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「お勉強」と「学び」は明確に違う、学びの本質は没頭にある

 自分で行先を決る生き方のためには「学び」が不可欠だ。
 僕が言う「学び」とは、没頭のことだ。
 わき目もふらず没頭し、がむしゃらに取り組める体験のすべてが「学び」だと僕は思っている。
 だから、没頭する対象は数学や英語、料理やダンスだろうと何でもあり得る。その人が心から没頭できていれば、僕はそれを「学び」ととらえている。
「お勉強」と「学び」とを、僕は明確に違うものとしてとらえている。
「お勉強」は、あくまで受動的な行為である。与えられたものをこなす作業である。
 いくら「お勉強」をしても、自分で行き先を決める生き方にはたどり着けない。
「お勉強」で身につくのは、敷かれたレールに乗る習慣だけだ。
 その習慣が身についてしまった人は、テストや問題集がなければ、自ら何かを学ぶことはないだろう。
 なぜなら、彼らが目的としているのは「与えられた課題をこなし、大人に認められたいこと」だけだからである。
「学び」は常に能動的だ。未知の領域に足を踏み入れ、新しい体験や考え方を味わうことのすべてがこれにあたる。
 だから、正解もいらない。すべては「自分で切り拓いていく」営みなのである。
 自ら動かなければ取り組む課題が見つからないことも、没頭する対象がある限りは「楽しい」ことだ。
 だから、彼らは好んで暗中模索を、試行錯誤を繰り返す。
 没頭は、人を立ち止まらせないのだ。常に人を前へ前へと押し出し、新しい体験をつかませようとする。
 だから、当然のことだが、イノベーションを生み出すのは「お勉強」ではなく「学び」だ。
 夢中になっているからこそ、人は一日中それについて思考を巡らし、新機軸を思いつくことができる。
 失敗を恐れずに試行錯誤を重ね、努力や苦労の過程も含めてすべてを楽しむことができるのだ。
 学問の領域も「それに没頭してしまった誰かの」姿である。
 例えば、現代物理学の父アインシュタインが自分の抱いた疑問の検証に寝食を忘れるほど没頭し、そこでの発見を後世に残したからこそ、学問の体系は成熟した。
 実際、歴史に名を残すような人たちは皆、並外れた没頭力をもっていたことで有名である。
 彼らは、心の赴くままに学び続け、道なき道を突き進んでいった。
 学びとは、知の地平線を拡大する。つまりイノベーションを起こしていく過程そのものなのだ。
 それは当然「自分の進むべきルートを自分で作り出す」こととも重なる。
 今、僕たちが目にする教科書も計算ドリルも、誰かの没頭の副産物にすぎない。
 それをただ漫然となぞるお行儀のいい「お勉強」の中に、学びの本質は存在しない。
 新しい知を切りひらき、新しい仕事を生み出し、あなたを未来へと突き動かす本当の学びは、没頭の中にこそあるのだ。
(
堀江貴文:1972年生まれ、実業家、著作家、投資家、タレント。元ライブドア代表取締役社長CEO、証券取引法違反容疑で逮捕され、ライブドアの役職を退いた
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