大正時代に提唱した手塚岸衛の「自由教育」はどのようなものであったか
手塚岸衛は、1919年に千葉師範学校附属小(現千葉大教育学部附属小)の主事となる。
ここで教育の画一性を廃し、子どもの自発性、自主性を最大限に発揮させるという自由教育を提唱し、その名を全国に知られるようになる。
1921年東京師範学校の講堂で開かれた八大教育主張の大会で、手塚は「自由教育論」の演題で「子ども自らが、自らの力を出して自己を開拓して進む力をつけてやるのが教育である」と主張した。
その後、1926年、千葉県大多喜中学校校長となるが、配属将校の扇動によって校長排斥運動を生徒らが起こしたことが原因となり、辞職に追い込まれる。
1928年、東京で、自由主義的教育の理想を掲げ、幼稚園・小学校・中学校からなる自由ヶ丘学園を創立した。
大正デモクラシーの影響を受けた手塚は、試験や通信簿をなくし、子どもの個性を尊重した教育を行った。
手塚は教育に没頭していきますが、資金繰りの困難さに加えて、生徒管理の難しさに失意のうちに病没してしまった。手塚の死去によって学園は苦境に陥った。
大正期の教育は、大正デモクラシーの影響をうけて、明治時代の画一的な注入主義教育を、子どもの生活や学習を中心としたものに転換しようとする「新教育(自由教育)運動」が全国的に高まりをみせた。
児童の個性の尊重と自由な学習を目指した「児童中心主義」的な方法であった。
東京の成城小学校(校長:沢柳政太郎、主事:小原国芳)、児童の村小学校(校長:野口援太郎)、奈良女子高等師範学校附属小学校(主事:木下竹次)、千葉師範学校附属小学校(主事:手塚岸衛)、明石女子師範学校(主事:及川平治)などがよく知られる存在となっていました。
この自由教育は県内から全国へと拡大してゆく傾向を示した。しかしながら、県教育行政部局、教育者などから自由教育に反対する者もでてきた。手塚は、
「その反対の多くは経過に等しい経験に基づく素朴なる常識論か」
「しからずんば、自由の語感を毛嫌ひして―あのカントの厳粛な哲学上の自由であるのに気づかずに―これを排斥する俗説か」
「または、たゞ何事も旧に泥み新を厭うて真をも捨てる守旧主義か」
「時には彼等が自由教育などゝは小癪な片腹痛い言分であるとする感情論さへ交つてゐるとさへ思はさせられた」
と述べている。
手塚じたいが反体制派の教育家であったかのような誤解をその後に生んでいったきらいもある。
各学級の級長は校長による任命制から子どもたち自身による直接選挙での選出に改め、全校朝会を5,6年生による自主運営に委ねるなど、当時としては画期的な改革を試み、「分別扱」(小集団方式)と「共通扱」の臨機応変の展開による授業形態の改革などとともに注目を集めた。
(手塚岸衛:1880- 1936年栃木県生まれ、福井、群馬、京都女子の各師範学校の教師を経て千葉師範学校附属小学校の主事になり自由教育を提唱し、その名を全国に知られるようになる。千葉県中学校長となるが辞職に追い込まれた。1928年、東京で自由ヶ丘学園を創立するが道半ばで病没した)
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