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2020年4月に作成された記事

すばらしい授業は「攻めと受け」が絶妙なバランスで成り立っている

 授業の目的は,学力を形成すること。  学力が形成されたかどうかは,子どもが変容したかどうか。  学力形成とは「獲得・習得(入手)」「訂正・修正(変更)」「深化・拡充(向上)」のどれかがあればその授業は学力が形成されたことになる。  すばらしい授業は「攻めと受けの論理」が絶妙なバランスで成り立っている。 「攻め」は計画。つまり指導案。  授業は計算して組織しなければならない。思いがけない質問に答えられないことが続くと授業は壊れる。だから、深い教材研究を。  指導案は5つも6つも作る。授業になったらそれをすべて捨てよう。  授業設計という人がいるがそれはダメ。設計図通りしなくてはいけないと思うから、設計図から狂ったら困る。情況にあわせて授業をするものだ。  教師は指導案の研究はよくやるが「受け」の研究はあまりしない。 「受け」は難しい。受けは、出た時の瞬時の判断。絶妙な状況の論理。  発問したあとの間。わずか2~3秒程度の短い時間だがこれで授業の緊張感を高めることになる。  笑顔、真剣な表情,遠くを見つめる表情,宙を仰ぐ表情など,答えに対して様々な表情で反応し,生徒の気持ちの高揚を図る。 「受け」のことは本にも書けない。 「受け」を鍛えるためには、経験を意図的に積んで整理するしかない。僕は寄席が好きで行くよ。落語から学べるよ。  子どもが発言したあとの一言,これには様々なバリエーションがある。たとえば、  「ふーん」「立派」「上手に逃げたね」「無難に逃げたね」「うーんと簡単に言えば」  「何か文句あるの」「OK」「ちょっとピント違うではないの」「へーーー」「へ」  「もう少し詳しく」「何だって」「なかなか」「うんうん」「何か出てきましたか」  「おーーーっ」「こりゃ複雑だ」「これはそうですよ」 「うーーんよかった」  「いいです」「そのとおり」「正解」  授業において,子どもが発言した時の教師の瞬時の言葉が重要である。  どの子どもにも同じ言葉をかけても、子どもの意欲は引き出せない。  答えの内容、姿勢などをビシッと評価できる言葉を数多く持っておくことだ大切だ。  語彙力をつけるために,本や映画,新聞,講演会,落語,コントなどなどで心のひだにひっかかった言葉をノートに書いている。  もっと話術を磨き,人を引きつける力を身につけることが教師の指導力向上の一つの条件である。  子どもを向上的な変容をさせないような指導ではダメ。授業は一人ひとりをきちんと参加させること。そして鍛えること。  全員参加の授業にするために、答が〇か×を問う質問をして、全員に○×かをノートに書かせる。  参加者全員に意志決定を強制する。「教育は強制である」という野口芳宏氏のポリシーが顕著に表れている。  ○×をつけることにより、次の展開が楽しみになるという学習意欲も向上できる。  そして、最初に必ずこう問う。 「○と×どっちが多いと思う」  これにより、子どもの緊張感を高め、次の展開の期待度をより高めることができる。  また、手を挙げたら、隣や全体を見てごらんと言う。  自分の意見と同じ人を確認させ、指名した時に○と×を急に変えて逃げないような布石を打っておくことも忘れない。ここが鍛えるということにつながっている。  抽象的な発問後、重苦しい空気が漂ってきたら「隣近所で答えを見せ合ってください」という指示を出す。  このことにより,空気が和み意見が言いやすくなる。しかし,間延び過ぎると授業の緊張感を崩す原因となるので要注意である。  小集団学習は授業の雰囲気を和らげる。子どもが固くなった時、公的私語を許す意味で小集団学習を入れても良い。  板書しながら声を出すと、子どもがノートを書くとき、助けることになる。  活動主義の授業はダメ。今の授業で先生は何を指導したのか分からないような授業ではダメ。  聞き慣れない言葉でも反対語を並べ書くことにより分かりやすくなる。  たとえば「利己的」と「利他的」,「即効的」と「遅効的」、「俗人」と「聖人」と「悲観と「楽観」 タイミングよく故事成語やことわざなどを持ち出すと,説明を分かりやすくすることができる。  たとえは「悪銭身につかず」「正直の頭に神宿る」  私の知っているすばらしい教師に共通しているのは、どの先生も、その年齢や地位にかかわらず「謙虚」であり、「素直」であることだ。 「謙虚」であり、「素直」である人の「心のコップ」はいつだって上向きに置かれている。  だから、教えをどんどん受け入れて自分の力を高めていけるのである。  心ない若い教師は、心のコップを伏せてしまっている。いくら価値あるものを注いでもみんな外にこぼしてしまう。身に入らないのだから伸びようがない。  学校の教師は、異がきらいである。野口芳宏氏は講演などの後の感想は「批判」のみしか目を通さないと言う。こうした、異に学ぶ姿勢には敬服されられる。 (野口芳宏:1936年生まれ、元小学校校長、大学名誉教授、千葉県教育委員、授業道場野口塾等主宰)

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教師が言わなくても、子どもたちが掃除をするようになる指導のやり方とは

 子どもたちに何か価値のある目標、充実感を持てる目標を発見させていきます。
 学級経営でいうと、掃除の分担です。これを「一人一役」で与えていくのです。
 掃除を一定期間(場合によっては一年間)、一人の子どもに担当させるのです。例えば、鈴木くんは黒板の掃除を一人で行います。
 黒板にクラス全員の掃除分担表を張っておくのです。
 掃除の時間はつくらず、休みの時間に各自でやります。
 子どもが帰ってから、私が必ず教室を見まわって掃除のチェックをします。
 できていれば○、できていなかったら×を分担表のところにつけておきます。
 ×のところは、私が掃除をしておきます。
 一週間もたつと、○がならんでいる子ども、×ばかりの子どもと、掃除の状況が明確になってきます。
 そのあたりで一回、指導をいれます。「なんで×ばかり並ぶんが、おるんや!」と、やるわけです。
 ×をなくすために、回数と時間のかかる忍耐をともなう指導を行うのです。
 しかし、なかには掃除ができない子どももいるのです。やり方がわからないのです。
 そこで、その子には個別に声をかけます。
「なあ、今日は先生も掃除するから一緒にしようか」
 やり方を教えながら、一緒に掃除をやりきって表に○をつけてあげるのです。
 すると、翌朝、その子は「あっ、今日は○やないか」と、みんなにいわれる。悪い気はしません。
「やった。おれにも掃除ができたんや」と、ほんの小さなことですが、一つのことをやり遂げた満足感や充足感、達成感を感じることができるのです。
 教師が手を抜くことなく、本気でつづけていくと、やろうと思うようになります。
 いわなくてもやるようになったことを、ほめてあげる。
 やがて、ほめてあげなくても、黙っていても自主的にやるようになる。つまり、自立型人間です。
 いつも×だった子どもが○になったとき、私は、その子をほめちぎります。「学級便り」などでもほめるのです。
 この○×の評価は、私と子どもたちの一対一の関係もつくります。
 一人ひとりが私のまなざしを感じる。
 自分の存在をわかってもらえるという実感を与え、それが子どもの癒しにもなっていきます。
 子どもたちは、自分の居場所を求めています。
 自分のことをわかってほしいと考えています。それに応えてあげるのです。だから「一人一役」なのです。
「できた」「やれた」という充実感や達成感を子どもにもたらします。
 子どもをそこまでにできるのは、忍耐とやる気さえあれば、だれにでもできます。これは「指導技術」だからです。
 求められるのは、教師が本気かどうかだけです。教師の「ド根性」です。踏ん張りといっていいかもしれません。
 教師自身が子どもをいついつまでにこういうレベルには持っていきたいという「目標」を明確にして、「やりきる」「やらせきる」のかかわりをつづけていく。
 その決意さえあれば、子どもたちはどんどん変わっていきます。
(原田隆史:1960年生まれ 20年間大阪市公立中学校教師、教師塾主宰等を経て原田教育研究所社長。元埼玉県教育委員、高知市教育アドバイザー、三重県政策アドバイザー、奈良市教育スーパーバイザーも務める。ビジネス・ブレークスルー大学教授。大阪市立松虫中学校を態度教育・価値観教育・自立型人間育成教育により建て直し、陸上競技では7年間で13回の日本一を達成した)

 

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授業の出だしの5分間がすべてを決める

 授業の出だしの5分間がすべてを決めると言っても、言い過ぎではありません。
 授業の導入はあくまでも入り口ですが、とても大切です。
 まず、教室に入るときは「おはよう!」と明るく、大きい声で入ります。
 笑顔と気合いの入った顔で入ります。
 やる気がないという顔で、暗い感じで入ったら、1時間の授業がそれだけでダメになってしまいます。
 第一印象は2秒で決まるそうです。
 長野雅弘がクラスを元気づけるために実際したことがたくさんあります。
 たとえば、進学をあきらめた暗いクラスの授業でした。
 なんとか生徒の心に火をつけようと、紙吹雪をつくって、ウチワを持って、パーッと紙吹雪をウチワで仰ぎながら入りました。
「きみたちに明るくなってもらいたい」という想いを伝えるためです。
 素直にウケている生徒もいましたが、さすがに高校生なので「アホらしい」なんて思っている生徒もいます。しかし、そんな生徒もどこか顔は、にやついています。 
 授業が始まっていきなり、
「はい、36ページ開いて!」
「今日はここからやります」
 と言う教師たちには
「そんな授業だったら、やっていただかなくて結構」
 と長野はいいます。
 うまく導入するために、長野は絶対に話をしてから授業に入ります。
 導入は、教師の人格が一番出て、どのような題材を選ぶかに現れます。
「今日学校に来る途中、電車のホームを見たら、みんな朝からメールをやっていたんだよ」
「メールばっかりしていて、会話しなくていいのかなあ?」
「と、思ったんだけど、みんなはどう思う?」
 生徒からは
「やっぱり、会話も必要です」
 という声があがります。
「そうだよねえ。メール好きでしょう?」
「でも、メールだけじゃなく会話も必要だよね」
「英語も一緒でね、やっぱり書いたり、読んだりするだけじゃなくて、話したほうがお互いの意思の疎通がよくできるんだよ」
「じゃあ、ちよっと今日は会話をしっかりやろうか」
というふうに日常と授業をつなげていきます。
長野は、1日に何回か教師たちの授業を見に学校を回ります。
そこで、いつも見ているのは、教師が教室に入るその瞬間です。その瞬間から、出だしの5分くらいをじっと見ています。
 導入の入り方で生徒の反応も驚くほど違ってきます。
 最初の5分間にちょっと生徒のハートをつかむかどうかで、授業のよし悪しが、変わってきます。
 生徒の心をつかまなければ、どんないい授業をしても意味がありません。
(長野雅弘:1956年名古屋市生まれ、高校英語教師、数校の校長を経て大学教授。入学者が激減してつぶれるとまで噂された女子高校を授業のみの改革で2年目に人気校にしてV字回復させた。学校再建校長として有名)

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学力向上の秘けつとはなにか

 広島県尾道市立土堂小学校は、2003年4月に新しい校長先生を迎えました。
 陰山英男さんです。陰山さんは、以前勤めていた兵庫県朝来町立山口小学校で子どもたちの学力向上を成し遂げ、全国の親や教師から注目を集めた先生です。
 陰山先生の実践の要は、学習の基礎・基本となる「読み書き計算」の徹底反復。
 特に計算練習として全国で行われている「百ます計算」(岸本裕史氏が考案)は、陰山先生の実践をきっかけに一躍有名になりました。
 そして、校長となった土堂小学校でも、陰山校長は「基礎・基本の徹底反復」をカリキュラムに取り入れました。
「モジュール・タイム」は、週に3時間、基礎・基本の反復練習を集中して行う授業です。
 この授業の導入から1年、土堂小学校の子どもたちは、ぐんぐん力を伸ばしています。
 多くの学校で活用されている標準学力テストの結果が、これまでにない伸びを見せました。
 土堂小学校名物「モジュール・タイム」のスピード感いっぱいの授業を紹介します。
 まず訪れたのは1年生の教室。大きな声で「あえいうえおあお!」と、発声練習から始まりました。
 土堂小学校では「授業中は大きな声で話す」ことを大切にしています。
 発声練習は、恥ずかしがらず大きな声ではっきりと話すための練習です。
 他にも「百珠」による数の基本の確認や、カードをつかった暗算、百ます計算の入門編として行われる「十ます計算」など、次々に移り変わるメニューを元気にこなしていく1年生の集中力には驚かされます。
 5年生の授業では、漢字練習、文学作品の暗唱、「百ます計算」、「百割り」などを紹介します。
 圧巻は「百割り」。これは計算練習の一つで、B4のプリントいっぱいに並んだ割り算100問をタイム計測しながら行います。
 余りが出る面倒な割り算100問をクラス全員が3分以内で解いてしまいます。
 子どもたちの様子は、ゲームでもしているように楽しげです。とても計算練習に取り組んでいるとは思えませんでした。
 こうした基礎・基本の反復練習は、子どもたちの集中力や記憶力、そして何より学ぶ意欲を育てます。
 計算時間が日に日に短くなったり、昨日できなかった問題が今日は出来るようになったり、そうした小さな達成感を積み重ねることで、子どもたちは「やればできる」ことを学ぶのです。
 小学生のうちにたくさんの達成感を味わうことが、人生に負けない自信を育てるのだと、陰山校長は考えています。
 学力向上を目指し陰山校長が行ったもう一つの取り組み、それは子どもたちの「生活改善」です。キャッチフレーズは「早寝、早起き、朝ご飯」。
 各家庭の協力のもと、子どもたちの生活を徹底的に見直しました。学力向上にはその土台となる健康が欠かせないという考えからです。
 その際、子どもたちの生活を知るため役立てたのが「生活改善アンケート」です。
 このアンケートは年1回、全校で一斉に行われます。
「寝る時間は何時か?」「起きる時間は?」
「朝ご飯は何をたべたか?」「朝うんちは出たか?」
「夕飯は誰と食べたか?」「家族と話す時間はあるか?」
 など、子どもたちの生活を細かく調査します。
 今では、土堂小学校の子どもたちのほとんどが、朝7時前に起き、朝ご飯をきちんと食べて学校に来るようになりました。
 こうした変化は、保護者を始め、地域の大人たちの協力があってこそ。
 学力向上は、学校を中心とした地域ぐるみの取り組みなのです。
「子どもが、伸びることに病みつきになって、ここまできた」と語る陰山校長。
 校長の意図をくみ取り、真摯に授業に取り組む先生たち。
 他の学校ではなかなか見ることのできない、活気あふれる授業となっています。
 学力とは「脳の元気」です。
 一定時間にどれだけの情報をより的確に処理できるか。そのために効果的なのは百ます計算に代表される読み書き計算の反復練習です。
 反復練習で脳の神経が太くなり、一つの課題に対して多様な判断ができ、的確な判断ができるようになります。
 今の教育は、基礎ができていないのに、応用力を身につけさせようとしており、うまく機能していないと思われます。
 教育を難しくしているのは、誰も現場をよく知らない。教師に求められる課題が多すぎる。地域が教師を立てない、教師を誇りに思っていないことなどです。
(陰山英男1958年生まれ、元兵庫県公立小学校教師、広島県公立小学校長を経て、立命館小学校副校長、立命館大学教育開発推進機構教授。元大阪府教育委員会委員長)

 

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すばらしい実践家は思いも、言っていることも、実践もすばらしい

 意識することによって、今まで見えなかったものが見えてきます。
 子どもも、教師も同様ですね。
 例えば、学級の力量を測るには、次の点を見てみましょう。
 あなたは、すぐに答えることができますか。
 (1)休み時間、子どもたちが出ていったあとの教室を見てみましょう。
  「いすはどうなっていますか?」「机の上はどうなっていますか?」
 (2)体育、着替え終わったときの机の上、洋服はどうなっていますか
 (3)給食後の片づけ、子どもたちの食器はどうなっていますか。
 (4)廊下歩行のときはどうですか。
  明確に答えられた人は、かなり意識して見ていますね。
  たいていの場合、答えられません。
  これらのことの重要性がわかっていないので、見ようともしないからです。
「そんなことはどうでもいい」と思う人もいるでしょう。
「細かいですね」
「もっと大切なことがあるんじゃないですか」
「心を育てることが大切じゃないんですか?」と、以前よく言われました。
 私が「心を育てるって、具体的にいってくださいませんか」と、問うと「…・・・」答が返ってこない。 
 行動が伴わない限り、きれいごとで終わってしまいます。
 具体的にいえない人は、意識していないのです。
 森信三先生は次のように言っています。
「知っていて実行しないとしたら、その知はいまだ『真知』でないと深省を要する」
 その通りだと思います。
「心を育てる」と、スローガンで止まっていませんか。
 口でいうのは簡単です。実践するとなると、そう簡単にはいきません。
 具体的なレベルまでおろさないと意味がありませんから。
 例えば、給食の後かたづけ。
 「洗い物をする人の立場に立つ」とは、どういうことでしょうか。
(例)「食べかす」をきれいに取って返す。
 そのために、
(1)ティッシュなどで「食べかす」を拭き取る。
(2)パンを小さくちぎり、最後にソースを集めて食べる。
(3)きちんとそろえて返す。
(4)音を立てないで食器を重ねる。
(5ご飯のときは、入れ物に水を一杯入れて返す。
(6)しゃもじは洗って返す。
 大切なことは、具体的に考え、実行することだと思います。
 具体的行動です。思いが行動を生みます。
 立派な思いを持っている人の行動は、例外なく立派です。
 逆にいえば、行動しない人の思いは、たいしたことがないのです。
 芸道で、一挙手、一投足がうるさく言われるわけは、心を養うためでしょう。
 教育についても同じだと思います。
 子どもたちの心を育てるために、行動から入ることも大切です。
 礼の仕方、歩き方、姿勢、かたづけ、整理整頓など。
 この文章を読んでいる方は、少なくとも、
 「子どもの力を伸ばす、価値ある教師になりたい」
 と思っている人でしょう。
 だからこそ、すばらしい学級を見ると悩みます。
 あまりの違いに愕然とします。
 私も悩みました。
「この違いは何か」と、ずっと考えてきました。
 あるとき、わかったのです。
 決定的な違いは、意識だと。
 昔からいわれる身口意(しんくい)です。
「身」…行為、行動
「口」…言葉
「意」…思い
 これらが一体になったとき、ものすごいエネルギーが生まれると言われています。
 すばらしい実践家は「思い」がすばらしい、「言っていること」もすばらしい、「実践」もすばらしいです。
 これら3つのことが、一致しています。
 逆の場合が多いですね。口(言葉)と身(行為)のギャップが激しい人が多いです。
(杉渕鉄良:1959年東京生まれ、東京都公立小学校教師。「教育の鉄人」と呼ばれる実践家、子どもを伸ばす為に命をかける熱血教師。ユニット授業研究会代表。その実践スタイルは全国の教師、保護者から支持を受ける。2003年夏、日経スペシャル「ガイアの夜明け」に出演。PHP「VOICE」や、経済誌「プレジデント」での教育シリーズに取り上げられ、各方面からの注目も高い。ユニット授業、10マス計算、表現読み、指名なし発言など、子どもの可能性を引き出すため、さまざまな工夫を凝らした教育実践を行っている)

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教育は学力形成か人間形成か、できるだけ異質なものを取り込んで学ぶことが求められる

 長くいっしょに研究活動をしていると、当初は異質であった教師たちもだんだんと発想が近づいてきます。井の中の蛙化していきます。自分たちが自覚できなくなってしまう。
「研究集団ことのは」は外部に異質なものを求め、取り込もうとし続けています。
 異質なものと響き合うときにこそ、人間の頭は最も機能します。
 異質なものと反発しあうときにこそ、人間の感情は最も大きな起伏を描きます。
 一人で独自の提案をしているメンバーがたくさんいる。指導主事、管理職になった者もいます。
 おそらく我々が常に異質なものを取り込んできたことによって、広い視野から物事を分析するとか、異なる領域・分野の理論・実践を融合するとか、そうしたことをごく自然に日常としているせいなのだと自分たちでは思っています。
 私は学生時代に共通点と相違点を整理するという思考を身につけました。
 この同時進行で異なる理論を学ぶという経験が、私の思考力を鍛えてくれたと実感しています。
 一人の人間の発想などというものは、時を隔ててもすべてが繋がっている、そういうものなのです。
 十年くらい前までの学校は「学力形成」派よりも「人間形成」派の教師が圧倒的多数でした。それが最近、急速に変化してきているのを感じます。その変化はおそらく、
・教師に対する行政の監理が厳しくなり、教員評価制度が定着して数値目標が設定されるようになったこと。
・保護者のクレームの増加によって、教師が個性を発揮しての教育活動がしずらくなったこと。
・2000年前後から「ゆとり教育」の反動として、「学力向上」が大きく宣伝されたこと。
・世論が「学力向上」路線を支持しているような空気が醸成されていること。
 など、様々な要因があるように思います。
「学力形成派」は、学力はどうしても一般教養や受験学力に重きが置かれがちです。
 これが子どもたちの実態から乖離したところで、カリキュラムが立てられてしまう。こういう弊害を招きやすい構造があります。
「人間形成派」は、経験を絶対視する傾向が強い。
 ですから、教育は人間形成だと強く叫ぶ教師ほど、子どもたちに自分の敷いたレールの上を歩かせたいという欲求を強くもつ傾向があります。
 部活動の熱心な指導者などは、ほとんどがそのタイプだと言って過言ではないでしょう。
 私は、自分の教育観はすべての生徒の特性に合致しているわけでない、ということに教職について5年が過ぎた頃に気づき始めます。
 私の教育観は、私という人間の個性に過ぎない。
 私は生徒たちを洗脳しようとしているのではないかと考えるようになりました。
「この生徒は、私でなく、あの先生が担任だった方が合っていたかもしれない」と思える生徒たちが一定数存在することに気がついたのです。
 それも、私と考えの合わない、ウマが合わない、そんな教師たちの方がです。
 私が自分と合わないと思われる生徒たちも包含できるような教師として大成長を遂げようと決心しました。
 私は意図的に振り子を振ったわけです。
 私は3年間だけ、自分の教育活動のすべてを「あちら側」から構想してみよう、そう考えました。 
 私はアクの強いタイプの人間です。そのくらいの気持ちでやった方が、バランスがとれてちょうどいいのではないかと思ったのです。
 転勤した学校の職員会議は私にとって、腹に据えかねるような発想ばかりを基準に決まっていきましたが、私はその発想を学ぶように努めました。
 管理職や教務主任ともたくさん話をして、彼らがどういう発想で教育活動に取り組んでいるのか、ひたすら学び続けました。
「学力形成派」の本質は「割り切ること」でした。
 生徒たちを集団として捉え、その最大公約数に力を発揮する手法を採ろうとします。犠牲者は少なくて済みます。
「人間形成派」は一人ひとりの生徒を無限の可能性をもつ存在ととらえ、一人ひとりに少しでも触媒となるような指導を与え続けようとします。
 一人ひとりを大事にしようとするあまり、他の生徒を犠牲にすることが少なくありません。
 生徒Aと生徒Bの利害が対立したとき、生徒Aに対する指導が生徒Bにマイナスの指導として機能することがあるからです。指導は安定感を欠きます。
 私はこの中学校で三度卒業生をだしました。どの学級もよい学級でした。
 私は教育技術、授業技術を身につけ、それなりの授業力、学級経営力を身につけていましたから、学力向上も生徒指導もいじめ指導も打った手だてはだいたい当たる、そんな毎日でした。
 行事や成績は担任である私が常にリードすることによってもたらされものでした。
 学級で起こったトラブルのすべてを私が間に入って説得し納得させて解決したのでした。
 しかし、この学級経営が失敗であったと気づきました。高校に進学した二割に近い七人の不登校生徒が出たのです。

 進学した生徒たちの問題行動の要因は、生徒たちが自らの行動の意味をメタ認知(自分自身を客観的に認める能力)ができないことに起因しています。
 生徒同士のトラブルは、双方が自分の世界からものを見て、相手に自分の行動がどう見えるか、周りから見てその行動がどう見えるかということを考えられないことから生じます。
 教師が指導するときにも、その生徒の世界観を壊し、周りの視点、他者の視点を理解させるのに随分と時間がかかります。
 保護者のクレームの多くも、そうした生徒個人の世界観のみで聞いた話を保護者がそのまま信じ込んでしまうところから起こります。
 私は再び振り子を振らなければならなくなったのです。
(堀 裕嗣:1966年北海道生まれ、札幌市立中学の国語科教師。92年、国語教育研究サークル「研究集団ことのは」を設立、道内の民間教育団体でつくる「教師力ブラッシュアップセミナー」の代表も務める)

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子どもの心をうち、子どもを変えるには、どのようにすればよいのでしょうか

 人の心をうつには、相手に感謝する気持ちを身につけることが必要です。
 感謝をする気持ちが謙虚さを生みます。それは人に伝わります。
 例えば、音楽ライブは演奏者と聴衆とのかかわりの中で音楽が創造されます。
 人を感動させるよい音楽は、その根底に主客合一(自分と対象者が一つになろうとする)の世界があります。自分のはからいを越え、演奏者と聴衆が一体となることです。
 感謝をするという行為を通して、他とのかかわりを意識し、自己を客観化できます。
「演奏を聴いていただく」という謙虚な心、素直な気持ちがあれば、よい音楽が生まれ、聴衆を感動させることができます。
 もっと突き詰めれば、祈りの心です。
 よい音を出し、みんなに聴いていただく、そのために多くの方々の協力をいただいていることを自覚し、感謝し、祈りにまで昇華されたとき、人の心をうつ本物の演奏ができます。
 授業も同じです。板書しているときでも、教師は背中で子どもの空気を感じ、それに対応していく力が必要です。
 机間指導をしているときに、全体の雰囲気を感じながら、進め方を修正していくのです。
 その場に応じた指導が出きるようになると一体感のある、すばらしい授業ができます。
 子どもの気持ちを理解することが出来ると授業も一流になれます。そういう授業づくりを目指していって下さい。
 子ども全員が出きるようになると、喜びは大きいです。子ども同士の一体感、子どもと教師との一体感が生まれます。
 運動会のリレーで声援をあげて応援する時には、保護者、子ども、選手が一体になります。
 勝敗は別にして会場全体が一つになります。そういうことを意識して演出していくことが、教育では大切なのです。
 人間には得手不得手がある。
 勉強の得意な子ども、掃除の得意な子ども、作業の得意な子どもといろいろいる。
 一律に勉強だけを押しつけるのではなく、作業の好きな子供はその面を伸ばしていけばよい。
 無理をして詰め込むのではなく、やさしい基礎・基本を指導して得意な面を伸ばしていくようにすればよいのである。
 人に伝えたいという「気」がないとメッセージは伝わりません。「気」を感じさせることが大切ですね。
 生きる元気がでるというのは、最高の教材です。
「気」をもたらすことのできる教材づくり、授業づくりをしたいと思っています。
 心にゆとりを持つことは教育にとっても大切です。
 授業者に余裕がなければよい授業は生まれません。
 教材や方法を熟知し、それがあふれ出るようでなければ子どもの動きを変えることはできません。
 子どもがやる気を出すのは、例えば、超一流のものに出会って感動した時である。
 私自身、感動や強いあこがれを常に求め、一流になるよう生きていきたいと願っています。
「至誠通天」という私の大好きな言葉がある。誠が人を動かします。課題に誠実に取り組み努力をすれば、必ず願いは叶います。
 子どもを変えるのは教師の人間性です。
 大変な子どもには「必ず良くなりますよ」と心の中で手を合わせて話を聞く。その時、目を見てじっと聴く。どれだけその子を思うかです。
 人間を根底から動かすものは、むずかしい理論や理屈ではなくて、全身(いのち)の感動であり、腹の底からの納得であると思います。
(根本正雄:1949年、茨城県に生まれ、元千葉県公立小学校校長。「根本体育」を提唱し,全国各地で体育研究会・セミナーにて優れた体育指導法の普及に力を注いでいる)

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教材研究の方法を林竹二との出会いによって、問い直しを迫られた

 伊藤功一の教師人生に大きな影響を与えたのが、林竹二との出会いであった。
 当時、古代ギリシャ哲学(ソクラテス)の研究者で宮城教育大学学長であった林は各学校を訪れ授業をする「授業巡礼」に力を注いでいた。
 林の存在を「授業 人間について」(国土社)で知った伊藤が、林にお願いして学校に招待して、「人間は動物だろうか」の授業を行ってもらった。
 林は「人間は動物だろうか」と子どもに問い、一人ひとりの子どもに、なぜそのように考えたのかをとことん問い詰めていった。
 子どもたちは次第に無言になり、後半は林の説明が続く授業となった。
 教師たちは、林の授業から何らかの奥深さを感じとっていた。
 林の授業は、子どもたちに問いと真剣に向き合い、自分で考え抜くことを求めるものだった。
 林は、授業が授業として成立するには、教師が自分自身の授業をあらためて問い直す必要があることを身をもって示したのであった。
 伊藤は、林との出会いからの四年間は、授業の問い直しを迫られ、自分の授業を否定することの苦悩に耐えながら、少しずつ自分の殻を脱ぎ捨てていった。
 教材研究は、授業を前提として教材から教えるべきものを取り出すのではなく、一人の人間として教師自身の興味のおもむくままに調べ「第一次教材解釈」がまずある。
 その後、教師として授業してみたいものを精選して授業案を立てる「第二次教材解釈」へと進むことが必要となることに気づいた。つまり、
(1)授業を意識しない、学問的追究の楽しさを感じる。
(2)その感動を胸にして、子どもたちへの授業の動機が生まれる。
(3)こんなことを考えさせたい、伝えてやりたいという意欲につながっていく。
(4)そこから、子どもたちの真剣な思考が生み出されていく。
 ことを見いだしたのである。
(伊藤 功一:1930-2009年、元青森県内中学校教師、教育委員会、小学校校長)

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授業で、95%以上の子どもたちに支持してもらうには、どのようにすればよいか

 予備校のマドンナ講師、荻野文子さんの人気の秘密は、入念な準備にある。
 90分の授業に3倍の時間をかけて準備する。
 見せ方にも気を使い、姿見で通しげいこもする。
「連続ドラマの脚本家、演出家、そして役者。すべてを兼ねているようなものです」と語る。
 少し鼻にかかった甘い声で、古文の受験勉強のツボを押さえていく。
 まっすぐな視線、整理された板書、明快な説明。
「マドンナ」の愛称で親しまれる荻野さんの映像授業は、モニター画面を見つめる受講生の視線を引きつけて離さない。
 代々木ゼミナールなどを経て東進ハイスクールで衛星放送授業、講師育成などに携わった。
「マドンナ古文」シリーズ、「ヘタな人生論より徒然草」など著書が多数ある。
 今は授業のほとんどが衛星授業だ。スタジオでカメラに向かって授業し、それを全国の提携塾や予備校などで1万人を超える生徒が画面を通じて聞いている。
 大きなホールで千人を超える生徒を相手に授業をしたことがある。あらゆるレベルの生徒がやってくる。
 高校3年生を中心に、浪人生、高2、高1、なんと気の早い中学生も。
 そんな状況の中、終了後に行われるアンケートで「支持率95%を取れ」という至上命令が課せられる。
 どうすれば、そんな大人数を相手に95%という支持率を取れるか。
 高い支持率の獲得をめざして、話をわかりやすくするために、生徒を次の四つのタイプに分ける。
「秀才君」:集中力、忍耐力があって思考力もそこそこある。
「ロボット君」:一生懸命暗記する。努力で、まずまずの成績を維持している。
「元気君」:好奇心旺盛。
「埴輪(はにわ)君」:何事にも無関心。
 これは、授業態度の印象を誇張したネーミングで、人格を指すものではない。その点は強調しておきたい。
 さて、この4タイプを同時に納得させるには、どうするか。
 結論的には、一つのテーマについて4通りの説明を重ねる必要がある。
 例えば、和歌にある本歌取りという修辞法。
 教科書では「有名な古歌の一部分を読み込むことで、その和歌を取り込んだ新しい歌境を表現する方法」と説明されているが、「新しい歌の境地」という意味が生徒にはよくわからない。
 私は、まず元気君ならどんな疑問を抱くかを考える。
「それ盗作と違うん。今なら著作権法違反。なんで褒められるん」と、元気君になったつもりで質問を投げかける。
 すると、元気君の耳がピッと立つ。ロボット君も「何を言うんだろう」
 埴輪君も「盗作? ふうん」と耳が動く。
 そこで和歌から離れて現代の歌の例を持ち出す。
 山口百恵の歌「プレイバックPart2」。
 フレーズを口ずさむと、五感に反応することが多い埴輪(はにわ)君が授業に参加してくれる。
 この歌の歌詞には、カーラジオから沢田研二のヒット曲「勝手にしやがれ」が流れる場面が盛り込まれている。
 これは本歌取りだ。わずかな文字を引いただけで山口百恵の歌に沢田研二の歌が二重写しになっている。
 男性のやせ我慢ではなく、女性のプライドを歌っているので、盗作ではなく、うまい表現と褒められる。
 こんな説明をすると、元気君は大喜び。
「古文も一緒」とパターン化すると、ロボット君も安心し、もっと知的な解説を加えると、秀才君も満足する。
 学校で元気君を育ててもらえると助かる。
 授業をちょっと改革して、素朴な疑問に答える工夫をしてはどうだろう。
「盗作と違うん」みたいな質問をどれだけ予測できるかが勝負。
 一つ一つの単元ごとに、みんなを抱き込んで興味づけできるものはないかと、1年間、その目線だけで教材を見てはどうか。ほかの科目の教師と話すのも参考になる。
 私は授業の準備をするときに、
 どうすればみんなが納得するかを考える。
 そのためには教師自身が「元気教師」でないといけない。
 子どもに好奇心を持っていないと、発想は生まれない。
 家で疲れてテレビを見ていても、何か使えるものはないかと考え、絶えずアンテナを張り巡らせている。
 授業を受けようという気持ちで学校に来ていない子どもには、素朴な疑問を大切にして、興味を引きつけることだ。
 授業のとき、言葉のテンポやリズム感、立ち居振る舞いのコツは、鏡の前で授業をして、自分の動きをチェックすること。
「変な動きをしている」と恥ずかしいが、自分の授業を直視することは大切だ。
 役者が舞台に立つのと同じだ。立ち位置や板書の場所なども全部シナリオと思っている。
(荻野文子:1957年兵庫県生まれ、元東進ハイスクール古文科講師、学研プライムゼミ古文科講師。大学受験単科塾TOY・Ans・navio塾長。講師アカデミー共同主宰)

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子どものときの遊びは、人間らしい人間になるために絶対に必要である

 遊びは、大人社会の縮図といえます。
 大人が実社会で経験する、葛藤や挫折、あるいは実際に使われている大人社会の技術のひな形が、子どもの遊びの世界でもさかんに使われます。
 子どもたちは群れ遊びのなかで、人と人との交わり方である「共感能力」「融合能力」「連帯能力」を、徐々に、しかし着実に身につけていくのです。
 それは、まともな人間になるうえで、欠くことのできない経験の蓄積でもあり、生きる知恵ともなるのです。
 不幸にして、幼児期から少年少女期にかけて、ほとんど群れ遊びをせずに育った子どもは「人を信頼したり」「本音で話し合ったりする喜び」を知らずに大きくなっていきます。
 そして、青年期にも親友を作るすべを知らないまま、社会人となります。
 勉強がよくできると、そこ、そこの大学に合格し、就職難のときでも入社試験に合格はします。
 しかし、そこからが大変です。初対面の人にはマニュアル的な対応しかできない。
 対人関係では「相手の心の動きが察知できず」に、後味のよくない結果に終わってしまうといった元秀才は少なからずいるのです。
 子どものとき、日光の下、集団のなかで毎日のように遊んだ子は、大脳の古い皮質が鍛えられ強くなります。
 いろんな人と親しくなったり、少々の挫折にへこたれない強靭さといったものは、大脳の古い皮質の働きです。
 たくましさ、バイタリティ、粘り強さといった、人間として生きる力の源ともいうべき野生は、大脳の古い皮質の発達に左右されます。
 群れ遊び抜きで成長したつけは、必ず回ってきます。
 幼児から少年少女期にかけての群れ遊び、外遊びは、人間らしい人間になるために、絶対必要な糧なのです。
(岸本裕史元:1930-2006年、神戸市生まれ、元小学校教師。百ます計算の生みの親。1985年 「学力の基礎を鍛え落ちこぼれをなくす研究会(落ち研)」(現「学力の基礎をきたえどの子も伸ばす研究会」)代表委員)

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生徒をやる気にさせるには1対1で向き合い、答えを教えず自分で見つけさせること

 中学1年生の英語の授業。
 いきなり英語で話し始めた。生徒を心から楽しませる。いわば準備運動である。15分後教科書を開かせた。
 英語を教える相手は中学生。田尻悟郎はまず「楽しませる」ことを大切にする。
 そのためには、あらゆる手を使う。ゲームやクイズ、歌や映画、そしてときには屋外での特別授業。
 巧みな話術と面白おかしい小道具、そして大げさなリアクションで生徒たちを盛り上げる。その姿は、まるで大道芸人のよう。
 漫才が好きだ。鏡の前で表情を作ったり声を出す練習する。
 しかし目的は、生徒を遊ばせることではない。
 授業を楽しませ、夢中にさせることで、慣れない英語を生徒たちの身近なものにしていく。
 英語を勉強することは、苦い良薬みたいなもの。そこに楽しさという糖衣をまぶすことが先生の重要な役割だ。
 田尻の譲れないこだわりは、生徒に答えを自分で見つけさせること。
 正解を教えない。生徒が答えを見つけるまで待ち続ける。
 正解をいわないまま授業を打ち切ることも少なくない。
 答えがわからない、教えて欲しいというストレス是非ためて欲しい。
 教えなければ、生徒は気になって自分で答えを探し始める。
 生徒をやる気にさせる方法は一つしかない。1対1で向き合うこと。
 子どもたちと一人ずつ対話する場面を意識的に作らなければ、彼らからの信頼を得ることはできない。
 しかし、一クラスの生徒はおよそ40人。どうやってその時間をねん出するか。
 解決策として考え出したのは、1対1で行う口頭の小テスト。
 単語の発音や会話の練習、あるいは短いスピーチなど、生徒と1対1で向かい合ってテストをする。
 そのなかで会話を重ね、その子のやる気を引き出していく。
 小テストをクリアして実力がついた生徒を先生役に指名して、ほかの生徒の1対1の小テストを全て任せる。 生徒同士での教え合いが始まるのだ。
 複数の先生を教室につくることで、教師は、それまで面倒を見られなかった生徒と1対1で向き合うことができる。授業に積極的でない生徒たちに直接指導する。直接、言葉を交わし合うことで生徒の心の扉を叩く。
 1対1で会話をしないことには彼らは信用してくれない。
 信じて、待ち続けるのが田尻悟郎流の人間育成法である。
 英語の知識を教えることだけはない。教える生徒は思春期の真っただ中に立つ。子どもから大人へと成長していく。接するなかで授業を通して大人になるための練習を課す。
 しかし、頭ごなしに生徒に「指導」することはしない。大切なのは本人が気づくかどうかだと考えるからだ。
 それまでは、ただ待ち続け、生徒を信じ続ける。友だちとトラブルを起こしたときや本人が気落ちしたときこそが、機が熟したとき。そのとき初めて動き出す。
 英語できるよりももっともっと大切なことは、自分一人が良ければいいんじゃない。生徒同士の教えあい。相手の気持ちをくみとりながら接すること。
 人の痛みを知る生徒になってほしい。悔しさ、みじめさ。それを味わっているから人の気持ちがわかる人間に。
 田尻の信念は「子どもたちの心を開き、やる気をたきつけること。答えは自分で見つけさせる。1対1で向き合う」こと。
 楽しめば、勉強が勉強でなくなる。
 教師が楽しそうに、夢中で一生懸命でいる姿は生徒に伝染する。
 田尻の若い頃はスパルタ教師だった。授業がうまくいかず、部活動の指導に入れ込んだ。
 スパルタ指導で野球部が優勝して結果を残すも、生徒たちに「先生への恨みから、勝とうとした」と言われ、田尻はショックを受けて、変わった。
 楽しいということが、ふざけて楽しむんじゃなくて、学習することが楽しいのなら良いんじゃないかと思った。
 ぴりっとした空気を持ちつつ生徒たちを盛り上げる手腕はすごい。
 厳しいだけではなく、優しく甘いだけではない。いかに学ぶ心構えを作るか、作ったそれを維持し続けるか。そのことをとても意識している。
 教師の目線が生徒と同じか下だと生徒たちが自分を出せる。
 教師が一方的に生徒を説き伏せても意味がない。本人が気がつき始めた、機が熟したタイミングに一声かける。  
 1対1の小テストに合格して先生役になった生徒が増えて来ると、田尻は教室を歩き回わる。勉強している生徒、生徒同士で小テストをしている生徒たちのようすをじっと観察している。
 教師はエンターティナーと思っているとの言葉のとおり、外に表れている田尻の姿と、内面、内心の計算、思考がかなり高速に動いていると思う。鋭い視線が、それを物語っている。
(田尻悟郎:1958年生まれ、神戸と島根県で公立中学校7校に勤務を経て関西大学教授。パーマー賞を受賞、『Newsweek』誌日本版の「世界のカリスマ教師たち」の1人に選出される)

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ミニネタで子どもの心つかむ授業とは、どのようなもでしょうか

 子どもたちの関心を引きつけ、理解を深めるための小道具やアイデアを、土作彰先生はミニネタと呼ぶ。
 ミニネタで授業が脱線していくように見えて、巧みに本題への導入になっている。土作彰の授業の真骨頂だ。
 土作彰先生は、話がおもしろく、たたみかけ、ボケつっこみでひきつける。
 面白いだけではなく、しっかりとした理論に基づいていて知的である。かなりの博識だ。
 教材開発、教材発掘に余念がなく、常に新しいもの、おもしろいものを探している。
 例えば、6年生の社会科の授業で、奈良時代を終えた次の社会科の授業に、大仏マスクをかぶって教室に入っていきました。
 騒然となった教室の雰囲気を、しばしマスクをかぶったまま見回してみます。その不気味さに騒然となります。
 次にいきなりクイズを出します。
「私はだれでしょう?」(→大仏)
「何時代に建てられたでしょう?」(→奈良時代)
「誰が建てたのでしょう」(→聖武天皇)
 などというふうにです。
 その他にも、先生が臓器の位置を描いた手作りTシャツを着たり、血液に反応すると青白く光る薬品を使った実験をしたり、手持ちのネタは200以上。
 先生たちの研究会の代表も務める。
「授業のスパイスですね。物事を少し違った角度からとらえることで、発問のきっかけになるんです」
 教室の雰囲気づくりや、集中力の持続にも一役買っている。
 6年1組の理科の授業が始まった。
 先生が、水滴が光る葉っぱの拡大写真を黒板に張る。
先生「カラーコピーに70円もかかりました」
 資料一つ示すにも、必ず子どもの笑いをとるのが土作流。笑いの後が本題だ。
 先生が植物の光合成の仕組みに触れた後に、問いかける。
先生「さて葉っぱは、なんで緑色なんやろ?」
 6年1組の29人は一瞬きょとんとしたが、すぐに手が挙がった。
子ども「葉っぱが日焼けしているから」
子ども「気温が高いと、緑色になると思う」
子ども「炭素を吸ったから」
 先生はその発言をひとつひとつ「なるほど」「確かにそうかもしれん」と引き取っていく。
子ども「日光にあたっているから」
 という発言の後、ひとりの男の子が「反論、は・ん・ろーん」と立ち上がった。
子ども「じゃあ、僕らも緑色になるんか」
 教室が笑いに包まれた。
先生「では、虹を見たことがある人?」
 いよいよミニネタが始まったようだ。一斉に手が挙がる。
 虹の写真のコピーを全員に配り「虹は、どういう時に見えるかな?」と尋ねる。
 先生が「雨上がり(水滴)」「日光(光源)」「適度な暗さ」「見る方向」といった条件を確認し、日光が水滴で屈折・反射し、元々持っている7色の光に分かれて見えることを説明した。
先生「じゃあ、虹を見に行こう」
子ども「えーっ」と歓声があがる。
 人工虹を観察できる「虹ビーズ」を黒い画用紙に張りつけて作った「虹シート」を持って隣の教室へ。
 このシートに光を当てると、虹のような光の帯が観察できるのだ。
 カーテンを閉めた暗い部屋の壁に張って、ライトをあてる。
 4、5人ずつ教室に入った子どもたちは、
子ども「おーっ、見えた、見えた」「きれい」「見えるで。ここ、ここ」。また歓声だ。
 再び6年1組の教室へ。
先生「話を戻します。葉っぱは、なぜ緑色なのか?」
 まとめに入ったようだ。
 虹で見た7色のうち、葉っぱは光合成のために赤色と青色の光を吸収していることを示すグラフを引用しながら、
先生「実は、葉っぱは緑色がほしくないんやね。緑色の光をはね返しているから、僕たちの目には緑色に見える」
 自然界が持つ色について「なんでやろ」と考えるきっかけになれば、この日は十分。
 葉緑素という言葉は使わなかった。
 終わり際、先生が言った。
先生「梅雨が明けたら、花壇の水やりのシャワーで虹を見てみような」
(土作 彰:1965年大阪府生まれ、奈良県公立小学校教師。授業のネタを収集、何かが足りないと気づき、深澤久氏の学級を参観し衝撃を受け教師に必要な哲学を研究。
 学級経営を成功させるには「教える」「繋げる」「育てる」によって、知的に楽しくビシッとしまる「学級づくりの3D理論」を提唱し実践している。日本教育ミニネタ研究会代表、学級づくり改革セミナー主催)

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著名な実践家である東井義雄は、どのような考え方で教育をおこなっていたのか

1 教育と愛
 愛は「私のもの」という意識のことだと私は思う。
「もの」が「人のもの」ではなくて、「私のもの」になると「あばた」も「えくぼ」に変わってくる。
「こと」が「人ごと」ではなくて「自分のこと」になると、無い力まで出てくる。そういう力まで出てくる。
 そういう不思議なはたらきをするものが「愛」だ。
 主体的な「愛」は、ものを自分ものもとして、かわいがり、育て、調べていく。行動的な学習を通してのみ、育て得るものだと私は信じている。
 それは、身のまわりの物事を、自分のこととして考え、処理をしていくような算数の形によっても育て得るだろう。
 かわいがり・育て・製作する理科というような形でも、育てられなければならない。
 国語では、作文がこの大事な仕事を受け持ってくれる。読みの学習においても読みの身構えの問題として「愛」が問題にされねばならぬ。
2 学習
 学習は、ものしりをつくりあげる教育体系でない。
 身のまわりの事物を、算数は算数の立場で学習する。
 はてな?と不思議がり、こうかもしれないぞと考え、こうしてみたらどうか、と実際にやってみて、なるほどとうなずき、でも、いつでもどこでもそうなるか、とためしてみるというような生き方を、もっと大事にしなければならない。
 理科は、理科の立場から、はてな、おやおや、なぜだろう、こうかもしれないぞ、こうしてみたらどうなるか、なるほど、でも・・・と考え、やってみる、というような在り方を大事にしなければならぬ。
 国語も社会科も、そういうふうな、生きて働いていくものに育てあげることで、宿命にさえ見える現実の壁をつきやぶることができるのだ。
 学習は、そういう学習にならねばならぬ。
3 命の触れ合い
 教師であることの、ほんとうの喜びは、子どもの命に触れないでは得られない。教師の喜びは、命と命が触れ合うところにのみ味わわれる。
 命に触れ得ないような教師は、子どもの命に影響を与えていけたりする道理がない。子どもに、何もしてやることはできない。
 子どもに、何もしてやることのできないような教師は、もはや、教師ではない。
 子どもの命に触れるには、私は教師が「ほんものになるより道はない」と考える。
 子どもが母親を慕うのは、それが「ほんもの」だからだ。
 生きていることのただごとでない底深さ、根深さは、たとえ感傷的にでもいい、知っておく必要があるようだ。
 そうでないと、子どもを守る運動も根のないものになってしまうし、人々の共感を誘うこともできないようだ。
 そして、なにより、教育という仕事が、根のないものになってしまう。
 子どものつぶやきが聞こえなくなっている先生は、先生の資格があるとはいえない。
4 ほんもの
「ほんもの」の親は、自分の子どもが、利口であろうがバカであろうが、いうことをよくきく子であろうがいうことをきかない子であろうが、ひたすら子どもを思いわずらう。
 その「ほんものさ」を子どもは本能的に感じとって、母親を慕うのだ。
「ほんもの」だけが、子どもの命にふれていき、子どもの命に影響を与えることができるのだ。
 私は「ほんもの」になるより道はないと考える。子どもたちが母親を慕うのは、それが「ほんもの」だからだ。
「ほんもの」だけが子どもの命に触れていくもののようだ。
 子どもの命にふれ得ないような教師には、何もできない、ということが本当のようだ。
5 教える教育には限界がある
 私は、はじめ、教育ということは子どもたちに「ああしろ」「こうしろ」「そんなことをしてはいけない」「それはこうするんだ」と、子どもを指図し、叱り、教えることだと、と思っていた。
「先生」と呼ばれるようになって25年、それは本当の教育ではなかったんだと、気づかせられはじめた。
 それなら「教える教育」の限界をつき破るものは何か。それは「ほんもの」になることだけだ。
 人を「ほんもの」にしようとして「教える」のではない。こちらが「ほんもの」になるのだ。
「ほんものでない者」が、子どもに「ほんものになれ」と指図したところで、ききめのあるはずがない。
「ほんものでない者」が「ほんもの」でない自分に対して言わなければならないことを、私たち教師は、教師顔して、他人に言いつづけてきた。
 そこに、私たちの長い間の考えの誤りがあったのではないか。
 以前、クラスに、ものを言わない、困った子どもがいた。
 私は、ものを言わせるように、話しかけ、ともに遊ぶようにしたり、クラスにも話しやすい雰囲気づくりに協力してもらったり、いろいろと働きかけたが、だめであった。
 しかし、よく見ると、その子は掃除で、ほうきの使い方や、片付けがクラスの中で一番うまいのに気がついた。
 ものは言わないが、掃除の動作は、ひとつひとつ美しい言葉ばではないか。
 こんな美しい言葉を毎日、自分の行動で語っている。
 私は、うれしい思いでその子を見るようになった。
 そのうち、その子の目が心なしか微笑んで見えるようになり、ほんのかすかであったが、声を聞くことができた。
 あれだけ、ものを言わせようとしても、私がそうすればするほど、口をつぐんだ子が、だれに強いられたのでなく、自分から口を開いたということはどういうことだろうか。
 指図し、教えることよりも、それを、そのまま抱きとることができるような教師になることこそ、子どもの命を開いていく唯一の道だ、ということが考えられないであろうか。
「ほんもの」の学力とは「子どもの感じ方、思い方、考え方、生き方、その論理の歯車にかみ合った力」でなければならない。これを「生活の論理」という。
 この上に、教科の道筋はあくまで教師が主導権を持つという「教科の論理」を加えて東井義雄の学力観は成立している。
(東井義雄:1912-1991年、兵庫県生れ、小学校教師となり綴方教育で認められる。元兵庫県公立小中学校校長。「ペスタロッチー賞」、兵庫県知事や文部省より「教育功労賞」など多数受賞)

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教師が実力をつけるためには、どのようにすればよいか

 一流の模擬授業を見ることが、授業の腕を上げる最高の方法です。私もいくつかの模擬授業を見ましたが勉強になりました。
 プロの厳しさを求めて努力できる人間は伸びます。師を持つと言うことはとても大切なことです。人生の師、教育の師を持つことができれば幸せです。
 場数を踏むことが腕を上げる最短の方法です。
 続けていれば必ず力がつきます。
 時間と労力をかけた分、力がつきます。
 圧倒的な努力をしたものだけが、圧倒的な力をつけます。
 学んだことは、できるだけすべてを追試したいです。追試する中で力がつきます。学んだことを吸収するには追試が一番です。
 人間が伸びるのは自分を鍛える場があることです。
 自分の足で出かけ、自分の目で体験することが、力をつける最上の方法です。私は自らその場を求め修行してきました。努力は必ず報われます。
 モーツァルトは、最初は自分の音楽の様式はなかったらしい。
 モーツァルトは、いろいろな音楽の様式や他人の作品を吸収し、自分のものにしてのオリジナルな音楽を創った。
 だから、A先生からも学ぶし、B先生からも学ぶ。そしていつか、A式でもない、B式でもない、自分の型・自分方式を創りだせばよいのです。
 学んだらすぐにやってみるというのが大切です。
 教師は自分たちで学ぶ場を作り、学びあうことが一番の力になります。
 授業の厳しい自己反省から素晴らしい授業が生まれます。
 我流が全て悪いわけではありません。我流の中でも理にかなっていれば正しいわけです。
 ただ、これから力を付けていくには、優れた実践を追試し、その中から自分でたしかめ、自分の実践を作っていけばよいと思います。
 力が伸びるときに、伸ばすというのが大切です。
 観衆の気持ちを瞬時に読み取る。これは指揮者だけではなく、漫才、落語、演劇の方も語っています。
 客の雰囲気、空気を感じて内容を変えたりして、引き込み、盛り上げ、笑いを作っているそうです。
 一つの仮説を立て、地道に実践し、仮説を確かめていくところに教師の苦労と喜びがあります。
 批評を受けて、磨いていくというプロセスが大切です。
 根気よく指導をしていってください。必ずできるようになります。私も最初はそうでした。
 何度も何度も、繰り返し指導していく中で、指導のコツをおぼえていきます。
 多くの実践を自分の目で見て鍛える。見る目を鍛えることが授業の腕を上げていきます。
 目標を常に高くして、実践をしていってください。目標があると人間は伸びていきます。
「全員できるようにする指導技術を身につける」ことを目標に、私は実践して来ました。
 回数を重ねれば余裕を持ってできます。
 自分で課題を解決していくことは大切です。
 上手、下手は問題ではありません。自分の世界を少しでも他の人間に伝え、人間というのは素晴らしいことを伝えていってほしいのです。
 研究会の講師の先生方の力量を直接勉強できる機会、貴重な体験を持つようにします。
 質の高い場をたくさん踏むことによって、力量がついていきます。
 実践の中から発見した方法が一番強いです。そのあと理論付けをします。そこに初めて、創造が生まれる。
 一番しんどい道だけれども、異質なものから学んでいく。軋轢に悩みながら、自分の実践を創っていく。そこに初めて、創造が生まれる。
 のめり込むとき、他から受け入れられればよいが、受け入れられないと身体がもたない。
 だから、熱狂ではなくて、自分を第三者の目で見る目が欲しい。「もっと別な方法、考え方はないだろうか」というように。
 授業の腕を上げるには優れた授業を真似することです。
 授業者のリズム、テンポ、間を理解することができます。
 我流にならずに授業者の意図に沿った授業をすることによって、さらに授業の腕は高まります。
 最終的には、独自の授業作りをすることです。
 そのためにも本や動画を通して授業のコツを掴み、腕を磨いてほしいです。
 直接、人に会い、直接、人の話を聞くことが最大の学びです。そういう生きた体験が実践を作ります。
 毎日、毎週、毎月の積み重ねが自分を成長させます。自分をいかに管理できるかが勝負です。
 一流のスポーツ選手に共通しているのは、目標を高く掲げ、その実現に向かって主体的に取り組んでいることです。
 そして、並外れた努力をしています。頭で理解するのではなく、体が無意識に動くまで練習をしています。その結果、一流になるためのコツを体得しています。
 ノーベル賞を取った江崎玲於奈氏が言っていたが、創造的な仕事をしたいという願望があるのなら、偉大すぎる師にいつまでもつきすぎないということ。
 偉大な師について学ぶことは勿論大切なことだが、ずっとついているとその中に収まってしまい、新しいことができずに抜けられなくなるということがある。
 厳しい評定に接することによって力が付きます。
 逆境の中で本物の実践が生まれます。
 地道な努力が成功への道です。
(根本正雄:1949年、茨城県に生まれ、元千葉県公立小学校校長。「根本体育」を提唱し,全国各地で体育研究会・セミナーにて優れた体育指導法の普及に力を注いでいる)

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子どもの発言を教師が復唱する、意味づけ復唱法の授業は、子ども食いつき、知識が緻密になり残る

 意味付け復唱法とは、子どもに学習内容の意味付けをはかるために、教師または子どもが、お互いの発言を復唱することによって、授業内容の確認、焦点化、共有、記憶に役立てることである。
1 意味づけ復唱の方法は、
 (1)基本は、子どもの発言を教師が復唱すること。
  教師が子どもの発言を受容しながら復唱する。あるいは、教師が子どもの発言を別の子どもに復唱させる。
 (2)子どもの発言を他の子どもに復唱させる
  子どもが、別の子どもの発言を復唱しながら自分の意見をのべる。
 (3)復唱は、丸ごと復唱、短区切り復唱、キーワード復唱などがある。
2 意味づけ復唱法のよさ
(1)子どもの聴く力が伸び、コミュニケーションが円滑になる
(2)授業に緊迫感がでて、言葉を真剣に聞くようになる
(3)理解の確認ができる
(4)誤答もありのまま受け止め、誤答を気づかせる
(5)復唱だけで発言をつないでいけるようになる
3 意味づけ復唱法の例
(1)悪い意味づけ復唱法の例
 平行四辺形の授業で、
教師「この図形は何と言いますか」
子ども1「これは平行四辺形です」
教師「なるほど、いいこといったね。もう一度言って」と他の子どもにふる。
子ども2「これは平行四辺形です」
教師「なるほど、いいこといったね。もう一度言って」と他の子どもにふる。
子ども3「これは平行四辺形です」
 こんな授業を参観したことがあるが、は悪い例である。
 これは単なるリピート、つまり繰り返しているだけである。
 また「受容」している感覚が弱い。
 同じ言葉が続くだけだから、意味も広がっていないし、深まっていない。
(2)正しい復唱法の例
子ども1「これは平行四辺形です」
教師「なるほど、平行四辺形なんだ。いいことに気がついたね」(子どもの発言でキーワードを教師が復唱する)
教師「○○さんはいいことに気がついたんだよ。わかるかな」
 3秒、間をとりながら、子どもたちを見る。そこで、
教師「もう一度言って」(他の子どもにふる)
子ども2「これは平行四辺形です」
 ここから、意味を深めるための発問をする。
 平行四辺形という言葉が、子どもたちみんなの頭に残ったら、
教師「そうだよね。平行四辺形だよね。ところで、平行四辺形ってどこで気がついたの?」
子ども3「2組の辺が平行だからです」
子ども4「向かい合う2組の辺が平行だからです」
教師「この図ではどこかな」
子ども5「こことここ。もう一つは、こことここです」(辺を指しながら)
 子ども3~5のような展開があるのが正しい意味付け復唱法である。
 いずれにしても、教師に子どもの発言の真意を明確にしようという意志がないと、無理矢理の復唱法となる。
4 意味づけ復唱法のポイント
(1)意味づけ復唱法は,次の2つのステップを踏む
ステップ1:子どもの発言を復唱することによって「授業の舞台」にのせる。
ステップ2:舞台にのった発言に対して,教師や子どもが切り返すことによって,本人または他の子どもが元の発言に対して補完,焦点化,確認,共有して,元の発言の内容が他の事象と関係づけられていき,より広く,より深く意味づけられていく。
(2)ステップ1で発言を「授業の舞台」にのせるということは、教師のみならず子どもたち全員の議論の対象,追究の対象とするということである。
 それは発言した本人にとっては,高い視点から認知することを促します。
 また,復唱した教師も実はその発言の意味を再度考えることになります。
 このとき,教師,子どもたちがその発言の意味を考え始めるのである。
 それはどういう意味か。これと関係あるのかな。別の例で言えばどうなるのかな。この場合はだめだよ、などと子どもの思考を促すのである。
 これは,優れた授業ではごく普通に行われていることなのだ。
(3)教師による一方的な説明による授業では、復唱そのものがない。
(4)また,教師が子どもの発言を都合のよい解釈をする授業は,子どもの発言を取り入れているようだけれど,教師の解釈の押しつけにすぎない。
(5)教師は解釈もするが,子どもたちの解釈によって意味を広げ,深めようとするのである。
(6)教師による復唱というのはある意味では,子どもたちの前に発言をのせ、しかも解釈しないでのせてみるのである。
(7)本当は教師の頭の中では解釈しているのだが,これを解釈するのは君達なんだよと示すことである。そのとき,子どもたちが食らいついていくのである。
(8)これらの作用によって,子どもたちの頭の中の知識構造がより緻密になっていく。
(9)そして,結果として記憶に残ることになるのである。単語の繰り返しで暗記するのとは異なる方法なのだ。
(志水 廣:1952神戸市生まれ、神戸市公立小学校、筑波大学附属小学校教師を経て愛知教育大学名誉教授。専門は数学教育学) 

 

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子どもに好かれている教師は必ず「ありがとう」と言い、子どもに自信を持たせるには「ほめる」こと

 よく見ていると、子どもに好かれている教師は、かならず「ありがとう」って言っています。
 たとえば、集会で話した時に、子どもが非常によく話を聞いてくれたとすると「きょうは、先生の話をよく聞いてくれてありがとう」と言って終わる。こういう先生いますね。
 授業もそうです。授業が終わったとき「きょうは、みんな一生懸命やってくれたね。先生はとっても嬉しかった。ありがとう」と言う先生。けど、そんな教師はまれでしょう。
 そういうまれな教師にあやかって、たまには「ありがとう」って言ってみたらどうでしょう。
「おしゃべりやめて、こっち向いてください」と言って、子どもたちは静かになった。「静かにしてくれて、ありがとう」と言ってみたらどうですか。
 子どもに対して「静かにしてくれて、ありがとう」と言うことは、子どもに「自分は、他人から感謝される存在なんだ」ということを教えることができます。
 そのことを通して、自分は社会の中で生きている一つの存在なんだということを自覚させ、自尊感情をも育てることができると思います。
 だから、教師の要求したことを、子どもがやってくれたら「ありがとう」と言ったらいいと思います。
 教師の指導がじょうずに展開したのは、自分の力がすぐれていたからではない。子どもたちが協力してくれたからだ。ありがたいことだ。こう思える教師になるということでもあります。
 だが「子どもは教師の言うことを聞くのは当たり前だ」と、思い上がっている教師には言えない言葉でしょう。
 今の子どもたちは、自分に自信をもっていない子どもが多い。
 子どもに自信を持たせるには「ほめる」ことです。
 しかし、なにをどうほめるか、なかなかむずかしいことです。
 ほめるというと、気のきいた感動的な言葉を用いなくてはならないと思いがちですが、そんなことはありません。
 すぐに「ほめる」ことできるのは、事実を認めてやることです。
 悪いことをしなかった、めいわくをかけなかった、これすべて「よいこと」なので「ほめる」ことなのです。
 それでもほめることがないというなら、ほめることをさせてほめることです。
 話術は話す術と聞く術からなります。教師は子どもの話を聞くのがへたなようです。
 上手に聞くには「子どもの感情を聞く」「くり返しの技法」を用いることです。
 例えば、子どもが転んで「痛い」と泣きべそをかいているとき「痛いのか。どこ、ぶつけた。・・・・・・」と、最初に「痛い」という感情をやさしく受けとめる。
「痛い」を繰り返して「の」をつけて送り返すのです。つまり「痛いの」です。
 こう繰り返すと「先生はきみの痛さを受けとめているんだよ」ということを子どもに伝えることができます。共感的な話法です。
 遊び心があると、教師の語法にゆとりが生まれます。指人形のようなものを用いて話をすると子どもたちの反応はよい。
(家本芳郎:1930-2006年、東京都生まれ。神奈川の小・中学校で約30年、教師生活を送る。退職後、研究、評論、著述、講演活動に入る。長年、全国生活指導研究協議会、日本生活指導研究所の活動に参加。全国教育文化研究所、日本群読教育の会を主宰した)

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子どもが興味を持つ教材をさぐる方法と、実際どのような教材で子どもが興味を示したか

 子どもたちは、一人ひとり、その子なりの興味(教材)をもっている。しかし、普通の状態では外から見えない。
 それが、何か物を見せたりすると、子どもがどんな興味(教材)をもっているか見えてくる。
 そのために、調査という名で、予備の教材を子どもにぶつけてみて、その反応をさぐる方法がある。
 子どもが動き出すか動かないか、動く場合、どんな動き方をするか、などをさぐって、子どもの中にどんな興味(教材)があるか推測するのである。
 また、ふだんの生活、特に遊びなどを注意して見たり、他の教科の授業をしているとき、子どもの興味・関心・欲求などが、どのへんにあるかさぐるのである。
 この意味で、授業は次の授業のための調査の時間、実態さぐりの時間でもある。
 どんな教材(ネタ)で子どもは実際に動くのでしょうか。
 授業で生きる教材(ネタ)開発の視点は、
(1)固定観念をひっくり返す
(2)思考のあいまいさをつく
(3)子どもの意表をつく
(4)教材と新鮮な出会いをさせる
(5)事実を確かに見させる
 などである。
 これによって、子どもに「驚き・困惑・葛藤・感動」を引きおこさせ、切実な問題をもたせるようにするのである。
 子どもを動かすことができたネタを分類すると、次のようになる。
(1)「実物」を教材(ネタ)にして導入
 特に社会科に弱い子ども、嫌いな子どもを引きつけ、積極的に学習させるのに効果がある。
(例) 長さ3mのさとうきび17本を教室に持ち込む。「どうして、みんな同じところで曲がっているの?」から沖縄地方の人々のくらしを追究する問題が出てくる。
(例)「これは、日本の重要な産業をあらわしています」といって、「五円玉」を配る。子どもは「まさか」と五円玉を必死でみる。
 五円玉は農業、工業、水産業をあらわしていることがわかり、社会科の学習の導入ができる。
(2)「意表をつく発問」を教材(ネタ)にして導入
 教材研究は、発問の「キーワードさがし」ともいえる。高学年になるほど効果的で、おもしろい問題を引き出すことができる。
(例)「小学生のみなさんは、税金をはらっているでしょうか?」「この学校には、便器の数は何個あるでしょうか」等、子どもの意表をつく発問で切り込むことがある。
(3)「絵・図・統計資料」を教材(ネタ)にしての導入
 子どもに絵などを見せて問いかける。ときには実物以上の効果をあげることができる。
(例)長篠の戦の絵、源氏物語の絵巻、統計「富士山が見える日」
(4)「構成活動やごっこ活動」を教材(ネタ)にしての導入
 低学年の「店づくり」「パンづくり」「バスごっこ」などの単元では、構成活動やごっこ活動を通して問いを深め、エネルギッシュな追究活動ができる。
(5)「体験活動」を教材(ネタ)にして問題を発見させる
 この方法は、時間はかかるが、学習問題も、追究も、子ども自身のものになり、学習意欲も高めることができる。
(例)「みかんづくり」の見学や「パンづくり」で本当にパンづくりを体験させるなかで問題を発見できる。
(6)「物語・民話・童謡・民謡」を教材(ネタ)にしての導入
「一寸法師」で戦国時代の様子や、「づいずいずっころばし」の歌で、江戸時代の身分制度や世の中のしくみを追究させたり、「お江戸日本橋」の歌で、江戸時代の旅の様子をクローズアップしたりした。
(7)「子どものアイディア」を教材(ネタ)にしての導入
 たとえば、伝統工芸の学習中、子どもが人間国宝にインタビューしてきて、それを発表しながら授業を進めたことがある。
(有田和正:1935-2014年、筑波大学付属小学校,愛知教育大学教授、東北福祉大学教授、同特任教授を歴任した。教材づくりを中心とした授業づくりを研究し、数百の教材を開発、授業の名人といわれた)

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一斉授業から「学び合う学び」の授業に変えるには、どのような段階があるのでしょうか

「聴き合う関わり」から「学び合う関わり」へ、そして「協同の学び」への筋道を獲得することによって教師は「一斉授業」の呪縛から自らを解放し「協同的な学び」を創造することができる。
 大切なのは教師の「聴く心」である。一斉授業からグループの協同的な学びへの変換を行い、教師は「教える人」というよりも学びの「デザイナー」になるべきである。
 学び合う学びへの段階は、次のような4段階が考えられる。
1 第一段階:「聴く意欲を作る」、「安心して話せる雰囲気作り」
1) 聴く意欲を作る
「教師が魅力的な語りをすること」で、子どもが聴くことは楽しいと実感する。
「教師が、まず聴き方の見本を示す」ことで、子どもの聴く態度を育てる。
 子どもの聴く態度のよいところを褒める。
 子どもが話を聴くことによって,自分がのびることを実感するようになる。
2) 安心して話せる雰囲気作り
 話せる子と話せない子を把握する。
 答えやすい発問にする。例えば、目の前の子どもにあった発問、育ちに合わせた発問にし、答えやすい発問にすることで,子どもたちに話す気持ちがわいてくる。
2 第二段階:「聴き方を磨く」、「話す意欲と話し方を高める」
1) 聴き方を磨く
(1) 何かを発見する聴き方をする
 例えば、自分の考えと似ている「共感する」、自分の考えと違う「比較する」
(2) 顔が見える机の並び方をする
 例えば、机を「コの字型」にする。
 なぜコの字型にするのか,子どもたちと話し合って考える。
 前向き,班の形など状況によって机の配置を使い分ける。
(3) 反応をしながら聴く
 まずは,教師がうなずくなどの見本を見せる。
 反応しながら聴いている子を褒める。
2) 話す意欲と話し方を高める
1) どの子も話す
 思ったことや感想の発表など,どの子も話せる内容で話をする。
2) 不必要な学習話型は使わない
「いいですか」「どうですか」など,最初は使ってもだんだんと減らしていく。
3) 自分の言葉で相手に分かる話し方をする
 一言発言や,オウム返しから,自分の言葉で語れるようにする。
3 第3段階:「子どもの考えから出発する授業」
1) 聴き手に向かって話をする話し方に
 誰に向かって語るのかを考える。
 教師の机を子ども用の机にして,子どもと一緒の目線に降りる。
2) 個人学習の取り組みをする
 自分の力で読めるように,学び方を教える。
 自分の読みを,ノートに書けるようにする。
 書いたことの発表会にならないようにする。
3) 連続発言
 子ども同士で発言をつなぐ意識を持つ。
 前の人の話につなげて発言する意識を持つ。
 教師が話すのではなく,子どもが話すことを重視する。
 子どもが話せることを,教師も,子どもも実感する。
4 第4段階:「話題からそれない話し合い」
 かかわり合って発言できる。
1) 仲間発言
 共感する。
2) 対立発言
 比較する。小さな違いから学ぶ。
3) 応援発言
 付け足し。手助け。
 授業づくりは、「仮説検証型」ではない。「反省的実践」を繰り返しながら、その豊かさを実現していきたい。
 協同的な学び(グループでの学び合う学び)を可能にする条件は、
1 何を追求するかという「課題」が明確になっていること。
2 グループでの学び合いに至る経過に必然性があること
3 子どもの考えから出発すること
4 子どもの考えや発見、つまずき等を敏感に把握すること
5 子どもの状況をとらえた上での「学びのデザイン」をすること
6 小グループによる学び合いの経験が十分にあること
7 グループ全員の考えの交流がなくてはならないという認識ができていること
8 わかることと同じくらいに、わからないことを大切にする認識があること
9 一つの結論を出すのではなく、互いの考えを豊かにするという認識があること
10 グループで考えたことが必ず生かされること
11 グループの学び合いから生まれたものを契機に学びを発展させることができること
12 「グループ」→「全体」→「グループ」→「全体」と、行きつ戻りつするケースもあること
(石井/順治:1943年生まれ、三重県内の小学校で主に国語教育の実践に取り組むとともに、氷上正氏(元・神戸市立御影小学校校長)に師事し「国語教育を学ぶ会」の事務局長、会長を歴任。四日市市市内の小中学校の校長を努め、2003年に退職。退職後は佐藤学氏と連絡をとりながら、各地の学校を訪問し授業の共同研究を行うとともに、「東海国語教育を学ぶ会」の顧問を務め、「授業づくり・学校づくりセミナー」の開催に尽力)

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授業力アップの秘訣とは

 学力低下などの問題がおこっているのは、教師が「これだけは何としても教えたい」という強い願いをもって、子どもを指導していないことからおこっているといってもよい。
「これだけは何としても教えたい」という教師の「ねらい」を、子どもたちが学びたいと思って、学ばなければ授業とはいえない。
 教師が教えたいという「ねらい」を鮮明にもつことだ。しかし、教えてはならない。
 子どもが「学びたい、調べたい、追究したい」という気持ちに転化させることが授業だ。
 授業力アップの秘訣の根本は、なんと言っても教師の人間性。技術と人間性のバランスがとれていなけりゃ、いい授業はできない。
 授業力をあげるための心得は、
1 あのような授業をしたいという強いイメージを持つ。
2 遠い目標と、近い目標をきちとんと持つ。
3 教材研究をしっかりやる。教材を自分のものにする。
「これだけは何としても教えたい」という内容を鮮明につかむには、教材研究をしっかりする必要がある。
 教科書を使うことが多いが、教科書に書いてあることを「どのように」教えるのかが問題である。
 教科書を教えるには、20~30回くらい読むことだ。そうすれば教えなくてはならないポイントやキーワード、内容の中心などがみえてくる。
 いきなり「指導書」を読むのはよくない。自分なりの「考え」をもってから読むようにすると、考えの幅も広がり、深さも深くなる。
 何と言っても、面白くて深い内容のある教材が必要であり、これを見つけることが教師の大切な仕事でしょう。
 教科書を教えても、教師が自分の内容にしておれば、面白くでき、子どもを惹きつけることができます。
 教えたいことが鮮明になってくると、これをより効果的に教えたいと考えるようになる。その時、最も効果的なものが「現物」である。
 現物がないときは、レプリカや写真などでもよい。教科書だけよりはるかに大きな効果がある。
4 ヒットでよい。ホームランをねらわない。
5 毎日1時間だけでよいので、授業を考える工夫する。
 ノートの左に工夫をかく。右側にその結果をかく。毎日、向上の記録を残す。
6 いい授業をしたら学級はよくなるはず。学級づくりをきちんとする。
 授業力アップために大切な5つの技術とは
1 教材・発問・指示
(1)教材
 提示される教材は、はっと思う内容である上に、しかも身近にその事実があるもの。
 教材は「おもしろいこと」「基礎基本的なことが含まれていること」「学習方法がよくわかること」
(2)発問・指示とは
 発問というのは「これだけは何としても教えたい」という「ねらい」にそって考え、「問い」という形でさり気なく子どもに知らせ、子どもから多様な反応を引き出す触媒のようなはたらきをするものをいう。
 授業は、多くの子どもを対象とするので、発問で多様な反応を引き出し、それを「集約・焦点化」するのが教師の授業技術である。
 指示は、命令に近いもので、1つのことを「このようにしなさい」と、指し示すことである。
 たとえば「ノートに書きなさい」「3回音読しなさい」などと、明確な活動のしかたを示すことである。
 指示の多い授業は、民主的な授業とはいえない。
 発問も指示も、ブレないことが大事である。何回いっても同じでなければいけない。
(3)教材研究から発問・指示を
 いい発問・指示は、教材研究をしているときに考えつくものである。というより、「発問・指示」を思いつくまで教材研究をすることである。
「教材研究をする」ということは、「発問・指示」をさがし求めるといってもよいのである。
 授業のうまい人は、発問・指示がうまいので、記録をとってみたりしながらよく見ることである。例えば、
 A「バスの運転手は、どんな仕事をしているでしょう?」
 B「バスの運転手は、どこを見て運転しているでしょう?」
 AとBの発問は、どちらがよいでしょうか。
 Aは、優秀児しか答えられない。大人でも答えに困る。
 Bは、全員挙手できる。つまり全員反応できる。前も、後ろも、横も、バスの中も、見ていることに発展するから Bのような発問を考えることである。
2 板書
 板書をきちんとし、子どもにノートをきちんと書かせて欲しい。 
 子どもの反応を集約・焦点化する。チョークの使い方にも基礎・基本あり。
3 資料作成の工夫
 作り方、見せ方の工夫を。手がかりをつけさせる。
4 話し合い
 明確な話題。共通基盤を持つ。
5 話術・表情
 内容のある話術・表情・パフォーマンスが大切です。内容のないパフォーマンスだけでは、子どもを惹きつけることは出来ません。
 教師がゆとりを持ち、もっと楽しく、笑いのある授業を。
(有田和正:1935-2014年、筑波大学付属小学校,愛知教育大学教授、東北福祉大学教授、同特任教授を歴任した。教材づくりを中心とした授業づくりを研究し、数百の教材を開発、授業の名人といわれた)


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教師に不足する授業力と、子どもたちが意欲的に授業に参加する方法とは

 今泉先生の授業法には、いま、多くの教師に不足している二つの力をとらえ直すヒントを発見することができます。
1 教材を深く解釈する力
 一つは、教師自身の「教材を深く解釈する力」です。
 もちろん、教えるにあたっては指導書もあれば過去の先輩の蓄積もありますから、それに従えば授業を進めていくことはできるでしょう。
 けれども、生きる力に結びついていくような深い学びを導くためには、単元の系統的なつながりや本質を押さえたカリキュラムをつくる力が必要です。今泉先生は、その点を常に意識されている。
 この単元で「譲れないものはなんなのか」と、その「中核」を見極め、不要な部分を削っていくから、最も「本質的な部分にスパッと切り込む授業」が可能になっているわけですね。
 中核がきっちり押さえられれば、「素材も広く日常のなかに求めていく」ことができるし脱線してもポイントがぶれない。
「具体的な一つの点から、問いを立てて世界を見る」という授業展開に、なぜ子どもたちが面白く参加できるか。
 それが、教科書による理科・社会科の枠を超え「本物につながっていく」という実感があるからでしょう。
 その意味では、どんな手順で何回発問して…というような指導案にこだわる必要はないのです。
 自在に授業を組み立てる今泉流は高度な技ですが、そこから学ぶべきことは、「子どもが出してくる問いに徹底的につきあいながら教材を深めていく」姿勢です。
 素材は、教科書であってもいい。
 最初は年に一つでもいい。
 自分ではうまくいかなくても面白いと思う教材を同僚と共有しながら、その可能性に一緒に取り組んでいくのもよいと思います。
 同僚間の見せ合い、語り合いのなかで、授業での工夫が具体的に見えてくるでしょう。
2 子どもの発言を解釈する力
 もう一つは「子どもの声を聴く力」です。子どもの発言を解釈する力と言い換えてもいいですね。
 この力があれば、「子どもの言葉から背後にある考えを読み取って、教材に結びつけていける」のですが、この力が不足していると、教師が関係ないと聞き逃してしまう。
 子どもの声を聴く力がないと、授業場面でも、一問一答で少しでも指導案と違うところがあると切っていきます。
 本当は、指導案以上に「大切な思考や発言」が子どもの側から起きている。
 今泉先生はそこを見逃さないから、子どもが集中を切らさず参加できるのでしょう。
 子どもの声をよく聴ける先生というのは、子どもの言葉を安易に置き換えません。
 子どもが教師の問いを受けて、子ども自身の言葉で置き換えをしていく。
 今泉先生が実践されているグループ討議も、それが可能なやり方です。
 子どもが発言しやすくなるし、思いもかけない多様な意見が出てきます。
「問いを全員で共有」しながら、一緒に授業を練り上げていくことができるのです。
 声を聴くというのは、簡単な実践から始めることができます。
 私はよく「声のトーンを下げましょう」と言います。
 教師が一方的にコントロールし、しかも大きな声でしゃべるだけだったら、子どものつぶやきは出なくなるし、聴き取ることもできません。
 また、子どもが発言しやすい環境づくりも必要です。
 板書ばかりしていないで、例えば子どもと向き合えるよう、机の配置を変えてみる。
 そうしていくうちに、子どもがハイハイと手を挙げなくても自然につぶやいたり、発言をしたりできる関係ができていくのだと思います。
 子どもの学びが難しくなっているのが現代です。であればこそ、今泉先生が言われるように「子どもから学んで、一緒に追究していく」授業こそが大切なのだと思います。
3 子どもたちは、本来深く学びたいという願いをもっている
 一見、学びから逃避し、学ぶ意欲など微塵も感じられなかったような子どもたちでも、深く学びたいという要求をもっています。一定の取り組みをするなかで、状況は変わっていきます。たとえば、
「教材との出会わせ方を少し工夫する」ことで、反応がちがっていきます。
「自然や社会や人間をリアルにとらえられるような教材」のときには、むしろ意欲的に参加するのです。
 子どもたちとともに、授業を創造していく可能性があるように思います。たとえば、
(1)「子どもたちが、想像・推理しながら課題に迫る」ような授業
(2)「自分たちで知恵を出し合い、対話や討論しながら、物事の本質を解き明かし発見していく」ような授業
 体験から、私は「教えたいことは教えない」のが授業の本質ではないかと思います。
 子どもたちが創造や推理・対話や討論を積み重ね、体験や知恵を総動員しながら、課題や本質にたどり着くようにすることが授業であるととらえるようになりました。
 子どもたちが意欲的に参加する授業をするには「説得・誘導の授業」から「納得の授業」に転換すると、子どもたちの学習への集中や意欲が、まるで違ってしまう。
 教える意識が強すぎると、子どもたちの発言や発想に共感する上ではマイナスに作用する。
 発想や視点のちょっとのちがいで、授業が違ってくる。
(今泉 博:1949年北海道生まれ、東京都公立小学校教師、北海道教育大副学長(釧路校担当)を経て松本大学教授。「学びをつくる会」などの活動を通して創造的な授業の研究・実践を広く行う) 

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教師は子どもに「ベストな姿」のイメージ持たせ、気づかせることが非常に大事

 人間は、自分のベストの姿をイメージして、そこに向けてどのようにマネージしていくか、という能力が必要である。
 学習能力のない人は、絶対に一流にはなれない。同じ失敗を平気で繰り返すからね。ミスを知らない名選手はいないし、負けた悔しさを知らない勝利者はいない。
 でも、努力をしない天才もいないんだ。努力なしに素晴らしい勝利や感動は絶対に得られない。
 だから、そういうことに気づかせてやれるかどうかが指導者は非常に大事なんだ。
 言葉で言って、それがそのままその人の力になるんなら苦労しないよ。
 そこで大切なのがイメージなんだ。
「どうしてやったら、その本人にとってベストなのか、同時に周りの人間にも喜んでもらえる存在になれるのか」
 という青写真を指導者がきちっと自分のなかに焼き付けないと、現実からかけはなれた指導をしてしまうことになる。
 本当に「この子にこうなってほしい」というイメージがあれば、おのずとわかるはずなんだ。わからないというのは、愛情が足りないんだよ。
 何でもやってやるのが愛情なのではない。子どもを信じて、任せる。
 自分で気づくことができるまで、追い込んでやる。
 そういう気持ちが、本当の愛だと思うよ。
 やっぱり、「どんな自分がすてきなのか」ということは、子どもたちみんなは、わかっているんだよ。
 そういう「すてきな自分」に出会えるように誘ってやるのが、その子に関わる人間の責任であり、使命だろう。
 教育において強制される時期があって当然だし、それなくしてははじめから終わりまで自由にさせて、本当に社会に必要な人間になれるのかなっていう気はするね。
 何をしていいか、わからない子にはきちんと目的を与えてやらせる。目的がはっきりしていれば、「これさえやれば、こうなるんだ」とう意識につながっていくんだ。
 逆に、自分の目的に向かって自主的に取り組んでいけるような子は、そのまま見守ってやればいい。そういう子は、何かのときにちょっと手をさしのべてやるだけでグーンと伸びるからね、後からポンと押してやるだけで。
 その意味でも、イメージを与えてやることが大切なんだ。
「おまえ、こうなったらいいな」とか「がんばったら絶対日本代表になれるぞ」というように、夢を語ってやったり、目標を語ってやる。
 そういうイメージをその子のなかにぼやっとわかせてやるわけ。それも、個々に全然違うイメージをね。
 そう言いつづけていくと、本人もだんだんそう思っていくんだよ。
 そのなかで、徐々にイメージが鮮明になっていく。
 そうなれば、どんどん自分からそのイメージに近づこうとするようになるんだ。
 そのためには何が必要か自分で考えるようになるんだよ。
「やらされてる」のか、それとも「自分でやっている」のか、子どもにどう思わせるのかというのは非常に大事なことなんだ。
 教育に限らず、どんなことでもそうだけど、やっぱり「こういう人になってほしい」とか「こういうチームをつくりたい」というイメージやビジョンを描けない指導者やリーダーは、人を育てることができないんじゃないかなと思うけどね。
 そこでもうひとつ大切なのが、それぞれの段階、段階で「よし、いいぞ」って、きちんとほめてやること。評価してやることだ。そういう達成感の喜びがなかったら絶対ダメだね。
 もちろん、怒ったあとには、ちゃんとアフターケアーをしてやることは言うまでもない。
(山口良治:1943年福井県生まれ、ラグビー指導者で元日本代表。高校教師として京都の無名の公立高校をラグビーで全国制覇させた。ラグビー部生徒への体当たりの指導が多くの反響を呼び、TVドラマ『スクール☆ウォーズ』の主人公のモデルとなった)

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新学期が始まったとき、学級担任や子どもが期待することは何か

1 学級担任が始業式の日に話すこと
 私の勤務している地域では、4月5日が始業式です。新しい出会いがあります。私達教師も新鮮な気持ちになります。
 子どもたちも、「新しい友達は?」「今度の担任の先生は?」と、ワクワクした気持ちで学校にやって来ます。
 そんな出会いの日に、私はいろいろな話をするのですが、
「先生は、みんなと楽しく生活したいと思っています。でも、こんなときは厳しく叱るよ」
 と、言って、次のような話をします。
「先生がみんなを叱る時は、3つあるよ」
「一つ目は、『いじめ』をした時」
「二つ目は、命にかかわるような危険なことをした時」
「そして、三つ目はね、同じことを3回注意しても、それを改めようという姿がみられなかった時」
 この3つの中で、3つ目を少し詳しく子どもたちに説明します。
「先生は、できないということを叱るんじゃない」
「やろうと思えばできるのに、できるようになろうと努力しないそんな態度を叱るんだよ」
 と、説明するのです。
 1年間の始まりの日。わんぱくな子どもたちも神妙な顔つきで聞いてくれます。
「できなくても頑張ることが大切なんだ」と、思ってくれます。かわいいですね。
 その後、一人ひとりと握手をして、さよならをします。
 小さな手を握りしめながら、
「一年間、楽しい学校生活にしようね」
 と言って教室から見送ります。
2 子どもが考えるよい先生とは
「もしも、あなたが先生になったら、どんな先生になりたいですか」と、いうアンケートの結果があります。各学年の上位3つをみてみると、
(1)小学2年生
「悪いことをきちっと注意し」「わかりやすく教え」「宿題をよく出す」先生。
(2)小学4年生
「おもしろくて」「わかりやすく教え」「悪いことはきちっと注意する」先生。
(3)小学6年生
「おもしろく教え」「だれにでも公平で」「わかりやすく教える」先生。
 これを読んで、どんな感想をもちましたか。
 発達段階から、このデータを見ると、学年が上がるほど高くなっているのは、
 1 「おもしろく教えること」(21%~46%)
 2 「一人ひとりのよさを認めること」(8%~34%)
 3 「子どもの言い分をよく聞いてくれる先生」(7%~23%)
 などです。
「子どもの一人ひとりのよさを認め」
「子どもの言い分をよく聞いて」
「子どもがおもしろい」
 というような授業や、学級経営が大切なんですね。
 子どものほうが、大人が書いた教師論よりも、はるかに的確に学年の発達に応じたタイプを射当てているようです。反省させられます。
 時には、子どもに聞いてみることも大切ですね。
3 子どもの言葉づかい
 新しいクラスを担任したり、新学期が始まったりした時に、子どもたちに次のようなアンケートをとり、教室内に結果を掲示します。
 内容は「学級にあふれさせたい言葉」「学級からなくしたい言葉」というものです。ある年のアンケート結果では、
(1) あふれさせたい言葉
1位「ありがとう」
2位「おはよう」
3位「一緒に○○しよう」
4位「○○くん、○○さん」
5位「はい」
(2) なくしたい言葉
1位「ばか」
2位「死ね」
3位「何しよるんか」
4位「あんたには関係ない」
5位「どっかいけ」
 毎日、一緒にいる教室。あたたかい絆で結びつく、そんな学級集団をつくりたいと思っています。
 掲示するとき「あふれさせたい言葉」はあたたかい色(ピンク)の紙に、「なくしたい言葉」は冷たい色(ブルー)の紙に書いています。
 学級の子どもたち、一人ひとりを育てていくときに「言葉」のちょっとした指導はとても大切だと思います。
4 家の人にしてほしいこと
 新学期が始まって2週間。学習のほうも本格的にスタートしています。
 多くの子どもたちは、新しい学年、学級、担任の先生のも慣れてきて、元気いっぱいに過ごしています。
 そんな子どもたちは、学習についてどんなことを思っているのでしょうか。
 つぎのようなアンケート結果があります。
「Aくんは、計算が苦手なので、毎日毎日、がんばっています。もし、あなたがAくんなら、このような時、家の人にしてほしいことは何ですか?」と、小学生に聞いたものです。結果は、
1位「困った時は相談にのって欲しい」(45%)
2位「がんばっていることを知って欲しい」(24%)
3位「黙って見ていて欲しい」(12%)
4位「励ましたり、ほめたりして欲しい」(11%)
5位「何もして欲しくない」(9%)
 です。
「困った時は相談にのって欲しい」は、学年が上がるにつれて下がっていきますが、
「がんばっていることを知って欲しい」は逆にどんどん上がっていきます。
 特に、女子が高いです。認めて欲しいのでしょうね。
「興味や関心」を起こさせて「がんばっていることを認めて」あげると「勉強が得意になる」と、子どもたちは言っているのですね。
(菊池省三:1959年生まれ 福岡県北九州市公立小学校教師、2015年に退職。コミュニケーション教育を長年実践した。「プロフェッショナル-仕事の流儀(NHK)」などに出演、「 菊池道場」(主宰)を中心に全国で講演活動をしている。 北九州市すぐれた教育実践教員表彰、福岡県市民教育賞受賞)

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子どもたちに毎日「家庭連絡」「見たこと」「はてな?と思ったこと」をノートに書かせる

1 おたよりノート(家庭連絡ノート)
 私は、学級通信は、よほどのことがない限り、出さない。そのかわり「おたよりノート」を全員にもたせ、毎日、連絡すべきことをくわしく書かせる。
 黒板に少しずつ書いては「おたよりノート」に写させる。
 学級通信にのせて知らせたいことを、全部子どもに書かせる。これは書く学習である。
 書いたものを読ませる。音読の練習である。
 保護者も、子どもの「おたよりノート」を毎日見る。学校の様子を知り、あす準備するものを知る。
 つまり「おたよりノート」を通して、子どもと親がコミュニケーションできる。
 子どもも、わたしが検印をおし、親が見るので、読めるように書こうと努力する。詳しく書いて親に知らせようと工夫する。
「おたよりノート」を書くことを通して、大切な指導ができるのである。
 それを学級通信として印刷したものを渡したのでは教育の機会をなくすことになる。あまりにももったいないのではないか、というのが、わたしの考えである。
2 「見たこと」帳
 小学校1年生には「研究文」は無理である。自分の目で、耳で確かめたことを書かせたい。
 テレビでの聞きかじりを書かせたのでは弱い。何としても自分で苦労して入手したことや、自分で追究したことを文章にさせてみたい。
 こうして、考えた末に「見たこと」を書きなさい、が誕生した。1年生の子どもに、
「自分で見たことなら何でもよいから書きなさい」
「一行でもいいよ。そのかわり、自分の目で見ていないものはダメだよ」
 と話し、できるだけ毎日書くようにはげました。
 1年生から始めると「書くものだ」という意識がはたらくのか、毎日書く。こちらが驚くほど書いて書きまくる。
 はじめは「見たこと」を、事実だけを書いていた。
 書き慣れてきたころから、それについて「思ったこと」を付け加えるように指導した。「○○を見て、××と思った」というように。
 さらに「予想」を入れることや「調べたこと」を書いていくように、段階に応じて指導していった。
「見たこと」帳を通して、追究する子どもが育った。
3 はてな帳
 一年生に入学したばかりの子どもたちは、無意識のうちに、いろんなものに「はてな?」と思っている。
 これをほうっておくと、意識的に「はてな?」と思うことは極めて少なくなる。
 そこで、できるだけ早い時期に「はてな?」精神を引き出し、問題を発見する技能を育てていくことが大切になる。
 入学して早い時期、わたしの場合は入学式の翌日、
「この教室で『はてな?』と思ったり、おたずねしてみたいと思うことはありませんか」
 と、問いかけ、列ごとに全員、言わせるようにしている。
 どんなことを言ってもよい雰囲気をつくりながら言わせる。
 毎日、口頭で「はてな?」を言わせる。言いぱっなし、聞きぱっなしである。
 だからこそ、子どもたちは自由に言うのである。毎日言わせているうちに、
「先生『はてな?』を書いてきていいですか?」と言うようになる。
 私が「どうして?」と問うと、
「毎日『はてな?』を言わせるでしょ。だから、家でみつけて書いてくれば、いちいちみつけなくていいから、めんどうくさくないよ」
「おたよりノート」を書いているので「はてな?」を家で書いてよいかと言うのである。
 私は、こう言い出すのを、今やおそしと待っていたのである。このために「はてな?」帳を40人分つくって待っていたのである。
 しかし、そんなことはおくびにも出さないで、「まだ、君たちには無理だよ。自分では書けないよ」
「書けるよー。書ける。」と、合唱のように言う。「そんなに言うなら、書かせてやるか!」と言うと、大歓声である。こういう演出をするのである。
 子どもたちが書きたいと言い出すのは、たいてい四月末である。
「さあ、がんばって、毎日『はてな?』と思ったことを、一行でよいから書くのだよ」
「朝、学校にきたら、書いたところ開いて、先生の机の上に置きなさい。いいものにはマルもあげるよ」
 こうして「はてな?」を書くことにより、記録も残り、成長の様子もこれでよくわかるようになる。ちょうど5月に入るころであった。
 6月ごろになると「こう思っていたら、実際はこうだった」という、「予想や答え」を入れるように指導する。
 そうすると、文がふくらみ、内容が豊かになって、おもしろくなる。
 成長にあわせ「おもしろい、はてな?」を見つけなさいと働きかける。「ものごとをおもしろく見る」というユーモアのセンスをみがくことになる。
「はてな?」を書くことで、何を見ても問題を発見できるようになり、おもしろく見ることができるようになるのです。
 教育というのは、子どもの見る目を広げたり、深くしたりすることでしょう。そのようなことを、保護者にも理解を求めていく。
(有田和正:1935-2014年、筑波大学付属小学校,愛知教育大学教授、東北福祉大学教授、同特任教授を歴任した。教材づくりを中心とした授業づくりを研究し、数百の教材を開発、授業の名人といわれた)

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新任教師が教室での戸惑いやショックを乗り越えるには、どのようにすればよいか

 新任教師は、これまで学び手として経験している教室の風景と、教える側として経験する教室の風景は全く違っていることに戸惑います。
 子どもたちのさまざまな学びの要求が渦巻く教室で、すべての学び手に配慮し、各々の学びを高めていくということは、決してたやすいことではありません。
 さらに、新任教師がこれまで育ってきた文化と、子どもたちが今生きている文化の間には、世代的にも、ギャップがあります。
 それをすり合わせながら、学びの空間をつくっていくことが教師には求められます。
 教師は異文化の子どもたちからショックを受け、教師は自らの世界を広げることが必要なのです。
 このことは、ひとつの危機であるとともに、教師になるための必要な最初のイニシエーション(通過儀礼)であるともいえます。
 このショックを乗り越える方法は、2通りあるように思われます。
 1つの道は、新任特有の親しみやすさを大切にして、たとえ拙くても、目の前の子どもたちと格闘しながら、ともに歩む道です。
 そして、先達の教師たちの励ましの中で、これまでの子どもについての見方、教師の役割についてのとらえ方を見直しながら、自らを育てていくあり方です。
 そして、もう1つの道は、子どもたちにナメられないよう、主観的に教師らしくふるまい、自分の、子どもについての見方、教師の役割のとらえ方に固執するあり方です。
 このように、子どもたちや年輩の教師たちから学ぶ回路を閉ざしてしまうと、成長の機会を自ら失うことにもなりかねません。
 つまり、主観的に教師らしくふるまうことが、子どもたちからの信頼を得られる「本当の教師らしさ」を育てることを妨げるというパラドックスが生まれるのです。
 教師が自分の授業を確立し、常識より一段深い子どもの見方を身につけるには、多くの場合、15年から20年の歳月が必要です。
 その間、量的な積み重ねだけでなく、質的なものの見方が変わることもまた求められます。
 自分の授業を確立して、教育実践記録を綴っている教師たちの多くは、新任期から数多くの試行錯誤と格闘の経験をもっています。
 新任期は、ショックという危機への対応をめぐって教職生活のひとつのターニング・ポイントを形成しています。
 新任期における、教師の仕事、教師の役割のとらえ方の深さが、この後の教師としての成長の可能性を大きく規定しているように思われます。
(秋田喜代美 :1951年生まれ、東京大学教授。世界授業研究学会(WALS)副会長。内閣府子ども子育て会議会長)

 

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私が学級担任になったとき、最初の学級通信に必ず書くこととは

 私は、学級担任になったとき、最初の学級通信に必ず次のような詩と解説を載せます。
1 詩
「学校は子どもの国です」 ますだ しゅうじ
 学校とは
 賢い子どもになるために
 勉強するところです。
 勉強するということは
 なんでも なぜ? と考えることです。
 考えたことを
 先生や友だちに話してみることです。
 まちがってもいいのです。
 まちがいをいっぱい出せば
 その中に正しい答えも たいがい入っているからです。
 知らないことは「知らない」と言えばいいのです。
 知らないことは、少しもはずかしいことではありません。
 はずかしいのは、大切なことを知ろうとしないことです。
 勇気を出して、見たり、聞いたり、ためしたりしてごらん。
 それが勉強というものです。
 学校とは
 人間というものを知るところです。
 みんなと仲良く遊んだり
 ときには ケンカしたり いたずらしたりしながら
 いろんな人がいるんだなと知るところです。
 人間のもつ不思議さと、すばらしさと
 美しさを知るところです。
 学校は 子どもの国です。
2 担任をしたときに必ず学級通信にのせる解説
 ぼくは、まだ君たちのことをよく知りません。昨年はどんなだったかはわかりません。でも、きっとどの子も、うんといい子にちがいありません。
 勉強があまりわからなかった子は、えんりょなく言ってください。わかるまで、何度でも何度でも教えてあげます。
 よくわかっていないのに、わかったふりをしないでくださいね。ぼくも一生懸命教えるけど、自分でもうんと努力をしてくださいね。
 人は生まれつき、頭のいい子、積極的な子と決まっているのではないのです。
 自分はこんなふうになりたい、変わりたいと、本気になって思うことです。願うことです。
 思い続ければ変わります。すぐは変わらなくても、いつかは変わります。それが人間というものです。
 ぼくは、みんなの一人ひとりの力を信じようと思います。
 みんなも自分の力を信じてください。自分の可能性を信じられるようになると、不思議と人にもやさしくなれるものです。
 一年間、いっしょにがんばりましょう。そして、みんなで力を合わせていきましょう。
(増田修治:1958年埼玉県生まれ、埼玉県公立小学校教師(28年間)、白梅学園大学教授。「ユーモア詩」を通じた学級づくりを進めた。2002年にNHKにんげんドキュメント「詩が踊る教室」放映。小学校教師を対象にした研修に力を注ぐ)  

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授業で、教師の話し方技術を高めるには、どのようにすればよいか

 教師が授業や教室での話し方の技術を高めるということは、そのまま教師の識見や、人格を高めることを意味する。どのように話すようにすればよいか。
1 授業の導入
 命令調でなく、誘いこむような口調で語りかける配慮が欲しい。たとえば、
「ここ10年ばかりの間に、こんな急速に農家の数が減っていったのはどうしてなんだろう。この一時間でそれをはっきりさせてみようね」
 このような話し方は、子どもたちの立場に立って、やる気を起こさせる話し方だと言えよう。
 一人残らず、子どもたちを同一線上にそろえることが大切である。
「よし、やるぞ」という期待をすべての子どもに持たせるように、親しみやすく述べることを目指さなければならない。
 課題についての説明を聞いたら「何をすればよいのか」が子どもにイメージされるようでなければいけない。「鳩は、心の中でどんなことばを言いながら飛んでいったのでしょう。ノートに書いてごらん」この指示のしかたならば、子どもたちが何をどうすればよいかが具体的によくわかる。
 子どもたちの興味や関心に合うように提示していく。たとえば、一つの事実をめぐって判断が対立するということは、子どもたちにとっていやおうなく関心を持たざるを得なくなる。
2 明快に話す
 はっきりしていて、よくわかるということである。
 明快に話にするための配慮は、まず「何を話すのか」を自分がはっきりととらえていることである。
「これとこれを教えよう」というように整理されていなければならない。
 つぎに「平易なことば」で話すということである。たとえば、
「雑沓」は耳で聞いただけではよくわからない。「人ごみ」と、なるべくやさしく言いかえるようにしたい。
 さらに「構造的」に話すことである。たとえば、
「時間的経過に沿って述べる、具体的事例から一般化して」話す、など構造化していく習慣を身につけることがじょうずな、効果的な話し方を身につける早道なのである。
3 簡潔に話す
 話す内容を簡単にして、要領をつくすのである。
 話そうとすることの内容を、本当に理解している人の話は必ず簡潔である。
 複雑なことがらも、要領よく整理してまとめられていれば話はずっとわかりやすくなる。
 簡潔に話すためには
(1)短く話す
 必要なことだけをできるだけ短く話すことである。一言で言ってみることである。
 深い理解、正しく豊かな知識も必要であるが、一言でずはり言えるまで取捨選択され、要約されていなければ本当にわかっているとは言えないのである。
 授業時間の中ては、あれもこれもと話すことはたくさんあるのだが、つまるところこれ一つというところがおさえられていなければならない。そうすれば話は簡潔になり、授業運びも簡潔になる。
 子どもたちは全員が勉強好きで授業が好きであるわけではない。
 つまらなさや、苦痛を忍んでいる子もいる。そういう子どもたちに、せめて簡潔ですかっとした話をプレゼントしたいものである。それによって、子どもたちは新しい興味や関心を育てられることにもなるだろう。
(2)箇条的に話す
 上手な話し手は「三つのことを話す」とかの予告をする。聞き手は心の準備ができて、話はうまくつたわることになるのである。
(3)横道にそれない
 授業中の脱線はしばしば子どもたちに喜ばれる。
 脱線できる教師は話題を豊かに持っている教師であり、脱線できない教師よりはましであるが、脱線によってしか子どもを惹きつけられないというのでは情けない。
4 具体的に話す
 具体的に話すには、つとめてくだいて話すことが必要である。たとえば、
「りっぱな人になりなさい」よりも「誰からも好かれる人になれ」という方がわかりやすい話し方である。
 具体的に話せるということは、教師が本当にわかっているということでもある。それを支える豊かな実力を高めることが大切なのである。
 例示は、なるべく身近なものをとりあげるとよい。わかりやすくなる。
 子どもたちに歓迎されるものに「先生の子どものころの思い出の話」がある。目の前にいて、親しみやすいのである。
 つとめて子どもたちには具体性を持った話し方をするようにと心がけたいものである。
5 沈黙と間を生かす
 聞き手は疲れるので、ときどき休まなければならない。
 のべつ幕なしにしゃべる人があるが、こういう人の話は、案外、話を聞かれていないものである。時には騒音でもある。
 話には適当な沈黙と間が必要で、話がわかりやすくなり、話上手な人ほど、この沈黙と間を生かして話すことができるのである。
 話の中に沈黙と間をとり入れる効果は、聞き手を話し手の側に引き込むことにある。
 話し手が沈黙している間に、聞き手は話の内容を咀嚼しているのである。そして次の話し手のことばを期待する。話してと聞き手とが結び合っている。
 一方的なおしゃべりは、聞き手を単なる受動的で消極的な立場に追いやる。
 授業中の沈黙に不安を覚えるのは、教師が、まだ未熟な証拠である。ベテランの教師は沈黙の中で行われている活発な思考活動を見ぬいている。
 有効な沈黙とは、たとえば次のような場合である。たとえば、
「どんな本を読んでいますか?」、「こんなことでよいと思いますか」、「重大な発言をした後」、「主張や意見の後」
 この他にも、いろいろな場合がある。
6 聞き手を分析する
 話し手は、常に聞き手に、受けとめられ納得されているか、察知することが大切である。
 反応が最も鋭敏なのが、子どもである。楽しければ引き込まれ、つまらなければ見向きもしない。飽きてしまってよそ見をしたり、無駄話をしたりする。
 子どもたちのさまざまな反応は、そのまま「教師の話し方に対する注文である」ことを知るべきである。
 教師は話者としての反省を忘れてはいけない。
 教師はつねに子どもの聴衆反応を鋭く察知し、話題を適切に転換したり、話法を変えたりして、自分の話し方をよりよい方向に変えていくように心しなければならない。
7 視線を合わす
 真剣な話は必ずお互いに顔を見合ってする。私は子どもたちに「話は目で聞け」とよく言う。話す人の顔を見つめながら話を聞くようにしつけることが大切である。
 教室には多勢の子どもがいる。最も理想的には全体を見わたしていて、しかも一人ひとりの子どもの表情が見えていることである。修錬を積めば誰でもその域に達することができる。
 そこまで行かないうちは、せめてどの子どもにもかわるがわる視線を向けるように気をつけるとよい。教師の話し方はかなりよくなるはずである。
7 ぶらずに、らしゅうせよ
 「ぶらずに、らしゅうせよ」というのは芸の道を教えたものである。
 「ぶる」とは「いい気になる」「いばる」というような感じである。
 先生ぶった話し方というと、傲慢、思いあがり、独善、偏狭、形式的、教条的、威圧的というような悪い傾向が浮かんでくる。
 これでは聞き手に反感を持たれ、受け入れてもらうようなことはまずなるまい。
 「らしゅう」というのは「ふさわしい」「似合う」「自然である」というような感じである。
 先生らしい、誰にも好感をもたれるような話し方というと、誠実、丁寧、やさしさ、識見の高さ、公平、謙虚、温和、というような、教師というものの良い点が私の頭には浮かんでくる。
 「ぶらずに、らしゅうせよ」というのは、話し手の態度の心得であり、この一点を踏みはずさなければ、たとえ技術的にまずい話し方をしようとも聞き手は話し手についてくる。それほど根本的で重要なことである。
8 時に応じて、ことばの社交機能をとり入れる
 ことばは、交わし合うことによって楽しみを得るという側面を持っている。お喋りの楽しさは誰でも知っている。
 教師が子どもたちに最も多く繰り返すことばは「静かにしなさい」という一語であり、子どもたちがどんなにお喋りが好きかわかる。
 お喋りは、認識とか伝達とか思考とかいう堅苦しい目的のためにのみ成り立つのではない。屈託のない、目的の明らかでない一種の社交である。それによって人々の心は明るくなる。
 授業の中にも時に応じて、この社交機能をとり入れ活用することは、ゆとりのある教師のよくするところである。
 杓子定規で融通のきかない、こちこちの先生の授業は、もっぱら認識と伝達と思考の機能のみに依存するからかえって子どもに、うとまれることになるのである。
(野口芳宏:1936年生まれ、元小学校校長、大学名誉教授、千葉県教育委員、授業道場野口塾等主宰)

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思春期の子ども(小学校高学年)は、どのような点に配慮して子育てすればよいのでしょうか

 小学校高学年になると、思春期に向かい、親から離れて自分の人生を歩み始めます。
 この時期の子育ての指針は「自分の考えで行動でき」「目標を自分で選択し」「仲間のなかで自分を表現していける」子どもを育てるという3つがあります。
 だから、これからは一方的に知識を詰め込むのではなく、どうしてそうなるのか、リサーチする学習が大切になります。
 この時期に伝えたいのは、人間のすごさです。
 職人さんのワザを見せたり、仕事への思いを聞いたりして、人間にとって仕事とは何なのかを考えさせたいのです。
 その人の素敵さを感じることで、自分はどう生きるべきかと、そこに自分の身を置いて考えるようになります。
 これまで外の世界に向いていた目が、自分の内側に向くようになると、なりたい自分と今の自分とのギャップに気づき、コンプレックスを抱くようになります。
 そのなかで自分を支えてくれるのは「今のままのあなたでいい」と言ってくれる人の存在です。
「ゆっくりでいいからやっていこう」と応援し、「できた」実感を積み重ねていくことが、自己肯定感を育てます。
 からだが変化する思春期の時期に、人間のからだを知ることです。
 早く成長する子は早いことに、遅い子は遅いことに悩みます。
 この時期に、どうやって人間は命をつないできたのかを知ることで、子どもたちは、人間の神秘やすごさを知り、自分のからだに起こる変化を、肯定的にとらえることができるようになります。
 思春期に入り、まわりの大人の生き方に共感や反発を感じ始めます。
 子どもは大人を客観的に観察し、大人の権威を押しつけられることを嫌います。
 この時期の子どもは、純粋なほんもの志向です。ほんものに出合ったときの子どもの受けとめ方の深さには、すばらしいものがあります。
 自分のなかに起こっている、からだや心の変化をもてあまし、イライラして、暴言や暴力などの行動を起こしてしまうこともあります。
 このとき、親が理路整然と言い聞かせようとするよりも、自分の感情で、正面から子どもにぶつかっていいと思います。
 たとえば「今、こういう状態になっているあなたが悲しい、親として手を差し伸べられないことが悲しい・・・」と、本音でぶつかりながら、分かり合っていくほかありません。
 性教育は、きちんと説明するより、おおらかに接するのが正解です。親から子どもにきちんと説明する、というのはなかなか難しい。
 子どももそれを望んでいないことも多いもの。人間の成長や生命につながっていくしくみをきちんと扱った本を、子どもの目に触れるところに置いておく、テレビをみているときなどにさりげなく話題にする、というようにおおらかに接していきましょう。
 子どもたちには、「読書」を強くおすすめします。この時期の子どもには、人間の奥深さを学んでほしいと思っています。
 ずるさや弱さ、情けなさをも含んだ、人間の“味”が読みとれる作品にめぐりあってほしい時期でもあります。
 小学校高学年ともなると、思春期の第二次性徴の時期となり、多感で不安定になります。女の子は、初潮にともなう感情の起伏があり、男の子にも、精通にともなうモヤモヤ感で悩んでいる子がけっこういます。突然カーッとなる子どもの多くが、自分の感情をどう処理してよいか分からず、悩んでいるのです。
 思春期の感情の揺れや、それによるトラブルは、大人になる過程で必要なことなので、過剰に反応しすぎないほうがよいのですが、足元をしっかり支えてあげる姿勢は大切です。
 基本的には、まず生活を整えることです。朝きちんと起きること、夜しっかり寝ること、バランスのよい食事をとること。このように、ふつうの生活をていねいに送ることで、時間が解決していくこともあります。
 そのあいだは、親がいつでも子どもに対して「開いた」状態でいることが大切です。よくないのは、子どもに無関心なこと、逐一、聞き出そうとすることです。
 子どもをつらくさせます。「言いたくないなら、今は言わなくていい。でも、あなたに何かあったことには気づいているし、いつでもあなたの助けになりたい」というメッセージを伝え続けてください。
 最近は、子どもがほけんの先生に相談することが増えています。保健室は、小さなカウンセリングの場です。「ほけんの先生」(養護教諭)だからこそ言って相談できる、という子どももいます。
 ですから、心や身体のことで、誰に相談していいか分からない場合は、ほけんの先生に相談することで、お母さんの感じていた悩みと結びついて、解決に向かっていけることもあります。
 また、不安やストレスを抱えている子どもにはホッとする場所でもあります。
 高学年の子どもは、自分の身体の変化に興味と不安を持っています。子どもの性に関することは親として説明するのが難しいこともあります。
 そこで、親が「お母さんにはじょうずに説明できないけれど、学校で、ほけんの先生が教えてくれるから、聞いておいで」と言ってもよいでしょう。
(黒笹慈幾 1950年生まれ、元小学館 家庭教育雑誌『エデュー』の編集長)

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学級でゲームを楽しむためのうまい展開の仕方とは

 学級活動の時間に学級でゲームをして楽しもうとするとき、子どもたちが喜びそうなゲームをただやみくもにおこなうだけでは、教室がさわがしくなったり、学級全員が楽しめなかったりして、うまくいかないことがよくある。
 授業と同じように、時間配分とゲームの展開構想を次のようにしっかりもっておこなうことが大切である。
1 導入
 始めは、子どもたちのからだをほぐし、学級全員を楽しいゲームの世界に引き込むようなものを持ってくる。
 パートナーを必要としない、一人で踊ったりするゲームや同じ動作をくり返して楽しむゲームが適している。
例:「落ちた落ちた」「アブラハムの子」「大工のきつつきさん」
2 展開
 子どもたちがゲームの世界に乗ってきたところで、体と体をぶつけ合い、競い合うようなゲームを行い、子どもたちを夢中にさせる。
(1)友だちといっしょに遊ぶ
「ジャンケン列車」「ジェンカジャンケン」、
(2)ペアを組んで遊ぶ
「おちゃらかホイ」「アルプス一万尺」、
(3)グループ対抗で遊ぶ
「子とり鬼」「人間知恵の輪」「集団ジャンケン」
3 山場
 学級全員で1つの輪をつくって遊び、学級全員が心を1つにして楽しめるようにする。
例:「震源地」「フルーツバスケット」「ゴロゴロドカン」
4 おわり
 最後は、拍手遊びやかけ声遊びをして学級全員の心を1つにしてまとめたり、燃えた気持ちを静めるようなゲームをおこなったりする。
(1)学級全員の心を1つにするような
「団結コール」「拍手遊び」「かけ声遊び」
(2)燃えた気持ちを静めるような
「知能テスト」(目を閉じて時間をあてるゲーム)
5 ゲームとゲームのつなぎ
 ゲームとゲームのつなぎもゲームでつないでいけると、集中がとぎれず、時間も有効に使うことができる。
 例えば、展開のゲームで「ジャンケン列車」「ジェンカジャンケン」で長い1つの列ができたら、先頭の子どもを誘導して学級全員で1つの輪をつくる。この大きな輪を使って、山場の「震源地」「ゴロゴロドカン」などを行う。
(加藤辰雄:1951年生まれ 名古屋市立小学校教師定年退職後、愛知県立大学非常勤講師、「読み」の授業研究会運営委員)

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教師が子どもの心のひだをつかめば、一人ひとりの子どもに適した指導ができる

 大人は昔、子どもだったので、子どものことは何でも知っているという気持ちがどこかにあって、あえて子どものことを知ろうなどとは思わない。
 事件が起きてはじめて「子どものこころがわからない。昔の子どもはこうではなかった」などと言い出す。
 特に教師たるべき者は、子どもの心をつかむ努力をいつもしておくのが当然である。
 子どもの見そうなテレビ番組を見るとか、子ども向けのマンガを読むとかして情報を得ることなど、よくやる手である。
 また、子どもと休み時間に遊んだり、清掃を一緒にしたりすることも、多くの教師がやっている。
 子どもと一緒に遊ぶと、教室では見られない子どもの生き生きした顔が見られる。
 まじめに清掃に取り組んでいる子どもには、感激さえ覚える。子どもをほめる材料はあちこちにある。
 子どもを「勉強ができる」ということだけで「良い」の評価を得て、行動が悪くても、あまり叱られないというのが社会通念としてある。
 授業中の子どもしか見ていないと、子どもの一面しか見ていないので、成績至上主義的な子どもの見方をしかねない。
 特に子どもの心のひだをつかんでいないので、学級崩壊状態になっても、なぜこうなったのか、教師はつかむことができない。
 このごろ何か学級の子どもの様子がおかしいなと感じたら、子どもと遊ぶとか、子どもと行動を共にして、内面の心のひだをつかむことが必要である。
 子どもと一緒に教師が遊んだり、話したりするのは教師が自己開示することである。
 子どもは教師の人間性にふれることができ、安心する。
 子どもの心のひだをつかめば、教師は子ども一人ひとりに適した指導ができる。
 このことが「個を生かす」ということであり、今の教育ではこのことが大切である。
(飛田貞子:元東京都の公立小学校校長)

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学級づくりで担任が学級で話をするとき、どのように話せばよいか、そのポイントとは

 学級づくりで、担任が学級の子どもたちに向けて話すとき、どのように話せばよいのでしょうか、そのさいのポイントは、
(1)何を訴えたいのか明確にしておく
「何を訴えたい」のか、「学級集団をどのように変容させたい」のかを明らかにしておくことが最も大切です。
(2)話を組み立てておく
 思いつきで話すのではなく、何を話すのか「原稿を準備」し、「話を組み立てておく」ことが重要です。
(3)タイミングを逸しない
 担任として「今、ここで、この話をしておくべき」であるという「タイミング」を計り、それを逸しないことです。
 話の前に「今日、君たちに話したい話があります」と、言ってから話し始める等の工夫を考えてください。
(4)一人ひとりを見て語りかける
 話をしている担任に注がれる子どもたちの視線は、学級の子ども人数分あります。
 担任は、子どもたち「一人ひとりの視線に応える」ことが必要です。
 視線をS字形に移動するなど、学級全体を見渡す努力が必要です。
(5)キーワードを板書する、学級通信に載せるなどして話す
「話のキーワードや、数値等を板書する」などの工夫をして話します。
 また、話材を学級通信に載せ、「学級通信を配布し読み上げる」ことで、文字からも子どもたちにインプットできます。
「学級通信に載せる」ことで、家庭で話題になることも期待できますから、その後の指導にも役立ちます。
(6)余韻を残す
 話が終わった後に「余韻を残す」と、内容が心に残ります。数秒間がよいでしょう。
 話を終えた後には、別の話をしないようにします。
(熊谷茂樹:埼玉県公立中学校長)

 

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