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子どもたちの目が輝き、子どもたちがつながり合って学ぶ「学び合う学び」を創造するにはどうすればよいか

 授業で子どもたちの目が輝いているということは、全身で学んでいるということである。このような教室をつくることは容易ではない。
 子どもたちの目が輝いているということは、そのテキストなり課題に子どもたちが真摯に立ち向かっているということである。
 子どもたちがどのようにテキストと出会い、どのように対話しているかを探れば、輝く目の秘密を解き明かすことができるだろう。
 私は、毎日のように全国各地の学校を訪問し、数多く授業を見ている。そうした経験を重ねるうちに、授業が始まって10分もしないうちに、その授業がどのようになるか想像がつくようになった。
 それは、その日のテキストとの出会いが授業を始める数分間でなされるからである。その出会い方がどのようなものかを見ることで、その後の子どもたちの学びの姿が予想できるのである。
 私は「子どもの考えから出発する学び」にすることが必要だと考えている。
 まずは、子どもがどう考えるか、そこから学びをつくっていかなければならない。
 そのためには、一人ひとりの子どもがその子なりにテキストと対話しなければならない。
 例えば、「春のうた」の詩が印刷されたプリントが配られると、子どもたちは音読を始めた。何度も繰り返し音読した。これが子どもとテキストの出会いである。
「ケルルン クック」が分からないという反応がすぐ出てくる。音読しながら、何だろうと考え、詩と対話をしている。それはまさに、子どもたち一人ひとりと、詩との出会いである。
 学ぶ基本は個人に存在するけれど、それはまた他者とのかかわり、つながりを抜きにしてはありえない。
 学校は大勢の子どもが集う場なのだから、触れ合う多くの仲間から、多くのことを学び、それぞれが豊かになっていけるようにしなければならない。
 そう考えると、子どもたちを「つなぐ」ことが非常に重要なことである。そのためには、子どもたちが「聴き合う」姿勢が大切である。
 学ぶことにおいて、最も大切な行為は「聴く」ことである。豊かに学ぼうとすれば、他者から学び取るしかない。それには、他者の言葉に耳を傾ける態度が不可欠である。
「学び合う学び」ができている教室では、子どもたちは、仲間の言葉を全身で聴き、それを自分の考えと「つなぎ」、そしてテキストともつないだうえで、発言している。
 子どもと子どもの間に聴き合うかかわりが生まれた学級は、表情がやわらかい。受け入れられているという安心感がそのようにするのだ。
 子どもたちを「つなぐ」のは、聴き合うかかわりによって生まれてくる。
 聴ける子どもを育てるためには、何よりも先に、教師自身が「聴ける教師」になる必要がある。
 教師が本当に「聴ける教師」になるためは、子どもの気づきや疑問から豊かな学びがつくれることを確信し、子どもとともに学びに挑戦する気持ちを固めたときなのではないか。
 教師に「聴く心」が生まれたとき、子どもが言っていることの重みが初めて見えるようになる。
 そうなったとき、初めて、子どものことばのつながりが少しずつ見えるようになる。そのつながりの合間に挟む教師の言葉が生きるようになる。
 学び合う学びで大切なことは、「聴く」、「つなぐ」ことと、もう一つ「テキストへの戻し(つなぎ)」がある。
 子どもたちの考えをつないで学びを進めていくときに、教師の判断でテキストに戻さなければいけない場面が出てくる。
 ところが、そのことがわかっていても、話し合いの授業になると、子どもたちの一つひとつの言葉で頭がいっぱいになるからか、そのことを忘れてしまう傾向がある。
 そして、発見と進展のない堂々巡りのことばのつらなりに陥り、結局は子どもたちを疲れさせてしまう授業のなんと多いことか。
 ある教師の「春のうた」の授業において、音読を多用している。
 最初のめいめい読みをたっぷりさせていることも、最後に、自分の思う何かになって音読したり、ペアになって読む活動を取り入れているのも、音読を重視しているからにほかならない。
 しかし、この教師が音読の大事さを本当に理解していると感じるのは、次の場面である。
「なるほどな。・・・・・ちっょと待って。一回、自分で声を出して読んでみて」
「先生、わからへんようになってきた。もう一回、読んで。先生も読むから」
 これは、二つとも、テキストから感じたこと、イメージしたこと、疑問に感じたことを出し合う話し合いの場面において発せられたものである。
 最初のものは、この詩の世界とは少し離れかけたときに出されたものであり、後のものは「雲」と「蜘蛛」という二つの考えが出て混乱しかねない状態になったときに出されたものである。
 この教師は、それまでに出された子どもの考えがどうなのか、という教師の考えは一切言わない。
 都合のよいものを取り上げる気配もない。どちらか一つに決着をつけるそぶりもない。ただ、音読させているだけなのである。
 ところが、初めの場面では、子どもたちはすっとテキストの世界に戻ってきているし、後の場面でも「くも」に対する子どもたちのイメージが豊かになっている。
 この事例を見るだけでも、テキストに戻すことが「読み」の授業における基本であると理解することができる。
 子どもたちはみな、学びの中でいろいろなことを考えているのだ。それをペアやグループによる学びの時間を取れれば、考えを語ることのできる確率が高くなる。
 ということは、そこでの学び合いは、全員による話し合いよりも、子どもの気づきや発見が直接的に交流され、レベルが高まったりするのではないだろうか。
 そう考えると、ペアやグループによる学びは「学び合う学び」を行ううえで、必要不可欠なものになる。
 グループの学びの原則は、人数はあまり多くしないで、男女混合にすること、課題をはっきり示すこと、全員の考えを聴くこと、考えを一つにまとめないことなどである。
 なかでも、よい考え一つにしぼるような話し合いにしないことが重要である。それをすると、必ず誰かが自分の考えを押し付けるようになる。
 そうではなく、どんな考えも、より添い合って聴くこと、そして、互いの考えを比べながら、それぞれが自分の考えを見つめることである。
 他者の考えを聴き知ることで、自分の考えを磨き、発見していく。そういうグループの学びが望ましい。
 子どもと子どもがつながり合って学ぶ「学び合う学び」は、教師自身が、他者から学び、他者とともに学び合う「こころ」をつちかっていくことが「学び合う学び」を創造することにつながるのではないか。
(石井順治:1943年生まれ、「国語教育を学ぶ会」の事務局長・会長を歴任、三重県の小中学校の校長を努め、退職後は、各地の学校を訪問し佐藤学氏と授業の共同研究を行うとともに、「東海国語教育を学ぶ会」の顧問を務めている)

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