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2018年11月に作成された記事

他の子どもの発言に無関心な子を、聞き上手にするにはどうすればよいか

 クラスの子が発言しているのに、顔を見ようともせず、自分は関係ないといった態度でいる子どもが多くいます。
 一番失礼なのは、人が発言しているときに「どうでもいいや」という態度で聞くことです。
 どうすれば聞き上手な子どもになるのでしょうか。
 子どもに「話を聞く目的を与える」と、よいと思います。
 他の子どもの話を次のような視点で聞くようにします。
(1)
なぜ、この子は、こんな発言をするのか。
(2)
ほんとうに、何が言いたいのか
(3)
その子の言っていることは、正しいのか。 
 このような視点を持っていれば、どんな発言も退屈せずに集中して耳を傾けられます。
 他の子どもの発言に対して、その内容の当否や深さ浅さなどを、常に評価し続けるのが聞き手の作法です。
 また聞くことは、自分の思考力や判断力を高める大きなチャンスでもあります。
 ですから、私は子どもたちに対して、次のように話しています。
「なぜか」
「ほんとか」
「正しいか」
「この3つをいつも頭の中において、人の話を聞きなさい」
「わからないことは、たずねなさい」
「おかしいと思うことは確かめなさい」
「まちがいだと思うことは、指摘しなさい」
「ぼんやりと、どうでもいいや、という態度で聞くのは最悪です」
 これは、大人にも通用する聞き方の大原則。
 よい聞き手の育成は、発言する技術の訓練以上に難しいものですから、折りにふれ、繰り返し、一貫した姿勢で語り続けねばなりません。
 もうひとつ、教師にとって重要なのは、この3つの中の「なぜ」です。
 どんな誤答や奇数であっても「なぜ」この子はこんな発言をするのか、なぜこんな風に考えたのか、その問いかけが教師としての、先入観を取り払い、子どもの心に迫る糸口になってくれます。
(
野口芳宏:1936年生まれ、公立小学校・千葉大学付属小学校教師を経て、公立小学校校長。退職後、北海道教育大学・植草学園大学各教授、千葉県教育委員会委員等を歴任し、植草学園大学名誉教授。「鍛える国語教室研究会」「授業道場野口塾」「実感道徳研究会」各主宰
)

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子どもたちのよさを引き出す「魔法の質問」とは

 教師が自分から、子どもにかかわっていくことができ、短時間で子どもたちのよさを引き出すことができる方法です。
 例えば、友だちとうまくいかずに悩んでいる子が、相談に来たとしましょう。
 そのとき、次のような、子どもたちのよさを引き出す「魔法の質問」を行うのです。
魔法の質問1
 奇跡が起きて、すべての問題が解決したらどうなるのかなあ、とたずねる方法です。
「もし、あなたがひとばん寝たら、すべての問題が解決しているとしましょう」
「奇跡が起きて、すべての問題がひとばんにして解決してしまうのです」
「そうしたら、あなたはどんなあなたになっているでしょうか」
「あなたは、どう振る舞っているでしょうか」
 すると、その子の持っている一番いいところが引き出されると考えます。
 つまり、
「奇跡が起きて、ひとばん寝ている間に、すべての問題が片付いちゃったら、どうなるのかなあ」
と質問する中で、その子のいいところを引き出していくのです。
魔法の質問2
 子どもたちに自分の状態を「今、何点かな」とたずねていく方法です。
例えば
教師「〇〇ちゃん、先週の水曜日、最悪だったんだよね」
  「先週の水曜日が0点だとしたら、今の〇〇ちゃんは何点かなー」
〇〇ちゃん「4点くらいかなー」
教師「じゃあ、0点と4点とは、どう違うの?」
  「4点を5点にするためには何ができるかな」
このように聞いていくわけです。
 つまり、最低の状態が0点だとしたら、今は何点で、そこからまた1点あげるためには何をする必要があるかを聞いていくのです。
(諸富祥彦:1963年生まれ、明治大学教授,臨床心理学、カウンセリング心理学、現場教師の作戦参謀としてアドバイスを教師に与えている)


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子どもたちが授業に飽きていることに気づけますか、どうすれば授業のマンネリを防げるか

 ワンパターンの授業が続き、授業がマンネリ化すると、子どもたちは授業に集中できなくなり、違うことに面白さを求めるようになる。
 時には、それが問題行動であったり、他者へのいじめであったりもする。
 あなたは、子どもたちが授業に飽きていることに気づけますか。
 授業をしながら、常に子どもを観察し、子どもの表情や動作などから、授業を子どもたちがどう感じているかを読むことができますか。
 授業がワンパターンになっていると、子どもたちはストレスをためる。常に「教え込み一辺倒」や常に「子どもの考え主体の授業」だと、嫌気がさしたり、手遊びを始めたりする。
 また「教え込み」と「練習」を繰り返す授業では、子どもは飽きてくる。
 子どもたちが授業に集中できずに、落書きを始めたり、足を動かしたり、勝手におしゃべりを始めたりする状況になると、もう子どもたちはあき始めていることになる。
 これを無視して教師本位の授業をしていくと、子どもたちは教師の話を聞かなくなり、学級崩壊のきっかけとなる可能性がある。
 常に子どもは変化のある授業を望んでいる。ある時は「教え込みの授業」と「練習」、またある時は「子どもの考え主体の授業」というように、さまざまに組み合わさっている授業だと、子どもは授業に引き込まれ興味を示す。
 このことがわかっていないと「私は子どもたちの考えを生かして授業をしているのに・・・・・」と言いながら、だんだん学級が荒れてくることがある。
 それは、子どもがマンネリを嫌っていることに気づいていない教師だからだ。
 だからこそ、子どもの動きに気を配れる教師である必要がある。そのためには、
(1)
子どもの視線を読めること
(2)
子どもの手の動きを読めること
(3)
子どもが今、何をするべきかをわかっているかを読めること
 学級全員の考えを集結して「できた!」と実感できる授業。友だちの考えを聞いて「わかった」と言える授業。
「できた!」という喜びを学級で実感できる授業をときおり行うようにする。
 この学びが成立する学級の子どもたちは、学習することが好きで、考えることが好きになる。 
 子どもたち一人ひとりのよさを引き出し、よさを語ってあげることも大切だ。
 学級の子どもの反応のよかった授業はどんな授業であったかを分析する。子どもたち一人ひとりを逃がさずに、しっかりと「ねらい」にもっていく手だてを常に考える教師でありたい。
 授業のマンネリを防ぐ努力は、教師が子どもたちから信頼されるために必須のことである。
「子どもってすばらしい、面白い!」と思わない教師は、授業のマンネリ化の危険がある。
(
成瀬 仁:新潟県公立小学校教師。国立大学教育学部非常勤講師、オーストラリア公立小学校での勤務経験がある。また、幼稚園の経験もあり、多彩な教職経験を生かし、子どもと環境、教師の雰囲気を考えている
)

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子どもと仲良しになる方法

1 朝の出会い
 学級づくりは、朝、出勤した時から始まっています。
 職員室でパソコンに向かって事務的な仕事をしているとしたら、実にもったいない時間を過ごしていることになります。
 事務的な仕事は、学級の子どもたちがいない時でも可能なのです。
 朝の学級は、授業時間とは、ひと味もふた味も違う子どもたちだけの新鮮な世界が展開されています。
 この新鮮さを味わいながら、子どもたちの姿をさわやかな目で観察しました。
 もちろん、朝一番のハイタッチも欠かせません。
2 朝の会
(1)
教室に、無造作で入るのはもったいないことです
 今日はどんな態度で入るか、どんな表情で入るかの戦略を考えました。
 ネクタイをわざと曲げて入った。普段は物静かな子が「先生、ネクタイが曲がっていますよ」と注意してくれた。
 早速「よく気が付くで賞」を贈った。
 この日を境に、子どもたちの担任を見る目が変わった。
 ただし、この方法は、身だしなみの良い担任だから有効なのであって、普段だらしのない担任の場合は、子どもたちに嫌われるだけなので注意が必要です。
(2)
ふだん落ち着きのない子が、教室で走り回っていた
「おっ、今日も元気があっていいぞ。休み時間に外で相撲をとろう。それまでエネルギーを残しておくといいよ」と伝えた。
 その子は、ニコニコしながら席に着きました。
 落ち着きのない子を元気のある子と捉えることが相互信頼の根本です。
(3)
朝の会の次第に「一人ひと言」というコーナーを設けました
 初めの席の2人が、自分が思っていることを発表します。話す内容は「自然現象に関すること」「学校生活で楽しい、あるいは嫌だと感じていること」「自分の将来の夢や希望に関すること」などです。
 次の席の2人が発表した2人に対して質問し、最後の一人が感想を述べます。
 このコーナーの表向きのねらいは、発表力の育成ですが、実は学級の人間関係を把握するねらいも秘められているのです。
 発表している時に、学級内を見渡せば、好意を持って聞いている子と反感を持って聞いている子が見えてきます。
3 放課後
(1)
子どもたちを昇降口まで見送りました
 朝に雨が降り、下校時に晴れている場合は、できるだけ昇降口まで見送るようにしました。
 子どもにかける言葉は「交通事故に気をつけましょう」に加えて「傘を忘れないように」でした。
 傘を忘れて下校すると、翌日に雨が降れば、その子が困ると思ったからです。
(2)
小黒板にメッセージを書きました
 金曜日の放課後のこと、担任が教室の外を見ていました。そこに女の子が図書室から戻ってきました。
 その子は、乱れていた机を直し、窓を閉め、さらに電気も消し、最後ににっこりとほほ笑んて帰って行きました。
 その様子が、とてもさわやかだったので、うれしくなって小黒板に次のようなメッセージを書きました。
「明日は休みの金曜日の放課後に、黙って窓を閉めていた。机を直して電気を消して、そしてにっこり笑ってさよならと言った。その子が今日もいるといい」
 この短いメッセージが子どもたちの心に伝わったのでしょう。下校時の教室は、今まで以上に整理整頓されるようになりました。
 事実に基づいてほめることの効果でした。
(3)
事務的な仕事を効率的に行いました
 短縮できた時間で、学級通信を作成しました。
 学級通信には、行事の連絡や報告の記事に加えて、いじめを出さないという観点から、学級内のさわやかで明るい出来事も紹介しました。
(
野口晃男:小学校教師、指導主事、教頭、校長を経て盛岡大学非常勤講師
)

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ボスに勝つにはどうすればよいか、荒れたクラスを立て直す第一の方法とは

 授業中にボスが勝手に出て行って、戻ってきたときこそ取り上げるべきです。
「今、授業中ですよ。あんたは勝手に出て行った。今度は、先生に言いに来なさい」
「そんなのうるせーな、いいじゃねーかよ」と言うかもしれません。
「いや、いけません。授業中ですから、行くんなら先生に断りなさい」
「いいよ、ケチ」
「じゃ、きみがいいって言ったから、いけないと思う子、手を挙げてごらん」子どもだから半分くらい手を挙げますよ。
「この子が言っていることがいいと思う人、手を挙げてごらんなさい」仲間が何人か手を挙げます。
「そう、授業中に先生に黙って出てもいいって子が何人かしました。先生はとっても大事な問題だと思いますので、これから学級通信を書きます」
「〇〇くんとか、△△くんとかは、正しいと言ったので、ちゃんと名前を書いて意見を書きます。ですから、〇〇くん、意見を言ってください。本心ですか?」〇〇くんは、しょんぼりした。
「勘違いだったのね。勘違いなら、もう一回聞きます。授業中に先生に断りなく勝手に出ていった。このことが悪いと思う人、手を挙げてごらんなさい」わーと手をあげますよ。
「いいと思う人、手を挙げてごらんなさい」
 その子は、手を挙がった方を見ないかもしれない。さいなまれるんです。
 けんかはこうでなくちゃいけないんですよ。
 そういうことを一つ一つやるんです。今、言った、たった一つのことを突破すれば、半分は従います。
 荒れたクラスを立ち直らせるのは、教師の統率者の自覚です。必ず勝つ。
 そして、授業が楽しい。授業が楽しくおもしろければ、いつの間にか、だんだん、じわじわ効いてきます。
 第一は、授業ですよ。授業がおもしろくて楽しいことですよ。このおもしろくて楽しいこと抜きに学級を立て直すなんてないです。これはもう第一条件ですね。
(
向山洋一:1943年生まれ、元東京都公立小学校教師、教育技術法則化運動代表を務めてきた。教師を退職後、TOSSインターネットランドの運営に力を注いでいる
)

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叱れない教師を生徒はどう思っているのか、なぜ生徒を叱れないのか

 叱らない教師が増えてきているという。なぜ叱らないのか。
 生徒は教師をよく見ていて、教師のホンネを指摘してしまう。
 生徒たちは叱らない教師を次のように言う。
「叱れば、なんだかんだと、生徒とやり合うことになるでしょう。時にはケンカのようになることだってあるからね。それが面倒なんですよ」
「こわいんですよ。生徒をこわがっている。教師が文句を言うと、こっちだって反発しますからね。だから、見ても知らないふりして行ってしまう。あわれなものですよ。そんなふうだから、生徒にバカにされる」
「逃げているんですね。相手にしないんですからね。それならこっちだって相手にしない。そんな先生、いてもいなくても同じですからね」
 教師が生徒を叱るときの意図を考えると、
(1)
教師が自分がよいと思っている生徒のイメージに生徒を近づけていきたい。
(2)
もっと露骨に言えば、教師は自分自身の思うように生徒をぎゅうじっていきたいために、生徒たちの言動を矯正しようする。
 だからこそ、教師は自分自身の思いに十分な目を向けなければならない。
 叱れないとは、そういうことを考えていない、それだけの情熱がない、叱ることに自信がない、ということなのか。
 それは自信の問題ではなく、自己保身の問題ではないか。生徒に愛情を持っていないということではないのか。
 つまり、教師としての自分は、生徒をどのようにしたいのか。どんな生徒になってもらいたいのか。
 しかも、それはその生徒にとってムリな要求ではないのか。生徒のしたい方向、なりたい方向とちがうのではないか。
 こんなことを十分考えていないことからくる問題ではないのか。
 叱れないとは、叱り方のうまいとか、へたとかという技術のことではない。
 教師自身が、人間というものをどう見るか、生徒の立場や「めんつ」をどう感じ考えるか、生徒の感情をどれだけ共感できるかという、共感の能力とも言うべき問題でもある。
 叱り方とは、技術論ではなく、愛情論である。
 叱り方は、生徒の「よく」なってもらいたいと祈る教師の心の問題でもある。
(
関根正明:1931年生まれ、小・中学校教師、指導主事、東京都公立中学校校長、大学助教授を経て、元山形大学講師)

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学級崩壊がなぜ起きるのか、荒れた学級との戦いから学んだこと

 大賀先生は客室乗務員になるか教師の道をとるかで悩み、結局教師になった。すてきで知的な教師である。しかし、新卒のころは次のような学級崩壊を経験した。
 小学校2年生の授業中に、やんちゃな子が立ち歩き、それにつられてもう一人のやんちゃな子が立ち歩き始めた。
「今は授業中です。座りなさい」と優しい声で注意した。
 しかし、立ち歩いたままなので、近づいて「授業中です。座りなさい」と少しきつめに注意した。その子は、へらへら笑って座ろうとしない。
 しばらくすると、その子が立ち歩いたまま手をあげた。彼を指名しなかった。すると「先生が無視した!」と叫び、暴れだし、教卓の上の物を全て落とした。
「直しなさい」とどなると、私に物を投げてきた。教室は格闘場になり、授業は中断せざるを得なかった。
 こんなことがたびたび起こった。クラスがこのようになったのは、すべて私の教師としての未熟さや統率力不足が原因であった。
 私はあきらめずに荒れたクラスに必死に立ち向かった。朝早く学校に出勤し、子どもを笑顔で迎えるようにした。休み時間は子どもと一緒に遊んだ。子どもが帰った後、散らかっている教室の掃除をした。
 一人ひとりの子どもの顔を思い浮かべながら、今日何が起こったかを思い出し記録した。
 しかし、毎時間何かトラブルが起きた。ふつうに授業できるのが一日に1時間あれば、いいほうであった。
 身も心もずたずたになっていった。一人でもがき、苦しんでいた。
 向山洋一は、著書「学校の失敗」で「学級が荒れる原因は教師にある。つらいけれど、そのことを見つめなければならない。
 教師がすべて悪いのではない。悪いのは教師の教育行為にある。子どもの前で教師として振る舞ったことの中に、学級が荒れる原因がある」と述べている。
 私の行いのどこが悪かったかを自分なりに振り返ってみた。
 なぜ私のクラスが荒れたのか。荒れた原因は
(1)
私の授業の腕が未熟だったからである。
(2)
集団を統率する力が弱かったことである。
の2つである。
1 集団を統率する力が弱かった
 統率力を失った原因は、指示が不明確でぶれてしまうことであった。
 例えば、算数の時間に「ノートに式と答えを書きなさい」と指示した。すると「先生、教科書に書いてしましました」と子どもが言った。
「しかたがないですね。今度からは、きちんとノートに書きなさい」と言ってしまった。
 やんちゃな子たちは、この指示のぶれを見逃さない。見る見るうちに、アドバルーンを上げて、指示が通らなくなり、荒れ始め、騒乱状態になってしまった。
 私は、最初に子どもたちと仲良くなりたいと思い「ダメなことも、まあいいか」と、子どもたちに言ってしまった。
 次第に、子どもたちは私をなめるようになり「この先生はあまり恐くない。何をしても怒らない」と甘えだしてきた。
 そのうち、私が集団のリーダー(ボス)になっていなかったために、やんちゃな子がボスになり弱肉強食の構造を作ってしまっていた。
2 私の授業の腕が未熟だった
 他の先生に私の授業を見ていただいて、次のように分析してもらった。
(1)
発問が子どもたち全体のものになっていない。一人ひとり何をしたらいいか、はっきりしていない。
(2)
こわい顔で授業をしている。
(3)
授業のねらいがぼけている。クライマックスがない。流しているだけ。
(4)
子どもたちに指示が伝わっていない。
 クラスが荒れた最大の原因は、私の授業がまずかったことであった。
 向山洋一先生から次のアドバイスをいただいた。
(1)
少しでもいい状態にするには、楽しい授業をすることである。9割は授業である。
(2)
叱れば叱るほど、荒れていく。たくさんほめるようにする。
(3)
子どもと戦うときは、一人に絞り、一点だけについて戦うようにする。
 荒れたクラスでの目標の一つは、授業を成立させることである。私は「勉強って楽しいな」「今日の勉強はよくわかったよ」と思えるように次のことをした。
(1)
授業で使えそうなものを、教育雑誌などで見つけ、手当たりしだいにコピーし、各教科ごとにノートを作成した。
(2)
毎時間、発問・指示を明記した指導案を書いた
 トラブルが起きても指示を明確に出せた。空白の時間を作らずにすんだ。
 荒れたクラスを立て直すために、私がいいなと思ったものをたくさん追試した。例えば
(1)
フラッシュカードを利用して、いきなり授業に突入する
 授業の始まりに「席に着きなさい」「教科書とノートを出しなさい」と言うのをやめた。算数の授業はテンポよく、パッパッとフラッシュカードを出した。
(2)
忠実な追試をする
 授業で使えそうなものをノートにはっておいたおかげで、発問、指示が明確に書かれているから、忠実に追試を行うようにした。
 荒れたクラスでの戦いは非常につらい。しかし、あきらめたらもっと地獄に落ち苦しみを味わう。
 荒れたクラスとの戦いは、自分との戦いでもある。ネバーギブアップ、あきらめないことが荒れたクラスとの戦いでは、いちばん大事なことである。
(
大賀由里子:東京都公立小学校教師
)

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チャイムが鳴ったのに席に着かず、私語やマンガを読んだり遊んだりして授業が成立しない時、どう対応すればよいのでしょうか

 チャイムが鳴り、授業の挨拶をしようとしても、教室が騒然としているとき、どう対応すればよいのでしょうか。
 このような場合、注意すべき子どもをピンポイントで指導して、学習態勢の確立をはかるようにするとよい。
 子どもの名前を呼び、具体的な指示を出した。
「〇〇くん、前を向いてください」
「□□さん、口を閉じてください。号令がかかっています」
「△△さん、手を膝の上に置きましょう」
 そして、その子がきちんとしたら
「OKです。ありがとう」、「はい、できました」
と言うようにした。 
 また、一度で直らない子には
「〇〇くん、2回目の注意です」
と、毅然かつ冷静に指導した。
 このようにして、全員の学習態勢が整ってから授業に入るようにした。
 そのとき、個別の子にも全体の子どもたちにも、もくどくど説教はしなかった。
 きちんとできたことを認めて授業を始めた。
 ほかの方法の例を次に示すと、
「教科書の〇ページの一番上の番号1を指でさしなさい」
と指示を出す。
 教師が「5,4,3,2,1」と数えて少し待ったあと、教室の端の子から一人ずつ「〇、〇、〇、×、・・・・・」と言いながら評価していく。
 また、リズミカルに「マル、バツ、マル、マルのマル」などと言いながら机間を回る。
 これを何回か実施すると、すぐに教科書を開いて指がさせるようになった。自然に学習態勢が整った。
 よくない方法は「静かにしなさい!」といった全体への注意です。
 子どもたちは自分に向けられた言葉だと感じない。
 大声でどなると、全体萎縮させ、きちんとしている子にも「なんで僕たちまで怒られるの」といった受けとめ方をされてしまう危険がある。
 注意や指導は、それを必要とする子に直接向けられるべきである。
 ほめることは、全体へふくらませて効果がある。しかし、叱ることは、その個人に限定したほうがよい。
(
神部秀一:群馬県公立小学校教師
)

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教師が心を痛め休職したりする原因は何か

 教師は真面目で誠実だ。誠実だから教師になったのだ。真面目でない人間には教師は絶対つとまらない。
 心を痛めて、休職する教師が増えている。辞める教師が増えている。
 それを取り上げてくださるマスコミも多い。有り難いことである。
 しかし、マスコミの方々は、われわれ教師の「さが」をよく分かっていらっしゃらないようだ。
 教師が自殺したり、休職者数が増加したりすると、すぐに労働時間などが問題にされる。
 確かに教師の仕事は忙しい。しかし、私は、そんなことは問題でないと思っている。
 教師が心を痛める原因は何か? それは「報われない」からである。
 どんな仕事でも、辛いことはある。忙しくて、睡眠時間も満足に取れないことがあるだろう。
 仕事は、厳しいものである。それは仕方ない。
 それでも、その努力が報われれば、人間はがんばれるのだ。
 どんな忙しかろうが、徹夜が続こうが、報われている限りはがんばれる。
 われわれ教師は真面目なのだ。良心的なのだ。子どもたちの笑顔を見て、やりがいさえ感じられれば「教師になって良かった」と思える。
 どんなに仕事が忙しくても、体がきつくても「がんばって良かったな」と思える。
 それなのに、いまどきの教師は「報われない」、がんばっただけの見返りがない。
 見返りとは、現金ではない。子どもたちの笑顔、保護者の笑顔、つまりは「先生のお陰で」と言われることが少なすぎる。
 いや、逆に一生懸命やった、がんばりが裏目に出ることが実に多いのだ。
 これでは、われわれ教師は「報われない」、がんばれない。
 教師という仕事の本来の喜びは、子どもの成長である。かけ算九九ができるようになったなど、子どもを成長させることができると、ものすごくうれしい。
 そして、自分の成長を実感した時の子どもたちの笑顔を見ると、さらにうれしい。
 これが、教師の「さが」である。そのためなら、どんなに大変でもがんばれる。
 われわれ教師は辛いのは、忙しいからではない。「報われない」から辛いのだ。
 今、教師に必要なのは、教師が報われることである。
(
中村健一:1970年山口県生まれ、山口県岩国市立小学校教師。授業づくりネットワーク、お笑い教師同盟などに所属。笑いとフォローをいかした教育実践は各方面で高い評価を受けている。 また、若手教師を育てることに力を入れ、多くの学生に向けて講演も行っている
)

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小学校の教師が人事交流で幼稚園に赴任して、わかったこと

 中部地方の小学校教師が2年前に人事交流で大学の附属幼稚園に赴任した。
 子ども観が大きく変わったという。ニコニコしながら、小さな子どもに語りかけるような、ゆっくりとした口調で話してくれた。
 幼稚園に赴任した頃は、4,5歳の子を扱ったことがないから、何をしていいかわからなかった。
 それに幼稚園って教科書がないでしょ、4月にこれを勉強させなきゃいけないっていうのがない。
 折り紙の時間に子どもがケンカをしても「ケンカしちゃダメ!」なんて言わない。ケンカを通して痛みもわかるし、子どもが育っていくことをすごく大事にしているんです。
 プールの時間でも、入りたがらない子に無理じいしない。「この子はまだ、そういう時期じゃないんだ。機が熟すまで待とう」と。子どもの心の解放が大切なんですよ。
 つまり、子どもに「〇〇しなさい」と強制しないんですね。もっと自由でいいんじゃないかと。自由な時間を与えて、自分の生活を主体的につくらせる。
 わが子を見てても「子どもって、ほんとに自分の思うようにならないなあ」と感じるけど、幼稚園はそれが集団だから、すごい世界なんです。
 もろに本能のぶつかりあいで。逆に、教師が変わらなきゃならない。
「できるようにさせる」という関わりじゃなくて、その子が「やりたい」と思っていることや、発達段階で大事なことを先生が認めたり、助けてあげる。
 一人ひとりの子どもの成長に、どこまで関われるかが大事。4歳や5歳という幼児期に大事なことを伝えていく、という考えなんですね。
 それで、自分のことをふりかえったんですよ。
 小学校の教師でいたときは「私のクラスは、ぜったいに全員、逆上がりができるようにさせてやるぞ」みたいなことが、すごく強かったなあって思ったんです。
「それができるのが、教師の力量だ」なんて、私は偉そうに思っていたし、保護者も喜んでくれたし。
 小学校では目標達成主義で、子どもたちを育てている。できなかったら「あなたの指導が悪いんだ」と、教師の評価にもなってしまう。教師も追いつめられちゃうんですね。だから、子どもがいうことを聞かないと叱る。
 幼稚園に来て「教師のほうから、子どもたちのほうに行く」のが大事だと、思うようになりました。
 小学校1年生のクラスが5月に学級崩壊したという報道が以前ありました。
 5月ということは、幼稚園から上がったばかりで、はたして子どもが、授業中ずっとおとなしく席に座ってられるのか。この時期はまだ無理なんですよ。
 もしも、子どもが全員きちんと座っているようだったら、それは幼稚園のときに「やりたい」「楽しい」ってことを抑制されてた、としか言いようがない。
「先生に怒られるから、とりあえずおとなしくしてるよ」っていうレベルで、子どもは受けとめちゃう。
 それじゃ、教育じゃない。自分から主体的に「相手のために、話を聞くんだ」という大事なことは育たない。
 その子の心が今、どこにあるのかってことを見届けていく必要があると思うんですよ。
 私が幼稚園に来て「おはよう」と言っても、あいさつしない子がいた。「ちゃんと、あいさつしなさい」とは叱らなかった。
 でも、1年かけたら、その子も「先生、おはよう」って言うようになりました。
 あと1年半で幼稚園の勤務は終わるけど、早く小学校に戻って授業をやりたいですね。
 幼稚園で学んだこと、実感したことを生かして、子どもたちに接していきたい。
 きっともっと幅の広い授業なり、子ども理解なりができるんじゃないかなあ。それが私の使命だと思うし。
(
中部地方の小学校教師
)

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子どもを教える仕事をする人に絶対必要な心構えとは何か

 当時、生活指導主任をしているA先生の学級の前を休み時間に通ると、教卓のところに子どもたちが何人も群がっていた。笑い声がいつもおきていた。
 群がっている子どもたちはいつも決まっていた。それはクラスで一番勉強ができない子。みんなに嫌われている子だった。
 A先生のひざの上にいるのは、決まって「できない子」であり「嫌われている子」だった。
 勉強のできる子をひざの上にのせていることはなかった。
 ある日、私は「A先生は、いつも子どもがいっぱいいますね」と声をかけた時、初めて所信を語った。
「勉強のできる子や人気のある子は、これから先の人生で、いつだって脚光をあびたり、人から大切にされたりするんだ」
「だけど、クラスでは最下位のような子は、今大切にしてやらねば、再び大切にされることは、ないのかもしれないんだ」
「今大切にしてやって、人生のバランスはとれているんだ」
 私はそれ以来、心の中に「教師として、子どもを大切にしているかどうか」という明確な判断基準が加わった。
 クラスで最も嫌われている子がひざの上に来るような教師なら「子どもを大切にしている」と私は判断する。
 口先だけ、うまいことを言う教師ではだめだ。子どもは敏感なのである。内心「嫌だ」と思っていることは相手にも伝わるのである。鏡の原理が働くのである。
「最も嫌われている子どもがひざの上にのる」ことは簡単ではない。どうしても通過しなければならない心の革命を必要とする。
 それは、次のことである。「いかなる状態のいかなる考えの子も、すべて暖かく包み込める」
 教師は人を教えて育てるという恐ろしい仕事をしている。
 人を教えたり、人を助けたりする仕事の人が、絶対必要な心構えがある。
 それは、子どもを「包みこめる」ということであり、「暖かく接することができる」ということである。
「ぼくは先生なんか、大嫌いだ」と憎たらしく言う子をも、なおも包み込まなければならない。
 これが教師という仕事の宿命なのである。
 子どもたちのすべてを受け入れて、包み込み、そしてさらに「子どもの可能性を伸ばそうという努力」が重なった時、子どもは別の表情をみせるのである。
(
向山洋一:1943年生まれ、元東京都公立小学校教師、教育技術法則化運動代表を務めてきた。教師を退職後、TOSSインターネットランドの運営に力を注いでいる
)

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保護者からのクレームに若い教師はショックを受ける、クレームが起きる前提と真意を知って対応するとよい

 保護者からの苦情やクレームに悩み、対応がこじれて失敗する教師の多くは、問題を一人で抱かえ、悩み、職場で孤立する若い教師が多いのである。
 若い教師にとって、クレームの始まりは、たいがい「子どもとの関係づくり」のつまずきからスタートする。
 保護者からの初めてのクレームは、若い教師にとっては大変なショックである。厳しいクレームに映る。
 保護者からのクレームは「先生に力がないからですよ」と教師の誇りを打ちくだき「私は無力だ」と自責の念や自己否定の感情に追い込んでいく。
 だからこそ、若い教師の周りには仲間の教師や先輩教師がいて
「あなたは、がんばっているよ」
「教師として自信をもてよ」
などと、教師仲間が支えるというフォローが必要なのである。
 若い教師は、職場の仲間とつながって、問題解決の力量を養って、たくましい教師に成長してもらいたいと願わざるを得ない。
 それでは、実際にどのような問題で苦情やクレームを受けるのか。
授業では「先生の授業がわからない」「先生は特定の子ばかり当てたり、ひいきする」「授業は一部の子だけが発言して、先生一人がしゃべっている」「授業の進度が他の学級より遅れている」「わからない子は置いてきぼりだと子どもが言っている」「一部の生徒が騒がしいが、注意しない。頼りなく担任として大丈夫だろうか」「授業は生徒が騒がしく、学級崩壊の状態だ」
 生徒指導では「いじめがあっても、いじめた子をちゃんと注意しない」「子どもがケガをしても親への連絡が遅い」「骨折しているのに、ちゃんと病院に連れて行ってくれない」「行事の連絡が遅い」「顧問の先生が部活動に毎日来ない」「部活で実力があるのにうちの子がどうしてキャプテンに指名されないのか」等々。
 教師はクレームが起こる前提と真意を知っておくことが必要だ。
 親は自分の子どもはかわいい。したがって、わが子の言動を「うのみ」にして、学校の対応に不満や怒りを爆発させ、突然クレーマーになることは日常茶飯事である。
 教師の指導や対応が悪いと感じたとき、ある瞬間からクレーマーになるのである。
 教師が心得ておかなければならないのは、クレームの裏にある真意をつかむこと。
「一度、機会があれば学校に文句を言ってやろう」
「これまでたまっていたストレスを、学校へ攻撃して表してやろう」
と考えていたりする保護者であるか。
 あるいは、以前にもクレームを言って学校を謝らせた成功体験をもつ保護者であったりするか、である。
 クレームの裏にある真意をつかまねば、保護者と学校の間の溝は埋まらないし、問題は解決しないのである。
 それだけに「お母さん、それはですね・・・・・」と、保護者のクレームの途中で口をはさんで、上から目線で、話の腰を折ってしまったり、クレームの内容をじっくりと経過を追って聞いたりすることがなければ、ため込んでいたクレームの原因や背景はつかめない。
 学校であった指導に満足していない子どもが親に言い、親がそれを「うのみ」にして学校にやってくるのである。それだけに問題の解決を複雑にする。
 クレームの問題解決を子どもの視点で行うのか、大人同士の問題として扱うのかを間違えると問題を複雑化させてしまうことになる。
 大人同士の目線で話を進めると「謝れ」「謝らない」という言葉尻をつかんだ口ゲンカになり、メンツが先行する。
 そうではなく、子どもの目線でクレーム問題の解決をはかるとよい。
「子どもがどう思っているのか」「子どもはどうしてほしいと言っているのか」「どうすれば、一番子どものためになるのか」という教育的視点を最優先に話を進めていくことである。
 保護者と学校とのコミュニケーションの実体調査の結果から、保護者が学校とコミュニケーションがとれていないと思っている割合は、教師より4倍も多い。
 保護者は教師よりもコミュニケーションが取れていないと実感しているのである。
 したがって、教師から保護者への日常的な「お知らせ」や「おたより」、すばやい「連絡」「報告」「家庭訪問」などを通したコミュニケーションや話し合いで、子どもについての情報を共有し、信頼関係をつくることが非常に重要である。
 特に、常に学校へ不満やクレーマを言うタイプの保護者は、日頃からの連絡を早くし、連絡も密にする必要がある。
(
古川 治:1948年生まれ、大阪府公立小学校教師・指導主事・校長、東大阪大学教授を経て、甲南大学特任教授
)

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子どもたちを受信する力がつけば、信頼され、指導力のある教師になることができる

 子どもたちや保護者から信頼される教師になりたいという思いは、すべての教師の願いです。そうなるためには、どうすればよいのでしょうか。
 私の長い教師経験から言えることがあります。
 経年とともに、教師は発信力が強くなります。
(1)
子どもたちにどう伝えられるか
(2)
どう噛みくだいて伝えればよいか
の研鑽を積み、子どもたち全体を仕切り、的確な話や指示を明確に伝える発信力に力を注ぐことが多いと思います。
 しかし、私の長い教師経験から、発信力を発揮するためには受信力が大事です。
 発信力を発揮するための大前提として、
(1)
聞く力
 冷静な落ち着いた気持ち対応する。相手の波長にあわせ、答えやすい質問を心がける。
(2)
受けとめる力
 見えてないことが多いと思い、どんな思いか興味を持ち、理解することに情熱を持つ。
(3)
感じとる力
 日々新たな気持ちになり感覚の鮮度を高める。人の気持ちは日々変わるので、決めつけない。行動の傾向を探る。
 すなわち、受信力が大事だと考えています。
 しっかりと、受信力を磨き続け、豊かな受信力によって子どもを把握することができれば、発信力を効果的に発揮されます。
 豊かな受信力を取得すればするほど、おのずと発信力は身についていきます。
 この受信力をすべての教師の皆さんに磨いていただきたいと思っています。
 教師は生活指導ができる人が、力があるとされています。生活指導とは集団統率力です。
 教室全体を静かにさせる力、朝会で全校の子どもたちを静かに整列させる力、これらができる教師が力量を高く評価されます。
 例えば、授業中に私語する子どもたちを指導することを考えてみます。
 授業中に私語をしている子どもがいるときは、私語を慎むようしっかり指導することが求められています。
 教室がざわついている状態の学級を子どもたちの視点で考えてみましょう。
 子どもたちの教師への評価はどうでしょうか。その教師がいやな子どもが多くいたり、不満を抱いていたりしているのではないでしょうか。
 一方、とても雰囲気のいい学級の子どもたちの多くは、教師のことを好きであったり、信頼感を厚く抱いていたりします。
 子どもたちは、
(1)
ちゃんと自分たちのことを見てくれている教師
(2)
自分たちの話をちゃんと聞いてくれる教師
(3)
誰に対しても同じ気持ちで接してくれる教師
このような教師の姿を理想像として描いていると言えます。
 つまり、教師に対して敬意や信頼があれば、その教師の指示にはちゃんと従うのです。
 このためにも、教師は子どもの気持ち、子どもの心の奥底にある思いを理解しようとする姿を、子ども自身にしっかり認知させることが、最も重要なことです。
 さらに、発達特性や学習障害等、教師がしっかり理解することもたくさんあります。
(
森上一美:名古屋の公立中学校、小学校教師、小学校校長を経て金城学院大学教授
)

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一流の実践家の教育技術を学んでも出来ないのは、その実践家の生きざまによる部分が大きい

 教育技術を学べば、教師としての力量は格段に伸び、教育実践は充実したものになると、私は若い頃信じていました。そして、多くの教育技術を一流の実践家から学びました。
 ところが、私はその実践家の先生のようになることはできませんでした。
 私は、あるとき気づいたのです。
 一流の教育実践家が、その講座や著書によって披露している教育技術は実のところ、その本人が意識できていることだけに限定されるということに。
 そして、実践家の実践を形作っているのは、むしろ意識されていないその所作や、教育観、子ども観、また実践家の性格による部分が大きいということに気づいたのです。
 そうしたその実践家の人格としか言いようがないものと、教育技術がマッチしているからこそ、一流の教師は一流として存在しているわけです。
 教育技術と教師の人格は背中合わせにあるものだというのが私の結論です。
 ですから、私が研修会の講座で語る場合や、またどなたかの教育技術論を聞かせていただく場合にも、「その技術は、なぜ必要なのか」「その教育技術は、どのようにして生まれたのか」「その教育技術が、その教師にとってなぜ可能であるのか」といったことに留意するようにしています。
 つまり、教育技術と教師の人格をまるごと語るときに、はじめて教育情報は価値あるものになると私は考えています。
 教育実践家から真に学ぶべきは、その教師の生き様です。なにを体験し、なにで失敗し、なにで成功したのか。そしてどのように学ぼうとしたのかです。
(
山田洋一:1969年生まれ、私立幼稚園に勤務後、北海道公立小学校教師。教育研究サークル「北の教育文化フェスティバル」代表
)


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授業で、発問・説明・指示の仕方をプロ級にするにはどうすればよいか

 教室で大勢の子どもたちに話をするのですから、声も間も大切です。いつもよりも、大きく、はっきり、ゆっくり話します。
 すると、落ち着いた話しぶりになり、発問や指示が通りやすくなります。
 見ればわかるように、身振りや手振りを入れたほうが、わかりやすいと言えます。
 表情も重要なポイントです。笑顔で話をすると聞き手は安心します。
 特に真剣な話をするときには、目を見開き、しっかりと子どもたちを見渡しながら話をすると効果的です。
 話し始めに、わざと長めに間をとったり、あえて小声で話したりすると、聞き手を引きつけることができます。
 発問には、いくつもの答えが予想される発問があります。例えば社会科で「写真を見て、気付いたこと、疑問に思ったことは何ですか?」とか、曖昧な部分を聞く発問です。
 いくつもの考えを出させることで、思考を広げ、比較検討し、妥当な解に絞ることを通して子どもの思考を深めるのです。
 発問の後に、全員が考えさせるように指示をするとよい。「自分の考えをノートに書きなさい」と指示をします。
「賛成なら〇、反対なら×と書きなさい」「根拠をずばりひと言で書きなさい」という指示なら1分以内で終わります。
「考えを10文字以内で書きなさい。時間は2分です」
「3分以内に根拠を3つ、ノートに書きなさい」
 このように指示されれば、全員が目安をもって取り組めます。 
 説明内容が見えると、さらにわかるようになる。実物や写真、動画があると話がわかりやすくなります。
 黒板に絵を描いたり、図解したりして描写するようにします。わかりやすい説明をしている教師の授業を参観すると、黒板を効果的に使っています。
 子どもの身近なことに置き換えることができれば、説明内容がよりわかりやすくなります。
 説明するときは、具体例があるとわかりやすい。しかし、具体例だけでは、すっきりとわからないことがあります。
 例えば「私が好きな食べ物は、ラーメン、うどん、パスタです」という話は、すっきりわかったという気にはなりません。
「私の好きなのは麺類です」と、束ねる(抽象化する)ことでわかりやすこなります。
 つまり、具体的な説明を入れるには「例えば」、束ねて抽象化するには「つまり」を使うようにします。
 説明は短いほうがよいですね。時には説明が長くなるときがあります。そんな時には、合間に笑いを起こすようにしてみましょう。リラックスでき、再び集中して話を聞くことができるのです。
 説明を聞いているだけでは、子どもたちは飽きてしまいます。大切なポイントを復唱させることで、聞き手を参加させることができます。
 問いかけることも有効です。「今、〇〇について説明しましたが、どんな点に気をつければよいでしょか?」と、聞けば復習になります。
 ペア対話やグループ学習など、ある程度まとまった時間が必要な場合があります。
 その作業を終えるのに、どうしても時間差が出てきます。
 その場合は、指示を終えた後の行動もセットで説明しておきましょう。例えば
「今日の学びを振り返り、感想を書いておきましょう」
「話し合いの内容を発表してもらいます。発表の練習をしておきなさい」
などです。こうしておけば、ムダな空白時間が生まれません。
(
瀧澤 真:1967年埼玉県生まれ、千葉県公立小学校教頭
)

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授業中、騒がしい子に注意をしたが無視された、どうすればよいか

 授業中、騒がしくなったので、教師が騒がしくしている子に注意をしたが、子どもは無視をした。
 無視という子どもの挑発的な態度に、教師が感情的になり「ちゃんと聞きなさい。悪いということがわからないの」といった感情的な言葉で叱るのは禁句である。
 教師が感情的になると、まわりで見ている子どもたちには、子どもと教師が対等に言い合っているように見える。
 そうなると、反発する子どもに加わる子どもたちが出てきて、収拾がつかなくなる。このままにしておくと、学級崩壊になりかねない。
 どうすればよいのでしょうか。
 教師自身が自分の何が問題かを考えるとよい。
 教師の言動に、子どもが反発していると考え、教師自身の何が問題なのかを、振り返ることが大切である。
 教師の言動や授業の進め方が引きがねになり、子どもたちが反発することがある。
 授業後に、その子と個別に話し
「〇〇ちゃん、先生に何か思っていることがあるんじゃないかな? 先生は思いつかないの。だから、教えてくれないかなあ」
と、無視している原因を探った。
 また、まわりにいる子どもたちにも個別に話をしたり、クラスの子どもたちから、先生に関するアンケートを取ったりして情報を得た。
 情報をつかんだので、無視した子どもともう一度話をした。
「この前、先生があなたのことを注意したことに腹を立てていたんだね」
「先生は、勘違いしていたようだね。それで、先生の言うことを聞けなかったんだね」
「本当に悪かったね。ごめんよ」
「今度から、ちゃんと、あなたや、みんなのことを見ていたいと思っているよ。これからも教えてね」
と伝えた。
 その他の解決の方法として、無視した子どもも参加したくなるようなゲームすることが考えられる。
 授業を中断しゲームをします。例えば
「今から楽しい『20の扉』のゲームをします」
「では始まり。それは動物です。さあ、20回、質問してください。それに『はい』『いいえ』で答えます。答えを当ててください」
子ども「大きいですか?」、教師「はい」
子ども「色は灰色ですか?」、教師「はい」
子ども「鼻が長いですか?」、教師「はい」
子ども「わかった。象ですか」、教師「そうです。象です」
当てた子どもは大喜びです。
教師「3問で当たったね。この調子で後2題します」
と進めて授業に戻った。
(
松本順子:高知市子ども科学図書館
)

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いまどきの保護者とは

 小学校の教師になって18年目になる。スポーツ好き、子ども大好き、子どもたちや保護者にも人気が高い、頼もしい女性教師である。インタビューした。
 保護者から、学校のことにかぎらず、家庭の問題とか仕事の悩みまで、いろいろな相談が持ち込まれます。なかにはパニックになって夜中に電話してくる親とか。
 まあ、ふだんから「自宅に電話してもいいですよ」と言っているので、かまわないのですけれど。
 お母さんたちは一人で考えていると煮つまっちゃうらしくて、たいしたことじゃなくても、やっぱり聞いてもらうと、ホッと安心するみたいです。
 どうにもつきあいきれないなと思うのは、やっぱり親のエゴや見栄かしら。
 子どもの成績があまり振るわないのに「なんとかして私立を受けさせたい」という親がいる。いったいだれのため?といいたくなる。結局ブランド信仰でしょ。
 私に言わせれば、子どものことなんてまるで考えていない「たわけ親」ですね。親がこんなふうだと、子どももうまく自立できない。
 今の子どもたちをひと言でいえば、自己中心的で、依頼心が強い。セルフコントロールができないんです。
 子どもたちは集団のなかで、ケンカをしり、いろいろな経験を積んだりしながら、自分で考えること、自分を抑えることを学んでいく。
 ところが、高学年になっても、それができなくて、相手をケガさせるまで殴ってしまうとか、ケンカの仕方もわからない。
 女の子を殴った男子がいて、許せないから、私は、その子を引きずり出すつもりが、逆に投げ飛ばされてしまった。いつの間にか、子どもの方が力が強くなっていたの()
 ところがその子が謝らない。家庭でも謝ったことがないらしいんです。両親が優しく、悪いことをしても謝らないで済んできたんですね。
 ただ、この両親は子どもに対して真剣だった。学校に来て「謝らせたい。いま頑張らないと、あの子は立ち直れないから頑張ります」と。
 三週間経たとき、その子が、ようやく私のところに来て「ごめんなさい」って言ったの。それからは、つきものが落ちたように変わってね。返事もろくにしなかったのが、きちんと挨拶するんです。
 親と話したり、家庭訪問をしていると、なんだか子どもたちが放任されているように感じますね。精神的な面で放置しているんじゃないかなと思います。
 教師以上に、親たちが自分の子どもと、どう関わっていいか、わからなくなっているみたい。子どもを友だちあつかいする親がふえた。けっして叱らないとかね。
 子どもにとっては、いっけん、らくそうに思えるけど、やっぱりちがうと私は思う。
 教師がガンガン叱っても、あとで「叱られて良かった」って言う子、けっこういるんですよ。叱ることに、結局は愛情の裏打ちがあるからじゃないかしら。
 奇声を発する子、やたら触ってくる子、そういう不適応な行動をする子には、それなりの理由があります。
 かまってほしいから、わざとそういう行動をする。心のつながりがほしいんです。家庭でかまってもらえないぶん。
 本気でぶつかったり、叱ったりするのは、教師もすごくエネルギーを使うけれど、面倒がってたらダメなの。
 それだけのものは子どもから、かならずかえってくるんですから。
(
関東圏の公立小学校女子教師
)

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運わるく学級崩壊してしまっても自分を責めてはならない。人のせいにしてでも、生きのこれ

 教師は真面目な人が多い。だから、学級崩壊してしまったら、自分を責めてしまう。そんな人ばかりだ。
 そして、心を壊す。体を壊す。辞めてしまう人だっている。自殺してしまう人だっている。
 学級崩壊しても、悪いのは自分(教師)ではない。学級崩壊を起こすような子どもが悪いのだ。保護者が悪いのだ。少しはそうやって、人のせいにしてみよう。そうすれば、少しは心が軽くなるのではないか。
 ある女性教師がいた。かなりの確率で学級崩壊した。すごいのは、彼女の明るさだ。職員室で見ていると、学級崩壊している担任だなんて、とても思えない。
 よくしゃべり、よく笑う。風邪ひとつひかない。学校を休むなんてことはない。毎日元気に働き続けていた。
 なんでこんなに元気で明るいんだろうと、不思議に思っていた。彼女の話を聞いていて、よく分った。
 彼女は、自分が悪いとは全く思っていない。悪いのは全て、子どもであり、保護者であり、世の中なのだ。
 だから、彼女は傷つくこともなく、明るく元気に働き続けられる。すごいことだ。
 私は、彼女に学ぶべきだと思っている。人のせいにすれば、病気にならなくて済むのだ。辞めなくてすむのだ。少しはそうやって、人のせいにしてみよう。
 また、彼女が元気でいられたのは、周りにいた同僚教師の力も大きい。人のせいばかりにする彼女の発言を一切とがめなかった。「うん、うん」とうなずき「そうだよねえ」と共感的に聞いてあげた。
 彼女が元気で居続けられたのは、職員室の力が大きいと思う。
 人間誰しも、相性というのがある。もし私がものすごく相性の悪い子や保護者の担任になってしまったら、私のクラスだって学級崩壊してしまうのだ。
 もちろん、教師の努力で学級崩壊になる確率は下げられると思っている。そう思っていないとやってられない。
 しかし、学級崩壊の確率はゼロではない。学級崩壊してしまう可能性は誰にだってあるのだ。
 運わるく学級崩壊してしまっても、自分を責めてはならない。人のせいにしてでも、生きのこれ。
 教師として1年間生き残りさえすれば、次の年は楽勝に感じられるはずだ。とにかく1年間をしのぎきり、生き残ることが大切なのだ。
 これは、将来、学級崩壊に当たってしまった時の私へのメッセージでもある。
(
中村健一:1970年山口県生まれ、山口県岩国市立小学校教師。授業づくりネットワーク、お笑い教師同盟などに所属。笑いとフォローをいかした教育実践は各方面で高い評価を受けている。 また、若手教師を育てることに力を入れ、多くの学生に向けて講演も行っている
)

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今どきの保護者・子どもの対応で、教師は精神的な疲れがドーッと来る

 以前から、小学校高学年の大変さというのはありましたけど、小学校の低学年から大変ですね。
 落ち着いて話が聞けない子ども、何かをやると言うと最初からイヤダーと叫ぶ子。いまは、1,2年生はおとなしく椅子に座って、先生の言うことをよく聞くという状況じゃないですよ。
 私のクラスでも、1人の男の子が手当たり次第に友だちに暴力をふるうんですよ。その子は小さいころ病気がちで、友だちと交わりのないまま小学校に入ってしまった。どうやって人と繋がったらいいのか、分からないんですね。
 そういう人と繋がれない子どもが急速に増えています。その一方で、ちょっとした刺激や苦痛にも耐えられない、ひ弱な子どもがいます。
 家庭では、父親が不在で、母親がいつも子どもとだけくっついている。
 それで、感情だけで可愛がるか、怒るかで、客観的に子どもを見ることができないんです。だから、子どもの気持ちが安定しないんですね。それでひ弱な子や、わがままな子ができる。
 特に、高学年の男の子は、がわがままになっている子が多いんですよ。
 母親は男の子をどう扱っていいかわからないですよ。それで子どもはいうことを聞きません。父親がかかわっていれば、バンと言ってくれるはずなんですが。
 母親は同姓として分かる部分があるので、女の子には結構厳しくしつけますから、逆に5,6年生になると女の子はしっかりします。
 中学生になると男の子は女性教師に対して差別的な目で見てくるんです。それは母親との関係のせいなんですね。もう歴然としています。
 私自身、男子生徒が後ろを向いて座ったり、好き勝手におしゃべりして、授業なんてどうでもいいよ、というポーズをとられたり、さんざん試されました。
 そういう時に、私は「何、その話、面白そう」と言って、クラス全体の話に持っていったりするんです。
 そうするうちに「この先生、少々のことでは動じない」とか「自分たちの中に入ろうとしているな」とか思ってくれる。
 子どもたちは敏感ですね。今はとってもなついてくれるんだけど。その辺、若い教師が一生懸命なあまり、子どもと正面にぶつかって、すごく苦労している人もいます。
 子どもは、人の気持ちが分からなくても平気という雰囲気がある。聞きたくない子どもの話は聞かなくても平気。
 何か話し合いをさせると、すぐにケンカが始まってしまうので、教師はどこで介入するか常に神経をピリピリさせていないといけないんです。
 地域にもよるでしょうが、怖さで子どもたちを押さえつけるというのは、子どもたちは受けつけないです。
 まず、子どもの話を聞いて、自分たちの思いを教師が受けとめてくれて、それから何かアドバイスをしてくれる先生を求めますね。
 高学年になって問題が起きてルールを決めるときも、教師が「こうしなさい」と言うのではなく
「その問題について、あなたたちはどう考えるの?」と聞いて、
「それだったら、どういうルールが必要?」
って考えさせて、その上で決めないと、子どもたちは守らないです。
 だから、時間がかかっても話し合いで決めさせます。
 今、親が人の話を聞けなくなっている。授業参観の時に後ろで親たちのうるさいこと。ベチャベチャしゃべって。クラスの男の子が「うるさい!」って怒鳴ったんで、私は笑ってしまったんですけど。
 母親はわが子の話を聞かないんです。しかも、自分はわが子の話を聞いているつもりなんです。
 実は子どもがちょっと何か言うと「あなたは、こうで、こうなんでしょう」と話を横取りしてしまう。
 子どもは、まただ、と思って話すことをやめてしまうし、親は子どもが納得したんだと思い込むんです。
 親は、学校に対する苦情はバンバンいいますよ。
 例えば、運動会をやった後、第一声に出てくる言葉が「子どもたちの先生の話を聞く態度がなってない」「あの時の進行が悪かった」なんですよ。
 うちの学校で、高学年の子が集団万引きしたんですよ。そしたら、その中の1人の親が、学校に抗議に来たんですね。
「ウチの子はそんな子じゃない。友だちにそそのかされた。学校の集団生活でこういう子どもにされた」
「学校側が子どもに対する具体的な指導の方針をきちんと示さないかぎり、二度と子どもを学校には出さない」って言って、子どもを学校に来させないんですよ。
 他の学校で子どもがいじめられたらしい。学校が善処しなかったら、裁判を起こすという親もいました。
 担任は、それでなくても大変なのに、裁判なんか起こされたら、本当に落ち込みますよ。
 担任とよく話し合えば、誤解だったとか、自分も見直さなければいけない点があるとか、見えてくるはずなんですけれど。
 そうしないで、親はバーッと感情をぶつけてきて、校長や教育委員会に言ったり。感情のままにという解決の仕方です。
 そういう風に言ってくる親のまわりには「学校に言うべきよ」って応援する親が必ずいるんですよ。
 逆に、まともに考えている親たちがものを言えない雰囲気がある。以前だったら「そうは言っても、ウチの子もこうだから」となだめ役になってくれる親がいたんですが、今は少なくなりました。
 日々教師は、親との対応、子どもとの対応の中で、精神的な疲れがドーッと来る。忙しさの中にも、精神的なゆとりのなさと、時間的な大変さがあるんです。
(
別冊宝島編集部)


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教師はいじめを見つけたり、探ったりするのがへた、どうすればよいのでしょうか

 いじめでも悪質ないじめがある。例えば、誰かをやっつけないと気がすまない、キレやすい子っている。やたらと友だちを殴るとか、鉛筆で刺すとか。
 そういう場合は、私は本格的ないじめになる前に、集中してその子に力を注ぐんです。教師対子どもの力関係でやることもあるし、親と一緒に取り組むこともあります。
 親に「このままいったら、まずくないですか?」って。やみくもに乱暴するわけですから、親だって、それはまずいと思っているわけですよ。
 その子が落ち着くまでクラスから離す時間を2週間設け、その子とつき合うことにしたんです。その子と一緒にいて、その子が言いたいこと、やりたいことをさせてみようと。
 もちろん本人だって、いじめが悪いなんてことわかっているから。私が話したのは「自分がやられて嫌なことは人にもやるな」って、それだけです。
 その間は、同僚教師に「今、クラスに大変な子どもを抱かえているから」と、かわりに授業をやってもらいました。そしたら、だんだん落ち着いてきました。
 たいていの教師は、親から「いじめじゃないですか」って言われたら、オロオロしちゃんだよね。
 親から言われるまで、わからない教師が多い。私は、絶対わかると思うんだけどね。
 だって、着替えのときに体にアザがないかとか、それとなく見るんだけど、わかりますよ。
 子どもの目つきを見て、オドオドしていたら、おかしいんじゃないかとか。わからないというのは、鈍感なんじゃないかな。
 でもね教師が、いじめはないかって目で、見ていたらダメ。平静な顔で、見ていないような目で見ないと。そのへん教師はへたなんだね。
 だって「いじめはありませんか?」なんて言ったら、子どもは絶対に見せないようにするもん。
 だから私は、月に一回くらい学級で「なにか言いたいこととか、苦情はない?」って、子どもたちに聞くんです。
 もちろん、そんなこと言ったって、まず誰も言わない。だけど、みんな本心ではウッと思うわけ。そこで今度は
「自分は、本当は親切のつもりでやったのに、相手に嫌なこと言われたりしたことない?」
「相手の名前を言わなくてもいいから、例えばの話でいいからさぁ」
とか、聞くわけ。そうするとみんなワーッと言い出すわけ。
 今度は給食を食べながらでもいいんだけど「昨日、誰と遊んだの?」とか聞くと、
「〇〇ちゃんとゲームして遊んだ」とか、「公園で遊んだ」とか、いろいろ返ってくるでしょ。
 それから「友だちに奢ってもらったことない?」ってだんだん絞り込んでいくんですよ。
 それで最後に「おごったことのある人?」って聞くと、ワーッと手が挙がって、おごっているのが特定の子だったり、おごられている子が特定の子だったら、これはもう、カツアゲの兆候ありってわかる。
 お金と物の時は、すぐに親に話しますね。それも断定てきに言わない。例えば
「今日、子どもと話をしていたら、こんな話していたんですよ。ちょっと家で聞いてもらえませかん?」
「相手の親は〇〇さんですから、ちょっと親同士で連絡とってみてください」
って、やるわけです。そうすればだいたいおさまる。
 親から、ちょっと言われれば、本人だってヤベエなと思うし、まだ2,3回のレベルのカツアゲだったら、それで解決しますね。
 親も「一緒に頑張ろうね」っていう形でやらないと。それを見過ごすといじめに発展すると思う。
 教師も、へたなんだね。見ていると、そのへんの探り方が。余裕がないっていうか。
 人間なんて、力の関係を避けたところでは生きられない。人間であるかぎり、トラブルは避けられない。トラブルのない人間関係なんてないんですよ。
 私は子どもたちに日頃から言っているんだけど、力の関係があるかぎり、やっぱり、やった、やられたってことはあるだろう。
 そのときの対処の方法は3つしかないと。
「戦うか、逃げるか、我慢するかの3つだよ」って言っているんです。
 私は親たちに、学校は「無菌状態にはできません」と言っているんです。
「お母さんたちだって、無菌状態で子どもを育てたいなんて、思わないでしょ」って。
 実際には、たいていの親は、自分の子どもには、強くなってほしいと思っているのだから。ちょっとのことでウジウジしてほしくないという思いがあるのです。
 もちろん、陰惨ないじめや暴力は許さないけど、トラブルに対しての身の処し方みたいなのを、子どもに教えてあげればいいんじゃないかって思っているんですけどね。
(
中部地方の公立小学校のベテラン教師
)

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学校の教頭・校長の醍醐味とつらさ

 東京都内の公立中学校で5年間教頭を務めた後、45歳で校長となった。風貌もかなり若々しい。新任校長ということもあって、教職員とのコミュニケーションに悩む日々が続いている。インタヴューしてみた。
 教頭になれば授業を持つこともありませんし、楽かなと思っていました。ところが、教頭は忙しい。調査など、とにかく事務処理が多いんです。
 例えば、どこかで事件が起きると、すぐに関連の調査依頼がくるし、いじめなどの飛び入り調査がけっこうあります。
 でも教頭の仕事で苦労するのは、いかにして校長の考えていることを教職員に浸透させるかです。校長と教職員の橋渡し役ですね。それが教頭の一番大事な仕事だと思うんです。
 例えば、私が教頭として赴任した学校では研究発表することが決まっていた。前任の校長が強引に引き受けた。ところがそれにものすごい反対がありました。
 赴任してみたら、当の校長も教頭も転任してしまい「えっ、そんなのあり」って感じでしたよ。
 研究発表に賛成する声をうまく引き出すために「あの研究発表どうする?」と飲みに行ったときに声をかけ、水面下でずいぶん動きましたね。
 やっぱりふだんの人間関係が大切なんです。それでなんとか研究発表にこぎつけることができました。そうした役割を果たさない教頭も多いようです。
 校長から「あの先生は遅刻が多いから注意してください」と言われれば、自分より年上の先生でも注意します。
 一方、校長の仕事というのは学校をあずかる立場ですから、ビジョンをしっかり持つことが大切だと思います。
 学校を運営するうえで、決断すべきさまざまな局面が出てくる。そういう意味で、校長は力量がないとできない。
 幅広い知識が必要だし、広い視野に立った見通しも持っていなくちゃいけないと思うんです。
 例えば、以前、妊娠していた先生が具合が悪くなって入院したことがありました。法的な知識があれば「こういう場合は妊娠初期休暇があるんですよ」と教えてあげられる。
 相談を受けたときに、パッと答えられれば、教職員は管理職に対する信頼が持てるんですよね。
 それに自分の学校だけ見ているんじゃダメだと思うんですよ。教育界の流れや、地域の動きなんかも見えていて、そのなかで「さて、うちの学校はなにができるか」と。
 そんなビジョンが語れなければ、先生方もついてこないんじゃないでしょうか。
 私は管理職になろうなんて、全然思ってなかった。「管理職に、もっとしっかりしてほしい」と、生意気に思っていた。
 でも思っているだけじゃなくて、自分でもやらなきゃと思って、学年主任、生活指導主任、教務主任と、ひととおり、役職がつくものはやった。
 あるとき担任から外れて暇になったとき、校長から「研究会に参加しないか」と、声をかけられたんです。これが面白かったんです。
 研究会には、私のような教職員のほか、校長、教頭、指導主事なども参加していました。私は古臭い、保守的なものと思っていましたが、ところが現場よりもはるかに進歩的だっんです。
 それで考え方が変わってきたんですね。それまで、管理職にしっかりしてほしいと思っていましたが、自分でやるべきじゃないかと考えはじめたんです。
 でも、正直言って、管理職になろうと思った本当の動機は、飽きちゃったんですよ。学年主任も生活指導主任もひと通りやって、毎年同じことの繰り返しで、子どもたちを送り出していくことに飽きちゃったんです。
 それと部活動ですね。体力的にきついのと、勝ち負けの世界にはまっていくことへの疑問。とにかく何か新しいものに目先を変えてみたかったんだなぁ。
 管理職の醍醐味ですか、うーん、教頭のときは感じてましたけどね。教頭ってクラス担任と同じで、いろいろな先生をまとめていく面白さがあるんです。
 みんなの気持ちが一つになってウワーッとせり上がっていくときがある。そういうときはやっぱり面白いですね。
 でも、校長の醍醐味というのは、私はまだ感じたことがありません。今は胃の痛いことばかり多くて。なんとか先生方の理解を得たいなとは思っているんですけど。
(
東京都の公立中学校男性校長
)

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教師と子ども、子ども相互の人間関係を改善して、学級崩壊を解決した

 N教師が小学5年生を担任して、学級崩壊になり、朝、教室に行く気力が身体に湧いてこなくなりました。
 子どもに要求する指導だけをして学級崩壊に陥ってしまったのです。例えば
「あなたにとって、〇〇することは基本的なことでしょう。自分で責任をもってやるのが当たり前」
「静かにしなさい! 言っているでしょう。静かに」
 このように注意していました。
 学級崩壊をなくそうと、N教師は、コンサルタントの私と相談し、つぎのようなことを実践して学級崩壊を解決しました。
 教師の気持ちを伝え、子どもたちが自ら変えていくようにしました。例えば
「今、大事なことを説明しています」
「そこで、Aさんに話をされると、大事な説明がじゃまされたようで、とてもやりにくいのです。説明が終わるまで聞いてください」
 教師と子どもの気持ちの交流を厚くし、ありのままの気持ちを伝えるようにします。
 そして、教師の願いと期待に応えるかどうかは、子どもの選択にまかせ、自発性を尊重していきます。
 子どもの反抗的な言葉には
「Bさんに、そのような言い方されると、先生がつくらく、心が痛んで苦しいのです。先生がBさんを大切に思うように、先生も大切にされたいのです」
 また、子どもの個性をほめることが大切です。
「Cさんが、いつも自分の考えや意見をどんどん自由に出すのは、とても積極的でうれしい。Cさんの発言に、クラスのみんなも励まされている」
 このように、子どもたちに、新しく意味を見出して評価をしていくようにします。
 教師と子どもたちとの関係の悪化の原因となる「注意する」「叱る」指導を、子どもたちが納得できる「じょうずな叱り方」ができるように取り組みました。
 例えば、乱暴な言葉で関わってくる子どもに対しては、
「先生は、Dくんの意見を大事に聞きたいと考えています。でも、そのような乱暴な言い方では、先生は大事に聞こうという気持ちがなくなってしまいます」
と対応し、新しい関係づくりをすすめていきます。
 子どもたちが教師に表す反抗には「先生自身がつらい」「困っている」ことを自分自身の気持ちで語り、その子どもの気持ちと通ずる注意の仕方と対応方法を開発していきました。
 できる限り、直接的で命令的な指導をやめ、子どもを動かすときには「頼む」、信頼する相手として「願う」という方法をトレーニングしました。
 授業を、子どもたちが興味と関心を持ち、主体的に取り組んでいける教材づくりに力をいれるようにし、班を単位としたグループ学習を取り入れました。
 一人ひとりの子どもの声を受け取る授業を積極的に展開していきました。
 子どもたちが互いに理解し信頼しあう人間関係を築いていくのは、お互いを受け入れ傾聴する学習である。
 子どもたちが仲間の発言を聞き合う「聞き合う学習」を導入し、班活動の中に、子どもたち一人ひとりの自由な発言とありのままの気持ちをそのまま受けとめ合う。
 友だちの語りに批判や評価などを一切排し、子どもたちが気持ちや感情をありのまま安心して表現できる学習を授業の基本としていきます。
 友だちは、自分と違う感じ方、考え方をしている人であることを教え、その違いを理解し、違いから学び、それを受けとめていく指導を展開していきます。
 そして、違いをもつ友だちの意見と自分の考えが共に育っていく学習活動とその共有体験を大事にしました。
 どんな課題に対しても「子どもが感じとった気持ちや感情」を丁寧に取り上げ、子どもたちが共有していくことを重視していきました。
 また、それらを通じてクラスの人間関係や仲間づくりが促進されるようにも配慮していきました。
(
小島 侑:1948年生まれ、埼玉県公立中学校教師(20)、教師教育コンサルタント、東京電機大学理工学部教授。セレニティ臨床教育研究室(さいたま市)で授業や学級指導、子どもとの関係で悩む教師の相談と支援にあたる)

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授業中のおしゃべりは、子どもたちの「友だちと仲良くしたい」という行動原理を読んで、叱るとよい

 最近の子どもの価値観の調査では、「友だちと仲良くしたい」という結果が出ています。
 子どもにとって、授業中に友だちから話しかけられたら、しゃべるのが愛情のある行動、無視したらシカトと同じなのです。
 授業中に話しかけられたので、話しをしていると、教師から叱られ、納得できない子が増えています。
 教師が授業中に、おしゃべりしている子どもたちを注意すると、
「友だちが話しかけてきたから、話しただけ」
「授業中に、勉強の話をして何が悪いの」
「先生は怒ってばかり、わたしたちの気持ちをわかってくれない」
となります。
 まずは「友だちの発言に耳を傾けて」と、子どもたちの「友だちと仲良くしたい」という価値観に訴える言葉がけを工夫したいです。
 例えば、
「友だちが話しているときは、おしゃべりをしないで、聞こう」
「みんなに向けて、話してくれている友だちの発言に、耳を傾けよう」
と、子どもたちの行動原理を読んで注意するとよいと思います。
(上條晴夫:1957年山梨県生まれ、小学校教師(10年)、作家、教育ライターを経て東北福祉大学教授。学習ゲーム研究会代表、お笑い教師同盟代表、実践!作文研究会代表) 

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学級の子どもたちには能力に差がある、みんなを生かすには、教師はどのように発問し、子どもの答えにどう反応すればよいか

 学級の子どもたちには、能力の差が、歴然とあるのが現実です。発達がゆっくりで、理解がなかなか深まらない子もいます。
 発達は、待っていれば伸びていきますが、能力の差は、時間の経過だけで克服できるわけではありません。
 その意味では「すべての学級が能力的には複式学級である」というのが、私の持論です。
 私はたいてい、学級全体に投げかける発問は、平均的な学力の子に向かって問うことを想定しています。
 一人ひとりの能力や発達の差に、応じた問いをつくることは、不可能です。
 しかし、そもそも、落差があるからこそ、授業はおもしろくなるのです。
 さまざまな子どもがいるために、ある問いを出したときに、高い解から低い解まで多様な解が返ってきて、活発な討論が起きるのです。
 能力が高い子も低い子も、相互に刺激し合いつつ伸びていくことが大事であり、そのプロセスでお互いが鍛え合い、高め合っていくのです。
 差は、なくそうとしても、なくなるものではありません。教育は、子どもには能力の差があるという、当然の前提から出発すべきです。
 子どもの能力を同じようにそろえようとして、上の子を放っておいて、下の子ばかりにかまけるようでは、上の子はたまったものではありません。
 同じく、上の子だけ伸ばして、下の子を切り捨てて進むのでは、教育の名に値しません。
 落差は、最後まで残るのが現実です。
 それを認めたうえで、上の子も下の子も一緒に伸ばしていくのが、理想の発問であり、優れた授業なのです。
 子どもの中に落差があるのは事実ですが「この子はできる子」「あの子はできない子」と、先入観で固定的に見るのは避けなくてはなりません。
 子どもの成長はめざましく、いつどんなドラマを起こすかわかりません。
「この発問は、この子には答えられないだろう」と決めつけてしまうと、伸びる子も伸びなくなってしまいます。
 子どもたちには、いつでも大きな可能性を秘めた存在として、接していくことがたいせつです。特に、ものごとを受けとめるセンスは、必ずしも成績の優劣を反映しません。
 発問に対する子どもの反応をどう「受け」るかが、授業の良否を決めます。
 子どもの多様な反応や答のうち、どれを潰し、どれに注目させ、どんな討論を導くか、教師はその場で即決しなければなりません。
 発問は、教師の優れた受けをともなってこそ、意味をもちます。子どもの答えを受けとめる技量がなければ、教育効果は上がりません。受けによって発問も意味をもちます。
 そのためには、教師は知識のすそ野を広げ、知識の引き出しを多くもっていることが望ましいのです。
 私が五年生を担任していたときのことです。社会科の授業で、日本地図を見せてから「気がついたことを述べなさい」と問いました。
 発問としては、ごく低レベルです。子どもたちは何を答えていいかわからず、きょとんとしていると、ある子が手を挙げて「上下に長いです」と答えました。
 教室は爆笑に包まれました。当たりまえすぎると思ったのでしょう。しかし、私は
「すばらしい発見だね。上下に長いということは、つまり南北に長いという意味だ」
「日本という一つの国の中に、北海道のように寒い地域から、沖縄のように暑い地域まである」
「雪も見られるし、パイナップもとれるのは、そのためだね」
と、その子を大いにほめました。そして、
「他に気づいたことがありますか」と問うと、その子が再び手を挙げて「周りが海です」と言いました。子どもたちはまた笑い出しましたが、私は激賞しました。
「それも、すばらしい発見だ。日本は島国で、外国と陸続きではない」
「そのため、外国の脅威が及ばず、独自の文化が発展したのだ」
「鎖国が可能だったのも、島国だったからこそだ」
 発言した子が戸惑うほど、ほめたのです。子どもたちも感心し、うなずきました。
 その子は成績がよいほうではなかったのですが、この問答をきっかけに社会科の学習に興味をもち、学力もかなり伸びていきました。
(
野口芳宏:1936年生まれ、元千葉県公立小学校校長、植草学園大学名誉教授。千葉県教育委員会委員長職務代理者、日本教育技術学会理事・名誉会長、授業道場野口塾等主宰
)

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子どものわがままや甘えをなくすには、どうすればよいか

 子どもを受容するとは、子どものしていることや言い分を100%受け入れることと思っている教師がいないわけではありません。
 子どもを100%受け入れると、子どもの発達課題は達成できそうにないし、学級がどうなってしまうのかと不安を抱く教師も多いはずです。
 そうなのです。子どもを受容するとは、子どものしていることや言い分を、すべて受け入れたり、認めたりすることではありません。
 子どものしていることや言い分には、わがままや勝手さが含まれています。それを受け入れたり、認めたりすると、学校はわがままを助長したり、甘やかしたりする場となりかねません。
 それならどうすればよいのでしょうか。
 子どものしていることや言い分について、いいことはいいし、いけないことはいけないことと、教師は見分ける目を備えていなければなりません。
 そして、いいことは、ほめて励ますことが大事です。
 一方、いけないことについては、どう対処すれはよいのでしょうか。
 いけないことは「いけないのだ」とすることも、子どもが成長していくための支援です。
 支援とは、子どものしていることや言い分を、何もかも認めて受け入れることではないのですから。
 もっとも、それを頭ごなしに厳しく叱りつけることが、支援・指導としてベストだなどと思わないでください。
 子どもが得心するように、教え諭すことが必要です。
 子どもの言い分を聞く耳を持ち、妥当な判断をしながら、子どもに接する術を磨くことが大事な時代になりました。
 それと、説得力のある話し方や、接し方ができるようにすることも大事でしょう。
 やはり、子どもの心をどうとらえるかなのだろうと、思われてなりません。
 それと、子どもに教師がゆとりを持って、接することが大事なのです。これをどう実現していくかが、教育界の大きな問題となっています。
(
飯田 稔:1933年生まれ。千葉大学附属小学校に28年勤務、同校副校長、千葉県浦安市立小学校校長を経て、千葉経済大学短期大学部名誉教授。学校現場の実践に根ざしたアドバイスには説得力がある)

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教師の仕事をやりきるためには、教師の服装が非常に重要であるということがわかってきた

 学校というのは、社会が子どもを一人前の社会人に育てるためにつくったもので、基礎的学力、基本的生活習慣、集団(社会)生活の仕方の三つを子どもに身につけさせることが、その中心的な役割である。
 人間は放っておいて、この三つの文化を自然に身につけるようにはなっていない。そのために、家庭や社会での教育と同時に、近代になって初めて学校での教育が必要になったのである。
 文化の伝達は、基本的におしつけなのである。だから、教育は基本的に強制はまぬがれないし、大人の側がそれにひるんでしまったら、子どもは一人前の大人になることなどできはしない。
 学校は、子どもがいきたくて来るところではない。親によって無理やり通わされるところなのである。もちろん、子どもにとっても、学校は将来の自分にとって意味のあることである。
 一人ひとりの子どもにあった学校を、などとバカなことを言う人たちがいる。しかし、そんなことは現実的にできることではない。
 また、一人ひとりにあうような学校を本気でつくろうとすると、一対一の家庭教師にいきつかざるをえず、それは学校とは呼べない。
 学校というところは、子どもにとっては、基本的におしつけられ、がまんしなければならないところなのである。自分が欲望を抑えることによって、初めて学習が成立するのである。
 中学生の時期は、欲望が大きくふくれあがり、自我を強く持ち始める時期である。放っておいて、つらいこと、嫌なことに立ち向かわせることが非常にむずかしい時期なのである。中学校の基本的な困難さはここにある。
 どうすればよいか。
 日本の学校は、子どもを生徒に限定するためのさまざまな小道具をつくり出している。制服はそのシンボルと言ってもいいだろう。
 家や街中で自由な私人としてふるまっていた子どもを、家を出る時に制服に着がえさせることによって、公人に変身させようとしたのである。
 演劇において衣装が重要な要素になるのと同じと考えていいだろう。
 学校は舞台であり、子どもは制服の衣装を着ることによって、生徒という役に変身し、がまんして学習することが可能になるのである。衣装の他に、せりふ、演技が重要になってくることは言うまでもない。
 学校では、これらすべての小道具を校則としてまとめあげたのである。
 さて、このように考えてくると、教師にとっても服装が決定的に重要なことがわかるだろう。
 教師にとっても、学校は私的な空間ではない。自由な個人としてふるまうことによって教育ができると思うのは、単なる思いあがりでしかない。
 学校には与えられた役割と目的があり、教師はその目的を達成させるために雇われているのである。好き勝手に家庭教師をやっているのとはわけが違うのである。
 授業中うるさければ、どなってでも静かにさせ、そうじをサボッていれば、なんとかしてやらせる努力もしなければならない。
 つまり、教師としては、個人としてはやりたくないこと、嫌なことであっても、仕事としてやらなくてはならないことがゴマンとあるということなのだ。
 教師は自分たちで、お互いに厳しく律していかなければ、どんどん崩れていくものなのだ。
 私は自由、人権、平等、個人尊重などの民主主義の理念をしっかり身につけて大きくなった。
 教師になった時、このような理念を学校現場のなかに実現しようと勢いよく乗り込んでいったのである。
 しかし、現実は理念とことごとくぶつかった。理念を第一に考えて行動すると、授業はうるさくて収拾がつかなくなるし、教室はゴミだらけ、クラスは混乱状態となった。
 私は、自分の理念(生き方)と教師としての仕事の矛盾のなかで、何度も教師をやめようと思った。しかし、中途半端で投げ出すのはなんとも悔しかった。
 ギリギリ教師の仕事をやってみて、自分に無理ならその時やめてもいいと決意した。ちょうど30歳になっていた。
 それから10年、私は教師の仕事に徹する努力を必死に続けた。それは精神的にも肉体的にも非常につらいものであったが、40歳になってやっと、教師としての仕事をやり続ける自信がついてきた。
 そのなかで、教師としての仕事をやりきるためには、教師の服装が非常に重要であるということがわかってきた。
 私はそれまでのジーパンにTシャツというラフな私的なスタイルを捨て、ネクタイにスーツというスタイルに変えることにした。私的に生活している自分を、ネクタイ、スーツを着ることによって教師に変身させようとしたのである。
 これは、自分を教師に限定し、生徒や他の教師にも、自分を限定させるために大いに力があった。どんなに寒くてもYシャツにネクタイ、スーツでとおした。どんなに暑くてもネクタイははずさず、やせがまんした。
 掃除の時は、サッと更衣室でジャージに着がえ、終わるとまたサッとネクタイ、スーツになることを自分に強制している。演劇における早がわりである。面倒だと言い始めたら、舞台は成立しないだろう。
 おもしろいことに、そういうなかで、だんだん自分が教師を演じることができるようになったのである。
 個人のなまの力で、なにかできると思うのは思いあがりである。自分の好きなように自由にふるまって教師の仕事ができるのは、天才的な教育者にのみ許されたことである。
 私たちは、ただの人である。とすると、演劇と同じように、衣装とせりふと豊かな演技力が必要になってくるのである。さまざまに武装して、教師を演じるしかないのである。
 現在、はげしい学校たたきのなかで、自由が大きく学校のなかに入りこんできている。教師-生徒(教え-学ぶ)の関係をつくることが非常に困難になっている。
 しかし、どんなにむずかしい状況になっていても、私たちが教師の役割をしっかりと演じなければ解決など不可能なのである。
(
河上亮一:1943年東京都生まれ、埼玉県公立中学校教諭、教育改革国民会議委員、日本教育大学院教授を経て、埼玉県鶴ケ島市教育委員会教育長、プロ教師の会主宰)


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教師が連携して学級崩壊を解決していくためには、どのようにすればよいか

 教職員がなんでも話し合える人間関係が大事であるといわれます。しかし、これがなかなかの問題なのです。
 小学校の場合、担任の裁量が大きく、同僚教師にも見えにくいところがあります。お互いの実践を批評し合うのはタブーの雰囲気が生まれてしまうのです。
 したがって、お互いに自分の学級経営の悩みが語れるような人間関係を、学校内に形成することはとても必要です。
 ですが、学級崩壊の問題は、教師間の良好な人間関係だけでは対処はむずかしいと思います。
 つまり、一つの学級の崩壊の問題は、学校経営の問題として位置づけて、管理職を中心に連携のあり方を計画しておくことが必要ではないでしょうか。
それは、
1 全教員で介入しようと判断した時、該当する担任や援助する教師たちの授業時間数や校務分掌の仕事はどうするのか。
2 学校行事や集会の取り組み方はどうするのか。
3 学級崩壊した学級、もしくはその学年の時間割の見直し、PTAの対応をどうするのか。
など広範囲に及ぶと思います。
 特に学級が高学年になるほど、学校全体に対する影響が大きくなります。組織だってやらないと、一部の教師に過重な負担がかかり、いい結果に結びつきません。
 学校運営の問題と位置づけて対応するためには、次の3つが必要です。
1 学級崩壊はどの学級にも起こる可能性があるという共通認識をもつ。
2 学級経営に関する校内研修を行う。例えば
(1)
集団理論
(2)
リーダーシップ
(3)
学級集団の状態を理解するための調査法
(4)
具体的な指示や注意の仕方についての演習
(5)
言葉がけの仕方についての演習
などを、計画的に実施し、教師間の共通認識と技術を高めておく。
3 学級崩壊の問題は不登校の子どもへの対応と同じように、
(1)
原因や責任の追及だけにしない。
(2)
問題解決志向で学校運営に位置づける。
(3)
援助チームのリーダーは管理職が当たる。
(4)
担任や援助する教師たちの具体的な役割や取り組む範囲を明確にする。
 大事なことは、現在よりも少しでもよい方向に向かうように、一歩一歩取り組んでいくことです。
 連携がうまくいけば、担任が精神的に支えられ、計画的に対応する意欲が維持され、対策を講じることも可能になっていくのです。
 学級崩壊の対応について、事前に職員間の連携について取り決めをしておく必要があります。学級崩壊の予防にもなり対応が効果的になります。
 連携の目的は問題解決です。学級崩壊の対応には少なくとも2か月はかかると考えて取り組みます。甘い見通しの連携では、援助する教師が疲れてしまいます。
1 学級崩壊の初期の連携
 学級崩壊の兆しは、ふれあいのある人間関係か学級のルールのどちらかが崩れてくることです。
 この時期に学年会などで、各学級の状況を担任同士が率直に語り合う必要があります。
 学級集団の状態が学級崩壊に向かっていると判断された場合は、すみやかに学年の連携を計画し実行します。
 連携の骨子は、合同授業などの学年活動です。例えば、合同で社会科の資料を作ったり、合同で体育やレクリエーションをするのもいいでしょう。
 大事なことは、学級崩壊している担任が全体の指揮をとり、他の学級の子どもたちがその指示に従っていることを、学級崩壊している学級の子どもたちに見せることです。
 同時に、学年の他の教師が学級崩壊している担任の指示に従っているのを学級崩壊しているクラスの子どもたちが見ることになります。
 学年の他の教師がその担任と親密に連携し、同じ考えややり方でやっていることを見せ、担任の信頼感を回復させるわけです。
2 学級崩壊の中期の連携
 学級はルールが崩れ、人間関係もギスギスしたものになっていますから、子どもたちは物事を悪いほうへ悪いほうへととらえます。いろいろな問題がでてきます。
 子ども同士のまきこみあいを、複数の教師が教室に入って、一つひとつ対応しながら断ち切っていくのです。したがって、学年の同僚教師や専科教師にTTとして入ってもらうことになります。
 このとき、教師は努めて厳しくする必要はありません。子どもの感情にまきこまれないように、ていねいな言葉づかいで距離を少し多めに取りながら、一つひとつ冷静に対処していくのです。感情的になったら教師の負けです。
 この時期の授業は基本的に、他の子どもと関わらない、例えばドリルやプリントを中心としたような授業展開をしますから、教師チームが子ども一人ひとりに対して丁寧に個別に対応していきます。
 さらに、学年で集まる機会を増やします。学年で集まることによって、自分勝手なルールは通用しないことを意識させるのです。集団生活には一定のルールやマナーがあり、特例がないということを、一人ひとりにわからせるのです。
 このような対策をとる場合、大事なことは、学級が崩壊したからそのような対策を取ったんだと、子どもたちにおもわれてしまうと、逆効果になることです。
 担任への不信が固定してしまうからです。したがって、学年当初から、学級間の交流や教師同士のTTの授業展開などをとっていくことが必要です。
3 学級崩壊の末期の連携
 この時期は、まさに全教員の連携が必要となります。教室に複数の教師が入り、それこそマンツーマンに近い形で指導したり、活動を援助するのです。
 例えば、立ち歩いている子どもに対して、ある教師が注意をしたとき、その子が「みんなもそうだろう」と逆にくってかかる場合があります。
 そのようなときには「みんなとは誰と誰かな」と問い、名前が出たらそれぞれの子どもに教師がついて指導するという具合です。
「みんな」という子どもたちが作り出した学級集団像を崩すことが大事なのです。
 必ず、行動の主体となっている子どもを確認し、行動の責任を明確にしてあげることが大事です。
 学級崩壊末期は、学年の合同授業や活動はしないほうがよいでしょう。合同することで他の学級の子どもたちが傷つくことが多くなり、合同することを嫌がってしまいます。
 何よりも問題なのは、他の学級の子どもたちが、その学級の子どもたちを特別視してしまう結果、その学級の子どもたちが新たな非建設的な行動にでてしまう可能性があるからです。
(河村茂雄:1959年生まれ、早稲田大学教育学部教授。15年間公立学校教諭を経験した。学級崩壊,学級経営など教育実践に生かせる研究成果を多数提供している)

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