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すばらしい学級をつくる責任は教師にある、自覚した教師だけが、すばらしい学級をつくりあげられる

 すばらしい学級をつくりあげる責任は教師にある。教師だけが、すばらしい学級をつくりあげられる
 一人の教師と数十名の子どもたちが、1年間教室で生活すれば、それなりのドラマは生じる。
 自然なままの教室からは、自然なままの子どもたちの集団が形成される。
「勉強ができる子」が上位にして「勉強できない子、嫌われる子」が下位にいる構造である。
 この構造は1年間崩れない。子どもは子どもなりに、宿命的な社会構造を学ぶ。
 ここから「あきらめ」も生じる。ここから「いじめ」も生じてくる。
「あきらめ」「いじめ」は、子ども社会の奥深いところで生き続ける。
 これを破壊できるのは、教師だけなのである。それも、自覚した教師だけなのである。
 思いつくままの教室経営、赤本通りの授業をするだけで、子どもたちが変わることはない。教育とは、それほどお手軽なものではない。
 子どもの心の奥深くへ働きかけ、訴えていかなければならない。
 では、何をしたらいいのか。では、どのようにしたらいいのか。
 クラスには、いろいろなドラマがあり、さまざまな事件がある。一つひとつは別の出来事である。同じことは何もない。学級が織りなすドラマは一つひとつ異なる。
 しかし、教えているのは同じ教師である私である。年ごとに少しは成長しているとはいえ、どうということのない人間が教師をしているのである。
 だから、子どもが入れ変わってもクラスの出来事には、ある種の共通性が見られる。知らず知らずのうちに、同じような事件・出来事が生じている。
 担任である私が意図的に仕掛けるからである。およそ次のような6種類ある。学級集団形成の向山法則と呼んでもいい。
1 子どもの中にある、差別の構造を破壊する
 もちろん、平等な学級は、つくるのは不可能であろう。能力も違えば個性も異なる。しかし、目にあまるような差別の構造は破壊しなければならない。
 まず、私は教室の中に典型的な現象をとりあげる。クラスの中で、最も嫌われ、最もいやがられている子に私が味方をする。
 クラスで最も嫌われている子がひざの上に来るような教師なら「子どもを大切にしている」と私は判断する。
 口先だけ、うまいことを言う教師ではだめだ。子どもは敏感なのである。内心「嫌だ」と思っていることは相手にも伝わるのである。鏡の原理が働くのである。
「最も嫌われている子どもがひざの上にのる」ことは簡単ではない。どうしても通過しなければならない心の革命を必要とする。
 これは、変にやるとこわいことでもある。クラスのほとんどの子を敵にまわすということになりかねないからだ。
2 授業で「多数決が正しいとは限らない」という場面をつくりだす
 子どもたちにカルチャーショクを与えるのである。
 これは、かなり衝撃的なことである。特に「勉強ができる」と思い込んでいた子どもたちに与える衝撃は大きい。
 今まで、勉強の時はまるでバカにしていた子が正しかったという、考えもしなかったことが生じたからである。
 今まで「自分はダメだ」「特に勉強はダメだ」と思い込んでいた子にとってもショックである。「自分だけが正しいなんて、こんなことがあろうか」と半信半疑なのである。
 この授業の場面から、子どもたちの心の奥で、何かが変わり始める。地殻変動が生じるのである。子どもを内面から動かすのである。
 子どもを変革するのは教師の腕力ではない。管理技能ではない。知的権威である。
 教師の知的権威にふれてこそ、子どもは変わり始めるのである。
3 子どもたちの組織をつくる
「やらねばならぬこと」「やりたいこと」の2つの組織化が必要である。
「やりたいこと」は、係りが中心になる。
 係りとは、文化・スポーツ・レクレーションが中心になる。楽しいこと、面白いこと、やりたいことを、次から次へと企画させる。
 楽しいことを企画し、実行するから、子どもたちは規律をつくり出していくのである。
「忘れものをなくすための班競争」など、子どもにとってつまらないことをいくら仕組んでも、子どもの内面は育っていかない。
 まず、以上のことをやってから、後は徐々にやっていく。
4 授業を知性的にする
 知性的な中でこそ、子どもたちは育っていく。知性的とは何か。
(1)
今まであたり前と思っていたことが、見方によって異なるということである。視野が広げられたということである。
(2)
ささやかと思える言葉の指示範囲が、厳密で正確であるということである。
 教師の言葉づかいは、あいまいなことが多い。「理解させる」「分からせる」「知らせる」「気づかせる」という指導案の用語さえ、まともに使いこなせる人は少ない。
(3)
多くの意見の存在が認められることである。
 ただし、それぞれの意見には根拠がなければならない。好き勝手に、思いつきのままを言わせるだけの授業は非知性的である。
5 イベントを仕掛ける
 学級全体が、燃えるように何かに取り組むこと。その非日常的な生活の中で、子どもたちはきたえられる。
 一度、イベントの楽しさを味わうと、子どもたちは自分の手でそれを再びつくりあげようとする。
 教師が何もしなくても、さっさと企画・実行してしまうようになる。
6 教師が許せないことは、学級全体を相手に対決する
 これには注意が必要だ。
 学級全体を相手にしなくてはいけない。小数の人間を相手に対決してはいけない。それも「やんちゃの集団」を相手に、けんかのアマの新卒の女教師が対決したりなどすると、まず教師は負けるだろう。
「やんちゃ集団」は。けんかのセミプロである。けんかのセミプロにアマが勝てるわけがない。もしやるなら、十分に戦略・戦術を考えなくてはいけない。
 学級全体だと別である。学級全体だと「解決しよう」という意志が必ず存在する。そういう子どもがいるものである。
 解決しようとする子どもたちがいれば、必ず解決できる。子どもたちは自分で解決する。その中で成長するのである。
 だから、1学期のうちに全面対決をしてはいけない。まだ早い。学級がしっかりしていないからだ。ある程度、集団として成長してから仕掛けることである。
(
向山洋一:1943年生まれ、元東京都公立小学校教師、教育技術法則化運動代表を務めてきた。教師を退職後、TOSSインターネットランドの運営に力を注いでいる
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