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2020年7月に作成された記事

学級内でいじめが発覚したとき、担任はどう対処すればよいか

 いじめが発覚したら、担任はすぐに生徒指導と学年主任に報告します。
 学年主任・担任・教育相談担当・養護教諭・スクールカウンセラー等のチーム体制で対応を取ります。
 学級全体の指導は学年主任と相談しなから実施します。
 いじめが発覚すると、いじめられた親は怒りとわが子を不憫に思う気持ちで学校を責めます。
 いじめ被害者の安全をはかることを最優先にします。同時に実態の解明をすすめます。
 いじめ指導の鉄則は「被害者支援を最優先する」ことです。
「絶対に守る」との強い姿勢と「つらい気持ちを受け止める」温かい心が何よりも大切です。傷ついた心を癒すのは担任の真剣なかかわりです。
 いじめ被害者の安全確保は、直接の声かけ・メール・手紙・電話などを活用する。
 休み時間のパトロール・登下校の見守り・同級生による言葉かけ・メール等に書き込まれた誹謗や中傷の削除を行うようにします。
 このような学校の取り組みを、いじめられている子どもの保護者に適宜伝えていきます。
 また、保護者との連絡を緊密に行い、連携して守ることが大切です。
 いじめ被害者の生徒が帰宅したら、電話でその日の様子を尋ねたり、休み時間に教師がパトロールするなど「目に見える具体的な対応」を行う必要があります。
 保護者との緊密な連携や校内での組織的取り組みを通して、早期解決をめざす必要があります。
 いじめの実体解明は、
(1)いじめの型(遊びふざけ型・攻撃型・犯罪型)
(2)被害の状況(時・場所・頻度)
(3)いじめ加害者(メンバー・構造)
(4)学級内の様子(同調者・強要)
 等です。
 いじめの構造(被害者と加害グループとの関係、周囲の子どもの様子等)が把握できたら、その中のキーパーソン(問題解決に重要な役割を果たすと考えられる子ども)と面接します。
 いじめの非に気づかせようと、いきなり叱責したのでは元も子もありません。穏やかな口調で、いじめに苦しむ子のことを告げ、いじめの原因について聞き出します。
 キーパーソンとの関係が培われたら、いじめグループのグループ面接を行います。
 いじめ加害者が判明すれば、加害者にいじめられた子どものつらい気持ちを理解させ、逆の立場になればどう感じるかを問い、いま何ができるかを考えさせ、心より謝罪するよう指導を行います。
 その加害者の子どもの保護者との連携を同時にすすめます。責任のみを追及するのではなく、保護者の悩みを共有する姿勢で接すると解決の力になるでしょう。
 ロール・レタリング(加害者が被害者の立場になって、自分自身に手紙を書き出して、届けられてからその手紙を読むことによって、自分自身を客観的に眺めようという技法である)等の手法を取り入れたりすると効果的です。
 最終的には被害者を交えた話し合いをもつことになりますが、タイミングはベテランの教師に相談するとよいでしょう。
 いじめで学校が責任を問われるのは、子どもの心身の安全を守る「安全保持義務」の違反が大半を占めます。
 その他に「いじめの本質の解明義務」「結果の予見義務」「問題の防止義務」「保護者への報告義務」「保護者との連携義務」等の違反を問われることがあります。
(嶋﨑政男:東京都公立中学校教師、東京都立教育研究所指導主事、公立中学校長等を経て神田外語大学客員教授。日本教育相談学会事務局長、上級教育カウンセラー)

 

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子どもの指導は、注意をするだけでなく、いろいろな指導のバリエーションがある

 会沢信彦文教大学教授が好きな家本芳郎(元中学教師。長年にわたり全国生活指導研究協議会等の活動に参加した。1930-2006年)先生という方がおられました。
 現役を引退されても生徒指導などの評論活動をしておられました。
 家本先生がよく「“注意”に注意」なんてことをおっしゃいました。
「“注意”に注意」とは、生徒指導といえば日本ではほとんどが注意だというのです。
 例えば生徒指導の先生が職員室の朝の打ち合わせのときに、
「○○という問題が発生しました。先生方、よろしくご指導ください」
 とこう言うわけですが、「よろしくご指導ください」の指導はほとんどが注意だというのですね。
 日本の学校教育は、注意以外の指導方法というものを開発してこなかったのだと、こんなふうにおっしゃるわけです。
 しかし、今は子どもたちが変わってきています。
 昔の子どもは、注意で指導になったのが、今の子どもたちは、注意だけでは動かなくなってきている。
 そこで、いろいろな指導のバリエーションを考える必要があるということを家本先生はおっしゃっているわけです。
 具体的に言いますと、家本先生は、指導にはこれだけのバリエーションがありますよとおっしゃっておられます。それは、
「説得する」
「共感する」
「教示する」
「指示する」
「助言する」
「模範を示す」
「励ます」
「ほめる」
「挑発する」
「ずらす(ユーモア)」
 挑発するなんていうのはおもしろいな、と思うのですが、指導というのはいろんなバリエーションがあるということです。
 家本先生のおっしゃる中でしばしば出てくるのが、ちょっと「ずらす」という発想です。
 あるいは、ユーモアの活用と言ってもいいと思うのですが、やはりユーモアというものはコミュニケーションにとって非常に大切なものかなと思います。
 1つだけご紹介しますと、家本先生が非常に印象に残っておられる出来事のようなのですが、少し読ませていただきます。
 小学校5年生の時、朝礼での校長の話である。
 当時、落書きをする子どもたちが出てきて、学校の便所や校舎の壁や、塀に男女の性器や性交図を描きまくっていた。
 その落書きをやめろという趣旨の注意だった。
 校長先生は何と言ったかというと、
「この頃、学校のあちらこちらで落書きが書かれている」
「特に大砲やら、お日様みたいな落書きが多いが、大砲やお日様の絵は画用紙に書きなさい」と言ったそうです。
 非常にうまいなと思ったのは、そのものずばりではなく、大砲やお日様という比喩を使っているわけです。
 そしてもう1つは「禁止をしていない」ということです。
 別なものに書きなさいと言っているわけです。
 家本先生によれば、これで一発で落書きは止んだそうです。
 生徒指導ではもちろん直球で勝負しなくてはいけない時もあるわけですが、この「ずらす」という技法は、なにもいつもいつもストレートでなくても、時には変化球を使ったっていいではないか、という発想ではないかと思います。
(会沢信彦:1965年茨城県生まれ、文教大学教授。専門は教育相談・生徒指導。特に、学校現場をはじめとするさまざまな対人援助場面における援助的コミュニケーションのあり方に関心を持っている)

 

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どうすれば理科好きの子どもを育てることができるのか、その手立てとは

 ある調査によると、小学校の教師の62%が理科は苦手だということです。
 たとえば、理科の授業で実験はしない。実物も見せない。教科書を読んで学習は終わり。
 というように実験の準備や栽培など、いろいろなことが面倒だというわけです。
 これでは、子どもに理科の感動を伝えることはできません。
 実は、大前暁政先生も大学を出たての新卒のころは、理科の授業のやり方がわからず、途方に暮れていた経験があります。
 新卒の時代は、とにかくがむしゃらに理科の実践を続けました。
 授業のやり方もわからず、ネタももっていないので、同僚に教わったり、先輩の教師にネタを聞きに行ったりして、勉強を続けました。
 そして、子どもが熱中した実践を記録に残していきました。
 そして、1年後、学級で「どの教科が一番好きか」をアンケートしたところ、理科が第一位になりました。
 子どもたちが熱中した事実だけを追い、実践を続けてきた成果が出たのでした。
 理科は、感動を生むことのできる教科です。実物に触れることで感動し、実験から新しいことがわかって感動できます。
 理科好きの子どもを育てるための、教師の手だては、おもしろいネタを準備し、授業のやり方を工夫していると、子どもたちが理科を好きになります。
 最先端の科学を紹介するだけで、子どもたちは理科に興味を持つようになる。たとえば、
「大昔、地球がまるごと全部凍っていたのではないかという仮説があるのです」などと言うと、どんな子でも興味津々で耳を傾けてくれる。
 理科のおもしろさは、ちょっとしたことでも感じることができる。
 野草の名前は、においや形などの特徴を示していることがある。
 キュウリグサは、葉をすりつぶすとキュウリのにおいがする。
 春の野草のホトケノザは「葉の形が、仏様が座っているところに似ているというので『仏の座』という名前がつきました」と言って、子どもたちが気付かないようなところを、教師が気づかせてやると、子どもたちはとても喜びます。
「そうだったのか、先生!」と、子どもたちは感動して喜びます。たとえば、
「密閉したビンの中で、ろうそくを燃やした。ろうそくの火が消えた後、ビンの中に酸素はあるか?」と問うと、子どもたちの意見は分かれる。
 空気中の酸素濃度が少し減っただけで、ろうそくの火が消えるという事実に子どもは驚く。
 あっと驚く事実を示すためには、子どもたちが常識と思っていることと逆のことを授業化すればよい。
 自分で実験をして確かめたり、友だちと討論をしたりしながら、結論を考え出していくことが楽しい、と思えるようになればすばらしいことである。
 基礎学力を身につける指導も大切である。
 ノート指導や、実験までの準備の指導など、教師が教えなくてはならないと思う。
 文章や図・表、観察物や実験などから、気づいたことをいろいろな面からださせる指導や、結果から結論を導く方法、討論の方法など、教師は指導のやり方を知る必要がある。
 私は新卒のころ、理科の授業のやり方がわからず、途方にくれていた。
 授業のネタももっていなかった私は、同僚に教わったり、先輩の教師のネタを聞きに行ったりして、勉強を続けた。
 そして、子どもが熱中した実践を記録に残していった。子どもが熱中した事実だけを追い、実践を続けた結果、一番好きな教科のアンケートで理科が第一位になった。
 理科好きの子どもを育てる教師の手立ては、
(1)おもしろいネタを準備する。
(2)授業のやり方に重点をおく。
 の二つである。
 おもしろいネタを準備し、授業のやり方を工夫していると、子どもたちは理科好きになります。
(大前暁政:1977年岡山県生まれ、岡山市立小学校教師を経て京都文教大学准教授。理科の授業研究が認められ「ソニー科学教育プログラム」入賞。日本初等理科教育研究会会員。日本教育実践方法学会所属。「どの子も可能性をもっており,その可能性を引き出し伸ばすことが教師の仕事」ととらえ,現場と連携し新しい教育を生み出す研究を行っている)

 

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教師や親は笑いを浮かべ、子どもたちのよき語り手になってください 

 教育とは、語ることです。
 教師や親が語ることで、人生がこの世でもっとも面白いことになります。
 人生には苦労がともないますが、楽観的に、希望と喜びをもって生きなくてはなりません。
 そして教師と親は、よき語り手となって人生のワルツを踊ってほしいのです。
 親は自分のことを語って子どもに教えてください。
 世の中は犯罪、災害などの報道を目にしない日はありません。
 いつの間にか、生きるのは不安で辛いものだと思うようになります。
 もっと穏やかに生きていきたいものです。
 そのために、自分たちの愚かな行いや恐怖などを笑いとばす方法を学んでください。
 教師は、笑いと涙を交えて自分の経験を語ってください。
 語るときには、授業のときとは違う口調で、声に抑揚をつけ、訴えるように語ってください。
 論理的な情報を伝えるときとは違った身振り手振りをつけることも大事です。
 高学歴の親や教師はたいてい融通がきかず、几帳面すぎて、頑固な場合が多いのです。
 では、そういう人は語り手になれないのか、といえば、私はそうは思いません。
 どんな堅物であっても、人の内部には、息抜きをし、遊び、リラックスしたがっている道化師がいます。
 その道化師を表舞台に呼び出してください。子どもたちをびっくりさせるのです。
 子どもたちは真面目な、それでいて楽しい教育を求めています。笑いを浮かべ、子どもを抱きしめ、語ってください。
 語ることは思考力を促し、分析力を刺激します。
 子どもたちが口答えをしたときには、考えさせるようにすればよいのです。
 子どもの内面からの声には、語ることによって穏やかに応じてください。
 若者たちは叱責や命令を忘れることはあっても、あなたの話を忘れることはないでしょう。
(アウグスト・クリ:1958年生まれ、精神科医。ブラジルで多くの子どもや親に触れてきた。教育者などの人材育成を行う知的アカデミーの創設者。ブラジルのベストセラー作家)

 

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モンスターペアレントが病的であるか見極め、個人で対応せず、相手のペースに乗らないことが非常に重要

 モンスターペアレントは2種類ある。「うちの子さえ良ければ」という保護者と、もう一種類は「病的」なモンスターペアレントである。
 苦情を言ってきている相手が、病的であるか否かによってその対応は違ってくる。
 だから言っている苦情の内容やパターンをきちんと見極めなくてはならない。
 病的かどうかは次のチェックリストを参考にしてほしい。
 苦情に、チェックリストのような特徴が見られれば、その親は病的である可能性がある。
 ゆるしを請わなければならない理由がない場合は、絶対謝ってはならない。
 謝罪し、誠意を持って対応することが逆に苦情をエスカレートする可能性があるので、通常の保護者への対応とは分けて考えなくてはならない。
 病的なモンスターペアレントであると考えられる、その見極めポイントは、
・何が苦情の原因になったのか全くわからない。
・教師に対する感情・評価が突然かわる。
・要求がすぐ苦情に転化し、エスカレートしていく。
・苦情先も教育委員会、議員など複数になる。
・「訴える」「マスコミに言う」「弁護士と相談している」「議員は力になってくれる」とまことしやかに言う。
・「治療費を払え」から、慰謝料、損害賠償とエスカレートしていく。
・一日少なくとも5回以上、相手を変えて何度も電話してくる。
・明らかな脅し。
・相手によって、内容を少しずつ変え、教師間に不信が募るように操作する。
・苦情のないようを、あたかも事実であるようにつくり変えてゆく。
・苦情が教師個人の誹謗中傷に転化しエスカレートしてゆく。内容は事実無根である。
・自分は絶対正しいと自信と確信に満ちている。事実無根の誹謗中傷であっても証拠を持っていると言う。
・嘘、つくり話を理由に苦情を申し立てる。
・苦情の内容が妄想的である。
 などである。
 モンスターペアレントは個人で対応せず、相手のペースに乗らないことが非常に重要である。
 モンスターペアレントは絶対に個人で対応してはならない。
 相手のペースに巻き込まれ、精神的に追いつめられるからである。
 学校の組織として対応しなくてはならない。
 だから、教師個人がクレームを言われたり、無理難題の要求を保護者から出されたら、躊躇せず、速やかに校長や教頭、学年主任に知ってもらう必要がある。
 楽観視して、誰にも相談しないと、後々の惨事につながる。
 できれば、モンスターペアレントと話をしたのは誰で、どういう話で終わっているのかを、時系列で確認できる記録をつくっておくと良いだろう。
 必要なときに誰でも見られる形にしておけば、職員室で情報が共有でき、モンスターペアレントから電話がかかってきたときに、記録を確認して電話にでることができる。
 また「言った、言わない」の議論になったときも記録の存在は重要である。
 何らかの返答を「明日までに」などと求められたときに、相手の言ってくる期日で約束してはならない。返答はたとえば、
「要求は重要なことなので、そんな短期間でお返事する約束はできません」と答え、相手のペースに乗らないことが非常に重要である。
 まずは、苦情の当事者になっている教師に事実を確認し、組織としてどう対応するかを検討したえうでなければモンスターペアレントと対応してはならない。
「訴えてやる」「マスコミに言う」「議員を知っている」という言葉はクレーマの常套手段である。
 しかし、この言葉に全くおびえる必要はない。
 モンスターペアレントが言っていることなど、まともに誰も取り合ってくれない内容であることを皆良く知っている。
 教師や学校をおびえさせて主導権を握るための脅しに過ぎないのだから、気にすることはない。
 もし仮に訴えられても、負けることなどありえない。
 それに弁護士が間に入ってくれたら、直に話をするよりも話は早くなる。
 マスコミも信じるはずがない。
 議員もせいぜい一度電話をかけてきて「よく話し合ってください」というレベルであろう。
(山脇由貴子:1969年東京生まれ、東京都児童相談所で19年間、児童心理司として2000人以上の子供たちの心のケア、年間100家族以上の相談や治療を受け持った。2015に退職後、「山脇由貴子心理オフィス」を立ち上げた。臨床現場の生の声を発信し続けている)

 

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よい言葉は、よい人間関係を育む

 東京都杉並区天沼中学校長藤川 章が国語科の川原龍介先生と共に作り上げた「言霊(ことだま)百選」を通して、生徒をはじめ地域の皆さんにまでつながりが広がっています。
 ことだま百選は、古今和歌集の仮名序からはじまり、奥のほそ道、円周率、寿限無、草枕、雨ニモ負ケズetc...そして日本国憲法前文まで、覚えてほしい100の名文からできています。
 ことだま百選は、生徒の十年後、二十年後の人生が豊かになるよう願いを込めて、やがて世界へ羽ばたいていっても通用する「教養」が身につくようつくられたものです。
 先人たちの素晴らしい知恵や感性を、暗唱することで身体に染みこませ、豊かな人間を育てます。
 言葉はすべてのコミュニケーションの基盤です。
 コミュニケーションは、全ての人間関係の基盤になります。
 学校で良い友達関係をつくろうとしたら良いコミュニケーションが必要です。
 そのためには、良い言葉が絶対欠かせないのです。
 自分や周囲の人たちが幸せになるためには良い言葉を積極的に使うということです。
 この「言霊百選」には、人生を豊かにする教養とともにそんな友達関係を大切にしようという願いも込められています。
 言霊百選が出版にいたる迄のいきさつは、以前から取り組んできた「人生を豊かにする言葉」について、国語科の川原先生に話したのがきっかけです。
 先生の呼びかけで理科、数学、社会、英語、音楽と学校全体が総力を挙げて知識と教養を身に付けられるように、ぜひとも覚えてもらいたい文章を選び「言霊百選」は出来ました。 
 これにより天沼中学校で天沼検定が始まり、新聞に取り上げられたのがきっかけで2014年に講談社より出版(注)されることとなったのです。
 天沼検定は、まず、すらすらと読めるようになるまで音読します。
 暗唱できるようになったら検定期間(4月~5月、10月~11月の計35日間)に、先生や地域の大人で構成された検定委員の前で元気よく暗唱します。
 間違えなく暗唱できたら合格となり、『名人』の称号がもらえます。
 25年度に2名、26年度は8名なので後半でまた名人が誕生するはずです。
 天沼検定から生徒や私たちが学ぶことは、古今東西の名文・名句を暗唱することで言葉が身体に染みこみ、豊かな人間を育てます。
 文章を暗唱することで知らず知らずに教養が身に付き、お互いの信頼が深まり、生徒一人一人が自信と誇りを持って地域活動の輪を広げています。
 これにより生徒たちに仲間意識や、一体感が生まれ、「いじめNO中学サミット」が杉並区全体に広がっています。
 これから成長していく過程において「言霊百選」が生徒たちの心の糧となってくれると信じています。
 学校で良い友達関係をつくろうとしたら良いコミュニケーションが必要です。そのためには、良い言葉が絶対欠かせないのです。
 自分や周囲の人たちが幸せになるためには良い言葉を積極的に使うということです。
 この「言霊百選」には、人生を豊かにする教養とともにそんな友達関係を大切にしようという願いも込められています。
(注)本の情報「ことだま百選」東京都杉並区立天沼中学校編、2014年発売、定価 : 本体900円(税別)、ISBN 978-4-06-218866-1、A5、130ページ。
(藤川章:東京都杉並区立天沼中学校長。民間企業に4年間勤務した教師に、力で対決する生徒指導に限界を感じ国分康孝と出会い師事。構成的グループエンカウンターを、学級経営や学習指導に生かす試みを続け「育てるカウンセリング」を生かすことが自分の使命であると考えている)

 

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ふだんから保護者に子どものよいところ知らせ協力を依頼するとよい、また保護者会を実りあるものにするにはどうすればよいか

 学級を崩させないためには、問題傾向を持つ生徒には、日頃から一定のルール(生活の決まりや常識)からはずれた行動を取らないように注意を向け、ルール違反をした場合は、その都度指導することになる。
 もし、これを見逃しているようでは、ルール違反の仲間が増え、学級全体の秩序維持が日に日に難しくなっていくのである。
 だから見逃さずに注意し指導する。その積み重ねが欠かせない。
 そして、行為の内容によっては家庭にも連絡して、指導の協力を依頼することが大切になる。
 その場合に、何かあったときだけ家庭に連絡するのでは話にならないのである。
 ふだんの生活で少しでも良いところが見て取れたら、電話でもよいので、それを自然な形で伝えていくことが必要である。
 それは保護者をどれほど喜ばせるか図り知れないものがある。
 そうした連絡を受けている中でのことなら、保護者は厳しい問題点の指摘も受け入れるし、それに対する指導の協力も受け入れてもらえるものだ。
 子どもの良さを見つけるには、性善説に立ち、日頃から子どもと交流し、生活を観察していれば、何らかの良さを見いだせるものだ。
 先入観にとらわれないように注意しながら、日々新たな目で、かつ好意的な眼差しを持って子どもを見ていくのである。
 すると、きっとその子なりの良さが見えてくるはずだ。
 それを、タイミングを見て自然な形で保護者に伝えていくことが、生徒指導にとってどれだけ重要であるかは、実践してみればわかることである。
 私の経験からいって、どれ一つとして好結果につながらなかったものはないと記憶している
 保護者会を実りあるものにするには、つぎのようにするとよい。
1 学級担任の経営方針等をよく理解してもらう
 初回の保護者会では、学級担任の経営方針等をよく理解してもらうことである。
 担任がどのように子どもたちを教育していこうとするのか、これを理解してもらわなくては、担任への協力は得られるはずもなく、保護者も協力のしようがない。
 実は保護者が一番知りたいことでもあるし、信頼関係を築くうえで大事な一歩となることを心得なければならない。
2 子どもたちの学校でのようすを伝える
 日頃から、子どもたちを観察したメモや具体的資料を用意しておき、
「授業の様子」「昼休みの様子」「清掃状況」「学校行事」等への参加態度と活動状況などを保護者に伝える。
 具体的な子どもの活動状況を報告することは、保護者を安心させ、かつ保護者の信頼を得ることにつながっていく。
3 家庭での子どもの様子を話してもらう
 家庭での、わが子の良いこと、悪いこと、気になっていることなどを、保護者会でみんなの前で話してもらうことである。
 個人の家庭での問題をなぜ全体の場で話し合うのかと、疑問をもたれる方もいるかも知れない。
 その理由は、困っていることは案外共通していることが多いし、すでに上の子で体験して解決されている保護者も必ずといっていいほどいるので、アドバイスをもらえる場合が多いからである。
 たとえ体験者がいなくても、みんなで問題の解決策について考えあうという姿勢とその雰囲気が大変意義を持つ。
 それができている学級は子どもたちもよく育っていったし、良い学級となっていったのである。
4 学校や担任への要望を必ず聞く
 つぎに欠かせないのは、授業のことや、部活動での苦情、服装や生徒指導または保健衛生に関わることなどの要望を聞くことだ。
 授業や部活動については、毎回といっていいほどさまざまな要望がだされるものである。
 これらの要望にはすぐすべてに応えられるわけではない。
 後日、職員会議で検討を要するものもあるし、明らかに無理な要望で本質的に応えられないものもある。
 しかし、無理なことと思えてもよく耳を傾け、その思いを理解することが求められる。
 たとえ要望が叶えられなくても、それに耳を傾け受け止める姿勢を示すことによって、担任や学校への信頼が高まるのである。
 そうするだけでも学校への不信感は生まれにくくなるものだ。
(大阪隆夫:1941年生まれ、元横浜市立中学校教師(四校に勤務)。「生き方を探求する会」会長として道徳教育を研究。シュタイナー教育を研究)

 

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子育ての方法を教えるところがない、子育てに必要な親の学びとは

 親や教師といった子どもと身近に接する大人が「子どもとの関わり方」、「生き方や心の姿勢」が変わらなければ、子どもは変わりません。
「学校が悪い」、「地域が悪い」と自分以外に責任を転てん嫁かするのではなく、まず大人が自分を見直すことから始まるのです。
 子どもの対人関係能力や社会とつながる力が弱くなっていると言われますが、大人はどうなのか、自分はどうなのかと自身に問いかけることから始まるということです。
 そこで「親学」が必要になるわけです。
 親学は、オックスフォード大学・トーマス学長の「学校でも、大学でも教えていないのは親になる方法だ。社会はこの親になる教育にもっと関心を向け、親としての自分を向上させることが大切である」という趣旨の問題提起を受けて、日本で「親学会」が発足したことに始まります。
「親学」というのは、「親になるための学び、つまり親になるための準備学習」と「親としての学び」です。
 親が人間として成長していく、親心が成熟することを促うながすためのものなのです。
 親学講座やセミナーでは、講義形式ではなく、弱音やぐちを話せる場づくりに始り、建前論ではないドラマセラピーやロールプレイを使って、親の意識改革、中でも自分で気づくためのプログラムに力点を置いています。
 いわゆるキレる子どもに対応するためには何が必要なのでしょうか。
 それは、何が子どもの心を育て、脳を育てるのかという「育」の視点です。
「育む」という言葉の語源は親鳥がヒナを「羽は含ぶくむ」、すなわち羽で抱きしめるということです。
 つまり、愛情と信頼で抱きしめることによって初めて心が育つということです。
 だから、親心が崩壊すれば、子どもは優しさや共感性を学ぶチャンスを失ってしまい、いくら学校の道徳の時間で「思いやりを持ちなさい」「人権を尊重しなさい」と教えても、子どもの心の琴線(きんせん)には触れません。
 そういう意味で親学の一番大事なポイントは「脳の発達段階に応じて子どもとどう関わるべきか多くの親たちが共通理解する必要がある」という事です。
 教師が子どもとの関わりについて親に言うと「我が家には我が家の方針がある」と言う人がいます。
「どう関わるべきかはそれぞれで、こう関わるべきだという絶対的な考え方はない。余計な口出しをしないでくれ」という事です。
 しかしそれに対して引いてはいけない、子どもの脳や心の発達段階に応じてこういう風に関わるべきですよと説得力のある言葉で、いかに納得出来る提起が出来るかという事なのです。
 説得しようとすれば逃げてしまいますが、納得すれば親は変わりますのでその点に気をつけて、ぜひ脳の発達段階に応じた関わり方という事について共通理解を求めるべきなのです。
 その際に「しっかり抱いて下に降ろして歩かせろ」という、この関わり方は「親になるための学び」と「親としての学び」という二つの意味を持っています。
 前者は親になるための準備教育で、今は気付いたら親になっている若い親がたくさんいて「親になるとはどういう事なのか」という準備教育を本来であれば家庭科で行なっていく必要があるのですが非常に欠けています。
「しっかり抱く」という段階は「愛着」で「下に降ろす」は「分離」、そして「歩かせろ」は「自立」でこれが子どもの発達過程なのです。
 子どもは一番信頼出来る大人に甘え、依存してやがては反抗しながら自立していきます。
 この「甘えて依存する」という段階が愛着で「三つ子の魂、百までも」と言ってきたのです。  
 日本の子どもたちは十分に親に甘える事が出来ないし依存出来ない、それから反抗出来なくなっています。それは母性的な関わり、父性的な関わりを持つ事の出来るお父さんやお母さんがどんどんいなくなっているからです。
「親学」の基本は、
1「しっかり抱いて、下に降ろして、歩かせろ」が子どもへの関わり方の基礎基本
2 脳には臨界期があるという事について共通理解が必要である
3 千利休の残した「守破離(しゅはり)」
 形から入って躾をする。
 日本の歴史や文化、伝統を貫いている「形」というものを継承しながら茶道、華道、剣道、柔道と「道」の付くものは最初に形の継承から始めますが、それは子どもの興味関心で選択する事は出来ないのです。
 必ず基本の型というものを継承しなければならない、これが教育の出発点なのです。
 家庭においても形の継承である躾というものを親がしっかりと教えなくてはならない。
 身を美しくするというのは形から入る訳ですが、その形を守り、破り、そして形から離れるというのが本当の個性や創造性なのです。
「しっかり抱いて、下に降ろして、歩かせろ」という日本人の子育ての知恵を凝縮させた格言が示すように子どもが自立するためには、しっかりと抱くという「愛着」、下に降ろすという「分離」のプロセスが必要不可欠です。
 しっかり抱くというのが母性的な関わり、下に降ろすというのが父性的な関わりと考えています。
 優しさというものは母親の愛着から子どもの心の中に育っていくものです。
 その愛着が狂っているとすれば子どもたちに心を育むとか思いやりを育てる、命を大事にするという事は単なる建前のスローガンになってしまうのです。
 一方、父性の特徴は「義愛」です。秩序感覚、ルール感覚、規範意識、人間としてのマナー、それは教えねばならないものです。
 例えて言うなら北風の厳しさと太陽の暖かさ、これが父性と母性だと思っています。
 父親は子どもを産む事も授乳する事も出来ません。胎児期と乳幼児期は特に母親との身体的、感覚的な接触の相互作業によって子どもの心が安定しその子の大きな基盤となります。
 一般に子どもは母親から心の安定を、父親には外部世界の知的好奇心と刺激を期待しています。
 父親には子どもの心を活性化し自立を促し社会のルールなどを教えるという独自の役割があります。
 このような意味で基本的には母性的な役割を母親が担い、父性的な関わりを父親が担うという事が人の進化の歴史から見ても自然であると言えます。
 もちろん父子家庭、母子家庭において一方の親が母性及び父性的関わりの両方の役割を果たす必要もあります。
 父親と母親の性別役割分担を強制すべきではありませんが、子どもにとっての父親と母親の役割を認識する必要があります。
 この点を踏まえた上でどのように役割分担すべきか夫婦で十分話し合うべきです。
 温かさや優しさは母親、厳しさは父親だけに求められるものではないから性別的役割分担を固定的に捉える事は問題です。
 時には父親が母性的関わりを、母親が父性的関わりをする事も求められるのです。
 男らしさ女らしさというものを形から入って教える事はアイデンティティを育むためには必要不可欠なのです。
 それを差別だと言ってしまっては育む事が出来ない「育」という視点に立てば対立を超える道が見えてくるのです。
 私はいつも学生達に尾形光琳の『紅白梅図』を見せています。紅梅と白梅の間に広い川が流れている、これが日本人の感性、バランス感覚なのです。
 一見対立する男と女、お父さんとお母さん、「教える」と「褒める」など様々なものがあります。
 教育はある意味で綱渡りだと思うのですが綱渡りをする時には長いバランス棒がなければ細い綱の上では落ちてしまうのです。
「男のくせに、女のくせに」と言いすぎたら子どもは駄目になってしまう、形だけを強制しすぎたらかえって反抗したり事件を起こしたりしてしまうのです。
 父性母性という時には「しっかり抱いて、下に降ろして、歩かせろ」という基本を大事にして父性的な関わり、母性的な関わりが大切なのです。
(高橋史朗:1950年兵庫県生まれ、保守活動家、右派思想家、教育学者。麗澤大学特任教授。親学推進協会理事長。明星大学教授、麗澤大学道徳科学教育センター客員教授を歴任)

 

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世の中には知識はあっても、わが身に応用する知恵が足らず実践出来ない人がいかに多いか

 国語辞典には「知恵とは、物事を知り、巧みに処理していく能力」と書いてあります。
 即ち、知識とは勉強するもので、知恵とは問題解決能力を指します。
 知恵は問題にぶつかりながら、行動の中で身に付け育てていくものです。
 例えば、糖尿病に関する知識は糖尿病教室で教わり、生活習慣を変える知恵は現場(家庭、職場、社会など)で身に付けます。
 このように、経験を通して得た知識こそが、やがては自分の知恵として身に付いた物となります。
「知識」は生活の糧を得るのには役立ちますが、「知恵」は人生に役立つものです。
「出来ない奴ほど自分の持つ知識をひけらかそうとするが、出来る奴は行動することで知恵を示してくれる」とは、ある料理の達人の言葉です。
 ゲーテの言葉に「真の知識は経験あるのみ」「経験は知恵の父、記憶は知恵の母」がある。
 日常生活の中から学んだ経験と記憶が、自分の知恵として身に付けばよいのですが、なかなか上手くはいきません。
 血糖が上がることが分かっていながら、間食が止められない、つい食べ過ぎるなどです。
 糖尿病で困っている人は、経験から得た身に付いた知恵があれば、糖尿病を打ち負かせると、励まされます。
 しかし、「分かっちゃいるけど、止められない」というのが現状です。
 良い知恵は身に付きにくく、悪知恵はすぐに身に付きます。
 それは、行動変容を必要とする目標が願望のことが多く、その目標達成には多大な努力がいるからです。
 そこで別の視点から現状を解析してみると、患者さん自身が実践出来ないことも問題ですが、患者さんに行動変容を促す私たち医療従事者の支援方法が間違っている場合があることに気付きました。
「医者の不養生」「論語読みの論語知らず」などと言われるように、世の中には人に教える知識はあっても、その知識をわが身に応用する知恵が足らなく実践出来ない人がいかに多いことか。
 食事療法を勧める医者が肥満でしたらどうでしょうか?
 禁煙を勧める医者が愛煙家でしたら?
 患者さんに行動変容を促す前に、自分自身の行動変容が出来なければ、患者さんは変わらないでしょう。
 先ず、医療従事者から行動を変えて、「知恵の輪」を作る努力が必要です。
(石田俊彦:香川大学名誉教授。元香川大学医学部附属病院長)

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英語嫌いだったのに、なぜ予備校の人気英語講師になったのか、勉強好きな子どもにするにはどうすればよいか

 人気コミック「ドラゴン桜」の英語教師のモデルでもあり、東大合格者から「先生のおかげで英語が克服できた」と厚い信頼を寄せられるカリスマ英語講師、竹岡広信さん。
 意外にも、学生時代は英語が嫌いだったという。その彼がなぜ嫌いなものを使う仕事を選んだのか。
 多くの受験生たちから支持される独特の教え方とは。親や教師は子とどう向き合うべきなのか。
 そして、私たちが決断に迷った時、何を決め手にすべきなのか。竹岡さんに教育や生き方について大いに語っていただいた。
 竹岡さんの父親が塾長を務めていた塾で、京都大学工学部の学生だった竹岡さんは高校英語を教え始める。
 竹岡さんは、英語が嫌いだったし、生徒に教えるなんてムリと思ったんですが、英語は大学入試に必須の科目。高校生には避けて通れない上、自分は国立大学に合格したから教えられるかもしれないと引き受けました。
 生徒たちもほとんどが英語嫌いだった。しかし、竹岡さんは自分が「やみくもに勉強」した経験から、とにかく必死で教える。
 生徒たちも全力でついてきた。そして、運命の合格発表。結果は男子全員が、不合格。
 竹岡さんは「あぁ、しまった。彼らをつぶしてしまった」と悔やんでも悔やみきれない気持ちです。
 生徒たちは竹岡さんの授業に感謝してくれました。しかし、竹岡さんは「自分に教える力がなかった。あまりにも罪が大きい」と。
 そこから、竹岡さんの葛藤が始まる。塾には次の学年の生徒たちが既にいた。今度こそ合格させるためにも英語教育に本腰を入れようと、文学部への編入学を考える。
 迷いに迷って、ふたりの恩師に相談する。
  工学部の教授には「どっちに進んでも、確実に後悔する」と言われました。だから「後悔の少ない方に行きなさい」と。
 高校時代の先生に相談すると「自分にとって不利な方を選べ。自分を抑えて、世の中の役に立つ方へ進みなさい」と言われた。
 実はほのかに、竹岡さんは英語教育に疑問も感じ始めていた。英語嫌いがこんなに多いなんておかしい。英語をこれだけ学んでも話せないのはおかしい。今までの英語教育は変えるべきなのではないだろうか、と。
 竹岡さんが出した結論は、文学部米文学科への編入学だった。
 文学部では、工学部を卒業しての編入学だっただけに、自らハードルを高く設定。成績は「優」でなければならない、と心に誓う。
 全部優を取れるほどきちんと理解できていないと思って。このままではダメだ、思いきり勉強に打ち込める環境をつくろうと、休学しました。
 勉強に専念するための休学。なのに待っていたのは「パチプロ」のような生活だ。パチンコ店へ通いながら「弱いな俺」と自分を嘆いた。
 そんなある時、競馬に異常に詳しい人と知り合ったんです。
 過去のレース結果から、それぞれの馬の体重、親馬の情報までこと細かに知っている。でも、その人はそれを覚えようとして覚えたわけじゃないんです。
 「好きだから」自然と自分の中に入っていく。
 コレだ!好きじゃないと始まらない。「好きじゃないと伸びない」と思い至ったのです。
 やっぱり今までの自分は英語を好きではなかった。
 「イヤイヤやっていたんだ」と竹岡さんは「好き」というチカラの大きさに気づく。
 つかんだ真理は「好きだからこそ伸びる」だった。
 そして、好きになるために「ゆっくり学ぶ」スタイルへ変えていく。ゆっくり勉強することで英語が楽しいものになった。
 復学すると一年間で94単位を取得したのだった。
 では、好きになるために「ゆっくり学ぶ」方法とはどんなものなのだろう。
 英単語のイメージをつかむと、英語がぐっとおもしろくなる。
 生徒が竹岡さんに「先生、『triumph』がどうしても暗記できない。どうしたら覚えられるんだろう」と聞かれ、単語について調べ始める。
 triumphの成り立ちを見ると、語尾のphはphoneに由来し、音という意味。umphで勝利の歌(音)を歌う、になります。
 ところで、私たちは祝いの席では何をしますか? そう、万歳“三”唱。つまり“三”を指すtriが語頭にあるわけです。
 外国でも勝ちどきは三回なんですね。triumphは勝利の歌を大合唱するということで、大勝利という意味になるのです。
 ちなみに大勝利の時に奏でられるのが、トランペット『trumpet』(trumpはtriumphの変形)。なんだかおもしろいと思いませんか。
 成り立ちのほか、単語の持つイメージがわかるとぐっと覚えやすくなるという。
 たとえば、spring。春、バネ、泉・温泉を指しますが、それぞれの意味に関連性を感じませんよね。
 春というと、日本人の感覚では穏やかで優しいイメージだけど、イギリス人にとっては厳しい寒さの冬が終わり生命がわきだすイメージ。
 「爆発するようなエネルギー」を感じるそうです。その感覚で見直すと、生命が一斉に息吹く春も、弾けるバネも、わきだす温泉も、確かにspringですよね。
 たったひとつの単語にも奥深い世界が広がっている。
 興味を持てばおもしろいし、納得したら簡単には忘れない。
 自分のペースで、自分が納得するまで向き合ってみる。
 それが、竹岡さんの「ゆっくりと学ぶ」ということ。
 自らゆっくり学ぶことで英語が楽しくなったように、生徒たちへもそのスタイルを貫いている。
 しかし、受験に「ゆっくり」は許されない気もするが、どうだろう。竹岡さんは、
 「確かに、私も以前は“丸暗記”を生徒に求めていました。単語を間違えたら100回書いて覚えろ、という具合に。しかし、これは教師の“自己満足”に過ぎません」
 「生徒が自分からやらない限り、何も身につかない」
 「教師の役割は、きっかけづくり。英語を「おもしろい」「好き」と思えるようにすることです」
 「そのためには、一つひとつ丁寧に教えた方がいい。一見遠回りに感じますが、しっかりと記憶に残り、結果的に近道になるのです。遠回りこそ近道です」
 「おもしろい、好きと思えば、子どもたちは走り出す」
 「いったん走り始めたら、放っておいてもひとりで走り続ける」
 と竹岡さんは言う。
 だが、走り出すのを「待つ」のは親としても教師としてもつらいことだ。竹岡さんは、
 「待つのはつらい。だけど、こどもたちをほめて、ほめて、ほめて待つんです」
 「子どもの力を限定してしまうのは“家庭、地域、学校”です。勝手に限界を決めつけて、子どもの能力や心の成長にブレーキをかけてしまう」
 「どんな子でも、アホと言われ続けたらアホになります。だから、ほめるのです」
 「しかも、本気で。子どもは敏感に気持ちを察知するので、本気でないと意味がない」
 「本気で信じ続けて待つこと。そうしたら、彼らは変わります」
 という竹岡さんも「辛抱し過ぎてハゲそうだ」といつも言っている。
 子どもを信じ続けたら、変わる。
 大切なのは、相手のあるいは自分の力を信じて一生懸命になること。
 ひとつのことにひたすら打ち込むことで、きっと道は拓ける。
(竹岡広信:1961年京都府生まれ、英語教師。竹岡塾主宰。駿台予備学校講師(主に関西エリアに出講)ドラマ、漫画『ドラゴン桜』に登場する英語教師のモデル。先生を対象にした講演会。テレビ「プロフェッショナル 仕事の流儀」に出演)

 

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「自分の力で、たくましく生きる」子どもを育てるには、親はどのよう子育てすればよいのでしょうか

 早期教育は人格的な要素を欠く一部のエリートサラリーマンのように、情緒的な豊かさとか、社会性、主体性、柔軟性、意欲の高さなどが育たない恐れがあります。
 たとえば、シュタイナー教育の考え方によりますと、小学校に入るまでは「生命体を育てる時期」として「生物にふれる経験をたくさんさせることが大事である」といわれています。
 もし、この就学前の時期に、子どもに機械的に暗記するような学習を強制したならば、その子の知力は一見高くなったように見えても、この時期に育つべき「意志力や行動力」が育っていないので、結局、その思考力にも限界が来る、ということです。
 また、つぎの小学校の時期は「感情体を育てる時期」として、単なる知識のつめこみではなく「へえ、そうなのかあ!」というように驚きや感動をもって、すべてのことを「感情体験として感じとらせるように学ばせる」ことが必要であるといわれます。
 もし、この時期に、抽象的な思考を強制したとするならば「感情のまずしい、人間味のとぼしい人間にしてしまう危険性がある」と警告しています。
 日本の教育は、早期教育であれ、小学校教育であれ「単なる知識のつめこみが中心」ですから、現代の子どもたちに「意志力や行動力が育っていない」のも、「豊かな感情や人間味が育っていない」のも、当然の結果のように思います。
 就学前や小学校の段階で、塾通いなどの回数が多く、過剰な知的教育を強制されていると思われる子どもの絵ほど、空疎な印象の絵が目立っているのです。
 これまで母親講座などで、早期教育に対して反対意見を述べたりしますと「それでは、子どもに何をしたらいいのでしょうか」とよく聞かれます。
 それに対して「何もしないのが一番です」と答えると、質問した人は困惑した顔をされます。
 しかし、子どもの積極性や自主性、社会性、創造性、行動力、意志力など、そういう人格的な要素を養っていくためには、実際、大人は下手に手出しをしないことが一番なのです。
 子どもが自由に使える空間と時間、それに豊かな人間関係を取り戻してあげる以外にはないと、私は思っています。
 それにはまず、親自身の価値観を変える必要があるのかもしれません。
 就学前から幼児に文字や計算を教えこんだり、小学校受験や中学受験をめざして子どもに何年間も塾通いをさせることは、長い目で見るならば、お金やエネルギーをかけて子どもをスポイルすることになりかねないことを、このへんではっきりと認識する必要があります。
 さらに、塾の問題に加えてもう一つ考えなければならないことは、子どもたちがテレビやビデオ、ゲームなどの間接体験づけの生活になってしまっている、この現実です。
 とくに、まだ現実の世界と仮想の世界の区別が十分につかない就学前の子どもに対しては「生の直接的な体験を豊富にさせる」ようにして、画像をとおすような間接的な体験はできるだけさけるべきではないかと思います。
 間接体験づけの生活をさせているよりは、保育園に入れて子ども同士で遊ばせておいたほうが、よほど健全に育つ可能性は高いのではないかと思います。
 私自身は、子どもの創造性や意志力がほぼ育って、もう大丈夫と思われる小学校五、六年生になるまでは、絶対にゲーム機を買い与えることはしませんでした。
 子どもにたくましさを育てるためには、子どもを守りすぎないことが大切でしょう。
 親が先まわりして子どもを守ろうとすればするほど、子どもを脆弱にしてしまうおそれがあります。
 公立学校は荒れているとかいじめがあるなどの理由で、私学志向の親が多くなっています。
 そうやって常に親が子どもを守ろうとすることはかえって危険な場合もあります。
 無菌状態にばかりおかれていますと、かえって感染したときに決定的なダメージを受けてしまうことがあるのです。
 就職したりすれば、この国際的な社会のなかでは、どんなところにいかされるかわかりません。
 実際に温室で育った人たちが、自力で困難な状況を切り抜けるような機会がほとんどなかったために、ほんのささいなことでつまずいてしまう、というケースも非常に増えているのです。
 結局、子どもを精神的にたくましく育てるには、むしろ雑多な中で育てるほうがいいのではないでしょうか。
 よく、保育園に通っている子どもに対して、幼稚園のお母さんたちは、「保育園の子たちって、たくましくて、人なつっこいのよね」などとやや皮肉をこめた口調で言うことがあります。
 しかし、その「たくましさ」と「人なつっこさ」こそ、世の中を渡っていくためには必要なものなのです。
 子どもがつまずかないように、先まわりして道ばたの石をどけてあげることよりも、むしろ子どもがつまずいて転んだときに、ただ怒ったり責めたりするのではなく、優しく抱きとめて話を聞き、なぐさめてあげられるような大人に、ぜひなりたいものです。
 最近の傾向として、子どもの教育には熱心だけれど、しつけに関しては無関心、という親が増えているようです。
 そればかりか、「しつけ」という言葉に抵抗感があって「子どもを自由でのびのびと育てたい」ということで、ほとんど子どものやりたい放題にさせている、という親が増えているともいえます。
 しかし、子どもにとって本当に頼りがいのある親とは、ただ甘いだけの親ではなくて、悪いことに対しては、しっかりと壁のようになって立ちふさがってくれるような、ときにはきびしい親なのです。
 親は子どもから「愛される権威」であると同時に「尊敬される権威」であることがたいせつです。
 子どもはよく大人を見ているものですから、たとえきびしく怒られたとしても、それが真剣なもので、その子に対する深い愛情から発するものである場合は、しっかりと受けとめることができます。
 ところが「大人の都合」や「その場の感情」によって子どもをしかったり、しからなかったりするならば、子どもは何にしたがっていいのかが、わからなくなってしまいます。
 そして結局、いつまでも自分の欲求をとおそうとして、まわりの人と常に戦いつづけるような子どもになってしまうおそれがあります。
 どうも最近の相談を聞いていますと、そういう問題が増えているように思うのです。
 かつての家族では、そのきびしくしかることを、おじいちゃんやお父さんがにない、優しくなぐさめるのは、おばあちゃんやお母さんが受けもつという役割分担がありました。
 しかし、核家族で母親が一人で子どもを抱かえている状況では、母親一人がその両方の役割を果たさなければならないのですから、どちらも中途半端になりかねません。
 後でなぐさめてくれる人がいると思えば、思いきりしかることができるでしょうが、しかったその母親が、また、なぐさめ役もやらなければならないのですから、現実はなかなか大変なのです。
 そういうなかで、私たちカウンセラーの役割も、単なる受けとめ役だけではすまされなくなって、どうもその「きびしい壁」の役割を、になわされることが多くなっているのです。
(三沢直子:1951年生まれ、臨床心理士として、病院や企業で心理療法に携わり子育て中のお母さんをサポート。明治大学教授を経てコミュニティ・カウンセリング・センタ等で家族の問題に関わる職員の研修や、親教育支援プログラムの普及に努める)

 

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問題を起こす小中高校生や少年院の子どもたちと接してきてわかったこととは

 魚住絹代さんは、人の成長や人格形成に関心があって、子どもの成長や子育てに関わる支援をしてきました。
 最初は幼稚園の先生からの出発でした。
 「三つ子の魂百まで」という言葉から、幼児期が大事かと思ったのです。
 魚住さんは、子どもは大好きだし、幼児期は確かに重要なのですが、小さい頃に受けた教育や子育てが、その子の人格や人生にどう影響を与えるのかを追いたくて、その後少年院の教官になりました。
 1000人を超える非行少年・少女たちとの出会いは、大きな疑問からスタートします。
 「なぜ、こんな事件を起こしたんだろう」「なぜ、そんな風に振る舞うんだろう」と。
 生活を共にする中で、必ずそこに至るだけの道筋が見えてきます。
 当然のことですが、彼らは非行少年になろうと生まれてきたわけではないのです。
 立ち直りのプロセスの中で、どの子も、ただ愛されたかった、わかってもらいたかったという思いを強くもっていました。
 それがうまく伝えられず、周囲にもうまく受け止められず、すれ違いの中で分岐点を歪んだ方向に進んでしまっていたのでした。
 彼らの立ち直りは、まさしく育ち直しでもありました。
 ですが、普通に育っていくのと違い、いったん育ってからの育ち直しは、生まれ変わるほどの試練です。
 彼ら自身「小学4年に戻りたい」「幼稚園からやり直したい」という言葉がこぼれます。
 立ち直りに寄り添う中で、育った環境と周囲の対応がいかにその子の人生に影響を与えるのかを目の当たりにしてきました。
 もっと早い段階での発見と手当ての必要を感じ、2003年より小中高の学校に活動の場を移し、困難なケースを中心に、子どもや親、教師の支援を行いました。
 学校では、不登校やひきこもり、発達の課題などからくる集団不適応、学習面のつまずき、非行、対人関係のトラブル、学級崩壊、摂食障害、リストカットなど、さまざまな問題があります。
 ですが、丁寧にひも解いていくと、必ずそこに至るだけの背景が見えてきます。
 彼らの問題行動はある意味、安心できる居場所がない、自分らしく育てていないという悲痛な叫びなのです。
 その証拠に、周囲が行動の意味を理解すると、みるみる回復していきます。
 子どもの回復にとっての第一歩は、周囲の理解と適切な対応の仕方なのです。
 それが、彼らにとって安心できる居場所につながっていきます。
 育ちに、もうひとつ大事なことは、存在価値です。
 勉強がわかる、友だちとうまくつながれるということが、自分らしく振る舞える自信となり、さらには社会で自分を生かしていくための力になっていきます。
 そのためには、何につまずいているか、どこが弱いのかを知り、丁寧にフォローアップしてあげることが重要です。
 いたずらをする子、困ったことをする子は、どうつながったらいいかわからないでもがいています。
 思春期の子どもは、言葉で「困ってる」「かまってよ」「どうしたらいいの」「助けて」と言えない分、行動で訴えてくる。
 特に激しい言葉を使い、なぜそんなことをするのか理解できないことをやる子ほど、強く求めています。
 悪さをしながら、文句を言いながら、無視しながら、拒絶しながら「この大人はこの自分にどう出るか」と、大人の出方をじっと見ている。
 口で叱るだけの大人、見て見ぬフリの大人には、「フン、どうせ」とせせら笑いながらも、さびしさの鎧に身を固めていく。
 彼らが求めているのは、本気で自分に近づいてくれる大人です。
 いくら、「どうしたの」「話してごらん」「教えてよ」と口で歩み寄ろうとしても無駄です。
 それが本気かどうかは、彼らの感性で計られています。
 数々の試しの中でようやく彼らが納得できて、はじめてつながれます。それには、とても時間がかかります。
(魚住絹代:1964年生まれ、くずは心理教育センター長。福岡、東京、京都の少年院、医療少年院で、法務教官として非行少年・少女の立ち直りを支援。退官後、大阪府の小中学校で、訪問指導アドバイザーやスクールソーシャルワーカーとして活躍。その活動は、これまで、クローズアップ現代やNHKスペシャルでも取り上げられた)

 

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教師になりたい学生や、若い教師に知っておいてもらいたいこと

 将来教師になりたいと考えている高校生や大学生、それから教師になって5年目までの先生方に理解してもらいたいこととは何か。
 池田 修京都橘大学教授は大学教員になる前、約20年間中学校で国語科の教師をしてきました。
 教育の現場でやってきた事実と、アカデミックな理論・哲学の両方の視点が必要だということです。
 一般的に、現場の先生が書かれた本を読むと、どうしても「教育の方法のみのHow to本」になってしまう傾向があります。
 しかし、どうしてそのHow toが必要なのかということ、つまり「その背景にある教育の理論や哲学といったものを考えなければならない」と池田教授は思うのです。
 池田教授が中学校教師になった頃は、教育の指導技術というのは、いわゆる名人芸でした。
 それがこの後何十年間に、指導方法がかなり整理されてきて、今日では、「こうすれば教師になれる」というようにマニュアル化されてしまいました。
 しかし、本来そうしたマニュアルの背景には、「このような目的を達成するため」という指導者の理論や哲学があるはずです。
 指導の技術を通して教育の哲学と理論を考えていってもらいたいと池田教授は伝えたかったのです。
 日頃、
大学で教えていて感じるのは、技術を習得すれば指導ができると学生達は勘違いしてしまうことです。
 本当なら、そこから教育の哲学を考えていかなければならないのです。
 例えば、黒板に字を書く時には、注意の6割を生徒に、4割を黒板に向けるという6:4の法則があります。
 学生たちはこの法則を教わってなるほどと思うのですが、6:4の構えを型どおりに実践することのみに気を取られ、これが子どもに伝え、理解させるための方法だということがわからないんですね。
 そもそもテクニックは何のためにあるかが抜け落ちてしまっているのです。テクニックやマニュアルの根本的な哲学を考える必要性を痛感しています。
 普通、教師になって3年ぐらいで、自分の教育スタイルがだいたい決まってしまいます。
 それ以降は一国一城の主となり、他者の意見を聞かなくなってしまいがちです。
 ですから、合格をゴールとするのではなく、新卒5年目ぐらいまでは懸命に勉強すべきなのです。
 池田教授の本の読者から頂いた感想によると、この本が自分の教育を考え直すきっかけになったという先生もいます。
 一校目の赴任地で教師スタイルが決まってしまうので、若い先生はどんどん学校を変わった方がよいと私は思います。
 校風というのは、それぞれの学校によって全く異なるものですからね。
 教師を目指している学生には、もっとたくさん本を読んでほしいものです。
 そうすると、「どんな本を読んだらいいですか?」と質問する学生が多くいますが、これは本を読んでいないことを意味するのですよ。
 100冊読めば、本の方から「次はこれを読んで」と言うはずです。
 文章を通して内容を豊かに想像することができるので、活字本をたくさん読むことが望ましいです。
 こうして本をたくさん読むことによって、雑学が身につきます。
 特に小学校・中学校教育においては、雑学はとても大切です。
 教師は、教えたいテーマの周辺に雑談を織り込むことをよくします。
 これにより、子どもたちはストーリーとして記憶し、学習していきます。
 この雑談ができるようになるためには、雑学が必要なのです。
 色々と読んでいったら1年間に軽く100冊は超えますよ。
 それから、色々な先生の授業をその先生の立場で見てほしいと思います。
 池田教授は「視座の転換」というものを求めています。
 子どもたちの側と、先生の視点・立場で物事を見なさいということです。
 池田教授は、大学の恩師から「授業は、子どもの事実から作るもんだ」と指導されてきました。
 子どもの事実とは、子どもの興味や要求や学力のレベルなどだと思っています。
 そこから、授業を作っていく問題解決型の授業づくりをしていただきたい。
 教師の視点で見る例をあげると、
 池田教授の受け持つある講義では「100人の子どもを引率して○○に行く」という実踏計画(実地踏査の計画)を学生に立てさせています。
 まず計画を立て、実際に現地に行って調べ、さらに計画を書き直すということをしています。
 学生は現地調査で、大人数の子どもを引き連れて信号を一度に渡れないことや、全員集合できる場所の確保の難しさなどを思い知ります。
 これによって、教師の視点というものを多少なりとも持てるようになると思います。
(池田 修:京都橘大学教授。東京都公立中学校教師を経て現職。「国語科を実技教科にしたい、学級を楽しくしたい」をキーワードに研究。 恐怖を刺激する学習ではなく、子どもの興味を刺激し、その結果を構成する学びに着目している。全国教室ディベート連盟理事、京都で教育研究会「明日の教室」主催)

 

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魅力的な話し方をするにはどうすればよいのでしょうか

 その人の生きざますべてが話の中に滲みでます。
 昔から「芸は人なり」なんてことをよく申します。芸には、その人が今、生きているすべてがでます。
 話というのもまたそうでしょうね。
 話しには、その人の人生経験、年齢なりの声や風貌、やしなってきた知識、仕事に向かう情熱、そのときの熱意、人に対する思いやりといったことすべてが滲みでてきます。
 ようするに、その人の生きざま、すべてが話の中に出ます。
 これはなかなか大変なものです。だから、時間をかけて、人間の修業からしていきます。
 話す人間に魅力があるか、ということが結果に出ます。
 講談師は高座でしゃべって、お客さまに来ていただいて、お金をいただく商売ですから、厳しいところがあります。
 話す人間に魅力があるか、ということがそのまんま結果に出てしまう。
 言ってみれば、講談師は人間そのものが商品なんです。
 あなたは、その場の「空気」が読めますか。
 その場の「空気」が読めるか読めないかは、一つには思いやりの差です。
 ふだんから、相手の身になって物事を考えているかどうか。
 思いやりのたりない人が人前で話をすると、自分勝手な話し方をするものです。
 話というのは、自分が何を言ったかではなく、相手にどう伝わったかが大事です。
 ところが、それが分かっていない人は、自分の言いたいことを言いたいようにしゃべって満足する。
 そういう人がいくら場数を踏んでも、場の「空気」がよめるようにはなりません。
 ふだんから相手の身になって考えられるかということが、人前で話すときの、場の「空気」を読めるかということに関わってくるんです。
 もっとも、どんなに思いやりがあって、ふだんから相手の身になって考えている人でも、経験が少なければ、場の「空気」を読みながら話すことは、できるようになりません。
 話は聞いている人と一緒につくっていくものです。
 それが一方通行になってはいけません。
 どちらかがしゃべり続けて、一方がずっと聞いている。これは聞いている方にとっては辛いものです。
 15分でも退屈でしょう。聞いている方は疲れますし、心を閉ざしていきます。
「話し上手は、聞き上手」という言葉があるくらいですから、まずは人の話をよく聞かなきゃいけません。
 よく聞いていれば、次の言葉が自ずから出てくるものです。
 講談でもそうなんです。一方的しゃべっているように思われるかもしれませんが、決してそうじゃありません。
 コミュニケーションというものが基本にあります。
 口からの声としては出ていなくても、お客さまは心の中でいろいろなことを思っています。
「今のところ面白かったな」「ちょっと疲れてきたな」・・・・。
 心の中で思っていることは、表情や態度にでます。
 目つきがかわったり、口元がゆるんだり、体を動かしたりする。
 そういう変化を、見るというより、肌で感じ取って、話し方や話しの内容を変えていく。
 そういう要素が、我々の話芸にはあるんです。
 ある特定の話が面白いというお客さまが多ければ、それを多めにいれます。
 話の中身はお客さまにつくっていただいている部分が相当あるんです。
 お客さまは一人ひとり違いますし、その日その時によっても違いますから、心の中で思ってらっしゃることもさまざまです。
 そのすべてに対応することはできないかも知れません。
 ですが、そこにはだいたいの最大公約数のようなものが表れてきます。
 それが、場の「空気」と呼ばれるものです。
 その場の「空気」を感じ取って対応していくようなところがあるんです。
 いちばん魅力的な話し方とは、なんでしょうか。
 人間、誰でも自分にしかないものを持っています。
 自分にしかない顔、自分にしかない声、自分にしかない人柄、自分にしかない興味、体験から得た知識・・・・・。
 そんなものが素直に発揮されているのが、いちばん魅力的な話し方です。
 そういう自分の武器となるものに気づけるかでしょう。
 気づくには、やっぱり場数が必要です。
 人とたくさん話をしているうちに、自分のこういう話は受けるんだというのが分かると思います。
 それを意識して利用しようとすると、鼻持ちならなくなることがありますが、それは一時的なこと。
 さらに場数を踏んでいくと、また自然になっていくものです。
 もっとも大事なのは、話した後、毎回、必ず反省することだと思います。たとえば、
「上手くいかなかったときは、なぜ上手くいかなかったのか」
「上手くいったときには、どこが良かったのか」
「どうすればもっと上手くできたのか」
 ということを必ず反省します。
 失敗してもいいんです。その失敗をどう活かすかということが本当に大事です。
 これもふだんからの心がけで「失敗はかならずするもの。その経験を活かそう」とする姿勢が大事です。
(一龍斎貞水:1939年東京都生まれ、講談師初の人間国宝。小さい頃からラジオで演芸に親しんでいた。5代目一龍斎貞丈から「ちょっと噺出来るか」と言われ、学生服姿で初舞台を踏んだところ喝采を浴び、講談の道に入ったという。2002年~2006年講談協会会長)

 

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人生を幸せにするには、どのように生きればよいのでしょうか

 しあわせの源泉は感謝のこころだと思います。
 一つの出来事に感謝できるからしあわせなこころになれるのだと思います。
 客観的な「しあわせ」があるのではなく、あるのは「しあわせ感」なのです。
 ほんの小さな出来事に感謝の気持ちが湧くと、それがしあわせ感を呼び覚まします。
 良いことが起こっても、それに感謝が伴わないと、しあわせ感にはつながりません。
 私のある患者は、自分の過去を振り返って、多くの人の世話になってきたことに気づき、まわりの人々に感謝の言葉を出すようになりました。
 「しあわせ感」を持つことができる秘訣は感謝することです。
 私は日常生活において「感謝の訓練」が大切だと思っています。意識的に感謝する習慣をつけるのです。
 私は毎日、感謝できたことを三つ書き出すことを実行しています。不思議に毎日感謝できることはあるものです。
 どんな小さなことでもいいのです。「梅が一輪咲いた」などです。
 「幸せをよぶ法則」は楽観主義です。物事を悲観的にとらえるのではなく、楽観的にとらえることです。
 楽観性が免疫系に活力を与え、身体的な健康をもたらす。
 フランスの哲学者アランは「悲観主義は気分だか、楽観主義は意思である」という有名な言葉を残しています。
 この楽観主義に信仰の裏打ちがあれば、もっと良いでしょう。
 何事も信仰をもって気楽に受け止めることができれば、どんなに気が楽になることでしょう。
 心がどこを向いているかで、その人の人生が決まります。
 仕事にばかりこころが向いてしまい、家庭にこころが向いていないと夫婦関係や親子関係にゆがみが生じます。
 たとえ家庭で過ごす時間は短くても、こころがしっかりと家庭に向いていれば大丈夫です。時間の長短ではなく、こころの方向が大切だからです。
 この世に誕生することを「生まれる」と言います。「生まれる」のは受け身です。私たち一人ひとりは生をうけたのです。与えられた生を傷つけたりしないこと。
 それが命を与えてくださった神さまに対する人間のつとめだと思います。
 人生にはさまざまな試練、苦難、不都合なことが起こります。それをどのように乗り越えていくかは人によって違います。
 私の人生を振り返ってみると、やはり、私にとって多くの「不都合なこと」が起こりました。そのたびに私は聖書の、み言葉によって、支えられてきました。
 「信仰によって乗り越える」と言われますが、まさにそのような体験を何度もしました。
 自分がくだした決断を「良し」とするためには、決断の結果として出てくるマイナス面を覚悟することが必要です。
 覚悟するためには「このマイナス面は耐えていればきっとプラスに変えられていく」という確信が必要です。
 祈って神に委ねた場合は、たとえ結果が人間的に見て思わしくなくても、委ねた結果としてそこに自分の思いと別の意味を見つけて積極的に受け入れることができるでしょう。
(柏木哲夫:1939年兵庫県生まれ、淀川キリスト教病院理事長、大阪大学名誉教授、ホスピス財団理事長。専門はターミナルケア。クリスチャン)

 

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学級崩壊を起こす教師、起こさない教師とは

 東京成徳大学の深谷昌志名誉教授は、
「教師にだって問題はあるのです」
「学級崩壊を引き起こしてしまった先生に言えるのは、几帳面で内気で、表現の下手な先生が多いのです」
「私は、昭和期の名門校長である島村小学校斎藤喜博校長が『先生は役者であれ』と言ったように、教室は舞台であって、教師は魅力的に演じてほしい」と述べています。
 学校の教育現場の校長(奈良県公立小学校長)からは、
「教師の力量が荒れにからんでいる」
「力量のある先生は学級崩壊を起こすことが少ないと思います」
「子ども一人ひとりの気持ちがわかる先生、子どもとの集団活動に力量のある先生は学級崩壊させることが少ない」
「教師にとって、子どもの扱いというものは名人芸的なところがあって、ときどきの名人芸でこうやればという、ひらめきが要求される」
「あるやり方で、そのとき、やってうまくいけるときと、そうでないときがある」
「そういう意味で、われわれ教師にとっては、力量をある程度育ててきても、どんな場合でも学級崩壊を起こさないかといったら、そうではない」
「子どもたち一人ひとりのフォローができている学校は荒れないという話しがある」
「荒れてない学校では、圧倒的に包み込むというか、母性的な教師が多い」
 という。たとえば、
(1)小学校高学年
 小学校高学年の子どもの反抗は、担任に対する甘えともとれます。
 子どもが反抗期に、一番ものの言いやすい母親に反抗するのと似ていて、やさしい学級の先生に反発していき、担任にみせつけていく。
(2)中学校
 中学校の荒れは、教科によって違っていて、やさしい教科での荒れがひどくて、こわい先生のときは、一応荒れない。
 教育社会学の視点から、秦 政春大阪大学教授は、
「子どもたちが、よってたかって教師をいじめる。これが学級崩壊だと思います」
「授業妨害があったら、まわりの子どもも授業妨害をした子どもに同調していく」
「子どもたちは、今、非常に疲れている。そういうものがなにかのきっかけで、噴き出してしまう危険性がかなりある。教師を標的に噴出してしまうことが少なくない」
 臨床心理学の視点から、深谷和子東京成徳大学教授は、
「子どもはリーダーへの『尊敬と愛着と信頼』がなければ、子どもはリーダーについていかない」
「でも、教師が学級の子どもたちから『尊敬と愛着と信頼』をかちうることはすごくたいへんなことだと思います」
「ただ、心理臨床から言いますと、人間は『自分を愛してくれる人、それから、自分の気持ちを分かってくれる人』に、愛着や信頼感を抱くと言われています」
 いかに子どもたちの気持ちを理解することができるかが、これからの「教師の力量」として大事ではないでしょうか。
(深谷 昌志:1933年東京都生まれ、教育学者、東京成徳大学名誉教授。奈良教育大学教授、放送大学教授。静岡大学教授、東京成徳大学教授を経て現職)

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教師はカウンセリングを学ぶと自分が好きになってくる

 カウンセリングを学ぶと、問題から少し距離をとる感性が育ってきます。
 家族や子どもたちの焦りに巻き込まれず、全体の場の雰囲気を理解しながら対応する力が生まれてくるのです。
 カウンセリングを勉強すると、教師自身の心の中での葛藤も生じます。
 しかし、それは自分自身を見つめ直すトレーニングなのです。
 たとえば、子どもたちとの関わりの中で、過去の自分が経験した「つらい思い」や「心残り」を体験したり、自分の子どもに対して抱いていた「自分の思いや心残り」の気持ちを子どもに押しつけたりします。
 過去の思いから生まれる感情を子どもたちにぶつけたりもします。
 自分の感情を関係のない子どもに映し出してしまうのです。
 しかし、カウンセリングを勉強していると、そのような感情がどのようにして起きてくるのかが自分にも明らかになり、その感情をどう処理したらよいかがわかります。
 また、教師自身が一人の人間として、どのように周りの人々に影響を与え、周囲と関わっているかも見えてきます。
 それは、自分の正直な姿であり、その姿が一人の人間として愛しくなり、自分を認めることができるようになっていきます。
 このような経験が人間として自らを大きく成長させてくれるのです。
 カウンセリングを学ぶことで、自分が成長できたと感じるのは「自分が好きになってくる」からです。
 いろいろな事態や状況に対して、自分を肯定的に見ることができるようになるのです。
 この見方は、教育の現場では重要なことです。
 教師は子どもを指導するときに、注意や禁止といった指導をしがちになります。
 子どもたちと肯定的な関わりが少なくなってくるのです。
 子どもたちと向かい合うためには、教師自身が自分を肯定的に受けとれるようになる必要があります。
 そうなることによって、子どもたちとも肯定的な関わりができるようになるのです。
 それができてこそ、教育の喜びをより感じとることができるのです。
(上野和久 1953年生まれ 高野山大学准教授、臨床心理士カウンセラー。和歌山県公立高校副校長、和歌山心療オフィス所長を経て現職)

 

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「キレやすい子」を「キレにくい子」にするためには、どうすればよいか

 キレやすい子は、直感的、自己中心的です。そして、状況判断が主観的で感情や対応方法が少ない。
 感情の受け皿が少ないのは、発達過程で十分な快刺激を受けず弁別能力が発達せず、感情が未分化なままだからです。
 自分の感情を的確に理解するには、客観的な思考能力を発達させる必要があります。
 状況を的確に理解するには、「全体を見通す力」と、「状況を予測する力」が必要になります。
 特に全体を見通すさいには、相手の視点にたって状況を理解することも必要です。
 直感的な思考の子どもは、自分の具体的な体験を通してのみ理解しているため、体験していないことは理解できません。
 ですから、子どもが体験している事実を把握し、正しい現実理解を与える必要があります。
 他者の観点や立場を考えない考え方が自己中心的思考です。
「キレにくい子」にするためには、多方面からのものの見方、考え方、感じ方を発達させる必要があるのです。
 そのためには、どんな受け取り方があるのか、例をあげてシュレーションしてみることから始めるとよいでしょう。
 また、他者の立場に立って考えるようにするには、役割交換をして相手の立場に立った「具体的な体験」(ロールプレイングなど)を行うことで理解を促すと効果的です。
 キレにくい子どもを育てる授業は
1 予防教育の内容・計画・展開
 キレにくい子どもを育てるためには、怒りのメカニズムを子どもに伝え、「暴力・暴言・いじめ」などの誤った怒りの表現を予防することが大切です。
 同時に、健全な「怒りの表現方法」も教えていく必要があります。
 予防(啓発)教育
(1)内容
感情教育、客観的思考、問題解決能力を育成する。
(2)年間の授業計画に組み込む
 国語・道徳・総合学習・HR等を用いて展開することができます。
(3)展開方法
 自己理解から始めて、他者理解、相互理解へと進めます。グループで体験的に行うと特に効果的です。
2 グループ体験学習
 グループで体験的に行うと効果があがりやすいのは、グループの力が働くからです。
 自分の苦手なところを他の生徒が補ってくれたり、活動に参加せずに見ているだけでも多くの体験を学ぶことができます。
 自己理解、他者理解が促進されやすくなり、共感性も生じやすくなります。
 また、具体的な体験を通じると、共通のイメージや理解がしやすくなり、相互理解が促進され、活動中に「行動のお手本」が見られるため、活動の途中で自分の行動変容が促されることもあります。
3 学習計画の立案
 段階をふんで行う必要があります。
 たとえば、「共感すること」を学習する活動であれば、まず、子どもが「自分の感情が何か」を理解できて「相手の感情が何か」を感じられる力を備えていなくてはなりません。
 したがって、
(1) 自分のクラスの問題を明確化する
(2) そのために必要な活動の目的を明確にして、活動を選択し、活動を導入します
(3) 活動後にフィードバックを行い「今日の活動を日常生活でどのように応用できるか」を考える活動を行う
 どのワークから始めたらよいか、それぞれの目標をクラスの状況に照らし合わせてプランを立ててみてください。
 また、一つを行った後でまだ難しいようであれば、一つ前の活動に戻ってみてください。
4 グループ活動の指導者の役割
 キレにくい子どもを育てるグループ活動の目的は、子どもが自分でコントロールすることができるようにすることです。
 ですから、活動の主役はあくまで子どもです。指導者は安全に活動ができるための環境を保障すること、および活動が順調に進むための援助をします。
 したがって、導入部分は楽しく活動を進めやすい雰囲気づくりを行いますが、子どもたちが自発的に活動を始めたら、基本的には子どもにまかせます。
 このとき、グループを支配しようとしている子どもがいれば、仲介して適切なリーダーシップを示し、乗り遅れている子どもがいれば、いっしょに活動に参加して励ましてください。
5 自分の感情を理解する
 「自分が何を感じているのか」を認識するためには、自分の感情の質と量を表す「感情を表すことば」や、その概念を理解することから始めます。
 朝・夕のHRでも、道徳や総合の時間を活用することもできます。
 また、状況や気持ちを理解する力を育成するために、国語や英語の時間を当てることもできます。
 実施するときは、子どもの発達状況によって、以下のように手法を変えると、理解されやすくなります。
(1)幼児から小学校低学年:目の前で具体的に体験(見る)する
 ビデオや場面の写真、絵などで視覚的・具体的に示す。
(2)小学校中学年から高学年:最近の自分の体験を思い出す
(3)中学生:ことばや場面に対するイメージや概念を用いる
(4)高校生:論理的に定義づけたり意味づけたりする
 自分の感情理解のためのワークは
(1)お顔の体操
 朝夕のHRで、朝の体操気分で、快・不快の一つひとつの表情を皆でやってみます。
 教師が「はい、これと同じ表情をしてみましょう。どんな気持ちですか?」と表情と感情のネーミングを促します。
(2)3分間スピーチ
 話し手が前にでて、ある感情を表す表情をしてみせる。それがどんな感情を表しているかを当ててもらう。
 そして、その感情になったときの、エピソードを話してもらう。
(本田恵子:早稲田大学教授 臨床心理士・学校心理士・特別支援教育士。中学・高校教師の後,カウンセリングの必要性を感じて渡米しカウンセリング心理学博士号取得。帰国後は玉川大学助教授等を経て現職。いじめ,非行,発達障害などが生じる背景を包括的に捉え,問題が生じる前の啓発教育,危機介入,問題行動を繰り返す子どもたちへの個別支援プログラムの開発,実践などを行っている)

 

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子どもの心が健康であるためには、自己肯定感が必要である、どうすれば自己肯定感を得ることができるか

 子どもが心の健康を得るには自己肯定感が必要である。
 相談活動に身を置くカウンセラーである富田富士也から見て、心の健康には自己肯定感の獲得が求められると思います。
 自己肯定感の希薄化は言いかえれば、子どもたちの心の健康の危機なのです。
 人にとって最大のストレスは人間関係ではないでしょうか。そして、悩みのほとんども人間関係です。
 人は一人では生きていけません。だから、学校のクラス集団のなかでどのようにして自分を維持していくのか。それはとてもストレスのかかることです。
 富田さんの相談室に来る子どもたちは対人関係に自信をなくしています。ストレスでいっぱいです。
 抱かえきれないストレスは自己評価を低くし、自己肯定感を喪失させます。
「自分は誰からも必要とされていない」と思ってしまえば、人と関わるエネルギーが乏しくなります。
 人間関係の紡ぎ合いをあきらめ、人間関係に期待しないと、傷つかないかわりに孤独というストレスを背負い、心のバランスを失っていきます。
 人間は、人とつながるためにこの世にうまれてきたのです。人は一人では生きていけない。
 しかし、人間関係には矛盾がある。
 どんなにヒドイと思える人にでも「そうならざるをえない生い立ちがあったのではないか」と、その人の背景に思いを馳せることが大切。
 お互いの思いが対立するときもある。そんなときはケンカになる。
 ケンカしてせめぎあっても、折り合って仲直りができる。
 ケンカしたら、もうすべて終わりではない。
 人間は、人を信頼しなければ生きられない。
 人は、みんな寂しいんです。みんな、甘えることができないんです。
 人を信じる勇気がないと、人は、人に甘えることができない。
 弱点は、だれでもあるんです。傷つくリスクを背負ってこそ、癒されるんです。
 トラブル、対立を恐れてはいけません。
 不条理なことは、くやしいけど、一旦、受け止めるしかないんです。
 苦しみ、悲しみは、その人が背負うしかないんです。
 ただそばに居る。ただただ聴く、逃げない。
 自分は、無力だと謙虚に受け止めなければいけない。
 なんとかしようと思ってはいけない。
 人は人とからみ合うことで心が傷つき、また逆に癒されます。
 だから、癒されるチャンスにめぐり合うためには、傷つくリスクを背負うことも必要なのです。
 人と向き合うから傷つき、人と向き合うから癒され、人と向き合うからわかり合える。
 人と関わることで、人に共感することができ、そこから、自己肯定感が生まれる。
 人と絡み合うことで自己肯定感を獲得する道を模索したいものです。
(富田富士也:1954年静岡県生まれ、心理カウンセラー。総合労働研究所で教育相談ボランティア(10年間)活動を経て、民間の青少年相談援助機関を開設。幼児教育から青年期までのカウンセリングや相談員、教育・福祉臨床員を育成。子ども家庭フォーラム代表、文京学院大学生涯学習センター講師、日本外来精神医療学会常任理事、日本精神衛生学会理事、日本学校メンタルヘルス学会・運営委員、全国青少年教化協議会評議委員)

 

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私が「教師を支える会」を立ち上げることにした訳とは何か

 諸富祥彦教授は1993年に千葉大学教育学部の専任講師に赴任して以来、小学校・中学校・高校の先生方との関係を密に持ってきた。
 その中で、諸富教授が抱いた実感は、
 教師はすごい。特に教師集団が一体となって動き始めた時のパワーは並大抵のものではない。
 スクールカウンセラー一人の活動などとてもかないはしない。
 そうであるならば、スクールカウンセラーとして直接子どもを支援するだけでなくて、「教師集団をサポートすることで間接的に子どもを支援する方が良いのではないか」という気持ちがあった。
 そんな思いで、諸富教授は教師を支える会(現場教師のサポートグループ)を立ち上げました。
 今、「教師受難の時代」と言われています。
 学級崩壊、いじめ、不登校の増大、学力低下など、問題は山積み。
 子どもたち、そして保護者たちの変化は著しく、その中で多くの教師が途方に暮れています。
 その一方で、教師への要求・負担はますばかり。
 教師特に学級担任への眼差しは、ますます厳しい。
 考えてみれば、このような変化の厳しい時代の中では、多少うまくいかないことが出てきても当たり前。
 大切なのは、教師や教育関係者たちがお互いに支えあって、この困難な時代をうまく乗り切っていくことです。
 しかし教師には、まじめで責任感の強い方が多い。
 自分に与えられた仕事は、自分できっちりやろうと、一人で背負い込みすぎ、追い込まれている方も少なくありません。
 また、不運にも、教育観などの相違もあり、同じ勤務校の中で、お互いに支えあったり相談しあったりといったことが、気兼ねなくできる同僚や管理職に恵まれていない教師もいます。
 教師として本来、素晴らしい力を持っているのに、仲間から孤立して、不必要に自分を責め始め、ますます力を発揮できなくなっている先生方も少なくないようです。
 別の学校に移ることを考えたり、休職を考える先生も当然います。
 これらのことを、教師本人の責任に帰すのは過酷すぎます。これだけ大変な時代なのです。
 いろんな問題が生まれてくるのが自然です。
 世間もマスコミでの報道などを通して今の学校現場の大変さは知っているはずです。
 にもかかわらず、今教師が大変だ、教師を支えよう、という具体的な動きは、あまり見られません。
 しかし、教師自身が、安定した気持ちで自然な笑顔を浮かべることができる状態になくては、いい教育ができるはずがありません。
 今、必要なのは、この「教師受難の時代」に、その難局を乗り切ろうとがんばっている「先生方をバックアップする力」の存在です。
 教師同士のつながりももちろん大切ですが、教育関係者や地域の方などが「傍らから教師を支援する」こともできるはずです。
 今、この大変な時代に、先生方を支える力を大きくしよう。
 そのために、個々ができることをすると共に「教師を支える」眼差しを持つことが、学校がこの難局を乗り切ることにつながる。
 ひいては子どもたちのためになることを社会に対してアピールしていこう。
 そのためのゆるやかなネットワークを作っていこう。
 そんな思いで、諸富教授は教師を支える会(現場教師のサポートグループ)を立ち上げました。
 教師を支える会は、
(1)学級経営や子どもたちの心の問題への対応
(2)保護者対応
(3)職場での人間関係
(4)教師のメンタルヘルス(特にうつ)
(5)休職中のすごし方や職場復帰の準備など
 において悩みを抱える教師や、かつてそうした問題に直面した経験のある教師が集まり、現在抱えている問題をお互いに相談しあう。
 その問題の解決方法をグループで模索したりする「サポートグループ」を基本として活動しています。
 あくまで「自助」が基本ですが、専門の心理臨床家が安全な場づくりを手伝いします。
 現在、次の支部が活動しています。それぞれの日程と会場をご確認の上、ご参加下さい。東京支部、国立支部、市川支部
 諸富教授は個人的な相談等については回答しかねますが、講演、研修、ワークショップ等の依頼はメールにてお引きうけされるようです。
(諸富祥彦:1963年福岡県生まれ、千葉大学教育学部講師、助教授を経て明治大学教授。日本トランスパーソナル学会会長、日本カウンセリング学会認定カウンセラー会理事、日本生徒指導学会理事、教師を支える会代表、現場教師の作戦参謀)

 

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子どもたち誰もが行きたくなる学校を創るには、どうすればよいか

 栗原慎二先生は、広島大学の教員の中で、学生による授業評価No.1に選出され、学長賞を受賞、講演回数も多い人気教授です。
 埼玉県内の公立高校で荒れた学校や不登校生徒の多い学校での教師経験をもつ学校再生のスペシャリストで、広島市全体の不登校生徒数を1年間で激減させた実力派です。
 モグラ叩き的生徒指導はもう本当にやめ、予防的に、かつ組織的に動いていきましょう。
 高校教師としての経験が長い(18年間)栗原先生は、教師の気持ちをよく理解してくれます。
 伊勢市教育研究所の夏季研修の講演(2013年)で次のように語っています。
 栗原先生は「学級の状態と学力は大きな関わりがあり、生徒指導をきちんとすれば半年で学級は変わり、学力も向上する」と。
 具体的にどう行動すればよいか。栗原先生は、教師の視点を変え、現状を捉えた上で今の子どもをどう理解するかが大切だと。
 昔の子どもたちは、屋外で異学年の子どもも交えて、多人数で身体を使って遊んでいたのに対し、今の子どもたちは、屋内で同学年どうしが少人数で遊んでいる。
 これでは、対人関係スキルが身につかない。
 さらに、子ども集団の崩壊と遊びの変質に加えて、家庭機能の低下、いじめや学級崩壊、社会からの要求の高度化等により、良質の人間関係をつくる体験が不足していると指摘。
 他者や社会への否定的感情、自尊感情・自己有用感の低さ、スキルの不足が、過剰な気づかい、人格的もろさ、ボーダー感覚の喪失、非共感性、攻撃的行動につながり、それらが「不登校」「ひきこもり」「NEET」「青少年犯罪」等の現象となって表れていると栗原先生はいいます。
 それではコミュニケーション能力を高めるには、どうすればよいのか。
 栗原先生は、勉強ができるようになるには勉強をする、サッカーができるようになるにはサッカーをするのと同じように、コミュニケーション能力を高めるにはコミュニケーションを多く体験することが重要だと。
 とにかく大事なのは、質より量。やっていくうちにうまくなる。
 マイナスの体験についても、ある方がよい。マイナス体験が、それを上回る肯定的な人間関係の構築に繋がる。
 クラスで誰にでも「おはよう」と言える子どもは、一体何人いるでしょうか。
 中学生を対象に調査した結果では、向社会性のスキルの高い子どもは、勉強もできるし、友人もできるし、いじめられないし、楽しいと感じているという結果が出た。
 今の最大の問題点は、子どもたちが集団から集合に変わっていることだと栗原先生は強調する。
「集合」の中には絆がなく、支え合いがありません。このことが、教育が難しくなった最大の原因である。
 これまで「スクールカウンセラー」「特別支援」「スクールソーシャルワーカー」など、様々な取り組みにより現状を支えてきてはいるものの、なかなかうまくいかない。
 生徒指導の本質は「集合を集団に変えることで解決する」と栗原先生は指摘する。
 集合を集団に変えるためには、生徒指導、授業づくり、学級づくり、学校づくりなど全ての場面において意識して取り組むことで集合が集団に変わるというのです。
 具体的な例をあげると、授業では、子どもたち同士が交流するグループ活動の中で、互いの影響力が発揮できる授業、欲求の満たされる授業をしていくべきだと。
 一部の子どもだけがヒーローになり、一部の子どもだけが楽しめる授業では、子ども達の意欲はどんどん落ちていく。
 意欲・欲求というのは、「交流欲求」「承認欲求」「影響力欲求」の順に満たされていくという特徴がある。
 学級崩壊では、交流欲求のある子に振り回される状態が見られ、問題行動の目立つ子どもを叱ることで、問題行動を継続・拡大させることになる。
 子どもたちが普通の行動をとっている時に交流することが大事。交流により欲求が満たされると、問題行動を起こす必要性がなくなる。
 また荒れた状況にある子どもへの指導や支援のポイントは、
(1)発達的問題・養育上の問題・欲求を理解し、情緒的サポート(理解・傾聴・感情の交流・承認など)を提供する。
(2)観察で、きちんとしたレスポンスを返す。
(3)コミュニケーション能力を育む。
(4)個々の学習ニーズに応じた学習課題を設定する。
 ことが重要である。
(栗原慎二:1959年青森生まれ、埼玉育ち。広島大学教授、スーパーバイザー、ピア・サポート・コーディネーター。埼玉県公立高校教師(18年間)として生徒指導・教育相談に携わる。AISES(学校教育開発研究所) 代表理事、日本学校教育相談学会会長。専門は学校臨床心理学)

 

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学級の生徒を指導するとき「おまえを愛してるから、俺は偉い!」が口癖になった

 教師として、子どもと人間関係を築くことはとても大切です。特に、思春期まっただ中の中学生と信頼関係を築くことは、難しい場合が多いです。
 まだ竹内和雄先生が新任教師の時の話です。
 Aくん(中学2年生)は、竹内先生のクラスの生徒で、いわゆる問題生徒で、竹内先生に反抗ばかりしていました。事件が起こったのは五月半ば。
 そんなAくんが社会の授業で、教科担当のB先生(五十代男性)と衝突しました。
 授業中、私語をやめないので、きつく叱られたそうです。
 非行を繰り返すグループでリーダー的な地位にいたAくんは、みんなの前で叱責されたこともあって素直に謝れません。
 学級委員が職員室に「先生、大変です! AくんとB先生が!」と駆け込んできました。
 たまたま竹内先生は空き時間で、職員室にいましたので、教室に急ぎました。
 教室では、正にAくんとB先生がにらみ合って、すごい表情で言い合いをしています。
 Aくんは、今にもB先生に殴りかかろうとしているのを、クラスの生徒たちが一生懸命止めているところでした。
 若かった竹内先生は、どうしていいのかわかりませんでしたが、背中から、はがいじめにして、廊下に無理やり引っ張り出しました。
Aくん「やめろや、離せや、ボケ!」
竹内先生「誰に向かって、物言ってんねん!」
Aくん「教師が何様じゃ!? えらいんか!」
 売り言葉に買い言葉。どんどんエスカレートしていきました。とっさに、
竹内先生「俺は、最高にえらい。俺にえらそうなことを言うな!」と言いました。
Aくん「は~、笑かすな! 教師のどこがえらいねん?」
竹内先生「お前を愛してるから、俺はえらい。だから俺のいうことを聞け」と怒鳴りました。
 Aくんの力がすっと抜けたのを感じた竹内先生はたたみかけました。
竹内先生「お前を愛してるから、俺はえらい。世界でたった一人のお前の担任やぞ」と一気に話しました。
竹内先生「俺はお前の担任やぞ。担任やから、お前のこと、愛してるに決まってるやろ」
竹内先生「だから俺はえらい。俺の言うことを聞け」
 竹内先生は自分で話しながら、涙が出てきました。どういう涙なのかわかりません。
 竹内先生は自分でも何をしゃべっているのか訳がわかりませんでした。
Aくん「わかった、離せ」と静かに話し、ゆっくり自分の席に戻りました。
 そして、山本先生に向かって「授業、はじめろや」と言いました。
 周りに集まっていた生徒たちを座らせ、竹内先生はこう宣言しました。
「Aくんはもう大丈夫です。残り二十分授業がある。みんなしっかり勉強しなさい」
 副主任の先生が「Aくんを別室で指導してから授業を受けさせるべきではないか」と心配してくださいました。
 しかし、山本先生は「大丈夫です。担任は僕です。任せてください」と言って聞きませんでした。今思うと傲慢な新任だと顔から火が出そうです。
 もちろんAくんは、最後までちゃんと授業を受けました。
 休み時間にクラスの女子たちが職員室に走ってきて「先生、かっこよかったぁ」と絶賛してくれましたが、なんであんな言葉がすらすら出てきたのか、自分でも不思議です。
 それ以来、山本先生は「愛してるから、俺はえらい」というフレーズをずっと使っています。
 考えてみたら、担任は、クラスの子を愛してるから、やっていけるものです。
 もっと言えば、愛することができるように、日々、努力しなければならないと思っています。
(竹内和雄:1964年生まれ、公立中学校で20年間、生徒指導を担当し、寝屋川市教委指導主事を経て兵庫県立大学准教授。課題を持つ子どもへの対応方法について研究)

 

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吉田松陰に学ぶ、人の育て方とは

 教育者としての理想像を吉田松陰に見出した川口雅昭先生は、30年に及ぶ松陰研究を続けています。
 吉田松陰は山口県萩で生まれ、萩藩の山鹿流兵学師範だったおじから厳しい教育を受けて育ち、10歳のとき藩校の教壇に立ち、翌年には藩主毛利敬親の前で講義をしました。
 松陰は全国各地を旅して、さまざまな人の教えを受けて見聞を広め世界への目を開かされました。
 外国を自分の目で見たいと考え、黒船に乗り込み外国への密航を図りますが失敗。自首し、江戸から萩の野山獄へ送られます。
 やがて実家で幽囚中、若者らが教えを求めて来るようになり、松下村塾を受け継ぎます。
 松下村塾は、15坪ほどの瓦葺き平屋建てで、わすか2年余の教育期間ながら、高杉晋作・久坂玄瑞・伊藤博文・山県有朋といった後世に名を刻した多くの人材を輩出しました。
 塾生には「読書だけではだめだ。実行が大事だ」と説き、個性を重んじ、一方的に教えるのではなく議論しながら共に学び、多くの志士を育てました。
 その後、松陰は日米修好通商条約に調印したことを厳しく批判するようになり、幕府による安政の大獄が始まる中、幕府は過激な言動を恐れ、松陰は江戸へ送られ処刑され満29歳で亡くなりました。
 しかし、志ある人々が立ち上がって日本を変えるべきだという松陰の志は、塾生らに受け継がれ、討幕へ、明治維新へと、時代を大きく動かしていきました。
 松陰先生の真の偉大さは「現代でも、若者たちを社会のために勉強しようという気にさせ続けていること」だと川口先生語ります。
 松陰は教育者だが「教育」は和語では「教える」で、その語源は「愛(お)しむ」だそうだ。つまり「愛することが人を育てる」ことだ。教育者に必要な心構えだろう。
 人を育てること、つまり「人づくり」の目的は「よき人になる」ことである。現在の教育からはここがすっぽり抜けてしまってはいないかと川口先生。
 子どもから「なんのために勉強しなければならないの?」と聞かれた経験のある人は少なくないだろう。また、そういう疑問は誰しも一度は抱いたことがあるだろう。
「学は人たる所以を学ぶなり」つまり「人間とは何か、いかにあるべきかを学ぶこと」「人間とはどういう生き方をすればよいかを考える」ことが学ぶことだと松陰は述べている。
 勉強するのは、自分がわかるため、心を磨くため、いかに生きるかということである。
 松陰は弟子に先生を訪ねて質問せよと門下生全員に紹介状を持たせた。落ちこぼれずに自己教育を続けられる人間を作ろうとした。
 川口先生の講話の中でもとりわけ心に響くのは「自己教育」という考え方だ。
 自己教育とは「自分の関心のある学問を主体的に継続すること」だ。
 自己教育は、先生がいて、行き詰まったら、先生の指導を受ける。主体は能動的に学ぶ方にある。学習能力を自得することだ。
 自己学習と独学の違いは「行き詰ったときに質問にいける先生がいるかどうか」だ。
 さらに「同じ訊きにいくなら一流の人に訊け。一流の人は決して門前払いしない。」と川口先生は言う。
 人を育てることにおいては「やる気にさせる」ということがとても重要である。
 教師というものは、生徒たちに「教師のようになりたい」と思わせることができないと、どんな教育理念を持っていてもダメだ。
 人に暗示をかけ、悟らせてあげることを「人を點醒(てんせい)す」と吉田松陰は言った。
 松陰は、そばにいる人間に、やる気をひきおこさせる「點醒(てんせい)」の達人だったと川口先生いいます。
 點醒とは人づくりの基底にある最も大切な教えではないだろうか。
 その人に接するだけで、やる気を興させてくれる人がいる。點醒的資質のある指導者というべきであろう。
 これは何も天性のものばかりとは限らない。人を指導する立場にあるものは、努力によりこのような資質をこそ、自得して行くべきではないか。
 今、教育にも子育てにも活かせたいものだ。
 松下村塾で多くの人材が育ったのは、子どもたちは松陰のようになりたかったのだ。
 また川口先生は「自分がいなければならない」という人物になれと。
 人を育てるには、ひとつ忘れてならないのは「待つ」ということだ。
 松陰は「人間が育つのにもっとも必要なのは能力ではなく、時間である」と。
 つまり教え子が成長するのを待つことが大切だ。
 しかし、逆に、時間をかけさえすればすべての人が「モノ」になるかというとそうではない。大切なことは「大器」たらんとする志を持ち続け、人知れず、日々の努力を継続することであろう。
 今自分が何をすればいいのか、川口先生は、
1 今自分がいる場所で、今できることを全力でやれ。
2 成長しない人間が成長する人を育てられない。
3 まずこれというものひとつに集中し、しっかりした幹を作れば、枝葉はいくらでもつく。
4 独学でなく自己教育を一心不乱に行う。
(川口雅昭:1953年山口県生まれ、山口県立高校教師、山口県史編さん室専門研究員などを経て、人間環境大学特任教授。師範塾塾長。吉田松陰研究の第一人者)

 

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一人の女性教師が「やればできるんよ」と荒れた学校を立て直した、その方法とは

 広島県のある高等学校。この高校は、かつて県内一の落ちこぼれて荒れた学校だった。それを変えたのは、一人の女性教師だった。
 2001年に山廣康子さんは教頭としてこの学校に赴任した。
 教師すら指導を諦めていたこの高校は、落ちこぼれの受け皿校と呼ばれていた。
 喫煙、暴力、万引き、いじめが横行し、すがすがしいはずの新学期一日目に廊下はゴミで溢れていた。
 生徒たちが春の遠足で市内の動物園を回っていた。1年生のTくんは、入学以来何度かいじめにあっていた。彼は遠足中にも生徒に難癖をつけられて集団暴行を受けた。
 ところが引率の教師たちは遠足から学校に戻ると、山廣教頭に「何も問題は起こりませんでした」と事件の表面化を避けるために嘘の報告をしたのだ。
 山廣教頭はこの事実を別の教師から聞き、問題の教師たちに理由を聞いた。
 彼らは「放っておけば問題は収まりますから」「どうせ一番悪い生徒たちは辞めていきますから」と答えた。
 山廣先生は、目の前の教師に恐ろしさを感じた。生徒たちをなんとかしたいと思う山廣教頭にとって、最大の壁はこの無気力な教師たちだったのだ。
 集団暴行事件に端から始まった騒動は、1学期が終わるまで、校内を混乱の渦に巻き込んだ。
 山廣教頭と教師たちは、被害にあった生徒の送り迎えに追われた。
「いじめや暴力は絶対に許さない、安全な学校にしよう」という決意を固めていた。
 山廣教頭は全校生徒を体育館に集め、一大演説をぶつことに決めた。
「いじめや暴力に遭っている人は、絶対に守ってあげます。先生を信じて隠さないように。厳しい処分で対処します! いじめや暴力は絶対に許しません」
 と、激しい口調で演説した。
 また、加害者の保護者を集め、事件の経緯と学校の方針を明確にした。
 山廣教頭は、
「生徒たちの生活習慣を確立させたい。規範意識を高めたい。自律心を持たせて、自分や相手を大切にするよう導きたい」とその思いを、ぜひとも保護者に理解してもらいたかったからだ。
「親にとって、どの生徒もかけがえのない、かわいい子どもです。学校にとっても大切な生徒です」
「もし、被害者の子の親だったら、どんな気持ちになるか、考えながら聞いてください」
 と、被害者がどんな目にあい、どんなつらい思いをしたか事実を克明に説明した。
 凄惨な場面の一部始終を話す時には、山廣教頭は声がふるえ、涙が出そうになった。
 途中「むごすぎる」と泣き出し、廊下に出る保護者もあり「被害者に謝罪させてほしい」という声もあがった。
「被害者には私たち学校が、責任を持って対処します。安全で安心な学校生活が送れるよう全力でがんばります」
「そのためには、みなさんのお子さんに、心から反省をさせなければなりません」
「現状をしっかり見つめ、学校と連携し、力を合わせてがんばりましょう。何より大切なのは親の愛情です」
 その日を契機に、保護者の口から子どもに対する愛情や熱意、期待などを直接聴くことが多くなった。
 山廣教頭は逐一それらの言葉を生徒に伝えるようにした。
「幸せだね、お母さんがこんなことを言っていたよ。これほど両親から思われているなんて」
「がんばって親孝行しんさい。あなたが学校でがんばることが最大の親孝行なんだから」
 保護者と生徒の架け橋になることで、なんとか生徒たちを更正させようと必死だった。
 最初のうちは無表情で話を聞き流している生徒や、恥ずかしいのか顔を反らして聞こえないふりをする生徒が多かったが、次第に素直に聞き入るようになっていった。
 うれしいことに、徐々に生徒のほうからも、家庭での生活や親のことを笑顔で話してくれるようになったのである。
 山廣教頭は保護者と生徒の関係が少しずつ変わっていると、そう肌で感じるようになった。
 山廣教頭は、赴任した当初から職員室もふくめ学校の汚さにへきえきしていた。
 学校が荒れているせいなのか、だれも校内を清掃しない。ゴミは散らかり放題。生徒や教師も積極的に掃除をしようとしない。
 学校改革の最初の一歩は職員室の掃除だったかもしれない。山廣教頭は流し、食器棚などを徹底的に掃除をした。そのほかにも、机の配置換え、不要物の処分などを行った。
 同時に山廣教頭は、校内の掃除にも取りかかった。まずは自ら行動で示そうと思ったのである。廊下や階段を、毎日黙々と掃除した。
 休憩時間のたびに、生徒たちが出てきて、パンの袋やジュースの紙パックを捨て、生徒がツバを吐くので、廊下や階段の汚れは目を覆いたくなるほど不快だった。
 山廣教頭がトイレットペーパーでツバを拭き取り、そのあとをモップで拭く。きれいにすると、生徒がまたツバを吐き、散らかす。それをまた掃除する。その繰り返しだった。
 山廣教頭が掃除をしていても、教師たちは、避けて通ったり、ごくろうさまの言葉もなかった。結局、手伝ってくれたのは、一人の女性教師だけであった。荒れた校舎の光景が、教師や生徒の心象風景であるかのように感じた。
 夏休み前のある日、ふと校門から校舎に登っていく70段の階段を見て山廣教頭は思った。
 階段はいつもゴミだらけ。生徒は掃除をしないし、教師もさせるつもりがない。これでは、いつまでたってもきれいになるはずがない。
 そこに、ずらっと花を植えたらどうなるだろうか。そう思った瞬間「ゴミの代わりに花を植えてやれ」と決心した。
 決めたらすぐ動くのが、山廣教頭の身上。体育教師の協力を得て、プランター100個に、ベゴニア、サルビア、ペチュニアなどの花を植えた。九月の始業式には見事に咲きそろい、学校の校門の前は見違えるようにきれいになった。
 学校を再生するためには、まず教師の意識を変えなくてはならない、というのが赴任した当初からの、山廣教頭の考えだった。
 というのも、教師たちの大半が、都合の悪いことはすべて社会のせい、他人のせいにしていたからである。
「生徒を受け入れてやらなければ」と言うけれど、それでは生徒のためにはならない。そのまま社会に出したら、生徒たちは間違いなく切り捨てられる。
 生徒たちを受け入れ、救うと言いながら、生徒たちの行動を放置し、容認するだけという野放しの状態。いったん、このように割り切れば教師はとても楽である。
 教師たちはみんな、口では「大変だ、大変だ」と言っていたが、生徒指導も進学指導も、教材研究も、クラブ指導も十分にしないのである。
 教師にとって、こんな楽な学校はない。授業中寝ていてもオーケー。制服を着ていなくてもオーケー。
 このままでは、この子たちは落ちるとこまで落ちてしまう。山廣教頭は危機感を持っていた。とはいえ、いきなり教師たちの意識を変えることはできない。
 そこでまずは、生徒を指導するという、教師としてごく当たり前の意識を芽生えさせようと思いついた。
 夏休みの間に教師を集めて会議や研修を行い、いくつか提案することにした。
 まず、提案したのは、遅刻指導をするということ。しかし、教師たちは、ことごとく反対した。「では、ゆっくりやりましょう」と、ひたすらなだめ、こんこんと説得を続けた。
 次に服装指導を提案した。私は、まず身だしなみをきちんとしなければ生徒たちの意識は変わらない、という確固たる信念をもっていた。
 職員会議を延々と続け、ようやく、遅刻指導から行うことが決定した。
 服装指導は、とりあえず、山廣教頭をはじめ生徒指導部の教師が積極的に指導することで落ち着いた。
 早速、二学期の始業式から、校門の前に遅刻指導のテントを張った。教師が交代で常時テントにいるような体制を整えた。
 実質的には「出入り指導」であった。
 朝、遅刻してくる生徒はもちろん、授業中に勝手に学校に出入りする生徒をチェックする機能も兼ねていたからだ。
 出入りする生徒を呼び止めて、話をして、少しずつ人間関係を築いていく。それが、この指導の目的でもあった。
 1カ月、2カ月と続けるうちに、遅刻指導のテントは、次第に効果をあげ始めた。
 遅刻が目に見えて減少し、さらに、生徒と教師の関係が密になった。
 テントの前で、一対一で話をすることができるため、生徒が勉強、家庭、恋いの悩みを打ち明けることなどが次第に多くなったからだ。
 同時に、教師間で生徒たちに関する情報の共有化も図れるようになったのである。
 山廣教頭は、環境が変われば人も変わると信じていた。
 学校改革を進める山廣教頭に、全国の学校や駅のトイレを掃除するボランティア団体『広島掃除に学ぶ会』との出会いで、ある考えが浮かんだ。
 山廣教頭は、学校が休みの日に生徒たちと一緒に校内のトイレ掃除をしようと提案したのだ。
 3ヵ月をかけ徐々に準備をしていくことにした。「掃除に学ぶ会」の機関誌を各教室に配布したり、会の活動内容や、全国各地の参加者の体験発表などを紹介して、生徒たちに参加を呼びかけた。
 当日たくさんの生徒を動員しようと、山廣教頭は生徒たちの自宅に個別に電話をかけ始めた。「教頭の山廣ですが・・・」電話に出た生徒や保護者は、何ごとかと驚いた様子だった。
 しかし、主旨を説明すると「わかりました。参加します」と、一様に保護者たちも理解を示してくれた。
「友だちも誘ってね」と、そんなふうに、人間関係が築けている生徒、一人ひとりに電話をかけて「出てね、出てね」と頼みまくった。
 ふだんから積極的に生徒に声をかけていたので、そのネットワークを生かして、生徒集めに奔走した。
 また、問題行動を起こした生徒は自動的にトイレ掃除に参加させる方法をとった。
 一方、教師たちには半ば強制的に参加を促した。
「各クラスの問題行動を起こした生徒がトイレ掃除に出るのだから、その担任も一緒に参加するように」
 そうした結果、当日は、生徒や教師はもちろん、PTAや同窓会の人々、「広島掃除に学ぶ会」のメンバーや、県警や県教委の関係者、そしてイエローハットの鍵山相談役など、総勢300名が参加することとなった。
 さらに話題性があるということから、地元の新聞社やテレビ局などが、大挙して取材に訪れるという一大事に発展していった。
 無気力だった教師たちの目つきも変わり、懸命にトイレ掃除をした。その姿を見て、問題の生徒たちも掃除に参加した。トイレ掃除を始めると、嫌悪感も忘れみんなどんどん集中していった。
 トイレ掃除は思わく以上に大成功だった。山廣教頭にとって、生徒たちが熱心に取り組んでいる姿は意外だったし、正直、生徒たちがここまでやるとは思っていなかった。
 このトイレ掃除で得られたことは、トイレをきれいにした、という充実感だけではない。
 大勢の人々と一緒になり、一つの目的に向かうことで生まれる共有体験も得られるのだ。特に問題行動を起こす生徒たちにとって、大人と一緒に何かに取り組むという経験は、新鮮なことに違いなかった。
 もともとこの学校の生徒たちは、大人に対する不信感が非常に強い。
「どうせオレらは、ダメなんだけー、相手にしてくれるはずがないじゃん」と、投げやりなところが見られる。劣等感が強く、世の中を肯定的にとらえられない。
 そこへ、これだけの大人が自分たちの学校へやって来て、新聞やテレビも取材してくれた。
 問題を起こしての報道ではない。「オレらでも注目されるんだ」という事実が、生徒たちを力づけた部分も大きかったのだろう。
 トイレ掃除終了後、体育館に集合して、全員でおむすびとみそ汁を食べながら、体験発表をした。
「初めは抵抗があったけれど、きれいになっていくのが楽しかった」と、どの生徒も晴れ晴れとした表情で、口をそろえてそう言った。
 翌朝、遅刻指導で校門に立っていると、声をかけてくる生徒がいた。「先生、おはよう」と、山廣教頭に敵対心をむきだしにしていた問題行動の常習犯の生徒だった。
 トイレ掃除を機に、学校全体の空気が、少しずつ変わり出していく気配があった。
「掃除に学ぶ会」の方たちの姿を見て、自分たちの学校は自分たちの手できれいにしようという意識が芽生えてきたようだった。
 それ以来、教室を掃除しようとか、ゴミのポイ捨てをやめようという動きが、教師や生徒たちの間に、徐々にではあったが、自然に生まれていった。
 学校が少しずつきれいになることで、生徒や教師の心が安定するという変化が起きているようだ。
 翌年の夏にはトイレ掃除だけでなく荒れたグランドの草刈りが行われ、その成果として7年振りに体育祭が開催されたのだ。不良グループのリーダーは盛り上げ役のリーダーになっていた。
 山廣教頭は、何か特別なことが起こったのではなく、地道にこつこつと積み重ねて来たことが成果として大きく現れたのだと話す。
 4月、高校に新たな入学生たちがやってきた。そこにかつての荒れた学校の影はもうない。山廣教頭の学校改革は、着実に成果を上げたのである。
(山廣康子:1949年生まれ 元広島県公立高校校長。荒れた学校をトイレを掃除するボランティア団体の協力を得て、学校を立て直した)

 

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陽転思考が人生の夢の扉をひらく

 小田全宏さんが人間教育の道に入ってから20年の歳月が流れました。
 大学を出るときは、「人間教育の道に進みたい」と熱望していたが、当時はそういう職種がなんであるのか、さっぱり分からずにいた。
 その時出会ったのが、あの経営の神様と言われた松下幸之助(注)さんです。当時松下さんは88歳でしたが、松下政経塾の面接でお目にかかったときに、
「このままでは日本は駄目になる。財政が破綻するし、日本人が駄目になる。わたしはこの松下政経塾を昭和の松下村塾にしたいのや」
 の言葉が今でも深く小田さんの心に残った。
 その後、多くの塾生達は政治の道に進みましたが、小田さんはひたすら人間教育の道を進んできました。
 小田さんは自分の人生を人づくりに賭けようと、入塾当初から思っていたからです。
 そのために政経塾時代には、行動科学を研究し、感受性訓練やエンカウンター訓練などを通して、人間学の研究に没頭した。
 27歳の時に、現在の株式会社ルネッサンス・ユニバーシティの前身にあたる企業教育の会社を作った。
 その間には、市民運動として、リンカーン・フォーラムによる「公開討論会」や、「首相公選」、「マニフェスト」など数々の運動の取り組みをしてきた。
 小田さんは、それぞれに大きな手ごたえを感じましたが、20年間変わらずに訴えてきたのが、「陽転思考」を中心とした「自分づくりとリーダーシップ力」の養成です。
「人間力」は、正しい考え方を習慣にし、鍛錬することで身につきます。人は自分自身を高めようと努力すると、確実に成長し、その結果、その人個人のみならず、その人を取り巻く環境も変化します。それはとても楽しい経験なはずです。
 小田さんはこれまでの体験を通して、そのことを確信しています。
 小田さんがこの30年間一貫してみなさんにお伝えしてきたことがこの「陽転思考」という考え方です。
「陽転思考」とは「人生に起こるあらゆる出来事をあるがままに受け止め、感謝の心を抱きつつ、ベストを尽くして生きる」という考え方です。
 松下幸之助さんは、貧しく、学歴もなく、健康でもないという無い無い尽くしの中から、いわゆる成功者になりました。
 松下幸之助さんは、家が貧しく、住み込みで大阪の商家で働き、商人としてのしつけを受け苦しくつらい経験を味わった。
 生来からだが弱かったがために、人に頼んで仕事をしてもらうことを覚えた。
 何度か九死に一生を得た経験を通じて、自分の強運を信じることが出来た。
 こうしたなで、松下さんは自分に与えられた運命をいわば積極的に受けとめ、それを知らず識らずに前向きに生かしてかたからこそ、そこに一つの道がひらけてきたとも考えられます。
 運命というものは、人間の意志や力を超えたものです。
 人間の力ではどうにもならないのかといえば、必ずしもそうではないと思います。
 そこが運命の実に不思議なところだと思いますが、自らの意識や行動のいかんによっては、与えられた運命の現れ方が異なってくる。
 つまり、「人事を尽くして天命を待つ」ということばがありますが、生き方次第で、自分の運命をより生かし、活用できる余地が残されているとも考えられます。
 松下さんの生き方も、知らず識らずのうちに、自分の与えられた運命を生かすものであった、と言えるような気がするのです。
 松下さんは、その人間に残された余地は10%から20%ぐらいはあるように思っていました。
 この余地の尽くし方いかんによって、自らの80%なり90%の運命がどれだけ光彩を放つものになるか決まってくるということです。
 自分の人生はどうにもならない面があるけれども、こうだという信念をもって、自分自身の道を力強く歩むように努めていく。
 そうすれば、たとえ大きな成功を収めても有頂天にはならないし、失敗しても失望落胆しない。
 あくまでも大道を行くがごとく、処世の道を歩んでいくことができるのではないかと松下さんは、思っていました。
 小田さんの最も大切な考え方が「陽転思考」という考え方です。
 プラス発想やポジティブシンキングという表現をよく耳にしますが、「陽転思考」は単に元気に明るくという考え方ではありません。
 「陽転思考」とは、「人生に起こるあらゆる出来事をあるがままに受け止め、感謝の心を抱きつつ、ベストを尽くして生きる」という考え方です。
 もちろん「陽転思考」で生きたからといって、人の悩みが消えるわけではありません。また不可能なことがなくなるわけでもありません。
 しかしこの「陽転思考」を身につけることによって人生のあり方は大きく変わります。
 その姿を小田さんはたくさん見てきました。
 人の人生が大きく好転し、企業や組織がみるみる発展する。それらを目の当たりにすることはとてもワクワクする出来事でした。
 かつて「ありのままで」という言葉が流行ったことがありますが、私たちが自らをマイナスの言葉で縛り、その可能性を封印してしまっているとしたら、それは決して「ありのままで」ではないと思うのです。
 よく、コップの中に入っている水を見て「半分もある」と見えるか「半分しかない」と見えるか、それによって人生が決まるということが言われますが、この「陽転思考」は、深く掘り下げていくことで人生の扉が次々と開いていきます。
 かつて松下幸之助さんは、「人生の中で素直になることが最も大切なことや」とおっしゃっていました。
 素直な心とはどうゆう心であるのかといいますと、それは単に人にさからわず、従順であるというようなことだけではありません。
 むしろ本当の意味の素直さというものは、力強く、積極的な内容を持つものだと思います。
 つまり、素直な心とは、私心なくくもりのない心というか、一つのことにとらわれずに、物事をあるがままに見ようとする心といえるでしょう。
 そういう心からは、物事の実相をつかむ力も生まれてくるのではないかと思うのです。
 だから、素直な心というものは、真理をつかむ働きのある心だと思います。
 物事の真実を見きわめて、それに適応していく心だと思うのです。
 しかし素直になることに対し松下さんは、
「素直になりたいと30年心から念じていたら素直の初段になれる」
「そうすると物事が大体ありのままにみえるようになる」
「だから、大体において、過ちなき判断や行動ができるようになってくると思う」
「そしてまた30年すると二段になる。五段になったら神様やな」
 といって笑っておられました。
 とするなら、私たちも「陽転思考」の初段になるためには、30年思い続けなければならないということでしょうか。
 私も今年で「陽転思考」をお伝えして30年、ようやく初段になったかなと思うのです。
 天国から松下さんの「お前はまだまだ5級ぐらいやぞ!」というお叱りの声も聞こえてきそうです。
 まだまだ小田さんの人間学探求も道半ばです。
 あなたも是非この「陽転思考」探求にご一緒していただければ幸いです。
(注)松下幸之助:1894-1989年、実業家、発明家、著述家。パナソニック(松下電器産業)を一代で築き上げた経営の神様。PHP研究所を設立し倫理教育や出版活動、松下政経塾を立ち上げ、政治家の育成にも意を注いだ。
(小田全宏:1958年滋賀県生まれ、実業家・教育者。松下政経塾に入塾し、松下幸之助の下で人間教育、人材育成を研究。ルネッサンス・ユニバーシティを設立し多くの企業で「陽転思考」の講演や人材教育を行う。またリンカーン・フォーラムや日本政策フロンティア(最高顧問は稲盛和夫)の設立者でもある) 

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不登校の子どもと親は、どのように指導すればよいのでしょうか

 金澤純三さんは元開善塾教育相談研究所長で、不登校の実践的な指導にかけては、わが国における第一人者といわれ、長期にわたる不登校も、わずか数週間で改善させる技をもつ。
 不登校の子どもも学校へ行きたいと思っているので、登校の支援をしてあげる必要がある。不登校の子どもを減らすには母親の健全化が欠かせない。
 金澤さんは講演で、興味深い話を次のように披露されました。
 私のところに来る子どもは,長期間学校を休んでいる場合が多い。
 母親が学校に相談すると,「温かく見守りましょう」とか「様子を見ましょう」と言われ、どんどん月日が経ち,どうしようもなくなる。
「様子を見る」という実態のない言葉は使わない方がいいだろう。「様子を見に行きましょうか」と言って家庭訪問をするなどまず行動をすることが必要である。
 不登校になる子どもは,長期の休み明けから学校へ行かなくなるケースが多い。なるべく早く学期内に戻すのが大切である。
 学校を休めば自分は悪いことをしたと思いこみ自己評価が下がる。この自己評価をどのように上げていくかが重要である。
「休んでもよい」とか「休んでもこうすればよい」と子どもに伝えるようにすればよい。ただ例外もあるが,休めばエネルギーが溜まるということはない。
 休めばエネルギーが溜まるなら,長期の休み明けに休むことはないからである。
 今の子どもたちは基本的に大変神経質である。小さいほうを大切にして,大きいほうを見過ごしている。
 また,今の子どもに特有なのは,他人の痛みに鈍感,自分の痛みには敏感で,バランスが取れていない。バランスが取れていない人は,他人の痛みがわからないのでいじめなどで相手を追い込んでしまう。
 先生たちも頭髪の指導にあるように,細かなものにこだわっている。
 1年近く登校拒否をしていて,久しぶりに学校に来た子どもに,髪の毛が伸びているから切りなさいというような指導をいきなりすると,こんなところには来られないと普通は思う。
 受け入れる先生は,不登校の子どもに対して家庭よりも温かくて居やすいようにしなければならない。みんなが来やすい学校にすることがまず大切である。
 頭髪がどうとか細かいことにこだわらない。指導力のない先生は,型を求める。
 弱い子どもや敏感な子どもがいるのだから,だれもが来られるように,先生は子どものそばにいてあげなくてはいけないのに,用事があるからといって離れてしまう。
 母親が,子どもが動かなくなり困ったと相談に来たときには急であってもきちんとやさしく応対してほしいものである。
 困っている子どもは,自分が困っているとは言えない場合が多いので,先生が家庭訪問をするということが大切である。
 家庭を見ると子どもの問題も見えてくる。神経質な家はきちんとしている。庭も整備され,玄関マットもきれいになっていると,子どもがずれたときに,何か騒動があるだろうなあと予想することができる。
 そういう家には,私たちは半ズボン,ランニングで行くなど失礼な格好で訪問するときがある。
 子どもは変な人だなと思うかもしれないが,警戒はしない。
 これは,スキを作り,打ち込み(攻め)させるねらいがある。経験のない人や頭の固い人は,真面目に行くのでうまくいかない。
 教育で歪んでくる子どもは母親に神経質な人が多く,ある一部分をよくしようとして全体をだめにしている場合が多い。まず母親と仲良くなるようにする。
 カウンセリングにしても教育にしても,必要なのは相手に好きになってもらわなければならない。相手を敬うことにより,好かれるようになる。
 家庭訪問の具体例として,お茶が出たらそのお茶を褒めたりすると,まず好意的に思ってくれる。
 お茶を飲んで今日は家の場所がわかったから帰ると言うと,大抵は呼び止めて子どもに会ってくれと言われる。
 このように,母親がまず先生を受け入れてくれなければ子どもは受け入れてくれない。
 次に子どもの部屋に通されたら,子どもの宝物を探し,それについての質問をし,褒める。まず本人以外のものを話題にする。
 えてして先生は,聞きたいことをいきなり聞こうとするが,子どもが言いたいことを聞くということが大切である。子どもが大切にしているものに先生が興味を示す。
 子どもは自分の大切なものに興味を持ってもらうと,自分に興味を持ってくれる,自分を大切に思ってくれていると思う。
 それによって安心感を得ているのである。先生たちはそういった子どもを見る目,気づく心を持ってほしい。
 帰るときは,子どもに玄関まで送ってと言う。最後に子どもに会って別れることが大切である。
 母親が出ると子どもと切れてしまうから,母親には出ないようお願いしておく。
 行動療法とは,再学習させることである。
 要するに「学校を休むと楽だ」と考えている子どもに,「学校へ行くと楽だ」というように考え方,感じ方を変えるのが私の言う行動療法である。
 心が変われば行動が変わると思っている人がいるが,行動が変わったら心が変わるという考え方である。行きたくなくても行かせると学校に行きやすくなる。
 今の子どもたちに共通している悩みとして不眠がある。私のところは8,9割の子どもが寝られないと言うが,実際には寝ている。
 そういう子たちは眠れないと感じているということを理解しなければならない。今の子どもたちは,不安とか不満とかいうのを「何々感」という形で表すが,これからの生徒指導はそれにどう付き合っていくかということである。
 本当は寝ていると言ったら子どもは自分のことをわかってくれないと思って関係が切れてしまう。そのときに,躁鬱タイプと神経質タイプによって言い方を変える。
 例えば,11 時に寝るときに,躁鬱タイプの子どもには 11 時「少し前」に足を温めなさいと言い,神経質タイプには 11 時「2分前」に足を温めなさいと言う。
 生徒指導では,神経質な子どもには厳密にやり,躁鬱タイプの子どもには曖昧にやるというのが大原則である。
 言い方は違っても,「足をお湯で温めなさい」と言った次の日に「どうだった?」と聞く。
 お湯で温めなさいとか塩を入れなさいといろいろ方法を変えて「どうだった?」と共感的に聞くことにより,子どもはつながりができたと感じ,自分を見てくれているという安心感が,不眠感を消してくれる。
 共感的に理解をするということが大切である。
 ところが下手な先生は欠点ばかりを指摘する。欠点をなくせば長所だけが残るという数学的な考えで,欠点だけとろうという発想でいくと子どもは神経症,脅迫症状を起こしてくる。
 生徒指導上の共感的理解とは,「次の一手を早く打てるか」ということである。
 この子どもには今どんなことが必要なのか,言葉や態度などから先生がいかに的確に対応できるかが子どもの心地よさと関係してくるので,共感的理解を中心にやっていただきたい。
 子どもを学校に連れて行く「登校訓練」をやるが,これは学校に行っても危険でない,安全であるということを体験的に理解することである。
 人に見つからないように行こうと言って連れて行くと,意外と行けるようになる。
 実際に行ってみて嫌なことがないと,体験的に理解したということになる。
 子どものカウンセリングで必要なのは「癒す」ことではなくて,「鍛える」ことである。
 不登校の子どもの家に行くと,畳なのにベッドで,きれいな絨毯が引いてある。
 手をかけたら子どもは良くなると思うことが,子どもをだめにする。
 子どもを癒す必要はない,若いうちは鍛えなければならない。弱い子を強くしなければならない。ストレスのない社会はないのだから。
 今の子どもに欠けているのは「耐性」である。耐性を獲得するには失敗経験をすることである。「我慢」=「鍛える」ということかもしれない。
 だからといって失敗しても大丈夫だよと言うと身構えてしまう。ところが知らず知らずのうちに失敗して,それを乗り越えて目標達成すると耐性ができる。
 例えば,マッチで火をつけるのを 19 回失敗して 20 回目に成功させるようなスモールステップで成功体験をしていく。
 これを「単位操作」と言うが,この子どもに欠けているものを本人が意識しないように体験させていくのである。
 次に「 けんちゃん(仮名,中学2年生男子)」の実践について述べます。
 2年間学校に行ってないと母親から電話相談が2月にあった。
 家に行き,部屋に入ると,雨戸が閉まりうす暗く,子どもはコタツに体を半分入れて寝ていた。
 母親も一緒に聞きたいと言ったが,うまくいっていない人と一緒に話をしてもうまくはいかないので断った。
 彼はミイラのようで,目だけを出して動かなかったが逃げずにいるので,拒絶していないと判断し、話をした。
 帰り際に「もう少し楽にしなよ」と言ったら,彼は体を固くした。
 これは私を拒否し抵抗するための反応であるので,逆に「体を固くしてみな」と言うと,体を固くしてこれ以上できなくなったとき,「もういいよ」と言ったら息を吐いて体を緩めた。
「たいへんだったね」と言うと,座り直し,「はい」と答えた。すると,急に母親が「けんちゃん今何されたの」と言って入ってきた。
 子どもが少し変化すると親はおおげさに反応するので,子どもは変化を親の前で表せない。
 しゃべらない子や,昼夜逆転の始発点も親がしょっちゅううるさく言う場合が多い。
「今子どもと話をしているから口を挟まないでください」と言っても,子どもの声を久しぶりに聞いたので言うことを聞かない。
 しかたないので彼に自分の部屋に行っていてと言うと,「はい」と言って立ち上がり部屋を出て行った。
 母親も後を追おうとするので待ってと言っても聞かず行ってしまった。
 母親はにこにこして戻ってきて「けんちゃんが一人で暗くて寂しくなるといけないから電気とテレビをつけてきました」と言った。
 ルソーが『エミール』の中で,子どもを不幸にするには,子どもが望むことを親が全部やってしまえばいいといっている。これが神経質タイプの不登校の主流である。
 いかに親を安定させるかが課題といえる。
 彼に「学校で会いたい人はいないか」と聞くと,養護教諭の先生に会いたいと答えた。
 なぜかと聞くと,クラス発表の日に学校に行き自分の名前があったので安心したのだが,そのときに神経を遣って疲れて倒れた。
 小学校時代の友達6人が保健室へ連れて行き寝かせてくれ,まわりで騒いでいたところに先生が来た。騒いでいたことを怒られるかと思ったら,養護の先生は自分がいなかったことを詫び,6人にお礼を言ったので,彼はそのときのお礼を言いたいと思っていた。
 そこで,先生が今学校にいるか確認しようと話し「だれにも会わないで学校まで行ける道を知っているか」と聞いた。
 たいていの子どもは,だれかと会うのを避けて学校に行けなくなる。休んでいると二次障害が出て,休んだことで自分は悪い奴だ,ダメなんだと思っているからみんなに会えない。だから,会わなければ行ける場合が多い。
 だが先生が「だれにも会わなければ行けるだろ」と子どもが恥ずかしいと思うことを直接言ってしまうと,結局は行かない。
 自分が分析したことをその子どもに言わないでいただきたい。自分が分析されたというのは,子どもにとってはつらいことである。
 翌日の午後保健室へ行き,こんにちはと言って入ると,彼に描いてもらっていた似顔絵のとおりの先生がいた。
 先生はすぐに立ち上がり,笑顔で迎えてくれ,担任の先生を呼んでくれた。担任の先生も喜び,出席を取ってもよいですかと聞かれたのでお願いしますと言った。
 彼は相当緊張しているので,先生にはすぐに出直すと言って帰った。
 帰るときに,ここにタンポポがあるとか水がわいているとか言いながら帰ると,そのうち「あそこにすすきがまだ生えている」と子どもの方から言ってくるほど落ち着いてきた。
「君はいい目してるね」と,どうでもよいことを褒める。
 彼と家に帰り,私だけまたすぐ学校に行き,先生に「出席だけ取ったらどうでもいいような話をしてすぐ帰らせてください。まず学校は,安全で安心なところだと思わせてください」と依頼した。
 少しずつ慣らせていき,人がいない部屋などに行かせてみる中で,教室に入る準備のために,どの辺の席がいいか聞いていく。
 保健室登校は1週間くらいがよく,その間にクラスの生徒には,昨日まで来ていた生徒のように振る舞うように話しておく。
 ある時,先生にわざと忘れ物をしてもらい,誰かに取りに来るようにしてもらう。生徒はだれでもよい。その生徒には,おはようと言ってもらい,あとは何も言わないようにしてもらう。
 翌日,計画通り,先生が万年筆を忘れ,それを取りに子どもががらりと開けて入ってきて,おはようと言って帰っていた。
 彼は緊張していたが,「よく頑張ったな,だんだん会えるようになるから」と言うと,彼も「はい」と返事をした。
 それから,教室に入るまでの不安解消表を作る。教室に入るまで,今日は職員室の前,今日は教室が見えるところ,今日は教室を外から覗くというようにイメージで練習させる。イメージでできたことは動きやすくなる。
 しかし,実際にはイメージより手前で止まる。そういうとき8秒間息をして力を入れ,8秒間抜く,これを繰り返していくと教室まで行けるようになる。
 少しずつスモールステップでやる。本人がもう一度やり直したいという気持ちにそってやるとうまくいく。
 テーブルカウンセリングのために,ご飯を食べさせてくださいと頼んだとき初めて祖母が出てきた。祖母は彼の魚を取り食べさせた。
 私はやめてくださいと再三言ったが,やめなかったのできつく叱った。なぜかと言うと,本来言うべき父親がいたからである。
 祖母は,立ち去っていくときに母親に「あなたが食べさせてやって」と言った。
 家族全体が病んでいたから彼は問題行動を起こして,まともな家庭にしようとしたのではないかと思う。
 子どもが3,4年休んでもあまり関係ない。休んでもあとでやるぞと思えば,必ずやれる。
 もし身近に「休んでしまったが,僕の人生間に合わないのではないか」と思っている子どもがいたら,
「やる気になって死ぬ思いでやればできるんだ,両親も死ぬ思いで働いているんだ」と言えば,安心する。
 指導をするときはなるべくユーモアをもってやってほしい。厳しくて温かいというのがいい。
 やさしくて冷たいというのは,自殺する子どもの家庭に多い。
 よく子どもと遊ぶこともよいが,子どもの世界に入り込まない。特に母親にこれを注意していただきたい。
(金澤純三:行動療法的アプローチを主として神経症的不登校の援助指導法の研究・開発に取り組む。日本の不登校相談の草分け。不登校にかかわる実践的指のわが国における第一人者といわれる。文部科学省の委員を歴任。元開善塾教育相談研究所長)

 

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子どもたちに受け入れられる教師の対応法とは

 学校で、子どもたちのふだんのようすが
・教師が一生懸命に授業をしていても、聞き流している子どもが多い
・教師が活動の指示を出しても、反抗的な態度をとる子どもがいる
・教師が子どものためを思って注意をしているのに、うとまれてしまう
・教師が話しかけても、別にといって、かかわるきっかけがもてない
 などということはないでしょうか。
「今の子どもたちは仕方がない」と、あきらめてしまっては、教師と子どもの関係は発展しません。
 そういう教師と子どもたちとの人間関係が気になっている教師がぜひとも学んでおきたい技術があります。それが、ソーシャル・スキルです。
 ソーシャル・スキルとは、対人関係を営む技術、すなわち人間関係を良好に展開するためのコツです。
 次の三つが、対人関係を良好にする技術、つまりソーシャル・スキルのポイントなのです。
(1)相手がどのような人かを理解する。
(2)自分の思いを、相手が理解できるような言葉や態度をする。
(3)適切に相手に伝える。
 ソーシャル・スキルの考え方は、学校における教師と子どもたちとの関係においてもあてはまります。
 日常での子どもたちとのかかわり方、授業の進め方、指示の出し方や注意の仕方、などです。
 先生方が、自分の考えや思いを、子どもたちに誤解されず、理解されやすいように、伝える工夫できたら、教師と子どもたちとの関係は、より良好になることでしょう。
 今までのやり方がすべて悪いのではなく、対応のどこかに、現代の子どもたちに受け入れられない部分があるのです。
 それを明らかにして、ほんの少しかかわり方を修正することで、子どもたちとの関係は、かなり変化すると思います。
 私は「相手の気持ちを察する」ということができにくくなったのが現代社会ではないかと思います。
 相手の気持ちを察するには、相手と似たような生活体験や感情体験を、経験していることが必要です。
 人々の生活の仕方も多種多様になってきました。
「相手の気持ちを察する」という、日本の伝統的なコミュニケーションは、現在はほとんど機能していない状態になっていると思います。
 学校社会の教師と子どもは、違う世代の者同士で、互いに察しあうということが苦手です。
 今までどおりやっていても、うまくいかないのが当然です。
 子どもたちが教師の気持ちを察してくれる、ということを前提にしてはいけないと思います。教師は、
「自分の思いは子どもたちに理解されるように、しっかり言葉で伝える」
 これが必要になってきたのです。これは、現代社会の前提になるのです。
 だから、今の学校では、教師は、
「相手がどのような人かを理解して、自分の思いを、相手が理解できるような言葉や態度にして伝える」というソーシャル・スキルの考え方で子どもに接することが、必要条件になってきたのではないでしょうか。
 それと、子どもに影響を与える教師の能力があります。
 小学生の場合、簡単に言えば、小学生が先生を好きだと思う「教師の魅力」です。
 発達的に幼い分、小学生は教師に、より人間的な部分を求めています。
 小学生は、教師の人間的な部分と授業の教え方とが一緒になっている点が重要です。
 したがって、どんなに教え方がうまくかつ熱心でも、親しみや明るさ、悩みを聴いてくれる対応や雰囲気がないと、その教師に対して魅力を感じてくれず、授業にものってこないのです。
(河村茂雄:1959年生まれ、早稲田大学教育学部教授。15年間公立学校教諭を経験した。学級崩壊,学級経営など教育実践に生かせる研究成果を多数提供している)

 

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相手の身になることができる子どもを育成するにはどうすればよいか

 國分康孝先生が、なぜ相手の身になることをそんなに強調するのか。
 國分先生は諸悪の根元は相手の身になることの欠如にあると思っているからです。
 國分先生は教育大学を出た後、いい職がなくって「ただでもいいから仕事くれませんか」と言って探していましたら、刑務所がただでよかったら使ってあげるからといってくれました。
 國分先生の滑り出しは刑務所のカウンセラーから始まったんですよ。
 今から考えたらすごくいい勉強したんですけど。
 そのときの受刑者の一人が、この刑務所に来る事の起こりを次のように話しました。
「自分が久しぶりに学校に行ったときに先生が『おまえ今頃何しに帰ってきたんだ』と言った」
「それで僕は本格的にぐれだしたんですよ」と。
 先生が「いやあ、久しぶりだね」とか「よく戻ってきたね」とか言って久しぶりに来た彼の気持ちに触れるようなことをその先生が言えばよかったんですが。
「そこ、おまえの席だから、そこに座れと一言、言ってくれたらそれで済んだような気がする」というんですね。
「今頃何しに帰ってきた」それが非常にこたえたらしいんですよ。
 それで、私がそのときに得たものは、いいアドバイスなんかいらないから要するにわかってもらうだけでも人間は生きる力が出てくる。
 教師とは目の前に座っている生徒さんとか目の前の集団全体が今どんな心理状態かを考えることです。
 たとえば、自分が生徒だったら、たぶん疲れているのだろうと思って「おいみんな疲れたか」となってくるんですよ。
 そうしますとですね、心理学で博士号を取った人よりは義務教育の学校しか出てない人の中でも、人の気持ちのよくわかる人がいるということになってきますよね。
 ですから学問だけではいい教師になれない。
 一番いいのは、自分自身が生徒と似たような感情体験のある人、これは生徒の身になりやすい人だと思うんですよ。
 私は、学生時代、女房に食わせてもらったんですよ。学生結婚だったので。
 そういう体験があるもんだから学生結婚の子が私の所へ相談にきた場合、話がよくわかるわけだ。相手の身になりやすいから。
「そりゃそうだよなあ」と相槌も、調子いいんですよ。そうすると学生さんは國分先生としゃべるだけで元気が出てきたといいますよね。
 ところが私は独身時代にガールフレンドに振られて死にたくなるという経験はないんですよ。
 一回目の恋愛ですぐ結婚したもんだから。そうすると振られて死にたいという学生が来ても、いまいちぴんとこないんですよ。
 なぜ振られたくらいで死にたいのかとこう思うもんだから。
 そうすると学生さんは部屋を出るときに「先生、ちょっと割り切りすぎてますね」って捨てぜりふを言って出ていきますね。
 それで結論として人の身になれる人というのは、豊かな感情体験を持っている人と考える。
 ところが、金の苦労とか愛情の苦労とか全くしたことのない教師もいると思う。
 ですからそういう人は、愛情の苦労をした人の話を普段から聞く、金の苦労をした人の話を普段から聞く。
 せめて間接体験ぐらい豊富にしておいたら、ちっとは人の気持ちの分かる人間になる。
 構成的グループ・エンカウンター(SGE:注)の良さは、いろんな人が自己開示してくれるので、なるほどそんな感情の人もいるんだと知って、今まで感情Aしか知らなかった人が感情B、Cを知っていくところに良さがあると思うんです。
 私がそのことを知ったのは、ある時私の講義を聴いてる五十過ぎの女の先生が泣き出したときのことです。
 私が「どうされたんですか」って聞いたところ「先生の話を聞いてるうちに自分で自分のことがかわいそうになってきて泣いているんだと」言うんですね。
「自分の何がかわいそうなんですか」と聞いたら甘えたくても甘えられない自分に気づいて、それで泣いているんだと、言うんですね。
 それで私はですね「甘えたいけど甘えられない事情でもあったんでしょうねっ」と応じたのです。
 そしたら私は継母に育てられたもんだからって言うんですよ。
 それで、私は継母に育てられた体験がないものだから、とっさにそのとき、
「この中で継母に育てられた人、挙手」ってやったら、ある若い人がハイって手を挙げてくれたんでその若い先生に
「すまないけどちょっとこの先生の面倒をみてほしいんだけど」と頼んだのです。
 で、二人で廊下に出ていったんです。
 休憩時間に泣いていた先生が私のところに来まして、國分先生の処置は非常に適切だったということを言いに来たんですよ。
 それで、あとで若い先生を呼んで「どんなことをしてあげたの」と聞いたら、要するに廊下に出て「私が最初の言った言葉がよかったらしいですよ」と。
「どんなこといったの」と聞いたら「ごはんのときが一番つらかったでしょう」と若い先生が言いましたところ「私の気持ちをわかってくれたと言ってその人は泣きやんだんですよ」と。
 それでも、私は「ご飯のときが一番つらかったでしょう」ということばの意味がわからなかったんですよ。
 その程度にしか私は、人の身になる能力がなかったわけなんです。
 私は、わからなかったからその意味を聞いた。
 そうしたら、継母の産んだ子は平気で、おかわりと茶碗を出す。
 けれども継母に育てられた子どもは、その都度おかわりと言っていいものやら悪いものやら考え込んでしまう。
 つまり食べものというのは愛の象徴ですので愛をくださいという意味なんです。
 愛をくださいってことは、つまり甘えていいか悪いかその都度迷っていたと。
 そういう自分を思い出して不憫になって泣いていた。
 そういう意味らしいんです。
 その話を聞いたときに私自身は、継母に育てられていないけれど、たまたまそういう人が私に自己開示してくれたので、なるほど世の中にはそういう人もいるってことを知ったわけです。
 それゆえ、将来もしもそういう人が私のところに来た場合、少しは響きのある応答ができると思うのです。
 ですから、SGEで子ども同士でも、会話しているうちに少しずつ他人の気持ちが分かるようになるという良さがある。
 しかし、まず教師自身が生徒よりは感度がよくなければいけない。
 まず教師自身が普段から体験を少しでも豊富にし、それでも足りないところは他人様から耳学問しておくとよい。
 第二に、人の身になれない人っていうのは、自分の価値観に固執する人です。
 たとえば、生徒は教師に口答えすべきでないとか、そういう特定の価値観があると相手の身になれませんよね。すぐ腹が立って怒りたくなるから。
 カウンセリングも、価値観を捨てて相手の世界を理解するということを強調しますね。それから、処方箋出していくわけですね。
 ですからよく私が、引用しているのが、道元の言葉です。
 道元が中国から帰ってきたときに弟子が先生は中国で何を得ましたかと聞いた。
 そしたら道元が「空手に郷に還る」と答えたと。私は「手ぶらで帰ってきた」と。
 つまり、つかもうと思ったら何でもつかめる自由を得てきたという意味なんですよ。
 私は精神分析者ですとか、特定のものをつかんでしまったら、それ以外のものはつかめなくなる。そういう不自由な境涯から私は解脱してきた。
 この道元の心境をカウンセリングの言葉で翻訳したら、生徒や保護者と接触するときは「自分の価値観を一時的に捨てて、手ぶらで相手の世界に入っていかなきゃいかん」となります。
 人の話を聞くためには、価値観をどけろということ。
 自分の「ねばならない」を捨てて、手ぶらで相手の世界に入っていくという訓練をやっているわけですね。
 ところで、教師とかは価値観を打ち出して飯を食っているわけですけど、しかし、人を助けるには、その価値観を捨てた方がよい場合がある。
 いくら教師でもですね、自分の子どもが不登校で困っているときに、よその親が相談に来た場合、お宅も不登校ですか、私も子どもが不登校で困ってるんですよと言いたくなりますよね。
 つまり、自分自身の問題を抱えすぎていると、人どころではない、君どうしたのと応ずるゆとりがない、すぐ自分のことを言いたくなる。
 そこで、教師というのはですね、人が半年ほど悶々とすることを一週間ぐらいで乗り越えていくように自分をしつけていかないとですね、なかなか、「あなた、どうしたの」というせりふはでてこないような気がする。
 短時間に、ぱっぱと自分の問題を解く方法をみんな考案すればいいんですけど、私はそこのところを、論理療法を借用しているんですよ。
 打ち破れない悩みの壁、「ねばならぬ」の思い込み(ビリーフ)が自分自身を呪縛する。ビリーフを探り出すこと、そして合理性の定規を当てること。
 落とし穴の非合理性に気づくことがブレイク・スルーのはじまり。
 論理療法とは「非合理的な思考をみつけて取り出し、それに有効な反論を加えて、次第に考え方を変えさせ、人を自滅の方向から救い出すもの」です。
 自分を束縛するビリーフを検討することは、すなわち自己の省察だからである。
 その省察を通して、みずから不幸を招いているかもしれない自分を見出すことが大切なのだ。
 誤った人間とは、正しく認識することをしない者のことだとプラトンも言った。
 そして「汝自身をしれ」と師のソクラテスは神託を受けたではないか。すなわち、自己を発見せよと。
「ねばならない」の思い込みが自分自身を呪縛する。
 ビリーフを探り出すこと、そして合理性の定規をあてること。
 落とし穴の非合理に気づくことがブレイク・スルーのはじまり。
 私のいちばん言いたいことは、考え方次第で悩みは消える、ということである。
 私の専攻するカウンセリング心理学の立場からいうと、悩みとは欲求不満のことである。
 つまり、人生が思うとおりにならなくて、気持ちが落ち込んだり、自信がなくなったり、世も末だと思ったりするのが悩みである。
 ということは悩みのない人間はいないということである。欲求不満がつきまとうのが人生である。
 そのためにノイローゼになったり、落ち込んだり、浮かぬ顔をしているのはなぜか。
 頭の使い方が上手でない場合に落ち込むのである。
 考え方がツボからはずれているということである。
 つまり人生哲学の検討がたりないということである。
 今の世の中では頭を使わないと幸福にはなれない。
 それで、結論。
 生徒を扱う私たち教師は、生徒の身になる心が必要である。それがカウンセリングマインドの第一ヶ条である。
 そのためには、なるべく生徒と似たような感情体験がある方がいい。特定の価値観に固執しない方がいい。
 それから、自分の問題を素早く解決する方法を身につけた方がいい。
 そういう風な相手の身になるような生徒を育成するにはどうしたらよいか。ここで、SGEが登場して来るんですよ。私の図式ではですね。
 人の身にならなければおれないようなSGEを、小学生向き、中学生向き、高校生向きといろいろみんなが開発すればいいわけですね。
(注) 構成的グループ・エンカウンター(SGE)とは、グループ体験を教師が意図的に組織し、ホンネとホンネのふれあいによる人間関係を通して、今まで知らなかった自分や他者に出会うための教育技法。目的は、ホンネのふれあいと自己発見を促すこと、集団内にリレーションをつくること。
(國分康孝:1930-2018年大阪府生まれ、東京理科大学教授、 筑波大学教授、東京成徳大学副学長などを歴任した。日本カウンセリング学会会長、日本産業カウンセラー協会副会長、日本教育カウンセラー協会会長なども歴任した。構成的グループエンカウンターを開発した)

 

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「授業を通して人間関係を強化し、集団をつくる力を養う」実践例

 佐賀県多久市立中央中学校では数年前まで、生徒同士のつながりだけではなく、教師と生徒との信頼関係、教師同士の連携も弱いことから、校内に問題が出ていた。
 そこで中央中学校がまず着手したのが、教師間の人間関係づくり。そこから教師と生徒の関係づくり、さらには生徒同士の集団づくりに至る過程を追っていく。
 中川正博校長は2002年度に中央中学校に赴任した当時、生徒の姿を見て、
「同じ校舎にいても一人ひとりが孤立していた。子どもたちの結びつきが、とても弱いものになっている」そんなふうに感じたという。
 校内ではちょっとしたきっかけで生徒同士がケンカになるといった光景が、日常的に見られた。ケンカを通してお互いの人間関係が深まればいいのだが、自分の感情を相手にぶつけるだけの不毛なトラブルが多かった。
 だが、結びつきが弱いのは、生徒同士の関係だけではなかった。
 中川校長によると「教師と生徒、そして教師同士の関係も強いものとはいえなかった」という。
 同じ校舎にいても、一人ひとりが孤立しているといったようすだった。中川校長は、
「当時の生徒たちの顔つきは“目が尖っている”という感じでした」
「生徒の目が尖っているから、彼らと接する教師の姿勢も、つい刺々しいものになってしまう」
「また、学校が落ち着かないときには、教師に集団としてのまとまりが求められるのに、教師間の動きもばらばらでした」
「各教師が自らの『経験と勘と気分』で、個別に生徒を指導している状態だったのです」と語る。
 そんななかで中央中学校がまず着手したのは、教師間の人間関係の構築だった。
 教師と生徒、生徒同士の人間関係を築く礎として、まず最初にそこを優先したのだ。
 きっかけは山形県のある中学校を訪問したことだった。
 その中学校はかつて荒れた学校だったが、短期間で建て直しに成功していた。
 そこで導入していたのが、茨城大教育学部講師の笠井喜世氏が提唱する「テトラS」という教師間の連携の手法だった。
 そこで、中央中学校も、テトラSを取り入れることにしたのだ。
 テトラSによる学校再生のサイクルは、
1 現状把握:校内の問題をカードに客観的に書き出す。
2 まとめる:内容が似ているカードをまとめ、それぞれに要約したタイトルをつける。
3 現状分析:なぜ生徒がこのような行動をするのか、意見、思いをすべて出し合う。
4 問題提起:学校が抱えている問題を整理する。
5 目標設定:どの問題の解決に優先的に取り組むか決め、具体的にどう取り組むか、実践可能な目標を設定する。
6 評価:毎日、目標に対してどれだけできたかチェックリストで自己評価(数値化)する。グループで実践の度合いを確認し合う。
7 評価まで到達し、目標が達成されたと班会で認められたときは新しいサイクルに入っていく。
 中川校長は、
「テトラSでは、まず本校の教師35名を担当教科や学年、在籍年数などが偏らないように四つの班に分けます」
「各班では、先生方が生徒の生活態度や学習態度で問題だと感じていることを書き込んだ『現状把握カード』をもとに、なぜそうした問題が起きているのか、問題解決のためにはどのような手法が有効かといったことを話し合っていきます」
「そして問題解決に向けての目標設定と具体的な取り組みを各班ごとに決め、実行に移していくのです」と語る。
「授業が始まっても、学びに集中できない生徒が目立つ」という課題がある教師から提起されたとする。
 班のメンバーは「休み時間と授業中のメリハリがついていないことが理由ではないか」と原因を探っていく。
 そこで「生徒が授業に集中できる環境をつくる」という目標を立て、
「教師は早めに教室に行き、授業開始のチャイムと同時に授業を始められるようにする」
「授業開始の礼は、全員がそろってからにする」など具体的な取り組みを決め、実践する。
 効果のあった手法については、月1回の全体会で全教師にフィードバックされる。
 このテトラSが導入された当初は「ただでさえ忙しいのに、なぜさらに業務を増やすのか」と消極的な態度を見せる先生も少なくなかった。
 しかし、中川校長は「ほかの業務を精選してでも、テトラSにはしっかり取り組んでください」と指示を出した。
 確かにテトラSでの個々の取り組みは、小さなものであったが、小さな成果の積み重ねによって、やがて学校全体の生徒指導のノウハウが蓄積されていった。
 何より大きいのは、ばらばらの方向を向いて指導に当たっていた先生方が、一緒に話し合い、行動するなかで、問題意識を共有できるようになったことだ。
 教務主任の大野敬一郎先生は、
「教師の世界は独立独歩の雰囲気が強いのですが『テトラS』が教師の垣根を取り払ってくれました」と話す。
 大野先生の言葉を受け継いで、教頭の太田春美先生も次のように語る。
「生徒指導でよくみられるのが、生徒指導主事を中心とした一部の先生方が力で生徒を抑え込もうとするケースです」
「この場合、学校に生徒指導のエースがいるときにはうまくいくかも知れませんが、その先生が異動でいなくなってしまったとたんに、生徒の生活は崩れかねません」
「それに比べて今の本校は、学校で何か問題が起きたときに、一部の先生が力を行使して問題を収めようとするのではなく、全員で問題が起きている原因を探り、組織として解決していこうとする態勢が確立されつつあります」
 興味深いのは、教師の関係が変化すると、それが生徒にも敏感に伝わるということだ。
 テトラSの活動を通じて、すべての先生が同じ姿勢・同じ言葉で生徒に接するようになった。
 また、担任や授業を受け持っていないクラスの生徒にも意識が向くようになった。
 例えば、授業に遅刻してきた生徒に対して頭ごなしに突き放すのではなく、
「なぜこの子は、授業を前向きに受けることができないんだろうか」
 というように、子どもを理解しようとする方向へと意識が向かっていった。
 その変化に、生徒が教師に向ける態度も、刺々しいものから柔らかみを帯びたものへと、少しずつ変わっていった。大野先生は、
「もちろん一朝一夕には、生徒の変化は望めません。私が担当している体育でも、3年間取り組みを続けてきて、チャイムと同時に授業を始められる雰囲気ができあがりました。今、本当の意味でスタート地点に立ったところです」
 教師同士のつながり、教師と生徒との信頼関係を取り戻した中央中学校が、力を注いでいるのが、生徒同士の集団づくりの力を高めていくことだ。
 生徒指導のキーワードが、「自己存在感」「自己決定」「共感的人間関係」という三つの視点だ。
「自己存在感」とは、自分が集団を構成する欠くことのできない一人であるという存在感を生徒に感じさせること。
「自己決定」は、生徒に自ら考え決定する場面を与えること。
 そして「共感的人間関係」とは、教師と生徒、また生徒同士が、お互いの存在を認め合い、一緒に高め合っていける関係であることだ。
 中央中学校では、この三つの生活指導上の視点を全ての教科指導のなかで取り入れ、授業の中で実践している。
 研究主任の真子靖弘先生による3年生の「公民」の授業では、社会問題についても自分が知っていることを踏まえて自由に意見を述べる雰囲気がクラスに醸成されている。真子先生は、
「新聞記事を手がかりにすれば、どんな生徒でもそのテーマに対する自分の意見を述べることができます。つまり『自己存在感』を発揮することができる」
「またある生徒の意見に対しては、別の生徒を指名して、賛成や反対の意見を引き出していきます」
「これは自分の意見を述べるには、相手の言葉にきちんと耳を傾けなくてはいけないという『共感的人間関係』をつくり出すことをねらったものです」
「そして授業の締めくくりには『自己決定力』をつけさせるために、最終的な自分の意見をワークシートに書かせ、お互いに見せ合い、みんなの前で発表させています」
 真子先生の授業は、教師の側から生徒に発問をし、その答えを元に展開していくというスタイルをとっている。
 難しいテーマを取りあげるときにも、できる限り生徒が授業に参加しやすい雰囲気をつくる配慮をしているのだ。
 そのような授業のなかでお互いの意見を見せ合う場を保障し、話し合うことができるようにする。
 相手の意見を認め合う過程で学習集団づくりができるといった、授業のなかで生徒指導を行っているのだ。
 また生徒の意見が対立したときには、ディスカッションが取り入れられることもある。
 生徒は、ほかの生徒の多様な発想や意見に刺激を受けながら、自分の考えを深めていくというわけだ。真子先生は、
「生徒には、反論を述べるときには客観的資料に基づいて発言するように指導しています」
「また相手の意見をバカにするような発言があったときには、授業を止めて真意を確認するようにしています。ですから議論が感情論に陥ることはほとんどありません」
 このように授業で生徒同士の良好な関係を築き、学習集団をつくっていく工夫を積み重ねていくうちに、学校行事等での生徒のようすにも変化が見られるようになった。大野先生は、
「体育大会での器械体操や創作ダンスなどの集団演技の練習では、上級生が率先して下級生の指導にあたり、私たち教師が介入する場面はほとんどなくなりました」
「生徒たちは、教師の手を離れたところでも、自分たちで集団をつくり、動かしていく力を身につけつつあります」
 中川校長はこうした集団の力を、今後は学習習慣の定着に活用したいと考えている。中川校長は、
「家庭学習時間を調査すると、家庭学習時間はゼロという生徒が、本校でも5割強はいると感じています」
「生徒会を中心に、生徒が自分たちで『学習や生活を見直そう』という行動目標を立てるような方向に持っていきたいですね」
 中央中学校では、さまざまな教育活動に対する自己点検・自己評価にも力を注いでいる。
 毎学期、57項目にもわたる「生徒指導の自己点検・自己評価」というアンケート用紙を教師に配布。A~Dの4段階で活動を自ら評価している。
 評価項目は、
「生徒の実態や行動の変化を把握し、生徒指導に学校全体が取り組んでいる」
 といった生徒指導に関するものはもちろん、
「地域住民やPTAの諸会合等から積極的に意見や情報を収集している」
 といった家庭・地域・他機関との連携に関するもの、学級運営や教科指導、部活動にかかわるものなど、教育活動全般を網羅している。
 また生徒に対しても毎学期ごとに、「学校生活は楽しいですか」「授業はわかっていますか」といった質問項目から構成される「学校生活についてのアンケート」、
 さらには保護者にも生徒のようすと学校への要望についてのアンケートを実施している。中川校長は、
「こうした自己評価・自己点検、アンケートを通じて、学校が抱えている問題点を明確にでき、改善に結びつけていくことができます」
「また、学校の現状や、学校運営の方向性を地域や家庭に説明するときの根拠データにもなります」
(ベネッセ教育総合研究所:VIEW21(中学版)2005年4月号)

 

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不登校の子どもたちを対象とした取り組みにはどのようなものがあるか

 兵庫県生野学園高校は、不登校の子どもたちを対象とした、全寮制の高等学校(中学校も併設)です。
 不登校の子どもたちは人への信頼や自信を失い、不安や焦燥感あるいは無気力感の中で苦悩しています。
 こうした子どもたちにとってもっとも必要なことは信頼できる人と出会い、ゆったりと安心できる環境の中で、本来の自分らしさを取り戻していくことです。
 安心できる居場所を見つけ、信頼と自信を取り戻した子どもたちは驚くほど生き生きと活動するようになります。
 こうした子どもたちの人間的な成長は人とのかかわりの中からしか生まれません。
 人とのかかわりを避け、単に知識や資格を取得するだけでは問題の本質的解決にはならず、先送りするだけです。
 生野学園はこうした考えから全寮制としています。
 学習だけでなく生活をともにする中で子ども同士、子どもとスタッフの間に深い関係を築き、人への信頼感を育て、社会性を身に付けていくことが出来るのだと考えています。
 不登校の子供たちの親が変わっていったきっかけの多くが、自分の子どもとの対話ではなく、ほかの不登校の子どもとの対話であった。
 なぜそのようになるのかと言いますと、自分の子どもとは、最初からそれほど深刻な話はできません。
 しかし、他人の子どもだと、ある程度客観的に冷静に話をできますし、余裕を持って話を聞くこともできます。
 そのため、親の生き方の誤りという核心の部分について、少しずつ気づいていくことができるわけです。
 親の会(2ヶ月に一回)で、徹夜で話をしていくうち、親たちは、少しずつ自分の子どもがどういうことを不安に感じ、学校にいけなくなったかということに気づきはじめます。
 子どもの心に近づきはじめるわけです。
 親が気がついていく姿に、子どもも反応していくのです。
 そのようにして、親子のあいだで「心のキャッチボール」が始まり、「魂の出会い直し」が起きはじめることにより、子どもたちはみごとに立ち直っていくのです。
 親がその生き方を変えることで、子どもが変わっていったのです。
 いまの子どもの問題の大半は、親の責任です。
 親の問題が、子どもにとっていかに大きいかということです。
 神経症で不登校の子どもは、実は完璧主義です。
「ねばならない」ということに縛られています。
 文化祭の準備でリーダーが「完璧にできなくていいから、とにかくやってみよう」と言って、バンド演奏などを成功させました。
 その小さな成功体験が意欲にかわっていったのです。これはひとつのヒントになると思っています。
(高橋史朗:1950年兵庫県生まれ、思想家、教育学者。麗澤大学特任教授。親学推進協会理事長)

 

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「辞書引き学習法」で、子どもが辞書を引きたくてたまらなくなり、どんどん辞書を引くようになるにはどうすればよいか

 深谷圭助先生が「辞書引き学習法」を始めたのは、ある一人の子どもが国語辞典を机の上においてさまざまな授業の中で楽しそうに辞典を引いていたので、みんなでまねをしようかということからです。
 この学習方法の特徴は、自分で気がついて自分で調べる心構えができることです。
 子どもたちは気がついたことや疑問に思ったことを調べるようになっていきます。
 かな文字を習い始める小学校1年生から国語辞典を与えることで、日常生活における疑問や、子どもの生活上で登場するものやことを調べさせ、自ら学ぶ態度や自ら学ぶ学び方を習得させようとする学習法である。
 付箋紙に、辞書で調べた言葉を書き込み、辞書にはさむというプロセスに特徴があり、小学校1年生の児童でも、数千枚の付箋を辞書にはさむようになる。
 子どもが「辞書を引きたくてたまらない!」というところに持っていくには、大人の側の工夫、「種まき」が必要です。親や教師で上手な種まきをすれば、たくましい芽が伸びていきます。
 辞書を引きたくなる工夫は、 
1 引いた言葉に付箋紙を貼る
 1年生の辞書引き活動の最大の秘密が「付箋を貼る」ということなのです。
 1年生はものごとのとらえ方が単純で、「多い」「少ない」はわかりやすい。
 ですから、付箋を貼り、どんどん増えていくことは、子どもたちにとってうれしいことなのです。
 しかも付箋なら、自分のがんばりを、目に見える「量」として実感できます。
 達成感を感じ、さらに辞書引きに励むという好循環が生まれるのです。
 子どもたちは「言葉集め」というゲームに参加しているようなものかもしれません。
 付箋には、番号と調べた言葉を書き込むように指導します。
2 辞書のケースやカバーははずす
 辞書に対する抵抗が少しでも少なくなるよう、使いやすさを第一に考えましょう。
 カバーがかかっていれば扱いにくいですし、いちいちケースに入れていては、引きたいときにすぐ引くことができません。
3 つねに机の上にだしておく
 気になることがあったらすぐに辞書に手が伸びるよう、常に子どもの視界に入るところに出しておきましょう。
 学校では机の上、ご家庭でしたら食卓やリビングのテーブルのまわりに置いておくとよいかもしれません。
 深谷先生は辞書引き学習法のすすめかたをつぎのように述べています。
1 小学校一年生から始めるとよい
 小学校一年生は、言葉に対する興味・関心が非常に高まった状態にある特別な時期なのです。
 小学校入学前の子どもは、自分がすでに獲得して使いこなしている言葉と、自分の体験との間にギャップがあります。子ども自身は、見て知っているのだけれど、なんと表現したらよいかわからないといった状態にあります。
 ですから、小学校で自分の体験した言葉と出会うと、新鮮な喜びを感じるのです。まるでスポンジのように新しい言葉をどんどん吸収していきます。
2 辞書を自由に使わせる
 一年生に辞書を持たせると、何が書いてあるか興味しんしんで、辞書を調べるというより、いろんなことが書いてある読み物なのです。
 辞書というのは、世の中のことを簡素にのべようとしています。だからこそ、子どもにも訴えるものがあります。
 その説明を読むこと自体を楽しみます。子ども向け辞書にはイラストが多く、眺めているだけでも楽しいものです。
 自由に使わせて多様な活用の仕方を見つけさせることが大切なのです。
3 知っていることがどう辞書に書かれているかを知ることが学問との出会い
 子どもたちに辞書を持たせると、まず知っている言葉さがしにハマる子が多いのです。
 一年生の辞書の使い方の特徴として、すでに知っている言葉を探すというものがあります。
 ふだんの生活の中で見聞きしているものや、話している言葉、体験していることも、辞書に掲載されている。
 たとえば、自分が知っている“チューリップ”が、辞書の中で、説明されているようすに子どもたちは新鮮な驚きを感じます。
 これは、いわば「学問との出会い」、すなわち、世界を客観的にとらえる第一歩だといえると思います。
4 「学びのスタイル」を身につけることができる
 国語辞書は、生活の中で登場するあらゆる事柄や言葉を網羅しています。ですから、日常の中で子どもが疑問に思ったことをすぐ調べることができる、手軽なツールになります。
「疑問に思ったら辞書を使って調べる」ことが朝起きたら顔を洗うのと同じように、生活にとけこんでしまうのです。
 この「学びのスタイル」を身につけた子どもは、学ぶことを苦労と思わなくなります。
 生活を丸ごと網羅している国語辞典が、生活を知的にとらえ直そうとしている小学1年生の教材として最適なのを理解していただけると思います。
5 「自分だけ」の愛用の辞書を持たせる
 1年生が学校生活に少し慣れ始めるゴールデンウィーク前に「国語辞典購入の案内」を保護者向けに配布します。
 学校で一斉購入するのではなく、各家庭で、子どもに合った「わが子専用の辞書」を用意してもらいます。子どもといっしょに辞書を買うとよいでしょう。
 親が用意したものを手渡されるよりも、子どもが自分で選んだ辞書のほうが「自分の辞書」という愛着を感じられるからです。
 ただし、1年生にもっとも適した辞書は、総ルビつき、1万5千語以上収録の辞書で、辞書の本来の機能である語句の説明がしっかりとされていること。
 たとえば、「学習国語新辞典」小学館 19000語等があります。
 愛用の辞書を持たせるねらいのひとつは、好きなだけ線を引っ張ったり、付箋を貼ったり、書き込みをしたりと、子どもにどんどん辞書に手を入れていってほしいということです。
 各家庭であえて違う辞書を持たせるのは、同じ言葉を引いても、辞書によって説明の仕方は異なります。
 それで子どもが立ち止まり、考えます。「はてな?」を生み、いろいろな解釈を知り、自分なりの考えを追求する契機となり、探求活動のきっかけとなるのです。
 この点は非常に重要です。「自ら学ぶ力を育てる」うえでは、辞書によって書いてあることが違うことに気づかせる方が有効です。
 辞書がボロボロになっていけば、「自分はそれだけ勉強しているんだ」と誇らしい気持ちにもなります。
(深谷 圭助:1965年愛知県生まれ、愛知県公立小中学校教師、立命館小学校教頭、同校長を経て中部大学教授。こども・ことば研究所理事長、「辞書引き学習法」の提唱者)

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