不器用で教師として劣等感を持つ人間が「顔つきと言葉」で演じる教師へ変身した
私は、不器用で軟弱で、教師としてかなりの劣等感を持つ人間であった。
私は貧相な顔立ちが嫌で、嫌でしかたがありませんでした。
痩せこけて「先生」と呼ばれるには威厳がないなと、自分でもつらい思いをしていました。
そんな人間がいきなり学校現場の荒海に投げ出された。
どうやって学校現場で溺死せず泳ぎきるか、大きなハードルでした。
あるとき、小さな町の小劇場で観た役者の演技に私はハッとするものを感じたのです。
「あの役者は、決して見栄えのしない人間だ。でも、なんだか卑屈になっていない」
「あの晴れ晴れとした演技はなんだ」
「あの、みんなの目と耳と心を引きつける迫力はなんだろう!」
私は、自分がプロの教師でありながら、何も変わろうとしていない、何も演じていない自分に気づかされたのです。
「自分の顔つきと、言葉を変える」は、それからの私の生涯を通しての課題となったのです。
そんなとき、ある先輩教師が
「前田先生、目つき、顔つきというように、顔に生気が漂っている教師に出会うと、子どもたちからも信頼されて、尊敬されるようになるね」
と話してくれたのです。
私は「顔つき」という言葉にハッとしました。顔立ちではなくて「顔つき」です。ふだんから顔に劣等感を持っていた私には、とても新鮮に思えたのです。
「顔つき」ということは、喜怒哀楽をしっかりと表すといえば、わかりやすい。
私は、学生時代から「教師は喜怒哀楽をあまり露わにしてはいけない」と思ってきた。
小中学校の教師のヒステリックな表情で「これだけ言っているのに、なぜやらないのだ!」と激怒している顔を思い出すのです。
教師のヒステリックさはなくしたいものです。
そうではなく、教師が「子どもを人間に育てること」に立ち向っていく中で
「いけないことはいけない」と叱り、
「うれしいことは、子どもたちと一緒になって喜び」
「悲しいことには、心を共有してくれる」
教師の存在こそ、誠実な人間としての「先輩」の営みだなと思えてきました。
「真剣になって怒る、本気になって楽しむ、一緒になって喜ぶ」
そういう教師としての「色をしっかり演じる」ことのできる存在感のある教師になりたいものだ。
私は「教師の信念や情熱をだす武器は『顔つきと言葉』だ」、教師の実践力を支えるものだと思い続けてきました。
(前田勝洋:1942年生まれ、元愛知県公立小学校校長。学び合う教師を常に意識して小中学校を学校行脚)
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