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授業で学習を進める主体は子どもだ、教えたいという教師はダメだ、子どもに教わることばかりだ

「俺は教えたい、という先生はダメだ。子どもに教わる。子どもは教わることばかり」
 と、問題解決学習の生みの親として知られる荻須正義先生はそう語った。
 そう語る荻須先生も、子どもたちに考えさせ、発見を導くために、相当の時間をかけていたと聞く。
 授業で学習を進める主体は子ども自身である。その授業への反応は授業中に子どもによって表現されるもので、言葉のほかに行動による表現も含まれる。
 指導案を作る場合、何を教えるかという内容に沿って、好ましい教材を用意する。
 しかしこれだけでは指導案は作れない。それぞれの時点での子どもの反応を想定し、それを軸にして展開する。
 だから、子どもの反応を想定できる教師の力量が必要になる。
 実際に授業をやってみると前もって想定したような反応はなかなか出てこないが、経験を重ねると少しずつ想定したことが的中するようになってくる。
 的中することで満足してはならない。その反応がどんな意識のはたらきから表れ出たものかを考えることが必要である。
 意識は外からは見えないが、反応を手がかりに意識の流れを読み取るのである。それによって授業がより高次なものになっていく。
 適切な教材が用意されていれば、その教材によって教師の意図に沿って行動を開始する。
 教材が子どもの経験をたぐりよせ、それにふさわしいイメージを描き始めるのだ。
 例えば、天秤の授業で、子どもに棒を運ばせることから始めた。
 この棒は2メートルほどのものが適切である。2メートルもあると、長いし重いしで持ち方に工夫がいる。
 多くの子どもは、棒の中ほどの「つりあうところ」を持って運ぶ。
 なぜそこを持つかについてはもちろん無意識である。
 物を運ぶことは生活の中にいっぱいあるが、持つところによって何が起こるかについてはほとんど無意識に行動している。
 それを意識の中に持ち込んでやることによって学習は始まる。
 だから学習は無意識からの出発であり、子どもの経験からイメージを描く。
 ここに教材選択の大切な視点がある。
 棒を運ぶとき「持つ位置によって棒の重さが違うような気がする」という気づきから、意図的にいろいろなところを持ってみて、手に感じる棒の重さを比べるようになる。
「やっぱりそうだ。持つ位置によって棒の重さが違うような気がする」という気づきはより確かなものになって、意識の中に入り込んでくる。
 言いかえると、持つ位置によって棒の重さが違うというところに子どもの注意が集まったといえる。
 注意するものを対象の中から選ぶのは子ども自身であり、教師が指示してはいけない。
 この注意が持続するとき、関心を持ったといえる。
 子どもに関心を抱かせることは、授業を始める時点できわめて大切なことであって、これを「導入」という。
 棒は持つ位置によって重さが違うという事実の発見は、しばらくして子どもの疑問に変わる。
「おかしい、棒の重さが変わるはずがない。」と考えるようになるからである。
 手で持ち上げたときの感じは明らかに違うという事実と、棒の重さが変わるはずがないということの間に、ある子どもが矛盾をみつけると、それが次々とほかの子どもに波及する。
「きみもそう思うか、ぼくも同じだ」と、はじめの一人の子どもの気づきが、見る見るうちに他の子どもの意識の中に広がっていく。
 一人の疑問を共有するようになるからだ。
 このように、子どもの調べたいことが意識の中心部を占めるようになると、自我と調べたい対象とが対立するようになる。
 疑問をそのまま学習問題におきかえてしまうと、子どもの思考をさまたげるばかりでなく、子どもの意欲を衰退させる結果にもなる。
 これを学習問題として解決の方向に動き出させるためには、疑問に対して解決の見通しを持つことが必要である。
 その見通しを持つためには、2つの条件が考えられる。
(1)集団
 集団は教育には不可欠な条件であって、集団を離れて教育は存在できない。
 集団とは互いに認めあえる仲間で、集団の機能は互いに情報を出しあいながらみんなで考えることができるという点にある。
 この集団のはたらき、対話によって、関係づけられなかったものが関係づけられ、それによって意味づけをすることができるようになる。
 関係づけることによって生まれた意味づけは、その子どもにとって価値あるものとなる。
(2)学習の対象
 対象を見るときの認識のものさし(空間・純感覚・時間)も大切な条件になる。
 疑問は、関係づけようとしても関係づけられない状態、いいかえれば論理の組み立てられない意識の状態をさしている。
 対象から得た情報にもとづいて、自分で考えたことを集団の中で表出し、みんなで話し合うことによって疑問に対して意味づけができるようになる。
 その意味づけしたことが果たして正しいかどうか確かめれば、問題は解決できそうだという自信を持つことができる。
 そこに意欲の高まりを期待することができる。
 疑問を抱いた状態で「問題を持った」と判断してはならない。
 疑問に対してなんらかの関係づけ・意味づけがなされることによって解決の見通しが立った段階で、子どもが「問題を持った」ことになる。
 それには、集団での対話、そして対象(教材)を何度も見直し、情報を対話の中で役立てることを忘れてはならない。
 問題の解決は、まとめることによって終わる。
 まとめる仕事は教師がやってはならない。
 子どもにまとめさせることによって、子どもがどこまで理解してくれたかを知ることができるし、それは同時に自分の指導のしかたを評価することにもなる。
 持つ位置によって棒の重さが変わるということと、棒の重さは変わらないという矛盾は、棒を持つ位置と棒の重さ(手ごたえ)とを関係づけることによって解決の見通しが見えはじめる。
 手で持つかわりにひもでつるしてみると、どこをつるしても棒の重さは変わらないことがわかる。
 と同時に、つるす位置を先端に移すにつれて、棒の傾きが大きくなることを新しい情報として発見する。
 この傾きを平らにするには、別の力がいる。
 この力は、傾きが大きいほど大きくなる。
「うん、わかった。」と手をたたく。
 それを各自にノートにまとめさせ、何人かの子どもに黒板に書いて発表させ、よりよいまとめ方を話し合いで決めるように導けばよい。
 ひもで棒をつることが問題を解決してくれる。つり合いが入るからである。
 さらに、棒を肩に乗せて運ぶとき一番少ない力で運べるのは、平らになってつり合うところを肩に乗せればよいということにも発展する。
 また、支点の左右に物をつるしてつりあわせた場合に支点にどのくらいの力がかかるのかということにも発展していく。ただし、教師の支援の適切さが必要であることは言うまでもない。
 こうして授業がつぎつぎと発展し連続していかないと、認識の深まりは期待できない。
 発展・連続を可能にするのは、教材と子どもの思考のはたらきである。教材の選択が、まず何よりも大切なのである。
(荻須正義:1916~2008年、元東京教育大学付属小学校教師・常葉学園大学教授。問題や疑問を解決しながら理解を深めていく問題解決学習法を小学校の理科の授業で先駆的に実践した)

 

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