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教師の仕事をやりきるためには、教師の服装が非常に重要であるということがわかってきた

 学校というのは、社会が子どもを一人前の社会人に育てるためにつくったもので、基礎的学力、基本的生活習慣、集団(社会)生活の仕方の三つを子どもに身につけさせることが、その中心的な役割である。
 人間は放っておいて、この三つの文化を自然に身につけるようにはなっていない。そのために、家庭や社会での教育と同時に、近代になって初めて学校での教育が必要になったのである。
 文化の伝達は、基本的におしつけなのである。だから、教育は基本的に強制はまぬがれないし、大人の側がそれにひるんでしまったら、子どもは一人前の大人になることなどできはしない。
 学校は、子どもがいきたくて来るところではない。親によって無理やり通わされるところなのである。もちろん、子どもにとっても、学校は将来の自分にとって意味のあることである。
 一人ひとりの子どもにあった学校を、などとバカなことを言う人たちがいる。しかし、そんなことは現実的にできることではない。
 また、一人ひとりにあうような学校を本気でつくろうとすると、一対一の家庭教師にいきつかざるをえず、それは学校とは呼べない。
 学校というところは、子どもにとっては、基本的におしつけられ、がまんしなければならないところなのである。自分が欲望を抑えることによって、初めて学習が成立するのである。
 中学生の時期は、欲望が大きくふくれあがり、自我を強く持ち始める時期である。放っておいて、つらいこと、嫌なことに立ち向かわせることが非常にむずかしい時期なのである。中学校の基本的な困難さはここにある。
 どうすればよいか。
 日本の学校は、子どもを生徒に限定するためのさまざまな小道具をつくり出している。制服はそのシンボルと言ってもいいだろう。
 家や街中で自由な私人としてふるまっていた子どもを、家を出る時に制服に着がえさせることによって、公人に変身させようとしたのである。
 演劇において衣装が重要な要素になるのと同じと考えていいだろう。
 学校は舞台であり、子どもは制服の衣装を着ることによって、生徒という役に変身し、がまんして学習することが可能になるのである。衣装の他に、せりふ、演技が重要になってくることは言うまでもない。
 学校では、これらすべての小道具を校則としてまとめあげたのである。
 さて、このように考えてくると、教師にとっても服装が決定的に重要なことがわかるだろう。
 教師にとっても、学校は私的な空間ではない。自由な個人としてふるまうことによって教育ができると思うのは、単なる思いあがりでしかない。
 学校には与えられた役割と目的があり、教師はその目的を達成させるために雇われているのである。好き勝手に家庭教師をやっているのとはわけが違うのである。
 授業中うるさければ、どなってでも静かにさせ、そうじをサボッていれば、なんとかしてやらせる努力もしなければならない。
 つまり、教師としては、個人としてはやりたくないこと、嫌なことであっても、仕事としてやらなくてはならないことがゴマンとあるということなのだ。
 教師は自分たちで、お互いに厳しく律していかなければ、どんどん崩れていくものなのだ。
 私は自由、人権、平等、個人尊重などの民主主義の理念をしっかり身につけて大きくなった。
 教師になった時、このような理念を学校現場のなかに実現しようと勢いよく乗り込んでいったのである。
 しかし、現実は理念とことごとくぶつかった。理念を第一に考えて行動すると、授業はうるさくて収拾がつかなくなるし、教室はゴミだらけ、クラスは混乱状態となった。
 私は、自分の理念(生き方)と教師としての仕事の矛盾のなかで、何度も教師をやめようと思った。しかし、中途半端で投げ出すのはなんとも悔しかった。
 ギリギリ教師の仕事をやってみて、自分に無理ならその時やめてもいいと決意した。ちょうど30歳になっていた。
 それから10年、私は教師の仕事に徹する努力を必死に続けた。それは精神的にも肉体的にも非常につらいものであったが、40歳になってやっと、教師としての仕事をやり続ける自信がついてきた。
 そのなかで、教師としての仕事をやりきるためには、教師の服装が非常に重要であるということがわかってきた。
 私はそれまでのジーパンにTシャツというラフな私的なスタイルを捨て、ネクタイにスーツというスタイルに変えることにした。私的に生活している自分を、ネクタイ、スーツを着ることによって教師に変身させようとしたのである。
 これは、自分を教師に限定し、生徒や他の教師にも、自分を限定させるために大いに力があった。どんなに寒くてもYシャツにネクタイ、スーツでとおした。どんなに暑くてもネクタイははずさず、やせがまんした。
 掃除の時は、サッと更衣室でジャージに着がえ、終わるとまたサッとネクタイ、スーツになることを自分に強制している。演劇における早がわりである。面倒だと言い始めたら、舞台は成立しないだろう。
 おもしろいことに、そういうなかで、だんだん自分が教師を演じることができるようになったのである。
 個人のなまの力で、なにかできると思うのは思いあがりである。自分の好きなように自由にふるまって教師の仕事ができるのは、天才的な教育者にのみ許されたことである。
 私たちは、ただの人である。とすると、演劇と同じように、衣装とせりふと豊かな演技力が必要になってくるのである。さまざまに武装して、教師を演じるしかないのである。
 現在、はげしい学校たたきのなかで、自由が大きく学校のなかに入りこんできている。教師-生徒(教え-学ぶ)の関係をつくることが非常に困難になっている。
 しかし、どんなにむずかしい状況になっていても、私たちが教師の役割をしっかりと演じなければ解決など不可能なのである。
(
河上亮一:1943年東京都生まれ、埼玉県公立中学校教諭、教育改革国民会議委員、日本教育大学院教授を経て、埼玉県鶴ケ島市教育委員会教育長、プロ教師の会主宰)


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