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教育は学力形成か人間形成か、できるだけ異質なものを取り込んで学ぶことが求められる

 長くいっしょに研究活動をしていると、当初は異質であった教師たちもだんだんと発想が近づいてきます。井の中の蛙化していきます。自分たちが自覚できなくなってしまう。
「研究集団ことのは」は外部に異質なものを求め、取り込もうとし続けています。
 異質なものと響き合うときにこそ、人間の頭は最も機能します。
 異質なものと反発しあうときにこそ、人間の感情は最も大きな起伏を描きます。
 一人で独自の提案をしているメンバーがたくさんいる。指導主事、管理職になった者もいます。
 おそらく我々が常に異質なものを取り込んできたことによって、広い視野から物事を分析するとか、異なる領域・分野の理論・実践を融合するとか、そうしたことをごく自然に日常としているせいなのだと自分たちでは思っています。
 私は学生時代に共通点と相違点を整理するという思考を身につけました。
 この同時進行で異なる理論を学ぶという経験が、私の思考力を鍛えてくれたと実感しています。
 一人の人間の発想などというものは、時を隔ててもすべてが繋がっている、そういうものなのです。
 十年くらい前までの学校は「学力形成」派よりも「人間形成」派の教師が圧倒的多数でした。それが最近、急速に変化してきているのを感じます。その変化はおそらく、
・教師に対する行政の監理が厳しくなり、教員評価制度が定着して数値目標が設定されるようになったこと。
・保護者のクレームの増加によって、教師が個性を発揮しての教育活動がしずらくなったこと。
・2000年前後から「ゆとり教育」の反動として、「学力向上」が大きく宣伝されたこと。
・世論が「学力向上」路線を支持しているような空気が醸成されていること。
 など、様々な要因があるように思います。
「学力形成派」は、学力はどうしても一般教養や受験学力に重きが置かれがちです。
 これが子どもたちの実態から乖離したところで、カリキュラムが立てられてしまう。こういう弊害を招きやすい構造があります。
「人間形成派」は、経験を絶対視する傾向が強い。
 ですから、教育は人間形成だと強く叫ぶ教師ほど、子どもたちに自分の敷いたレールの上を歩かせたいという欲求を強くもつ傾向があります。
 部活動の熱心な指導者などは、ほとんどがそのタイプだと言って過言ではないでしょう。
 私は、自分の教育観はすべての生徒の特性に合致しているわけでない、ということに教職について5年が過ぎた頃に気づき始めます。
 私の教育観は、私という人間の個性に過ぎない。
 私は生徒たちを洗脳しようとしているのではないかと考えるようになりました。
「この生徒は、私でなく、あの先生が担任だった方が合っていたかもしれない」と思える生徒たちが一定数存在することに気がついたのです。
 それも、私と考えの合わない、ウマが合わない、そんな教師たちの方がです。
 私が自分と合わないと思われる生徒たちも包含できるような教師として大成長を遂げようと決心しました。
 私は意図的に振り子を振ったわけです。
 私は3年間だけ、自分の教育活動のすべてを「あちら側」から構想してみよう、そう考えました。 
 私はアクの強いタイプの人間です。そのくらいの気持ちでやった方が、バランスがとれてちょうどいいのではないかと思ったのです。
 転勤した学校の職員会議は私にとって、腹に据えかねるような発想ばかりを基準に決まっていきましたが、私はその発想を学ぶように努めました。
 管理職や教務主任ともたくさん話をして、彼らがどういう発想で教育活動に取り組んでいるのか、ひたすら学び続けました。
「学力形成派」の本質は「割り切ること」でした。
 生徒たちを集団として捉え、その最大公約数に力を発揮する手法を採ろうとします。犠牲者は少なくて済みます。
「人間形成派」は一人ひとりの生徒を無限の可能性をもつ存在ととらえ、一人ひとりに少しでも触媒となるような指導を与え続けようとします。
 一人ひとりを大事にしようとするあまり、他の生徒を犠牲にすることが少なくありません。
 生徒Aと生徒Bの利害が対立したとき、生徒Aに対する指導が生徒Bにマイナスの指導として機能することがあるからです。指導は安定感を欠きます。
 私はこの中学校で三度卒業生をだしました。どの学級もよい学級でした。
 私は教育技術、授業技術を身につけ、それなりの授業力、学級経営力を身につけていましたから、学力向上も生徒指導もいじめ指導も打った手だてはだいたい当たる、そんな毎日でした。
 行事や成績は担任である私が常にリードすることによってもたらされものでした。
 学級で起こったトラブルのすべてを私が間に入って説得し納得させて解決したのでした。
 しかし、この学級経営が失敗であったと気づきました。高校に進学した二割に近い七人の不登校生徒が出たのです。

 進学した生徒たちの問題行動の要因は、生徒たちが自らの行動の意味をメタ認知(自分自身を客観的に認める能力)ができないことに起因しています。
 生徒同士のトラブルは、双方が自分の世界からものを見て、相手に自分の行動がどう見えるか、周りから見てその行動がどう見えるかということを考えられないことから生じます。
 教師が指導するときにも、その生徒の世界観を壊し、周りの視点、他者の視点を理解させるのに随分と時間がかかります。
 保護者のクレームの多くも、そうした生徒個人の世界観のみで聞いた話を保護者がそのまま信じ込んでしまうところから起こります。
 私は再び振り子を振らなければならなくなったのです。
(堀 裕嗣:1966年北海道生まれ、札幌市立中学の国語科教師。92年、国語教育研究サークル「研究集団ことのは」を設立、道内の民間教育団体でつくる「教師力ブラッシュアップセミナー」の代表も務める)

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