?
 子ども同士の交流の場を意識して設定し、それが楽しかったという体験が、子ども同士の学び合いを促進する第一歩になるのです。
 漢字しりとりや、県名ビンゴなど、ゲーム的な要素を取り入れて、自由な雰囲気の中で感情交流できるような設定がとても有効です。
 子ども同士の心の壁が低くなり、交流する意欲を喚起することができます。
 教師も思いきって教師役割を脱いで、子どもたちと一緒に楽しむことができると、効果は一層高まります。
(2)
評価が教師の設定した基準への到達度だけでなされていませんでしたか?
 授業や活動の評価も教師だけがするのではなく、子ども同士でお互いのいい点、頑張った点を指摘し合ったり、感想を言い合わせることで、教師評価とは違った喜びや気づきもあるでしょう。
 また、子どもたちが認め合うことで、学習や活動の意欲も高まってくることが多いのです。とくに思春期に入る高学年になったら、このような認め合いは重要です。
 個人的な学習の成果、活動の成果の認め合いからスタートして、徐々にグループ活動や、学級全体の活動の認め合いができるようになると、学び合いはとても促進されます。
(河村茂雄:1959年生まれ、早稲田大学教育学部教授。15年間公立学校教諭を経験した。学級崩壊,学級経営など教育実践に生かせる研究成果を多数提供している)


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授業は発問で決まる、発問とはどのようなもので、そのポイントとは

 授業における「発問」はきわめて重要です。授業は発問によってつくられるといっても過言ではありません。
 教師から問いを出されて、考え、話し合う。それが、授業の基本的なかたちです。
 より広い視野をもつ教師から、あえて問われることによって、子どもたちは自分一人では想像もつかなかった視点から考えるようになります。
 そして、子どもたちはそのプロセスの中で、思考すること、問題を解決することのおもしろさを実感し、成長します。そして、ようやく、子どもたちは自ら疑問をもち、自ら考えられるようになるのです。
 発問とは、正解を把握している教師が、子どもたちの潜在的な「不備・不足・不十分」を顕在化し、正しい理解に導くために、問いのかたちをとって指導する教育技術の一つです。
 教師は、その単元のねらいや授業のねらいを具体的に把握し、子どもたちの理解力の現実と理想との間に、どんなに不備・不足・不十分があるかを予測しなくてはなりません。
 そして発問は、子どもたちが自らの不備・不足・不十分に気づけるものであるべきです。
 優れた問いは、不備・不足・不十分を顕在化させます。そして、それを修正することによって、子どもたちの学力は伸びていくのです。
 学級には、授業内容をきちんと理解している子もいれば、あまりわかっていない子もいます。そのために、教師は子どもたちの多様な答えをランクづける能力がなくてはなりません。例えば、
「Aは理解している。Bはもう少し深く読みとらせる必要がある。Cの答えは正解からほど遠い」というふうに把握したら、まず大間違いの解から片付けていき、さらに高い次元の答えを導きだすよう、授業を進めることができます。
 発問は、容易から難へ、概要から細部へという大まかな流れが原則だと言われるのは、子どもがどこで「つまずいたか」を、明確にするためなのです。
 授業の雰囲気づくりのために、やさしい問いをあえて投げかけることもあります。
 自信をもって答えた子どもを「その通り。よく答えられたね」とほめて、気持ちを明るくさせてから、より深い内容に導いていくというのも、授業の技法のひとつです。
 子どもたちが「わかっていない自分」を自覚することは、とても大切です。何がわからないのかに気づけば「わかりたい」という、学習への前向きの姿勢が生まれます。
 問いを出されてこそ、子どもたちは啓発されるのです。「見れども見えず」という言葉がありますが、問われてはじめて気づいたり、目が開いたりすることは、たくさんあります。
 問いは、それほど基本的な技術要素であるにもかわらず、発問の意義や技術は十分に認識されていない状況です。
 教師が発問し、子どもたちの反応を受けとめるプロセスでは、教師の力量が問われます。
(
野口芳宏:1936年生まれ、元千葉県公立小学校校長、植草学園大学名誉教授。千葉県教育委員会委員長職務代理者、日本教育技術学会理事・名誉会長、授業道場野口塾等主宰
)

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授業中に子どもが興奮し、怖くて注意できないとき、どう指導すればよいのでしょうか

 授業中に、子どもが興奮して「むかつく」「いやだ」などと子どもに言われたとき、教師の中には「ふざけたことを言うな」「許せない」と思う人がいるでしょう。
 教師がこう思ったときは、深呼吸をして冷静になって対応するようにします。教師が興奮すると体罰をするおそれがないとは言い切れないからです。
 聞こえないふりをしたり、無視したりすることは、教師のとるべき態度ではありません。
 たまっていた子どもの不満が爆発した信号ととらえる姿勢が、教師には必要だからです。
「もう一度言ってみろ」と、教師が言い返すと、教師と子どもが同じ位置に立ってしまったことになり、けんか同然の状態になってしまいます。
 やはり、興奮状態にある子どもを、落ち着かせることを心がけましょう。同時に、教室内の動揺を防ぐことも必要です。
 教師が「どうした」「大丈夫か」などと、その場の状況をとっさに判断して、言葉をかけてやります。
 子どもの側面や背面から声をかけることも教師の安全確保上は必要かと思います。
 興奮した子どもは「うるさい」としか、答えは返ってこないと思います。
 怖くて声もかけられない状況が教室に生じ、教師が動転してしまえば、それにつけ込んで騒ぎが大きくなったり、荒れが激しくなることだってあります。
 動転した姿を教師が見せることは、努めて避けたいと思います。
「ちょっと待って」と言いながら、近くにいる教師や隣の教室の教師と連絡して応援を求めます。
 そして、数名の教師の手で「きれた」「うるさい」「くそっ」などと、叫び騒ぐ子どもを落ち着かせます。
 暴れ騒ぐ子どもを、相談室などに連れて行ってから、言い分や気持ちをたずねます。
 部屋の中で暴れる恐れもありますから、テーブルをはさんで話し合うような配慮も大事です。
「反省しろ」と突き離していたのでは、問題の解決にはなりません。むしろ、反感を抱かせる恐れがあります。
 後日トラブルになることを防ぐためにも、複数の教師やスクールカウンセラーが、子どもの心を尋ねることが必要とされるでしょう。 
 こうしたことについて、学校としての対応策をきちんと立てておくことが必要です。
(
飯田 稔:1933年生まれ。千葉大学附属小学校に28年勤務、同校副校長、千葉県浦安市立小学校校長を経て、千葉経済大学短期大学部名誉教授。学校現場の実践に根ざしたアドバイスには説得力がある)

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子どもとの接し方がダメ、人の言うことに耳を傾けられない教師が多い

 東京都の小学校女性教師。17年目です。好きなバスケットを続けたい、子どもが好きと教師に。
 教材研究などにも熱心で、帰宅が深夜になることもあるという。「うちは父子家庭のようなものですから」が口ぐせ。日々子どもたちに体ごとぶつかっている様子が目に浮かぶ教師だ。
 新卒でいきなり小学校1年生を持たされてしまった。
 1学期が始まって、早々に運動会の練習があったのですが、集団をうまく掌握できず、子どもがバラバラになってしまった。
 子どもを動かす号令や、話を聞かせるにもテクニックが必要。技術がないと、気持ちはあっても子どもはなかなか動いてくれない。
 10年目を過ぎてから、私自身バージョンアップして、集団をうまく掌握できるようになった。
 それでも、子どもは毎年替わるし、社会も変化するし、従来の技術を切り売りして、その場しのぎで教えていくのは限界があるのです。
 基本は、どれだけ新鮮な気持ちを保って、新しいことを吸収できるかだと思います。
 例えば「席につきなさい」と言っても、これまで素直に座っていた子どもが「いやだ」と座らなくなるときがある。
 そんなとき、自分の指導力不足を棚に上げて「子どもが悪い」「親が悪い」って責任転嫁してしまう教師が多い。
 そういう教師のクラスの子どもたちは言うことを聞かなくなって、いわゆる「学級崩壊」に向かってしまう。
 わかるんです。外から見ていると、その理由が。
 子どもたちが「座りたくない」と言うなら「何で座りたくないの?」「じゃ、今何がしたい?」「今は座ってくれなきゃ困るから5分だけガマンしてよ」とか、言い方ひとつにしてもいろいろあると思う。
 子どもが何を考えているのか、ねばり強くさぐる。
 けっして子どものペースに巻き込まれないで、こちらのペースに巻き込んでいく。
 小手先のテクニックではなく、そういう柔軟な姿勢が必要だと思うんです。
「自分のやり方でいいんだ」と思ったときに、教師の成長は止まってしまうんですね。
 教師と子どもは、お互い刺激しあいながら成長するもの。
 教師が「このままでいい」という態度では、子どもだって伸びていくわけがない。
 授業もそう。新たな試みをどれだけ取り入れられるか。積極的に外へ出ていって授業を見せてもらったり、別の世界に触れて勉強しようという気持ちがないと、教師として古臭くなってしまうんですね。
 いま、私はいくつかの研究グループに入っていて、新しい教材や授業方法を勉強しています。
 私は給食をいつも子どもたちと一緒に食べているんです。
 その時々の友だち関係もわかるし、身近で食べることで「この子、食が細いけど、何か心配ごとでもあるのかな」といったことも気がつく。
 それに、食事のときって気がゆるむでしょ。「〇〇子、あんなことしたんだよ」なんてポロッと漏らしたりしてワルが発覚したり。給食の時間って、情報収集のすごいチャンスなの。
 そもそも「手のかかる子どもはきらい」という教師もいますからね。
 いうことをきかない子がいるから面白いのに。いうことを聞かなかったら「じゃ、きかせてやれ」と。言葉は悪いけど、そこに醍醐味があると思う。
 反発する子は、何か光るものを持っていることが多いし「そこを伸ばしてやりたい」と思うのが教師じゃないかなあ。
 教師だって人間だから、そりの合わないタイプの子がいてもあたりまえ。それを自分の懐に抱かえこむ。そりの合わない子どもに付き合うのが「プロ」だと思うんです。
 最近、教師の指導力の不足をすごく感じます。実際、私たちの間では「教師の2割は不適格」というのが一般的な見方ですからねえ。
 子どもとの接し方がダメ。そのうえ人の言うことに耳を傾けられない教師がホント多いの。小学校高学年を任せたら学級崩壊につながる教師って、じつはいっぱいいる。
 成績本位の教員採用の仕方にも問題があるんでしょうね。人に教えられることがなかった人もいるかもしれませんね。
 ベテランだって新しいものを吸収する柔軟性を失った人はやっぱりダメ。子どもの置かれている状況は、昔とはすっかり変わってしまったでしょう。
 変化する子どもの姿をつねに見つめる努力をしていないとね。
 私は夫がサラリーマンだから、民間企業の大変さは知っているつもり。民間は厳しいですよねぇ。不況でボーナスはカットされるは、リストラされるわで。
 クラスの子どもの親はみんな大変なはずですけど、教師にはそんな危機感、ぜんぜんないですもの。
 だから、今こそ教師は「生活の心配ないんだから、もっとがんばれ!」って言いたくなっちゃうんですよ。
(
東京都の小学校女性教師
)

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教師が子どもを叱るとき、子どもと距離をとってから叱るとよい

 私が、新任当初、すぐ叱る怖い先生でした。でも、いくら叱っても、子どもたちはビビるどころか、ニコニコしながら聞いているのです。「叱られている感」がまったくないのです。
 そんなときベテラン教師と、合同授業をする機会がありました。
 授業中、子どもたちは騒いでいましたが、ベテラン教師が大きな声で叱り始めると、子どもたちは全員シュンとして、教師の話を聞き出したのです。
 叱るとき、私とベテラン教師との違いは、教師と子どもの間の距離でした。
 私のように子どものすぐそばに立って叱るのではなく、ベテラン教師は子どもと少し距離をとって叱っていたのです。
 私は、ベテラン教師を見習って、子どもから50センチから1メートルくらい離れてみました。
 そして、一言、二言、子どもを叱ると効果はてきめんでした。
 あっという間に、子どもの目から涙があふれてきたのです。
 子どもを叱るとき、わざと50センチから1メートルくらいの距離をとると効果が倍増します。
 子どもを叱るとき、適度な立ち位置、距離はとても大事です。
(上條晴夫:1957年山梨県生まれ、小学校教師(10年)、作家、教育ライターを経て東北福祉大学教授。学習ゲーム研究会代表、お笑い教師同盟代表、実践!作文研究会代表) 

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子どもたちを指導するための大切なポイントとは何か

 私たち(菊池道場)が子どもたちを指導するとき、大切なことだと考えていることは
1 子どもたちに「失敗感」を与えない
 自信のない子どもにとっては、みんなの前で失敗すると大きなショックをうけることになります。まちがいを恐れ、進んで友だちとかかわることのできない子どもに育ってしまう恐れも出てきます。
 子どもたちに失敗感を与えないようにするには
)まずは、成功体験を多く積ませる
 特に1年間の最初のうちは、子どもたちに多くの成功体験を積ませることを心がけています。
(1)
誰でも答えられるような簡単なことを尋ねて、発表させる
(2)
まず自分の考えを書いてから話し合わせる
(3)
友だちが言ったことをそのまま言わせる
(4)
進んで発表したり、友だちとかかわった子どものやる気を大きく認め、みんなで拍手する
 学級のみんなから認められた子は、何事にも進んで取り組もうとする子どもへと成長していく。
)間違った時には、教師のフォローで失敗感をもたせない
 一人の間違いを全員の学びにかえるようにします。
「〇〇くんのおかげで、みんなの勉強になりました。どんなことが学べたかノートに書きましょう」
と、全員の学びにつながることで、間違いを恐れない気持ちを育てます。
2 小さな伸びをほめる
 子どもたちは、ほめられると喜びます。
 ほめる点を見つけようと教師が思わないと増えません。見つけようとすると、どんどん増えます。
 基本は、子どもの「伸びた」ことをほめます。「伸びた」ことほめると、どの子でも同じようにほめることができます。子どもたちは「伸びる」ことが価値のあることだと意識するようになります。
 ほめることがないと教師が思うのであれば、ほめることができるように、声をかけたり、指導をしてみたりしてみるとよいでしょう。
 小さな伸びを見つけて、伸びを積み重ねていくことが、子どもの大きな成長には何よりも大切なのです。                
3 子どもたちに活発な対話をさせるために必要なのは、聞き手を指導すること
 積極的な聞き手を育てるためには、まず「うなずく」ことから始めるのがよいでしょう。
 その後で「視線を合わせる」などの態度面を充実させます。
 聞き手が発言するためには、
「話し手が言ったことを引用して返事をする」
「質問する」
「ほめる」
ようにします。
 子どもに、聞き手の技術が身につくと対話が活発になります。
 聞くことを楽しむことができるようになった子どもは、対話を楽しみ、話し手を喜ばせるようになっていきます。
 子どもたちに活発な対話をさせるためには、聞き手の指導が何よりも大切になります。
4 クラスの集団を高めるには、中位の子どもたちを上位の子どもたちに近づける
 クラスの子どもたちは、3つのグループにわけることができます。
(1)
クラス集団を強く意識し、高まりたい「上の2」(2割)の子どもたち
(2)
集団に対する意識をもつことができるが、周りの友だちの考えに引きずられる「中の6」(6割)の子どもたち
(3)
集団に対する意識が低く、友だちの考えや行動にあまり興味を持てない「下の2」(2割)の子どもたち 
 教師が初めに目をつけがちになるのは「下の2」の子どもたちが多いようです。クラスのルールなどになじめずにいる子どもたちに、どうしても目にとまり、指導をしてしまいます。
 そのため、「上の2」や「中の6」の子どもたちの意欲をそいでしまっています。
 クラスを集団として、より高みに上げていくために大切なのは「上の2」や「中の6」の子どもたちの意欲や行動です。
 そこで、まずは「下の2」の子どもを意識しつつ、「中の6」の子どもたちが「上の2」の子どもたちに近づくように指導していきます。
 つまり、「中の6」の子どもたちにも「上の2」の子どもたちの持つ考えや行動を強く意識させ、行動させるようにするのです。
 そのようにして指導を続けていくと「下の2」の子どもたちも自然と上の方に引っ張られ、集団を意識せざるを得なくなっていきます。
 例えば、ある子が朝「おはよう」と友だちに挨拶したら、教師は挨拶した子をほめます。そして「おはよう」のひと言が、クラスを集団として変容させていくことを話します。「おはよう」という挨拶の行為を「価値づけ」ていくのです。
 集団としてよいと思われる行為に「価値づけ」していくのです。
5 クラスの短期・中期の目標を設定して指導する
 多くの学級では、新学期の4月の始めに学級目標を決めています。
 しかし、学級目標は1年後のめざす子どもの姿であるということです。
 常に子どもは変化し、発達するものである、というとらえ方をします。変化・発達していく子どもたちに、ずっと同じようなことを指導していても、それ以上の成長はのぞめません。
 実際に子ども同士が関わり合う体験を積み重ねながら少しずつ身についていくものです。
 例えば、コミュニケーション力を育てていこうとする場合、1年後の子どもたちの姿を見据えながら、スモールステップでコミュニケーション力を身につけていけるようにしましょう。
 コミュニケーション力について指導するとき、相手のことを考え、思いやる心を育てていくように心がけるべきです。
「もっと友だちと仲良くなりたい」「もっと学級のみんなと成長したい」という思いが育っていない子どももいる。
 その時の子どもたちの心の成長をていねいに見取りながら、実態に合わせながらコミュニケーション力を高めていく指導をしていきましょう。
 すぐに成果を求める速成指導は避け、短期・中期の目標達成を積み重ねていくことにより、少しずつ学級目標に近づけていくことが大切です。
(
菊池省三:1959年生まれ、 福岡県北九州市公立小学校教師、2015年に退職。コミュニケーション教育を長年実践した。「プロフェッショナル-仕事の流儀(NHK)」などに出演、「 菊池道場」(主宰)を中心に全国で講演活動をしている。 北九州市すぐれた教育実践教員表彰、福岡県市民教育賞受賞
)

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教師が子どもに指示するときや叱るときは闘いだ、どのようにすればよいか

 剣道、空手、けんかなど様々な闘いには共通していることがある。それは視線だ。
 けんかでは目をそらした方が負けである。目を合わせられないのは気押されているからだ。子どもと視線を合わせられない最大の理由は、気が弱いからだ。
 私は小学生のころから気が弱かった。気の弱さと恐怖心とは同一である。教師になってからもこの傾向はずっと続いた。
 子どもとうまくいかなくなると、恐怖心がむくむくと顔をもたげた。自分が傷つけられる恐れを感じるのだ。
 子どもが何かをするわけでなく、ただ、自分が「恐怖を抱く」のだ。
 気が弱いと無意識に子どもを見ていないものだ。子どもを「見るぞ」と構えないと、気の弱さによる無意識の視線回避は避けられない。
 子どもを二度見ることで視線は鍛えられる。
 例えば、床に教科書や帽子や筆箱を落としている子どもに、目で合図して拾わせるのだ。
 その子どもと視線を合わせ、落とし物を見て、またその子どもと視線を合わせる。子どもは「あ!」という顔をして、あわてて拾う。拾った後、また視線を合わせて「にこっ」とする。
 私の指示は視線を合わせて言う。しかし、視線を合わせるだけではだめだ。視線を「目の奥まで入れる」のである。そうすると、目に力が入る感じがする。
 子どもをしかる時、注意する時、これも闘いだ。
 子どもに、こびたようなもの言いは、たちまち子どもに見抜かれる。くどくなると嫌がられる。
 足を肩幅に開き、重心が両足の間にあるようにして、姿勢を安定させる。声がうわずってはならない。
 下腹に息を一瞬落としてから、声を出す。これでドスのきいた声が出る。
 顔も大事だ。厳しい顔でいい。子どもが反省したら「にっこり」するのだ。
 子どもを指示通りにさせるのは闘いだ。
「言われた通りにやれ!」と気迫をこめなければならない。
 指示は、明確な上にも明確でなければならない。
 子どもが指示通りに動かなければ、やり直しだ。やりきれるのかどうか、腹を据えてかからねばならない。「やらせきる覚悟」が必要だ。
 大事なことは、教師が言ったことを「必ずさせる」ということだ。
 でも、暗くならず、明るく、きっぱりと「必ずさせる」という気迫を持って、子どもたちが「アレレ?」と思っているうちに子どもにさせられればいい。
 子どもになめられていては絶対にできない。気迫ある言動を見せておかないといけない。
 最初が肝心だ。出会いの最初は子どもも教師の様子をうかがっている。一応、教師として一目置いている。
 この時なら、指示をし、その通りやらせるのは容易だし、教師の気迫を感じさせることができる。
(
坂元弘平:鹿児島県公立小学校教師
)

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生徒をやる気にする、きっかけとなる言葉にはどのようなものがあるか

 生徒はとてつもない可能性を秘めています。その可能性を引き出すのが教師の仕事です。
 可能性を引き出すきっかけをつくるのが教師の激励です。
 私は生徒たちを毎日激励してきました。生徒には良い考えを毎日伝え、幸せな人生を歩んでほしいと思っています。
 人間ならば、どんなにやんちゃな生徒でも必ず人の魂は伝わると信じている。
 教師と生徒は共に、泣いたり、怒ったり、笑ったり、生活を通して信じられるようになっていく。
 その場面、場面に生徒の成長をもたらす教師の言葉がある。 
 生徒は、教師の言葉によって「人間になる」のである。教師もまた「本当の教師になる」のである。
 生徒と過ごす多くの時間がそのことを私に教えてくれた。
 生徒をやる気にするきっかけの教師の言葉にはどのようなものがあるか。例えば
1 クラスをよくすることば
(1)
勉強が好きで学校へ来ている人はいない。みんな友だちと一緒に何かできるのが楽しくて学校へ来るんだよ。
(2)
どんなに悪いと思う出来事も、それは自分たちのクラスが良くなるために必要なことなんです。 
 全ての出来事は、自分たちの学級が、今よりも良くなるために必要な出来事である。
 問題を解決する行動を続けるかぎり、どんな学級も必ずよくなる。
 このことを何度も生徒に話すことだ。事件が起こるたびに、エピソードを変えて何度も何度も話す。
「友情、本気、全力」など、生徒が人間として成長し学級を良くするために必要なことは何度でも語る。
2 友だち関係を良くする言葉
(1)
友だちが大失敗します。それはなぜだと思いますか。それはね、自分が悪いことをしてみんなに、こんなことをするとダメなんだ、ということを教えてくれているんです。それをムダにしちゃいけない。
 失敗する仲間がいるから、自分たちは学べることがあることを話す。
(2)
友情は特別なもんじゃない。友だちの話が聞けるということは、友だちの存在を認めているということです。友情というのは、そういうささいなことの積み重ねで築かれます。
3 勉強をやる気にする言葉
(1)
勉強ができるようになるのは難しいことではない。先生の話を聞くこと。先生の言った通りにやってみること。それをやらない人ができなくなっていく。
(2)
誰でもできることを、できるときに、できるところまでやる。
(3)
やればできるようになる。何もやらないと何の進歩もない。
(4)
人の話をよく聞いていないと、だまされやすい。
(5)
できなくともチャレンジすることが大事。
(6)
続けることはあきらめないこと。あきらめないことは、夢をかなえること。
 習慣になるまで教師は励まし続けること。決してあきらめない。
4 掃除をやる気にする言葉
(1)
掃除を好きな人はいません。みんな掃除はめんどうくさいし、嫌なことなんです。そういう人が嫌がることを頑張っていると、必ず良いことがあります。
(2)
掃除に人柄が現れます。掃除ができる人は信用されます。
(3)
掃除は心遣いです。掃除をしている仲間が見える人は、仲間が悩んでいるときに気づける人です。
(4)
トイレには神様がいます。頑張っている人を神様は見ています。
 どんな掃除が良い掃除なのかを教師が示しながら生徒に語る。
5 もう一人の自分に克つことを教える言葉
(1)
人は誰でも、毎日、もう一人の自分と闘っている。
(2)
大事なものは、心の目で見ないとみえません。
(3)
弱い自分から目を背けぬことです。逃げたらだめです。
 自分のダメなところ、嫌なところを見つめていくことでしか、人は成長できないことを生徒に伝える。
(
垣内秀明:1965年長野県生まれ、長野県公立中学校教師。教育サークルTOSS中学信州代表)

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教科書を教えることの本当の意味とは何か

 教科書を教えるとは、一体どうすることなのか。
 教科書の中には、基礎・基本と言われるものが必ず書かれている。キーワードというものが、各ページに必ずいくつかある。
 教科書を教えるとは「基礎・基本とキーワード」をきちんと教えることである。
「教える」ということは、つめ込むことではない。子どもの思考体制のなかにきちんと位置づけることである。
 ということは、子どもが、その内容が面白いと思い、調べたり、考えたりして自分のものにすることである。
 つまり「教える」ということは、子どもが「基礎・基本とキーワード」を「追究したい」「調べたい」といったものに転化することである。
 具体例を示そう。教科書につぎの文があった。
「1972(明治5)年、日本で初めて鉄道が開通して、これまで半日かかった東京・横浜間を53分で走りました」
わずか2行の分である。
 子どもたちは、さし絵を見て、どんな蒸気機関車だったかはわかる。
 この文を読み、絵を見て、つぎのような「はてな?」を引き出すことである。
(1)
53分かかったというが、距離はどのくらいなのか
(2)
時速何キロメートルで走ったのか
(3)
駅はいくつあったのか
(4)
何を運んだのか、人だけでなく運ぶような物があったのか
(5)
どんなルートを走ったのか
(6)
1日何便くらい走っていたのか
(7)
料金はどのくらいだったのか
(8)
誰でも乗れたのか
(9)
造るのにどのくらいのお金と時間・日数がかかったのか
(10)
日本に鉄道を造る技術があったのか
(11)
文明開化と、どんな関係があったのか
 これだけ引き出すことができれば、超Aのクラスと言えるのだが。
 これらのことを調べることは、補充・発展学習になる。
 しかし、このことを調べることによって、はじめて教科書の文や絵の本当の意味をつかむことになるのである。
 教科書を教えるには、行間に書かれていることをつかみ、表現されていない大切な内容を把握しなければならない。
 長さ29キロの鉄道を53分で走った。時速40キロをこえていたというから、当時の人々の驚きがわかる。
しかも、29キロの3分の1は、海を盛り土して走ったというのだから、これまた驚くべきことで、当時、土地が足りなかったのかと思ってしまう。
 海を盛り土して鉄道を造ったのは反対運動がはげしく、土地を売ってくれなかったためである。
 それに、政府が大急ぎで鉄道を造ろうとしたため、反対者を十分に説得する時間的ゆとりもなかったのである。
 明治2年には、全国の113か所で一揆があり、このままでは明治政府は倒れるのではないかという状況であった。
 日本国民には「明治政府は、江戸幕府とは違うぞ」ということを思い知らすには、鉄道が一番よいと考えたのは大隈重信と伊藤博文であった。二人は反対派を説得し、イギリスの協力を得て、鉄道敷設を始めた。
 とにかく、人々の反対をのりこえて、太鼓の合図で東京の新橋駅を列車が出発したのである。
 当時の金にして880億円(国の歳入の3分の1)という巨額の金を投じて、とにかく完成したのである。
 この列車は予想通り「日本人に驚きと衝撃を与えた」のである。国民は文明開化とは何かということを、鉄道の開通で理解し、政府への反対運動が減ったのである。
 明治政府は次々と改革の手を打つことができたのである。
 教科書では、わずか二行しか書かれていないことを、このあたりまで発展させれば十分ではないだろうか。
 子どもたちが、こういった「はてな?」を引き出して追究すれば、私も、子どもたちも「教科書ってすばらしい。短い文の中にすごい内容がある」ということを発見していくのである。
 私は、教科書の著者でありながら、教科書の本当の意味、使い方をこのときまで知らなかったのである。
 教科書の使い方などというものは、誰も教えてくれなかった。だから自分で工夫するしかなかった。
 今の教科書でも、このように内容が圧縮されて記述されているところがある。それを見つけることである。
「教科書を教える」ということは、こういうことを言うのである。
(
有田和正:19352014年、福岡教育大学附属小倉小学校、筑波大学付属小学校,愛知教育大学教授、東北福祉大学教授、同特任教授を歴任した。教材づくりを中心とした授業づくりを研究し、数百の教材を開発、授業の名人といわれた)

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教師の仕事からくるストレスの原因と、教師が燃え尽きないようにするには、どうすればよいか

 多くの教師がストレスにさらされ、メンタルヘルスが深刻の度合いを強めている。中でも、もっとも多いのは抑うつ状態に陥る、燃え尽き症候群、バーンアウトである。
 燃え尽き症候群は対人援助職業に特有のストレスを指し、単なる疲労とは異なり、長期間にわたり人を援助する過程で、解決困難な課題に常にさらされた結果、極度の心身の疲労と情緒の枯渇をきたし、自己卑下、仕事嫌悪を伴う状態である。
 担任は常に個と集団とのバランスを取りながら、子どもの変化や保護者の要求を敏感にキャッチすることが求められる。
 また、担任と子ども、保護者の関係は少なくとも1年間は継続される。カウンセラーと違って、お互いに相手を変えることができないため、人間関係がこじれると身動きがとれなくなってしまうこともある。
2012
年に、現職の教師72人にストレス要因を尋ねたところ、
(1)
手に負えない子ども振り回される (35)
(2)
保護者との人間関係 (17)
(3)
職員間の共通理解や協力が得られずに孤立 (17)
(4)
同僚とのトラブル (14)
(5)
管理職とのあつれき (11)
のような結果がえられた。
教師の仕事は、
(1)
その行為の責任や評価が子どもや保護者から絶えず直接的に返ってくる。
(2)
教える相手が変われば、同じ態度や技術で対応しても同じ成果が得られるとは限らない。
(3)
ここまでやれば完成というゴールが見えないために、仕事を家まで持ち帰り、境界を越えて学校外の日常生活にまで入り込みやすい。
(4)
気になる子どものことが頭から離れず。また、突然、保護者から相談や苦情の電話がかかってきたりして、素の自分に返ってほっとする時間がもてなくなってしまうことも少なくない。
 教師は、子ども・保護者・教師間の人間関係に取り囲まれている。特に、子どもや保護者との人間関係が悪化した場合は、大きなストレスになる。
 教師がパソコンに向かう職員室は、心の居場所が少なくなり、教師どうしが本音で語り合い、愚痴をこぼし合う機会が失われつつある。
 教師相互が語り合い、支え合う雰囲気を意図的につくり出すことが必要となっている。
 がんばりすぎて限界に至る前に、素直に「しんどい」と言える温かい職員室の人間関係を築きたいものである。
 うまくいかないときに弱音を吐いたり相談することは恥ずかしいことではない。同僚性を高め、協働で仕事に向かう基盤づくりが必要になっている。
 困った問題があるときに相談できる人が職場内にいる。あるいは、教師間の人間関係が良好で、協力的に解決を図ろうとする雰囲気と体制が確立されていれば、困難な状況に取り組んでいくことができる。
(
新井 肇:1951年生まれ、埼玉県公立高校教師を経て、兵庫教育大学教授。カウンセリング心理学を基盤とした生徒指導実践の理論化、教師のストレスとメンタルサポート等を研究)

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授業中、やる気が感じられないクラスは、どうすればよいのでしょうか

 授業中、子どもたちはそれなりの態度で学習しているのですが、全体的に何となく覇気が感じられず、楽しんで学習しているようには思えません。
 ユーモアもあまり通用せず、盛り上がりません。どうすればよいのでしょうか。
 クラスは、学級のメンバーによって学級の特色が異なってきます。
 派手に反応が返ってくるクラスもあれば、見た目は盛り上がっていなくても、多くの子どもが楽しく参加している場合もあります。それは教師も同じです。
「盛り上がらない。気持ちを出してほしい」と、感情的を出さないことを不満に思う前に、クラスの特色を確かめながら、指導方法を変えていかなくてはなりません。
 子どもを変えるためには、教師がクラスに応じて、自身を変えていくことが必要です。 
 子どものやる気のない顔や、情けない反応を気にしていては、教師の気分まで落ち込んでしまいます。
 子どもが盛り上がらない時こそ、教師一人だけでも盛り上がって授業をしましょう。
 明るく元気に話しかけたり、教材や教具を工夫したりしても、やる気を見せない時、
「私は、こんなにがんばっているのに」と、子どもの無反応に腹を立ててはいけません。
 子どもの反応には、無関心を装って、教師が自分のペースで授業を進める時、子どもたちが学習に理解をしているか、指示した学習作業をしているかなどは、しっかり観察して指導しなくてはなりません。
 指示には必ず従わせる。学習規律は守らせることに注意を払いましょう。
 また、少しでも教師のユーモアに反応したり、やる気が見られたりした子どもには、教師が感謝の気持ちを伝えることで、クラスの雰囲気をよくしていきましょう。
 教師が、やる気と元気を子どもたちに与えることが大切です。子どもの無気力に教師が感情的になってはいけない。
 クラスにやる気を起こすには、やる気のシャワーを教師が浴びせればよいのです。子どもの反応を気にしないで、やる気と元気を心がけて、授業を進めるようにしましょう。
(
中嶋郁雄:1965年鳥取県生まれ、奈良県公立小学校教頭。子どもを伸ばすためには、叱り方が大切と「叱り方&学校法律」研究会を立ち上げる。教育関係者主宰の講演会や専門誌での発表が主な活動だったが、最近では、一般向けのセミナーでの講演や、新聞や経済誌にも意見を求められるようになる)

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子どもたちの目が輝き、子どもたちがつながり合って学ぶ「学び合う学び」を創造するにはどうすればよいか

 授業で子どもたちの目が輝いているということは、全身で学んでいるということである。このような教室をつくることは容易ではない。
 子どもたちの目が輝いているということは、そのテキストなり課題に子どもたちが真摯に立ち向かっているということである。
 子どもたちがどのようにテキストと出会い、どのように対話しているかを探れば、輝く目の秘密を解き明かすことができるだろう。
 私は、毎日のように全国各地の学校を訪問し、数多く授業を見ている。そうした経験を重ねるうちに、授業が始まって10分もしないうちに、その授業がどのようになるか想像がつくようになった。
 それは、その日のテキストとの出会いが授業を始める数分間でなされるからである。その出会い方がどのようなものかを見ることで、その後の子どもたちの学びの姿が予想できるのである。
 私は「子どもの考えから出発する学び」にすることが必要だと考えている。
 まずは、子どもがどう考えるか、そこから学びをつくっていかなければならない。
 そのためには、一人ひとりの子どもがその子なりにテキストと対話しなければならない。
 例えば、「春のうた」の詩が印刷されたプリントが配られると、子どもたちは音読を始めた。何度も繰り返し音読した。これが子どもとテキストの出会いである。
「ケルルン クック」が分からないという反応がすぐ出てくる。音読しながら、何だろうと考え、詩と対話をしている。それはまさに、子どもたち一人ひとりと、詩との出会いである。
 学ぶ基本は個人に存在するけれど、それはまた他者とのかかわり、つながりを抜きにしてはありえない。
 学校は大勢の子どもが集う場なのだから、触れ合う多くの仲間から、多くのことを学び、それぞれが豊かになっていけるようにしなければならない。
 そう考えると、子どもたちを「つなぐ」ことが非常に重要なことである。そのためには、子どもたちが「聴き合う」姿勢が大切である。
 学ぶことにおいて、最も大切な行為は「聴く」ことである。豊かに学ぼうとすれば、他者から学び取るしかない。それには、他者の言葉に耳を傾ける態度が不可欠である。
「学び合う学び」ができている教室では、子どもたちは、仲間の言葉を全身で聴き、それを自分の考えと「つなぎ」、そしてテキストともつないだうえで、発言している。
 子どもと子どもの間に聴き合うかかわりが生まれた学級は、表情がやわらかい。受け入れられているという安心感がそのようにするのだ。
 子どもたちを「つなぐ」のは、聴き合うかかわりによって生まれてくる。
 聴ける子どもを育てるためには、何よりも先に、教師自身が「聴ける教師」になる必要がある。
 教師が本当に「聴ける教師」になるためは、子どもの気づきや疑問から豊かな学びがつくれることを確信し、子どもとともに学びに挑戦する気持ちを固めたときなのではないか。
 教師に「聴く心」が生まれたとき、子どもが言っていることの重みが初めて見えるようになる。
 そうなったとき、初めて、子どものことばのつながりが少しずつ見えるようになる。そのつながりの合間に挟む教師の言葉が生きるようになる。
 学び合う学びで大切なことは、「聴く」、「つなぐ」ことと、もう一つ「テキストへの戻し(つなぎ)」がある。
 子どもたちの考えをつないで学びを進めていくときに、教師の判断でテキストに戻さなければいけない場面が出てくる。
 ところが、そのことがわかっていても、話し合いの授業になると、子どもたちの一つひとつの言葉で頭がいっぱいになるからか、そのことを忘れてしまう傾向がある。
 そして、発見と進展のない堂々巡りのことばのつらなりに陥り、結局は子どもたちを疲れさせてしまう授業のなんと多いことか。
 ある教師の「春のうた」の授業において、音読を多用している。
 最初のめいめい読みをたっぷりさせていることも、最後に、自分の思う何かになって音読したり、ペアになって読む活動を取り入れているのも、音読を重視しているからにほかならない。
 しかし、この教師が音読の大事さを本当に理解していると感じるのは、次の場面である。
「なるほどな。・・・・・ちっょと待って。一回、自分で声を出して読んでみて」
「先生、わからへんようになってきた。もう一回、読んで。先生も読むから」
 これは、二つとも、テキストから感じたこと、イメージしたこと、疑問に感じたことを出し合う話し合いの場面において発せられたものである。
 最初のものは、この詩の世界とは少し離れかけたときに出されたものであり、後のものは「雲」と「蜘蛛」という二つの考えが出て混乱しかねない状態になったときに出されたものである。
 この教師は、それまでに出された子どもの考えがどうなのか、という教師の考えは一切言わない。
 都合のよいものを取り上げる気配もない。どちらか一つに決着をつけるそぶりもない。ただ、音読させているだけなのである。
 ところが、初めの場面では、子どもたちはすっとテキストの世界に戻ってきているし、後の場面でも「くも」に対する子どもたちのイメージが豊かになっている。
 この事例を見るだけでも、テキストに戻すことが「読み」の授業における基本であると理解することができる。
 子どもたちはみな、学びの中でいろいろなことを考えているのだ。それをペアやグループによる学びの時間を取れれば、考えを語ることのできる確率が高くなる。
 ということは、そこでの学び合いは、全員による話し合いよりも、子どもの気づきや発見が直接的に交流され、レベルが高まったりするのではないだろうか。
 そう考えると、ペアやグループによる学びは「学び合う学び」を行ううえで、必要不可欠なものになる。
 グループの学びの原則は、人数はあまり多くしないで、男女混合にすること、課題をはっきり示すこと、全員の考えを聴くこと、考えを一つにまとめないことなどである。
 なかでも、よい考え一つにしぼるような話し合いにしないことが重要である。それをすると、必ず誰かが自分の考えを押し付けるようになる。
 そうではなく、どんな考えも、より添い合って聴くこと、そして、互いの考えを比べながら、それぞれが自分の考えを見つめることである。
 他者の考えを聴き知ることで、自分の考えを磨き、発見していく。そういうグループの学びが望ましい。
 子どもと子どもがつながり合って学ぶ「学び合う学び」は、教師自身が、他者から学び、他者とともに学び合う「こころ」をつちかっていくことが「学び合う学び」を創造することにつながるのではないか。
(石井順治:1943年生まれ、「国語教育を学ぶ会」の事務局長・会長を歴任、三重県の小中学校の校長を努め、退職後は、各地の学校を訪問し佐藤学氏と授業の共同研究を行うとともに、「東海国語教育を学ぶ会」の顧問を務めている)

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聞き手の反応を分析できるか

 私は「聴衆のつかみ方」(諸星龍著)という本を読んで、次の一節にたいへん感動した。
「熟練した演説家は、場面に応じて話の組み立てや、進行速度をコントロールする。そして、終始聞き手に適応し、密着しようとつとめる」
「そうすれば、聞き手は羊のようにおとなしくついてくることを知っているからだ」
「不用意な話し手が失敗するのは、話し手のこうした配慮が欠けるからだ。かれは、いつも聞き手から遠くはなれて孤立する」
「スピーチを行う人は、予想される聴衆の状況についてできるだけ多くの情報を集め、反応の予測をしておかなくてはならない」
 今までのつまらない話を思い出してみると、ほとんどがこの原理に無理解だったということで解決がつく。
 聞き手が飽きてくれば、それはすぐ表情に表れてくる。目がうつろになってくる。いねむりや、脇見がはじまる。このような反応が表れてきたならば、直ちに話し方を切り替えていかなければならない。
 例えば、聞き手の一人を指名して前に出てきてもらって問答することもよい。聞き手に問いを発して作業をさせるのもよい。今までと話調をがらりと変えて、自分の体験を生々しく語るのもよい。
 このように、聞き手の反応によって話し方を切り替えていけるかどうかが、話し方の巧拙を決めるのである。
 切り替えることのできない人は、聞き手に見放され、一人しゃべりに追いやられる。
 そうなると話から脱け出てしまった聞き手には、どんなに大声を出しても話は通じなくなる。こういう時が一番疲れるし、話の効きめもない。
 上手な話し手になれるかどうかの大きな条件の一つに、この「聞き手の反応」を分析できるかどうかという問題がある。ここを適切に読みとって、場に適した対応ができるようになれば、話し手としてもかなりの水準である。
 実は、これは授業技術にもそっくり当てはまる。指導案にだけしがみついて、ただただその規定路線のみを走る教師の授業には、子どもたちはだいたいついていかない。
 教師の授業の脱線が子どもたちに歓迎されるのは、指導計画よりも、聞き手の状況を優先してくれる好意をうれしく受けとめるからである。
 授業案はたいせつに違いないが、そこから多少はずれても、いつか再びぴしりと元のレールに戻れるほどの臨機応変の力を教師は持たなければならないだろう。
 むろん、何よりも話の中身の質の高さや話題の適否がたいせつである。
 だがしかし、それのみではやはり話はうまく聞き手に受けとめられはしないのである。中身と技術とが相まって初めてよい話になるのである。
 よい話し手になるためには、その両者への関心を常に持ち続けて自分を磨いていくことが必要である。
(
野口芳宏:1936年生まれ、元千葉県公立小学校長・北海道教育大学教授。植草学園大学名誉教授、千葉県教育委員会委員長職務代理者、日本教育技術学会理事・名誉会長、授業道場野口塾等主宰
)

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