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2020年5月に作成された記事

ユニット学習で授業をすると、子どもたちは落ち着き、どんどん力を伸ばしていきます(その1)

 西村 徹先生が小学二年生を担任したとき、子どもたちがなかなか落ち着いて勉強できずに困りました。
 ある時、東京の杉渕鉄良先生に「ユニット学習」を教えてもらいました。
 この方法で授業をすると、すぐに落ち着き、子ども達がどんどん力を伸ばしていきました。
 ユニット学習とは、45分の授業時間をいくつかの小さな学習で構成するということです。
「ユニット学習、おもしろい」と、子どもたちは思います。
 やっていただくと「やってよかった」と思われるでしょう。具体的に紹介していきます。
1 ことわざ
 公文式の「ことわざカード」を買いましょう。ことわざが62載っています。
 さまざまな教訓に満ちていることわざを覚えることは、日本語の語彙を豊かにします。
 このカードを使って、ユニット学習を始めてみましょう。
 やり方は簡単です。次のようにします。
教師「ことわざ学習をやりましょう。最初の言葉を言いますから、続く言葉を言ってください」
教師「犬も歩けば」と、カードを見せながら言います。
子ども「棒に当たる」と、子どもたちは言います。続けて10ほど、ことわざを言います。
 初めですから、簡単なことわざを選びましょう。
 大切なポイントは、ことわざ62全部を一度にしないでください。
 これをすると、教師も子どもも一度でユニット学習が嫌になりますから。
 つまり、1日に5つから10までのことわざにすることがポイントなのです。
 これだと1分で終わりますね。「もうちょっとやりたい」ぐらいで終わるのです。
 1週間、毎日、同じことわざを教えます。
 次の週は、違うことわざです。6週間かけると62のことわざが終わります。
 1回に1分。1週間では5分指導していますから、それを6週間すると30分です。わずか30分で62のことわざが覚えられるのです。
2 慣用句
 公文式のカードには「慣用句カード」もあります。62の慣用句が紹介してあります。
 慣用句の場合、意味を言ってから答えさせます。意味を言わないと答えにくいからです。
 たとえば「耳を」と聴いて、後に続く言葉はいくつか思いつきます。
 答えは「すます」なのですが、「うたがう」でも正解です。
 まず、教師が慣用句の意味を言います。
教師「声や音がよく聞こえるように、注意を集中して聞くことです」 そこでカードを見せて、
教師「耳を・・・」と言います。子どもたちは「すます」と言います。
3 四字熟語
 四字熟語の指導も公文カードを使います。
 字が小さいので教室の後ろまでよく見えるように、公文カードを元に、大きめで厚めな紙でカードを作ります。
 次のように指導します。四字熟語カードを見せます。
教師「弱肉強食」
子ども「じゃくにく、きょうしょく」と子どもたちが読みます。これを10ほど続けます。
4 難読語
 難読語の指導も公文カードを使います。
 これも字が小さいので教室の後ろまでよく見えるように、公文カードを元に、大きめで厚めな紙でカードを作ります。
 難読語カードを見せます。
教師「烏」
子ども「からす」と、子どもたちが読みます。これを10ほど続けます。
5 対義語
 対義語は受験参考書から取ってきます。
 これも字が小さいので教室の後ろまでよく見えるように、大きめで厚めな紙でカードを作ります。
 表に熟語、裏に対義語を書きます。それを続けて言わせます。
 熟語とその対義語をワンセットで覚えさせます。次のように指導します。
 対義語カードの表を見せ、すぐに裏を見せて言わせます。
「主観客観」と子ども達が読みます。これを10ほど続けます。
6 季節の言葉
 梅雨の頃は、雨に関する言葉を、冬には雪に関する言葉を覚えさせます。
 難読語の指導と同じです。教室の後ろまでよく見えるように大きめで厚めな紙でカードを作ります。
 季節の言葉カードを見せます。
教師「時雨」
子ども「しぐれ」と子ども達が読みます。その後で、
教師「秋から冬にかけて通り雨のように降る雨」と意味を言います。これを10ほど続けます。
7 復習する言葉
 各教科の中には、単純に覚え込めばいい言葉があります。
 しかし、教科書で一度学習した後は、復習しませんから子どもたちは忘れます。
 それを、カードにしてユニット学習で何回か言わせると覚えることができます。
 やはり、少し厚めの紙に書いてください。次のように指導します。
 教師が復習する言葉カードの意味をいいます。
教師「遠くの海に出かけ長い期間行う漁は?」
子ども「遠洋漁業」と子ども達が読みます。 これを10ほど続けます。
 ユニット学習を経験して、ある5年生の女子は、次のように述べています。
「私は、カードユニットを続けていて、初めは読めなかった漢字でも大きな声で毎日読んでいると、自然に覚えていって、自然に身に付くんだと思いました」
「ことわざでも、初めは覚えていなかったけど、ことわざカードをやり始めると、初めよりたくさん覚えていきました」
「そして、スラスラ言えるようになり、こんなに言えるんだーと思いました」
「私は、ことわざカードユニットをやっているうちに、すぐ覚えられました。覚えようとしなくても、すぐ頭にうかんできました」
「そのうち、ことわざが、好きになってきました。難読語も同じです」
「それは、ほとんど毎日やっているからだと思いました。どのカードユニットでも、覚えようとしなくても覚えられるから便利です」
(西村 徹:1960年兵庫県生まれ、小学校在席6年間の校長は東井義雄先生。兵庫県公立小学校教師。「東井義雄の言葉 こころの花がひらくとき」(致知出版社)を出版。地元で、やぶ読書会・教育サークル「カセッタ会」、但馬掃除に学ぶ会・教育立志会を主催)

 

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教育界に大きな影響を与えた大正自由主義教育「分団式教育法」とは、どのようなものであったか

 及川平治は、 明石女子師範附属小学校(1907年着任)を舞台として「分団式教育法」などを提唱した。
 明石附属小学校は、
「子どもたちが、自分から進んで学ぶ学校とし、子どもの多様性と個性を生かし、真理の探究法を授ける」
 という方針を立てました。
 この当時は、先生が子どもたちに知識を教え込む授業が多かった。
 及川は明石附属小学校に「分団式動的教育法」という、子どもたちが「自ら学んでいくグループ学習」や「教え合い学習」「体験学習」等を取り入れました。
 この教育法は、今では一般的ですが、当時としては大変先進的な授業であった。
 その反響は大きく、及川の授業を見学しようと全国各地から、年に一万人を超えるほどの参観者が訪れました。
「やってみたい、できるようになりたい」という子どもたちの気持ちを満たしながら、試行錯誤を繰り返させる及川の授業づくりに、参観者の多くが感心しました。
 及川が掲げた教育方針は「児童本位の教育」と称され、児童の「直接経験」を尊び、児童自身の「判断」に訴える教育を施すことが謳われた。
 及川は「子どもの要求=学習動機」こそが、教育の出発点だとした。
「生活体験」を通じて知識や技能を習得させようとの考え方であった。
 及川は、1875(明治8)年に宮城県で貧しい農家の次男として生まれ、苦学して教師となった。
 明治末年から大正、昭和10年代初期まで、兵庫県明石女子師範学校附属小学校で「万年主事」として初等教育の現場で教育改革に挑み続けた。
 及川の教育方法論は、日々の豊富な読書による国内外の教育思想の研究を基礎に構築されていた。
 それを支えていたのは附属小学校の教師・児童、保護者・地域社会、家族であった。
 彼をそうさせたのは及川の人間としての「人柄」にあった。
 及川が附属小学校主事として着任した明治末期には、我が国では「ヘルバルト主義教授法」の形式化、形骸化が顕在化していた。
 学校教育の内実は「人間不在の教育」であった。
 明治30年代から末にかけ、多くの教育改革思想が提唱された。
 及川は、国内外の教育思想を咀嚼し、より実践的な教育方法論の形成に努力した。
 教育理論を説いただけでなく、具体的な教育法も同時に提起した。
 及川の教育方法論と教育実践は、明治・大正・昭和の約40年にわたって展開された。
 最初の段階は、ヘルバルト派の画一的注入教授を克服するための「教育方法」が中心であった。
 1909(明治42)年の「為さしむる主義による、分団式教授法」の提唱である。
 この構想と試みは「分団式動的教育法」「分団式各科動的教育法」(1915)で著わされた。
 これらの著作は当時のベストセラーとなり、明石女子師範学校附属小学校は参観者であふれ、大正前期の教育界に大きな影響を与えた。
 及川の提唱した「分団式動的教育法」は、
(1)教育の動的見地に立つこと
(2)児童の能力不同という事実的見地に立つこと
(3)学習法(研究法)を訓練するという立場に立つこと
 という主張に立脚したものであった。
 彼は文部省の要請により 1 年 4 カ月間、 欧米の教育視察にも赴いている。
 欧米教育視察によって、世界の教育改革運動に触れた及川は、真の動的教育を行うには「カリキュラムの改造」が必要という見解に達した。
 帰国後は、研究対象を「カリキュラム論」に改め、実践的な研究に取り組んだ。
 及川の主張は一貫して「生活と学習との統一的結合」の観点で貫かれた。
 わが国の「個性」を生かす教育の原点は、明治末期からである。
 及川の「分団式動的教育法」は、児童の能力や特性の違いに応じた学習活動を展開した。
 及川の「個性」を生かす授業とは、教授=学習過程を一元化させる立場から、児童の自己活動を重視し、教師を実践者として授業の構成力を要求した。
 形式主義を批判し「指導の個別化・学習の個性化」をねらい、学級の全員がわかる授業をするという理念を念頭に構想された。
 及川の教育方法論と明石女子師範学校附属小学校の「個性」を生かす授業の実践は、大きな遺産となった。
 及川は、大正自由教育運動の先駆者、日本のデューイと評価されている。
(及川平治:1875-1939年、宮城県生まれ、明治末年から昭和10年代初期まで兵庫県明石女子師範学校附属小学校で主事として教育改革に挑み、わが国教育の発展に多大な功績を残した教育家の一人である)

 

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大人との出会いで子どもは変わっていく

 山口良治先生は、赴任からわずか数年で無名だった京都の伏見工業高校ラグビー部を全国優勝させた。
 山口先生は「自分に矢印、自分に矛先を向けられる、勇気ある人間を育てたい」という思いを持っていた。
 何か自分の身の回りで起こったとき、人のせいにしたり、自分に関係ないことと思わない。
 まず、自分を見つめ、どうしたら良くなるのか、どうしたら強くなるのか、どうすれば正しいのかを自分に問う、勇気を持った子どもに育てる。
 その方法はと聞かれれば、答えは一つ「私たち大人がそういう見本になる生活をすれば良い」のだと思いますと。
 山口先生は、教師ですけれど、まだ子どもたちに、
「先生のようになってみろ。そして追いついて、今度は先生より大きくなってみろ」
 とは、まだまだ言えるだけの実践も積んでいないし、見本になれる人間にはなれていません。
 保護者のみなさんも、そうではないでしょうか。
「お父さんのようになりなさい」「お母さんのように生きなさい」
 と言える大人が、どれだけこの今の日本にいるでしょうか。
 まずは、私たち大人が、自分に矢印を向ける勇気を持たないと、これからもっと荒廃が進むことでしょう。
 やはり、今です。今…。
「誰かのせい」、「自分は正しい」と、そんな狭い視野で、自分自身の成長の芽を自ら摘み取っていたのです。
「なんと愚かな俺」と、心からそんなふうに思いました。
 また、いくつか心に突き刺さる言葉がありました。
「本気で思わなければ、実現しない」
「組織で一番大切なことは、全員が心を一つにすること」
「小さなことを、見逃していないか」
「相手の視線で、物事をみているか」
 山口先生は、教育の本質を「人と人との間」にあると「出会い」を大切にしている。
 教育者の中には「子どもに期待をかけすぎてはいけない」と、いう言い方をする人もいる。
 だが、必ずしもその意見には賛成できないのである。
 周囲からの期待を、プレッシャーなどと表現する人も多いが、期待というのは重圧になるばかりではなく、大きな力にもなる。
 大切なことは、自分の存在に対する、多くの人の期待をどう受け止めるか、感じとれるかなのである。
 それを感じとれる子どもが、その期待を力にして頑張って力を発揮できるのだ。
 そうやって期待に応えようとする中で、見いだす「やりがい」や「期待に応えられたときの充足感」が、人間として大きな幸せになるのではないだろうか。
 だからこそ私たち大人は、子どもが周囲の人からたくさんの期待をかけられていることを、感じとれるような感性を、しっかりと植えつけてやらなければならない。
「負けを知らない、勝利者はいない」「失敗をしない、名選手はいない」「信は、力なり」
 自らの幼少時代から現在までを振り返り,苦しかったとき,辛かったとき,自ら動くことが大切だと気づき,これが自分を変える原点になった。
「感性のない人は不幸。自分より弱い立場の人に優しい声をかけられる人になり,それぞれが将来他人に喜ばれ必要とされる人になって欲しい」
「自分を愛せない人は、人を愛せない」
「目標に向かい、その目標がクリアできるようになるには、何が必要か考えて努力する」
「自分が何をやってきたか問え」「言い訳を探さない」「自分のめざすものを本気でめざせ」「自分の人生を鮮明に描けたらいい」「一つでも多くの感動を自分から作って欲しい」
 山口先生は、ラグビーの元全日本代表選手。現役を退いた後は教師として青少年の指導育成に力を注いだ。
 校内暴力が社会問題だった70年代。不良生徒がいた京都市立伏見工業高校に赴任。
 見るも聞くも、許せんことばかりやった。でも、許せんかったのは、生徒ではなく、注意しない教師やった。
 何ができるかを自問した。
 生徒たちには誇りが必要だ。
「伏見高校がラグビーで一番になったら喜ぶやろうなー」と、そう思っただけでも体が熱くなった。
 赴任からわずか数年後、無名だったラグビー部を全国優勝させる。
 その道のりは決して平たんではなかった。
「泣き虫先生」は、生徒たちと向かい合い何度も泣いた。
 山口先生は、講演中も感極まって涙をぬぐう。
 その熱血教師ぶりは、テレビドラマ「スクール・ウォーズ」のモデルとなり、NHK「プロジェクトX」でも取り上げられた。
 生徒たちを見ていて、寂しいんやろうなと思った。構って欲しい、見て欲しいと思っている。
 大人との出会いで、子どもは変わっていくもの。
 今の日本に欠けているのは、
「仲間や社会、子どものために自分に何ができるか」と思う気持ち。
 皆がその気持ちを出し合えば良い社会になる。
 その「出会い」をがんばる「力」にして、目標をもって頑張る。
 いかなる障害にも
「自分でやったことしか、自分の力にならない」
 そして、自問しながら、自分で決めて、自分で判断する力をつけていく。
 自分にベストを尽くすとは、そういうものなんですね。
(山口良治:1943年福井県生まれ、日本のラグビー元日本代表。京都市立伏見工業高等学校ラグビー部監督、京都市役所、伏工ラグビー部総監督、京都アクアリーナ館長、浜松大学教授・ラグビー部特別顧問を経て環太平洋大学の総監督。1984年TBSテレビドラマ「スクール☆ウォーズ」のモデルとなった)

 

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木下竹次の大正時代の新教育運動「他律的教育から自立的学習へ」とは

 木下竹次は大正時代に、学習を、子どもの生活から出発し、生活の向上を図る自律的学習を説いた。
 学習即ち生活,生活即ち学習となる「他律的教育から自立的学習へ」を説き、大正時代の新教育運動を指導する一人となった。
 木下は、全国各地の師範学校を経て、1919(大正8)年,奈良女子高等師範学校教授・同附属小学校主事となった。
 1922年(大正11)に同校で学習研究会を組織し,機関誌「学習研究」を発刊した。
 機関誌「学習研究」の創刊号では、
「学習即ち生活であり,生活即ち学習となる。 日常一切の生活,自律して学習する処, 私共はここに立つ」とし、次のような記事を載せた。
「従来の教育法は、教授,訓練,養護とするのが、我が国に於ける通説であった」
「私は教育、訓練、養護に関する事柄を一括して、之を児童の側面から見て『学習』と称し研究を進めて行かうと思ふ」
 と「学習学」の立場を明らかにした。
 木下は「学習原論」「学習各論」などを著述し,独自学習・相互学習・合科学習・体操的精神・数学的精神・地理的精神などの考え方を呈示した。
 同時に同校で実践した。
 児童たちが身の回りから出発して、さまざまなことに疑問を持ち、自分たちの力で実験し、図書でたしかめていく過程で、児童相互の教えあい、学びあいができると考えた。
 学習教材は児童の生活に即してつくられ、しかも特定の教科の枠にとらわれない全教科学習であった。
「学習は、 学習者が生活から出発して、生活によって生活の向上を図るものである」 とし、分科主義による生活の分断を否定し「生活単位」を学習の題材にする「合科学習」(生活学習)を主張した。
 職員会では事務的な内容は最小限にとどめ、実践に関する論議を行う日常的な研究の場とした。
 月に2回程度、研究授業が行われ、 授業批評会が持たれた。
 一方、実践の基盤となる教養を豊かにすることが求められ、読書会や講演会、映画鑑賞などへの参加を積極的に勧めたといわれる。
 木下は「学習原論」では、
 学習は,学習者が生活から出発して,生活によって生活の向上を図るものである。
 人は人らしく生きるのが目的。学習材料は,自己建設の生活それ自身である。
 学級的画一教育法を打破した自律的学習法は,いずれの学習者も独自学習から始めて相互学習に進む。
 さらに、いっそう進んだ独自学習に帰入する組織方法である。
 実に児童の性質・能力の異なったものは、異なったように活動し,しかも,自由と協同とに富んだ社会化した自己を建設創造しようというのであった。
(木下竹次:1872-1946年福井県生まれ、大正期の新教育の指導者。奈良師範学校、福井県師範学校、鹿児島師範学校などを経て,奈良女子高等師範学校教授・同附属小学校主事。同校で学習研究会を組織し,機関誌「学習研究」を発刊した)

 

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笑いを授業に取り入れると、子どもと教師の距離を縮め、子どもたちに安心感を生み出す

 中村健一先生は授業に“笑い”を授業に取り入れている。
 突然かっぱの帽子をかぶって教室に現れた。
 中村:「らっぱって知ってる?ってきいて?」
 子ども:「らっぱって知ってる?」
 中村:「ああ、池で泳いでいて、頭の上に皿があって、・・・・それは俺か!・・・・いまいち、やったね」
 始まったのは国語の授業。その内容は“ボケと突っ込みを考える”というテーマだった。実は5年生の国語に「会話を弾ませよう」という単元があり、ならばみんなで漫才をやってみようというのだ。
 子どもたちの発表、
「サラダが残ったときにかけるのは?」「それはラップ」
「じゃあ黄色い果物は?」「それはパイナップル」
「いい加減にしろ、ラッパだぞラッパ」
「突き指とかしたときにはるやつね」「それはしっぷだろ」
「いい加減にしろ」
 中村先生が“笑い”を授業に取り入れた理由は、子どもたちのある“変化”に気づいたからだ。
「どうも子どもらの安心感が無くなっていると気づいたんです」
「今の子は距離が遠くなっている」
「子ども同士も、先生とも、ちょっと遠慮がちに、みんなつきあっている」
「そこに笑いというものを入れることで、安心感を生み出せると僕らは考えています」
 中村先生たちは、同じ志を持つ教師が集まり「お笑い教師同盟」を結成。それぞれが教室で鍛えたネタをメールなどで教え合って授業力の向上に取り組んでいる。
「批判はあるかもしれません。そもそも“授業が面白くなくてはいけないのか”という疑問は出てきますよね」
「でも、感覚的だが、笑いの無い授業をやっていたら授業は崩壊して、成り立たないと思いますよ」
 中村先生が講習会で話されたのは、フォローの大切さです。受講した先生の感想は、
 授業では子どものどんな発言に対しても、中村先生は子どもが笑顔になれるフォローをされていました。
「きみは、ここで僕に会うために生まれてきたんだ」
 と、褒められたときは、先生は褒めるための言葉の引き出しをたくさん持っておられるのだなぁと思いました。
 どんな言葉を言っても、先生にたくさんの褒めことばをもらえる子どもたちは嬉しいだろうし、安心して力を発揮できるのだろうと思いました。
 出会った子どもの中には、周りの目を気にして力が出せない子もいるので、このようなフォローは大切だと感じました。
 私も子どもにふった“フリ”を何らかの形で“オチ”を返してくれたら、意識的にフォローしていこうと思います。
 2つ目は、フォローと甘やかすのを一緒にしないことです。
 どんなことも、優しくフォローしてあげることが大切なのだと思っていました。
 しかし、5分前集合に遅れてきた子を中村先生は思い切り、叱っておられました。
 このとき、意外な展開で驚きました。
 だけど、確かに、教師は子どもを伸ばすことが仕事で、成長を褒めることが大切なのだと気付かされました。
 しっかり叱って、その後フォローする大切さを知れて、勉強になりました。
 中村先生は、着任式の挨拶は、いつも決まっている。
 全校児童を前に、次のような挨拶をする。
「せっかくマイクを持たせていただいたので、歌を歌いたいと思います」
「♪チョウチョ~♪チョウチョ~♪菜の葉にとま~れ~♪菜の葉にあいたら~♪桜にとま~れ~♪」
「さて、ここで問題です。チョウチョは、本当に桜の花にとまるのでしょうか?」
「そんなことを一緒に勉強していきたいと思います」
「中村健一です。よろしくお願いします」
 歌を歌うということは、子どもたちにとって、相当インパクトがあるらしい。
 中村先生が歌を歌い始めると、子どもたちは、耳を押さえるポーズをしてくれる。
 まさに“ツッコンデ”くれているのだ。お笑い教育の第一歩である。
 廊下を歩くと、子どもたちが声をかけてくれる。
「先生、チョウチョは桜の花にとまるよ。だって、見たことあるもん」
 中村先生は、笑顔で「本当?」とだけ答える。なぜなら、正解を知らないからだ。
 中村先生は、教室に入ると、とりあえずこける。これだけで“ツカミ”はOK!
 教室は大爆笑になる。
 ビートたけし氏もよくこけていた。コロッケ氏もツカミに使っていると話していた。
 そして、大笑いしている子どもたちに言う。
「きみたちみたいに、よく笑う子って、いい子なんだよ」
 笑う子は「明るい子」「頭がいい子」「話をよく聞いている子」「けじめのある子」であることを話す。
 そして「笑いの練習」をする。故林家三平師匠をイメージすればよい。頭に手をもっていけば、いつでもバカ笑いできるほどに鍛える。
 「お笑い」で教師と子どもの距離を縮めることができる。子どもと教師の距離を縮めることで、教室を安心感のある場所にすることができます。
 中村先生はキャラづけをする実践をしています。たとえば、
「うずら卵が死ぬほど好きです!」と宣言する実践です。
「それだけ?」と思われるかも知れません。しかし、効果はバツグンンです。
 たとえば、八宝菜が給食に出る日。
「先生、今日、八宝菜じゃけえ、うずら卵入ってるかもよ」
「うれしいじゃろう」と何人もの子が私に話しかけてきます。
「へへへ、楽しみ~!!」こう言って、よだれを拭く真似をするだけで子どもたちは大喜びです。
 こんな、ちょっとしたキャラづけが子どもと教師の距離を縮めてくれるのです。
「ドラえもんが死ぬほど好き」など、何でも好きなものをアピールすれば、それだけでキャラづけができます。
 逆に「ニンジンが苦手」「クモだけは嫌」など苦手なものをアピールルするのも子どもたちは大好きですね。
 教師のキャラづけは、子どもとの距離を縮める有効な方法です。
 ぜひ、あなたもキャラクターをアピールして、子どもたちとの距離を縮めてみてください。
(中村健一:1970年山口県生まれ、山口県岩国市立小学校教師。授業づくりネットワーク、お笑い教師同盟などに所属。笑いとフォローをいかした教育実践は各方面で高い評価を受けている。 また、若手教師を育てることに力を入れ、多くの学生に向けて講演も行っている)

 

 

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授業が面白く、学校に来るのが楽しみになる、笑いのある授業をして授業力をアップをする方法とは

 田中光夫先生は「お笑い教師同盟」という団体に参加していました。
 そこでの田中先生の授業実践が評価されて、にTBSのイブニングファイブというニュース番組で実践が放送(2006年8月11日)されました。その授業は次のようでした。
 東京都羽村市の栄小学校3年3組担任の田中光夫先生は、国語の授業を行った。
 授業が始まると、突然、携帯電話が鳴り響いた。
「あ、わかりました。今すぐ向かいますので」
 電話を切った田中先生は子どもたちにこう切り出した。
「ごめーん、先生きょう急用が入っちゃった。代わりの先生呼んでくるね」
 そう言い残して教室を出て行った田中先生。
 後を追ってみると、廊下でおもむろに着替えを始めた。
 その直後、教室に入ってきたのは髭を生やして帽子とサングラスをつけた怪しい男性。
 田中先生が映画監督に変装してきたのだ。
「ここがオーディション会場かな。この夏の映画“夏の田中”のオーディションを行いたい」
 こう言って始めたのは、教科書を読む音読の練習だった。
「用意!アクション!」「夏の思い出…」
 田中“監督”の合図と共に、子どもが1人ずつ教科書を読み上げていく。
 途中で引っかかると
「カーット!台本をしっかり読み込んできてください!」
 という声が教室に響き、子どもたちからは大きな笑い声があがる。
 田中先生がこうした授業を始めたのは、月曜日の朝にクラスの雰囲気がいつも沈んでいることに気づいてからだった。
 田中先生は、
「ちょっと簡単なネタをやったところ、月曜日の最初からテンションがあがって授業がスムーズにできたことがあった。その時に『ああこれは使えるな』と思ったんです」
 “笑い”を授業に取り入れたことでクラスの雰囲気が明るくなり、子どもたちの様子が大きく変わったという。
 田中先生は、
「授業の中で『まちがってもいいんだ』『先生がうまくフォローしてくれるんだ』という気持ちを子どもたちがもてたようで、今まで静かにしていた子も、特に女の子がどんどん発表するようになりました」
 子どもたちに田中先生の授業の魅力を聞いてみると、
「普通の授業より、いろんなことができるから楽しい」
「田中先生の授業が、いつも面白くて、学校に来るのが楽しみになった」
 田中先生は、教師が授業力をつけるには、どうすればよいかを次のように述べている。
 授業の実践力をつけるには、実際に授業を見させて頂くのが一番いいですが、なかなかそんな時間はありません。
 田中先生は、本とか教育サークルとか。身のまわりのもの全てを「これ授業で使えるんじゃない?」という視点で見ています。
 そして、学んだ事を授業で実際に行う。
 サークルや本、インターネットなどで見つけた「これ面白そうだなぁ」「子どもたち、喜びそうだなぁ」「力がつけられそうだなぁ」というものを、授業でまねをして、追試(ついし)を行います。
 お笑いのネタの情報源は、田中先生の場合はテレビです。コマーシャルは子どもたちも大好きです。
 自分で授業の教材(ネタ)を探してきて、研究して、実際に授業してみて、記録して、反省して、また授業して、時に先輩教師にみてもらって、ダメ出しされて、でもまた教材研究していきます。
 その繰り返しを行うことで、初めて教師は力をつけます。
 これをさぼると、ダメダメ教師になってしまう、怖い怖い。
(田中光夫:1978年北海道札幌市生まれ、東京都公立小学校教師(14年間)を退職後、フリーランサーの教師(公立・私立学校で病気休職の教師に代わり学級担任を行う)になった。全国で教師の働き方改革を進める「アクティブ・ワーキングセミナー」を開催。イラストレーターとしても活動している)

 

 

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読み聞かせ合う学級づくりと、私の実践の根を太くしてくれたこととは

 石川 晋さんは、学生時代から教育系のサークル活動に取り組み、自信を胸に教壇に立ちました。
 しかし、初めて授業を持った中学校三年生の教室は、授業にならなかった。
 立ち歩き、授業妨害、トランプをする、「談笑」しつづける、激しく反抗し、時には机を投げつける。
 担任の先生が、何度も家庭訪問をしてくださるが、状況は好転しない。くやしさとみじめさに身の置き場もなかった。
 最後に教室に持ち込んだもの、それが「絵本」だった。半ばやけくそであった、と思う。
 石川さんがこの時、教室に持ち込んだ絵本、それは『急行「北極号」』(河出書房新社)である。ゆっくり読むと15分以上かかる作品だ。
 教室の前の席に座り、絵本のカヴァーをはずし、おもむろに読み始める。
 生徒はいつものように立ち歩きしているが、もうお構いなし。ひたすらただ読む。
 するとナント、立ち歩きしている男子たちがいつのまにか、読んでいるぼくの前に座って聞いているではないか。
 最初の5分で、騒然とした学級が静かになった。
 ふだんは大騒ぎをする男子生徒が、かぶりつきで読み聞かせを受けた。
 読み終わると拍手が…。
「石川、こういうんならまたやってもいいぞ」とかぶりつきの生徒がいった。その場面を今でもはっきりと覚えている。
 さらに「物語」の読み聞かせをしようと考えたきっかけは、大西忠治氏の文章との出会いである。
「読み聞かせの継続が教師を鍛える」というその文章に大変引きつけられた。
 今まで読んだ物語の中で、圧倒的な支持を得たのは、森絵都『宇宙のみなしご』(講談社)である。
 出会った時「あ、これだ」と思った。
 読みながら、夜ごと屋根に登る少年たちの姿が目に浮かんでくる。
 毎日五分間ずつ国語の授業の最後に読み聞かせた。生徒には大好評であった。
 教師には、学級づくりや授業づくりの中で伝えたいメッセージがある。
 でも、それが生徒の中になかなか通っていかない。
 しかし「読み聞かせ」で絵本や物語をはさみこめば、伝えたい内容が伝えたい相手に届くまでに「緩衝物」が入る。
 柔らかく教師からのメッセージを伝えることができる。
 強圧的な指導に従わない生徒の心に届く理由があるようだ。
 しかも、生徒も教師も気持がいい。本当に読み聞かせはすぐれた手法なのだ。
 生徒の誕生日には、仲の良い友達からの手紙を学級通信に載せることにした。
 本人から朝の会で直接読んでもらう。読む方も聞く方も照れくさい。
 だが、本人の肉声によって初めて伝わるものがある。ことばが輝いている。
「絵本」の読み聞かせも、生徒同士でさせたい。
「読み聞かせ合う」ことで、「聞き手」への関心が広がる。
 聞き手への関心の広がりが関わり合いの心を育てていく。
「読み聞かせ」は人生を豊かにし、人と人とをつなぐアイテムにもなるのだ。
 好きな絵本を読んで聞かせることの素晴らしさを体験した生徒は、大人になった時、きっと絵本を自分の子供達にも読んであげたいと願うはずだ。
 私は、教師になった当初は、向山洋一さんの法則化運動の影響を受けて、授業記録を書きつづりました。
 授業をいくつかに区切り、教師や生徒の発言や所作を克明に記録して、自分の分析を加えるという形式でした。
 それをサークルに配布して意見をいただくことを繰り返したことは、自分の授業力向上のために決定的な役割を果たしたと断言できます。
 書くことと並んで重要なことは、読むこと、聴くこと、対話すること、そして楽しむことでした。
 教師になってからは、教育書、詩集、絵本などを一生懸命読みました。何しろ私は「読み聞かせ教師」でしたので、教室でも絵本や物語をたくさん読み聞かせしていました。
 音楽はクラシックから洋楽、邦楽なんでも聴いていました。苦しいときに、自分を助けてくれたのは、ちょっとしたユーモアや笑顔と、すてきな音楽だったと思います。
 そして、とにかくたくさんの人と「対話」してきました。様々な市民運動に参加して、直接、学校教育とはかかわらない様々な職種の人たちと、いろんな話をしてきたことが、教師になって10年を過ぎたことから、教室に役立つようになってきました。
 楽しさをベースにした、書く、読む、聴く、対話する、楽しむといった営みが、知らず知らずのうちに、私の実践の根を太くしてくれたのではと思います。
(石川 晋:1967年北海道生まれ、北海道公立中学校教師。NPO法人授業づくりネットワーク理事長。教科指導と学級経営の連動を意識した読み聞かせ活動を展開中。また、教師の学びの場づくりを精力的に展開中である)

 

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担任を持ったとき、子どもを育てる1年間の戦略や戦術をどのように持てばよいでしょうか

 担任として自分の学級を持つと、4月の段階で自分の学級の子どもたちが学校生活の中で、どのように成長し、1年後にどういう姿になっていてほしいかを考えます。
 子どもの成長を戦略的に考えます。
 土作先生は、子どもが「成長する」ということは、具体的には
 「何事も自分で考えて、自分で行動していく力を身につける」
 ことができるようになることであると考えています。
 しかし、はじめから主体的に行動できる子どもはそう多くありません。
 日々の学校生活の中で、徐々に培っていくことになります。
 そのためには、最初から子どもに物事の判断や行動のすべてを投げるのではなく、まずは教師が子どもたちの行動を引っ張る、指示するなど、ある程度子どもの行動への介入が求められます。
 教師は年間を通して、だんだんとその介入の比率を減らし、子どもたちが物事に対して、自発的に動く比率が高まることが子どもの成長の証になります。
 そのための「戦略」と「戦術」とは、
 まずは1年間(4月~3月)で、どのような子どもになってほしいかいうイメージを持ちます。
 4月は新しい学級の子どもたちに指導しますが、子どもたちはまだ共通の規律や強制の中におかれていない、いわば寄り集まっただけの状態です。
 ですから、子どもの言動や姿勢に関してかなりの部分を教師がテコ入れし、あれこれ言うことが多くなります。
 この時期は子どもの主体性は低く、教師主導で学級が動いていきます。
 教師がどんな工夫を凝らしても、いきなり自分で考えて行動できるように子どもを変えることは至難の業です。
 かといって、1年という漠然とした時間を目標に、毎日の指導を行うのは容易ではありません。
 日々の指導を考える上で、子どもの成長した姿を考える際、具体的・実際的な「戦術」に対して、より中長期的な段階のイメージや枠組みのことを「戦略」といいます。
 「戦略」を遂行するために行うのが「戦術」です。
 つまり、「戦略」に基づいたあらゆる「戦術」を通して、子どもたちを育てていくのです。国語の実践を通して、戦略の過程と具体的な戦術を見ていきます。
 たとえば、
戦術1「漢字練習帳を使って子どもの自主性を育てる」
 年度の最初に、その学年の漢字練習の教材が配られます。
 漢字ドリルや漢字練習帳のようなものです。
 漢字練習帳を使った宿題では、漢字練習帳の指示通りに漢字の練習を行なってくれば、本来やるべきことは達成されていると言えます。
 しかし、教師に指示されたことのみを忠実にこなしているだけでは、子どもの主体性は低いままです。
 子どもの自主性を育てる教材として漢字練習帳を用いる時に、最初は教師が余白の使い方を指導したり指示したりする必要があります。
 徐々に子どもの主体性が高まってくると、漢字練習帳の余白に隙間がないほど自分で漢字の練習をしたり、漢字の意味を書いたりするなどの変化が見られます。
 土作先生は子どもたちにこう伝えます。
 「昨日をひとつだけ超えなさい。」
 「昨日から1ミリだけ前進しなさい。 」
 子どもに対し、最初から自力で漢字練習帳の余白を全部埋めることを求めるのは無理があります。
 しかし毎日、漢字1つの意味や成り立ちを余白に書いてくるようにさせ、少しずつでも進めていけば、1学期終わる頃には余白をだいたい埋めてくるようになるのです。
 土作学級ではゴールデンウィーク前後には、漢字練習帳の余白に意味を書いてくる子どもが出てきていました。
戦術2「自ら進んで辞書を使う子どもを育てる」
 辞書を使う習慣を子どもたちにつけさせたい時には、自主的に学習を進めていくためにも、普段何気なく使っている言葉について、辞書を使って改めて意味を確認させます。
例:「『赤』は辞書にはどのような意味が書いてあると思いますか?」と子どもたちに尋ねます。
 学級づくり改革セミナーでは土作先生が、参加した先生方一人ひとりを指名し、答えていただいてもらっていました。
 先生方の回答は、「血の色」「共産主義」というものでした。子どもたちからはどんな答えが返ってくるでしょうか。
 ちなみに辞書には以下のように書かれています。
あか【赤】[名]
 1 三原色の一つで、新鮮な血のような色。また、その系統に属する緋(ひ)・紅・朱・茶・桃色などの総称。
 2 《赤ペンで直すところから》校正・添削の文字や記号。赤字。「—を入れる」
 3 《革命旗が赤色であるところから》共産主義・共産主義者の俗称。
 4 (「あかの」の形で)全くの、明らかな、の意を表す。「—の他人」「—の嘘」
 土作先生は言います、
 「普段当たり前だと思って使っている言葉でも、実は辞書をひいてみれば、君たちが思っている以上に広くて深い意味があります」
 「思わぬものを見つけたら、漢字練習帳の白い部分に書いて持ってきましょう」
 最終的に漢字という分野で、子どもたちが自分たちで率先して学習を進めていくように育てるためには、子どもの学習へ向かう姿勢に対して、教師の介入の比率が高い最初の段階で何をする必要があるでしょうか。
 授業の中で子どもが分からない言葉が出て来た時に、教師が子どもに「これはどういう意味?」と質問します。
 例えば「プレゼンテーション」 という言葉が出てきたときに、この語の意味が分からない子どもに対して、
 「『プレゼンテーション』を辞書で引きなさい。」
 というところまで指示していては、子どもの自主性が育つとは言えません。
 どんな教科であろうと、分からない言葉が出てきたら、子どもたちが自ら辞書を引くような状態こそが、学習へ向かう子どもの主体性が高い状態と言えます。
 子どもが辞書を日常的に使う状態にするには、まず辞書そのものを子どもの身近に置く必要あり、そのためには、教師が「国語辞典使い方ゲーム」など、辞書を使ったゲームをたくさん持っておくことが必要です。
 授業のネタは持たなくていいものではありません。自分の立てた戦略を実行に移す時に、子どもたちの変化に直接作用する大事な道具です。
 小ネタは「戦術」であり「戦略」ではない。
 小ネタをたくさん持っていることは重要です。小ネタは戦術にあたります。
 しかし、戦術は戦略に基づいて利用されるものです。
 そのネタをどうしてこのタイミング・この時期に使うのかということに対して、きちんと説得力のある根拠をもたせるためにも、
(1)子どもたちの現状はどのようなもので
(2)子どもたちには次にどんなステップに進んで欲しいのか
(3)そのためにはどんなネタ使った方がいいのか
 ということをきちんと確認しておくことが大切です。
 土作先生がミニネタをつくるさいのコツは「テレビを観ている時とかに、面白いと思ったことを、いかにして教育現場に持ち込むか」ということを考えているのだそうです。
 子どもたちにとっては「面白い」から「わかる」。「わかる」から「できる」ということです。
(土作 彰:1965年大阪府生まれ、奈良県公立小学校教師。授業のネタを収集、何かが足りないと気づき、深澤久氏の学級を参観し衝撃を受け教師に必要な哲学を研究。
 学級経営を成功させるには「教える」「繋げる」「育てる」によって、知的に楽しくビシッとしまる「学級づくりの3D理論」を提唱し実践している。日本教育ミニネタ研究会代表、学級づくり改革セミナー主催)

 

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子どもたちと担任が一緒に遊ぶと、遊び通じて子どもたちは人間関係を学ぶようになります

 昼休みや放課後、子どもたちと一緒になって運動場を駆け回っています。
 ドッジボールや、野球に似たキックベース、リレー走など、みんなが参加できるゲームを楽しんでいます。
 子どもはゲームの中で「喜びと悔しさ」を味わい、「チームワーク」の大切さを学び、「人間関係」を築いていくのです。
 キックベースは、投手がマウンドから転がしたサッカーボールをけり、ベースを回り、得点を競うゲーム。
 一学期は毎日のようにキックベースをしていたので、校長から「またキックベースですか」とよく笑われました。
 私自身は幼いころ、休み時間に担任と遊んだ経験がありません。
 それが当たり前と思っていましたが、教育実習をした長崎市内の小学校では、子どもと担任が毎日のようにキックベースをしていました。
 笑顔いっぱいの姿を見て「先生になったら私も始めよう」と、心に決めました。
 私の事務作業などは後回しにしても、とにかく子どもと一緒に遊ぶことを優先し、クラス全員でゲームを楽しみます。
 私にしかられたり、友達とのささいなトラブルで、落ち込んでいたりした子どもも、遊びが楽しければ一日を終えたときに「きょうも楽しかった」と思えるものです。
 しかし「何となく元気がないな」と感じるときは、子どもの異変を知らせるサインです。
 遊びを通じて、子どもの感情の変化を肌で感じ、心の成長を知ることもできます。
 ある男の子は一学期のとき、ほかの子がミスをするたびに不満げな顔をしていましたが、三学期になると誰より先に「ドンマイ」と声を掛けるようになりました。
 遊びながら、他人を思いやる心が育っていった例だと思います。
 最近の子どもは習い事が増え、大勢で遊ぶ機会が少なくなりました。
 遊びの中で子どもたちがつながり、支え合い、人を信じる気持ちをはぐくんでほしい。
 そう願いながら「キックベースをしようよ」と呼び掛けています。
 中山先生は、長崎歴史文化博物館を利用した授業の実践で、小学校中学年の活用の仕方として、博物館の「施設や公共性」に着目した「公共のマナーについて学ぶ」「バリアフリーについて学ぶ」という実践をおこないました。
 同じく博物館を利用した中山先生の実践として、社会科見学で博物館の周辺施設の見学時に、博物館を昼食会場として利用し、見学の時間を確保している。これも新たな博物館の利用方法の一つであると思う。
(中山美加:長崎市立小学校教師を経て長崎県公立小学校教頭) 

 

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授業や子どもの生活の一部をエピソードとして蓄積し、発信すれば教室を楽しくし、保護者の苦情も少ない

 野口晃男さんは小学校長のとき「学校だより」を書いた。
 子育てに奮闘する保護者と若い教師にメッセージを伝えるためだ。
 小学生を持つ保護者は苦労もあると思うが、子どもに最もメッセージを送りやすい時期でもある。
 「一緒に成長するつもりで、子育てを楽しんで」という思いで野口さんは書いた。
 親が子どもに「学校、楽しかった?」と、親が子どもと会話を切り出すときによくする質問だ。
 しかし、野口さんは、
 「具体性がなく、子どもにとっては難しい質問」と言う。
 「きょうは誰と遊んだの?」の方が数段分かりやすい。
 親も子どもの様子が想像できる。
 最も大事なことは「親がどんな話題に関心を示すかで、子どもは話題を選ぶようになる」こと。
 楽しいことを話すという行為は、その子に「プラス思考」という素晴らしい力を育てる。
 その反対で、親がマイナス面にだけ関心を寄せると、子どもは自分の受けた被害の部分だけを学校から持ち帰ることになる。
 子どもの、わがままとのつき合い方、あいさつや手伝いの大切さなど、家庭で実践できる子育てのヒントが随所に書かれていた。
 たとえば「校長室の窓から62号」には「子どもを悪くする3つの方法」が次のように書かれている。
 入学式で入学のお祝いを述べたあとで、保護者の皆様方に子どもを悪くする3つの方法を話しました。
 一つ目の方法は、子どもの前で近所の人にあいさつをしないという方法です。
 近所の人だけでなく、知っている人にもあいさつをしないようにするのです。
 そうすれば、子どもは間違いなく陰気で礼儀知らずの人間に近づいていきます。
 二つ目の方法は、家の中で手伝いをさせないという方法です。
 家のみんなが働いているのに、遊んでいても平気でいられるような子にするのです。
 そうすれば、子どもは学校でもそうしますから、そのうちに多くの友達からの信用を失い、最後はひとりぼっちになってしまいます。
 特に掃除をさせないのがこの場合の一般的な方法です。
 三つ目の方法。それは子どもの頭を悪くする方法です。
 それは、子どもの前で友達の悪口や、近所の人の悪口や先生の悪口を言うことです。
 この方法が効果的である理由は、とてもはっきりしています。
 お父さんやお母さんが悪く言っている人の話は、どんなに素晴らしい話でも、その子の心に響かないのです。
 いま、皆さんに、子どもを悪くする3つの方法を話しました。
 反対に、子どもを良くする方法はたくさんあります。
 これから一つ一つ実践し、子どもを良くする方法を工夫し、ご家庭の皆様とともに協力して育てていきたいと考えています。
 「一部分でも心に残る部分があればうれしい」と野口さん。
 「学校への批判にどうこたえるか」は、家庭や地域との連携を目指す、学校経営者の目がうかがえる。
 心配する声も寄せられた、雨の中の水泳教室や自転車教室。
 保護者や地域住民の不安を解消するため、実施の狙いや当日の子どもたちの様子など情報公開に努めた。
 36年の教員生活。子どもの純真さは変わらないが、親を取り巻く環境は大きく変わった。
 「車社会によって目的地には早く着くが、手をつないでの親と子の会話などの楽しみをなくした部分も」
 「むだに思えるような時間こそ大切にしてほしい」とアドバイスする。
 野口さんが大切にしている写真がある。
 退職を迎えた中野小の校長室で、子どもたちの笑顔に囲まれた一枚。
 校長室のドアは常に開いていたという。
 「校長だから偉いわけではない。門構えや地位、服装などの見た目で人を判断したり、物おじする人にはなってほしくない」と言う。
 「大切なのは心。一対一で付き合える人間性を養ってほしい」と願う。
 野口さんの教師時代の学校実践の特徴は、次のようである。
 野口さんは、小さいころから叱られることがきらいだった。
 常に叱られない方法、自分が楽しむための方法を考えていた。
 野口さんは教師になっても「その場の中で、できるだけ楽しい方向へ」という発想で実践を行ってきた。
 そのような発想の土台の1つが読書。
 野口さん自身、小学校時代から多くのジャンルの短編本を読んできた。
 多湖 輝の「頭の体操」、「サザエさん」「ふりてんくん」などの本を読んできたことが生きている。
 いたずらや冗談といったことができる姿勢。
 瞬間的に演技し「教室の場を楽しく」するような担任でありたいと。
 そのような教師には保護者からの苦情も少ない。
 学級通信も、長い文章よりは、短くポイントを押さえて書き、発信するように心がけた。
 子どもたちの光輝くものを、忘れっぽいので日々メモをする。写真を撮る。
 そこからポイントを押さえ、瞬間、瞬間の価値を見つけて学級通信の記事にした。
 しゃべることが苦手なので、同じことを何度も言うのではなく学級通信で発信する。
 日頃から、そのようなトレーニングを積み重ねた。文章に赤ペンを入れてくださった先輩の存在も大きい。赤ペンを入れられることを嫌がらなくなった。
 野口さんは教師になってからいつもコンプレックスを持っていた。
 次の新しい学校でもうまくやっていけるだろうか?といった不安をかかえていた。
 そんな時に行ったのは、前任校の資料をとっておき、それを参考にしながら改善点を見つけていくこと。
 よって、資料は基本的に捨てずにとっておいた。
 野口さんのすごいところは、その蓄積力。
 いろんな形で細かく集めて、ためて、それが何かを生み出していく。
 教師になってからも、いずれ来るであろう様々な問題を解決、打開するいろんなアイデアを考えてきた。
 いずれくるであろう苦労を先にやっておく。
 そのようにしておくと、何があってもその場で対応できる。
 野口先生の実践を支えているキーワードは「蓄積力」です。
 授業や子どもの生活の一部を、短いエピソードとして蓄積する。
 そして、それぞれのエピソードの価値を分類・整理し、発信する。
 このようなシステムは、情報の発信を意図した蓄積であり、今後、身につけていきたい技能であると感じました。
(野口晃男:岩手県公立小学校教師、県総合教育センター研修主事・県教育委員会指導主事、盛岡市立小学校校長を歴任。子育て,保護者対応,若い教師の資質向上など役立つ「校長室の窓から」を自費出版、週刊教育資料で校長講話を連載)

 

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よい授業づくりをするには、どのように考えて授業をするようにすればよいか

 どんな教師になりたいか、どんな授業を目指すのかが明確でないとよい授業はできません。
 よい授業には、リズムとテンポがあり、子どもの動きは集中し、緊張感がみなぎっている。
 よい授業は、教師が全員の子どもに目を配り、動きを観察し、授業に張りがある。
 よい授業には、浄化作用がある。
 理想は、自分もやっていて楽しい授業。
 授業者に余裕がなければ、よい授業は生まれません。
 楽しい授業づくりを行うには、教師自らが学ぶ楽しさを知らなければならない。
 教材や方法を熟知し、それがあふれ出るようでなければ、子どもの動きを変えることはできません。
 子どもを主体にした授業作りを目指していきたいです。
 授業で大切なのは、子どもから学ぶことです。子どもの本音を引き出し、その本音から授業を作り上げていくことが教師の役割です。
 一流の授業ができるには、相手の気持ちを理解することが出来ること。そういう授業づくりを目指していって下さい。
 その場に応じた指導が出きるようになってはじめて、一体感のある授業ができます。
 板書しているときでも、教師は背中で子どもの空気を感じ、それに対応していく力が必要です。
 机間指導をしているときに、全体の雰囲気を感じながら、進め方を修正していくのです。
 子どもたち全員が出きるようになった喜びは大きいです。子ども同士の一体感、子どもと教師との一体感が生まれます。
 優れた演劇と同じような、感動のある授業づくりがしたいというのが私の長年の夢です。
 運動会のリレーで、声援をあげて応援する時には、子ども、選手、保護者が一体になります。
 勝敗は別にして会場全体が一つになります。そういうことを意識して演出していくことが、教育では大切なのです。
 授業で文句をいったり不平をいったりする子どもがいると、一体感を損ないます。きちんと指導していくことが大事です。
 教師の願いや思いをどのように教材化していくのかが、ネタ作りです。
 子どもに、生きる元気がでるというのは、最高の教材です。
 子どもに「元気」をもたらすことのできる教材づくり、授業づくりをしたいと思っています。
 到達目標がはっきりしていることが大事です。
 人間には得手不得手がある。
 勉強の得意な子ども、掃除の得意な子ども、作業の得意な子どもといろいろいる。
 一律に勉強だけを押しつけるのではなく、作業の好きな子どもはその面を伸ばしていけばよい。
 無理をして詰め込むのではなく、やさしい基礎・基本を指導して得意な面を伸ばしていくようにすればよい。
 大切なのは、子どもが楽しくできることである。
 みんなでワイワイしながら学習している中で、自然にできるようになっていくであろう。
 一人一人の子どもの、出来ない原因を分析していくことが大切です。
 子どものためを思って一生懸命に指導するのだが、効果はさほどあがらないのは、子どもが意欲を持っていないらである。
 授業で失敗しても失敗とは捉えない。やっているときは、私が一番と思うこと。反省は終わってからでいい。
 ネタを重視したシナリオが決まっている授業で、いつも私が思うのは、授業で発表できない子ども、意見を出せない子どもをどうするのかということです。
 そういう子どもが、何か意見を出せるような手立てを考えないといけない。
 自分が一番よかったという授業をモデルにして精進してください。必ず上達します。追試をして確かめていってください。
(根本正雄:1949年、茨城県に生まれ、元千葉県公立小学校校長。「根本体育」を提唱し,全国各地で体育研究会・セミナーにて優れた体育指導法の普及に力を注いでいる)

 

 

 

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面白くて、わかる教材「学習ゲーム」というのは、どのようにして生まれたか

 横山験也さんは「学習ゲーム」という新しい分野を創り出した人だ。
 横山さんが学習にパズルやゲームを取り入れた理由を次のように述べています。
 まじめに授業すると、子どもたちののりが悪い。
 それで、常に笑いをとるような授業したんです。
 そしたら、子どもたちが食いついてきた。
 また、パズルやゲームといった楽しみを取り入れたら、ものすごい喜びよう。
 やる気とは「楽しみをまぶすことで、引き出されるものかもしれない」と思って、パズルを作り始めたんです。
 つまり「わかる=おもしろい」というのが、それまでの教師の方程式だったけれど、横山さんは「おもしろい=わかる」を目指して教材開発をした。
 面白くて、楽しくて子どもが「もっとやろう」と言う活動を通して勉強ができるようにするのは簡単なことではない。
 面白いだけなら「エンタの神様」に出てくる人の方が圧倒的に面白いだろう。横山さんの場合は「おもしろい」仕掛けを学習の中に入れているのだ。
 横山さんの活動が全国区になったのは、小学館の学年誌がきっかけでした。
 横山さんが、ひょんなことで会った小学館の編集の人に、授業にパズルなどを取り入れていることを話したら「ぜひうちの雑誌にも!」といわれました。
「小学一年生」などに載せてもらったら、これが大好評。授業中の楽しみが、家庭でも受け入れられることがわかりました。
 それから、ゲームを絡めた家庭学習用のパソコンソフトやクイズ中心の児童書を作ったら、なんとすべて大当たりでした。
 そのころ、算数の学力向上にはパソコン教材が有効だと気付いたときだったので、大好きな算数のために、僕もなにかできるかもしれないと退職。
 退職したのは、伊能忠敬に感動したからです。
 横山さんが40代半ばに、江戸の測量家・伊能忠敬について知る機会がありました。
 50歳で天文学を勉強し、生涯かけて実測し日本地図を作った人。年をとってもやればできるんだって感動しました。
「デジタル算数の祖」といわれることが、横山さんの夢になりました。
 横山さんは「誰にでも分かって貰える教え方をみつけたい」「算数で泣いている子を算数好きにしたい」との思いから、自作教材などを作り続け、パソコンと出会う。
 コンピュータの持つ表現能力、高速な演算処理力で、横山さんの表現領域は一気に開花。
 自らプログラミングを学び「わかりやすい教材を自分の手でつくる」ことを続けて、開発したソフトは1700本を越えた。
 横山さんの教材を使っている教師は次のようにのべている。
 初めの出会いは書籍だった。教室ツーウェイの別冊で「楽しい学習ゲーム」というのが出ていた。その編集長をしていたのが横山さんだった。
 パズルやゲームを通じて学習を進めるという方法は面白い視点だと思った。
 教材が出る度にコピーして教室に行くと、いつも子どもが集中した。
 その子どもたちの姿を見ながら、これなら教科力がなくてもできるかもしれないと思ってしまった。
 私もいろいろ自作してみたけれど、上手くいかない。
 きちんと教材・教科を分析する力が無ければ、楽しくて学力のつくものなどできないのだった。
(横山験也:1954年生まれ、千葉市立小学校教師(24年間)を経て、教育ソフト開発研究所代表取締役、さくら社代表取締役。算数ソフト開発の第一人者。ICT算数研究会会長)

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魔法の言葉「AさせたいならBと言え」は、子どもたちの心を「自主的にさせる」指示である、どのようにつくればよいか

「おへそをこっちむけてください」
 子どもたち,特に低学年の子供たちを教師側に向けさせる,有名な指導言だ。
「熱いジャガイモをほおばるように口をあけて,声を出しましょう。」
 全校合唱を指導した時に,こう指導すると,子どもたちの歌い方がガラッと変わった。
 これもまた有名な指導言だ。力のある教師たちはこれまで経験の中で,このような指導言の効果を実感し,教室で使ってきたのである。
 そうした指導言を知らない教師が、こうした指導言によって子どもたちが動き出す光景を見ると,これらの指導言は「魔法の言葉」となるにちがいない。
 私たちは,こうした先達の素晴らしい実践を学び続ける必要がある。
「先生の方をむいてください」と指導するよりも「おへそをこっちにむけてください」と指導した方が効果的であること。
「大きな口をあけて歌いましょう」と指導するよりも「熱いジャガイモをほおばるように口をあけて…」と指導したほうが効果的であること。
「○班静かにしてください」と指導するよりも「△班の聞き方が素晴らしい。みんなにまねしてほしいな」と指導した方が効果的であること。
 これらの様々なパターンの「魔法の言葉」を明確に方向付け,価値付けをした第一人者が岩下修氏だ。
 岩下氏は,この「魔法の言葉」を「AさせたいならBと言え」と原則化し,多くの教室の教師の言葉指導を変えていった。
「魔法の言葉」の仕組みを岩下修氏は「AさせたいならBと言え」の中で次のように述べている。
 子どもたちの心を「自主的にさせる」指示の開発こそが必要なのである。
「AさせたいならBさせよ」は、まさに子どもたちを自主的にさせるために設けられた原則なのである。
 子どもへの指示は直接的なものより,間接的なものの方がよいということだ。
 これを意識するとしないでは,学級経営,授業運営も大きく変わってくるはずだ。そして,子どもの力も変わってくるはずだ。
 例えば、リコーダーの指導で「もっときれいな音でふきなさい」と指導しても、どうしていいかがわかりません。
 きれいな音とはどういう音なのか、イメージできていないからです。
 見本を見せればいいのです。イメージができます。
 聴かせればいいのです。まずは「きれいな音とはこういう音だ」ということを教えなければいけません。そうすれば、きれいな音というのがイメージできます。
 次は、具体的な方法です。
 きれいな音のイメージができても、それだけではダメです。
 どうやったらきれいな音が出せるかがわからないからです。
 たとえば、次のように指示します。
「シャボン玉を割らないように、そっとそっと少しずつふくらますようにふいてみよう」
 音がきれいになります。
 シャボン玉をふくとき、一氣に強くふく人はいませんね。そんなことをしたら、すぐに割れてしまいます。
「すーっ」というようにそっとふきます。このふき方が、リコーダーのふき方と似ているのです。
 子どもたちが経験したことがあるもの、つまり
「子どもたちにとって身近なものに例える」と、子どもは変化します。
 技術的なことも教えます。タンギング、運指(指使い)、息の入れ方。
「例え」を使うのもよいです。
(1)跳び箱運動、着地の指導をするとき、次のように指示します。
 ・「忍者のように降りなさい」
 ・「猫のようにふわーっと降りなさい」
 子どもたちの着地は、ドンからスッへ。音をたてない、柔らかい着地に変化します。
(2)「勉強しなさい」といいたいとき、
 ・「音読上手になったって、先生がいってたわ。お母さんに聴かせてね」
 ・「10マス計算、お母さんとどっちが速いかな。競争しましょう」
 ・「漢字カルタをやりましょう」
(3)「宿題をしなさい」といいたいとき、
 ・「終わったら、いっしょに『○○○○』(テレビ番組名)を見ましょうね」
 ・「終わったらおやつですよ」
 ・「今日は、何分でできるかしら」
 ・「わからないところは、聴いてね」
 ・「どんなお話しか、教えてね」
(4)「はやくしなさい」といいたいとき、
 ・「ビデオ、早送りー」
 ・「制限時間、あと5分です」
 ・「雷が落ちるまで、あと3分!」
 指示の仕方一つで、子どもはがらっと変わります。いろいろ考えてみてください。
(岩下 修:名古屋市生まれ、公立小学校教師、立命館小学校教師、立命館大学非常勤講師を経て、名進研小学校国語顧問教師、立命館小学校国語教育アドバイザー)

 

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どの子も発言したくなる授業をするには、どうすればよいか

 今、教師と子どもの「間違い観」が問われていると言えます。
 「間違い観」ひとつで、授業はまるっきり変わっていくのです。
 「間違い」が、深い学習にとってどんなに重要か、「間違い」が楽しい授業にとって不可欠でさえあることを、授業の事実で体験させていくことです。
 そうすれば、今まで沈黙を守っていた子どもたちが、どんどん発言するようになります。
 発言することで、授業が何倍もおもしろくなることを、子どもたちは実感していくのです。
 すると、授業が活気に満ちたものになります。
 個性的な意見がつぎつぎと出されるようになります。
 ときには、対立意見が出されます。傍観などしていられなくなります。
 友だちがどう発言するか、ハラハラしながら聞くことになるのです。
 発言したくて、うずうずしてくる子もでてくるのです。
 ほんとうの意味で、共同の学びができるようになります。
 あすの授業を楽しみにする子どもたちが増えてくるのです。
 教師は、みんなで話し合うことに値する教材を用意し、授業のどこで、どんな話し合いをさせるかだけを準備しておくだけでよいのです。
 授業においての子どもの発言には、深い意味がある。
 授業中に子どもが発言するようになると、
(1) 授業だけでなく、子どもの生活も生き生きとする。
(2) 学ぶことが楽しくなる。「なぜ学ぶのか」について考えるようになる。
(3) 次第に、子どもたちの個性的な意見が次々と出されるようになる。発言しない子も傍観などしていられなくなる。
(4) 自分の間違った意見や、友だちの間違った意見などを聞いて、子どもたちがお互い協調するようになり、明日の授業が楽しくなる。
 教師が、子どもたちの授業中の発言を保障し、子どもたちが自発的に発言する環境を整えてあげることが大切である。
 そのためには、子どもたちが「間違うことを保障」してあげることである。
 子どもが、授業で生き生きできないのは「間違い」や失敗を恐れているからである。
 「間違い」をしないために、沈黙を守るのである。
 沈黙は、恥をかかないための最良の手段でもある。
 「間違い」が深い学習にとってどんなに重要か、「間違い」が楽しい授業にとって不可欠でさえあることを、授業の事実で体験させていくとよい。
 そして教師は、みんなで話し合うことに値する「教材」を用意し、「授業のどこで、どんな話し合いをさせるか」だけを準備しておけばよいのだ。
 一人ひとりの発言に、大袈裟でも丁寧にはげまし、その個性を褒めることが大切である。例えば 「よくそんなところに気づいたね。すごい」と。
 「正しいこと」を求めるのではなく、彼らの頭に自然に浮かんだ疑問、意見、それ自体を求めればいいのだ。
 そして発言は強制せず、発言し出すのを待つことである。
 授業のリラックスした状態が、じっくり考えたり、自分の発想を練るためには大切である。
 そのためには、子どもを不安にさせないことがたいせつである。
 例えば、指名などを行ない、考えてもいなかったことを急に言わされたり、黒板にだされたりしたら、子どもはどきまぎしてしまう。
 不安は考えや発想の障害になるからだ。
 学ぶことが楽しくなると、子どもは頭脳の扉が開く。
 大人が考えてもいないようなすばらしい発想があふれ出てくる。
 だからどんどん吸収することが可能になる。
 発言はいつのまにか授業中だけでなく、いじめや暴力への反発の叫び、節度があり自由で楽しい生活にするためのものになるに違いない。
(今泉 博:1949年北海道生まれ、東京都公立小学校教師、北海道教育大副学長(釧路校担当)を経て松本大学教授。「学びをつくる会」などの活動を通して創造的な授業の研究・実践を広く行う) 

 

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授業を成功させるために、教材の解釈と授業の展開は、どうすればよいか

 授業の展開を成功させるためには、授業が明確な方向性を持ち、単純化されていなければならない。
 それではじめて授業は力を持ち、リズムとドラマを持つ。
 根本的には、教材の方向性と授業の方向性をどこで一致させるかということが、授業展開を成功させる条件である。
 授業展開の方法を考えるには、
(1)教材の方向性を考える
(2)自分の方向を考える
(3)現実の子どもを考える
(4)子どもに実現したいことを考える
(5)教材のなかからもっとも適切なものを抜き出し拡大する
 一つの教材によって方法論を持つことが、授業での教師の方向性であり、授業に方向性があることである。
 授業展開を単純化しようとする場合は、何をどう切り捨てるかということが大事になる。
 授業の展開を成功させるためには、
(1)教材の解釈
 教材を一般的にわかるとか説明できるということではない。
 教材を分析し、自分に問いかけたり、疑問を持ち、発見・創造したりする。
 そのなかから新しい疑問、思考、論理とかを積み重ねていくことである。
 全人間的に教材と対面し、専門家に近い読みと解釈、自分の考えを持つこと。
 深く読みとることができるまでおこなう。
 血の出るような思いでつかみとったことが、生きた知識となり、授業で生き生きと子どもにぶっつけることができる。
 そういう解釈をするためには、すぐれた人生経験を持ち、職場に授業を中心とした研究体制ができていることが必要となる。
 荒い一般的理屈だけの読み方を、みんなに否定される職場体制があること。
(2)授業を構造化する
 教材の解釈を学級の一人ひとりの子どもとつき合わせ、かみくだいていく。
 現実にいる学級の一人ひとりの子どもを頭に入れての教材解釈である。
 子どもたちに何をどのように考えさせ、教えようとするか。
 教師がひとりの人間として読み取り解釈したものを、学級全体や一人ひとりの子どもと具体的につき合わせ対策を考えていく。
 具体的に教材が子どもとつながり構造化されるわけである。
 何を教え込まなければならないかを、現実の学級を対象にして考え決定する。
「何を取り上げ、何と何は切りすてるか」を決定する。
 教師が「読み取ったもの」「解釈したもの」「疑問に思ったもの」「発見したもの」のなかから、こんどの授業では「何を取り上げ、何と何は切りすてるか」を決定する。
 授業の展開に方向性を持たせるために、単純化し明確にするために惜しげもなく切りすてる。
 子どもに理解困難だと思われるところをみつけだしておく。
 そして、子どもの状態に即して教えたり、考えさせたりすることができるようにしておく。
 重要な問題について、子どもがどのような思考や解釈のあやまりをするか予想を立てておく。
 それに対して教師としての説明の仕方とか、反ばくの仕方とかを考えておく。
 この作業のとき、教師自身がそれまでの自分の解釈や考えを、もう一度疑ってみたり、幾つかのちがう考えや解釈をつくり出しておくことも必要である。
 これにより、授業展開を豊かにしたり、子どもの考えを否定したり、反ばくしたりすることもできるからである。
(3)教材を分析
 教材にはかならず授業展開の核とか中心とかになるものがある。
 授業はそれを手がかりにして展開していく。
 それを教師がしっかりとつかまえておかないと、授業展開はスムーズにいかない。
(4)授業展開のなかでの新しい発見
 実際の授業展開で教材に新しい発見をするときがある。
 例えば、教師自身が発見する場合、子どもの疑問を契機にして発見する場合、子どものすぐれた発言からの発見がある。
 授業で新しい発見ができるのは、教材を媒介にしながら激しく教師と子どもが体当たりし合うからである。
 そのことにより、教師や子どもを変えていかなければならないのが教育の仕事である。
 それができるためには教師が、
 1 ものを鋭くみぬく力を持っていること。
 2 相手の心の内側にはいり、相手の心の動きを的確に追っていくことができること。
 3 豊かで、大きく、強い追求力と実践力を持っていること。
(5)教材解釈と展開の関係
 教材の説明と思考を区分けする。
 教材の解釈と思考をする場合は、次の区分をはっきりする。
 1 教師が教材を明確に説明することによって、既成の法則・原理・知識をはっきりと教え込む。
 2 子どもに考えさせ・追求させる。
(斎藤喜博:1911年-1981年、群馬県生まれ。1952年に島小学校校長となり11年間子どもの可能性を引き出す学校づくりを教師集団とともに実践し、全国から一万人近い人々が参観した。退職後全国各地の学校を教育行脚、「教授学研究の会」を主宰した。多くの教師に影響を与えた昭和を代表する教育実践者)

 

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授業でどの子どももできるように机間指導するときの「○つけ法」とは

 愛知教育大学教授である志水廣先生が開発された「○付け法」とはどのようなものでしょうか。
 教師が授業中に「できた子どもからノートを持っておいで」という指示は、できない子どもはノートをもっていくことができません。
 教師が本当に手立てをしたい子どもは、できない子どもだと考えます。
「○付け法」は机間指導して、どの子どもにも手立てできるようにと教師が働きかけるのです。
「○付け法」とは、子どもが問題に取り組んでいるときに、教師が机間指導して、解決過程や結果に対して、ノートに○をつけていく方法です。
 即時評価し指導するのが基本です。
 ○をつけるが×はつけない。
 教室の空気が一気によくなりやる気になります。
 ポイントはスピード、声かけです。
 ノート等に問題を解く場面や気づいたことをかかせる場面で、子ども一人ひとりに対して、赤色で○をつけていく方法です。
 教師が子どもの机を回り、○つけ、声かけ等の支援を行いながら、全員の反応を把握していきます。
 子どもに〇をあげる、言い換えれば、子どもを〇にして学校から帰すのが教師の役割です。
 子どもを×にして、×の思いを持たせて帰してはなりません。
 このことを全国の教師に対して訴えたいのです。
 志水式「○つけ法」の精神は、子ども全員が「わかる」「できる」授業を保障することである。
 子ども一人一人に対して赤色で○をつけていく方法である。誤答に○はつけない。
 目標は全員に○をつけることである。「できる」ことの保障である。
 ○つけ法は指導と評価が一体化する技法である。
 授業の導入で、復習や適用題の場面では30人3分間で○つけすることが可能である。
 自力解決問題では7分間で30人の○つけを目標とする。
 〇つけのスピードは、正答だと一人5秒,誤答だと一人15秒の声かけが目標である。
 一人に30秒以上の個別指導をすると授業の集団が壊れます。
 声かけは重要で、声は大きく教室中に広げる。
 子どもの実態はデジカメのように記憶し把握する。
 ○つけ法のよさは、子どもの立場からは達成感,称賛が得られる。
 教師の立場からは、つまずきに即時指導すると、教室の空気が一気によくなる。やる気になる。
 〇つけ法の前提条件として、9割の子どもが解決への見通しを持っていること。
 ○つけ法の練習は,適用題や復習題からやってみる。スピードがついたら自力解決問題に挑戦してみるとよい。
 適用題とは,問題解決の方法を知っている状態である。例えば,筆算のひき算の手順をあてはめていって解決していく。つまり「わかる」の段階は済んでいて「できる」「身につける」ことにねらいがある。
 自力解決問題では問題解決の方法はわかっていない。各自の解決の見通しにしたがって,解決していくことになる。
 それは,成功する場合もあれば,失敗する場合もある。これらをぱっと見て判断して、助言の声かけを出していく。
 自力解決問題での○つけ法は、見通しが正解になっているかどうかを確認し、○つけする。この方法で9割の子どもが見通しを持つように高める。
 とりあえず3分間頑張って○つけ法をして,その時点で,○つけ法を続行するか,一斉指導に戻すかを判断する。
 ○つけ法がしやすい場所を視覚的に特定しておく。
(志水 廣:1952年神戸市に生まれ、神戸市公立小学校教師、筑波大学附属小学校教師を経て愛知教育大学教授。 大学で学部生に算数・数学教育の教鞭をとる傍ら、各地の小学校・中学校のコンサルティングをし、各地の算数・数学の研究会の指導にあたっている。また、授業力アップのための教師塾を開催している)

 

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教師が子どもに魅力ある話し方をするには、どのようにすればよいか

 教師の話し方の基本は、声は全員の子どもに聞こえるように、しかも、明瞭で明るいトーンで発せられなくてはならない。表情や手振り身振りの豊かさも重要である。とくに、笑顔が欠かせない。
 こうした表現力は、意識して努力しないと高まらない。
 ときどき、自分の話を録音して聞いてみたり、大きな鏡の前で手振り、身振りやいろいろな表情をつくったりして、それらが子どもたちにどのような印象を与えるか分析的に検討してみたい。
 そうした努力なしに、魅力ある話し方はできないだろう。
 教師の話術の基礎は、子どもとの対話や会話にある。暇さえあれば、子どもたちと雑談して、おしゃべりを楽しむことを勧めたい。
 教師は多忙で、子どもたちと言葉をかわす余裕もなく、とかく命令的・指示的にふるまいがちである。たとえば「静にしなさい」「早くやりなさい」・・・・・。
 この命令的・指示的な話し方が、教育現場に習慣化し、子どもに向かって命令や指示はできるが、話し合えない教師を増やしている。
 教師の命令的な話し方は、子どもをいらだたせる。
 子どもたちがクラスの友だちにたいしても、同じような口調で接するようになり、攻撃的な人間関係をいっそう強める結果になる。
 そこで、すぐにできることは、指示的・命令的な口調から「勧誘(誘う)」話法に切り替えることである。
 たとえば「早くやれ」ではなく「早くやりましょうね」という「誘う」いい方に切り替える。
 こうすると、子どもと横並びの関係に立って、子どもたちの自発性にはたらきかける親しみのある表現にかわる。
 子どもに注意するときは、楽しいエピソードにして伝えるようにする。
 たとえば、教室のほうきが壊れていたとき、どのように注意すれば徹底するでしょうか。
「掃除用具をていねいに扱うこと。わかった?」と注意する。だが、こんな注意のしかたで徹底するわけはない。
 楽しい話に仕立てて伝えるのである。
 私が小学生のとき担任の先生がこんな話をしてくれた。
「先生が夜遅く教室の前の廊下を歩いていたら、教室のなかからだれかの泣き声が聞こえる」
「そっと戸を開けてのぞいてみたら、ほうきが泣いていたんだ」と、こわれたほうきを見せながら、
「見てくれ。このわたしのからだ。頭と胴体がばらばらだ。トホホホ」と泣き真似してから、
「ほうきだって痛がっているんだ。かわいがってやろうな」
 わたしたちは大笑いしたが、二度と掃除用具を乱暴に扱うことはなかった。
 こんなたわいもない話でも、子どもとは、おもしろがって聞くものなのである。
 いまは、なにごとによらず、あくまでも善意を尽くして子どもをとらえることが望まれる。
 たとえば、子どもが遅刻したとする。時間を守らない、規則を破る、だらしのない子ども、だととらえると、腹が立って叱りたくなる。
 しかし「熱をおして遅れて学校に来たのではないか」「なにかわけがあって時間には、間にあわなかった。だが、がんばって登校してくれた」とみたらどうだろうか。
 そうすれば、ちょうど長距離走で、一周遅れでゴールする子どもを拍手で迎えるように「よくがんばって学校に来てくれたね」と、ねぎらいの言葉をかけたくなる。
 遅刻した子どもを「規則を破った子ども」とみるか「遅れてまで学校に来てくれた子ども」とみるかのちがいである。
 やさしい態度で子どもに接するようにしたいものである。
 たとえば、入院したとき、お医者さんが注射を打ちにやってきた。
「注射ですよ」と医者はつとめて明るい声で告げる。
 そして注射をうつ前に「ごめんなさいね。痛いですよ」といいながら注射したのには驚いた。
 注射は痛いにきまっているが、患者のためにしているのであって、医師が勝手に好きにやっているのではない。
 だから、なにも「痛い注射をしてごめんなさいね」と謝ることはないのである。
 にもかかわらず「ごめんなさいね」といいながら注射をした。
 これが医療現場の患者にたいする接し方である。
 人間にたいする共感的な、かぎりないやさしさの話法である。
 ひるがえって教育現場ではどうだろうか。あまりにも権力的ではなかろうか。
 たとえば「朝からいやな話で悪いが」と前置きして暗い話をするといった、やさしい気配りがあってもいいのではないだろうか。
 教師の中には「子どもは教師のいうことを聞くのはあたりまえだ」と思い上がっている人はいないだろうか。
 教師も、たまには、授業の終わりに「今日はみんな、いっしょうけんめい勉強してくれて、ありがとう」と、いってみたらどうだろうか。
 教師の指導が上手に展開したのは、子どもたちが協力してくれたからだ。ありがたいことだ、こう思える教師になるということである。
 教師の「ありがとう」は、子どもたちに、自分たちは人に感謝される存在なのだということを教え、自尊感情を育てることにも役立つのである。
(家本芳郎:1930-2006年、東京都生まれ。神奈川の小・中学校教師。退職後、研究、評論、著述、講演活動に入る。長年、全国生活指導研究協議会、日本生活指導研究所の活動に参加。全国教育文化研究所、日本群読教育の会を主宰した)

 

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担任すると「いいクラスにしたい」と入れ込んで硬くなり、すぐに怒り、子どもに嫌わる。どう改善すればよいのでしょうか

 学級を担任すると「いいクラスにしたい」と思うのか、私はどうも硬くなる。
 それがつまずきのもとであった。
 自分のクラスとなると、過度に指導責任を感じてしまうのだろうか。
 いざクラスの子どものことになると、気持のうえで「わが子」になり、愛し過ぎて、入れ込んでしまうのだろうと思った。
 学級が荒れて困っている教師がいる。
「いいクラスにしたい」という思い入れが激しい余り、逆に、子どもたちを追いこんでいって失敗する例も多い。
 そういう芽は昔からあった。
 それに近い状況に追いこまれている教師もいた。私はそうはなりたくないと思った。
 自分のクラスに対して甘くしようとしたが、だが、いざとなると、なかなかそうはなれなかった。
「だんだんとクラスの子どもたちに嫌われてきた」と感ずるようになった。
 これが高じると、指導拒否がおこり、指導不成立がおこってくる。
 クラスの子どもたちと親しく交わっている教師をみると、力んでいないことに気がついた。
 私のように「いいクラスにしよう」とあせって硬くなっていない。
 子どもたちに対しては「師弟」でも「親子」でもなく、「友だち」感覚で接していた。
 だから、多少、だらしないところもあったが、そこに親密な人間関係があった。
 見ていると、そういう教師は、自分のクラスには甘かった。
 たとえば、よそのクラスの担任が子どもに三回注意してのち怒るとすれば、自分のクラスの子どもたちと親しく交わっている担任は、四回注意してのち叱るというようにしていた。
 ところが、わたしは逆だった。自分のクラスの子どもには一回目の注意で、もう怒っていた。
 また、自分のクラスの子どもたちと親しく交わっている担任は、ほめることの上手な教師でもあった。
 よそのクラスではあたりまえのことも、それができたら「よくできた」とほめていた。
 これだと思った。
 クラスの子どもは「わが子」ではない「他人の子」なのである。
「自分のクラス」・「わが子」と思うから私物化し、自分の思いとおりにしようと力むのである。
 教師感覚・親子感覚はやめ、友だち感覚で接しよう。そうすれば、多少甘くもできると思った。
 怒るときにも、頭ごなしではなく、忠告ということになろうと思った。
 学級生活のみならず、授業のなかでも甘くした。
 たとえば、提出物も 「よし。そんなにたいへんなら、この提出物はあさってまでに延ばそう。でも、秘密だぞ」
 と、担任の授業だから得をするというようにした。
「そのかわり、忘れるなよ」というと、ほんとうに忘れずに提出した。
 結果的には、他のクラスより早く全員提出できた。
 こう気持を切りかえると、肩から力が抜けた。
 ほっとしたのか、他のクラスの子どもたちと接するように、自分のクラスの子どもとリラックスして接するようになった。クラスの子どもとの距離がぐんと縮まった。
 もともと子どもたちも、担任とは仲良く接したいと思っていたのである。
 教師の態度が変わったから、子どもたちもリラックスして接してくるようになった。
 授業も、少しずつ、自分のクラスが一番やりやすくなった。
 私の国語の授業が好きだという子どもがふえてきた。
 ときどき、けじめのつかなくなることもあったが、「気持を切りかえようぜ」「ここは、いいとこ見せようぜ」というと、その気になって、ほかのクラスに負けないようにとりくむことができた。
(家本芳郎:1930-2006年、東京都生まれ。神奈川の小・中学校教師(約30年)。退職後、研究、評論、著述、講演活動に入る。長年、全国生活指導研究協議会、日本生活指導研究所の活動に参加。全国教育文化研究所、日本群読教育の会を主宰した)

 

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「もう終わり?」という声がでる授業をするには、どうすればよいか

 筑波大学附属小学校の研究授業を見ることができた。
 久しぶりにすごい授業を見た。特に算数の田中博史先生の授業。
 田中先生と目の前にいる子どもたちは毎日こんな授業を行っているのだろうか。いわゆる名人芸。とにかくすごい。
 授業スタイルは昔ながらの教師一人と子ども全員との一斉授業だ。
 ワークショップ型だなんだと、そんなことを考える必要もない。
 教師の圧倒的な力は、授業の雰囲気を動かしてしまう。
 子どもの発言をそのまま受け取り、それを子どもに返す。
 気づくといつの間にか本時の学習問題になり、知らぬうちに解決場面へと導いてしまう。
 60分もやっていたのに「もう終わり?」「まだ話したいことがあったのに」という声が聞かれたのが何よりもスーパーな授業だった証拠だろう。
 田中先生は「先生のための夏休み充電スペシャル」と題し、お笑い芸人とのトークイベントを毎年開催している。その目的は、
「これは、お笑い芸人が、ライブで観客の心をつかむためにしている工夫や技術を授業の中で応用してもらうために始めたことです」
 実は学校や家庭で子どもに教える時も、お笑いの人たちの技術は使える。
 彼らは、観客の反応を見ながら「今日の客はこの話だとノリがよくないな」と思うとネタを変えている。
 学校の先生、そして家庭学習でのご両親は、その工夫をしないことが多い。
 本来は、今自分が説明しているここで、子どもがつまずいているなと思ったら、そこで立ち止まって軌道修正をしなければならないんです。
 しかし、多くの先生や保護者は、とにかく「ここまでやらせなければ、わからせなければ」で突き進んでしまう。
 せっかく子どもの顔が見られるのに、もったいない。台本通りやるのはつまらないです。
 とくに中川家の礼二さんの相方が兄弟ということもあって、台本をまったく書かず、その場の雰囲気でシナリオを決めることが多い。アドリブの達人です。
 礼二さんは、学校の先生も、目の前の子どもが眠そうにしていたら「これじゃ面白くない、問題変えようか、と動きながら授業をしたらいいのにな」と言っていました。
 子どもがボケてたらツッこむ。そんなお笑い芸人的な技術が備わったら、先生の授業力も一ランクあがったと言えるのではないでしょうか。
 家庭でもどうか、子どもの顔をよく見てツッコミを入れてください。子どもをいじる、時には親が間違えることで、子どもの注意を惹きつける。
 こんな親子の勉強のひとときは子どもにとって楽しい時間になりますし、説明役をたくさん引き受けた子どもの学びは、実のあるものになります。
 学校や家庭で、相手のタイプや状況に合わせてコミュニケーションの方法を変えることは重要な気がする。
「子どもの表情に合わせて、次に何をしゃべるか考える練習が必要なのは、学校の先生、家庭学習での親も同じです。さらに言えば、ビジネスでも同じだ」と思います。
 一つ、意外な秘技をお教えしましょう。家で職場で、子どもや部下にフィードバックする時、思っていることを表情に出さない。ポーカーフェイスを心がけてみてください。
 少なくとも「ここはどうして足したの?」と聞いた途端、子どもが書いた答えを消すのを見たら、あ、表情に出してはいけないんだな、と気づいてアクションを修正する。
 そうでないと、消して引き算に書き直して正解を出せたとしても、その子の本質的な学びにはつながらないんです。
 あくまでも表情に出さず、中立を心がけて「まずは顔色をうかがわせず、自分なりの考えで進めさせる」ことも重要でしょう。
 逆に自分の軸があって、基本的に自分で決めてやれるような部下の場合は、早いタイミングでアドバイスしても一向に構わないと思います。
 やり方は一通りではない。人の性格や個性によって付き合い方を変えないと、ポテンシャルを引き出せないんです。
 私は「初めての単元などで間違えるのはあたり前」とつねづね言っています。
 間違える回数が多い子どもの方が、幅が広がる。経験が増える。
 次のチャンスで、失敗を思い出して「あれをやって失敗したことがある、今回は避けよう」と応用がきく。
 いつも一発正解だと、限られた経験しかできないから、何をやったら失敗するかを学べないと思います。まちがいの経験が重要である。
 例えば、子どものまちがいのままに進めてみる。
「なぜ、30分は0.3時間じゃないの?」という、子どものまちがいにはどう対応したらよいか、を考えてみよう。
「なぜ、30分は0.3時間じゃないの?」という子どもの声に答える時に大切にしたいのは、まずは子どものまちがいの道筋を一緒にたどってみるということ。
「0.3時間と答えた子どものまちがいのままに、いったん先を進めてみる」ということです。
 私は、子どもが持っていたテスト用紙をいったん脇によけました。
 そして、手近にあった白紙の用紙を机にひろげ、
「なるほど。30分は0.3時間なんだよね」と子どもにたしかめてから、その紙に30分=0.3時間と書きました。
 そうしておいて、子どもに「じゃあ、40分は?」とたずねると、子どもはすぐに「0.4時間」と答えました。
 私は先ほどの式に続けて40分=0.4時間と書きました。
 つづけて「なるほど。じゃあ50分は?」と聞くと、「0.5時間」
「60分は?」「0.6時間」
 その子どもの言葉をひろって、私が「60分=0.6時間」と紙に書いたと同時に、その子どもは「あれ?」と声をあげました」
 そして、この後、この子どもは「60分は1時間なのに、0.6時間じゃたりない!」と自分で気づくのである。
 田中先生は言う、
「子どもには、まちがった答えを出すに至った考えがあり、根拠があるわけです」
「大人の説明が子どもに伝わらない、そういうときは、子どものまちがいのままに進めてみること」
「そうすれば、子どもが自分でそのつじつまの合わなさに気づく瞬間が来るんです」
(田中博史:1958年山口県生まれ、山口県公立小学校教師、筑波大学附属小学校教師を経て同副校長。全国算数授業研究会理事・日本数学教育学会出版部幹事,隔月刊誌『算数授業研究』編集委員、基幹学力研究会代表・算数ICT研究会代表。また「課外授業 ようこそ先輩」を始め、多数のNHK教育番組に出演。)

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授業の目的は、子どもたちが受動から能動になるようにすること

 正木孝昌先生の偉いところは,毎日授業のテープを聴いていたことだ。
 名人と言われる人が毎日聴いているのである。そして,子どもの算数の世界に突入している。
 名人技は,日々の授業の反省から始まると行っても過言ではない。
 授業は、子どもたちを必ず受動から能動にしなければならない。
 授業で一番大切なことは、目の前の子どもたちが「生きている」かを見定める目があるかどうかである。
「生きている」ということは、何か物事に働きかける姿。言い換えると能動的になること。
 すなわち、授業の目的は子どもたちが能動的になることである。
 新学期の最初の授業に先生が子どもたちに声を掛ける。
 その場面では、全ての子どもが必ず手を挙げる質問でなければならないということです。
 このことを1年間続けたら、必ずその授業が好きになります。
 それはなぜかというと、子どもの立場に立ってみたら、授業の最初の質問で「分からない?」という気持ちになったら、残りの授業を不安な状態で受けることになってしまいます。
 子どもとは本来受身であるから、最初の質問は誰でもが分かるものにして、彼らを積極的に参加させる下地を作って授業を展開していくことが大事でしょう。
 子どもたちが受身の状態から積極的に授業に参加していくことにより、子どもの方から問題への働きかけを引き出すことができます。
 その結果、授業が楽しくなる。こうした一連の授業の流れを頭の中に留めておかなくてはいけないんじゃないでしょうか。
 授業は2段階です。スタートは受動的、それが能動となる。
 受動から能動とは、漠然としたものを明確にすること。
 微妙な違いのものを与えると、既習したことを使っていろいろな方法で調べだす。つまり能動的になる。
 その順序は、
(1)問題を与える(受動)
(2)問題を解く。命令されて動いているだけ。この段階ではまだロボット状態。
(3)解くうちに何かに気づく。
(4)今まで見えなかった「きまり」が見えてくる。
(5)いろいろな数で確かめようとする。ここでは、もうロボットではない(能動)
 授業は、必ず受動から能動にすることが必要。これは教師が作らなければいけない。
 例えば、
 
「今日から分数÷分数の計算を考えたい」
 「今の自分でも、自信をもって計算できる分数÷分数の計算ないかな?」
  と問いかける(受動)
 初めて学習する場面だが、わり算の意味と分数のイメージをもとに考えてみると、結構できるものがたくさんある。
 初めての問題や困難な問題に出合ったときに、自分に何ができるかを自ら問わせる。
 これから挑戦する問題に対するひとつの手がかりを見出すという意味で大切である。
 できないもどかしさを感じると、子どもは能動的になる(能動)
 また、「まちがい」を誉めないとだめです。まちがい大歓迎!
 例えば、ある子どもが、
「時速12kmで進んでいる自転車が、30分で何km進むことができるでしょうか?」
 という問題があって
「12×0.3=3.6km」という答えを出したんですよ。
 すごくいいですよね。
 1mが12円のテープが30cmだと「12×0.3=3.6円」と同じように考えたんですね。
 実際には間違いなんだけど、一人が間違うことによってみんなが気づく。
 そのことによって子どもたちの授業に対する働きかけが生まれてきて、
「じゃあ40分だったらどうなるの?」、「小数にならないよ。」
 とクラス中で話し合う。
 そうすると「12×2/3」という式がでてきます。
 分数の掛け算という新しい単元学習のきっかけが、ひとつの間違えから始まった。
 もし間違いが駄目だ、恥かしいという空気が教室で漂っていたら、このような授業は絶対にできない。
 子どもが間違ったとき、必ずいいものがあるんです。
 人間というのは間違いがある。
 わからないことがあるから正しいことが分かる。
 このことを教室の中で一番大事にしなければいけないと思います。
 算数はやっぱり楽しくなければならないですね。
 算数の楽しさとは、そこに問題があって働きかけていく楽しさだと思うんです。
 働きかけていくというのは相手を変えていくということです。
「2+4はなんですか?」と先生から問われて「6!」と答えるだけでは働きかけは存在しないんです。
「答えが6になる足し算はどんなものがあるかな?」という子供たちへ問いかける。
 すると、子どもたちは働きかけなければなりません。
 この答えをいっぱい集めていくことによっておもしろい決まりごとを発見していきます。
「7だったらどうなる?」「分数だったら?」というように広がっていきます。
 これが算数の楽しさなんじゃないでしょうか。
(正木孝昌:1939年高知県生まれ、高知県公立小学校教師、筑波大学附属小学校教師、國學院大學栃木短期大学教授、算数授業研究会会長、算数科の受動から能動への「二段階教授法」を提唱)

 

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授業で学習を進める主体は子どもだ、教えたいという教師はダメだ、子どもに教わることばかりだ

「俺は教えたい、という先生はダメだ。子どもに教わる。子どもは教わることばかり」
 と、問題解決学習の生みの親として知られる荻須正義先生はそう語った。
 そう語る荻須先生も、子どもたちに考えさせ、発見を導くために、相当の時間をかけていたと聞く。
 授業で学習を進める主体は子ども自身である。その授業への反応は授業中に子どもによって表現されるもので、言葉のほかに行動による表現も含まれる。
 指導案を作る場合、何を教えるかという内容に沿って、好ましい教材を用意する。
 しかしこれだけでは指導案は作れない。それぞれの時点での子どもの反応を想定し、それを軸にして展開する。
 だから、子どもの反応を想定できる教師の力量が必要になる。
 実際に授業をやってみると前もって想定したような反応はなかなか出てこないが、経験を重ねると少しずつ想定したことが的中するようになってくる。
 的中することで満足してはならない。その反応がどんな意識のはたらきから表れ出たものかを考えることが必要である。
 意識は外からは見えないが、反応を手がかりに意識の流れを読み取るのである。それによって授業がより高次なものになっていく。
 適切な教材が用意されていれば、その教材によって教師の意図に沿って行動を開始する。
 教材が子どもの経験をたぐりよせ、それにふさわしいイメージを描き始めるのだ。
 例えば、天秤の授業で、子どもに棒を運ばせることから始めた。
 この棒は2メートルほどのものが適切である。2メートルもあると、長いし重いしで持ち方に工夫がいる。
 多くの子どもは、棒の中ほどの「つりあうところ」を持って運ぶ。
 なぜそこを持つかについてはもちろん無意識である。
 物を運ぶことは生活の中にいっぱいあるが、持つところによって何が起こるかについてはほとんど無意識に行動している。
 それを意識の中に持ち込んでやることによって学習は始まる。
 だから学習は無意識からの出発であり、子どもの経験からイメージを描く。
 ここに教材選択の大切な視点がある。
 棒を運ぶとき「持つ位置によって棒の重さが違うような気がする」という気づきから、意図的にいろいろなところを持ってみて、手に感じる棒の重さを比べるようになる。
「やっぱりそうだ。持つ位置によって棒の重さが違うような気がする」という気づきはより確かなものになって、意識の中に入り込んでくる。
 言いかえると、持つ位置によって棒の重さが違うというところに子どもの注意が集まったといえる。
 注意するものを対象の中から選ぶのは子ども自身であり、教師が指示してはいけない。
 この注意が持続するとき、関心を持ったといえる。
 子どもに関心を抱かせることは、授業を始める時点できわめて大切なことであって、これを「導入」という。
 棒は持つ位置によって重さが違うという事実の発見は、しばらくして子どもの疑問に変わる。
「おかしい、棒の重さが変わるはずがない。」と考えるようになるからである。
 手で持ち上げたときの感じは明らかに違うという事実と、棒の重さが変わるはずがないということの間に、ある子どもが矛盾をみつけると、それが次々とほかの子どもに波及する。
「きみもそう思うか、ぼくも同じだ」と、はじめの一人の子どもの気づきが、見る見るうちに他の子どもの意識の中に広がっていく。
 一人の疑問を共有するようになるからだ。
 このように、子どもの調べたいことが意識の中心部を占めるようになると、自我と調べたい対象とが対立するようになる。
 疑問をそのまま学習問題におきかえてしまうと、子どもの思考をさまたげるばかりでなく、子どもの意欲を衰退させる結果にもなる。
 これを学習問題として解決の方向に動き出させるためには、疑問に対して解決の見通しを持つことが必要である。
 その見通しを持つためには、2つの条件が考えられる。
(1)集団
 集団は教育には不可欠な条件であって、集団を離れて教育は存在できない。
 集団とは互いに認めあえる仲間で、集団の機能は互いに情報を出しあいながらみんなで考えることができるという点にある。
 この集団のはたらき、対話によって、関係づけられなかったものが関係づけられ、それによって意味づけをすることができるようになる。
 関係づけることによって生まれた意味づけは、その子どもにとって価値あるものとなる。
(2)学習の対象
 対象を見るときの認識のものさし(空間・純感覚・時間)も大切な条件になる。
 疑問は、関係づけようとしても関係づけられない状態、いいかえれば論理の組み立てられない意識の状態をさしている。
 対象から得た情報にもとづいて、自分で考えたことを集団の中で表出し、みんなで話し合うことによって疑問に対して意味づけができるようになる。
 その意味づけしたことが果たして正しいかどうか確かめれば、問題は解決できそうだという自信を持つことができる。
 そこに意欲の高まりを期待することができる。
 疑問を抱いた状態で「問題を持った」と判断してはならない。
 疑問に対してなんらかの関係づけ・意味づけがなされることによって解決の見通しが立った段階で、子どもが「問題を持った」ことになる。
 それには、集団での対話、そして対象(教材)を何度も見直し、情報を対話の中で役立てることを忘れてはならない。
 問題の解決は、まとめることによって終わる。
 まとめる仕事は教師がやってはならない。
 子どもにまとめさせることによって、子どもがどこまで理解してくれたかを知ることができるし、それは同時に自分の指導のしかたを評価することにもなる。
 持つ位置によって棒の重さが変わるということと、棒の重さは変わらないという矛盾は、棒を持つ位置と棒の重さ(手ごたえ)とを関係づけることによって解決の見通しが見えはじめる。
 手で持つかわりにひもでつるしてみると、どこをつるしても棒の重さは変わらないことがわかる。
 と同時に、つるす位置を先端に移すにつれて、棒の傾きが大きくなることを新しい情報として発見する。
 この傾きを平らにするには、別の力がいる。
 この力は、傾きが大きいほど大きくなる。
「うん、わかった。」と手をたたく。
 それを各自にノートにまとめさせ、何人かの子どもに黒板に書いて発表させ、よりよいまとめ方を話し合いで決めるように導けばよい。
 ひもで棒をつることが問題を解決してくれる。つり合いが入るからである。
 さらに、棒を肩に乗せて運ぶとき一番少ない力で運べるのは、平らになってつり合うところを肩に乗せればよいということにも発展する。
 また、支点の左右に物をつるしてつりあわせた場合に支点にどのくらいの力がかかるのかということにも発展していく。ただし、教師の支援の適切さが必要であることは言うまでもない。
 こうして授業がつぎつぎと発展し連続していかないと、認識の深まりは期待できない。
 発展・連続を可能にするのは、教材と子どもの思考のはたらきである。教材の選択が、まず何よりも大切なのである。
(荻須正義:1916~2008年、元東京教育大学付属小学校教師・常葉学園大学教授。問題や疑問を解決しながら理解を深めていく問題解決学習法を小学校の理科の授業で先駆的に実践した)

 

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優れた授業にするためには、具体的にどうすればよいのでしょうか

 すぐれた授業行為は、すぐれた教育技術に貫かれている。すぐれた教育技術は、すぐれた教育思想に基づいているのである。
 同じ教材で、同じ方法で授業をしても、人によって授業が異なるのは、力量の違いというより、教師の本質の違いであることが多い。
 まさに「教育は人なり」である。教師の本質とは、これまでの人生、個性・人生観の総和でもある。
 すぐれた教育思想は、その教師の人生によって培われた人生観の教育への照り返しである。
 すぐれた教育思想があれば、すぐれた授業が行われるというものではない。思想と行為の間には、大きな落差がある。
 すぐれた教育思想とは、
(1)教師はすべての子どもの可能性を信頼すること。子どもの個性、力量をよりどころとすべきである。
(2)教師はすべての責任をまず自分自身に帰すべきである。教師は絶え間なく反省し、常に修業し学び続けるべきである。
(3)教師はすべての子どもに生きていく勇気を与え、生きぬいていく知識と知恵と技を育てなければならない。
 授業が良いか悪いかの判断は、つぎの問いを自分自身に向けるのである
(1)子どもを本当に信頼しているといえるか
(2)本当に育てていると言えるか
(3)本当にすべての子どもを対象としているか
 教師のすぐれた授業中の行為は
(1)子どもの力をひき出す
(2)子どもに知識や技を教える
(3)子どもに知的興奮を与える
(4)子どもを包み込む
 教師は、子どもをやる気にさせ、自分から挑戦させ、追求させるようにしなくてはならない。
 すぐれた授業の具体的な授業行為は、
(1)教える内容が明快
 すぐれた授業は、教える内容が明快である。
 話しは整理され、短く明快に。文章は読みやすく、分かりやすい。
(2)教え方のポイントをふまえている
 教師はつまらない下手な説明をやめよ。問いと指示を出し、子ども自身に考えさせよ。
(3)発問の目線を低く
 目線が低い発問は、易しい問題だ。ゆっくりやると授業が濁り、だれる。
 だから、テンポを速くするのである。そして「変化のあるくり返し」して、たたみこんでいく。
 そして、一気に、本質の、むずかしい問題へ飛躍するのである。
(4)授業はリズムよく
 教師はできる限り明確な、よけいな言葉のない話し方をせよ。
 発問と作業指示が明確ないい方をせよ。
 授業のリズムをこわす原因は、一つひとつの指示、発問、解説が長すぎることだ。
 どうして、長くなるのか。よけいな言葉をつけ加えるからだ。発問は何を聞いているのか、どうするのかはっきりしない。               
 スッキリとした、明快な言葉つかいを教師はすべきなのである。
 指示はつぎのように、動きを生き生きとすること。
(1)指示・発問は短く限定してのべよ
 限定して、語尾をにごらせてはいけない。
(2)子どもが変化する言葉が必要
 どういう言葉によって子どもが変化するかは、自分でやってみるのが一番良い。それが身につけていく基本である。
 自分自身が苦労した体験がないと「言葉だけ」を知っても、身につかないのである。
(3)一度動き出した集団を、追加修正で変更させることは、よほどのことがないかぎりしてはいけない。
 一つの指示をして、子どもが動き出したら、修正してはいけない。クラスがぐちゃぐちゃになってしまうからである。
(4)まず、たった一つの明確な指示を与えよ。それができたのを確かめてから、第二のたった一つの明確な指示を与えよ。
 これを身につけるのは容易ではない。私は10年かかった。言葉を知ることと技術の習得は別である。
(5)指示の意味を短く語る
 10分も20分も指示の意味を語ったら、聞いてる方もだらけてきてしまう。
 たとえば「教室をきれいにします。ゴミを10個ひろいなさい」この程度でいい。
 短く、スパッと言うのがいい。こういう一言こそが、子どもを育てていく。
 子どもを動かす秘訣は「最後の行動まで示してから、子どもを動かせ」に尽きる。
「最後までどうやっていくか」ということが分からないから、子どもは場当たり的に行動するのである。
 子どもを動かす法則を補足すると
(1)何をするのか端的に説明せよ
(2)どれだけやるのか具体的に示せ
(3)終わったら何をするのか指示をせよ
(4)質問は一通り説明してから受けよ
(5)個別の場面をとりあげほめよ
 子どもを動かすのは、教師の人格と技術である。
 感性の鋭い子どもを動かすには、子どもを深く理解しようとする意欲を持つ教師の人柄と関係する。
 子どもを動かす技術の習得には年数がかかる高級な技術である。
(向山洋一:1943年生まれ、元東京都公立小学校教師、教育技術法則化運動代表を務めてきた。教師を退職後、TOSSインターネットランドの運営に力を注いでいる。著作多数)

 

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教育技術を生み出す方法とは

 教育技術を生み出すためには、
1 あることをずっとテーマとして心に抱いていること。
 例えば、跳び箱が跳べない子どもをどう指導したらいいか。
2 自分が実践するとき「できる子」と「できない子」のちがいに注目する。
3 あれこれ方法を思いついてやってみる。
(1)いろんな発想をする。
(2)本を読む
(3)発問・指示・演示を変えてみる。
4 その結果「子どもに変化」が生じたら、めっけものである。
(1)この変化は、初めの頃はかすかである。
(2)「何か、ちがった変化」がでる。
(3)事実を見る目を養う。
(4)その方向をもっと多面的にして掘り下げてみればいい。
5 技術をまとめてみる。
6 教育技術に絶対だというものはない。
(1)教育技術は、常に修正され成長していく。
(2)絶えざる改良の追試が必要である。
7 授業中の教師の行為の中心は「発問・指示」である。これによって授業の良し悪しが生まれる。
 すぐれた授業ができるには、さまざまな技術や方法を持っていなければならない。
 基本は学ばなければならないし、我流を直すには、人から言われなければならない。
 師匠をもち、仲間をもつのは、とても大切なことだ。
 すぐれた教師が見せるさまざまな技術・方法を学ぶのはむろん大切なことだ。
 しかし、そのような技術・方法を身につけるまでにいたった、その教師の志も見なくてはならない。
 その意味で、すぐれた教師の本質は、すぐれた技術・方法を生むにいたった思想と行動力のすばらしさにもあるのである。
 だからこそ、すぐれた教師は、それぞれに個性的で魅力的で謙虚で勉強家である。それぞれに、包み込むような暖かさを持っている。
 仕事には、それぞれのコツがあるわけである。
 よくなる効果のあるコツは、単純、明快、だれでもわかり、どこでも実行できます。
 あらゆることに通用します。すばらしい効果があらわれます。
 「つき」がつきます。実行する人の人相がよくなります。
 子どもに多くのことを与え、子どもを自分の都合よりも第一に考える。
 成功する人の条件はただ一つ「やるべきことをすぐにやるひと」です。
(向山洋一:1943年生まれ、元東京都公立小学校教師、教育技術法則化運動代表を務めてきた。教師を退職後、TOSSインターネットランドの運営に力を注いでいる)

 

 

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よい授業をめざすためには、どのようにすればよいのでしょうか

 一般に教師になる人は、それまで自分が学校教育を受けた先生のことが強く印象に残っている。
 だから、その先生の方法を真似してやっていこうとする傾向がある。
 しかし、それではなかなかうまくいかない。
 教師になってからもたくさんの授業を見て、たくさん感動し、そこから多くを学ぶ必要がある。そうすれば、おのずと授業のあり方が変わってくるものだ。
 つまり、教師は「日々前向きに授業のあり方を考えていく存在だ」と承知すべきであろう。
 同じことをし続けるようになってしまったら、成長はなくなるのだ。
 私の場合、新任教師のころに観た2つの授業が心に残っている。
 一つは算数の「式の表示」に関する授業であった。
 子どもが黒板の前に出て、その考えを説明している。
 先生は窓側に立って子どもの話をにこにこしながら聞いている。
 私には、当時、先生は教卓の所にいて、子どもの方を向いて説明するのが授業だという固定観念があった。
 それがくつがえされ、忘れられない授業となった。
 以後、私もそれを真似しだしたのである。
 子ども同士で授業が展開するようにした。
 今にして思うと、それが私の授業観の原風景にもなっている。
 もう一つは算数の「合同の概念」を扱った授業であった。
 大きな模造紙にいくつかの図形が描かれ、それを黒板上に貼りだした。
 その中に描かれたモデルの図形と「同じものはどれか?」と教師が尋ねた。
 すると、一人の子どもが「これが同じだ」という。
 教師は「なぜ、そう思ったのか」と問い返す。
 子どもは「重ねれば同じになるはずだから」と言う。
 そこで、教師が「実際にやっていないのに、それはわからないだろう。やってごらん」とたたみかけた。
 その子は、模造紙を切ってはまずいのではないかと躊躇した。
 ところが教師は「心配することはないから、切って、重ねてごらん」というのである。
 子どもはおそるおそるそれを切って、図形に重ねていた。
 この様子に、私は、ああ、子どもの側に立って、予定にはなくても実際にやってみることがとっても大切なことなのだなと強く感じたものだった。
 当時の私にとっては衝撃でもあった。
 そんな影響によって自分の授業が少しずつ変わってきた。
(坪田 耕三:1947 -2018年、東京都生まれ、東京都公立小学校教師、筑波大学附属小学校教師、副校長、筑波大学教授、青山学院大学特任教授。全国算数授業研究会会長。ハンズオン・マス研究会代表)

 

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生きた話には命があり、必ず子どもから子どもに伝わるものです

 子どもを知るということが教育の命だと私は思っています。
 私がしてきた仕事にいいところがあるとすれば、子どもの心を知ることができたことでしょう。
 どういうふうにやったかというと、私のほうから、心から、いろいろな話を子どもたちにしました。
 そうしますと、何か話の雰囲気と言うんでしょうか、心が開けてくるような雰囲気ができるものです。
 教室の隅だったり放課後の廊下だったり、いろんな場所で、話をしました。
 それが子どもの心に入って、大事な役目をしてくれるのです。
 私は子どものころから話し好きで「おしゃべりはまちゃん」の名前がついていました。
 教師になって、それは自分の宝物のような気がします。
 子どもというのは、自分が心に響いたお話なら、黙っていることはないのです。例を挙げてみます。
 私は教室にいろいろなものを持っていきましたが、花もその中の一つです。
 そして、花を長くもたせるのが私の得意技の一つでした。
 コツはちょうど、花が生を終わりたいその時期に切るんです。
 そうしますと、また元気になって長くもつわけです。
 ですから、私は教室に花を置いて、毎日のようにはさみで少し傷んできた花を切り落としていました。
 その朝も、私は傷んだ花を落として、英気を取り戻すことができるように花を仕立てていました。
 そうしましたら、女の子がそばに来て
「先生、そんなことしたら花がかわいそうじゃないの」
「まだきれいよ、こっちから見ても」
 そう言いました。私は、
「そうね。だけどこれくらいの時期にこの花を切らないと、長く花はもたないの」
 と言って花を続けて切っていました。そして続けて、
「そうね。私なんかも神さまが、『この花、ここらで切ろうかな』って、はさみを持って待ってくるかもしれないね」
 って言うと、その子は「やあだ」と、どこかへ行ってしまいました。
 また、私はちょんちょんと花を切っていました。今度は男の子が、
「先生、今何考えているか当ててみようか」
 って言うんです。だから、
「どうぞ、当ててごらんなさい。当たらないから」
 って言いました。男の子はやがて、
「いいや、かわいそうだから」
 と言って走っていきました。
 私はさっきの女の子が何か話したな、ということに気がつきました。
 先生は歳をとったこと、やがてどこかへ行く日が来ること、そんなことを考えて
「先生はかわいそうなようだ」
 って話したんでしょう。
 それで、その話がその男の子に伝わっています。
 子どもは、何か肝心なときには黙っているっていうことができないものです。
 その女の子が男の子にどんなふうに話したんでしょうね。
 それを「ふうん」と男の子が聞いて、やや感ずるところがあったんでしょう。
 こういうふうに、何かがある話だったら、生きたお話だったら、必ず子どもから子どもに伝わるものなのです。
 話というものは、命のあるものです。
 すぐ伝わらなくても、「よーく聞いていなさい」と言わなくても、そのお話に命があれば、ちゃんと一人で子どもの心を訪ねていくものなのです。
(大村はま:1906-2005年、長野県で高等女学校、戦後は東京都公立中学校で73歳まで教え、新聞・雑誌の記事を元にした授業や生徒の実力に応じた「単元学習法」を確立した。ペスタロッチー賞、日本教育連合会賞を受賞。退職後も「大村はま国語教室の会」を結成し、日本の国語科教育の向上に勤めた)

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教師が「優れた授業をする」「生徒に人気が出る」ために大事なこととは何か

 まず第一に、自分の専門教科に精通すること。
 ただ単に答え合わせをするな。自分流の教授法の確立。いわゆる教科の商品化である。
 たとえば、長文恐怖症を吹き飛ばす速読速解法。簡単に解けちゃう数学など、生徒の目線でタイトルを考えること。
 授業をストーリーに組み立てよ。
 まず、授業の導入。今日は何を教えるのか、徹底してプレゼンすること。
 大事なことを最小に絞れ。
 最悪の教師は、全部大事だと言って、最後までべたべた、だらだら。眠くなる。
 生徒に「今日は何を勉強したの?」と尋ねたとき「英語、数学、国語を勉強した」と言わせたら、その授業は失敗である。各教科の具体的な項目を言わせることだ。
 もっと思い切って、これを覚えれば、後は忘れていいぞというぐらいのことを言え。
 プロの教師とアマチュア教師の決定的な違いは、教える内容を切って捨てられるかどうかである。
 もちろん切るには、プロとして、切っても大丈夫という確信と、過去のデータを熟知しておかねばならない。
 わかりやすく、繰り返すことで、知識が定着する。そこで生徒は、わかることの喜びを体験する。
 そして、エンディング。
 もう一度、今日の重要事項を繰り返して確認する。
 そして、次回の予告をして、次回も受けなければ、「せっかく今日覚えたことが無駄になる」と、ある種の不安感を抱かせる。
 要するに、腹八分で終わることだ。生徒は「わかる」ことの喜びを期待している。
 教科書をシナリオに。
 教師が予習する段階で、授業は終わったも同然。
 答えの列記は予習ではない。結構、答え合わせだけの教師が多い。
 シナリオ作りとは、
(1)教科書にその日の授業の流れを明記する。
(2)授業の初めに、その日のテーマをまず知らせる。
(3)次に強調するテーマを示す。
(4)そして授業の展開に入っていく。
(5)大事なことは、単なる答え合わせの説明ではだめ。
 答えを導くのに、なぜ、この答えなのかを立体的、論理的に説明し、その教師の個性を生かしたテクニックを駆使する。
 一つの問題に一つの答えを出すだけでは広がりがない。その問題、答えの背景を示すことだ。
 出題者は何の根拠もない問題は100%出さない。必ず、意図がある。出題者の意図を見抜け。
(6)授業の合間に、できたら、教科書の内容に沿ったエピソードを入れれば動機付けになる。
(7)全部教えるのでなく、腹八分で終わることだ。
 来週につなげることで、来週も受けなければ損をする、ある種の不安感を持たせること。これは難しいが、挑戦してもらいたい。できればプロである。
(8)エンディングは、もう一度今日の重要事項を再度確認。来週の予告。
 授業をショウ(show)仕立てに。授業は楽しくなければならない。
 お客様は生徒である。どれだけ楽しませるか、満足させるか。
 教えてやるんだという考えは即捨てよ。
 学んでいただくのだ。
 徹底したサービスである。これが、学校の教師との究極の差別化である。
 教科書をシナリオにした上で、パフォーマンスは大いにやるべきだ。
 わかりやすい授業、すばらしい授業、感動する授業の直後にパフォーマンスをする。効果的な演出になる。
 しかも短時間に。効果抜群である。
 亡くなった落語の名人、桂枝雀の緊張と緩和である。
 気をつけなければならないことは、やたらにやると生徒からブーイングが出る。
 雑談が多いという批判を受ける。
 パフォーマンスの種類は人によっていろいろある。
 自分の個性に合わせて、無理をしないで自然に出せるとよい。例えば
(1)笑い・ユーモア型パフォーマンス
(2)語りかけパフォーマンス
(3)ためになる説教型パフォーマンス
(4)ジーンとくる涙型パフォーマンス
(5)知識、知性型パフォーマンス
 生徒は変わらない、教師が変われ。
 学校であれ、塾であれ、教師は同じ生徒たちを毎日一年間教えることになる。
 自然と教師と生徒に飽きが始まる。
 生徒が悪い悪いという前に、教師自ら努力して己を変えよ。
 そういう意味で生徒が変わることを期待してはならない。
 教師が変わる努力と工夫が必要である。
 私は36年間、一度も授業で飽いたことはない。楽しいのである。
 今日はどんな授業をしようかと思うとわくわくする。例えば、
(1)今日は徹底して基礎をやろう
(2)難解な問題をわかりやすくやろう
(3)おもしろい話をしよう
(4)苦労した経験談をしよう
 ネタはいくらでもある。
 教師は教育以外のことから学べ。
 教師はもともと社会性が乏しい。
 生徒から「先生、先生」と、父母から「先生、先生」と呼ばれると何か、自分が偉くなったような気がする。
 特に、つい最近まで大学生であった若者が、教師になるといきなり先生と呼ばれると勘違いをする。何様だと思っているだと言いたい。
 生徒は社会性を親から学ぶ。教師は誰から学ぶんだ。
 一般社会でいろいろな分野で、それこそ汗水流して頑張っている人たちを見よ。
 親の悩み、子どもの悩みをもっと直視せよ。多くの人たちから学びなさい。もっと勉強しろ。
 教師は感性を磨かなければならない。
 感性が教師の最後の砦になる。
 情熱と努力ができれば、感性は身につく。
 赤ちゃんを見よ、わが子を見よ、若者を見よ、母を見よ、父を見よ、じいちゃん、ばあちゃんを見よ。必ず感性をくすぐる心がある、話がある。
 生徒の悩み、苦労、非行から学ぶときに、教師側に感性がなければ生徒と同じ目線に立てない。
 私は生徒を変えようと思わない。自分が変わろう。そして評価は生徒に任せよう。
 教師に限って人の話を聞かない。学ぶ姿勢、社会性がないのである。
 生徒に学べという前に、教師自ら学ぶべきである。
 生徒に「勉強しろ」というまえに、先生「あんたが、勉強せえ」
 人の話を真剣に聞け。そして真似よ。
 読書、音楽、映画、スポーツなど、仕事以外のすべてに関心を持て。
 私は、水泳、マラソン、カート、四国の88ヶ所巡り、熊野古道登山から学んだことは枚挙にいとまがないと言える。
 私は、生徒から学んだのである。
 だから人気があると自信を持って言える。
 教師自ら学ぶべきである。
(瀧山敏郎:元小学校・中学校・高校教師・教頭・予備校講師(代々木ゼミナール・東進ハイスクール)経て教師アカデミー主宰。元全国英語研究団体連合理事・京都私立中学・高等学校英語研究会会長。テネシー州等名誉州民)

 

 

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授業で教えたいものを教師がつかむにはどうすればよいか、授業での指導のコツは?

 授業とは「これだけは何としても教えたい」という内容を、子どもが「学びたい、調べたい、追究したい」というものに「転化」することである。
 教師の何としても教えたいもの「ねらい」を、子どもたちが学びたいと思って、学ばなければ授業とはいえない。
 学力低下などの問題がおこっているのは、教師が「これだけは何としても教えたい」という強い願いをもって、子どもを指導していないことからおこっているといってもよい。
「これだけは何としても教えたい」という内容を鮮明につかむには、教材研究をしっかりする必要がある。
 教科書を使うことが多いが、教科書に書いてあることの「何を」「どのように」教えるのかが問題である。
 教科書を教えるには、20~30回くらい読むことだ。
 そうすれば、教えなくてはならないポイントやキーワード、内容の中心などがみえてくる。
 いきなり「指導書」を読むのはよくない。自分なりの「考え」をもってから読むようにすると、考えの幅も広がり、深さも深くなる。
 教えたいことが鮮明になってくると、これをより効果的に教えたいと考えるようになる。
 その時、最も効果的なものが「現物」である。
 現物がないときは、レプリカや写真などでもよい。教科書だけよりはるかに大きな効果がある。
 例えば、コンセントの「プラグ」を準備する。なければ、絵を描くことだ。この場合は、絵の方がいい。
 教師は、3枚のプラグの絵を描く。
 1枚目は、A:さし込みの部分に「穴があいてない」もの。
 2枚目は、B:「片方だけ穴があいている」もの。
 3枚目は、C:「両方とも穴があいている」もの。
 である。
 教師の「ねらい」は3枚目のCであることをつかませ、その理由を考えさせることである。
 指導のコツは、教えることは、鮮明であるが、大事なことは「教えてはならない」ということである。
教師:「コンセントのプラグ知ってますよね」
 といいながら3枚のコンセントのプラグの絵を提示する。
子ども:「あれっ?どれが正しいの?」と、もう考え始めている。
 子どもたちは、AだBだCだといって、なかなか決まらない。
 ふだん、いかにモノをよく見ていないか気づく。
 ここで、もったいぶって実物を見せる。集中力抜群の場面である。
 Cが正解だが
教師:「なぜ穴が2つもあいているのか?」
 と、またもめる。
「鉄の節約のため」といった大人(教師)もいるくらいである。
 ここで教師が知ったかぶりをして教えるか。それとも
教師:「先生も理由がよくわからないんだよ」
 と、とぼける役者ぶりを発揮するか。
子ども:「先生も知らないの!」
 と、馬鹿にされても、軽蔑に耐えることがコツである。
 じらしておいて、
教師:「先生は、コンセントにヒントがあるような気がしてるんだけど、どうだろうな?」
 と、ヒントをさり気なく出し、あとは子どもに追究させることだ。
(有田和正:1935-2014年、筑波大学付属小学校,愛知教育大学教授、東北福祉大学教授、同特任教授を歴任した。教材づくりを中心とした授業づくりを研究し、数百の教材を開発、授業の名人といわれた)

 

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授業で、教師の話し言葉や教師の態度は、どのようにすればよいのでしょうか

「これは覚えなくてもよいいが、まあ言っておこう」「少し難しいことだが」など、言わないでもよいことを言うために、かえってわかりにくく興味を薄くすることが少なくない。
「アー」「ウーン」など用もない音声は用いないようにしたい。
 教師の動作が沈着であれば、子どもたちも黙って深く考えるものである。
 感化力とは、自分を磨き、成長させることで、まわりの人々によい影響を 与え、考え方や行動に変化をもたらす力です。感化力という偉大な効果は、言語を手がかりにしなければならない。
 言語は、教化を行うのに適している。
 古来、聖賢が教えを説くのに言語の力によるものが多いのは、感化力は言語だからである。
 われわれの舌によって第二の国民が作られることを思えば、人として肝要な武器である 言語は、これに比するものはない。
 言葉は流ちょうなのはよいが、相手が子どもであるから、わかりやすく、はっきりしていなければならない。
 教師の言葉は、活発と熱心で、その発音は怒気を含まず、悲壮を帯びず、要するに声高にして、聴覚しやすくすべきである。
 教師の言葉は「明晰」「生気」「品格」の三要素を必要とする。
 教師の言葉は「声高」「平易」「確実」「透明」「簡潔」の五箇条が求められる。
「ことばに生気がある」と、話しに魂があり、活力を備えているため、人々に感銘を深くすることができる。ことに人を感奮させようとするには、このことが多大な意味をもつ。
「言葉に愛情がこもっている」と、人を動かし人を感じさせることができる。他人から見て趣味ある言葉と認められて、自然と品格があるようになる。
 子どもに対しても、子どもの人格を重んじてやることは極めて重要なことであり、相当な敬語を用いることは大切である。
 ただ口のみで言うよりも、手まねをもって「こればかりの大きさです」というほうが、はるかに解しやすく、適度の態度を工夫することは、教師の大いに努めなければならないことである。
 教師の態度は、ゆったりと落ち着いて、あわてない大器であるなかに、しかも、こまごまとしたきまりにもよく注意の届く、爽快で心の微細な動きがなければならない。
 教室の子どもがあたかも凧の糸目が一点に集まるように、全ての子どもたちの注意が一点に集中するようにあってほしい。
 子どもは教師の望むところに注意をしない。その子どもの心を教科のほうに向けさせる工夫によって、心を傾けるようになる。
 一時間全部の授業を見なくても、数分間で教師の力量は知られる。というのは、教師が多くの子どもの中心に立ちうるか否かによって鑑別されるからである。
 教師は教職の威厳を保つだけの見識を備えたうえに、寛大な愛情のこもっているところがなければならない。
 教師の心は、すなわち子どもの心であって、子どもの心は、やがて教師の心とならねばならない。
「巧みなる教授には、教師と子どもとの間に、感情の交通あり」という言葉が先人によって発せられている。
 どの教科でも、教師が教える必要があると準備しても、もし子どものほうが、これの必要を感じないというのであっては、進んで学習しようという気持ちが起こらない。
 子どもの発達の程度を知らないために、彼らの趣味に投じないために、教師ばかりがみだりに持ちかけても効果は極めて薄い。
 ぜひとも、教師と子どもが相投合していなくてはならない。
 1時間の授業中に、教師が主となって働くときと、子ども自身が主となって働く場合とを適宜に配合する必要がある。
(加藤末吉:明治時代の東京高等師範学校付属小学校の訓導。教材や教科書を生かす伝達の仕事に教職の専門性を求め、それを「教順」(教授活動の形式・手順)と「教式」(教師-児童間の体裁、講演式・問答式・対話式など)を実行する際に教師が注意すべき言語・動作の技術を研究した)

 

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あなたは教師として、子どもたちの言葉や思いの本質を聴き取る力がありますか

 金森俊朗氏は「手紙ノート」の実践をしていました。その実践を次に述べます。
 金森俊朗氏のクラスの一学期は次の言葉から始まります。
「学校に来るのは何のためや?」
「ハッピーになるため!」
 クラスの一日は「手紙ノート」で始まります。毎日三人の生徒が、クラスメートに宛てた手紙を読み上げます。聞いた生徒は感想を述べるのです。
「大切なのは、手紙ノートがなければ知らなかった友だちの姿を、どんなささいなことでも発見することです」
 と、手紙ノートを読む目的を金森先生は語ります。
 自分の気持ちを伝える時間や場所があり、受けとめてくれる友だちや先生が確かにいること。それが金森学級の子どもたちをどこかのびのびとさせている。
 何よりも、楽しい時間を共有し、面白かったなと言い合えることで、クラスの中に仲間意識が生まれる。
 それは「みんなでハッピー」の土台となる。
 これは教師がいくら教壇でいくら頑張っても教えられるものではない。
 多くの教師が金森俊朗氏の「手紙ノート」の実践を真似たが挫折したという。
 その原因は、言葉にならない身体で表された言葉、言葉が不足がちな子どもの表現、表現に込められた思いや科学の素地を読み解く教師側が、貧弱だったからである。
 教師を対象にした講演会で私は次のような話題をだした。
 学級で朝の「手紙ノート」(仲間に伝えたいこと)の時間で、ある子が、
「昨日、家族でお鮨屋さんにいき、お鮨をたくさん食べました。とてもおいしかったです」
 と報告がありました。
「さて、あなたの学級ならどんな応答が生まれますか」
 と参加者の教師に問うた。
 たぶん、
「どんな鮨を食べたのですか」「どんなお鮨が好きですか」「ほく、トロが好きや」
 などの話で盛り上がるだろうが、ほぼ一致した意見であった。
 子どもたちの応答を聞きながら
「あ~あ、またこんな話題か、つまらないな、と思ってしまう教師は手を挙げてください」
 と言うとほとんどの参加者が挙手した。
 この報告で大切なポイントが二つあることを金森氏は強調した。
 一つは、家族そろって鮨屋に行くことは珍しいことである。このことに関して、うんと想像力を働かせる。
「何かのお祝い、ボーナスの支給・・・・」 などが思い浮かぶ。
 二つ目は、「鮨の種類」だと簡単に盛り上がる。
 魚介類をすべて板書すると種類の多さにみんながおどろく。
「板書した海の幸の漢字を調べてくるぞ~、という人」と聞くと、子どもたちは必ず手が挙がる。
「レストランで魚にあたるものは?」と問うと「牛・豚・鶏」と少ない。海の幸の多さと季節による違いに気づく。さらに、
「旬といえば、海の幸以外にも、今しか採れないものとは?」
 と問うと「山菜です」と子どもたちは旬の食べ物を挙げていくだろう。
 参加者がこの応答に感心している。
 参加者の教師は「貧弱」「つまらない」報告だと決めつけていた自分の「貧弱さ」に改めて気づいていた。
(金森俊朗:1946-2020年、元小学校教師・北陸学院大学教授。「仲間とつながりハッピーになる」教育や人と自然に直に触れ合う命の授業を行った。NHKで日本賞グランプリ受賞) 

 

 

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現場教師として困難を何とか乗り切ってこられた私の考え方と、教師が元気に生活を送る原則とは

 小学校の教師生活は分刻みの生活です。私が現場教師として心がけていたのは、つぎのような動きです。
 「よく見る」「それが何かと考える」「打つ手を処方する」「行動する」
 しかも、瞬時に考え、動くものですから、よく失敗もしました。これが私にとって「現場を生きる」ということでした。
「行動する」ことが現場教師であると私は考えます。失敗を恐れないことです。失敗すれば「ごめん、ごめん、間違いました。これから気をつけます」と礼を尽くしてあやまればいいのです。
 楽しそうに教師生活をおくる教師もいれば、いつも不平不満を口にして過ごす教師がいます。
 その違いは、教育の仕事を、どのような考え方で行っているかどうかに、かかっていると私は思います。
 元気に教師生活をおくるためには、考え方をきちんと持っていることが一番大事なことなのです。
 私は37年間の教師生活で、一度も教師を辞めたいという気持ちになることはありませんでした。
 私は悩まないようにしていました。
 悩みのほとんどは時間が解決してくれます。
 悩まないようにするには、行動することです。
 悩んでいないで、次をどうしていこうかと、考えのベクトルを変えていきます。
 現場の教師のみなさんは、できるかぎり機嫌良く仕事をしていただきたいと私は願っています。
 機嫌よく仕事をしている教師のそばにいると、自分も機嫌良く何かをしたくなるからです。
 もやもやした気持ちも軽くなります。
 だから、子どもたちの前でニコニコ笑ってみましょう。
 教師が機嫌よく振る舞い、
「心身がアクティブであることは、気持ちがいい」
 ということを自分自身が素材となって子どもたちに示し、伝えてほしいと思います。
 振り返ってみると、私はテーマを持って教師生活をしていました。
 自分の気になることをテーマしました。
 例えば、子どもたちへの音読指導をどうしたらよいか。漢字指導の効果的な方法など。これらのことについてコツコツと資料を集め、自分なりにまとめていくと、教師生活は豊かになります。
 私は教師としての資質を高めるために、もっとも大事なのは土台となるスタンスであると考えています。
 このスタンスは、仕事へ向かう姿勢や態度を意味します。
「素直さ」「責任感」「向上心」
 がスタンスになると考えています。
 このスタンスの上に、その教師がもつ「性格」(キャラクター)がのるのです。
 そして、その上に、教育技術がのっかる。
 ここをカン違いしないことです。教育技術だけをどんなに積み重ねても、しょせん限界があることを、心してほしいと思います。
 教師が元気に生活を送る原則は、次の四つである。
(1)自分が発揮できる
(2)他の人から認められる
(3)無理をしない
(4)知りたいこと、やりたいことができる
 テーマを持って教育の仕事をしなくては、これから大変ですよ。その日暮らしの生活は、これからとてもつらくなりますよと、いう言葉を含んでいます。
 大切なのは、教師の時間と自分の時間をきちんと区別することである。
 教師としての時間を長く取ることによって、確かに教師意識は増大する。しかし、やせ細っていくのが人間としての自分だ。
 教師の仕事とは別に、音楽も聴きたいし、映画も見たい。教育に関係のない本も読みたいし、友だちと旅行もいきたいではないか。
 ふつうの働き人が元気に生活をしていくには、きちんと仕事の時間と、自分の時間を区別する必要がある。
 私は、いつもそのように思っている。
(野中信行:1947年生まれ、元横浜市立公立小学校教師、横浜市の初任者教師の指導にあたり、全国各地で教師向けの講座やセミナーを行っている)

 

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子どもの荒れの原因は学力の欠如にある、つまずきを克服するには、どうすればよいか

 小河 勝氏は、長年公立中学校の現場で、つまずき克服の実践を続けてきた。  つまずきの原因は、算数と国語にあるとし、算数のつまずきを発見するための「小河式算数チェックテスト」を考案。国語では独特の転写法による実践を続け、多くの子どもを立ち直らせた。  こうしたつまずきを持つ中学生でも、家庭学習だけで、公立のトップ校に合格できる学力をつけさせる独自の問題集シリーズ「未来を切り開く学力シリーズ」のプロジェクトの中心となり、自らも「基礎篇」を執筆した。  小河 勝氏は、1970年代に新任新教師として過ごした公立中学校での日々を克明に覚えている。  校内に散乱するガラスの破片、たばこの吸い殻、便器にねじ込まれた空き缶…。  新任教師時代は、子どもの勉強ができないことと荒れることが、自分の中で深く結びついてはいなかった。  何が起こっているのかわからない状況の中で、 「なんでこの子たちは、こんなに荒れるのか」  という疑問をいだき、いろいろと調べていく中で、最終的に学力の問題に行き着いたのです。  勉強が「わかる」「わからない」というのは、子どもたちにとって、精神の健全さの軸をなす重要なファクターなんだということが「生活実態調査」からはっきり見えたのです。  わからないまま学校で勉強するということがどれほど苦痛であるか、自分たちの生活全体がいかにグレーになっていくか、そして、暗黒になっていくか。 「自分にはもう未来がない」というふうに彼らは思わざるをえないということが、はっきりと調査でわかったのです。  その後、算数の学習のつまずきの状況も調べました。大変な結果でした。  かなり初期の段階からつまずいて、苦しみ、のたうちまわりながら、学校で授業をずっと聞いてきたということがわかりました。 「種子植物」なんて読めない。「たねこ」と読んでしまう。そういう状況が現実にあるのです。  学力問題は、小河 勝氏は非常に重要な人権問題だと思った。  基本的な可能性を剥奪された人生を生きていかざるをえないことになるからです。  きっかけは米国の社会心理学者、エーリヒ・フロムの著書で読んだ次のような言葉だった。 「無力感の中で、永遠に人間は生き続けることはできない」 「彼らはやがて破壊を求めだす」  と書いています。  私はこの本に出会ったときに、本当に「あの中学生たちが荒れている根拠はこれだったんだ!」と心に響きました。  小河氏は「そうなんや、彼らは無力感の渦の中でおぼれ続けてたんやと、すごく鮮明に自分の中で結びついた」と振り返る。  すぐさま自前のアンケートを行い、授業の理解度と未来への意欲などの関係を調べた。両者は見事に比例した。  後に赴任した中学校で、小河氏は同じ学年を受け持つ教員たちと協力し、計算や文章トレーニングを毎日繰り返す取り組みに挑む。  すると、学年が上がっていくごとに子どもたちが落ち着いていった。どんな荒れた子でも最後はわれわれの懐に入ってきた。  荒れの原因は学力の欠如にある。多くの子どもが小学校時の積み残しを抱えたまま中学校のカリキュラムを受けている。  その打開策として、小中学校が一体でつまずいた子どもに基礎演算や小数、分数などの基本的な部分の力をつけてやることが重要である。  授業時間の一部や授業前の時間の確保や、つまずき調査などのデータの活用など、相互に意見交換をして取り組むこと。  勉強が分からない子どもに分からせてやるのは教師の務め。分からない子どもが抱える無力感を取り除いてやれば、学校の荒れも消え、落ち着く。  中学で新入生に3ケタの掛け算をさせると半分くらいは間違えてしまう。これが基礎学力崩壊の実態。  このような状態で頑張らせるのはサイドブレーキをかけたまま「走れ」と要求しているようなもの。大事なのは、まず基礎を徹底してやらせることです。 「5けた」÷「2けた」のようなわり算の中には、たし算、ひき算、かけ算の計算要素が約80弱もあるのです。  一定の速さでトントンと80弱の階段を効率よくたどっていける力がなければ、わり算はわかりにくい。 「ゆっくりでいいんだ、できたらいいんだ」というようなことを気楽に言われる方がいますが、その方々は、わからない子を教えたことがないということを自白しているようなものです。  わからない子たちは、遅いことによってものすごくやりにくく、しんどいのです。サイドブレーキかけながら、アクセルを踏んでいるようなものです。  つまり、基礎計算力をしっかりつくることが最も重要で、それによってしか本質的な改善は図れないということです。  中学校で理科を教えてきましたが、理科では、割合や比例を使います。ところがその定着状況は散々です。  こんな状態では、電流も密度も教えられません。  ではどうするかということですが、教師一人ひとりの努力の範囲を超えていますから、学校ぐるみで特別な時間編成で、取り組んでいくしかないのです。  中学校で、組織的に取り組むというのは、非常に困難でした。  教科担当制を超えて、みんなでスクラムを組まなければいけないのですから。  そのためにも、学力実態調査によって、データを集めて、よく分析して、どうすべきかということを協議して、各地で取り組んでいただけたらと思います。 (小河 勝:1944年大阪市生まれ、元大阪市立中学校教師・大阪府教育委員会委員。中学生向けの国語、算数の教材「小河式プリント」書き込み式の教材が基礎学力の養成に役立つとして、全国の中学校や学習塾で利用されている。中学生の自主学習を手助けする「小河学習館」の館長)

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